>>766
>>775の続き
そして、広東から香港へ行きました。香港からスマトラ。インドネシア。マレーシア。シンガポール。
シンガポールには長くおりましたが、急に兵隊たちが来なくなりました。どうしたのだろうと思っていると、戦争が中断したと言うのです。
中断したから、他のところへは行かないでここにじっとしていろ、じっとしていれば助けが来ると言うのです。私たちはテントを張ってなかにいました。
しばらくたって幌を張ったトラックが来て、乗れと言われました。どこに行くのかもわからずついて行くと、第十六軍病院という、日本軍の大きな陸戦病院でした。
そこで訓練をすると言うのです。患者の服や血のついた包帯を洗ったり、掃除をしたりするのですが、血液検査もされました。
手術のときに血液が足りなくなると、私たちのなかから血液型の合う者を招集するのです。そして献血をさせられました。
あまりたくさん血を採られて気分が悪くなり、頭がくらくらすることもありました。そうすると、ぶどう糖を一本打ってくれました。
このようにただ戦争が中断したとだけ聞いたものですから、日本軍が降伏したということも知らないままで、
国が解放されたのかどうかも秘密にされていたので、私たちにはわかりませんでした。
このようにして、八年を過ごしたのです。解放された国に帰ることもできなかったのです。
朝鮮人は一箇所に集まれば朝鮮に帰ることができるから集まれ、そして朝鮮に帰りたい者は帰り、
帰りたくない者は一緒に日本に行こうと、病院の院長が言いました。私は国に帰りたいと思いました。
そして行った所が米軍の収容所でした。この収容所でもたいへんな苦労をしました。でも最後には韓国に向かう船に乗って帰って来たのです。最後の船でした。
解放後も、八年間も私の行方がわからないので、母がとても心配していました。毎日のように、命だけは助けて返してくださいと、祈っていたそうです。
けれども母は私が死んだものと思っていました。そこへ解放後何年か経ってやっと韓国に帰ることができたのです。ところが、体がいうことをききません。
一年間、薬を飲んで養生しました。そして体が腫れてひどく悪い状態から回復すると母が結婚しろと言うのです。
私は、いったいどうして結婚することができるだろうと思うと寝ることもできず、やっと母に打ち明けました。
自分は工場に行ったのではなく、このようにして、こうこうこういう所へ行ったのだと説明したのです。
人間がそんなことをするなんて本当に信じられないと、母は言いました。
それでも母が結婚を勧めるので、しかたなく、そういう所に行ってきたということは秘密にしたまま、
日本に行ってしばらく暮らしていて朝鮮に帰って来たのだ、と嘘をついて結婚しました。相手は離婚歴のある人でした。
ところが、子どもができません。子どもができるはずがないでしょう。あんなことを経験してきたのですから。
子どもを生むこともできず、夫も亡くなり、いまはひとりで暮らしています。
戦争が終ってもう五十年が経ちます。それなのに日本はいまだに事実を認めていないのです。そんなことが許されるでしょうか。
私たちの国が弱かったので、私たちが犠牲になりました。私たちは一生を犠牲にしてしまいましたが、子どもをおもちのみなさんにはおわかりになるでしょう?
次の世代の子どもたちを守るために、これからの子どもたちのために、日本政府は絶対に謝罪をし、自分たちの犯した犯罪に対する補償をすべきだと思います。
みなさん。みなさんのご協力はほんとうにありがたいと思いますが、もっともっとお力ぞえをください。二度とこんなことがあってはならないのです。
でも、二度と起きないという保証はないのです。
ですからみなさん・・・うまく言葉にできません。ほんとうにすみません。とにかくお願いいたします。


「ジープ、ヘリコプター、クリスマス、ブーツ、ライフル、ペニシリン」

そんな文言1つも出て来てないんだが・・
ほんと息を吐くように嘘を吐くなバカウヨって。