「二人の救い主」

前半戦でチームが思わぬ低迷をすると、急場しのぎとしてトレードなどの緊急補強をしたり、二軍にいる若手を思い切って登用するケースがプロ野球
ではよく見られる。そうした光景を89年の西武から見られるとは、全く予想できない事だった。5月を終わっても13勝18敗2分けの5位という不振は、
王国といわれた主力投手陣と、清原和博やタイラー・バン・バークレオら野手陣の不調に、開幕前からの故障者の続出にあった。エースと目した
工藤公康が1勝も出来ず6連敗、前年新人王の森山良二も右肩を痛めて不在の上、高山郁夫や石井丈裕らも穴を埋める働きが出来ていなかった。

石井と同じく即戦力新人として期待されてきた渡辺智男が、デビューしたのは6月2日の事だった。ただ、プロ初登板はダイエー相手に二回途中まで
7失点でKOの散々な黒星スタート。2戦目は中6日の9日で、2失点完投ながら打線の援護無く連敗。三度目の登板だった17日に、5安打完投の
プロ初勝利でダイエーに仕返しをした。しかしその後また3連敗で1勝5敗となって球宴折り返し、防御率も5点台だった。本来ならここで中継ぎ
もしくは二軍に降格していた可能性もあったが、当時の西武の苦しい台所事情が渡辺智には幸いした。
8月3日に5イニング無失点のロング救援で2勝目を挙げたのが起点となり、先発に戻った次回登板から3連勝するなど、後半戦だけでいえば
近鉄・阿波野秀幸と並び最多の9勝を挙げて8、9月の西武快進撃に一役買った。新人王はほぼ一年通して働いたオリックス・酒井勉に譲ったが、
規定投球回到達22人の中で被本塁打が最少の12という内容で2ケタ勝利の活躍だった。
打者では米国3Aから、6月に加入したオレステス・デストラーデが救世主になった。メジャーでは通算12安打1本塁打だったデストラーデ、20日の
デビュー戦での2打席目で初本塁打すると7月末までに10発、8月も10発、9月8発とコンスタントに打って、規定打席未到達ながら32本塁打を
放った。規定打席未満の30発クリアは87年ボブ・ホーナー、88年ラルフ・ブライアントに次ぐ3人目の記録だった。

逆転優勝こそ逃したが、二人の救い主は首脳陣やファンの期待に十分過ぎるほど応えた。さらに90〜92年の間には渡辺智は31勝(18敗)、
デストラーデは3年連続本塁打王で122本塁打と活躍。西武球団史上で“最強の三年間”といわれる期間において、二人は救世主からチームを
支える実力者となっていた。 (了)