>>851
>○があると自覚するなら○はある
>○がないと自覚するには○がいる

それは(認識論というよりも)論理学の基礎に過ぎないのです。
その○が何であるかによって、論理はいくらでも変わるのです。

○が「悟り」だとすると、その「悟り」の体験がない者がそれを言っている場合は、
単なる想像上のものなので、言っていること全体が無意味(空虚)なものになります。
体験がある場合は、その内容の普遍性が(議論に参加する全員によって)承認された場合
にのみ、その命題が意味をもつものとして認められるのです。

<認識に関する描写・叙述>というものは、「認識する主体」と「認識される客体」、そして
「それら両者を見ている目(者)」の三つが揃って初めて他者に提示することが可能になります。
同じ客体が認識されても、その内容は「認識主体」によって異なるという理解は、その両者を
見ている目(者)があって初めて可能だからです。それら三つの内容について(議論に参加する)
全員の了承なくしては、いかなる<認識に関する描写・叙述>も意味を持たないのです。