ダークナイトは編集、テンポがまるでダメ。
ショーンヤングが髪ほどいてピアノ弾く場面。
こういうのをノーランは絶対撮れないと思う。
あの時間が止まるかのようなきれいな映像こそが傑作である瞬間なのだから。
画面いっぱいに輝く俳優の表情、これが映画の素晴しさだろう。
切れた口の中をゆすぐハリソンフォードとか、この映画やっぱりすごかった。
傑作とはこういうもの。 確かにブレードランナーは印象的なシーンが沢山あるね
リプリーがセバスチャンを訪ねるために歩いてるとこや
デッカードのバルコニーから、遠くでパトカーのサイレンが
聞こえるとこが印象的だった
ダークナイトは、バイクが加速してエンドロールに
入るところは印象的だったけど ハリソンフォード、ショーンヤング、ルトガーハウアー、ダリルハンナ、ジョアナキャシディ・・
とにかくキャスティングがばっちりハマってて、その演技だけでも見ごたえ十分。
リドリースコットは人物描写をしっかりえがくので好きな監督。
ノーランもこの監督を当然意識してるはずだけど、いかんせん表面的な映像表現を真似してるだけ。
あとブレードランナーは人の死の重さをちゃんとえがいてるところが肝。
ノーランって人が死ぬ場面をほんとに粗末にえがく。この人の人間性が伝わってくる。
オッペンハイマーでも犠牲者のことが頭にないようで、ダークナイトもその程度の映画だということ。 ノーランと比較するべき映画監督は、
リドリースコットとかデイビッドフィンチャーじゃなく
ローランドエメリッヒ、マイケルベイあたりのように思えてくる。 ローランドエメリッヒは最近までノーランと同じくらい嫌いだったけど、
今見返してみるとそんなにひどくない。
ゴジラもギャレスエドワーズ作品よりもサービス精神いっぱいで楽しめるし、
パトリオットも単なるメルギブソン映画じゃない家族愛が伝わってくる。
ヒースレジャーはこのパトリオットでの演技がいちばん素晴らしい。 あとホワイトハウスダウンでのマギーギレンホールがかっこよくて少し驚いたくらい。
ダークナイトとはまったく違ってて、この人こんな役も似合うんだって意外だった。
エメリッヒが演出すると俳優はとても魅力的に映える。
題材は大味で娯楽色強いけど、この監督は器用なタイプだと思う。 マイケルベイもまたエメリッヒ同様にとても器用な監督。
アルマゲドンでの編集力・テンポをノーランは出せなかった。
そこがノーランの限界で、アクションを撮れないと言われてる所以。
アルマゲドンはT2以来のSFアクションの傑作だと思うし、
トランスフォーマーはジュラシックパークを超える映像革命だった。
ドラマ部分の演出もすぐれてて、ノーランはこれが出来ない。
だから暗い雰囲気で誤魔化してる。 ▼岐阜県恵那市で行われている変態であり変質者でもある
アルファラジュのおっさん(笑)によるモノと思われる付きまといの特徴
・暇そうなガチホモ男が被害者男性に付きまとう
・目の前で野糞をする(ブログに画像あり)
・被害者が必ず通る道の『特定の場所』に必ず人や車が現れる。複数現れる場合もある
・その場所は定期的に変わる。
例えば最初はある道のT字路、次はそのT字路から20m程離れた空き地前、次がまたそこから数十m離れた別のT字路
という感じで同じ道で複数のポイントが設定される
自分が通る道の場合、九ヶ所もポイントがある
またその道全体に人が点在している場合もある
・付きまとっている奴の顔、場合によっては名前、住所、会社名など一切隠さず、逆にアピールする
コチラのカメラに写る様に目の前で徐行しマスクを外す
タイミングを合わせて加害者自身の家を出入りする
・他県ナンバーをよく見かける。
付きまといの為に数十キロ離れた場所から来るバカもいる
・一家総出、病人も医療機器持参で現れる
・同じヤツ、同じ車と何度も遭遇する。(以前は全く無し)
・年単位の長期に渡る全く効果の無い非効率な付きまとい
・イタズラ電話も何度もかかってくる
掲示板に書き込んだ後にイタ電がよくかかってくる
・ネットでも付きまといがある。プロバイダーにもガチホモ協力者がいる
掲示板に書き込むとチン出しなど変態画像が頻繁にリプライさせる。
またよく見るサイトでガチホモ系やスカトロ系の動画
(ガチホモが糞を食う糞食動画などガチホモの変態系動画)をタイトルを偽ってコチラに見させる。
以上の様にアルファラジュのおっさん(笑)の特徴は『ガチホモ&スカトロの変態』です♥ ベイ作品のアルマゲドン・パールハーバーに出演したベンアフレックは、いちばん嫌いな俳優だった。
デアデビルやジーリでも全く魅力が感じられなかったから。
それが監督もやるようになってから印象が一変した。
ベンアフレックのバットマン役はいちばん似合ってて、様になってた。
ザ・バットマンの唯一の不満点は、バットマン役のロバートパティンソン。
テネットからの流れでそうなったのだとしたら、残念な人選だった。 ザ・バットマンは、当初ベンアフレックの監督・脚本・主演企画だったとのこと。
ジャスティスリーグでの舞台裏のごたごたで体調を崩し、嫌気がさしたとか。
本来ベンアフレックこそがバットマンやアメリカを体現すべき存在だと思う。
そしてそうならないのが問題であり、世の中の現実なのだろう。 初監督作品のゴーンベイビーゴーンでその才能に驚嘆した。
ここまでのレベルの映画自体そんなに多くないのでは・・とさえ思った。
アメリカの暗部、社会問題を鋭く扱った題材に、真正面から向き合う気概を感じた。
ノーランにこんな映画が作れるだろうか? ゴーンベイビーゴーンで正義のあり方をえがいて、
続くザ・タウンで悪のあり方をとことん突き詰めていく。
現実の世界こそがゴッサム以上に不条理で理不尽なもの。
そんな映画を撮ったベンアフレックの演じるバットマン。
内面からにじみでる説得力があった。 ドミノに主演したベンアフレックを見て、
明らかにノーラン作品への対抗心が感じられた。
映画の主役は監督ではなく、演じる俳優なのだ。
それを身をもって証明するつもりなのだろう。 ローランドエメリッヒは、監督の仕事について
「80パーセントはキャスティング」とコメントしたとか。
真理をついた言葉だと思う。
いい映画は俳優の演技が印象に焼き付いてくる。
それはおぞましいような押し付け感とは違うもの。
人間味がじわっと伝わってくるもの。 デイビッドフィンチャー作品のゴーンガールは、
セブン・ファイトクラブ以来の同監督の傑作だと思うが、
これは主演のベンアフレックの演技力によるところが大きい。
テレンスマリック作品のトゥ・ザ・ワンダーでも感じられた。
どちらもベンアフレックだから演じられた難役。
主演俳優の力量を感じさせる2作品だった。 ちなみにノーランもベンアフレックもマリックを敬愛してるとのこと。
ベンアフレックは監督業に挑戦する際に、直接相談に行ったらしい。
ノーランがマリックから映像技法だけを模倣しているのに対して、
ベンアフレックは作品性そのものを学ぼうとしている。
それぞれの監督作品からそれが明白に伝わってくる。 テレンスマリックの作品からは反骨精神が一貫して伝わってくる。
商業主義の娯楽作品とは対極に位置するもの。
ノーランはこの監督から何も学んでいない。
自分の名声に利用してるに過ぎない。
マリックの映画が哲学的で難解なのに対して、
ノーランの映画は哲学ぶって難解に見せかけてるだけ。
雰囲気だけの演出にマリックの映像技法を取り入れてるに過ぎない。
だから画面が常に噓くさい。 そもそも解答があってはじめて「難解」といえるのであって、
答えを用意してないものを難解とは言わない。
「解釈を観客にゆだねる」にしても、
「なぜゆだねるのか」という疑問に対しての答えが必要だろう。
そしてそれすら用意してないのは、
もはやただのでたらめということである。 マリックのツリーオブライフの冒頭の語りの、
「なぜ人は人を支配しようとするのか」という台詞は印象深い。
ベンアフレックは夜に生きるの冒頭で、
「世の中のルールはでたらめだ。作ったやつは守りやしない」と語る。
どちらもシンプルで深い、本物の知性が感じられた。
ベンアフレック監督作品ではおそらく最高傑作のアルゴでは、
冒頭から素晴らしい映像で圧倒される。とにかく臨場感が伝わってくる。
離れ業とはまさにこの映画のこと。
ふとレッドフォードが頭をよぎった。
マリックの映像表現は確実にベンアフレックに受け継がれている。 ノーランが尊敬する監督と言えば、キューブリック。
キューブリックもまた娯楽映画から遠い異才。
ノーランはこの監督から一体何を学んだのだろうか?
マリック同様に利用してるだけではないのか。
ヒースレジャーがジョーカー役に時計じかけの〜を参考にしたのも、
ノーランが指示したからなのだろうか。
どちらにせよその選択自体が間違ってる。
この時点でこの映画は作品として失敗してる。 オッペンハイマーを持ち上げている風潮には政治のにおいがする。
ダークナイトの時と似た雰囲気がする。
ノーランは祭り上げられた被害者なのかもしれない。
娯楽を装ったプロパガンダ映画、それがノーランの映画なのかもしれない。
そうやって視点を変えれば、ノーラン作品は読み解けるかもしれない。
メディアを通じて批判意見をほとんど見かけないことについても。
深読みするのがノーラン作品の楽しみ方なのなら、なおさらである。
ダンケルクそしてオッペンハイマーをなぜ撮ったのか、そして何を伝えたいのか? 個人的にはオッペンハイマーでオスカーを獲ってほしい。
史実に基づいてるので、作品として破綻してないからその資格がある。
ノーランからしたらおそらくインターステラーで獲りたかっただろう。
10年越しの栄冠をどう感じるだろうかという点で興味がわいてくる。
オスカー作品は年々多様化して、もうたいていのことでは驚かなくなった。
そしてオスカー受賞うんぬんは作品の良し悪しのあくまで参考に過ぎない。
ついでに言うなら興行成績もまた同様である。
色眼鏡をはずしたうえでノーランの映画を面白いと感じられるだろうか? ジェイムズキャメロンもタイタニックで作品賞を獲っている。
タイタニックは当時の興行成績を塗り替えた娯楽作品でもある。
でも正直この内容でオスカーは・・・って疑問を覚えたし、
娯楽作品としても題材が悪いなと思った。
キャメロンはたしかに演出もうまいし映像もすごい。
ただそれでもこの監督の作品は総じて面白くないって印象。
つまり何々を受賞、とかランキング云々みたいな宣伝は信用しない。
ノーランがキャメロンやスピルバーグと同列に評価されても別にいい。 デイビッドフィンチャーはノーラン作品には否定的らしい。
この話を知って少し安心した。
ファイトクラブはブレードランナーに並ぶ傑作だと思ってる。
ダークナイトは雰囲気だけで、中身のない映画だとフィンチャーもわかってるはず。
サスペンス映画で脚光を浴びた点でノーランとフィンチャーは一見似てるけど、
人間心理を描き切るフィンチャーとトリック技術を駆使するノーランは全く異なるタイプ。
ノーランのトリックは作品の中での演出ではなく、外観を装うための細工である。
言い換えたら作品に見せかけた疑似映画。詐欺と紙一重の代物。 独創性を謳いながら実態は他作品からの引用・模倣で塗り固め、
物語も設定も矛盾・破綻させたまま、説明を避け解釈を観客に丸投げする・・・
インセプションが日本のアニメ作品に酷似している指摘は知っていたけど、
続いて作られたライジングもまた同様な論議を呼んでいたとのこと。
あの遠景で橋が爆破されていくシーンまでもがそうだったのには、妙に納得。
ダークナイトでのジョーカーの爆弾装着姿も、Vフォーベンデッタに似ている。
問題は似ている点ではなく、あの場面でジョーカーの行動に違和感があること。
あの恰好で単身乗り込んできてギャングに取引を持ち掛ける光景が間抜けに見えるのだ。 さらにはパーティー会場に乗り込んでくる場面も、同様に間抜けな雰囲気がする。
カメラでぐるぐる追いながらジョーカーの独演会が寒々しい。
とにかく演出に緩急が乏しく、間延びした映像が退屈で引き込まれない。
個々の場面の見映えばかり意識してて、次の展開に連動してない。
延々続く説明台詞のやりとりを、カメラだけを動かして無理やり演出する始末。
実際出演者は単調な動作しかしていない。ほとんど舞台演劇レベル。
ノーランは撮影期間が短いことで定評があるらしいけど、それも当然。
台詞説明が大半で、大した演技を役者にさせてないから。 ノーランが脚本・監督をやらず、製作に回ったトランセンデンスやマンオブスティールは面白かった。
というか、ちゃんと映画作品として成立してたので楽しめた。
トランセンデンスのジョニーデップ、レベッカホールというキャスティングも適切で、
ノーラン監督作品でなぜこういう人選ができないのか不思議に感じる。
ジョニーデップはノーラン作品に向いてる俳優だと思う。
ディカプリオやマシューマコノヒーよりも巧く演じられる気がする。
ヒースレジャーのジョーカー役は、ジャックスパロウに似てるって声もあった。
たぶんノーランはジョニーデップの力量を警戒して避けてるのだろう。 マンオブスティールのキャスティングもまた、ベストに近い顔ぶれだった。
この人選はノーランではなく、監督を担当したザックスナイダーによるものだろう。
ザックスナイダーは続編でのバットマン役にベンアフレックを選んだそうで、
実力派俳優陣の見事な演技がこの作品の大きな見せ場だと思う。
とりわけ目を引いたのが、編集長役のローレンスフィッシュバーンと、
ロイスレイン役のエイミーアダムスで、人間味あふれる表情が物語に深みを生んでいる。
映像面でもザックスナイダーの面目躍如で、圧倒的な重厚さを演出。
ノーラン作品とは対極の、これぞアメコミ映画といった風情だった。 ダークナイトがアメコミ映画を変えたとよく言われてるけどそれは間違いで、
要はノーランがアメコミを映像化できないだけだと思う。
アメコミだけじゃなく、SFもドラマも作れない、フェイク作家と呼んだ方がいい。
その実体のない作品性はほとんどカルト宗教か悪徳商法に近いもの。
ノーランは映画を通して何を伝えようとしているのか。
何も伝えるつもりはないはず。
金儲けができればすべてよし、己の欲望に忠実たれ。
結局そんなメッセージしか伝わってこない。 ダークナイトのジョーカーの化粧顔で思い出したのは、エクソシストのリンダブレア。
なんとなくジョーカーは悪魔憑きをイメージしてる気がする。
結果的にダークナイトもエクソシストを彷彿させるようなヒットになった。
だからこの映画はアメコミよりもオカルト映画のような雰囲気である。
エクソシストは一家族の中で起こる物語で、密室劇と言っていい趣。
ダークナイトで感じた違和感がそれで、ジョーカーの場面が密室劇に見えてしまうのだ。
超能力なのか魔力なのか、事態が不自然なくらいジョーカーの思惑通りになっていく展開。
結局ジョーカーが何者なのかを劇中で説明してないため、意味不明の映画になってしまってる。 トッドフィリップス作品のジョーカーでは、物語が妄想であるかのように締めくくっている。
それはまるでダークナイトを修正するがごとく、に感じられる。
ダークナイトこそがジョーカーの妄想のような物語であり、
ジョーカーの正体がノーランなのではないか?
ジョーカーのキャラクターを利用して自分本位なシナリオを作ったのは、
前作ビギンズでの不満を晴らすのが目的だったのか。
あるいはこのジョーカーをえがきたいがためにバットマン作品を手掛けたのか。
運が味方したわけになるが、失敗も覚悟していたのかもしれない。 デントをあれほど易々と誘拐できるのなら、カーチェイスなど不要であり、
わざわざ自分からつかまって留置所を脱走するのも意味不明である。
何よりデントを誘拐などせずすぐに殺せばいい。レイチェルも同様にである。
話をずるずる引き延ばしているだけではないか?
そしてデントにしろ、危険を承知で検事の仕事をやってるはずだろう。
それが事が起こった途端にあの焦燥ぶりは一体??
そのうえいきなり「俺には二つの顔がある」とか告白する始末・・
だいたいパーティーにニヤニヤ出席してる場合じゃあないのである。 ノーランはジョーカーというキャラを自分自身に見立てることに夢中で、
ゴッサムという暗黒街を客観的にえがけていない。
その点でロバートロドリゲス作品のシンシティに遠く及ばない。
ゴードン警部などはまさに「よく今まで生きてたな」というレベルのはず。
パーティーを主催する見栄っ張りなブルースウェインと呑気に結婚話に興じるレイチェルも、
検事補である自分自身の立場の危うさを全く自覚できていない様子。
だいたいこの映画に出てくる人間はみんな余裕っぽく気取ってしゃっべてるだけで、
そのうそっぽい演出が作品としての浅ましさに拍車をかけている。 ロバートロドリゲス最新作のドミノはインセプションに対する解答である。
インセプションだけでなく、ダークナイトやテネットも含めたノーラン作品への答えだと思う。
トッドフィリップスやマットリーヴスが、ノーランのバットマン作品を手直しし、
ロバートロドリゲスとベンアフレックが映画の正しい在り方と提示してみせている。
ノーランの映画は観客に催眠映像を見せ思考能力を奪っている。
それはちょうどドミノに出てくる悪役と重なる。
ロドリゲスはノーランへの皮肉を込めてこの映画を作ったのかもしれない。
ベンアフレックもバットマン役に続いて、ディカプリオ演じる主人公役を買って出たのだろう。 ザックスナイダーの最新作レベルムーンを観ていたら、
チャーリーハナムがヒースレジャーに見えてくる。
もし今も生きていたらこんな感じの俳優になってたかもしれない。
ダークナイトの成功と引き換えに、可能性を秘めた俳優を失ったことについて考えてしまう。
ノーランがもてはやされるようになって、スター俳優がめっきり生まれなくなった。
スピルバーグやジェイムズキャメロンの時代とはこの点が異なる。
ノーランはネームバリューのある俳優を起用するスタイルなのだが、
作品の中で俳優の魅力を引き出さず、ネームバリューだけを利用している印象が強い。
すでに出来上がっているものを使い捨てして、自分だけ得してる印象が強いのだ。 ノーランは映画を革新したというのも間違いである。
単にまともに映画を作れないだけなのだ。
時系列を入れ替えたりするのは、ただの目くらましに過ぎない。
要は普通に物語を演出できないから誤魔化してるわけである。
マーヴェル映画が台頭する下地を作ったのはノーランだと思う。
リアルとファンタジーの境界線が曖昧な、なんとも気持ちの悪い映画が増殖した。
ノーランは、ファンタジーもリアルもえがけない思考回路の持ち主である。
それをメディアが持ち上げたことで、映画が壊れてしまったように思う。 ブレードランナーは、ノーランの映画監督を志すきっかけになった作品とのこと。
そしてバットマンビギンズではルトガーハウアーをキャスティングし、
ゴッサムシティのデザインはブレードランナーの街並みを意識したらしい。
ブレードランナー自体、製作当時ゴッサムシティをイメージしたという裏話もあった。
たぶんノーランではブレードランナーの世界は当然えがくことはできないと思うし、
ドゥニヴィルヌーブによる続編にしても、十分にはえがけてないように感じた。
ブレードランナーをえがけそうな監督は、二人思い浮かぶ。
ローグワンを手掛けたギャレスエドワーズと、レベルムーンのザックスナイダーである。 ゴジラとローグワンどっちも大幅撮り直しをしてる筈だけど
特にローグワンは別監督を立てて大規模な追加撮影をしたみたいだし 251さんへ。
ローグワンの件は自分も知ってるんだけど、ゴジラは知らなかった。
どこまでがギャレス本人の撮った映像なのかまでは確認できないものの、
モンスターズを含めて、この監督はリドリースコット的世界をえがけそうに思う。
ザックスナイダーに関しては、レベルムーンを観てより強く感じた。
リドリースコット同様にCM関係の仕事で実績を積んできてるところとか。
ペドゥナ演じるサイボーグが登場する場面での映像がとくに印象的で、
街並みや衣装、雰囲気は今まで観てきた映画でいちばんブレードランナーに近かった。
ザックにブレードランナー続編作らせたら、ヴィルヌーブよりはうまく作れると思う。 ついでにドゥニヴィルヌーブという監督についても。
なんかノーランに続く逸材のように扱われつつあるんだけども、
ノーラン同様に、雰囲気だけの映像表現が過大評価されてる印象。
メッセージもブレードランナー続編もデューンも、個人的に面白くなかった。
ブレードランナー2049は、ブレードランナーの続編には見えなかった。
冒頭の格闘シーンですでにこちらの気持ちは離れてしまった。
ハリソンフォードが登場しても違和感が消える気配もなく、あの爆発シーン・・
何よりこの監督の映像表現が、ブレードランナーの本質にマッチしてないように思う。 リドリースコットの持ち味は、鋭敏な感性に裏付けされたセンスと切れのある映像表現だろう。
こればっかりは頭でっかちで鈍感なの 254より続き。
頭でっかちで鈍感なノーランやヴィルヌーブには真似できないことである。 ドゥニヴィルヌーブがブレードランナー続編に続いてデューンを撮ったので、
前作ブレードランナーと旧作デューンに出演したショーンヤングが頭によぎった。
ブレードランナーでのその魅力に反して、デューンでは全く存在感がなかったのを思い出す。
これがリドリースコットとデイヴィッドリンチとの差であり、前者の作品が好きな理由である。
ノーランがなんとなくデイヴィッドリンチに似ていることに気づいた。
能面のような登場人物の不可解な行動で当時話題だったツインピークスなんかは、
ノーラン作品に非常に似た雰囲気がする。
リンチもノーランもSFには致命的に向いてない。ヴィルヌーブも同様にである。 ダークナイトってバットマンである必要がないよな
リアル演出すぎてかえって浮くんだよ蝙蝠スーツとかジョーカーのナースコスプレとか
いやいやリアルならそうはならんやろって リンチのDUNEは制作経緯があれすぎて流石にリンチ可哀相だ
ホドロフスキーのDUNEが見てみたい アカデミー賞授賞式では作品そっちのけで人種問題が論争になってるのも、
なんとなくノーランらしい幕切れに映った。
ノーラン作品から常々感じてきた、その嘘臭さの集大成が今回の騒動だろう。
もうそろそろ物事の真実を直視すべき段階が来ているように感じた。
商業映画と芸術映画を混同してはいけない。
ノーランはそれをやってしまっている。
その走りとなったのがダークナイトという作品である。
今回の騒動は映画のあり方を考え直すいい機会になるはずである。 アンハサウェイはオスカー受賞した時のスピーチがバッシングに呼び、
キャリアの絶頂が一転どん底に突き落とされた、という話を最近知った。
その苦境の際にインターステラーに出演させてくれたノーランに感謝してるそうで、
それは美談としていいのだが、同時に近年の映画業界の問題を痛感させられる裏話だった。
『プラダを着た悪魔』や『ジェイン・オースティン』での好演を知る立場からしたら、
今のエマストーンやマーゴットロビーよりも上の位置にいていい女優に思えるのである。
ダークナイトライジングもインターステラーも、アンハサウェイの魅力はあまり発揮されていない。
本来この女優とノーランの立場は逆でないといけないはずである。