パンケーキ食べたい
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湯川秀樹は東京出身ということになってるが
一歳の時に家族と共に京都に移り住み 京都で育っている為実質京都人と言っていい
朝永振一朗も小学生の時に京都に移り住み あとは京都で育っている 「京都」と聞くと、多くの人は「観光の街」として思い浮かべるかもしれない。
たしかに修学旅行の訪問先としては定番だし、大人になってからも、日本人に限らず、(ほぼ)みんなが大好きな街が京都である。何と言っても、
平安の時代から1000年にわたって栄えた日本の古都でもあるわけだし しかし、多くの人は京都の1つの顔を知らない。それは、京都が「モノづくり」の街だということ。
京都には有名なモノづくり企業が多くある。
例えば、「島津製作所」「日本電産」「ローム」「村田製作所」などの名前は聞いたことくらいはあるだろう。
えっ、知らない? では、そういう人には、泣く子も黙る日本の誇る次の企業名をあげてみようか。さすがに納得するはずだ。
いや、納得してほしい。それが、ゲームメーカーとして知られる「任天堂」、
そして、かつては、ニッポンが誇る伝説の経営者・稲盛和夫氏が創業した電子機器などを製造する「京セラ」である。ね
江戸から明治、大正、昭和と時代が移っても、京都がモノづくりの街であることに変わりはなかった。
それには、この街が京都大学でよく知られているように、学術都市であったこととも関わりもあるのだろう。
かのノーベル賞受賞学者である山中伸弥教授が所長として籍を置くのも、京都大学のiPS細胞研究所CiRAである。
京都の「モノづくりの心」は、伝統工芸、学術研究、ハイテク工業と分野の境を越えながらも、息づいているわけだ。
つまり、「京都」は、DNAとして職人魂、研究魂、ベンチャースピリッツ、モノづくりの技と心がたゆたっている土地。
だから京都という街に潜む「モノづくり」の種を本気で探しながら散策してみたのなら、
気づかなかった「京都のもう1つの顔」を発見することができるはずだ。 平安時代の更科日記
今の東京都心のあたりを旅していた作者が,「草がボーボー茂ってるだけでおもしろくも何ともない」
平安時代の言葉では,田舎(関東)の人たちがしゃべる行為は「言う」ではなく「さえずる」
【和歌】やまとうた。
【坂東声(関東)】 坂東人の訛声 だみごえ
【関東べい】 (話し言葉の文末に「べい」を付けるところから)関東訛のこと。
また、それを話す者。
和歌は飛鳥時代に奈良、大阪の農民が豊作の喜びや感情表現の手段として詠んだ。
それだけ畿内の文化レベルは高かった。
対して現在の関東地方は平安時代でも坂東と呼ばれて未開の土地だったため、文化は無いし
教養もない為、当時の日本語をほとんどしゃべれなかった。
江戸時代においては「〜べい」を語尾に付ける。 『更級日記』は作者菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が13歳の少女時代から53歳までのことをつづった回想録です。
平安時代中期の作品です。 文化の中心であった上方(近畿)から
下ったものは下りものと呼ばれていました
逆に上方に上がった品は上がる品なので下らないものと呼ばれていました
下らないものの語源がこれです また「下らない」という言葉は、由緒がない、出どころがわからない粗悪なものという意味もありました。
それに対して、京都から日本全国に広まっていったものは「下りもの」と呼ばれ喜ばれました。
江戸時代、物流は文化の中心だった京都から江戸へ流れていました。幕府は江戸に移って政治の中心であったにもかかわらず、京都産のものをとても高く評価していました。
特に伏見の酒は、まさに「下りもの」の象徴だったようです。将軍のお膝元とはいえ、東京で作られるものは、下りようがありません。 そして江戸のモノは京都のモノより品質が悪かったり、粗雑だったので下らないものが
いつのまにか粗悪な品や、つまらないものを指すようになり
下らないもの
下らんと呼ぶようになったとか 新首都を東京か大阪かに分かれていた時代
結論はこう
江戸寒士 前島来輔
「浪華(大阪)はべつに帝都にならなくても、依然本邦の大市である。
江戸は帝都にならなければ、百万市民四散して、一寒市になりはてる」 「記紀」では、大和王権は初代神武天皇から始まり、皇祖神は天照大神にされている。
しかし、神武天皇が大和に入る前にニギハヤヒ命が大和を治めていたと記載されている。
元伊勢籠神社社務所発行の「元伊勢の秘法と国宝海部氏系図」によれば、この神の名称は、彦火明命、 亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・鐃速日命である。
最近の通論では、このニギハヤヒ命が天照(アマテル)大神で、大和王権の「真の皇祖」であると考えられるようになってきている。
小倉一葉の近著「消された覇王」によれば、ニギハヤヒ命は「天照大神」であり、「皇大神」であったが、ある時期に現在の「大日霊女貴命」に取って代わられたと見ている。
即ちニギハヤヒ命は「皇祖覇王」であり、物部氏の祖であった。
物部氏の祖を祀る大和の石上神宮には、布都(ふつ)、布都斯(ふつし)、布留(ふる)という名で、スサノオの父、スサノオ、スサノオの子(ニギハヤヒ)というスサノオ3代が、祀られている。 『四天王とは東西南北を守護する神であり、
四天王寺も東西南北がきっちり定まった寺院なのである。
そこには意味がある。
真北へ向く伽藍、つまりこれは北辰信仰を示していることになる。
これは中国の道教からきた概念で、
あらゆる星は北極星を中心にめぐることから、
全宇宙の中心を北極星と見立てた信仰である。
この北極星を道教の最高位にあたる神、
あるいは高僧と見立て、「天皇大帝」と呼称した。
ここから「天皇」が採択され、
日本において天下を治める大王に使用されるようになった
という学説がいるが、おそらくそれは正しい。
「てんのうじ」という寺号も、
もともとは「天皇寺」であったかも知れない。 また2036年迄に首都を京都に遷都すれば日本は再生出来るとの事 未開の東国は征夷大将軍によって統治した。
大和朝廷は渡来朝鮮人をそのまま関東へ移住させ新羅郡高麗郡を置き監獄とした。
東京は暴力侍が支配してきた社会、朝鮮蝦夷の儒教社会
お上絶対服従の東京人は無口無能従順、張りぼて文化歴史しかない東京人は日本コンプレックスの塊
関東人は朝鮮人
関東人と朝鮮人は、同じN型遺伝子が多い。(別名狂った遺伝子)
西日本人と南アジア人は、N型遺伝子が少ない。
大和民族(=神奈川県鎌倉・新潟より西の日本人)→南アジア渡来系を主とした民族、大和政権を樹立した。
蝦夷民族(=関東人)→北朝鮮渡来の民族、征夷大将軍によって滅亡させられた。朝廷が後期渡来人(=南朝鮮人)をそのまま関東へ移住させた 東京や多摩の別名として古来からの国名の武蔵がある。
若者の街で人気の吉祥寺も武蔵野市にある。
“武蔵”というのは“モサシ”という朝鮮語から生まれた言葉だという。
モサシは河原にはえる草の呼び名らしく、多摩川の河原や東京を二分するようなその広大な河岸段丘の草原からつけられたようだ。
桓武天皇以来、東夷(アズマエビス)が住む関東の姿とはアイヌ系の先住民と、朝鮮の百済の人の入植地であり、
それらに当時の政権から派遣された源氏や平氏が割拠する土地だったのである。
また、武蔵の国の国司は百済人と決まっていて亡命してきた百済王家の人間がなっていたという。
今でも東京(武蔵野)には狛江とか高麗とか朝鮮に関係ある地名や名称が多く残っている。
沢の名前などはアイヌ語のようなものも目立つ。
武蔵の国の政府があった府中の大国魂神社(オオクニタマジンジャ)のあたりからは、百済人や東夷が暮らした武蔵野の大地が遠望できる。
江戸がなぜ栄えたか、というと「田舎者で栄えた」というのが一つの答えらしい。
江戸八百八町は当時も世界最大の都市。大名の参勤交替だけではなく、ありとあらゆる田舎から人々が集まって来ていたのだ。
そもそも江戸の背景となった武蔵の国そのものが海外からの亡命者や入植者、あるいは都落ちしたもの、東国へ派遣されたもの、
古来地元で群雄割拠する豪族など、ありとあらゆる人間が生活を営んでいた場所である。 >>539
知能指数低いからに尽きる。
それに加え反日教育に時間をさいて、基本の物理現象を学ばばい。
結果として「何故、そうなるのか?」と考えない。
韓国は、永遠にノーベル賞の受賞は無理だと思います。 藤原定家と明月記
藤 原定家(ふじわらのていか)は平安末期から鎌倉初期の歌人で,『新古今和歌集』の選者も務め,また『源氏物語』や『土佐日記』の研究者としても知られてい ます。
彼は『明月記』という日記風のエッセイを著していますが、これは18歳の治承元年(1235年)まで半世紀以上にわたって書き綴られたものです。
超新星爆発の記録
『明 月記』には多数の天文現象が載っていますが最も重要なのは超新星の出現記録です。
超新星とは「新しく生まれた星」ではなく「新たに見えた星」で,それまで全く見えなかったところに突如として星が輝き出し,一夜にして10等級以上も明る くなります。
実は星の最期の大爆発で,星の生涯のうち最も劇的なシーンです。 望遠鏡のない時代の超新星の記録は世界で7件しかなく、そのうち3件も記載がある本は『明月記』だけです。
ひ とつめの超新星の記録は、寛弘三年四月二日(1006年5月1日)の深夜、南の低い空に出現した大客星です。
半月くらい明るく輝いたそうで、太陽と月を除 けば人類観測史上最も明るい天体です。
そして明月記の1054年の客星出現記録は世界で初めて歴史に記録された超新星として認められました 後冷泉院・天喜2年四(五)月中旬(1054年5月20日〜29日以後の丑の時、客星觜・参の度に出ず。東方に見わる。天関星に孛す。大きさ歳星の如し。
これを現代文に訳すと、
1054年6月中旬以降の夜中に、超新星がオリオン座(觜・参)の上の東方に見え、おうし座ζ(ゼータ)星のそばで輝く。
その明るさは木星(歳星)と同じだった。
オリオン座の北、おうし座の右の角の先のζ星(天関星)のそばに超新星は現れた
オリオン座の北、おうし座の右の角の先のζ星(天関星)のそばに超新星は現れた
明月記によると、天喜2年(西暦1054年)参(オリオン座の三ツ星)の北の觜(オリオン座の頭)のさらに北の、天関星(おうし座の右の角の先)のそばに、客星が現れたとある。
そこは、まさにカニ星雲が淡い光を放っている位置である。
つまり、日本の古典「明月記」からカニ星雲の元となった超新星爆発の年代が特定できたというわけだ。
このできごとは後に、中国の宋書天文史・客星の項目にも同じような記述が見つかった。
それによると、客星は23日間昼間でも見え、22ヵ月後に見えなくなったと言う。
また、北アリゾナで11世紀に使われたとされるアメリカインディアンの廃墟からも、この超新星を描いたとされる壁画が見つかっている。 地球からカニ星雲まで7000光年離れています
つまり明月記や藤原定家らの時代より更に7000年前に起きた超新星爆発の光が地球に降り注いだことになります
非常に明るく 昼間でも太陽が2つあるような輝きが1ヶ月ほど続いたと世界中で観測されてます
その時の超新星爆発の残骸が今のカニ星雲です 501: 02/18(木)18:19 ID:EB9Wt+Y60(1) AAS
あのセリーナに印籠を渡すとはな
おなじ日本人として誇らしいよ
505: 02/18(木)18:22 ID:yEzgG3Hi0(2/4) AAS
>>501
それだと水戸黄門じゃないか
引導を渡すんだろ
506: 02/18(木)18:22 ID:DXy+SIZy0(2/3) AAS
>>501
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まわれくる まわりくる 山羊の子たちよ
らーらーらーらー、らーらーらー
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山羊が子羊になる
宇宙の藻屑となって 人が死ぬ もう終わりの時よ 女王だって人間なのよ。ストレスたまるのよ!
王と貴族の間の中間管理職! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています