昨日からのスレで、改名で欅坂のアーティスト性を確信してこの期に及んでファンになったと書いたら、意味不明だとコメントもらったのと、10プーの話題が盛り上がっているのとで、俺なりの捉え方を書いてみた。
自己満なんで死ぬほど長いよ

<まず前フリ>
そもそも芸術って、これは芸術であるという信念のことなんだよね。
例えば歌だって所詮は空気の物理的な振動に過ぎない。でも、歌い手と聞き手が、この空気振動は芸術だと信じるから歌は芸術になる。
で、芸術には2つのアプローチがある。一つは個性で突き抜ける、もう一つは技術を極める。欅坂の場合は個性だね。

自分が見た限り(ファン歴浅く代理センターはよく知らない)欅坂のパフォーマンスは平手さんの個性が突き抜けてて、それは映画からもわかる。
そんな平手さんの凄みは、フィクションを真実にする稀有な力だと感じるし、それをグループとして引き立てたのだから欅坂はアーティストそのものなんだよね。

<ここからが本題。>
実は、平手さんの表現技術については、失礼ながらアイドルの枠内だと思っている。(だから平手さんには、これから色々な作品に携わって技術を磨いて欲しい。)
欅坂の表現の鋭さは、平手さんの個性を、技術ある作家チームがきちんと引き出し、それを21人のパワープレイで押し切ることにあったというのが俺の見方。
メンバーの平手依存が映画で描かれたけど、平手さんもメンバーに依存してたと見受けられた。

アーティストとしての欅坂は平手さんの個性が全ての火種だから(ユニット曲除く)、平手さんが表現できないものはやらない、という理由で10プーを流した(大人たちの?)決断は圧倒的に正しい。
10プーが欅っぽいか否かとかは心底どうでもよくて、センターが表現できないという理由で10プーをやらないという態度が他グループに無い欅らしさ、ということ。

俺は、作品を作るのは作家の生き方だと思ってる。
欅ちゃんは大人たちがプロデュースするアイドルグループだけど、表現できないものはやらない、という姿勢を持ってくれて純粋に嬉しかった。
(客観的に見たら大ブーイング浴びて当然ではある)

それから、守屋さんの平手抜きは考えられないという当初の発言は叩かれてるし本人も考えを改めてるけど、この発言は正しいと思ってる。
個性は他人と交換可能なほど安っぽいものじゃない。

一方で、世界観の構築を平手さんに依存する姿勢は、成長する姿を応援するアイドルとしてはダメだろというのもある。
映画では、代理センターを通じた小池さんの成長が描かれてた。
単なる平手さんの真似事ではなく、いかに自分の色を出すか模索していた。
平手が秋冬ならば、私は春夏をーー
我々は、こういう成長する姿を見れると本当に楽しい。

改名は、欅坂がアーティストであるという事実を確認すると同時に、メンバーが逞しく強く成長したことをデモンストレーションしたと思う。
改名にあたり、小林さんの、目の前に何かがチラつきながらパフォーマンスするのはしんどい、という言葉に俺は感動した。
“真に本物”だった旧欅坂の作品の”真似事”をするくらいなら、”新しい本物”を作ろうか、という発想かもしれない。そんな小林さんの表現者としての言葉を聞いて、俺はひたすら敬意をもった。
小池さんの、欅坂の思い出は宝物として...の下りは、これからは自立してやっていくという決意。映画にあった初期の姿...平手さんがいないと総崩れする女の子たち...はそこにはなかった。

菅井さんは、新グループでは人生の負の感情を乗り越えた先にある景色を表現したいと言ってるよね。
旧・欅坂の表面的な真似事をしたり逆に頭から否定したりするのではなく、一人一人の個性を生かしながら”新しい本物”を作りたいという思いを感じるし、それは平手さんへのエールにもなるんじゃないかな。

身も蓋もないこというと、新グループのカラーは乃木坂化して、”ただのアイドルユニット”になるというのが妥当な予想だと思う。
でも、もし夢を見ることが許されるなら、新グループにはクリエイティブで成熟したユニットとして、理想と現実の狭間でもがく姿を見せて欲しいな、と思う。

改名挨拶の映像に映るメンバーは、デビューの映像と比較して、とても強く逞しく、素敵で魅力的な女性たちだった。

おやすみ。