時間って何?
この世界に時間って本当に実在していると思いますか。概念的なものではなく1つの存在として。 意味分からないワードを無理に合わせて使うとそのうちコケるんだな
自然の摂理だ
竹馬のようだ
ウマァ ただ
物理的に矛盾するものを背理法で制限して断定する方法論
反証可能性を背理法で潰していき1つの理論に絞る
条件リストから整合するものを割り出す方法論
最低条件から最低限言える理論を導く
というような方法論は
理論と方程式の定量的な整合でないが
信じるに値すると思わないか?
定量的のみが科学的手法なのか?
定義もよい定義わるい定義があるし
定量的も必ずあってるわけでもないだろう。もし定量的な全てがあってれば全ての理論を混ぜ合わせた、混濁した世界になる。定量的にもよいものも悪いものもあるはずだ
理論と方程式が整合しても、実体と異なる本質と異なることはある。ゆえに物理計算や物理量は実際の物理、物理的意味を表すわけでないと今の論調になるのではないか?
すると定量的・定義という問題でなく
正しいものが正しいわけだ
ならば
定量的・定義・でなくとも
正しい手法は他にもある
正しい手法はこれら一つではない
他の手法で記述したものも
正しければ
認めるべきでないか
ウマァ >条件リストから整合するものを割り出す方法論
>最低条件から最低限言える理論を導く
確実な条件と最低の条件で二つは違うな
>理論と方程式の整合が定量的
これはどうなのだろう?
>定義
そもそも定義と一口に言ってもどのような手法の定義か明言されていない
どのような定義が主であるのか >物理的に矛盾する
>反証可能性
原理的矛盾と論理的矛盾か
これも違うか >方程式
というのは間違いだなウマァ🐴
計算式だウマァ🐴
方程式はエックスについて求めるものだなウマァ🐴 >>45
この結果が物理計算と物理量が実際の物理、物理的意味と一致しない今の物理学になっている……ウマァ🐴
コンセンサスな定義が全て正しい、という思い込み……ウマァ🐴
コンセンサスな定義が全て正しいなら、物理的意味が通る……ウマァ🐴
定義を全て信じたら理論の混ぜ合わせ混濁した世界になる……ウマァ🐴
コンセンサスな定義同士矛盾するものがたくさん……ウマァ🐴
コンセンサスな定義なら信用できるという盲信やめるウマァ🐴
コンセンサスって……どういう意味ウマァ🐴? >コンセンサスな定義が全て正しいなら、物理的意味が通る……ウマァ🐴
コンセンサスな定義が全て正解なら全ての物理計算や物理量に物理的意味が通るはず……ウマァ🐴 時間は今のところ人間が定義した存在でしかないよなぁ メートルは人間生活では単位が扱いにくいが距離は時間
時間は距離 彼女「もーおそーい、5分も待ったじゃん」
彼氏「ごめーん」
彼女「もーおそーい、5*60*3.0*10^8mも待ったじゃん」
彼氏「こいつ何言うてんねん、そや!別れよ!」 時間は膨張宇宙でしか存在しない
宇宙膨張の開始と共に時間と空間が生まれた 宇宙膨張の開始前は、時間は存在しない?
宇宙膨張の開始前は、宇宙膨張の開始の直前だよ。 過去も未来も同等に存在してるってのに
時期を指定して言うのは無意味 光速度不変だから等価原理からして距離と時間は光速を基準に変換できる
アインシュタイン以前から電磁気学でローレンツ変換はあったが
「この変換光速になると時空が一直線に潰れるんじゃないかな?不思議ななあ?」
に特殊相対論で理論づけしたのがアインシュタイン ローレンツ変換を考えた時は時空の変換だと
思ってなくて物自体が縮むと思ってたがな なんというか・・・
光速度一定の原理は絶対座標の存在否定しますよね
座標原点は運動を理解するうえでは必要ですが存在しないということではないかと
静止は視覚としては存在しないが地球が静止していると仮定して諸天体を観測します
4次元が存在するとしたら3次元、つまり静止した物理が無限に存在することになりますから次元自体の存在には疑問が生じます
次元てのは自然の抽象ではないでしょうか
わたしや目の前の自然は次元から成るのではないのではありません
次元で理解するのですが、次元は存在しないのでは?
静止で運動を規定しますが、運動の否定である静止は存在しません
簡単に認識の在り方を考えてみます
生死は物理状態の遷移で物理としては存在しません
物理として生滅は身の周りでは存在しないのだと
ウイルスは生物非生物と分類困難ですが、生物非生物は物理状態の差異で物理としては〇ー非〇という関係ではありません 次元で理解するが次元は存在しないのでは、というのがわたしの理解です
運動は静止で理解されます
ここでかんたんに認識の在り方を考えます
規定と言い換えてもいいです
わたしはあなたでも植物でも金属でもありませんが、物理としては否定関係ではありません
わたしは物理として生成された時から現在に至るまで大きく、そしてこの今は同一ではありませんが、同一でわたしと規定されます
静止で運動を、差異ではあるが同一を非同一で、非同一である物理を同一で
つまり規定は否定だとする理解は妥当ではないでしょうか 運動を静止で規定します
有を無で、ということです
0に限りなく近いが0では無い、という奇妙な規定の所以ではないでしょうか
不確定性原理にしてもそういうことではないかと
そのままの形で測定できませんから近似値は必然なのでは?ということです
太宰治は「女生徒」という短編の中で、今は面白い、今と言うと今は飛び去るというようなことを書いています
今は物理の存在形態である、つまり物理と切り離せないのですが、運動は静止、無で規定されますから量で理解するしかないのでは?
時間が存在したらどんなに短い量でも無限の静止した三次元が在ることなるわけです
次元は運動する物理の抽象で、有、運動を、無、静止で規定するから四次元、つまり量で理解するしかないから必要なのではないかとと
自分も含めて認識される自然はそのままの自然ではないことを地動説などは示します
静止で理解するが静止は存在しません
次元で理解するが次元もまた存在しないのでは?と思ったりします >>78 訂正
静止は視覚としては存在しますが地球が静止していると仮定して諸天体を観測します 時間の定義なんて知りません。
ですが、世界中の生物は、時間を利用しています。 利用はしていない
自然は運動変化しているだけ
生物は自然の一部
その中で運動変化している
次元は自然の抽象で独自に存在してはいない ゼノンの逆説は自然が多ならばこういうことになます
自然は〈一〉ですという論旨
これは数で規定するが存在しないということ
光速度一定の原理は絶対座標、点、0次元は存在しないことを示す
また静止は存在せず運動が自然の存在形態、つまり無矛盾ということ
運動を前提に否定関係は導けないから、自然は運動するエネルギーの濃淡ということになる
ディラックの海は、真空がエネルギーの基底状態であることを示す
つまり無は文字通り存在しない
自然は〈一〉であり〈多〉ではない
認識器官に静止、生死、無は存在するが自然には存在しない
濃淡の淡を認識器官は像として生成できず自然は多として像を生成する
その抽象が次元
0次元は存在しないし点を無限に集めても、幅が無い1次元を無限に集めても
厚みが無い二次元を無限に集めても・・・
静止している三次元を無限に集めても運動するわけではない
四次元が存在するならば静止している三次元が無限に存在することに成る
否定は規定、有を無で規定するから、直接運動は捉えられず量とし捉えるしかない
時間は規定であり、存在しない
次元は、数は認識の問題であり、自然には存在しない 繰り返すけど
対象を存在として前提する
対象が無矛盾ならば存在という前提が成立する
面倒なのは存在という前提は対象が無矛盾だから決定不能、つまり矛盾ということになる
存在と規定するからこそ
運動が存在すると規定する
しかし存在とは否定、この場合は静止
今、此処に存在するのだが、今、此処、という有は指示すると飛び去る
有を無で規定するから
宇宙が存在する、宇宙は同一であることは無いが同一の宇宙と規定する
わたしという存在もまた
存在もまた同一ということ
此処に在るが、此処は運動している
運動を否定で規定している
此処に在るのだが、在るとは静止
つまり否定で規定するから、存在すると同時に存在しないことと定義しなければならない
決定不能なのだが対象が無矛盾でそれを否定で規定するから
光速度一定の原理は規定は存在しないということを示すことにより自然が無矛盾であることを証明する
規定は理解するから必要である
それは存在しないのだということ
ウイルスは生物非生物と分類困難な対象
それは物理状態を否定関係で規定するからであり、物理状態の差異を否定関係で規定することから出来するのであり、規定自身が規定困難な対象を産むだけで、なんら対象である自然の問題では無い
決定不能、矛盾とは規定が否定だからであり、なんら自然の問題では無い 科学は未だ基本が確定していない
だからこそ個々の理解は徹底的には否定できる段階じゃないのかも
いろいろあっても良いのだから、自由にやろうよ
わたしは自然の無矛盾な理解と理解とは何かを追究したい
超ヒモ理論もビッグバン仮説も認識する自然がそのままの自然という天動説の誤謬から逃れていないとわたしは理解している
「ここ」からなど無い
「ここ」までもまた無い
終わりは始まり、始まりは終わり
矛盾は規定するから
光速度一定の原理は自然における絶対座標、つまり始まりを否定している
ならば自然は無限で永遠ということではないだろうか
終始で規定するが終始は存在しないということかと だからさ、数式で観測問題は解決しないよね
重力概念も未だ未解決
いろいろ考えなおした方が良いんじゃないかなと横目で見る立場から思えるんだ
光速度一定の原理が何を示すのかはまったくの放棄状態
基本に還った方が良いんじゃないかなと思うんだ
ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が正すことは良くあることと語る
それはともかく納得できる自然観を構築して欲しい
素人には何が何やら 古代ギリシャはいろいろ面白い考え方が花開いたようだ
地動説も進化論もそうだし、フロイト心理学の祖型もあるとか
でコペルニクスとか典型に古代ギリシャに還ったりする
パルメニデス、ピタゴラスとかもあるし
数の定義である大きさが無いというのはパルメニデスの弟子ゼノンが師の自然観擁護で展開したことから
で飛ぶ矢は飛んでいないという逆説が生まれたりする
万物は流転するとか、もういろいろ
ルクレティウスのは古代ギリシャのエピクロスの祖述であり、著作が失われたから重宝されている
快楽主義という批判はキリスト教と対立するから貼られたレッテルとか
個人的にはエピクロスはパルメニデスりが認識の相対化可能にする地点にいるのに比べて本質的ではないように思える
ある地点まではとても有効な視点ではあるが
現代に必要なのはパルメニデスとスピノザだと考えている
クレタ人の逆説が対象と規定の関係の本質を示しているというのがわたしの理解 科学は否定関係と規定していたことが差異であることを証明してきた
人間も金属も真空でさえも否定関係では無く差異
否定関係で規定することは理解に有効です
ただそれは認識する上です
地球は球体と規定するのは認識の在り方に生成した自然の像です
それは自然をそのまま反映しないのだとわたしは理解します
座標原点で規定するが、それは自然存在ではありません
静止、生死、無、終始は認識器官に生成した像であり、対象と認識の関係で生成されたそれです
認識器官には存在しますが自然には存在しません
これが意味することは追究されるべきかと
追究しないから、ビッグバン仮説のように、自然科学の前提を無視する理論が跋扈するわけです
対象は自然、非自然と矛盾して、宇宙は生れるし、光速度一定の原理は無視するこの仮説の非科学性に気が付かない
観測問題も解決しないし重力、次元などがどういうものなのかもわからない かなり前に理系の方々と話していた時の思い出
お前は生死がどこからどこまでか解るのかと言われた
いやいや物理として生死は無いからと答えたら沈黙したというか
理系ばかりの住人は皆黙ってしまった
四次元が三次元の無限集合で実在していたらどうなるのか
そしてなによりもわたしという人間も無限に実在しなければならない
次元が自然に実在する・・・
さて科学はそれを証明したのだろうか
理系の方々はもう少し認識のあり方を追究しても良いのではないのだろうか 自然に存在しない座標原点で自然を理解するということが何を意味するのか現代科学は考えてみるべきかと >>93
>エントロピー増大
それ時間経過の方向な
物理的な時間は一定周期運動の回数から定義できる エントロピーは未来方向でも過去方向でも増大する
時間の方向など意味しない というか
花火ロケットみたいに
しかし
一億以上の実績を叩き出した挙句
そら知的障害に車運転してたなら立ち直れん つまりカルト集票装置で、
デイトレのみする
減価してないけどな