>>693様。マンガーノが述べていたのは、身ごなしなどを厳しく指導されて
その際に「母はそうじゃない」などと監督が言っていて、自分に母親を演じさせようとしているのが分かったという話でした
その意味合いについては特に述べていません。ですから、ここからは私の想像ですが
ヴィスコンティは、タドジオに(或いは若さと老い、美と醜、そしてどちらも逃れられない「死」の物語に)
自己投影している部分があったのではないかと思います。
タドジオの一家もアッシェンパッハも、マンの原作イメージに比べると謹みに欠ける印象がありますが
(妹達は原作通りお行儀いいですが)これはドイツ人による原作、
さらには同じ貴族といってもポーランド人とイタリア人の気質的違いがあるのかも知れません
日本人でも家族出身者のほうが中産階級より却ってざっくばらんで奔放ということがあります
自信があるというか、他人の眼をいちいち気にしないので、時にハシタナク見える類ですね。
映画は視覚的ならびに聴覚的に分かりやすくしなければならないので
作家を音楽家にかえてマーラーを多用するなど、原作と改変している理由は分かりますが……
イタリア語で、まずイタリア人に向けて作られたのですから、彼らに分かりやすい貴族像なのでしょうか。
つなみにヴィスコンティ作品は全般に好きですが
個人的には「山猫」「夏の嵐」「若者のすべて」「ゆれる大地」「郵便配達は…」の順で好きです。
考えてみると、皆、自国の話ですね
「ヴェニスに死す」はビヨルンが美しいので別格。「神々の黄昏」はドイツではなくイタリア貴族にしか見えないというのが正直なところです
良くも悪しくもヴィスコンティはイタリアの輝きを描くことに巧みだった…と云うことでしょうか