お待たせ
まず『朝鮮王朝実録』の記録によれば、
太祖元年八月、家臣の「克廉、趙浚、鄭道傳などが、王位後継者となる「世子」を確定することを要請した。
その際、三人は、年功と功労を配慮して決定してもらいたいと要請した。
国王は継妃の康氏の意向が芳蕃にあるのを重んじて、芳蕃を建てようとしたが、
芳蕃の性格が狂奔であるという理由から、功臣などがそれに難色を示した。
そこで功臣たちは、ひそかに話し合い、国王はどうしても康氏が生んだ子を立てようとするであろうから、末子なら差し支えないだろうとした。
そこで国王は、ついに末子の芳碩を立てることにした。

『太祖実録』太祖元年八月己巳、二〇日条に
「○己巳立幼.芳碩爲王世子。初功臣「克廉、趙浚、鄭道傳請建世子、欲以年以功爲請、上重康氏意在芳蕃。
芳蕃狂率無.、功臣等難之、私相謂曰、若必欲立康氏出、季子差可。」
及是、上問誰可爲世子者、未有以立長立功切言者。克廉曰、季子爲可。上遂決意立之。