さて、日本人が当時「武力が無ければ身の破滅」を実感した事件がある。
長崎事件である。

★長崎事件★
1886年8月1日
李鴻章は「我が清国海軍は以て日本に観して之を懾伏(恐れひれ伏すこと)せしむべし」として
北洋艦隊の定遠、鎮遠、済遠、威遠(※1)の四隻の軍艦を長崎港に日本政府の許可なく入港したさせた上に
水兵が上陸し騒ぎを起こした事件。

上陸した水兵達は長崎の遊郭で騒ぎを起こし日本の警官がそれを取り締まった。
翌日、わざと交番の前で小便をした水兵に日本人警官が注意したのを切っ掛けに
日本人一般市民を巻込んで大乱闘に発展し双方に死傷者が出た。

日本政府は日清修好条規13条に基づき、騒ぎを起こして清国領事館内に逃げ込んだ水兵
を逮捕して処罰しようとした。(※2)
しかし清国政府は「清国水兵を殺すための日本の計画的な犯行」として日本人巡査の処罰と
死傷した水兵への賠償を要求。
最終的に李鴻章の「戦争も辞さず」という強硬な圧力に屈し、
日本側関係者の処罰と水兵への賠償3万7千円(現在の貨幣価値7億〜10億円)を支払った。

何故日本はこのような理不尽な要求に従ったかというと、
当時の清国の兵力108万人に対して日本は7万8千人であり、
もし、この事件がきっかけで戦争になったら簡単に東京を制圧され、九州を取られると予測されていた為。

そしてこの事件の後、日本人はプッツン切れた。

あのクリスチャンの内村鑑三でさえ
「文明国として不実のシナに対しては鉄血を以って正義を求めるしかない。
永久平和の為に戦え」と言った。

そして日本は富国強兵を行い8年後、清国を打ち破るのであった。