宗教・思想・哲学
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宗教(主に仏教)を中心に、思想や哲学も踏まえて柔軟な発想で語るスレとします。
先般スレ閉じした「新・仏教思想のスレ」の続編的なポジションです。 メモ
縁起せる故に空
理由:縁起、帰結:空
縁起せる故に無自性
理由:縁起、帰結:無自性
無自性の故に空
理由:無自性、帰結:空
まとめ
縁起は常に理由で、空は常に帰結。
無自性は縁起に対しては帰結で空に対しては理由。 空の解釈
1.空を実体視しない。
a.ものには自性はない。
b.ものには自性はないが、生滅を伴う無自性なるもの(現象)として顕れる。
2.空を実体視する。
a.空(性)自体は自性(実体)である。(他空説)
b.空性は現象世界のものと同一。 もちろん2.の実体というのはヒンズーの実在論的なそれとは別物ですけど。
絶対的に無いものは無いとさえ云えませんから、無いというのはあくまでも有るものがそこに欠けているという事になるでしょう。
「コップに水がない」というのは、「無の水がコップにある」とでも云うのでしょうか。 狂ってると言う人が狂ってるんだ
どっちが宇宙人だ?
もう死んでいるのか?
夢だろうが! テーマに関係のない事を知っていてわざと書くって、何の嫌がらせなんだろうね。
こういう奴は大嫌いなんだよ。 ころが、共同体が解体の危機に曝されるほど動揺すれば、事情は一変する。共同体が保証していた「役割」は輪郭を失い、我々は実存として剝き出しにされる。
それは「自分は何者なのか」の問いが先鋭に意識される事態である。この問いに答えを与える何か、すなわち実存に根拠を与える何かが求められたときに、「超越」的存在が必要とされるのだ。
(超越と実像 南直哉) 訂正
ところが、共同体が解体の危機に曝されるほど動揺すれば、事情は一変する。共同体が保証していた「役割」は輪郭を失い、我々は実存として剝き出しにされる。
それは「自分は何者なのか」の問いが先鋭に意識される事態である。この問いに答えを与える何か、すなわち実存に根拠を与える何かが求められたときに、「超越」的存在が必要とされるのだ。
(超越と実像 南直哉) ノストラダムスの例の予言解けました。
七人姉妹のプレアデスが1999人に達した日、息子ヨハネへの啓示が適正化される! あるいはルシフェルの覚醒の日。1999年7の月から22年と22ヶ月の日、2023年5月某日が最後の日!!! テーマに関係のない事を知っていてわざと書くって、何の嫌がらせなんだろうね。
こういう奴は大嫌いなんだよ。 変とは謂わく 、識体 (自体分 )転じて二分 (相分と見分 )に似る 。
(中略)その二分に依って我 ・法を施設す 。
(成唯識論)
>見分は有りと雖も、而も無分別をなるをもって、能取に非ずと説けり。
>取ること全無には非ず。
>相分は無しと雖も、而もこれ(いい)如の相を帯して起こると説くべし。
>如に離れざるが故に。
>自証分(いい)見分を縁ずる時に変せずして縁ずるが如く、此れも亦た応に爾るべし。
>(成唯識論) 2.転識得智の仕組みですが
見道・修道にて、
1.-1. 第六識(意識)の尋・伺(有為法/心所法/不定心所)の働きによって諸法を観察し、
1.-2. その結果、分別起の二障(我見・法見)が二空(我空・法空)所現の真如をはじめて観ます。
1.-3. 意識が妙観察智へ
2.-1. その効力が末那識に及び二空の無漏智が生じます。
2.-2. 末那識が平等性智へ
3.-1. 上記は五位百法中の心所うち、妙観察智は遍行の五、別境の五、善の十一と尋・伺の二十三か所の心所に影響を及ぼします。
3.-2. 同じく平等性智は遍行の五、別境の五、善の十一の二十一か所の心所に影響を及ぼします。
4.-1. 見道では障断の作用は粗く、修道にてその作用は細やかに作用します
佛位にて
5.-1. 上記の作用が阿頼耶識に及び、阿頼耶識が大円鏡智へ
5.-2. 5.-1.の作用が阿頼耶識の所変である前五識に及び、前五識が成所作智へ
6.-1. 3.-2に同じ
7.-1. 一切の障が断じ尽くされます まず、聞かれた教えの内容を自己の意識の中に入れるのが最初の止心で、次にそれを意識の中にはっきりとあらわし出すのが観察である。
それから第二次の止心によって、意識の中に描き出された対象に意識を集中する努力をくり返し、他のものに意識を乱されることが全くなくなるまでに至り、やがて、心は本来見るものと見られるものとに分かれているのではないということを、明瞭に知る境地が生まれてくる。
これが第二次の観察である。
最後に止観をあわせ修める段階がある。
『解深密経』の注釈を著わしたジニャーナガルバ(Jnānagarbha)は、止観を対象の探究、対象の獲得、反復実修、ならびに解脱という結果への到達、という四過程によって説明しているが、止心・観察は交替し、並行しながら、全体としてこれらの過程を経過するのである したがって、我々が使用する言語が、「正しく」世界を認識していると考えるには、文字や音声による言葉の意味するものが、個々の事物や現象の在り方を規定する「実体」や「本質」なのだと断定しなければならない。
そして、そのような言語の使用、つまり認識には、その「正しさ」を保証する根拠がある、ということになるだろう。
するとこれは、一方に「実体」的対象世界があり、他方にそれ自体で成立している認識主体がある、という形而上学的二元論のアイデアになる(上座部や近代科学の基本的な世界認識)。
竜樹はこのパラダイムを根源的な言語批判で撤廃するのである。
(存在と超越 南直哉) 「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。
このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。
「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。
すなわち、「仏」は「仏となろうとする」主体の実存様式である以外に、現実化しないのだ。
したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。
なぜなら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理念として扱われるからである。
それは「観無常」の立場が決して許容しない事態である。
そうなると、成り行きは「成仏」「悟り」が無限遠に後退し、現実的に無効になり、修行や坐禅は事実上、ただ坐禅する、ただ修行する、ということになる。
「成仏」と「悟り」は坐禅・修行という行為そのものへと脱落されるのだ。
(存在と超越 南直哉) >そもそも「仏の本質」である「仏性」は、あらゆる衆生が成仏可能であるという大乗仏教の根本命題に関わる概念であった。特に「仏になる可能性」と捉えられ、成仏のための種子のようなものとも理解されるようになった。
>そして、インドから中国へという大乗仏教の流れの中で、その有無が関心の的とされるようになり(*15)、その結果、仏性が実体化されてしまうという弊害が出てきた。
>道元は、その問題性を鋭く意識するが故に、「仏性」巻では、あえて、仏性の有無を問題としている公案を取り上げて、それを換骨奪胎し意味を変換する。
>「仏性」の「有無」に関わる公案について、あえて「有無」という問題それ自体の存在を否定し、文脈を変化させ意味を解体しつつ、その解体の過程を二元対立的な「有無」を超えた真理の現成そのものとして表現していくという、いわば「脱構築」の手法を用いる。
>この過程を通じて、「有無」という観点から「仏性」を取り上げるべきではないことを強調するのである。
そこで、「有無」を超えるものとして出てくるのが「空」である。
>(正法眼蔵入門 ョ住光子)
>デリダによる脱構築
>あるテキストがある事柄を伝える内容として読めるとき、それとは矛盾を起こす別のパラドキシカルな内容がテキスト中に含まれているとする。
>(ウィキ引用) 差遅
ソシュールはその1906年から1911年に行った一般言語学に関する講義のなかで「言語には差異しかない」と述べた。
彼によれば、記号の意味は、他の記号との違いによってしか規定されていない。
ひとつの記号は他の諸記号が「不在において」介在している限りで意味しうる。
しかも、その他のものは、その記号それ自体においては不在であるから、あらかじめどういうものかは決して規定されない。デリダはこのソシュール的な差異のあり方を痕跡として捉え、そこに時間的な遅れ、ずれを見出した。
言語においてある語が何かを意味するとき、その語は、意味されているものの代わりに、我々に対してたち現れて意味する。
代理・代表・表象する(represent)するということは、一方では代理なしでは現前(present)しないものを現前させることだが、他方では直接には現前させない、ということでもある。
代理するということは、不在の形で現前させるということでもある。
したがって、意味のあるところには、つねにすでに、他への参照、あるいは、他による媒介が働いている。
そして、そこで不在の形で介在する他のものは、しかし、あくまでも、その記号とは異なるものである限りで、その記号自身によってはコントロールできないものであることから、そうした根源的な媒介性の関係、基本的な差異化の運動には、必然的にずれと遅れが孕まれざるを得ない。
このことは別の形で言い換えるとむしろ順番は逆であって、意味がそこにあるためには、その記号は、他との関係を必要とする。
そして、そのためには、他と異なることが必要になる。
そこで、或る他との差異化の運動がまずはじめに必要となる。
しかしこの差異化は、必然的に、時間的な差異化でもある。この、他との差異化の側面が「ずれ」であり、時間的な差異化の側面が「遅れ」である。意味を為すためには異ならねばならないのだから、形而上学が想定するような、「透明でずれも遅れもない関係」=「直接性」というのは幻想に過ぎない
(ウィキ引用) 現在を構成する記号や表現は、それが意味を成すためには、それ自身とは別の記号や表現を指し示すことが必要であるが、この参照は無時間的なものではなく、必然的に時間的な「遅れ」を伴う。記号は別の記号への参照によってはじめて記号として機能するのだが、この参照に不可避的に孕まれる「遅れ」によって、指し示す記号と指し示される記号は、同一の現在の内部にあることができない。こうして、現在において不在の記号が過去として、現在の記号に痕跡として憑依するのである。
デリダはこの事実から、根源的なものは、そもそも存在し得ない「意識に直接与えられた純粋な現在」ではなく、こうして不在の過去と現在とを引き裂きつつ関係付ける差異、記号参照において孕まれる「遅れ」「ずれ」としての痕跡の働きであるとみなし、これを、差延 (differance)と名づけた。 ものが存在するという出来事をハイデッガーは、存在する対象として語りうるものとは、どうあっても異なるものであると考え、この違いを存在論的差異(Ontologische Differenz)と呼んだ。
この還元できない根源的な違いにこだわる限り、「ものが存在するということは、そのもののこれこれこういう性質である」という形式の説明は一切できない。性質や属性は、「これこれの性質が存在する」という形で語りうる対象だからである。存在することは、ものの属性ではない。また「ものが存在するということは、より基本的な何かの在り方のモードや振る舞いである」という形の説明も解決にならない。その基本的な何かは、依然として存在する何かなので、その存在がやはり問題として残るからである。
ハイデッガーは、従来の哲学はこのように存在する何かでもって存在するということを説明してきたとみなし、この存在論的差異の忘却によって、存在するということの意味を把握し損ねてきたと考えた。ハイデッガーに依れば、何かが「存在する」ということは、現に「いまここ」というものが不断に存在する、ということとの係わりでしか理解できない。そして、この、「いまここが現に不断に存在する」という出来事は、近似的にいえば、現象の場としての<私>の存在のことであり、これを現存在と呼ぶ。 坐禅において仏としての体を現す(「以表」)のである。
坐禅とは、「さとり」を目指すものではない。修証一等という言葉が示すように、坐禅することがすなわち「さとり」を顕現することである。
「さとり」とは、これまで述べてきたように、言語と認識を超えた深層の次元を現すことであり、「悉有」と「一悉」とをつなぐものである。
それは、存在者が本来身をおくべき次元であるが、人は自他を固定化しそれに執着することによって、その相互相依のはたらき合いとして現れる世界から自らを疎外してしまう。
しかし、そのような執着すなわち煩悩を除くことができれば(「先須除我慢」)、そこには深層の次元が顕現される。
何かをすることではなくて、存在者の固定化、実体化に帰着する心の志向性を働かせない営為であることにおいて、坐禅は、自他分節の以前、つまり「仏性」を現すといえよう。
(正法眼蔵入門 ョ住光子) 座禅のような苦行など無くなってしまうのがいい。
天照の寝言を持ち出して大山無用といえばいいのだ。スジャータさん、こんにちは。 貞操観念と魔術魔法などが地位の向上に関わっている仏教ならではだね。
座禅というのは。
股に血が行かないようにして、ちんぽの勃起を止める。
発情したエテ公か、あんたら。 またあぼーんされた。
要するに座禅なんてナニがたたないようにするための荒行に過ぎないね。無駄。 宗教・哲学・思想ねぇ。
シジマですね。これ。放置されたいんですかね。修行したいというわけでもなさそうだし。
一人で瞑想でもしたいんですか?
あぁ。ハデス大先生が俺と議論したいとか、そんで来ました。 アンセルムスの神学的探求はその全体が「信仰の知解」を目指すものであって、理性が信仰にとって代わるのでもなければ、信仰を人間理性による知解に還元しようとする試みでもない。そうではなく、信仰のみによって肯定される真理は、それが知的探求によって理解されうる限りにおいて、すべての人間が必然的に承認せざるをえない真理となる、と主張しているのである。それは信仰が知解へと還元されることではなく、むしろ信仰は知解されることを通じてより完全な信仰──神についての認識が深まることによって神への愛をより強く燃え立たせる信仰──になる、というのがアンセルムスの、そしてカトリシズム全体の立場なのである。 それは人間が神の恩寵を受容する仕方によるものであり、神に像って創造された人間霊魂は自然本性的に(naturaliter)神の恩寵を受容しうるため、人間のうちに恩寵に与り、分有するという仕方で形成された何らかの恒久的な形相、質、習慣(habitus)のようなものが「恩寵」と呼ばれるようになったためである。
現にわれわれは「キリスト信仰は超自然的な恩寵の賜物である」という言い方を繰り返してきたのであり、信仰という超自然的な徳を「恩寵」と呼ぶ慣習は広く定着している。 ギリシア語の動詞 paschō (動作を受ける) による中性名詞 (複数は pathē) で,あるもののなかに生じた出来事または変化をいう。アリストテレスは実体 ousiaに対して属性をパトスと呼び,トマス・アクィナスもこれにならって属性を passioとラテン語に訳している。倫理学では対象の刺激を受けて生じる感情一般をさし,特に現代では感情の高まり,激情をいう場合が多い。ペイソスと英語風に発音されるときは,特に哀愁の意味で用いられている。 エデンとふたつの失楽園ですか?
アダム・イヴとルシフェルの。 私は自分が千葉大学教員であることを知っているとき、私は、私=世界という場所に於いて、私である人間を含む世界全体の像を作っている。
ここで自覚を可能にしているのは、私を超越し、私を包むもの(=場所)がまた私自身であるという構造である。
そのことによって、自己が自己に於いて自己を見るということが可能になる。
これを場所の側から言い換えれば、場所とそこに於いてあるものとが一つである、といえるだろう。
場所が自分自身の内部で自分自身を限定するからである。
この場所の自己限定こそが、「われ思う、ゆえに、われあり」の実態なのではないか、西田がそう語れる理由なのではないか、という予想がまずは成り立つだろう。 西田幾多郎、井筒俊彦、中沢新一、竹村牧男、永井均…
ハマるなあw この議論の肝は、色なら色の、実存と本質が、つまり生の質(クオリア)とそれをつかむ概念が、地続きである点にある。概念は外から質を規定するのではなく、無限個の概念を内に含んだ非概念的な質が、その内側からおのれを限定していくわけである。すなわち、「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく、分節化されていない音声を自ずと分節化させていく力と構造が、経験それ自体の内に宿っていることによってなのである。 作意(心の起動)
触(対象との接触)
受(苦受・楽受・捨受)
想(名言を施すこと)
思(審慮思、決定思、動発勝思) 意識は、当然のことながら、意識される限りでのすべてがそこで意識される場所である。
そして、いかなる意味でも、どんな連関でも、意識されない(意識される事柄とつながっていない)ようなことは「無い」のと同じだとはいえる。
だが、意識されるというその場所そのものはやはり有る。
とすれば、その「有る」は、何との対比で「有る」とされるのか。
つまり、それはいったい何に於いてあるのか。
対比されるべきものも、於いてあるものも、じつは、無い。
それは、いきなり、無根拠、無理由に、ただあるだけだ。
それはもはや、何に於いてあるのでもない。
つまり、絶対の無に於いてあるのだ。
でも、いったい何が? 何があるのだ?
西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ (角川ソフィア文庫) Kindle版 永井 均 より 西田学者の小坂国継が指摘しているように、西田が「有・無」と言うときには、意識の対象という意味合いにおいて使っている場合がある(小坂「西田幾多郎の思想」)。この場合には、意識の対象となりうるもの、つまり形のあるものを西田は有という。これに対して、絶対に意識の対象とならないものを西田は無という。ところが意識の働きそのものは、フッサールの言葉を使えば作用としてのノエシスそのものであり、対象としてのノエマとなることはない。ノエマとなったときの意識は、作用としての意識ではなく、対象として見られたものとしての意識である。作用としての意識そのものは意識の対象となることはないから、それは「無」というべきである、というのが西田の議論の特徴なのである。 「国家とは、それぞれに自己自身の中に絶対者の自己表現を含んだ一つの世界である。故に私は民族的社会が自己自身において世界の自己表現を宿す時、即ち理性的となる時国家となるというのである。此の如きもののみが国家である。かかる意味において国家は宗教的である」。
by 西田幾多郎 レゾ・ゾルフ・フィブリゾ
ゾルフ・フィブリゾ・ゾルフ・フィブリゾ・ゾルフ・フィブリゾ・・・・ ニーチェ『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。』
仏教徒にとってこれはそれほど衝撃的な言葉ではなかったと思うけどね。
でも、なにかこうであるって信じてた人が、こういうところに突然に投げ込まれた時、果たして解釈せずには居れないのではないのか。
また、なにか困窮してて納得のいく解釈を求めてる人に、この言葉をサラって言えるものでもないでしょう。 梵我一如の思想について、詳しいわけじゃないけど、概要をみると
1.梵(ブラフマン=世界の唯一絶対の究極原因)の探求を第一とする。
2.我(アートマン=唯一・普遍・常住)は純粋・清浄な知の存在
@覚醒時は遠い状態で、夢眠・熟睡時にはその状態に近づく
A上記の状態は偶然による状態で、それ以外の第四時という状態がそれである
3.人生の目的は解脱にあり、また、それは梵我一如(我と梵との合一)にある。
4.現象世界はマーヤー(まぼろし)であり、上記の三時の実体視を無明という。
5.梵我の同一と現象世界はマーヤーだという明知を得ると無明は消滅する。
6.解脱し苦悩から開放され、死後に神路を経てついには梵と無区別・融合する。
というところじゃないのかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています