0530名前は誰も知らない2016/06/06(月) 13:31:10.42ID:NkMxdYGU
宗教は哲学の答えのひとつ
神様の存在があることで自分の疑問が解決する
和辻哲郎でも読んでみろよ
宗教より哲学の方が論理性に優れエラい>>530独自の感覚が抜けないのか 哲学は、対話と結びついているから、外に(も)向かっている。
宗教は、瞑想と結びついているから、内に(も)向かっている。
哲学は内に向かい宗教は外に向かうという対比には、あまり説得力がない。
0533名前は誰も知らない2016/06/06(月) 21:46:34.58ID:K5gEfMcg
大学の、法哲学の講義は面白かったな
あんまり覚えてないけど
0534名前は誰も知らない2016/06/07(火) 17:41:27.37ID:ryqKLn+l
面白いのは同意だけど、果たして法哲学は「哲学」と言えるだろうか?
内的な人間本性を明らかにしようとするのが人文科学たる哲学であって、法哲学はむしろ社会科学の一部として単に「法学」とするのが妥当ではないか
...数年振りにスレが盛り上がってきたので一石。
>>335
挑発するお
釈尊>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>>>>ゲーデル お
数学科から哲学科に変更する人たちはカントに惹かれる人多いお
釈尊や龍樹を知ることなく、感じることなく 終わってしまうお 数年振りって言うからいつ立ったのかと思ったら…
なかなかの年数ですね
哲学なんてにわかのど素人だけど面白いから好きだ
感覚もいうか直感だけで世界の成り立ちを考えるってすごいよな
0537名前は誰も知らない2016/06/08(水) 01:47:50.51ID:NHDJ3X9p
直感で本質を捉えて、後追いで論理を構築していくからな
才能が必要
俺には_
0538名前は誰も知らない2016/06/08(水) 17:58:31.92ID:4Vb1jXzI
経験も必要だよな
いろんなものを観ていろんな人と会ってたくさん勉強してその中でひらめくんだろうな
みんな死ねばいいのに
0539名前は誰も知らない2016/06/08(水) 18:04:01.09ID:6/YmhtGv
むしろいろんなものを観れない、いろんな人と会えない
そんなフラストレーションが哲学への意志を生むのではないだろうか
ニーチェなんかは典型的だが、哲学のためには孤独が必須とする思想家は多い
0540名前は誰も知らない2016/06/09(木) 08:32:55.21ID:RkDsj9+B
確かに独りだからこそ悩むんだろうな
周りに友人や家族がいて満たされていれば、その世界に疑問を感じる人は少なそうだ
0541名前は誰も知らない2016/06/10(金) 09:10:06.01ID:yVIavMS8
>>531はなぜ宗教より哲学の方が論理性に優れエラいと読み取ったのか
どこにもそんなことは書いていないのに 0542名前は誰も知らない2016/06/10(金) 15:53:34.13ID:eYp2anI7
エラいかどうかはともかく、哲学の方が論理性に優れているのは事実だと思われ
宗教における神の存在認識なんかは論理すっ飛ばして直観・信仰するもんだからな
哲学の範疇で捉えるなら、カントにおける「崇高」概念が近いだろうか
哲学は真を求める
宗教は聖を求める
道徳は善を求める
0544名前は誰も知らない2016/06/10(金) 16:25:03.84ID:qjFhNk4m
芸術は美を求める、で真善美完成だな
宗教は「神を求める」ではいかんの?
0545名前は誰も知らない2016/06/10(金) 16:37:58.86ID:qjFhNk4m
真・善・美というイデア論的な客観的価値規範がそれぞれ知性・道徳感・感性という能力に対応するとしたら、
「神」の認識はどのような能力に付属するのか
まして「神」がこの三類型の理想価値に含められていないのはなぜなのか
神を奉じない宗教もある。神より聖の方が包括的。
真・美・善の伝統的な三分法と異なるのは、自分なりの考えがあってのこと。
詳細はいつかどこかで、と言い訳しておく。
0547名前は誰も知らない2016/06/10(金) 21:01:59.04ID:IGpFP6rV
「真を求める」はずの哲学は、実のところ「真」なる概念の非存在・不可能性の証明の歴史を辿ってきた
「真」の存在を肯定する(疑わない)者はもはや哲学者ではなく、何らかの宗教の信徒だ
0548名前は誰も知らない2016/06/11(土) 00:20:27.86ID:b1W5YqJV
真理を証明することができない、のであって
真理の存在や可能性がなくなったわけではない
むしろそこが宗教と共通するところだと思います
神の存在と真理の存在、無いとも有るとも証明できない
そして真理を信じる人は宗教の信徒になるなら、何かを信じる人は宗教の信徒ということになる
じゃあ哲学者と呼べる人はどんな人だろう
自分でそう言い切るしかないのかな
真理の話は嫌いだなぁ
真理の追究は、特定の物の見方を絶対と信ずることと、必ずしも同じではない。
0550名前は誰も知らない2016/06/11(土) 18:53:41.37ID:TXESai2A
むしろ逆だろ
いろいろ学説はあるにせよ、哲学の概ねの結論は真理や神は存在しない(ないし認識できない)ってとこ
「特定の物の見方を絶対と信ずる」ことは真理の追求の逆
0551名前は誰も知らない2016/06/11(土) 18:54:34.13ID:TXESai2A
ついでに、真理とは「追究」ではなく「追求」するものだと個人的に思う
0552名前は誰も知らない2016/06/11(土) 21:39:10.90ID:b1W5YqJV
今やっとわかったけど>>550は>>549に対してだよな?
自分なりの解釈だと
>>549は、真理の追究、つまり哲学は、特定の物の見方を絶対と信ずること、神を崇拝することかな?これは必ずしも同じではない
要するに、哲学と宗教は違う、と解釈しました
>>550の後半2行も同じことを言っているように思いました
あってるかな? 0553名前は誰も知らない2016/06/12(日) 00:26:28.82ID:ZkBoi+pb
>>552
あ、そうっす
こういうこと>>528 なんじゃないかと思ってます
どうも部外者から見れば、
右翼と左翼が反目しあっているようでその実「政治」という価値軸の周縁を回っているように、
哲学も宗教も同じようなもんじゃないかと思われてる節がありまして
まぁ、真理と神を巡る同じ穴の狢ではあるんですが
しかし「しばき隊? ああ、ヘイトスピーチっていうのをやってる人たちでしょ?」と混同されて左翼が発狂するようなもんで、
絶対的な何ものかに対する信仰を哲学と混同されることは、哲学に関わってる者には我慢ならんところがあります
あなたはそうではないようで。失礼しますた 0554名前は誰も知らない2016/06/12(日) 00:32:58.00ID:ZkBoi+pb
関係ないかもですけど、一昔前、孤男板には宗教スレもあったんですよ。
政治経済とか学問スレもありました。
哲学スレだけ変に生き残ってるのは不平等?な気もしますね
哲学 世界や人生に関する見方
宗教 世界や人生に対する態度
道徳 世界や人生における振舞
0556名前は誰も知らない2016/06/12(日) 19:30:02.35ID:pU3TihU3
道徳は宗教に入れちゃっていんじゃね
その分類で言っても、宗教は振舞込みの態度求めるから
0557名前は誰も知らない2016/06/13(月) 23:52:39.86ID:f7FslTO6
>>554
哲学ってなんかよくわからない、曖昧な学問って感じがします
簡単に言うと自分や周りの、感性や表現を疑うことが哲学だと、自分自身そう考えてます
そうするとやっぱり、哲学と宗教の違いは疑うか信じるかじゃないかな 哲学は、学としての哲学と生きるための智慧のようなものとしての哲学に区別される。
信ずることは疑うことと切り離せない。
たとえば信仰を持つ人は世俗的なものを大いに疑う。
0559名前は誰も知らない2016/06/14(火) 23:11:13.81ID:b16C7mxU
学としての哲学は純哲、生きるための智恵は思想やな
まぁ純哲組みに言わせりゃ思想なんてのは「人生訓」。自己啓発の棚にお帰りください
まあ昨今の「純哲」など哲学史についての知識のひけらかしにすぎないのであろうけれども。
知る(科学・哲学)
信じる(宗教初期)
ーーーーー壁があるーーーー
感じる(芸術や悟りの真骨頂)
学としての哲学は、メタ科学・メタ知識的な学である。
そのように思うのだが、これは正しいのだろうか。
0563名前は誰も知らない2016/06/20(月) 22:12:36.64ID:yhqgEa9J
正しいと思う
逆に言えば、メタな角度から切る限りあらゆる学問が哲学になり得る
法学は法哲学に、政治思想は公共哲学に。
単純に言うと
大分類:学問
中分類:西洋の学問
小分類:哲学
ぐらいの認識
哲学は訳語だから普遍的なものじゃない
>>562-563
歴史的には
哲学の前に科学があったんじゃなくて
科学の前に哲学があったわけだから
科学を記述説明するためのものが哲学だという認識はいかがなものか ○○するのは当然だ
○○はこういうものだ
上記みたいな考え方をする理由って何なんだろう
そして人は何を根拠に上記みたいな考え方をしているのだろう
0566名前は誰も知らない2016/10/24(月) 13:53:46.34ID:vE3wAdC7
経験からだろうな
数学も科学も結果が全てで、理由をあとから考えてるように思うね
0567名前は誰も知らない2016/10/25(火) 00:50:53.01ID:07R4Z8Bn
トルストイが何故、あんな風に悩んだのか俺なりに考えてみたんだけど
彼はギャグが滑ったあとの、あの身も凍るような静寂が耐えられなったのではないか
と勝手に思い耽りながら
もし彼が隣に座っていたのであれば、こうアドバイスしたであろうと考えた
トルストイ君。今、気に必要なのは余裕という概念だよ
ほら今から僕が見事に滑ってみせるよ。見ていてごらんよ。
・・中略・・
見事に滑ってみせた僕をまじまじと見つめるとトルストイ君
彼が口を開こうとした、その瞬間入口から面倒なものがやってきた(to be continued)
何で人は現象学的なことを考える人が少ないんだろうって考えてみた
・・・熱い冷たいは心が分けたのだという風に
われ思うゆえに我ありの我が思う事に依存してしまっている様に
今だけが有るならそれは有るの一繋がりでしかない
還元されるからね今のこれに。
これ以外が有ると言えるならとAと非Aが
いっしょにあるという事である、だがそんなことはありえない
なぜなら今しかないからだ。空間的にいえばもっと分かりやすく繋がっている
無限にわけられる=境目無しだから。
変化を認めるとすればそれは
頭をぼんやりさせることで有ると錯覚できるのである
ようは真理を見て見ぬふりをすることである
ぼんやりしていることが変化に思えてくるのである
ぼんやりしていたいんだよな心は
意識一人が怖いからだ。だから無意識というものに夢をはせている
死んだような気分?のようななにかに、自分の中の別の自分を感じている
つまるところ意識とは離れた意識というものを捏造した!
集合無意識という概念によってさらに世界をぼんやりとしたものにしてしまった
・・・もっとまとめるとこうなる
「この世界は変化してしまう」
「この世界は物理法則に縛られている」
かーらーの、ある種の否定(否定的な感情やら)から入ることによって
それが真実であると確信してしまうのではないか
「そうだよなこれが」「みつけてしまった」「ハッちがうな!」ああ解釈しだいだ、って。
それもこれも、(やはり)この世界が自分一人の夢で変化すら有り得ないのだと
つまり孤独であると分かるのが怖いからだ、宇宙の仕組み的な話で。
で、「この私の様に感じているようなこれ」が
居るか居ないか「だけ」という「当たり前の真理」から遠ざけている。
ぼんやりさせる「「分からないということが常識」」になってしまった・・・!
ということで「当たり前では無い真理」に届きもしない
そっちの方が大事なのにさ。
銀河鉄道の夜にでてくるプレシオスの鎖ってのは
こういう人の心の恐怖の事なんじゃないかって思った
文章下手すぎて何言ってるかわからん
>何で人は現象学的なことを考える人が少ないんだろうって考えてみた
もうこの時点で文章が崩壊している
頑張って添削してやるから少し待ってろ
とりあえず最初の部分
先生間違ってたら教えてください
何で人は現象学的なことを考える人が少ないんだろうって考えてみた
○どうして現象学的に物事を捉える人が少ないのかについて以下のように私は考えた
・・・熱い冷たいは心が分けたのだという風に
○熱いか冷たいかの認識は心が分けたのだつまり
※「…」が文頭にくる理由は不明だが恐らく意味はないだろうと判断し削った
われ思うゆえに我ありの我が思う事に依存してしまっている様に
○「われ思うゆえに我あり」という時の「我」の主観に依存しているように
今だけが有るならそれは有るの一繋がりでしかない
○今だけが存在しているならそれは存在しているものの繋がりとしてしか認識できない
※「有る」は「在る」の間違いと判断し「存在している」とした
また「今だけ」の意味が「現在だけ」なのか「今在るものだけ」なのかわからなかった
還元されるからね今のこれに。
○それは今の「これ(主観、認識)」に還元されてしまうからである
※「これ」が何を指しているかわからなかった
現象学の話だから恐らく「主観」だろうと判断した
これ以外が有ると言えるならとAと非Aが
○もし「これ」以外が存在していると言えるなら「A」と「非A」とが
いっしょにあるという事である、だがそんなことはありえない
○同時に存在しているということになってしまうが、そんなことはありえない
※「A」と「非A」と言われると
「犬」と「犬でないもの」のように考えてしまうので、
同時に存在することがありえないとどうして言えるかよくわからなかった
なぜなら今しかないからだ。空間的にいえばもっと分かりやすく繋がっている
○なぜなら認識は今にしかないからだ。空間的に考えれば存在しているものは繋がっているというイメージがもっとわかりやすくなるだろう
無限にわけられる=境目無しだから。
○無限にわけられるということは境目がないのと同じだから
※前文とのつながりは不明
次
変化を認めるとすればそれは
○変化を認めるとすればそれは
※何の何への「変化」かそして前文とのつながりは不明
頭をぼんやりさせることで有ると錯覚できるのである
○頭をぼんやりさせることで存在していると錯覚しているからである
ようは真理を見て見ぬふりをすることである
○ようは真理を見て見ぬふりをすることである
※何が「ようは」なのか不明
ぼんやりしていることが変化に思えてくるのである
○頭をぼんやりさせ錯覚状態に陥っているため「変化している」と思えてくるのである
次
ぼんやりしていたいんだよな心は
○ぼんやりしていたいんだよな心は
意識一人が怖いからだ。だから無意識というものに夢をはせている
○意識することが怖いからだ。だから無意識の中に夢をはせている
※「意識一人」の意味がよくわからなかったので後の文から「意識すること」とした方がしっくりくるなと思いそうした
死んだような気分?のようななにかに、自分の中の別の自分を感じている
○「死んだような気分?」のような何かに、自分の中の別の自分を感じている
つまるところ意識とは離れた意識というものを捏造した!
○つまるところ意識とかけ離れた別の意識を捏造した!
集合無意識という概念によってさらに世界をぼんやりとしたものにしてしまった
○集合無意識という概念によってさらに世界をぼんやりとしたものにしてしまった
・・・もっとまとめるとこうなる
○もっとまとめると以下のようになる
※「…」が文頭にくる理由は不明だが恐らく意味はないだろうと判断し削った
「この世界は変化してしまう」
「この世界は物理法則に縛られている」
※なぜ挿入されたか不明
かーらーの、ある種の否定(否定的な感情やら)から入ることによって
○カーラーの言うとおり、ある種の否定(否定的な感情やら)をもって認識を対象に向けることによって
※「かーらー」は人名か?
それが真実であると確信してしまうのではないか
○「この世界は変化してしまう」、「この世界は物理法則に縛られている」ということが真実であると確信してしまうのではないか
「そうだよなこれが」「みつけてしまった」「ハッちがうな!」ああ解釈しだいだ、って。
○そして、そのまま思索を続けるうちに「そうだよなこれが真実だ」「真実をみつけてしまった」「いや違う。真実かどうかは解釈しだいだ」と人は気付くのだろう。
最後
それもこれも、(やはり)この世界が自分一人の夢で変化すら有り得ないのだと
○それもこれも、(やはり)この世界が自分一人の夢で変化すら有り得ないのだと
つまり孤独であると分かるのが怖いからだ、宇宙の仕組み的な話で。
○そしてそのことが意味することつまり宇宙の仕組みとして自分が孤独であることがわかるのが怖いからだ
で、「この私の様に感じているようなこれ」が
○そのため、「この様に感じている私のような存在」が
居るか居ないか「だけ」という「当たり前の真理」から遠ざけている。
○居るか居ないか「だけ」が問題だという「当たり前の真理」から遠ざけている
※何を「遠ざけている」のかは不明
ぼんやりさせる「「分からないということが常識」」になってしまった・・・!
○世界をぼんやりさせるつまり「分からないということが常識」になってしまった・・・!
ということで「当たり前では無い真理」に届きもしない
○そのような常識の下では「当たり前ではない真理」に届きもしない
そっちの方が大事なのにさ。
銀河鉄道の夜にでてくるプレシオスの鎖ってのは
こういう人の心の恐怖の事なんじゃないかって思った
※「プレシオスの鎖」の意味を調べるのが面倒なのでもうやめた
結局のところ
現象学の前提に沿って思索を進めていくと「真理」に達してしまうがその「真理」は人々にとって都合が悪いものだから蓋しとけばいいやという考えがあるから現象学的に物事を捉える人は少ないっていうことに私は気付きました
って言いたかったの?
どうも有難うございます。あーすごい、正しい文法ってすごい!
でも、ちょい引っかかった部分を(拙い文章力だとしても、今の私では・・・w)書きます。
>>われ思うゆえに我ありの我が思う事に依存してしまっている様に
○「われ思うゆえに我あり」という時の「我」の主観に依存しているように
こまかいけど「我の主観」の方が良い気がします、我を否定してるわけなので。
>>いっしょにあるという事である、だがそんなことはありえない
○同時に存在しているということになってしまうが、そんなことはありえない
「これ(A)があるからあれ(非A)があり、あれがあるからこれがある」
というのを迫真的にいいたいんだけど、
たしかに「時間」と「物体とか空間的広がりを持つもの」を
無理やりくっつけすぎたのかな。全然わかりづらいし
おかしいと思います、先生!
>>かーらーの、ある種の否定(否定的な感情やら)から入ることによって
○カーラーの言うとおり、ある種の否定(否定的な感情やら)をもって認識を対象に向けることによっ
て
※「かーらー」は人名か?
ええ〜!そういうボケいらないから!カーラーは髪をまくやつでしょ、いや
「何々からつなげて」的な意味ですよ。いや日本語おかしいとしても、分からないかなあ。
>>「そうだよなこれが」「みつけてしまった」「ハッちがうな!」ああ解釈しだいだ、って。
○そして、そのまま思索を続けるうちに「そうだよなこれが真実だ」「真実をみつけてしまった」「
いや違う。真実かどうかは解釈しだいだ」と人は気付くのだろう。
これはちょい違います。いやまあ確かに私の下手な文だとそう見えるけど。
「「」内のセリフによって「解釈次第だ」・・・という勘違いを起こしてしまう」ってこと
>>意識一人が怖いからだ。だから無意識というものに夢をはせている
○意識することが怖いからだ。だから無意識の中に夢をはせている
いやちょっと違う気がします。
「無意識が有るんだ」っていうのは勘違いだろう、ってことを言いたいんですよ。
>>居るか居ないか「だけ」という「当たり前の真理」から遠ざけている。
○居るか居ないか「だけ」が問題だという「当たり前の真理」から遠ざけている
※何を「遠ざけている」のかは不明
「還元されてしまう」ってことかな。「有」への
>>結局のところ
現象学の前提に沿って思索を進めていくと「真理」に達してしまうがその「真理」は人々にとって都
合が悪いものだから蓋しとけばいいやという考えがあるから現象学的に物事を捉える人は少ないって
いうことに私は気付きました
って言いたかったの?
都合が悪い、というか、気分が悪くなるけど
本当は解決しなくちゃと思ってもいるんじゃないか?って思っています
ただ怖いから現象学(や中論唯識)に書かれているような思考の進め方
(物自体や他者を一旦おいて思考を進めるようなこと)は
あんまりしないようにしてる、ってこと、、かな?
>>「無意識が有るんだ」っていうのは勘違いだろう、
ってことを言いたいんですよ。
っていうか、有るって証拠もなしに有るって言っている。
つきつめるのが怖いから、なんとなしに無意識は存在している
ということにしている、といえばいいか?
人の心を説明するのにあたり、
その存在を想定せざるをえないけれども、
名指すのが困難だから、
「エス」と呼ぶのだ。
証拠がないというのとは違うと思う。
577でいいたいことは「人の心」とか「この私」についてでは無いからなあ
(人の心といわれる以前の)ただの今のこの「これ」の話であって。