私は地元の海に住む「一塊の雲丹」の様な物かも知れない。
2018年11月08日03:10 カテゴリ:哲学
私は何時も地元の暴力団に対しては憤りを感じていたが、それはおおよそ

「苦労してみればそんなことは絶対に他人に対しては行わないだろう」

と言う所があったから、私は多分深層心理のなかでその思いを伝えたい。
と言うお節介な所は何時もあったじゃないか。と思う。
それは多分、お節介な事かも知れないが、怨念返しと違うと思っていて。
何というか、「決死の覚悟の自己表現」の様な物であり、「趣味の絵画や自分の考えを主張する」そのままのことだったと思っている。

「貴方方には少し認識の至らない部分がある」

と言う部分において、それを理解して頂ければ、「その歪んだ認知」も改善され、「地元の活力もまし、あらゆる問題を解決させられる」と何時も普段から、感覚的に感じていたからだと思っている。

しかし、これは飽くまでも「私の自己表現」であるから、「命令や強制」と言った類いの物では無く、「ただ、そこにある望まれる物」と言う居場所を創り出す事に腐心した感覚はあって、「私にはその行い」がどう言った結論を導き出すのかは、全くの未知数なのだ。

しかし私は何時もそれをせざるを得ない状況に追い込まれていたと感じていて、そこによる迷惑はあったかも知れないが、またそれをせしめ、私にこの状況を強いたのも周りと言う訳だと感ずる。

故に私は「海に住む一塊の雲丹」の様な物かも知れない。