>>67 おぬしがそう思うならばそうじゃろう。
 自由なのじゃ。

>>69 そうなんじゃろう。
 生暖かく見守ってやると良いのじゃ。

>>72 そうじゃ、教えるためなのじゃ。
 教える者が学び、実践していなければ教えられる者もしないのじゃ。

 真摯に死を知りたいと思っていれば偶然得られることもあるのじゃ。
 マハリシのようにのう。

 前はどうでも悟りは得られるのじゃ。

 そこまでいかなくとも観察は出来るのじゃ。
 しかしやはり深い瞑想に入れるほど観察には有利なのじゃ。
 隠してきた本心を観るのはかなり抵抗が有るからのう。
 瞑想が深いほどそのような自我の抵抗は少なくなるのじゃ。

>>76 自我はそのように観られたならばもはや無我なのじゃ。
 その通りに観ることは難しいじゃろう。

 他のものはそのように観てすてたらよいのじゃ。
 
>>80 そうじゃ、生まれかわればわかれるじゃろう。
 永遠ではないじゃろう。
 人によって違うのじゃ。
 短い者も長い者もいるのじゃ。

>>81 それはおぬしの心の中に原因があるからなのじゃ。
 その原因によって怒られるのが苦になるのじゃ。
 その原因は昔、親とか教師などに酷く怒られたからかもしれん。
 そのような原因から今苦が心の中に起こり、原因が無ければ苦が起こらないと観察するのじゃ。
 そうすれば消えるのじゃ。