理由がどうあれ、人がなんと謂へ
悲しみが自分であり、自分が悲しみとなつた時
人は思ひだすだらう、その白けた面の上に
涙と微笑を浮かべながら、聖人たちの古い言葉を
(中原中也「冷酷の歌」)


被害者は被害者で人生を閉じたからこそ、生前の人格や失われた将来が美化されるのであって
もし長く生きていたら、逆に加害者になったかもしれません。
それは事故の加害者という意味だけではなく、広い意味での”競争社会の加害者”にも当てはまります。
「夢を持っていた」と言っても、夢の実現は競争であり、イス取りゲームです。
その子が生き延びてそのイスに座っていたら、誰かはイスから漏れていたでしょう。

不謹慎かもしませんが、死んだ人の夢だけは美化するというのはくだらないと思います。

世の中には不幸とは無縁なように見える人もいるわけですから
「なぜ私の子だけがこんな目に?」という気持ちも良くわかります。
しかし、平安に生きたいも立派な要望であり、欲です。
自分の欲を満たせなかったことを怒っても、本人が思ってるほどの正当性はありません。

でも、そんなことよりも問題なのは、親がそのことを覚悟していようとしていまいと
実際に辛い思いをするのは、被害に遭う子供自身なんだということですね。

「産む事は暴虐への献身である」という詩もありますが
この世界にはどうにもならない不条理があり、また誰の心の中にも
理不尽な欲望が備わっていることを忘れてはいけないと思います。