奇麗になど生きられない

子供というのは、確かに小さい時は非常に可愛いもので
「汚れなき」とか「天使」と揶揄されるのもわかる気がします。

ですが、いつまでも天使ではいられませんね。

この世の中を生きていくには、ある程度の不条理は割り切る冷酷さと
「殺られるくらいなら殺る」という闘争心がなくてはいけません。

子供がよく「罪なき」と表現されるのは現時点では無力だからであって
成長するにつれてズルいことも覚えますし、力もどんどんついてきます。
自分が負けたくなければ、当然他人を脅かすでしょう。

まさか「自分の子だけは奇麗に生きていくはず」と思って産んだわけでもないでしょう。
だいたい、天使のまま成長されて一番困るのは親ですからね。

だから私は「罪なき子供」とか「罪なき一般市民」なんてものは、はっきり言って存在しないと思ってます。
原罪という観念は人類の作った勝手な罪悪感に過ぎませんが、被害者がいる以上それは”罪”でしょう。

自分の子が競争社会の被害者になると、競争を恨み、不条理を嘆く癖に
逆に自分の子が出世したら、よその子の犠牲も忘れて、親は大いに喜ぶでしょうね。
「私の天使は他人の悪魔、他人の天使は私の悪魔」とでも言っておきましょうか。

親孝行について上記で書きましたが、お寺の家系はともかく(最近は寺も立派な企業ですが)
自分の子に悟りを開いて欲しくてわざわざ産む親などいないでしょう。
この世に子供を産み落とすのは、欲を捨てた後の清々しさを体験させる為ではなく
もしろ子供には「大いに欲を満たして欲しい」と願って産むわけで
それによって間接的に自分の欲求も満たしたいからこそ親になったはずです。

そもそも「自分(と自分の子供)にはその権利がある」と思っているから産むのでしょう。
上記の3で「図々しさ」と書いたのは、そのことなのです。