本当は咳をやる人間の主体的行動であるのを前提として把握していて
自分の人格否定のように受け取っているから問題視している
PATMを介した生理現象だと信じているなら何の意味も無い咳なのだから
問題視する必要もなくほっとけるはずだ
咳の意図が自分への人格否定と感じほっておけないくらい苦しいのなら
全責任は咳をやる側にあってそれに怒るなり相手の人間性を批判するのが筋というもの
にもかかわらず自分に対して不快な咳をした(少なくともそう受け取っている)相手に対しての
責任追及を放棄してあるいは白旗を上げPATMという妄想に置き換えてあくまで粘着し続ける

大矛盾を抱えた妄想だという自覚はないんだろうか