>>362
俺は元密教ってだけで別にスポークスマンでもないからスルーしようかと思ってたんだが、(笑)
なんか宝珠さんが俺と同じとか書いてるんで、「知る」という事について、ちょっと書いとく事にします。
亀ですんまそん。

さて、禅では聞恵、思恵、修恵と段階を経て智恵に至るとしてる、と何かで読んだが、
ある程度の人生経験や修練を積んでいれば、「一を聞いて十を知る」という事もあります。
また、物理法則に従って、初期条件から運動の結果を算出も出来ます。
過去の科学的知見の無い社会では圧倒的カリスマで王になったり、優れた知性と人徳で賢者とされた人々がいましたが、
現代近代の社会構造では、高度化複雑化して一個人の能力とは別に様々な学習や経験を学ぶ必要があり、また現代人は学んでいます。
よって、免許を持っていれば、その車種であれば乗った「経験」がなくても別の「経験」で操作、運転出来ます。
同様に免許が無い車種でもある程度類推ができます。
先の段階を経るとは、ある程度フィードバックして出入力の最適化を計ることですが、そのマトリクスがある程度蓄積していたなら必要無い訳ですよね。
そして世の中には私の数倍のIQ や優れた運動神経の人もいるので、
「知るには必ず体験などが必要」とは言えないかと。
また、生物としての多様性がある一方で文化的断絶による「教えても理解出来ない」事があるのも事実です。
極端な例だと……
まぁ、ともかく、なんやかんやで一概には言えないが、全てが縁起しているんだから純然たる唯識の智恵等はありえないし、従って検証すら出来ない話だ。(笑)
但し、オカルティストは意識界独自の某かを各々想定するから、極論として其がある、という事になるんだな。(笑)

(^。^)そして、俺と宝珠さんとはこの想定内容が全く異なるって点を敢えて書いておく。(笑)