犬山敏郎屁ッコキマンペ 統失ヒッキー糞雀鬼ィ自我肥大痔がヒデェ〜(^^♪

>  自転車に乗るとき、最初はペダルを漕いで苦労します  20メートルも漕げば、安定しリズムに乗ってきます
   スピードもついてきて風を切って 自転車が走るのに身を任せればいいだけ  いちいち転んだらどうしようとか前をちゃんと向こうとか  ブレーキはしっかりととか考えないで乗れているはず
   自転車も練習してうまくなる  坐禅も実践して軌道に乗ってくるんだと思う 』

うまくなる、と言うのは、これが坐禅の姿だ、と言う理想の姿を目指しているのでしょうね。

禅宗は何宗であれ坐禅を重視しますが、それは、禅宗だけが坐禅するのではないのです。

坐像を見る時、禅宗の本尊は手を組んだ説く、手を円くしてい舞う。
浄土宗のご本尊が手を組んでいますが、親指と人差し指を円くして手を組んでます。
違いはそれくらいです。

禅は、禅定、浄慮、で、ジャーナからの漢訳です。
意味としては 静かに坐る、と言う事です。
これはIndiaのモヘンジョダロ遺跡などで知られる先住民族以来の伝統的な瞑想の姿です。
坐禅に意味をくっつけて、形式を整え、坐禅と名付け、あれこれの注意書きも出来てくる。
わたしは5歳を過ぎたころ、股関節を傷め、坐禅の姿を取り得ません。
それで、わたしはいす禅です。上から頭を引っ張り上げられるようにして坐っています。

もう一つはテレビで見たのですが、中國南部の禅宗寺院の禅僧が、暑い午後、個々にバラバラに寺院のあちこちへ散って、暑いので手に棕櫚の葉の団扇を持って樹下や岩の上にゆったりと座って、団扇を使って涼を入れています。
何の気負いもなくて いいなぁ、と感動しました。
達磨とは、じつは2祖慧可である、という説もあるそうです。
安心 あんじん 過去は過ぎ去って無い、未来は、未(いま)だ来たらずで無い、現在は、今ここ、即今。
今は、流水、行雲、捕まえられない。今とは、まさに空です。

只管打坐、とは、色即是空です。 色即是空を只管打坐と言います。

色即是空は空即是色へ還(かえ)る。
これで禅は全て 用なし、( 。・・)/⌒□ポイ です ポイした後は、愚です。
服をはだけた大きなおなかの布袋さん、間の抜けた人の良さそうなおっさん。 あれが仏さんです。