近代においては、哲学がその役割を詩人に譲渡する形で生き延びてきた。
その場合の詩というのはもちろん彼が考えるのはヘルダーリンであり、
そこで成立する哲学史はニーチェからハイデガーへということになるわけです。
別にバディウの指摘をまつまでもなく、ヘーゲル以降、哲学は哲学自体に
立脚しえず、一方では「詩」に象徴される文学を、いま一方で「数学」に代表される
構造をとりこむことでかろうじて20世紀の後半まで生き延びてきた。
漱石は、哲学が見失った基盤としての思考を重ねていたと見ることが重要なんです。
もちろん、漱石をヘルダーリンとみなすわけではありませんが、
彼らしかものを考えられる人がいなかったということは歴史的現実なんです。
その彼らというのは何かということなんですね。
そうすると、僕はアラン・バディウ的な意味での「詩」あるいは「数学」ということを考えるのではなくて、
素人性だと思う。その素人性というのは柄谷さんが言われたマイナー性に結びつくのかもしれない。
理論としても、漱石は徹底的に素人でしょう。英文学をやるにしても、
素人として打って出たわけで、なぜこれだけの素人にものを考えられたのかというふうに
問題を立て直すべきだと思う。