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日本人は外交下手
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2010/09/24(金) 12:46:02ID:zyYcqcdd
歴史を見ればわかるように朝鮮征伐(秀吉)、300年にわたる鎖国(家康)、明治以降の日本の海外進出、そして敗戦。
1か0かの選択。外交下手。
戦後の歴史を見ても自民党政権の世界最底辺の外交下手国。そして外交音痴の民主党。
それを振り返って日本人自らが反省すべきこともあると思うのだ。
0229名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2010/11/05(金) 18:05:10ID:zCd9Rn4B
>>149-150

日華事変
http://www7b.biglobe.ne.jp/~senden97/nikkajihen1.html
 日華事変は北京の南に流れる蘆溝河に架かる蘆溝橋で日本とシナの軍隊が衝突し、やがてシナ全土に
戦線が拡大していくのですが、最初に闇討ちを仕掛けてきたのはシナのほうです。蘆溝橋の近くで日本軍が
夜間演習をしていると暗闇から銃撃され、さては国民党軍が撃ってきたのだと判断し、やがて戦闘が始まってしまった。
 ところが撃ってきたのは国民党ではなく、もちろん日本軍でもなく、じつはシナ共産党のスパイであったことが
今では定説となっている。共産党員の兵士向けのパンフレットに『蘆溝橋事変はわが優秀なる劉少奇同士の指示
によって行われたものである』と自慢した記述があった。
 間違いなく蘆溝橋事件は毛沢東ひきいる共産党軍の謀略だった。当時の共産党軍は国民党軍との内線に
連敗につぐ連敗で、次々と活動拠点が奪われていった。そこでこのじり貧状態を打開するために国民党軍と日
本軍を戦わせて漁夫の利を得ようとしたわけです。
 狙いは的中したということになりますが、まもなく一週間ほどで国民党軍も日本軍もどうも様子が変なことに
気付いて銃撃戦はいったん沈静化し、日本軍は事件不拡大方針をとり現地協定を成立させる。
 しかしそれから3週間後に北京東方の通州という町でシナ保安隊によって、残忍きわまりない手口で、
日本人居留民約260人が虐殺される事件が起きた。その『通州虐殺事件』は戦後の教科書はもちろん歴史年表
にもマスコミ報道にも出てこない。まるでタブーのようになっているが、本当にあったことです。これで当時の
日本の世論は激怒します。
0230229
垢版 |
2010/11/05(金) 18:06:25ID:p44c17GW
 さらに通州虐殺事件に追い討ちをかけるように、蒋介石の国民党軍は、上海周辺に正規軍10個師団を配置して
日本に圧力を加えて挑発し、それに応戦したところ、今度は上空から同胞のシナ人、そして日本人、欧米人の区別無く、
無差別に爆撃、空襲をかけるという暴挙にでてきた。
 『日華事変の引き金を引いたのがシナ側』であることは明白である。あの『東京裁判』でさえ、この大東亜戦争の
端緒でもある『日華事変を不問にせざるを得なかった』のもこうした事実があったからにほかならない。
だから、日華事変に対して日本人は不当な罪悪感など持つ必要はない。とにかく『始めたのはシナ側』ですから、
これは、絶対に言いつづけなければならない。


■[歴史]尼港事件、通州事件、済南事件
http://d.hatena.ne.jp/mao_mk68/20050809/
0231名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2010/11/05(金) 18:07:21ID:p44c17GW
ビジネスモデル研究会
2010.10.30 by admin
閑話休題〜尖閣諸島問題に関連して
ttp://www.unitedcom.co.jp/blog/2010/10/post-27.html
月刊Will12月号に堤堯氏(元文芸春秋編集長)のコラムが掲載されたのを一読した。
それは盧溝橋事件から通州事件、大山事件を経た日米戦争までの経緯における中国共産党の動向を
推察したものである。
まず盧溝橋事件の真相については、中国共産党謀略説、日本軍謀略説、偶発説の三説があるそうだが、
盧溝橋からはじまる各事件の関連性と、蒋介石率いる国民党と共産党の争いから推察すると、
中国共産党謀略説が有力という結論になっている。
もともと日本は支那内陸部へは不拡大方針を持っていたのだが、毛沢東を始めとする共産党は
国民党蒋介石と日本を闘わせることで漁夫の利を得る事を目標とし、国共合作を画策していたらしい。
盧溝橋事件のきっかけはいまだ不明ではあるが、1937年7月7日の数発の銃声から始まった事件は、
結果、日本軍の友軍である北方軍閥・憑玉祥に属する宋哲元が率いる二十九軍の制服を着た兵士の
死体が発見された。
そして、その3週間後7月29日に二十九軍の保安隊により通州事件が起こった。

(略

一方、日本国民は激怒したが、日本政府は通州事件を受けても、なお支那内陸部での不拡大方針は維持し、
7月29日夜に昭和天皇は近衛文麿首相に「外交による問題解決」を指示する。
外務省は、南京在住の紡績同業会理事の船津辰一郎氏を通じて南京政府へ接触を図った。
船津氏に託された案は「満州事変以後、日本が華北で獲得した既成権益の一切を放棄する」というものであった。
しかし今度は8月9日に上海で大山海軍中尉が惨殺される事件が起こった。

(略
0232231
垢版 |
2010/11/05(金) 18:11:23ID:p44c17GW

ここに至っては、日本国内の国民感情は憤激し、支那との和平は水の泡と消えたとのこと。
堤堯氏はコラムの終わりに、保安隊や上部組織の二十九軍には中国共産党の秘密工作員が多く潜入して
いたと指摘する。また二十九軍や保安隊の動きにはつねにクレムリンの影が付きまとっていたとも指摘している。
日米戦争以前にアメリカ軍用機を中国軍機に偽装して、日本爆撃を企てたフライングタイガーを編成した
ラフリン・カーリーや、真珠湾攻撃に誘い込むためのハル・ノートを起草したハリー・デクスター・ホワイトも
スターリンのエージェントであったと指摘している。

(略

 月刊WiLL 2010年12月号
 ttp://web-wac.co.jp/magazine/will/201012w
  連載 
 ■堤堯「ある編集者のオデッセイ」第108回



ゾルゲ事件
ttp://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-44-3.html
陰謀の海・真珠湾
ttp://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-44-5.html
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