この「日本」という国号は、663年の【白村江の戦い】で負けた天智天皇の後を継いだ大友皇子を、
【壬申の乱】で地方豪族を味方に付けた大海人皇子が下して、天武天皇となった時から始まっていますが、
この国号は、701年に完成した大宝律令によって正式化されています。

また、この「日本」という国号は、遣唐使の粟田真人が唐に出向いた際、女帝・則天武后によって承認を得てもいます。
このことから【白村江の戦い】で負けた日本は、唐の支配下に置かれたと見ていいでしょう。

そして、この則天武后が、道院蟄居中に先帝の間に生まれた子が日本に送られて、【藤原不比等】となっていますが、
これは【白村江の戦い】での敗戦処理の進駐軍のようなものであり、裏の日本史では、これにより日本は「東唐」という兄弟国扱いになったと見られています。

この【藤原不比等】の上陸が、日本における●神系の始まりであり、過去の日本の歴史書を焚書し古事記・日本書記を通じて歴史を書き換えたとされています。
藤原氏は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域に、広大な藤原京(日本最初の条坊制の本格的な唐風都城)を建設しています。

その後、都は710年に平城京に遷都。さらにその後、京都に行くのか、奈良に留まるかの政変「藤原薬子の変」が起きていますが、
最終的に●神・●孫・●祇の三勢力で日本を共同運営することを誓約して、今日の日本があるのです。