パゾリーニの発言

(『ソドムの市』は)搾取する側と搾取される側との関係(.....)が象徴する
性的隠喩として構想されたものです。ファシズムもサディズムも、人間をモノ
に変えてしまうことを特性としている。その相似性がこの映画のイデオロギー
的基盤です。ある一個人が別の一個人の全面的な屈従によって享受する快楽
(......)はまさに資本主義体制下の経営者と労働者の関係を現しているのです。

サドが「神」と言っているところに、わたしは「権力」を当てはめたのです。
サドの思考への暴力に対抗し、わたしは肉体への暴力に抵抗する。実際は正確に
言えば<歴史>全体を通していろんな形の権力(宗教的なものであれ、封建的な
ものであれ)に搾取されてきたのは常に肉体でした。しかし、現在わたしたちは
この図式を立派に補完してしまったと言っていいでしょう。搾取されているのは
今や思考も肉体も両方になったという意味でね。消費主義がもたらす見せ掛けの
解放感は、わたしたちに突然、昔のタブーを犯す許可が与えられたことから来て
います。しかしこれは昔よりも強い抑圧と同じことなのです。なぜなら『ソドム
の市』のある登場人物が言っているように、「何も許されていない社会では、ど
んなことだってすることができる。ところが特定の何かが公認された社会では、
特にその何かだけしか実現してはいかんとうことになる」からです。


『パゾリーニ あるいは<野蛮>の神話』ファビン・S・ジェラール著
内村瑠美子/藤井恭子 共訳 青弓社 1986年

より。