若手農家が挑む福島米「天のつぶ」 地域の米作りを「守る」使命感 (前編)
2018/8/31 11:30 【提供:東京電力ホールディングス】 PR
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脱サラして飛び込んだ米作りの世界。その2年後の2011年3月11日、東日本大震災に見舞われた。このとき、福島市は震度5強。震度6強を観測した浜通りの福島第一原子力発電所では翌12日に水素爆発が発生し、周辺住民に避難命令が下り、住まいを追われることになる。

福島市内で米農家を営むカトウファームの加藤晃司さんは、「もうダメかと思った」と振り返る――。一時避難を終えて、いま、加藤晃司・絵美夫妻は米作りを再開。
「土」や「米」と向き合う時間が楽しいという。二人が歩んできた道のりと福島の「食」について、話を聞いた。

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福島で米農家として生きていく(加藤晃司さん・絵美さん夫婦)

「福島で生きる」という覚悟

―― 「農家になろう」と思った、きっかけはどのようなことだったのでしょう。
加藤晃司さん 「2009年に、祖父の跡を継ぎました。それまでは夫婦とも、ふつうのサラリーマンでしたが、生活にちょっと息苦しくなっていたんですね。
農家は人と向き合うことが少なく、『ストレスがかからない』っていうイメージでした。それで妻に聞いたら、『それで食べていけるのなら......』と」

加藤絵美さん 「私自身も勤めていましたし、閉塞感というか...... なので、様子がわかりましたから、反対はしませんでしたね」

―― でも、若い人が「農業をやろう」というケースは少ないですよね。何が背中を押したのでしょう?
晃司さん 「いや、もともと田んぼは祖父がやっていたものですし、まずは家族の食べる分だけでも作れればいいかなという感じでした。
サラリーマンの働き方って、人とのコミュニケーションが利益を上げることに繋がっていますよね。社内での人間関係とかも。そんなことに疲れちゃったんです」

絵美さん 「農業は自然が相手じゃないですか。なので、人と話すことが息抜きになるんですね」

晃司さん 「ただ、このままだと米作りって先々どうなっていくのだろうといった不安というか、将来像が描けないところがあって、やっているうちにだんだんと『このままじゃいけない』といった意識が芽ばえてきたことはありますね」

―― 東日本大震災のときの心境を、振り返っていただけますか。
晃司さん 「震災のとき、妻のお腹に3人目がいたこともあって、会津に一時避難。そこで原発事故の説明と放射線の影響、健康被害などの説明を受け、川場村(群馬県)に避難しました。
しかし、3月下旬に福島へ戻り、4月には市内で再度、原発事故の影響について説明を受けました。その後は放射線量をカウンターで測りながら記録する毎日でしたし、実際に放射線量が1.2〜1.5マイクロシーベルトを記録することがあり、やはり不安でしたね。
 『本当に大丈夫なのか』と自問自答しながらも、もしかしたら、死んでしまうんじゃないか。そう思ったこともありました。いつ、どうなるかわからないのに子供たちを本当に守ってやれるのだろうか、といった怖さがありました。
それでも、帰還するときに決めたんです。『覚悟』を。ここで生きていく。ずうっと、ここで農業をやっていく覚悟を決めたんです。その一方で、若手農家がうちしかないこともあって、少しずつ『やるしかない』という使命感が湧いてきたように思います」

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加藤晃司さんは、福島の米作りの将来を憂う