1989年パリーグペナントレース★2
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>>17
言葉のあやで言ったのかもしれないけどこの年のダ−オ、ダ−西ともに
ダイエーが3タテしたことはないよ >>18
改めて見直したら確かに(´・ω・`)
とはいえ対近鉄13勝12敗1分、対オリ12勝13敗1分、対西武11勝13敗2分と、最下位ロッテ相手に
9勝15敗2分と大負けしなければ優勝争いに顔を出していたかも?とすら思える成績を残し、長期低迷からの脱出間近を予感させた。
翌年田淵が全てをぶち壊したけど......、監督就任以来、着実にチーム力を上げてきた杉浦のままで良
かったんじゃ?と思った(´・ω・`) >>19
杉浦さんは移転以来福岡の関係各所に挨拶廻りする中で、
「(元南海のエースで西鉄を敵にしてた)自分が監督である限り全面的な支援は得られない」
みたいな雰囲気を感じ、成績うんぬんじゃなく勇退したみたいだ。
あと投手力に関しては87年あたりがピークで
+ 吉田豊、村田、加藤伸
− 山内孝、山内和、西川、藤本
ちょっとばかしきついな、というところでダイエー1,2年目にろくな投手がドラフト指名
できなかった時点で、杉浦が続投しようと、田淵がやろうと、あるいは第三者がやろうと
どのみち大崩壊は免れなかったとみてるんだが。 投手力で劣るもの同士のオリックスに打ち勝ったノーガードのような試合も記憶に残る >>15
テレビもラジオ中継もダイエー戦中心となり、それに反発していた福岡県民も多かったと聞く。 松田優作が死んだ年。
亡くなる数日前に病室で日本シリーズを見ていたそう。
回診のお医者さんと看護婦さんに原がホームラン打つよと言ったら当たったとか。
その話聞いてちょっと目が潤んだね。 >>24
そりゃ地元に球団が来れば推すのは当然。
難癖つけてたのは西武ファンと巨人ファンだろうな。 郭がラルフに三連発打たれた試合は郭は失恋した彼女の事で頭が
グチャグチャになっていた。
郭の異変にもっと早く気づくべきだったと思う。 西武の逆転優勝は堅いかなと思ってた。
オーレが入ってチーム生き返っちゃったからね。 >>26
その割には札幌ファイターズや仙台イーグルスの1年目の時は
叩かれてなかったような…
なお1年目の大阪バファローズは… 筋が通ってれば誰も言わないよ。
筋の通らない事して総スカン食ったいい例が東京ヴェルディだ。
若いファンの多いJリーグなので尚更嫌われた。 失恋 たいげんって よくそんなこと知ってるね たいげんって綺麗な女優と結婚したけど浮気されてたよね 今は独身なのか? _____________
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| オリックス球団とあたしが |
| デビューしたのよ |
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 ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
,.へヘー'、
〈/=)人y.〉
j(´∀`レ(
と(_゚'_/○>
|く__ゝl;;;|、〉
,ノ;;;UU;;;ヾ;;ゝ 1990年の原の3号と同日に1989年には18号を打ってる。
1990年は結局20本だったから、35本ぐらいのペースだった感じ。 開幕からデストラーデがいればV10だったな
巨人の逆転日本一よりはこっちがよかった 根本の裏技が使えなくなって
西武の黄金時代は終わったな >>35-36
88年にブライアントが開幕からいたら近鉄優勝できたかもな…
>>37
やはり前年の東尾の違法賭博問題の影響で
門下生の土井コーチが退団したのが堤の不信感を買ったんだろう…
その3年後に根本も鷹へ行き後追うかのように秋山、工藤、石毛と
根本の門下生が鷹へ行った >>26
その頃巨人は堀内体制になって人気撃滅
蹴球日本代表人気がジーコでピークの頃
89年のダイエーと違ってやりやすかったのかも 門田は51試合も守っている。それでいて、3割30本を打ち、ちゃっかり指名打者でベストナインに選ばれた。 この年10.12でもし西武がひとつでも取ってたら、優勝はほぼ決定みたいな感じだったよな。
オリックスもダブルヘッダーでひとつでも落とすと、ほぼ優勝の望みは消えてたけど。 近鉄優勝決まって、最後消化試合になった西武−近鉄戦をただ1局だけ放送していたNACK5で
ボーッとしながらで聞いてた記憶があるわ
これが優勝決定試合ならテレビ中継もあっただろうな
最後控え捕手の仲田が決勝タイムリー打って渡辺智が10勝目をあげて西武が勝った 最終戦ブライアントが50本目打つの期待したが出てこなかったんだっけな >>35
バークレオの不振もあったけど、この年は開幕から(違ったかな?)キャッチャー伊東の長期離脱が大きくなかった?
仲田、相馬でやりくりが厳しかったような。 このスレ、クロマティの規定打席到達時点で、打率4割の話題が無いけど、皆さんクロマティ嫌い?まあ辞める辞める詐欺もあったけど。 >>47
失礼しました。前に1989年スレがあったから、続きかと思った。
じゃあパリーグの話しを。なんで近鉄のドットソンはクビに?その後きたリベラも嫌いじゃなかったけど 10月12日のダブルヘッダーを、近鉄がブライアントの本塁打無しで勝っていたら、阿波野がMVPだったのだろうか? >>45
キャンプで負傷して長期欠場が危ぶまれたが、さすが伊東というべきか
執念と強靭な体で開幕8試合目の近鉄戦にはもう途中出場してるから、
さほどの長期欠場じゃないんだよね。(この間チームは4勝3敗)
皮肉にも、この途中出場した近鉄戦でいきなり9回表に逆転負けを喰らい、
復帰試合から森西武初の5連敗を喫するなど、
イマイチリードに冴えがない一年だった。 まあそうだろうね。
トータル的には両者甲乙付け難いし。 3強 西近檻
3弱 ダロ公
26年を経て、下剋上実現 この年は佐藤義則が失速したのが印象に残っていますね。
たしか開幕から6連勝、途中8勝2敗まで行ったのにそこから8連敗して8勝10敗。
チームの優勝と自身の二桁勝利を賭けた川崎球場での登板でも愛甲に逆転本塁打を打たれて・・・ 「閉店間際」
球宴明けの後半戦は29勝20敗3分け、優勝した近鉄をも勝率で1分上回る2位の成績。ダイエーがシーズン終盤、試合終盤といった“閉店間際”に
力を出してきた事が、熱パ3強の争いをさらに加熱させたといった所だった。後半戦の平均得点は5点台を記録、失点でも平均で前半より0.91点の
減少。3点差以内の勝敗が19勝13敗、1点差試合も9勝5敗と接戦でも好結果を出せた原動力は、3強に比べ決して劣らない打線だった。
トニー・バナザードとウィリー・アップショーの両外国人が牽引した8月は、14勝10敗と初めての月間勝ち越しを決めた。2年目のバナザードは月間
打率.349、本塁打8、打点23で月間MVP。新外人アップショーも負けじと7戦連続打点や4試合連続本塁打など、打率.326、本塁打9、打点19
を叩き出した。シーズントータルでも2人は史上4組目となる外国人30本塁打コンビとなり、アップショーについては左打者ながら左腕もよく打って
左打者では本塁打数でラルフ・ブライアント、門田博光を抑えて最も多い10本を放った。
チーム唯一の3割を打った山本和範は14年目で初の3割打者となり、盗塁でも19個でチームトップだった。若手では岸川勝也が当時の日本タイ
記録となるサヨナラ本塁打3本(現在もパ・リーグタイ記録)を含め26本塁打と急成長。77試合ながら13本塁打した藤本博史は、特に満塁で6打数
4安打2本塁打と持ち味を発揮した。他にも代打率.379、3本塁打、11打点の広永益隆と“左殺し”高柳秀樹の左右の切り札ら控えも力を見せ
つけて、積み上げたチーム本塁打は166本。オリックスに次ぐリーグ2位だったが、それでいて打率と三振数はリーグワースト。この辺でも九州に
本拠地を移したダイエーの豪快な野球を象徴していた。
門田の移籍により新しいヒーローが続々生まれる怪我の功名で、近鉄に勝ち越すなど上位3強に36勝37敗5分けの大健闘をしたダイエー。球団の
熱意に折れて監督契約を1年延長していた杉浦忠は、「福岡のお客さんのお陰で選手が粘り強くなった」と言うと、少し安堵もしながら退任した。
12年ぶりの「Aクラス」、「60勝」、「5割」には少し及ばなかったが、福岡移転初年度はまずまずの成果。杉浦にとって、届かなかった目標は次代の
監督と選手にと、翌年に大きな希望を残してのバトンタッチのつもりだった。 (了) 田淵が監督か、うーむとは思った記憶もあるが、
想像以上に酷かったなw
89年後半は87年前半を彷彿とさせる躍動感みたいのがあった 杉浦はSDみたいな立場に残ったんだよな
デーブ楽天の星野もだけどああいう立場は権限ないのか? この年はパのペナントが非常に荒れてたけど
乱闘もセもパも多発してたイメージがあるな… >>59
5月末6月上旬に立て続けにあったね
ヤクルト阪神のパリッシュ、巨人大洋の岡崎、
あともう一つくらいあったような気もするのだが。
他に覚えてるのは清原のアレ、リベラのフック
珍プレー好プレーの乱闘特集が華やかだったなw >>60
ポンセの掌低、アップショーのラグビー、ディアズの殺人タックルも… 確か袴田がタックルを受けて気絶してヨボヨボのドクターが出てきたのもこの年だっけ。 川崎球場で診断していた医者だっけ?
1989年といえばバブルで金が日本に溢れていた時代だったけど
川崎球場とか汚いまま使われてたよな。
ただ、NPBとMLBの年俸差が今ほどなかった。 >>55
いつも楽しみに読ませてもらっています。
当時の記憶が甦ってくる素晴らしい文章。 昭和最後の名勝負からちょうど1年後の89年10月19日
パリーグでは森が堤から屈辱的な言葉をかけられ、
セリーグでは野村がヤクルト監督に就任 高山はこの年だけけっこう使われたんだよな。
ローテの谷間の役割で、5勝しかしなかったが。 「四枚落ち」
優勝候補といわれるチームでも、主力が数多く離脱すれば成果は上がっていかない。そういった状態を将棋の用語になぞらえて「飛車角落ち」や
「二枚落ち」などと言われる。89年の西武は正捕手・伊東勤が3月の春野キャンプ最終日に右足首靭帯を損傷、10日後には若手の正遊撃手有力
候補だった田辺徳雄がオープン戦で右肩脱臼。前年左翼手のレギュラーを掴んだ安部理も故障で開幕アウト、投手でも前年10勝で新人王の
森山良二が右肩痛で不在。伊東を開幕から10日間、田辺を4月中まで欠くなどした西武のスタートは、飛車角落ちどころか両側の香車も抜いた
時にいわれる“四枚落ち”の状態だった。
4月23日に2年ぶりの最下位転落、森政権はおろか広岡時代にも無かった8年ぶりの5連敗を喫するなど最下位脱出に11日かかった。5月が
終わっても借金5の5位と低迷、主力の離脱だけでも痛いが、この時の西武は投打の主軸による不振というハンデも重くのしかかった。主砲の
清原和博は5月末時点で打率.207で7本塁打、前年38発の長距離砲タイラー・バン・バークレオは開幕8戦目に本塁打でシーズン初安打を打つ
までの19タコを含め.127、2本塁打の体たらくだった。打の戦犯2人の場合は清原が後半戦復調し、バークレオの場合も代わって6月に来日した
オレステス・デストラーデの大活躍で事なきを得たが、左腕エース工藤公康の不調は最後まで森監督を悩ませた。
開幕戦の黒星に始まり4月は4連敗、しかし防御率は2.62と悪くなかった。しかし5月に入ると早期KOが続き月間防御率は9点台、開幕からの
連敗は6まで伸びた。6月3日に9度目の先発で完投して初勝利を挙げたが、その後も打ち込まれて2勝目も約1ヵ月後。前半は防御率4.18の
2勝7敗で、後半戦は中継ぎが主で先発は3度だけだった。前年引き起こした舌禍事件の報いかとも思えるようなトータルの4勝の結果、引退した
東尾修に代わる投の柱として大きな期待をしていた森の落胆も大きかった。一時的な離脱や主力の不振が響いた四枚落ちだったが、シーズンを
通しての工藤の不振は中でも金銀にも相当するような大きな一枚だった。 (了) 捕手って誰がやってたんだっけ?白幡とかか?デーブは相変わらず干されてたっけ 開幕からしばらくは仲田だったはず
てか白幡は89年にはもう巨人にトレードされてたでしょ そもそも白幡は、西武時代はDH出場がメインで
捕手としてはほとんど出場してないよ。 伊東が戻るまで仲田
打撃が全然だったね
大久保、白幡など打撃の良い捕手はいたけど、森は捕手については打撃軽視だった。
今の銀仁朗も酷いしw 森に限らない西武の伝統かw 仲田は開幕前にシーズン10安打を目標とか、本気で話してて
記者の失笑を買ってたっけ・・・ 打撃の良い捕手はポジションコンバートされるのがライオンズの伝統。
田淵・大成・和田禿・貝塚・G.G.・友哉。 4月に西武球場で8回途中まで完全試合ペースだった西崎幸広投手から
チーム初安打となる本塁打を打ったのは大久保捕手だったような。
この年の工藤公康投手は過度の飲酒が原因なのか、
肝臓が腫れて骨に食い込む程で、
ともすれば命にかかわる重症だったらしいですね。
しかし、デストラーデ選手が加入してからの西武の勢いは凄かった記憶があります。
中継ぎの西本投手が(相手チームから見て)憎らしいほどに好投していたのが印象的でした。 西崎投手の完全を阻止する本塁打は清原選手でしたか。
嘘を書いてしまい、大変申し訳ありません。
>>76様、ご指摘ありがとうございました。 この年の3強に対しての世論は、
去年悔しい思いをした近鉄に優勝させてやりたい
西武は勝ち過ぎなので、あまり優勝して欲しくない
オリックスはどうでも良い
こんな感じだったかな? >>78
今年の大混戦のセリーグに良く似てるな。
近鉄=ヤクルト
西武=巨人
オリックス=阪神
ヤクルトは前年ある意味で悔しい思いをしてたし。(2年連続最下位) >>78
そのような風潮があった様な 印 象 がある ブライアント4連発の試合の後、清原和博が
「(ワシが買った)ランボルギーニ明日入港や」
とまるで他人事の様に言ったらしいけど、
やっぱりこの頃から何処か野球に
真面目に取り組んで無かったんだな。 「平成版ベビーギャング」
アイデアマンで有名な近藤貞雄は、若手を積極登用する事でも知られる監督だった。中日時代は牛島和彦や平野謙、大洋時代なら久保文雄に
大門和彦、高橋雅裕らを次々戦力にしていった。近藤の場合は、ただ若い選手を使うだけでなく新人の抜擢でも有名だった。中日では曽田康二、
中尾孝義、上川誠二、大洋でも相川英明に高橋一彦を起用、不足部門を中心とした現有戦力に刺激を与える手法だ。球団常務・大沢啓二の推薦で
日本ハム監督に就任した89年も、近藤はやり方を変えなかった。8年前のV戦士の衰えもあって野手の層が薄く「投高打低」というチーム事情、
近藤でなくても社会人出身の即戦力野手に頼らざるを得なかったのだ。
プリンスホテルからドラフト1位で入団した中島輝士は、前年ソウル五輪で四番を務めたスラッガー。開幕戦でいきなり穴吹義雄(南海)以来33年
ぶり2人目となる新人開幕戦サヨナラ本塁打を放つなど2安打3打点の好スタートを切ったが、その後は苦しみGW前には一時打率が2割を切った
事もあった。本塁打6本に留まっていた事もあり、7月頭から約二ヶ月間の二軍落ち。再昇格後は、閉幕まで3本塁打5打点を挙げて何とか来期に
繋げた。
俊足のアベレージヒッターだった鈴木慶裕は一番打者候補として、ドラフト2位で入団した。開幕から主にトップバッターを打っていたが、中島と違い
適応力の違いを見せつけ6月末まで3割をキープして力を発揮した。9月には67年の巨人・槌田誠以来新人では2人目の代打満塁弾という勝負強い
一面も見せた。
将来のレギュラー候補としての第一歩といえる2人の一年だったが、課題も残った。中島はオープン戦から手を焼いていた内角攻めを克服できずに
本塁打は一桁止まり、しかも中島がアーチを放った試合で勝ったのは、サヨナラ弾の開幕以外でもう1試合だけ。2勝6敗1分けと本塁打を打った
試合での勝率と運の悪さも目立った。鈴木は夏場以降のスタミナ切れで、最終的に打率が2割5分台まで落ちた。足でもチーム2位の22盗塁と
健闘したかに見えたが1試合3盗塁死を含めて失敗も13回、成功率62.9%では近藤得意の機動力野球も展開しづらかった。
近藤は投手中心のドラフトになった翌シーズンも酒井光次郎、有倉雅史を起用。かつて81年の優勝に貢献した島田誠、古屋英夫、高代延博の
「ベビーギャング」に代わる“平成版ベビーギャング”で強豪チームとの差を少しでも埋めようと近藤も、そして大沢らフロントも必死だった。 (了) 東尾が引退、森山、伊東、田辺が開幕間に合わず、工藤が絶不調
バークレオ全く打てない、奮闘していた高山もオールスター明けからは全く勝てなくなった
これでよく3位になれたと思う
デストラーデ加入や渡辺智男が6月から戦力になったのが大きかったのかな この年の西武は、抑えがいなかったのが一番大きいと思う。
試合終盤でひっくり返されて負けることが多かった。 >>84
それでも単純に戦力だけなら西武がナンバーワンだろう。
得失点差なら3強で一番だけど、抑え不在で竸った試合を落としまくったのが響いた。 近鉄もブライアントはすごいけど、その他の打者は大したことないんだよな。
チーム打率や得点数などは、西武とオリックスに大きく負けてる。
本当にあのブライアントの4連発だけで優勝したと言っても過言でない。 >>87
金村の不調、村上の故障離脱もあり、羽田や淡口がスタメンで5、6番で出てたくらいだからね。 近鉄は確かリベラが貢献度がけっこう高かったはず。
打率やホームラン数は大したことないけど
10月になってからホームランを量産して
全ていい所で打ってた記憶がある。 トレーバーのが期待できるから
今なら他球団でリサイクルされるてだろうが 89年オフ、フジTV珍プレー好プレー
何かと粗暴な乱闘メーカーの近鉄リベラ(元ボクサー)について
武豊「今度(日ハム)近藤監督にはリベラとやりあって欲しいですね」
石毛「うちも秋山が足引っ掛けられて怪我しましたしね〜、パ・リーグの選手は怒ってますよ」
序盤は金村欠場のサードを埋めた上、打でも勝負強い選手ではあったが、それ以外は何かと問題児 そりゃリベラからしたらあそこまで優勝に貢献したら大幅アップを要求してもいいよね。
それが上手くいかなかったんだろう。 本当に元ボクサーだったのか
道理で見事なフックだった訳だw この年オープン戦の「プロ野球ニュース」で西本幸雄に
「近鉄はドットソンをとって、どっと損した」などといわれる始末 もし、高田が、この年も、ハムの監督を務めてたら、近鉄、オリに相当嫌がらせしてそう。前年が、余りにも酷かっただけに。そうなると、西武が、最後に優勝してた可能性大だなあ。そして、大島が、サヨナラホームランで、キスされることもなかった。 ハムは前年も対西武9勝14敗3分、対近鉄10勝16敗でほぼ同じくらいの負け越しで
優勝争いが佳境に入ったラスト5試合で言えば対西武4勝1敗、対近鉄0勝5敗で
むしろ西武の方に嫌がらせしてたでしょ。
特に9月半ばの東尾−阿波野の投げ合いを1-0で制してほぼ安全圏に入ったと
思った直後にハムが近鉄に3連敗して息が吹きかえったのは、勘弁してくれと思った。 リベラはホームランを出迎えた藤瀬コーチの頭を子供にするかのようにポンポン >>98
これは、失礼。高田と云えば、巨人の犬もしくは、巨人に関係する物の犬とイメージがあったのだが、意外だったな。 >>78-79
そのヤクルトが11年にあと一歩の所で優勝を逃してるのも…
ただ11年の監督は真中の前任だった現SDの小川だけど… 羽田、栗橋、淡口のベテランが揃って引退した近鉄。前年に梨田、福山の義父も引退してるから、一気に若返ったんだな。しかし、この年から次の優勝まで12年かかるとは思わなかった。それに日本シリーズで先発した阿波野、山崎、加藤、小野が全員移籍するとは‥‥ >>104
確かにこの年投げた投手で、近鉄一筋だったのって数えるほどしかいないな。
主力どころでは佐々木修ぐらいしかいない。
その佐々木も不調で優勝にはほとんど貢献できなかった。
あと、赤堀が高卒ルーキーで1軍で少しだけ投げてた。 >>103
その反省か90〜94のオリックスは
大規模な選手の入れ替えを断行したし… てか6年?もかかったら普通に入れ替わるんじゃないの
84年のV戦士が入れ替わったら95年のV戦士になってた、みたいな感じで >>107
でもブーマーとか松永とか看板選手でも遠慮なく
放出したぐらいだし… この頃のオリックスの選手で95年優勝メンバーになったのは
和製大砲でブレイクした藤井、ルーキーだった小川
あとは藤田から正捕手の座を奪いかけていた中嶋、守備のスペシャリスト本西ぐらいかな 伊藤隆偉もいた
当時は伊藤敦規のほうが名を知られていたけど >>112
晩年の福良ってあんまり記憶に残ってないな
さっと引退した印象がある その後、95〜96年優勝に貢献した選手もピークを過ぎたと思われたら
あっさりと放出したよなオリックスは
藤井や福良ぐらいか、オリックスに骨を埋められたのは
本西は阪神へ、小川は横浜に
中嶋はFAだったけど西武に
あとは移籍組だったけど馬場をヤクルトとかもあったな >>84
工藤は前年からおかしい。
>>85
いや先発のコマ不足が敗因だよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています