無矛盾な自然観の獲得過程としての科学史
はじめに
宇宙背景放射、ヒッグス粒子は疑念にさらされています。
量子力学は新しい理論が求められているようです。
生きている間にそれらが出現して欲しいのですがそれも判りません。
そこで乏しい科学的知見から無矛盾な自然観を自分なりにつくりあげることにしました。
以下はそのようなものして記しました。 わたしたちは認識対象としての自然の物理存在を、わたし、植物、金属、惑星等と認識しますが、これらは否定関係で規定しています。
わたしは植物でも金属でもありませんと規定します。
しかし科学の歴史は自然には特別ななにものも存在しないことを明らかにし、否定関係は存在しないことを明らかにしていく過程として展開していきます。
科学革命である地動説は地球もまた諸天体の仲間で特別ではないことを示し、進化論は人間もまた特別な生物ではないことを示します。
光速度一定の原理は絶対座標を否定しますが、これは自然に静止は存在しない、つまり自然の存在形態は運動であることを示します。
運動を前提に否定関係は導けませんから、この原理は自然が無矛盾であることを示します。
自然は運動するエネルギーの濃淡ということです。
真空はディラックの海を考えますとエネルギーの基底状態と理解できます。
自然は差異として在りますが<一>なのです。 認識の在り方
わたしたちは認識能力の限界で自然をそのまま捉えられません。
聴覚はもちろん視覚、ひいては感覚一般は認識可能範囲があります。
自然は<一>ですが認識の在り方からわたしたちの前に<多>として現象します。
生物、金属、真空もまたエネルギーの濃淡、つまり差異であり否定関係ではありません。
いわゆる観測問題は波が渦の状態と理解できます。
静止が認識の在り方に現象した運動の一形態であるのと同様に粒子は波の一形態で認識の在り方から波と否定関係の粒子として現象します。
粒子は座標原点が存在しないことから否定されます。
<ここ>からは存在しませんから<ここ>までもありえません。
<有限>は認識の在り方を媒介にした無限です。
宇宙は無限であることをこの原理は示します。
わたしたちも自然の一部ですから科学は自然の自己言及です。 重力は加速に必要なエネルギー量で、他の力はある物理状態に生成するために必要なエネルギー量です。
つまり力は存在しません。
自然は運動するエネルギーの濃淡であり、反発親和の過程を経て様々な物理状態に生成する過程としてあります。
光速度一定の原理は科学認識の基礎である座標原点が存在しないことを示します。
このことは科学は認識の在り方を媒介にしていて理論はそのままの自然ではないことになります。
朝永博士は物理学の自然はたわめられた自然と日記に記しました。 規定について
<一>である自然は<多>として現象しますがそれは認識の在り方からです。
運動は静止、つまり否定で規定します。
<わたし>は他の物理としては同一ですが差異として在りそれを否定関係で規定します。
<わたし>は生まれてから現在に至るまで大きく変化していますし、同一であることはありませんが同一として規定します。
自然は無限ですが認識の在り方から<有限>という否定関係で規定します。
ウイルスは生物、非生物と分類困難ですが物理としては差異であり同一です。
規定するからウイルスのような問題が出来するのであり対象である自然の問題ではありません。
不確定性原理は運動を静止で規定するからです。
つまり測定は本質として近似でしかあり得ません。
エネルギー保存則は何も生まれない無くならないということですが、自然以外存在しませんから当然ということになります。 生死は物理として存在しません。
何も生まれないし無くならないのです。
食物はいろいろな形態に変化しますが人間もまた物理として同様の存在です。
物理としては同一で無いことが恒常、つまり同一として在るわけです。
この説明は対象を否定、ここでは運動を静止で規定するからです。
0に限りなく近いが0ではないという数学の奇妙な説明も有を無で規定するからです。
理解された自然は自然自体ではありません。
規定、論理、理論は自然に存在しません。
規定は対象の否定だから対象には存在しないのです。
このことから出来する様々な問題を取り上げます。 古代ギリシャ哲学者ゼノンは自然は<多>、つまり数で出来ているとするピタゴラス学派への反駁として四つの逆説を挙げます。
「競技場の逆説」では時空に最小単位が在るとしたらその半分が在ること、つまり最小単位が存在しないことを、また数に大きさがないとしたら「二分の一」「アキレスと亀」の逆説で目的地に到達することは無いこと、アキレスは亀を追い抜けないことを、また点で空間が構成されていたら運動はあり得ないことを「飛ぶ矢の逆説」で証明します。
自然は大きさの無い数で出来てはいないのです。
0×∞=0です。
有は無で、無限は有限で、運動は静止で、つまり否定で規定しますが否定では出来てはいません。
光速度一定の原理は座標原点、つまり大きさの無い点の自然存在を否定します。
規定は否定ですから、光速度一定の原理はゼノンの理解を裏づけていて、またゼノンの逆説はこのことの哲学の表現です。 カントは二律背反で時空に終始が在ることも無いことも証明しましたが、対象である自然には終始がありませんが終始で規定するということです。
ヘーゲルは「運動とは存在すると同時にしないこと」と奇妙な定義をしました。
<存在>もまた規定であり、静止であることを「飛ぶ矢の逆説」は示します。
「クレタ人の逆説」は対象をその否定で規定し自己言及すると決定不能になることを示します。
運動を静止で規定しますから、ヘーゲルはこう定義したわけです。 次元について
次元は<一>である自然が認識の在り方を媒介にして<多>として現象した物理状態の抽象であり物理存在と切り離せず次元自体としては存在しません。
時間もまた周期的に運動する物理存在、例えば太陽が真上から移動して次に真上に来るまでを一日にするということで他次元同様時間自体では存在しません。
絶対座標が存在しないということは次元自体が存在しないということです。
次元は運動する物理の在り方の抽象であり、次元自体は自然に存在しません。
自然が無矛盾であることは、規定、理解が自然存在であることを否定することにより証明されます。
ウイルスという分類は生物非生物という規定を否定して矛盾が避けられます。
規定することが様々な問題を出来させるのです。 理解に必要な物理存在の抽象である次元等が自然にも存在するという誤解が様々な問題を解決困難にしました。
また自然という有を無で規定しますから決定不能になります。
無は有の否定です。
無は頭の中にしか在りません。
規定は否定ですから自然には在りません。 自然という客体を認識する主体は否定関係としては物理として存在しません。
物理としての人間は自然の一部です。
意識は物理存在に伴います。
暑い中では意識がはっきりしなくなることがありますし、薬で変容しますし、脳が無くなれば消えて現象しません。
意識はある物理状態の付随現象です。
また非物理存在が物理存在として存在することはありませしにたん。
自然が自己言及可能な物理状態に生成したということです。
わたしたちは町などの地図を描く場合に頭の中で空から俯瞰して描きますし、銀河系も描けますし、また古今東西に行くことが可能です。
また小説、ドラマの主人公にもなることが可能です。
この能力を観念的な自己分裂と学者は名付けました。
<わたし>という表現は認識客体と認識主体が同一です。
鏡を見た場合には観念としての主体が現実の自己を認識して<わたし>というわけです。
意識、観念は物理として存在しません。
自然は無矛盾です。 宇宙は運動して同一であることはありませんが同一として規定します。
運動変化している、同一でないことが恒常として、つまり同一であることになります。
アガサ・クリスティは「変われば変わるほど変わらない。変わらなければ変わらないほど変わる。」とミス・マーブルに語らせます。 最小単位はありません。
〜に生成されるということです。
終始は無い。→次元は無い。 自然は運動するエネルギーの濃淡として<一>であるが反発親和の過程で生成して認識を媒介に様々な物理状態、<多>として現象する。
次元はそのような物理状態の抽象であり存在しないし、力もまた存在しない。
それらは人間の頭の中に在るだけです。
自然はただそのようなものとして在る。
それだけです。 認識論から観た無矛盾な自然観ということでしょうか。
いずれにしましても重力も時間も科学はわかっていないようから、勝手におだをあげておきます。 十代から二十代にかけて勉強したら理解できないことだらけになりました
数学の論理、物理はもちろんゼノン、カント、ヘーゲル
観測問題
もう何がなんだか
何も生まれない無くならない うーん
わたしはあなたではないが同じ人間
ウイルスの分類
さてはて
時間問題
これで自分なりには納得しました
自然はただ在る
それだけです 新約聖書学はキリスト教の根幹を否定してしまった
数学は自己自身の無矛盾を証明できないことを証明した
学者はマルクスの学的手法で共産主義は成立しないことを示した
物理学はもっと衝撃的な結果になるでしょう パルメニデス
クレタ人
スピノザ
光速度一定の原理とエネルギー保存則
以上かな なんていうか
現代物理学の方向が違うっていう人、革命が必要って科学者が散見するし。
わたしは時空に終始は無いって理解しているので。
とりあえず言っておかなきゃと。 見えるものが無い、見えないものが在る
科学史が示すこと 静止は運動の一形態であると証明したように否定関係は存在しないと証明し続けたのが科学
ブリゴジン学派の観測問題解決の予想、波の一形態が粒子というのを私は支持する 二律背反て決定不能絡みそう
対象をその否定で規定して自己言及するから決定不能に成る
さてと・・・ 無限を有限で規定する
有限は認識を媒介にした無限の在り方
わたしたちもまた無限宇宙の在り方です
つまり宇宙自体、宇宙そのものです 理解するからたわむ
規定は否定で対象には存在しない
対象の否定だから
そして規定の存在を否定して無矛盾ということになる
静止で規定し静止の存在は否定される
つまり自然はただ在るだけです
自然の存在に理由は無い 次元
個々の物理存在の抽象
個々の物理存在を離れては物理として独自に存在しない
<わたし>という言葉
個々の人間の抽象
さて差異と同一性は?
次元のほうが抽象度合は高そう
いや・・・
保留か 規定して分類していく
そしてエネルギーの濃淡という<一>に
単純そのもの
皮相です
一番深いものが一番浅い 否定関係で規定する
規定は差異を否定でということ
つまり理解することが無矛盾な理解を困難にするということ
観測問題は認識を媒介に現象する自然の在り方と規定の在り方を明らかにする
差異を否定で規定する
否定関係は実は対象の差異関係であり一形態だということ 学問もまだまだってことです
そこに希望もあるわけですが 座標原点の存在は否定される
静止は認識に現象した運動の在り方
論理は自然に存在しない
理解に必要な次元が存在するという理解こそが自然の無矛盾な理解を妨げる
次元は認識に現象した物理存在の抽象であり存在しない
有限、粒子、時間、対立、否定関係・・・
地動説、光速度一定の原理は理解の在り方の自己言及です 否定の否定の法則が根源的だとは思いませんでした
三浦さんの理解もまた参考にはなりますが、深める必要があるかな 科学は認識の在り方を媒介に多と現象する自然が一、つまり無矛盾に収斂していく過程としてある
自然は無矛盾という理解は、理解を否定することにより達成した 重力 加速に必要なエネルギー量
他の諸力 ある物理状態生成に必要なエネルギー量
物理存在に伴い、それ自体としては存在しない 時間、力の特殊性
直接には限りなく0に近いが0では無いとしなければ成らない
間接的にな太宰治、ヘーゲルが指摘していることに繋がります
だから量で理解するしかない
その量の抽象が時間、諸力
次元も認識を媒介にした<一>である自然が<多>として現象する物理存在の抽象ですが
規定の在り方はつきまとうということですか 物理対象を規定して理解する
規定は否定
規定の存在を否定して無矛盾、つまり理解可能であることとなる
自然という対象に規定、理解は無い
有を無で規定する
有=自然に無=規定は無い
有に無は存在しない、つまり無矛盾であると判る
有を無で規定する
対象をその否定で規定する
そして自己言及
つまり決定不能
自然に存在理由は存在せずただ在る
無矛盾、可知であるが故に不可知です
自然は判らないということが判る
判るが故に判らない
決定不能 再論
科学は自然には否定関係は存在しないこと、つまり無矛盾だと明らかにしていく過程だと理解している
地動説ー進化論ー光速度一定の原理
ウイルスは規定するから鵺的な存在になる
生物ー非生物は物理状態として否定関係ではなく差異
わたしたちは差異を否定で規定する
静止は運動が認識を媒介した運動の在り方
生死は物理状態の差異
終始は座標原点が否定されている
<ここ>からも<ここ>までも存在しない
粒子は<ここ>から<ここ>までが存在すると理解すること
科学は否定している座標原点存在の理解です
自然に否定関係が存在したら無矛盾たりえない
粒子は認識を媒介した波、つまり渦ではないかと
規定するから否定関係が生じる
規定は否定だから