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証言・金福童
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1994年3月、女性の人権アジア法廷。
「女性の人権アジア法廷」、「女性の人権」委員会編、明石書店、1994

金さんは六十九歳で、釜山という韓国の最南部に住んでいらっしゃいます。

証言 国を奪われ、人生を奪われて
金福童(韓国・日本軍「慰安婦」制度被害者)

 
みなさん、こんにちは。私は、元「慰安婦」の女性たちを代表して韓国からまいりました。
幼いころに受けた心の傷のために、日本という言葉を聞いただけで怖くてたまりませんでした。
ところが日本に来てみなさんにお会いしてみると、悪い人だとは思えませんでした。
ほんとうに親切で、私たちのために一生懸命活動してくださる日本の女性団体のかたがたに、
韓国の元「慰安婦」「だった女性たちを代表して、感謝の言葉を申し上げたいと思います。ほんとうにありがとうございます。
国を失った痛みは、国を失って生きたことのある人でなければわかることはできないと思います。
私たちの国は、日本の侵略によって植民地とされ、日本の政権のもとで、朝鮮の名前も使うことができず、日本名に変えさせられました。
まだつぼみのまま、花開くこともできない十三〜十六歳といった少女たちが、数万人も連行されて犠牲になりました。
私も十六歳のときに、そのころの「挺身隊」に入りました。
「挺身隊」と聞いても何なのかわからず、何なのかきくと、日本の軍服を作る工場で働くだのと言われ、
ある程度の年になれば、家に連絡さえすればいつでも嫁に行かせてやるとも言われたのです。
当時は両親が行かせまいとしても、名前をあげられてしまったらもうダメでした。
罰を受けるのは両親でしたし、私は仕方なく日本兵に連行されることになったのです。
引っ張られて行ったのが釜山でした。私のような娘が二十人ほど集まっていました。
それから日本の下関に連れて行かれ、そこで一週間ほど監禁されました。外に出ることは許されず、そのまま船に乗って行ったのが台湾でした。
台湾でも二ヶ月ほど外に出ることもできず、一人の人に会うこともできずにいました。
戦時中ですから、思い通りに船が行き来することはできなかったのです。
それから中国広東地方に渡りました。そこでは刀を下げた位の高い軍人たちに、部屋のなかに入れと命令され、身体検査をされました。
とても怖くなりました。服もむやみに脱いだことがないのですから、いきなり身体検査をされるのがどれだけ怖いことか、みなさんご想像になれると思います。
それから、倉庫のような大きな家に連れて行かれました。
人々が行き交う廊下の両側に薄い鉄板でできた部屋が並んでいて、なかには二人くらいがやっと寝られるような寝台がありました。
夕方になって、昼間、私の検査をした人が来て、服を脱げと言うのです。昼にも検査をしたのにまた脱げと言うので、ほんとうに恐ろしかったです。
逃げようとしたのですが捕まりました。そしてどれだけ殴られたことか。自分の顔が自分の皮膚でないように思えたほどです。
朝になって、起きてトイレに行こうとしても、痛くて出ませんでした。そのことをどうやって言葉に表せばいいのかわかりません。
死のうとも思いましたけれども、死ぬこともできませんでした。
その日からずっと虐待されました。普段はまだましでしたが、週末は地獄でした。
土曜日の十二時になると、兵隊たちがたくさん出てきて、夕方五時まで列をなしているのです。まるで広州便所に入るように並んで、兵隊たちは待っていました。
日曜日には朝から夕方五時まで、まるきり起き上がることもできません。
ご飯も食べられないまま、夕方になってやっと少し休めたかと思うと、位の高い軍人たちがまた来るのです。
こんなふうにして歳月を過ごしたのですが、そこから山の方にも兵隊がいるということで、出張させられました。
一週間ほどいて、交代要員が来るともどり、またそれを繰り返すというふうでした。