まず自分の意見として。
普通とか一般は、多数派な指向の状態としか認識していません。
そこに多数派を構成する個々の意志や思考は無いと思っています。、

で、
“社会的且つ物理的に狭い状況”の学校を例にとります。
その環境の中で、
普通・一般である多数生徒が、感覚が普通・一般では無いのが原因で、
いじめたいのでしょうか。

自分が思うのは、

“社会的且つ物理的に狭い状況”に在らなくてはいけないと思うと。
その自己は、その自己への圧迫をかけ、自己が保てなくなる。

その圧迫から自己を守るために、圧迫している原因に立ち向かうのではなく、
捌け口を探す。

捌け口捌け口捌け口・・・・・・・・
 いじめる事が捌け口になるかわからないが、
 自分弱ってるより他人弱ってるの見れば少しは緩和されるかも。
 普通・一般で無いのであれば、いじめの対象と設定して構わないのではないか・・・・・・
 
と思います。
つまり、いじめられる原因が有るからではなく、
いじめる欲求の為にいじめられる原因があるという詭弁を
普通・一般を盾に自己に言い聞かせているのではないかな。