昨日のラジオのキーワードは「応援消費」。
その意味は明確で、応援したいと思う企業や個人の商品を買うことである。
困っている人を助けたいとか、純粋に好きだから関わりたいとかその動機はいろいろと考えられる。
東日本大震災のときに被災地の生産物を購入したとか、鎌倉の花火大会が財政難で中止になりかけたときに寄付が集まり開催できたことなどが語られた。

社会情勢の細部まで見渡すことができるという優れた解像度がネットの利点である。
本当に必要な人のところへ応援したいと思う人が金を効率的に届けることがクラウドファンディングによって可能となった。
クラウドファンディングによって、ウクライナへの寄付金集めの活動を広瀬すずがしていることを長濱は賞賛する。
障害者の社会参加を可能とするロボットカフェの創設のクラウドファンディングに絡んだことをMCは述べる。

ロボットカフェの代表の吉藤健太郎を始めて知ったのは4年前の日テレ『NNNドキュメント』だった。
そのときには吉藤オリィというペンネームで出ていて、ロボットカフェの構想はまだなく、分身ロボットを用いることで自分の経営する会社に障害者を雇用しているといったものだった。
観始めたときにはう〜んと思った。
AIも搭載されていないし、最先端の技術があるわけでもなく、オリジナリティも感じられず、こんなもん造ったからといって科学論文の提出もできやしない。
だいたいテレビ電話で代替できるじゃないか。
障害者を使って一山あてようとする山師だなと軽くいなそうとした。

ところが、観ていくうちにその思いは変わっていった。
映し出された吉藤の幼少期の写真は腺病質の上に偏屈で根暗で取っつきにくいという印象で、整った顔立ちながらも経営者となった現在でもその痕跡は残っているように感じられた。
雇用している障害者の中に重度のALS患者がいて、その男と真摯に向き合い信頼されたのは吉藤のそういう生い立ちのためだったように思う。
これもオリジナリティがあるというわけではないが、文字配列されたパネルの上に視線を移動させることでコミュニケーションを取れる機能や歩けるような機能をロボットに付加するため、睡眠時間を削ってまで作業に没頭していた。
ALS患者に生きがいを持ってもらいたいという情熱はおそらく孤独の時間が多かった吉藤の幼少期に関係していると思う。
ぬくぬくと生きてきた者にはALS患者の孤独や苦しみは想像できても、自分のことのようには実感できないだろう。
エッセイ集『傍観者』収録の『死と復活』の中で、エル・グレコの絵画『聖マウリシオの殉教』の主題をオルテガは次のように解説している。
>各自己自身の底へと降りたったのに、正にそこにおいてこそ他者と出遭ったとみえるのである。
自分の中の孤独を掘り続けていったら、もっと深い孤独を持つ人とまみえ、テクノロジーを活用することでそれを解消したいというのが吉藤の動機だったことは間違いない。
蛇足ながらも、9年前に西洋美術館でエル・グレコ展が行われたとき、エルエスコリアル修道院が貸すのを拒否したのか『聖マウリシオの殉教』は出展されず実物を鑑賞できなかった。

たとえば親友の結婚式のとき、海外にいてに長濱ねるが出席できないという場合、大きなディスプレイで通信して等身大で映せば式は大いに盛り上がるだろう。
だが、頚椎損傷で寝たきりとなった父親が愛娘の結婚式に出席したいと思うときにはそういうデバイスは適切ではない。
その姿を見た出席者は式を楽しめないだろうし、同情される父親のほうも同様である。
声を出したり目を光らせたり首を回したり手を挙げたりするというリアクションする機能がロボットには備わっている。
自分の姿を見せないながらも、コミュニケーションが取れ、参加していると出席者に思ってもらえ、その意識を本人も持つことができる。
ロボットカフェで働く障害者もタスクを越えたチーム感をロボット越しに持つことができていることだろう。
恵まれない人たちに生きがいを持ってもらえるように今の技術での最高のサービスが提供していると言ってもよい。
最先端のその先を追い求めることだけがオリジナリティとなるのではなく、既存のものの組み合わせでも今までになかったサービスを最大限に提供できるのなら、それもまた立派なオリジナリティである。