【巨人軍最強捕手】森昌彦(森祇晶)A【背番号27】 [転載禁止]©2ch.net
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巨人の歴代捕手の中でも、実働20年と、息の長い選手だった。
第2次黄金時代末期の59年、レギュラーに定着、冷静で緻密なリードで
投手陣を引っ張った。V9時代には川上監督の知恵袋的存在になった。
リードワークには定評のあるところで、V9を支えた堅い守備の中心と
なった。67年日本シリーズでは、シリーズ史上初めて、捕手としてMVP
を獲得している。61年から68年まで、8年連続でベストナイン。
オールスターにも11年連続11回出場した。現役引退後は指導者として辣腕を
振るう。特に86年から94年までの西武監督時代には、パ・リーグ優勝8回、
日本シリーズ優勝6回と、ライオンズ黄金時代を築いた。
現在は野球解説者として活躍中。
■通算成績
試合1884打数5686安打1341打率.236打点582本塁打81盗塁29
森昌彦紹介サイト
http://www.webmie.or.jp/~m-yama/player/sportsmori.htm
<前スレ>
【巨人軍最強捕手】森昌彦(森祇晶)【背番号27】
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/meikyu/1170487182/ >>1の書込みを見て欲しい。
なんとつまらない書込みだろうか。
義務教育を終えていない小学生であったとしても
多少のヒネリを加えて書き込む事は容易いはずである。
しかしこの書込み内容からはその形跡は微塵も感じられない。
彼の脳に重大な障害が発生している事は誰の目にも明らかだろう。
恐らく彼は経済的な事情で十分な治療を受ける事が困難な状況に陥っているに違いない。
この一見無意味としか思えない彼の書込みは、
現在の医療システムの見直しを訴えたメッセージなのではなかろうか。 >4
川上監督は毎年、大学野球で成果を残した大橋や槌田や阿野などを獲得して森と競争させたとか言われているけど
結果としてV9最後の年まで森の控えとして森の後継を担ったのが高卒の吉田というところは確かに注目すべき点。
吉田は森が現役最後の昭和49年にようやく入団10年目で正捕手に昇格した遅咲きだったので、森の牙城を最後まで崩せなかったような評価だけど
少なくとも吉田入団後の大卒や高卒の鳴り物捕手との二番手競争では勝ち抜いたという事実は注目しなければならない。
吉田は、森とはタイプが異なるタイプの捕手で、森はリスク回避の安全に徹した緻密なリードが売りだったのに対し吉田は強気一辺倒のリードで
それが攻めがワンパターンになりがちだったと何かの本で読んだが(後年の中尾のようなタイプか)、
少なくとも大卒捕手の槌田や阿野より川上監督には信頼されていたと見ていいのではないだろうか?
昭和48年のV9最後の年は、森と吉田がほぼ併用の形で先発マスクをかぶったが、本来なら昭和45年に吉田が70試合以上に先発マスクをかぶった時点で
それ以降のシーズンは森を抜いて正捕手になれていれば吉田の評価ももっと上がったのかもしれない。 昨夜のBSスペシャル良かったね。
森がいかに偉大かがよく分かった。 最近の捕手はバッティング重視で森のような捕手がいなくなった。 968 :神様仏様名無し様:2015/02/22(日) 18:18:31.89 ID:G9TYnjVy
堀内と森のバッテリーは、ギクシャクしていたらしいが
きっかけは、球場の選手用の食堂で
ソバなどを食べたときの会計は、伝票に選手が名前を書いて
後から一括で請求されて払う方式だったそうだが
ある月のこと、堀内が異様に高い請求がきて、クビを傾げた
「あいつがあやしい」
すると、食堂でソバを食べ終えた森が
涼しい顔をして、伝票に「堀内」と書いていたそうだ 槌田って、そんなに凄い前評判だったの?
六大学の三冠王ではあるけど。 >18
槌田というと、ハリさんの守備固めの印象が強い。
あとは川上時代のサインのキーマン。 鎚田は浅野とのトレードでヤクルトへ移籍したが、
ここでもパッとせず1年で引退して日本ハムで二軍コーチだったっけな。 >>16
板東英二「そんなもん、200円や300円ぐらいなのに、このセコさ。
さすが、ケチ森、岐阜の貯金箱と言われただけのことはありますなあ」 大阪明星で甲子園優勝、その後早稲田で活躍した阿野も忘れてはいけない。 昨年末、BSの巨人V9特集番組でインタビュー受けてたのを観たけど、
森さんは何だか渋くてカッコいい爺さんになってました 当時の横浜は権藤が散々甘やかしてクズ揃いになったチームだからな
いきなり方針が180度違う森が就任しても拒絶反応起こされるのは目に見えていた ジャイアント馬場は巨人思い出を大切にしてたらしいが、何があったのか森に関してだけは生涯恨んでいたそうな。 ノムさんが巨人から移ってきた投手に話を聞いたところ
「森さんはエースを操縦するのは巧いがそれ以外には冷たい」
という答えが返ってきたらしい。 吉田って「巨人の星」に出ていたね。
「バッキャロー!」とかよく怒鳴ってる 巨人のV9時代を支えた捕手・森祇晶氏(78)は、監督時代には西武で伊東勤を一流のキャッチャーに育て上げるなど、指導方法にも定評がある。
そんな森氏が、昨今のプロ野球界におけるキャッチャーの問題と、その育て方について、長年の経験から意見する。
今のキャッチャーは勉強が足りないと思います。ビデオや数字をスコアラーから与えられても、それを明確に分析できていない。
モノが周りに多すぎて消化しきれていないんでしょうね。自分の目で見て勉強するというのではなく、
ただ押し付けられているだけだから、ピンチになった時にどう打開していくかが分からないんだと思います。
古い時代の話だといわれるかもしれないが、ノムさん(野村克也)は凄い眼力だった。
スコアラーが存在しなかった時代に自分の目で見て情報を集め分析し、課題を見つけて解決していた。
そういう勉強を今の選手たちはしていないでしょう。
相手バッターがいつもは打席のどこに立つか、バットをどのくらいの長さで握るか。
それがピンチ、チャンスの時にどう変わるか。人間なのでどこかに微妙に変化がにじみ出るものです。それを感じ取るのはキャッチャーにとってイロハのイです。
自軍のピッチャーの状態も瞬時に感じとらなくてはならない。
今日は調子悪いから仕方ないではなくて、それならどうやって切り抜けていくか、1イニングでも長く投げさせるようにどう持っていくか。それがキャッチャーの知恵なんです。 最近の選手で、他のチームのキャッチャーと「捕手論」を戦わせている選手がどれだけいるか。
僕はノムさんから色んな形でヒントを貰ったし、たびたび捕手のあり方について議論しました。
そこから得た知恵は限りない。今は変なところで選手同士慣れ慣れしいが、肝心なところで抜けているような気がする。
それに良いキャッチャーを「育てる」という意識も希薄になっていますね。 育てる過程においては、まずこの選手が将来チームを支えていく選手かどうかを見極めることが必要。
キャッチャーはケガの多いポジションですから、シーズンを1人で賄えることはほとんどありません。
そのため控えを作らなければならないんですが、やはり正捕手という教科書がある間に勉強したり、コーチが教育しなければならない。
私の古巣の巨人でも、今年は正捕手の阿部(慎之助)のファーストへのコンバートが話題になりました。
コンバートしたからには次のキャッチャーの目途が立っていたはずだが、阿部を元に戻したりまた一塁にやったりと混乱した。
結局、首脳陣の考えがハッキリしていなかったのでしょう。2年目の小林(誠司)を育てるうえでも、キャッチャーとしていい部分はどこにあるのか、どう伸ばしていくのか。
それがハッキリしていれば慌てることはなかった。二軍で育てる判断も疑問。
キャッチングの勉強ならいざ知らず、一人前にするなら一軍に置かなければ意味がない。
将来を任せられると思ったら、ベンチはある程度目をつぶって自分で苦しませなきゃならない。
苦しんで苦しんで、そこから何かを得ていくんですから。伊東勤にしても、西武時代に「任せた」と言って送り出したら、ベンチからサインは出さず、ゲームを任せました。
やはり責任を持たせないと、キャッチャーは上手くならない。それが後進を育てるということなんです ハワイに移住しているのは知っていたが、今更ながら検索して
森がどういう生活だか調べてみたらオーシャンビューの家で
生活して、ゴルフやったり、優雅に生活しているみたいだな
教え子の清原が貧窮しているのを見ると、こういうことも清原に
アドバイスしてやればよかったのになあと思った つーか
してもダメだったのかなw 幻の巨人軍監督
1988年 広岡達朗(ポスト王として白羽の矢が立ったが、固辞)
1998年 森祇晶(ポスト長嶋として内定していたが、長嶋派の妨害によりおじゃんに)
2005年 星野仙一(ポスト堀内として、初の外様監督誕生かと思われたが、OB会の反発により流れる) 98年の時は、わざわざ昼間放送予定のドラマを中止して長嶋監督緊急記者会見の中継が始まったから、解任キター!と思ったら
「来年も監督やりますのでよろしく」
だったのでズッコケた >>13
森が伊東を育てたというのも本当かな?
ttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/36568?page=4
↑の記事の内容や伊東勤自身の著書を読む限りでは、
当時ベテラン捕手だった黒田正宏や東尾修・高橋直樹などの主力投手陣からの影響が強いみたいだが。 >>19
>あとは川上時代のサインのキーマン。
淡口だろ 森は2年続けて優勝を逃したのって横浜監督の時だけだったんだな。
現役時代(1955年〜1974年)の巨人・・・優勝を逃したのが1960年、1962年、1964年、1974年の4回
ヤクルトコーチ時代(1978年〜1979年)・・・1978年は優勝(日本一)、翌1979年は6位(最下位)で退団
西武コーチ時代(1982年〜1984年)・・・1982年〜1983年は優勝(日本一)、1984年は3位で退団
西武監督時代(1986年〜1994年)・・・9年間のうち、優勝できなかったのが1989年(3位)のみ。
横浜監督時代(2001年〜2002年)・・・2001年は3位、2002年は6位(最下位)で解任される。
プロのユニフォームを着たのが通算36年で、そのうちチームが優勝したのがなんと27回で優勝率75%!!
現役時代の背番号(27)と同じ数だけ優勝を経験している。 横浜の没落は森監督が連れてきた森投手コーチと辻守備走塁コーチがチームを破壊したのが大きい。森監督1年目の2001年は3位だったしまだ良かったよ
2001年チーム防御率3.75
2002年チーム防御率4.09←森コーチ
2003年チーム防御率4.80←森コーチ
2001年チーム失策68個
2002年チーム失策81個←辻コーチ
2003年チーム失策90個←辻コーチ >>50
谷繁追い出したのも森
辻は中日でも内野守備崩壊
西武出身者の指導者は多いが辻、大石、杉本、安部
石井丈と無能な者も多い 西武出身では、広岡時代の選手に失敗が目立っている気がするな。 >>55
東尾は見捨てたって感じだけどね(´・ω・`)
清原がFAで巨人に去った際も「清原?出ていきたい奴は出ていけば良い」とのコメント
で、翌年清原が居ない西武でリーグ優勝を果たして、そのコメントが単なる強がりでは
無かったのを証明したし。 オーナーの意に反して厳しく扱うのは事実上無理だったろうね 清原が1年目で3割31本打って、新人王とれたのも森監督の使い方が良かったからじゃない?
だけど当の本人は2年目から、内角高めを攻められつづけて、引退するまで克服できなかった様子。 土井コーチが指導を続けていれば内角を克服できたし
容疑者にもならなかったのに。 土井は1989年に解任された後、1996年に再び西武の打撃コーチに復帰したけど清原は内角克服できなかった >>62
広野打撃コーチだったと思うけど。
昔のスポーツ紙で、スランプ中の清原と広野さんがグランドの隅で、正座して膝突き合わせて面談やっている写真を見たことがあった。
ああ、熱心な人なんだなあと思った。
しかし黄金期の西武には各チームともこぞってエース級をぶつけてくるから、打線は苦労してたと思う。
ブコビッチもだめ、バークレオは結構打って数字を残したけどなぜかクビ。
デストラーデがでてきて90年から再びシリーズを3連覇するわけだけど。
清原は結局、新人時代からきちんと練習してなかったんだね。
巨人時代は練習はいつも遊んでばかりで、遊ぶだけならともかく真面目に練習している選手の邪魔までしていたそうだから。 森さんが清原を甘やかしたっていうけど、80年代の西武ライオンズって管理野球の最たるものみたいに言われてたよ。
そりゃ広岡さんから森さんへ移って、多少寛容になった部分もある。
それでも清原一人が甘やかされてたって認識は、当時感じなかったな。
清原にとっては最高のチーム環境だったのにな。
あれだけの先輩に恵まれて、毎年優勝して、何が問題なのか。
むしろ「常に紳士たれ」のモットーを掲げる巨人の方が、選手の自主性を重んじて介入しないだろう。
事実、清原が覚せい剤を始めたのは巨人時代からのようだしな。 ノムさんが言うように、当時の西武が清原を甘やかしてたのは間違いない。
でも、それは堤オーナーが清原を特別に可愛がっていて森監督でも手出しできなかったから 逆に言えば
あの奧さんと40年も夫婦やれるってある意味凄いよな 球団から野球を取るかサッチーを取るかと言われ
サッチーを取ったノムさん。
好みのタイプなのだろう。 サッチーがマネージャー代わりに仕事をとってきてくれるんだから
野村にとって、こんなに都合のよいことはないだろう 新人清原をいきなり4番にすえるなんて甘やかしの最たるものであろう。
後年清原は7番にブチ切れたり、怪我で2軍調整したとき
2軍の選手などと話もしたくないと差別意識を丸出しにしていたが
1年目を2軍でやらせておけばこんなに傲慢にはなってなかった。 いきなりではないよ
下位から使ってだんだん打順を上げていき、最終的に4番
その辺は、私生活の甘やかしとは区別して語らないと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています