月刊正論2019年4月号
特集 移民国家の危機?
日本の自死
暴走するリベラリズム
文芸批評家  浜崎洋介
ttp://seiron-sankei.com/11329

 が、おそらく、より根が深いのは、後者の西洋啓蒙思想の方だろう。つまり、「普遍的人権」、「寛容」、「多様性」を
無際限に拡大しようとしてきた西洋的リベラリズムの無理と、それが欧州に齎した〈実存的な疲れ=ニヒリズム〉の
問題である。
 マレー自身は示唆する程度にとどめているが、リベラリズムの起源の一つに、個人の「信仰の自由」(人権)を守ろうと
するプロテスタンティズム(特に、17世紀に登場する洗礼主義などのピューリタニズム)の伝統があることは間違いない。
事実、「リベラル」(liberal)という言葉が、その政治的意味を帯び始めるのは、「新プロテスタンティズム」(エルンスト・
トレルチ)が登場してくる17世紀以降のことだが、それは基本的に、共同体(カトリック・国家)による「信仰の強制」から、
個人の「信仰の自由」を守ろうとする政治的文脈で語られはじめていたのである。思想家のアイザイア・バーリンの言葉
を借りれば、つまり、初期のリベラリズムは、「〜からの自由(消極的自由)」の擁護者として現れていたのだということだ。
 しかし、それなら、この「リベラリズム」を加速していった先に、一つの「虚無」が待ち受けているのは必然だろう。
はじめ「共同体」からの自由を唱えていたリベラリズムは(17世紀)、次第に「伝統」からの自由を唱え始め(18世紀)、
ついには、「信仰」そのものからの自由を語りはじめるのである(19世紀)。しかし、「信仰のための自由」が「信仰からの
自由」に反転してしまえば、私たちが、その「自由」を使って守るべき価値(信仰)を見失ってしまうことは当然だろう。
後に残るのは、「価値判断は誤りであるという価値判断」、あるいは一切の確信を失った「実存的ニヒリズム」(マレー)
でしかない。

(続く)