1981年のプロ野球
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桑田佳祐が紫綬褒章のメダルをポケットから出してみせた…、たったそれだけのことで「不敬」として断罪する日本国民は「ムハンマドを侮辱した」と憤るイスラム教徒とほぼ同じ地平にいる。
そこは「表現の自由」という蚊帳の外だ。もしかしたらサザンはずっと、デビューから何十年間も政治的なメッセージソングをその時々に唄っていたのかもしれない。
メディアで取上げられ始めたのは最近のように思う。年末のネットニュースでは、安倍政権を軽く揶揄した替歌を安倍首相の前で披露したとか。
『ピースとハイライト』という曲では最近の「嫌韓憎中」という風潮を批判していたり。紫綬褒章の記念品をポケットにしまうことには照れ隠しもあるだろう。
こんなもの貰っていいのかというミュージシャンとしてのアイデンティティを疑う意図もあろう。ヒトラー風のちょび髭は当然ながら「熱狂なきファシズム」(想田和広)の時代への「風刺」に違いない。
いずれにしろ、かっこいいじゃないか桑田佳祐。ぼくはファンになったぞ。といってもサザンを聴こうとは思わないが、時の総理も観に行くようなメジャーバンドが政治的発言をする、
そのこと自体がこの國にとって画期的なこと。山本太郎が「反原発」発言をし出した頃、津川雅彦に「芸能人はそんなことを云わないほうがいい」的な注意をされたとかつて語っていたが、
そのことに象徴されるように日本のタレントはほぼ誰も政治的な主張はしない。爆笑の太田くらい?その「物足りなさ」を是非埋めてほしい。たとえ、すぐ「謝罪」する羽目になったとしても。
謝って尚「反日」「在日」と集中砲火を浴びている桑田さん。そもそもロックが「不敬」でなくてどうする?これがぼくのたったひとつのゆるがない信念である。
かつて若松孝二監督は「映画は権力側から撮っちゃダメ」と云った。権力側に立つな、そういう意図だと思う。ロックは尚更である。ロックをやる以上、そこは腹を括ろうよ。
サザンはロックバンドじゃないのかもしれないが、J-POPのトップランナーだってこうして頑張っているのだから。 全試合同じ球場で開催された唯一の日本シリーズ
巨人が8年ぶりの日本一 4月に山本浩二
8か9月に宇野
のヘディングが同じ後楽園球場であった。 評論家とかスポーツ紙とかのシーズン前の予想では
この年の巨人は評価高かったの? >>7
低かった。広島と前年2位ヤクルトの評価が高く、
巨人が優勝すると予想した解説者は少なかった。
パリーグに目を向けると各局の西武報道が目立ちはじめ、
とくにTBSとフジの持ち上げっぷりが異常だった。
TBSラジオはシーズン途中から巨人戦を中継しない日に
従来のセリーグカードから西武戦に変えた編成になった。 >>9
当時、週ベに野球川柳のコーナーがあって、
「ドラフトのツケが今ごろ沢村賞」という投稿が載せられてた。 原のプロ初ホーマーは後楽園のライトポール極ね巨人ファン席に飛び込んだが
プルヒッターの原を思えば最も原らしくないホームランだった 序盤は 西本 角 中盤 加藤 夏場は
江川 だった記憶有 >>8
スポーツ紙(特にスポニチ)もキャンプ前後から「西武 西武」だった。
「なんで今年はそんなに西武の記事ばかりなの?」って思った。
でもペナントレースに入って以降は巨人を一面に持って来てた。 前年のドラフト抽選で原を外していたら
巨人の優勝、日本一はなかったか? 西武は吉本がもう少ししっかりしてくれてたらな。
弱肩で走られまくった。
あの人がもう少ししっかりしてくれていたら西武の初優勝は82年ではなく
81年に成し得ていたかも。 この頃の西武は不気味なチームと呼ばれていた。
まだ優勝には届かない発展途上のチームだったが何処も皆このチームに
対して何とも言えない不気味な恐怖感を抱いていた。
このチームの底知れない潜在的能力をこの時期皆感じ取っていた。 なお、この年に熊本工の大型捕手、伊東勤を
所沢高校へ転校させると同時に、球団職員として採用するなど
根本の寝技師ぶりは着々と進んでいた 西武は後期の終盤で8連敗し、通算で5割、4位に終わる
終盤息切れしなければ十分Aクラスだった 5月末からの10連勝を筆頭に
5連勝×2、4連勝×3
8連敗×1、6連敗×2、4連敗×1
完全に調子任せのチームというか パのMVPは江夏で異論なかったの?
ソレイタでも良かった気が 日ハムは、江夏入っただけで劇的に変わった。
広島は、江夏抜けただけで劇的に変わった
江夏って影響力あったんだな 南海 ブレイザー監督最終年
大洋 土井淳監督シーズン中辞任、山根俊英監督代行が最終戦まで指揮を執った 阪神の江本が「ベンチがアホやからやってられへん!」と吠えて
引退を余儀なくされたな。もともと中西監督とソリが合わなかったのと、
中途半端な起用法に不信感を抱いていたが >>25
その日、後楽園では宇野のヘディング事件で星野仙一がブチ切れていた >>20
吉本が走られまくったからねぇ。あれじゃ野球にならない。
与盗塁数の日本記録を作ってしまった。
大石離脱後暫くは吉本の弱肩はバレなかったのだが日ハムスコアラーに
見事見抜かれてしまった。 >>24ブレーザーは翌年も南海監督
近鉄最下位で西本監督 辞めた。
最後の阪急戦 両チームによる胴上げ 近鉄を退団した前年のパリーグ本塁打王のマニエルがヤクルトに復帰したけれど、
年齢的な衰えも(当時37歳)あってか持ち前の豪打が振るわずあえなく引退。
近鉄を退団したいきさつが複数年契約の要求で単年契約を譲らなかった近鉄側と
交渉が決裂してだったが、代わりに獲得した外国人がさっぱりで
最下位に一気に落ちた所を見ると、見切りの上手さというよりも
ただのドケチといった感じか? セもパも全く面白くなかった年
昭和50年代で一番つまんなかった >>31
オールスター戦を挟む7月に16本以上打ったのは門田だけ。
>>32
首位打者になった藤田平とはその差が1厘。
阪神戦では敬遠されまくった篠塚。対して終盤は試合欠場も多かった藤田。 藤田は打率維持の為、結膜炎(おそらくは仮病)で数試合欠場したり、
代打で1打席立つだけを繰り返していたなw
そこまでしてタイトルが欲しいのかよと思ったw 「逃げる藤田 追う篠塚」
スポーツ紙にこんな風な見出しもあった記憶が。
巨人の優勝決定後も篠塚はほぼフル出場。
一方の藤田は篠塚との差が開くと出場したが決まって途中交代か代打だけだった。 >>41
これ、誤爆だなw
どこのスレに書こうとしたか、大体想像は付くけどw 日米野球はロイヤルズが来日。
第1戦は柳田、2戦は吉田孝と巨人のベテラン勢が活躍も江川ら投手陣が瓦解。
第3戦の全日本は石毛と原のホームラン(原はランニング)と小松の速球で勝利。 >>40
太っさんには藤田平の気持ちが分かるんだよ!
自分も西鉄の選手兼任監督時代に自分も通算打率を落とさないように試合に出なかったからな 原の初アーチは開幕2戦目、調整登板で8回に今季初登板のストッパー小松辰雄(この年シーズン中に先発転向)
からライトオーバー!王のレフトへのアーチが珍しいのと同じく、原のライトオーバーも珍しい。
実は開幕戦は学校行事で行けず、2戦目に後楽園に行ったら幸運にブチ当たった。菅野もそうなるだろうと「先発2
試合目」の「中日戦」を狙ったら、その通り初勝利に出くわした。 >>46俺も友人と観戦した。
あの試合 定岡が顔に打球を受け退場になり、次に出てきた投手が浅野だったので
自分の周りの人たちも”浅野?勝っているけど大丈夫か?”って感じの事言ってた。
前年は実質敗戦処理投手だったからだと思う。
そうしたら好投して、抑えも同じ処遇だった加藤初でピシャリと抑えたので
藤田監督の采配にビックリした。 藤田(監督)、王(助監督)、牧野(ヘッドコーチ)の
トロイカ(ロシア語で3頭立ての馬ゾリ)体制とも当時は言われてたな。
序盤で中畑が怪我で欠場したので原を三塁に固定でき(当初、原は二塁を守ってた)
復帰した中畑は一塁にコンバート、当初原が守った二塁に篠塚で
10年近くスタメンな内野陣となり、
ほとんどうまくいった。
数少ない誤算はトマソンの扇風機ぶりくらいか。 キャンプ中に西本の奥さんがガス爆発事故で重傷を負った
開幕投手に指名された西本は奥さんの火傷した肌をポケットに入れて力投し、勝利投手になった
一方中日は巨人との2連戦に連敗するも、その後連勝しまくり4月は15勝4敗と絶好のスタートを切るも5、6月に大きく負け越して5位に終わった 今年と同じカレンダーで、5月2日土曜日の後楽園阪神戦デーゲームに原の妹・詠美さんが観戦している姿が映った。
原とは入れ違いに東海大入学したが、失礼ながらかなりのおデブちゃんだった。兄貴の打席の時はアナウンサーに
「(心配で)見ていられない様ですね」と言われてた。後に言わずと知れた菅野の母となるわけだが。 日ハムが後期終盤に西武に4連勝して優勝をほぼ確実にした試合で
江夏は石毛をストレートで三球三振に取ってまだまだ早いぞと格の違い
を見せ付けた。
現代厨にそれは昔の野球のレベルが低かったからとからかわれるけど
そういうのともちょっと違っていてあのストレートは力がこもっていたね。 >>54
初回の先頭打者に2塁打を打たれて
あとはパーフェクトに抑えたってやつでしょ
全然、あわやじゃないじゃん 定岡ももし完全試合達成してたら、
引退後はまったく違った人生歩んでただろうがな。 成績が順調だったのに
83年に6月以降突然勝てなくなってから落ちてったな。
カープキラーが定岡から欠端(横浜大洋)に代わった。(広島ファン) 定岡は、外角スライダーと半速球でのらりくらり交わしていた頃は勝てていたのに
140キロ台のストレートを投げるようになってから、突然、勝てなくなってしまった 日本シリーズ初戦で高橋から江夏に代わる際に親分がマウンドで偉い長々と
話をしていたけど一体どういう会話がなされていたのだろう。
あれちょっと気になっている今でも。 >>58
変化球投げる時に口開ける癖がバレたのに、
どうしても矯正できなかったんだろ。
スポーツ新聞でも写真付きで解説されてたw 本命だった高橋慶彦が怪我で開幕から出遅れた関係あったからな。 日本シリーズの試合後親分が
ベンチで堂々とタバコ吸ってたけど
当時はOKだったの? 当時は駅のホームから線路上まで吸い殻びっしりの時代だし、テレビのインタビューやトーク番組でタバコ吸いながらやってたりしたんだしOKだったんじゃないの オフに日テレが原を讃える番組を放送
好プレーや藤田王からのコメントなどあり 日本ハムは終盤でクルーズが怪我で離脱し、シリーズに間に合わなかったのが
つくづく痛かった。 >>66
スーパーで従業員がタバコくわえて陳列してたような時代だから NHKスペシャルの「江夏の21球」でもNHKのスタジオ機材室で煙草を燻らしながらインタビューに答えてたな江夏 「アンバランス」
「野球は出来ても、勝負する所まできていない」と監督の根本陸夫は言った。この81年、前期に西武初優勝のチャンスが訪れた。4月を2位で
通過し、5月下旬からの1分けを挟んだ10連勝で貯金5。残り10試合を切った6月中旬には4連勝して2位浮上、快走を続けて既にM3として
いた首位・ロッテに3ゲーム差と食らいつく粘りを見せた。直接対決も2試合あり好機だったが、浮き沈みの激しいこの年の西武を象徴するか
のように、直後1分けを挟み3連敗。挙げ句目の前でロッテ前期Vの胴上げを見る羽目となってしまった。
根本が言ったように新しく石毛宏典、岡村隆則、杉本正が加わり優勝候補に挙げられるほど、野球が出来る選手を揃えながら、大事な試合を
落とすなど勝負所に弱いのが優勝できない原因だった。先の10連勝など大型連勝もあったが、5月の6連敗、後期球宴明けの2分けを挟む
6連敗と9月の8連敗というように「さあ追撃」といった時の大型連敗も目立ったムラのあるシーズンだった。その意味でエース・東尾修の不振
は響き、前後期4勝ずつの8勝11敗。開幕戦を落としたのも、チームの10連勝を止めたのも、ロッテにサヨナラ負けを喫して前期Vを許した
のも全て東尾だった。リーグトップの防御率を誇った投手陣と、10連勝中の3戦連続を含む2ケタ得点13試合を記録した打者陣を備え、
得失点差プラス86も優勝した日本ハムのプラス56を抑えてリーグ1位。それでいて1点差試合はリーグ5位の11勝17敗で、トータル5割に
留まり2年連続4位というアンバランスな結果に終わった。
根本の選手任せの野球も、勝ち切れない一因である事も否めなかった。チームは徐々にレベルアップしていたが、移籍3年目の山崎裕之は
細かい事を一切言わない根本野球に歯痒さを感じていた。業を煮やした山崎はついに球団代表・坂井保之に「僕たちは勝てる野球をやりたい」
と直談判。ロッテ時代の74年に優勝した喜びを知る34歳ベテランの切なる願いだった。それを坂井から伝え聞いた根本は意外にも
「へえー、選手が勝ちたいと言っているのかね。いいじゃないか、今度は勝てる監督に席を譲る事にしようじゃないか」と言うと、10月下旬に
あっさり辞任してフロント入り。同月早々から下交渉を始めていた広岡達朗の就任を、自身の辞任の2日後に発表した。
まさか山崎ら選手が“本気”になるのを待って、敢えてシーズンをある意味犠牲にしてまで動かない事など本当にあるのかと考える。だが
根本なら、それも本当に有り得ると思わせる何かがある。 (了) 得失点差の件が気になってこの年の西武のピタゴラス勝率を計算したら
一昨年のソフバンに匹敵するぐらい悪かった 原辰徳が一年目の年だけど、ルーキーとして及第点と言っていい感じだったの? この年から圧縮バットと飛ぶボールが規制されたからな 広 161→181
ヤ 132→120
巨 153→135
洋 135→105
神 134→114
中 134→151
セ 849→806
近 239→149
ロ 184→126
日 167→126
西 219→143
急 204→140
南 183→128
パ 1,196→812
セは微減だけどパは30%以上激減してるよ。
セは1977年の1050本がピークで以後910本(78)、945本(79年) >>79
もろに影響受けたのが近鉄だな。
これで狭い日生球場のホームラン量産が激減した。
首位から最下位へ。西本監督もこれで勇退。 当時はパの方が狭い球場が多かったから
一番広いのが西武球場で他は箱庭ばかり
箱庭ホームランが一気に減ったってこと M社が開発した高反発球を78年に阪急が採用
79年は阪急、近鉄、西武
80年は阪急、近鉄、西武、南海
がそれぞれ採用してた(M社を採用しているセリーグ球団はなし)という説を
宇佐美徹也氏が提示してたが、数字的には辻褄があっててなるほどと思った。
80年はロッテのホームゲームだと年間114本本塁打が出たのに対し、
近鉄のホームゲームだと3倍近い319本も >>84
大差あるっての。
甲子園はラッキーゾーンがあったがそれでも最大。
横浜なんか出来た当初は「広い球場ができた」と連呼されてたんだから。
少しは事実を調べろアホ 後楽園?神宮?横浜?ナゴヤ?甲子園?広島
後楽園?川崎?西武?大阪?日生?西宮
大差ないねw そういやこの頃、神宮球場が長期改装中だったような記憶が。
この年はスコアボードだけリニューアルして翌年からフェンスが青になったっけ? >>88
大ありだ馬鹿
日生なんか「プロの球場として恥ずかしいレベル」と言われたのも知らんのかw >>89
スコアボードが電光掲示板化されたのはその前年
翌年フェンスが青色になり、さらに人工芝になった >>89
この年まではグランドコンディション不良で中止というケースがあった。
覚えてるのが4月下旬のヤクルト×巨人。
巨人2連勝で迎えた3日目、深夜から明け方にかけて大雨。
朝は曇りだったが昼前から快晴。なのに中止w
これには子供心に「ヤクルトが3連敗が嫌で逃げたんだな」と思ったほどw この時代の球場は両翼91m、中堅119mか120mが標準サイズ(膨らみは違いあるが)
九州遠征で使う平和台が中堅122mあったので広い球場と言われていたほど この頃でも明確に狭いといえたのは後楽園と川崎ぐらいか >>79
広島と中日だけホームランが増えてるね
なぜだろう? ハムのソレイタが本塁打、打点の二冠ながら、MVPどころかベストナインも落選。ベストナインは、久々の日本人本塁打王で、アキレス腱断裂から復活したとはいえ、5位チームの門田。外国人に対し、排他的な時代を象徴する記者投票の結果と言えますね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています