X



■辞める間際に馬鹿な客に文句を言う会!
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001いい気分さん2018/09/07(金) 17:55:49.13
お前ら辞める前にメチャクチャやってやろうぜ!
馬鹿な客に復讐してやるんだよ!

どうせ辞めるんだから横柄な何様な糞野郎に文句言ってみろ!
0961いい気分さん2021/02/20(土) 11:41:54.93
出水兵児の「兵児(へこ)」とは青少年のことで,数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び,それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」,30歳までを「中老」と,三つに区分していました。
兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。

http://blogs.yahoo.co.jp/umagami55163/28217859.html
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/okite/okite.html
0962いい気分さん2021/02/20(土) 11:42:41.34
実際にありましたよ。「菊華の契り」と称します。
特に薩摩藩で男色が盛んであったのは民俗学的分野からも朗かになっております。
中沢新一の著書にもあったのですが、武士集団を「兵児(へこ)」と呼び、幼少の者は「兵児山」少年期は「兵児二才」そして二十歳を過ぎると「中老」と言う風に組織だっていて、中老は少年達に、武芸や勉学、そして作法を伝授していました。その中で「菊華の契り」は行われ、契りを結べぬ者は一人前の「男」として扱われなかったそうです。

<(菊の契り)という言葉は、少年の菊門の形から出ており、「菊華の契り」とか「菊契」といえば、同性愛のことを意味した。その一方では、菊の華の穢れを知らぬ美しさと清冽な芳香と、寒さにもめげず咲くけなげさに、少年に純粋な心を見たからで、何事につけ光と影の両面がなくては面白くない。自然に発生した同性愛を、両性具有の思想に高めるか、ただ一過性の経験に終わるかは、それぞれに人間の器量による。> 
http://www001.upp.so-net.ne.jp/rena/new_page_4.htm
0963いい気分さん2021/02/20(土) 11:43:48.40
西日本には、昔から若者宿あるいは若衆宿と呼ばれる結婚前の若者だけで構成される組織があり、地域の少年は一定の年齢に達すると若衆宿のメンバーとなり、先輩の若者たちから一人前の男になるための訓練を受ける風習がありました。

薩摩士族の若衆宿は郷中と呼ばれ、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で結ばれていたといいます。
話を学生に戻しますと、旧制高校の寮では下級生をチゴ、上級生をニセと呼んでいたことから、薩摩武士の影響が指摘されたみたいです。

実際、旧制高校の寮というのは、エリート向けの若衆宿ともいうべきもので、上級生たちはしばしばストームと称して下級生を襲って犯したりしたそうですが、
この旧制高校における男色又は同性愛については、森鴎外、谷崎潤一郎、徳富蘆花、里見紝、志賀直哉、川端康成など錚々たる作家が、小説や晩年の回想録に書いています。
0964いい気分さん2021/02/20(土) 11:44:13.39
薩摩藩には 郷中と呼ばれる青少年の教育機関が存在し、藩士の子弟は八歳のときに稚児(ちご)として郷中に加わり、二十歳で兵児二才(へこにせ)の時期が終わるまで厳しく文武の道を体得させられたそうです。

稚児と兵児二才は男色関係で結ばれていて、薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされず、武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあったといわれています。

どくとるマンボウ青春記
北杜夫
新潮社 ¥540 完読
2007/02/21 17:09
0965いい気分さん2021/02/20(土) 11:44:38.51
詩人・斎藤茂吉の息子であり精神科医・作家である北杜夫氏の自伝小説。

一番おもしろかったのは旧制高等学校の回想。ストームといわれる野蛮きわまる大騒動、惰眠をむさぼる、罪もない下級生を集団で布団蒸しにする、「ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ!」という唄声が寮内にこだまする、なんともいえない哀愁(???)がある

「ああ、青春(せいしゅーん)!」
「セー」
「アイン、ツヴァイ、ドライ!」

…なんだこのバカ騒ぎ(^^)
あと、旧制高校の先生達もチャーミングv 試験の採点基準さえもまったくチャランポランだったとか。たとえば物理の試験、答案に詩とかラクガキを描くだけで点がもらえたりしたそうな。何とうらやましい…。

旧制高校では殆どの生徒が寮に入っており、もちろん寮では男色横行、(『ヰタ・セクスアリス』森鴎外や『少年』川端康成を思い出します。)
それから夜更けまでまったく意味のないような、観念的な議論に没頭したり…こうして少年たちは知性に目覚めていくのだ。
デカンショって、デカルト+カント+ショーペンハウエル のことだったんですね。
0966いい気分さん2021/02/20(土) 11:45:14.93
薩摩武士の青少年教育は郷中(学舎)で行われた。 徳育・知育・体育を大事にした。 その中の一つ、体育は主に武道(剣術)である。 秘武道”影之流”の師範家の川上四郎兵衛家は四方学舎に所属した。 四方学舎での剣術鍛錬は薬丸家の自顕流と川上家の影之流に分かれて厳しく鍛えられた。 薬丸家もまた四方学舎の舎生である。


-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を

小稚児(こちご、6-10歳)
長稚児(おせちご、11-14歳)
二才(にせ、15-25歳)
長老(おせんし、妻帯した先輩)

の4つのグループに編成したもの。

それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。
郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだ。

郷中の起源は島津義弘によるとされている。また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。

明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっている。

http://blog.tos-kagoshima.com/?day=20080513
0967いい気分さん2021/02/20(土) 11:45:48.52
郷中教育というのは今でいう青少年団体です。
年長者を二才(にせ)、年少者を稚児と年齢で二つに大別。
二才が稚児を監督/保護し、薩摩隼人たるべく教育訓導する組織。大雑把に言うとこんな感じでしょうか。
この郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。全員がなにかしらそういう関係を誰かと持っていたのか、それが一部であったのかというのはよく分かりませんが、江戸時代の薩摩では男色を知らなければ一人前とは認められなかったということも聞くので…そういう点から考えるとほぼ全員が通った道ではないかとも思われます。

http://blog.goo.ne.jp/silverwing1224/c/f80a4f06defa5495059512360a66b4cc
0968いい気分さん2021/02/20(土) 11:46:16.38
日本社会において同性愛は学生たちの間で流行した。寄宿舎や校舎など閉鎖的な制度をがかつての衆道の要素が強い「男色」を継承していた。森鴎外は、自分自身の性的経歴を書き記した作品『ウィタ・セクスアリス』(1909年)のでこう述べている。
   
   学校には寄宿舎がある。授業が済んでから寄ってみた。ここで初めて男色
  ということを聞いた。僕なんぞ同級で、毎日馬に乗って通ってくる蔭小路と
  いう少年が、彼ら寄宿生たちの及ばぬ恋の対象物である。蔭小路はあまり課
  業はよくできない。薄赤いほっぺたがふっくりとふくらんでいて、かわいら
  しい少年であった。その少年という言葉が、男色の受け身という意味に用い
  られているのも、僕のためには、新知識であった。僕に帰りがけに寄ってけ
  と言った男も、僕を少年視していたのである。

http://www.geocities.co.jp/Berkeley/9559/gayhistory9.htm
0969いい気分さん2021/02/20(土) 11:46:38.93
二才は稚児を指導する(高名な示現流は、二才が稚児に教えた)他、保護監督する役目も担っており、女子はもちろん、他所の二才と交際するのを禁じた。そのような状況の中で、二才と稚児が男色関係になるのは、むしろ自然な成り行きと言えるだろう。西郷隆盛と大久保利通は3歳違いの幼なじみであったと言われるが、果たしてそれだけの"関係"だったのだろうか
それはともかく、この薩摩での男色熱が東京の学生達に伝わった事は、先の里見が、自分を「ちごさん」と、志賀を「にせさん」と呼んでいる点から確実と思われる。しかし、薩摩伝来の男色熱は、少々過熱しすぎたかもしれない。当時9歳の谷崎潤一郎は、薩摩の出と思われる将校に誘拐されそうになった。

http://www1.ocn.ne.jp/~yasumi/sub26/sub27/ensyu3-2.htm
0970いい気分さん2021/02/20(土) 11:47:36.45
薩摩の男色は有名ですね。森鴎外が明治期の薩摩の青年の愛読書は「賎のおだまき」という二才・稚児の衆道関係の2人が主人公の話だったと書いてます。島津義弘の「虎狩り」と同様、青少年が暗唱するテキストのようなものだったそうです。島津義弘と同列の男色本・・・(よろろ)ちと読みたいかも。井原西鶴の「好色五人女」にも薩摩話がありますが、男にしか興味がない男に恋をした娘が男装して、稚児を亡くしたショックで出家していたその相手のとこに行って口説いてゲットしてくるという、まあ最後は力技なのかという話です(違)
黒田は郷中のリーダーやってたこともあるから、まあ百戦錬磨というのもあながち誇張ではない。土佐も盛んだったらしいですが、長州では聞かないですね。
http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/bbs/iridiary_log1.htm
0971いい気分さん2021/02/20(土) 11:48:01.97
明治時代になっても、薩摩や会津などの士族出身の若者を中心に、男色の影響は残った。女との交際に関心を持たない者を「硬派」と呼び、女に耽る者である「軟派」を軽蔑する風潮があったことが、坪内逍遥の小説『当世書生気質』や森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』から伺える。しかし、近代には西欧の性意識やキリスト教が輸入され、同性愛を「不自然」と定義する認識が広まっていたことも、上記作品からは伺える。

明治政府は法体系において、男性同士の肛門性交禁止を盛り込んだが、実質的な意味はなく、程なく廃止された。

しかし、第二次世界大戦の敗北以降、少年との性的行為は社会的に禁止・否定され、今日に至っている。
0972いい気分さん2021/02/20(土) 11:48:27.52
丁稚の後門を犯す
 天保十五年(1844)一月のこと。
 小伝馬町一丁目に、島屋という呉服屋があった。
 番頭の徳兵衛は三十一歳で、男色が好きだった。十四歳になる丁稚小僧の竹次郎に迫り、後ろから犯した。
 肛門が切れて、竹次郎がその痛みに泣き出したため、ちょっとした騒ぎとなった。
 息子が犯されてけがをしたと聞き、父親が乗り出してきたが、交渉の末、徳兵衛が詫び金を払って、内済(示談)となった。
 島屋では外聞をはばかり、内密にしていたのだが、こういう噂はすぐに世間に広がる。
 また、なまじ島屋が口をつぐんでいるだけに、勝手な憶測がひとり歩きし、風評も尾鰭がついて流布する。
「竹次郎は肛門が四方に裂けて死んだ」
「竹次郎はその痛みに悶絶し、駕籠で実家に送り返された」
「父親が島屋に怒鳴り込んで、二十両の慰謝料を取った」
 とかいう話も喧伝された。
 また、
「番頭の徳兵衛は上州(群馬県)者で、島屋を首になったあと、吉原の妓楼に住み込みで働いていたが、火事でその見世が丸焼けになった」
 という説もあった。

 実際は、竹次郎の肛門の傷はたいしたことはなかったようで、その後も島屋で奉公を続けていた。
 また、番頭の徳兵衛は京都生まれで、もともと陰間遊びが好きだったようだ。事件のあと、近所に住む職人などがおもしろがって、ことさらに声高に吹聴するため、徳兵衛もさすがに島屋には居づらくなった。みずから暇を取り、いったん国もとに帰った。その後、ふたたび江戸に出てきて、高砂町あたりの町医者のもとに転がり込んだという。

http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai4/nagai4-43.html
0973いい気分さん2021/02/20(土) 11:48:48.32
「賎のおだまき」は戦国時代末期の薩摩(鹿児島、宮崎)、島津における、「稚児」と「二才」(にせ)の男色関係の話です。

まさに郷中制度の根幹部分です。

「郷中制度」は、ちょうどこのころの島津で作られたものです。

数えだが、13歳の藩一の美童・稚児である平田三五郎と、10歳年上、23歳の「二才」(にせ)大蔵との
男色関係の話です。「二才」という言葉もでてくる。
13歳といえば、今では6年生から中1くらいでしょうか。

念者・三五郎と念友・大蔵の「義兄弟の契」を結ぶのは、春の宵、三五郎の部屋の寝所(小座)で、「花に潤う春雨や、軒の玉 水音繁く。色こそ見えね春の雨、裏打ちのみ音ぞして人の寝静まる宵ならば大三今は堪えかね、闇はあやなし梅の花、袖に匂いの薫りきて、風に柳のようなる風情に似たる三五郎を、、、静まり返る小座の内、花のようなる三五郎をば、深くい抱きしめ思いもかけぬ 恋の名を、かけてぞ解くる雪の肌、触れて契を結びける。」

美童・三五郎の危難を救った大蔵は、三五郎を「稚児」にすることができたのだ。大蔵は寝所で美童の薫りする三五郎を硬く抱きしめ、三五郎が刀に手をかけてまで守ろうとした、
帯に手をかけるのです。三五郎もすべてを委ねます。そして下帯も解かれ、愛撫に身を委ね一つになるのです。
これを義兄弟の契りといいます。

こういうことが読まれ、旧制高校などでも、、陸軍幼年学校でも伝統として行われたのだ。
0974いい気分さん2021/02/20(土) 11:49:21.06
江戸時代も後期となると衆道は衰退の一途を辿っていったが、庶民や武士たちの一部にはまた男色の道を捨てることはなかった者がいた。明治維新を迎え、社会制度も文化もあらゆるものが一変しても、退勢の道を辿り細々としたものとなりこそすれ男色の文化は存続した。年長男性と少年のあいだの性的関係・恋愛関係は、男色・衆道の終焉期と言える大正時代となっても、一部の地方においては形こそ大きく変わりながらも若者宿などの風習と共に存続していたといわれる。
また、武家の年長者が年少者を教育するという点で制度化したものに会津の什の掟や薩摩の郷中がある。

江戸時代中期の男色が. 華奢な美少年を対象に.してたことを投影してるんですって。 ... 会津戦争でも薩摩や長州の奴等が会津の少年兵レイプしまくった.って聞いたことあるわ ... サラリーマン金太郎なんてモロ男色漫画・ドラマ。 ...

http://ranran2.net/app/2ch/gaysaloon/1254732719/l
0975いい気分さん2021/02/20(土) 11:49:42.90
明治時代になっても、薩摩や会津などの士族出身の若者を中心に、男色の影響は残った。女との交際に関心を持たない者を「硬派」と呼び、女に耽る者である「軟派」を軽蔑する風潮があったことが、坪内逍遥の小説『当世書生気質』や森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』から伺える。しかし、近代には西欧の性意識やキリスト教が輸入され、同性愛を「不自然」と定義する認識が広まっていたことも、上記作品からは伺える。

明治政府は法体系において、男性同士の肛門性交禁止を盛り込んだ(鶏姦罪)が、実質的な意味はなく、程なく廃止された。




「幕末史研究 36」  佐藤喜一/著「田村銀之助をめぐる男色考−脱走軍美少年秘録
−」        (日野市立図書館蔵)
0976いい気分さん2021/02/20(土) 11:50:08.30
明治6年(1873)の改定律例266条に規定された鶏姦罪によって、肛門性交が法的に禁止され、違反者は懲役90日の重罪とされたことを紹介。
事例として、明治14年(1881)に元女形の茶屋「女」が、女と思い込んでいた人力車夫と性行為に及び、男性であることが露見し、鶏姦罪で懲役90日に処せられた話を紹介。
「女」としての性行動をもつ定常的な異性装(女装)者にとって、鶏姦罪の存在は違式かい違条例とともに二重の強い抑圧だったことを説明する。

明治の初めの頃、鶏姦罪として一時的に男性同性愛が禁止されたこともありましたが、数年で廃止されています。鶏姦罪は、米英の猿真似に過ぎませんでした。しかし内心の自由を尊重する立場から撤廃された。
日本の場合で言えば、鶏姦罪が廃止されたのは、男色が盛んであった薩摩出身者の反対があったから、ということらしいです。内心の自由と言うよりは、自分達の伝統を守った、というのが近いと思います。
0977いい気分さん2021/02/20(土) 11:50:29.83
「白袴隊」
 
「白袴隊とその時代 ―世紀転換期の不良学生集団と美少年騒動」
「びゃっこたい」と言っても、戊辰戦争の華と散った会津「白虎隊」ではなく、明治30〜36年(1897〜1903)の東京で、美少年を襲ってレイプしたり、美少年を奪い合って決闘事件を起こした、娘をもつ親だけでなく、息子をもつ親をも恐怖させた硬派(=男色)の不良学生集団。

仲間の目印として白い袴を着けたことから「白袴隊」と呼ばれた。

おもしろいのは、「白袴隊」の活動を盛んに紹介して厳しく批判したのが、反藩閥政府を方針とする「万朝報」だったこと。
どうも「万朝報」は、「白袴隊」の少年襲撃(男色)を、薩摩藩の男色風俗と重ね合わせて、「白袴隊」に代表される不良学生による「風俗壊乱」を、政府要人の道徳腐敗に結び付けようとしていたらしい。
そのせいか、記事を詳細に読むと、どうも実に乏しく(レイプも未遂が多い)、「白袴隊」の活動がフレームアップされている感がある。

それはともかく、「白袴隊」は男色(少年愛)を堂々と表看板にした青年集団が明治30年代の東京に存在したという点で興味深い。
古川さんの分析によると、「白袴隊」の「事件」では、年上の青年(18〜23歳が多い)が、年少の少年(13〜17歳が多い)に性愛関係を迫るという形、つまり前近代に地方の「だ」などに見られた年齢階悌制の色彩が濃厚な男色文化の影響が見て取れるという。

しかも、記事を詳細に見ると、「白袴隊」の構成員は、判明する限り、地方出身者ばかり(やはり鹿児島県が多い)で、東京(江戸)本籍の者は見当たらない。
地方に残存していた近世的な男色文化が、上京学生によって東京にもたらされたと、見ることができる。

20世紀に入ると、男女の恋愛だけが賛美されるようになり、こうした男色集団は衰退し、アンダーグラウンド化していく。
「白袴隊」は、歪んだ形ではあるが、近世的な男色文化の最後の光芒だったのかもしれない。
0978いい気分さん2021/02/20(土) 11:50:55.94
「郷中」制度とは、男色が制度化されたものということができるだろう。
薩摩では男色が制度化していた他、若者たちは夕方、油を入れた竹筒を腰に付けて徘徊し運悪く捕まった少年は輪姦された。
0979いい気分さん2021/02/20(土) 11:52:11.11
明治政府が英米法のソドミー法に習った鶏姦罪を廃止して、同性愛を罪とせず、少年少女に対する淫行だけを罰するフランス法を採用することになった経緯は詳しくはわかりませんが、当時の政府高官に薩摩出身者が多かったことと関係があるような気がします。

明治維新の実体は、薩摩藩と長州藩が連合を組んで徳川幕府を倒したクーデターですが、薩摩藩は昔から男色が盛んな土地として知られていました。

明治に入ってから東京の学生の間で男色が流行したのは、新政府の役人として上京した薩摩の人間が男色の習慣を広めたせいだといわれています。

青少年時代に陣中と呼ばれた若衆宿で、先輩や後輩との男色関係を通じて人間形成を行なった薩摩出身の明治政府の高官にとって、男色を罪とすることにはやはり抵抗があり、フランス法では罪にならないと聞いて、そちらの方に乗り換えたのではないでしょうか。

薩摩出身者だけでなく、一般の日本人にも、同性愛が罪だという意識は薄かったでしょう。

そんなわけで日本は、同性愛を罪とする英米法の考え方を早々と棄ててしまうのですが、イギリスは植民地にした世界の多くの国や地域にこのソドミー法を押し付けます。
0980いい気分さん2021/02/20(土) 11:52:29.76
【南方古俗と西郷の乱】
本書の中ではやや長いもので、『翔ぶが如く』を書き終えた頃の随想でしょう。『若衆宿』という南方島嶼の古俗を色濃く残す薩摩・郷中制度が、西郷と云う人格を育み、そのことが西南戦争まで及んでいる、という司馬遼の読者ならお馴染みの論考です。西郷を郷中頭とする若衆=若者の集団が藩組織の枠組みを越えて暴発し、薩摩藩を明治維新という革命運動の中に投げ込み、西郷下野とともに私学校といいう郷中制度(若衆宿)を復活させ、またも暴発の末西南戦争を引き起こした。大久保、大山、東郷と幕末の志士、維新の顕官がぞくぞくと同じ町内から出ている不思議を説明するに、なかなか説得力をもっています。1960年代の末から吹き荒れた学生運動まで、若衆宿で括ってしまう牽強附会があったにせよです
0981いい気分さん2021/02/20(土) 11:52:47.70
二才(にせ)教育の場として、城内(鹿児島市内 鶴丸城を中心とした)に30箇所の塾(二才教育をする場)があった。また、城外には、113箇所あった。
幼児教育か青少年教育の場であった。

にせ教育の真髄
1 嘘を言うな
2、負けるな(自分に)
3.弱きをいじめるな

その塾が、明治10年あたりから、「舎」として、郷中教育の場として、人材育成に大きく貢献。
明治15、16年ごろには統合、廃止などにより、18箇所になった。終戦のころには16、そして現在が10箇所。

そうした「舎」において、現在でも、歴史、伝統行事などを中心に、幼稚園、保育園など幼児教育の場や青少年教育育成の場としても活動中。


鹿児島には郷中(ごうじゅう、ごじゅう)として、古くから伝わる薩摩藩の師弟教育があった。青少年を年齢で分けて、勉学・武芸・山坂達者(やまさかたっしゃ、今でいう体育・スポーツ)を通じて先輩が後輩を指導することによって強い武士をつくろうとする考えに基づいて組織され、西郷さんは、この郷中なくして語れない。

本当の二才教育とは、
6歳から9歳まで…小二才(コニセ)
10歳から14歳までは…長二才(オサニセ)
と呼び、14歳で元服して、やっと大人の仲間入りにて交流がはじまり、二才となる。15歳から25歳ごろまでを二才として、二才組が後輩の指導にあたった。
0982いい気分さん2021/02/20(土) 11:53:14.47
西郷さんは17歳にて、島津藩に就職した(入藩)。
20歳にして、にせ頭になった。24歳ぐらいまでニセ頭を務め、25歳から江戸屋敷に所属。
http://www.just.st/index.php?tn=index&;in=762816&pan=2369
0983いい気分さん2021/02/20(土) 11:54:03.10
たまにテレビでも紹介されますが、「郷中制度」は薩摩ではよく知らない人たちによって、今でもいいことずくめでこのように「優れた組織」として賞賛されるのですが、《稚児・二才の男色》つまり今で言う《児童虐待》により固く結ばれた武士による男色の制度(少年教育制度)で、まさに「賎のおだまき」そのままということをわすれてはならないだろう。 ...


鹿児島県に「兵児二才」(へこにせ)という青年団組織がある。士族の若者の集会で、薄化粧した「稚児様」と呼ばれる少年を中心に青年達が学習をしたり剣術を習ったりした男だけの世界である。
残念ながらこのような習慣は西南戦争以降廃れてしまったが、イギリスでベーデンパウエルが主唱したボーイスカウト運動が創設されたときも、この兵児二才制度(健児之社)を参考にしたという。(検証によると関係ないという。)
ttp://geocities.yahoo.co.jp/gl/numades/view/200702
(参考)
三品彰英「薩摩の兵児二才制度」(「三品彰英論文集」第6巻所収)(平凡社 昭49)
上野 篤「健児之社」(中文館書店 昭12) ソメ2-60(国会図書館。浜松町、三庚図書館蔵)

「兵児(へこ)」とは青少年のことで、六歳から十四歳の八月までを「兵児山」と呼び、それより二十歳の八月までを「兵児二才(へこにせ)」、三十歳までを「中老」と三つに分けていました。このため郷中教育は「兵児山」、「兵児二才」を対象に行われました。
   
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/okite/okite.html
0984いい気分さん2021/02/20(土) 11:54:21.41
当時、薩摩藩には 郷中と呼ばれる青少年の教育機関が存在し、藩士の子弟は八歳のときに稚児(ちご)として郷中に加わり、二十歳で兵児二才(へこにせ)の時期が終わるまで厳しく文武の道を体得させられたそうです。
稚児と兵児二才は男色関係で結ばれていて、薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされず、武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあったといわれています。
0985いい気分さん2021/02/20(土) 11:54:39.32
福島県会津若松の(県立)博物館で、白虎隊の出陣装束を着せた少年の実物大人形を見たことがあります。それはとてもカラフルで美しいものでした。実用だけを考えればあんな派手でなくていいはずです。不利な戦況のために兵員が足りなくて少年までが動員されたというのではないんだと思います。何か古代の名残りを伝えたものがあって、美少年たちはもともと軍のシンボルとしての存在でしたので、軍が敗れれば美しい装束のまま自決しか道はなかったのでしょう。
 会津を破った薩摩の兵児二才制度もまもなく近代化され、かつて神を招き寄せた美少年たちは、もっぱら粗野な軍人どもの肉欲の餌食とされる時代になっていってしまったのです。
0986いい気分さん2021/02/20(土) 11:55:20.45
十八結交健児社とは頼山陽が薩摩兵児を謡った詩中の一句で随分人口に□灸しているが今尚此健児の社は存続されて鹿児島に於ける青少年教育の一大機関を為し学校以外の学校として其品性の陶冶、精神の訓練に於ては依然として中枢たるの観がある誠に他の地方に見る可らざる一種独特の制度で鹿児島に遊ぶ者の見落す可らざるものであるが昔は之を郷中と呼び今は学舎と称して居る、其精神に至っては固より変る所が無い起源は遠く三百余年の昔にありて郷中規約の最古なる者としては慶長元年新納武蔵守忠元の手書と称するものが今花田中佐の督する会文学舎に蔵まってあるそうで二才咄格式条目と題し兵児の守るべき条々を一ツ書にしてあるとか
 郷中制度は旧藩時代い於る唯一の子弟教育機関(造士館及演武館の創立は安政二年)で当時少年時代を二期に分ち六七歳以後前髪のある頃を稚児と云い十四五歳に至り前髪を去れば兵児二歳と称し稚児頭、二歳頭ありて各其部を統べて居た二十二三歳迄は稚児二才の交際を為し其居所に依り区域を分て郷中と唱え厳格な規約を立てて其方限内にて親睦を交び長幼の次序を正し夙夜文武を励むの外他郷と猥りに交際するを禁じて居た其結果同じ郷中では兄弟の如く親しむ代り他郷に対しては自然競争の念を養成し団結心の鼓吹、敵愾心の昂上に非常の効果を奏したらしく士風士気の振粛作興に欠ぐ可らざるものと成った併し競争が盛んなれば蝸牛角上の争いが得て起り易きもので個人同志の行違いから郷中と郷中との問題となり談判破裂して互に隊伍を組命の取り遣りを演じた事も甚多く夫が明治の代までも残りて学校生徒の間に血を流した事が珍らしく無かった所謂他所者排斥は斯かる気風の産物ならんも這は寧ろ白璧の微瑕とすべく之が為に其美点を没却する事は固より出来ぬ
 郷中規約は多少の相違あるも大体は同一で児童六七歳に成ると皆郷中に入り初めて学に就く、郷中の集会所は私塾又は私宅で毎日巳の刻に出席して師から経書の素読を習い一旦家に帰り申の上刻に再び出席して自由に遊戯し申の下刻から武芸の練習に掛り日暮れて家に返り十五歳以上所謂二才組は更に夜学に就き或は輪講を為し或は講義を聴き軍書又は士道の心得に就て切瑳研究し以て精神と身体を鍛錬した二十四五歳に成れば郷中を去りて或は妻帯し或は役務を奉じ広く有志年長者と交際し尚退社後も郷中の事を世話し幼年者から先輩として尊敬さるるのが例であった郷中は元咄合中と称し東郷重資氏の説に由れば初め青年子弟相集まりて互に志気を砥励し又は勇武の士を慕いて之を首領に仰ぎ一団を造ったのが其起因で後世此制が漸次発達して麑城のみで三十以上城下以外を合し百二十余の諸郷が互に比肩して相下らず団結を堅め制裁を厳にし勢力を張って居たのである
0987いい気分さん2021/02/20(土) 11:55:27.34
 郷中で学ぶ所は儒教、奉ずる所は英雄崇拝宗、尚ぶ所は豪傑学であった四書五経が経典で明君日新公の伊呂波歌、義弘公の虎狩の書は暗誦科目となされ平常勇気奮発の□□□□□とし和漢古今の英雄豪傑忠臣義士を仰慕するのが習慣で伯夷救斉、諸葛孔明、文天祥、楠正成等は就中其信仰の対象であった謂わば悲憤慷慨の集団で婦女子との交際は固より厳禁、市中商人との交際も同様、品物を買うにも自身金銭を握ることなく必ず年長者同行で町家に入り又暑中も日傘を用いず夜中は木刀一本で提灯を携えず着者は木綿、履物は棕櫚緒に限り又臨機応変の為めの詮議や夜間の勇気試みなど色々の手段を用い殊に奇抜なるは制裁の方法で練争が初刑、義絶が極刑で撮み廻し、打ち廻し、押揉み、蒲団被せ等が行われた右の中女人禁制には流石の隼人も大分悩んだらしく其救済法として現われたのが例の薩摩名物のオカマである。  新聞記事文庫 日本(5-010)
福岡日日新聞 1913.5.24-1913.6.2(大正2)
0988いい気分さん2021/02/20(土) 11:55:50.31
薩摩の「郷中(ごちゅう)制度」とは、地方によって呼び方が変わり、「兵児二才(へこにせ)制度」と言われるものと一体のもので、薩摩の男色文化といえる。優れた男色の社会的制度(若衆組)と言うことができよう。いわば藩を上げての“お稚児さん”制度、「賎のおだまき」の世界ということ。
【男色」とは元服前の“前髪”の稚児・・若衆(わかしゅ)と二才(にせ)・・元服を済ませ前髪を取った、妻帯まで・・との【義兄弟の契り】(肛交)を伴う「美童愛」によって結ばれた組織(若者宿・学舎)のことです。
0989いい気分さん2021/02/20(土) 11:56:22.26
薩摩隼人が男色で有名であることは昨日紹介した。その根源は「契りをもって和となす」といったような秘密結社的な要素が存在するようだ。薩摩の文化や言語にその結社的なもの中核にあるのは周知の事実である。
そのためか、薩摩の男色文化は都における稚児の世界とは異なり、武家特有の荒いものであったようだ。
若い少年たちは「兵児二才(へこにせ)」と呼ばれた。余談であるが、「兵児帯(へこたい)」はここから来ている。文献によると、7歳から14歳までの少年たちは「兵児山」と呼ばれ、14歳から20歳までを「兵児二才」と呼んだ。そして20歳から30歳までの大人たちを「中老」とし兵児のグループをマネージした。
当然、武士の組織であったため武芸と礼節を磨くことを中心とした。
特に薩摩隼人の間には、「恥を知る」ということが大切にされた。彼らの結社的つながりには「菊花の契り」が重んじられ、この「契り」を結ばぬような男は一人前とは見なされなかったという。
これらの「契り」は何も薩摩のみのものではなく、武士の歴史のなかではそこら中に溢れている。
しかし、西郷隆盛に薩摩の兵児らが賊軍と見なされようが最後までついていったのはこのような背景も加担しているのであろう。
西郷にはさまざまな男児の愛人がいたようで、それは小説「よかちごの死」に詳しい。内容は西郷の愛する稚児が主人公の嫉妬で殺されてしまう、というものだ。
織田信長と蘭丸しかり、わが国には稚児文化が社会の上層に行けば行くほど溢れていたのだ。
0990いい気分さん2021/02/20(土) 11:57:04.49
ところで、著者の白州正子さんは(このところ再ブームの白州次郎の奥さんだ!)、薩摩隼人の海軍軍人・樺山資紀伯爵の孫娘で、薩摩人に囲まれて育ったため幼い頃から「よか二才」とか「よか稚児」とかいう言葉をフツーに耳にしていたそうだ。
なんといっても薩摩隼人は「男色の道では群を抜いていた」(爆)そうで、著者は「彼ら武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあった」と断言しちゃってる。
そんなわけで、「郷中教育」はもちろん薩摩の男色文化についても書かれているのだが、さすが薩摩人…の親族の証言だけに、いくつか紹介したエピソードはとってもリアル。中には著者の祖父が登場する話もある。
0991いい気分さん2021/02/20(土) 11:58:32.67
ちなみに「郷中」とは、郷と呼ばれる地域ごとに分けられた「武士育成のための教育的役割を持った」青少年団体で、元服前の「稚児」を元服した独身青年の「二才」が指導&保護監督するシステム(白州さんは“一種の秘密結社のようなもの”ではなかったか、とも言っている)。
彼らの間に肉体的な交渉があるのは当然で、しかも稚児は他の郷中の二才とは交際厳禁、断りなく郷の外に出てもいけなかった。
郷中内だけの排他的かつ密接な交友が強調された結果、ついには1人の少年を「稚児様」と呼んで皆で崇め奉り、夜には他郷の二才たちに奪われないように交代で少年が寝ている部屋の寝ずの番をするところまでエスカレートしていったそうだ。
そもそも薩摩は、路上で女子に出会うと穢れが身に及ぶのを恐れて避けて通ったというほどの女性忌避のお国柄。
青少年が婦女子なんかに関わって軟弱になることを防ぎ、勇敢な士風を養うには男色が必要とされていた。
そんなわけで、西郷隆盛や大久保利通も嬉々として「稚児様」にお仕えしてたのだ。
西郷どんはともかく、一蔵どんがあの厳めしい顔で美少年のお部屋の門番をしていたかと思うと笑える。
0992いい気分さん2021/02/20(土) 11:59:30.16
ここで幕末ファンの人にすごく面白いエピソードをひとつ。
幕末の薩摩隼人の生活と風習が見事に描かれているという「よかちごの死」という短編小説では、なんと西郷隆盛が重要な役割を果たしている。
ストーリーは、西郷の恋人である美少年に横恋慕した青年・村田が、成り行きでその少年と諍いになり殺してしまう。
殺人の責めを負って切腹することになったが、事件の背景に少年への思慕があったことだけは親族に対しても口にできない。 

http://blog.livedoor.jp/egoist777/archives/50676313.html
0993いい気分さん2021/02/20(土) 11:59:48.32
島津氏が継承した新羅の民俗

 島津氏は鎌倉幕府から日向・大隅・薩摩三国の守護に補任されて以来、六百年以上にわた
り南九州を支配した豪氏である。だが、その素性は案外知られていない。島津と称する前は惟宗氏(これむね。新田八幡宮神官も惟宗氏)と言い、氏祖の忠久は日向国守の家に生まれ、源頼朝による薩摩国島津荘の地頭職安堵が縁で「島津氏」を名乗ったのだ。その惟宗氏とは秦氏である。やはり、源氏の鎌倉幕府とは「新羅」系政権と言えそうか。

 幕末の西郷隆盛や大久保利通らは貧しくとも「藩士」であった。彼らの伝記などを通じて、薩
摩藩には厳しい藩士教育の伝統があったはよく知られている。特に「兵児二才」(へこにせ)と
呼ばれた青年たちの若者組が有名であろう。そこでは、藩士や戦士としての予備教育が行な
われたことは言うまでもないが、そればかりではなかった。民俗宗教的な側面が強くあった。

 名門の美少年を「稚児様」(ちごさま)と称し奉り、集会や合宿、また「山野遠遊」(本来の意味
の「遠足」:ワンダーフォーゲル)を行ない、戦さには稚児様を先頭に青年戦士団として戦場へ
赴いた(天草の乱などでの記録がある)。この稚児様とは、八幡神の依り代であった。実は、新
羅に「花郎」(元々は「源花」と呼ばれた女性、つまり巫女であった)と呼ばれる貴族の美少年を
奉ずる青年戦士団がり、同様の民俗があったのだ。
0994いい気分さん2021/02/20(土) 12:00:08.60
 三品彰英氏の研究によると、この民俗が最も残っていたのが国分と出水(いずみ。鹿児島県
北西端。ここにも八幡宮がある)であった。国分とは大隅八幡宮と韓国宇豆峯社の地である。
国分兵児の重要行事に三月の正八幡宮参詣があった。このとき、出水兵児も稚児様を奉じて
参詣し、国分兵児と交友し、武道を競った。出水兵児は九月には川内の新田八幡宮にも参詣
した。また、国分兵児も、九月下旬の出水八幡宮祭礼に稚児様を奉じて参詣し、出水兵児と交
友した。さらに彼らは、秋の彼岸には韓国岳のある霧島山峰へ「霧島参り」を行なっていた。新
羅の若者たちが花郎を奉じて霊山の金剛山などに登っていたのと同様だ。

 その他、例えば出水は六地区に分けられ、兵児二才もそれに従って編成されたが、これも聖
都(ソフル)慶州が六村から成っていたという伝承を持つ新羅や、黄金の六つの卵から生まれ
た男子が六加羅の王となったという神話を持つ加羅の、聖数「六」に基づく。宇佐の辛島ハトメは、隼人の乱のとき「神軍」を率いて大隅に向かったが、このときハトメは八幡神の依り代である「源花」であったのだ。

http://www.k5.dion.ne.jp/~coppe/page015.html
0995いい気分さん2021/02/20(土) 12:01:57.68
「三品彰英論文集」, 2003/6/22

いづれも興味深江い研究文集ですが、とりわけ第六巻の「新羅花郎の研究」が優れた内容で推奨に値します。  古代新羅で貴族の美少年を「花郎」と称して美々しく粧飾させ、彼に男性戦士団が奉仕していたことは、『三国史記』や『三国遺事』などの記述から夙に周知の通り。その新羅花郎の制度について詳細に研究し、さらに日本の薩摩地方に見られた稚児様に仕える士族青年たちの「兵児二才」制度や、対馬の男子盆踊り組合集団、台湾先住民諸族の男子年齢階級組織、北米先住民たちの戦士組合と成年加入式などとも比較考究してあるので、世界各地の男性ばかりの集会組織や加入儀礼に関して、かなり「面白い」考察と論考とが楽しく読めます。
0996いい気分さん2021/02/20(土) 12:02:19.22
嘆きの淵に流離(さすら)うる身は―――――西郷とあのひとの真の関係を? まさかな。

 だがどうしても分からなくて、私は井上に問うてみた。・・

『じゃーさ、こっちから聞くけど、え〜と伊藤先生、稚児って言ったらなんでしょう?』
『…は?』『だから稚児だよ。稚児趣味の稚ー児ー』『こっちも真面目なんだよ伊藤センセー。…稚児ってなぁに?』『そりゃ……つまりそういうことだろう』
『そーそー、よく分かってるじゃん。十三歳の秋説が有名だね、我々の間では』
『十三歳の秋って……ちょっと早すぎない?!それともまだからかってンの?』
『からかってなんかないし、早くなんかないよ。陰間は早ければ早いほどいいんだ。慣れるのが早いから』『か、陰間……』
『確かさ〜僕の知ってるところでは、薩摩藩では、十歳から十四歳までを長稚児(おせちご)って言って、元服した二才(にせ)から直接監督されるらしいよ。あれとかこれとか』
 言いながら井上は自分の頬の前でひらひら掌を返したり、拳を作った手から指を出したりしている。私はそれを呆然とみている。
『あれとかこれ…』
『薩摩藩は男女関係が厳しいところなんだってー。少なくとも、長州みたく、すれ違って「お久しぶりです」「まぁ御機嫌よう」なんてことは言ったりしないわけ。でも男は餓えまくり。でー、例の巨人とあのひとは同じ町内で、郷中も同じだった。郷中は知ってるよね』
 地域別に設置された少年教育制度のようなものだ。
『知ってるけどさ…』
『で、巨人が元服した時点であのひとはまだ長稚児だった。元服は成人の証ということで、めでたしめでたし』『って、えー………』

http://balsamicmoon.net/lc-nov-nageki.html
0997いい気分さん2021/02/20(土) 12:02:55.22
一、 郷中教育
郷中教育は、秀吉の役に源を発し、江戸時代二百五十年の間に、次第に体系を整えていたものでありますが、その基本的特徴は、「師弟同行」といわれる異年齢集団の中での青少年の自治的な相互教育という点にあります。
それは明治維新による幕藩体制の崩壊と共に一時中断されてしまいましたが、明治十年代に至って新しい装いを凝らした「学舎教育」に継承され、学校教育の外で、青少年の人間形成のための自主的な教育機関として機能していきました。
「ごじゅう御中」とは、地域の結社で、薩摩の青少年は年齢別に、こちご小稚児(現在の小学生に該当する年齢)、おせちご長稚児(現在の中学生)、にせ二才(高校生)、おせ長老(大学生)に分けられ、武道、学習はもちろん、生活全般にわたり、集団的活動を営んでいました。負けるな。うそを言うな。弱いものをいじめるな。という薩摩三訓を根気強く教えつづけ、遂に薩摩人気質が形成されたものと思います。明治維新の立役者となった西郷隆盛や大久保利通なども、この郷中教育から生まれて来たのであります。

http://www.kodokan.org/j_words/0608_j.html

郷中教育について。いわば藩独自の
学校制度ですかね。元服前の前髪姿した少年
たちを稚児(ちご)といい、元服から20代頃までが二才、
30代より年上の年配者を長老(おさ、とも)といいました。町内で二才頭決め、
当番で稚児たちの文武両道、相撲、旗取り、
手槍、水泳などを教えたと記録されています。
0998いい気分さん2021/02/20(土) 12:03:29.11
幕末まで薩摩では、郷中制度を中心に男色が盛んに称揚された。
郷中教育は、島津義弘公(1535〜1619)の頃に確立されたとされるが、祖父の島津忠良(日新公1493〜1568)の時代にすでに郷中教育の原型が作られたようだ。

平田三五郎は、庄内の乱(慶長4年:1599年)において財部で戦死した。庄内の乱は、関ヶ原の戦い(1600年)の前年に、都城を中心に戦乱が繰り広げられたもの。このころには郷中制度はあったのだろう。
平田三五郎は実在の人物、墓(財部町史跡28) が鹿児島県曽於郡財部町古井にある。庄内の乱の様相を伝える数少ない史料『庄内軍記』は『島津史料集』がある。

財部では、大抵の者が伊集院方で戦っているが、平田三五郎は島津方に属しており、弱冠15歳で戦死している。平田三五郎と兄貴分の吉田大蔵清家のことを記した「賎之麻玉記」(しずのおだまき)という本がある。その本のことが森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」の中に「平田三五郎と云う少年の事を書いた写本があって、それを引っ張り合って読むのである。鹿児島の塾なんぞでは、これを毎年元旦に第一に読む本になっていると云うことである。」と書いてある。
 桜の木に腰を下ろし、笛を吹いている平田三五郎の掛軸が財部郷土館に展示してある。
郷中制度〈若衆宿〉は明治維新後、西郷が薩摩に下って興した「私学校」に集まった。私学校は市内に分校10校、市外に135校あって、生徒は800くらいいて硬く結ばれていたようだ。西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、この私学校生徒だったという。西南戦争には、少年兵も数多く参加していた。そして、「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさん戦ったようだ。兵児二才と男色で固く結ばれたに違いない。
 
ただ、私学校は4年間程度の短いもので、私学校は西郷が自刃した後、その伝統は、「学舎」として継承され、数は少ないものの、平成の現在でも各地に郷中教育の名残である「学舎(まなびや)」が残っています。
0999いい気分さん2021/02/20(土) 12:03:49.44
戊辰戦争では、官軍薩摩と賊軍・合津が戦った。いずれも男色の盛んな土地。
合津では、薩摩の郷中に相当する「什」があった。

合津では。「白虎隊」や「二本松少年隊」など少年兵が活躍した。これに対し薩摩のむくつけき「男色」におぼれた「兵児二才」の兵たち。

会津の中学生くらいの紅顔の少年兵たち。彼らにつかまった三五郎と同じくらいの美童の少年兵。
彼らがどんなめにあうのか・・!?
1000いい気分さん2021/02/20(土) 12:04:11.27
倉田軍平後ろより三五郎を大抱きに、宗次(三五郎)脇差抜かんと悶えるを、
小浜助五郎ひたと両手を握りて少しも動かさず、 三五郎は無念至極に思われつ 心の中は燃ゆる火の火水になれと揉みあうに、此の勢いに三五郎が髪は元結ふっと切れ梅の匂いの乱れ髪乱れて馨る春風に吹かれて衣裳の裳返る。 雪を欺くその肌に倉田小浜は堪えかね、花のようなる宗次(三五郎)をば、強力無双の両人が物の数とも思わずで、即にねじ倒し無理に本意を達せんと日も入相の無常を告ぐる山寺の鐘の音響き音添えて哀れいや増す春の暮、往来の人もあらばえに、哀れや三五郎が未だ少年の悲しさに、叶わぬ物故に詮方無くも涙ぐみ・・
ここに一人の主馬に打ち乗りたる・・
10011001Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 896日 18時間 8分 22秒
10021002Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況