--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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仏教に関するKeyword 「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、 原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、 激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。 尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。 基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、 もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。 -------------------当スレの戒律(マナーとルール) ------------------- 条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可) 2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう) 3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。 4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。 5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。 (1950年の世界仏教会議にて決議した) 6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう) 7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。 8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!! 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 -----当スレッドは----- 過去の2ch『原始佛教』、『仏教議論スレッド』シリーズを継承したような良スレになることを期待します。 投稿する方はスレ主である私(宝珠真範)の指示に従い、必ず当スレの“戒律 ”を厳守のこと。 違うことをしたいという方は、どうぞ他スレでお好きにして下さい。 また、当スレは同時に『質問箱』の機能も合わせ持ちます。 質問に関しては、仏教関連ならば気軽に大乗も含めて祭祀や葬儀、等々...何でも構いません。 解答や情報をお持ちの方はどうか質問者へ親切に教えてあげて下さい。 尚、複数の異なる解答があった際には質問者の方の判断にお任せします(参考程度にどうぞ)。 ------------------------------------------------------------------------------------- 過去ログ保管庫 http://houjugusya.web.fc2.com/link.html Wikipedia ― Category:仏教 http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%BB%8F%E6%95%99 論文検索 http://ci.nii.ac.jp/ http://sc.chat-shuffle.net/ http://www.inbuds.net/jpn/index.html http://www.totetu.org/index.php?id=523 パーリ三蔵 http://www.tipitaka.org/cell/mainlist.html http://www.tipitaka.org/romn/ 大正蔵経検索 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php おじゃるは基本的には どこかのサイトのコピペなので コピペ禁止だと おじゃるは 参加できないでつね? それでも とりあえずは このスレの スレ立てとかは 協力して逝きたい所存で おじゃりますので ヨロ m(_ _)m それぞれが所属する 経典・論書・解説書とかを根拠にしているのなら 拝火教 ゾロアスター 六師外道 ヒンドゥー(バラモン) クンダリニー 根本仏典 中観 唯識 密教 というように幅広くしてもOKでつよね? たとえば 中観自立派と 中観帰謬派では立ち位置が違うので 『根拠にしている解説書とかも違う』 というような感じになる場合も あるかもしれないので 一応、念のため >『質問箱』の機能も それでは質問させて頂きます 宝珠殿が云う 真我と云うのは↓これでつかね? 初期のウパニシャッドである 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では 「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという その属性を「…である」と定義することはできないという したがって、「…である」ものではない たとえば 仏そのもの 仏性からの真如縁起というような意味で 無為法から → 有為法へ働きかけているもの 無住処涅槃から → 無明している世界へ働きかけているもの 般若の智慧と慈悲をもって 円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照してるもの (円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない) 我 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある ↑これのことでつかね? >>5 このことの関して、中村元氏は、中村元選集の中で、次のように言っている。(以下、引用) 『・・・・・・ここで次のような疑問が起こるかもしれない。 なるほどウパニシャッドのい哲人たちやインド一般の哲学者は、アートマンの主体を説いたかもしれない。 しかし仏教はアートマンを否認している。 仏教は無我説を主張している。 仏教のような大宗教がアートマンを否定しているのであるから、アートマンの主体性という観念はインド民俗共通のものとはいえない、―と。 しかしながら、果たして仏教はアートマンを否定したのであろうか。 原始仏教経典のうちの最古層に表明されている無我説によると、仏教では何ものかを「わがもの」「われの所有なり」と考えることを排斥しているのである。 修行者はまず「わがもの」と「他人のもの」とを区別しないで、あらゆるものについて所有感をもたないことである。 「わがもの」とみなす執着を離れ、一切の所有を捨て去るという思想、ならびにその実践修行は、きわめて古い時代からバラモン教において行われていた。 (つづく) 一切の所有物を捨て去り山林に隠棲することは、一切祀という一種の祭り祀として、ヴェーダ聖典の中に規定されている。 また初期のウパニシャッドによると、アートマンを悟った真のバラモンは子孫・財宝・世間に対する欲望を捨てて行乞するものと説かれている。 またジャイナ教においても「わがものという所有の観念」を捨て去るべきことを教えている。 そうしてこういう意味の無我説であるならば、ジャイナ教徒も後世にいたるまで「無我説」の観念を持っていたということができる。 しからば「所有」「わがもの」という観念を放棄せねばらぬのはなぜであるか。 原始仏教経典は、その理由として次の道理を説いている。 およそ自己の所有とみなされているものは、常に変滅するものである。 したがって永久に自己に属しているものではない。 また自分が死んだならば、自己の所有物、あるいは自己の所有のごとくみなされている人々(例えば家族など)は、自分から離れてしまう。 ゆえに自己の所有に執着してはならない、と。 したがって初期の仏教は、我ならざるもの(非我)を我(アートマン)とみなすことを排斥しているのである。 我ならざるもののうちでも、特に身体をアートマンであると誤り解する思想を、力を入れて排斥している。 愚昧なる凡夫はこの身体をわがものであると解している。 神々といえども、なおこのような見解にとらわれていて、そのために輪廻の範囲に流転し、なお苦脳を脱しえない。 このような見解を、初期の仏教徒は『自己の身体を執する見解』と呼び、これを捨てることを教えているのである。 したがって初期の仏教徒は「非我」とくに「身体」をアートマンあるいはわがものとみなしてはならぬということを教えているのである。 仏教哲学の述語が確定するとともに、個人存在を構成している諸要素を諸行あるいは五蘊であると解するようになったときには『五蘊を(アートマンとは異なった)他のものとして見る。 アートマンであるとは見ない。』『また諸行を(アートマンとは異なった)他のものとして見、アートマンであるとは見ない。』と説くようになった。 (つづき) そうして経典のうちのやや遅い部分には、次の定型句がしばしば繰り返されている。 『色(受・想・行・識)は無常である。 無常であるものは苦である。 苦なるのは非我である。 非我なるものは我がものではない。 これはわれではない。 これはわがアートマンではない。』世間の凡夫ならびに哲学者たちはアートマンを想定し、アートマンを求めている。 しかしわれわれ人間の具体的存在を構成している精神的あるいは物質的な要素ないし機能のいずれをも、アートマンと解することはできない。 それらは絶えず変化するものであるから、常住不変なるアートマンに相反している。 またそれらは苦を伴うから理想的・完成的実体としてのアートマンとは異なるものである。 では、われわれの自己(アートマン)はどのようなものであるか。 それは対象的には把握されえない。 世人がアートマンなりと解するかもしれないいかなる原理あるいは機能も、実はアートマンではない、またアートマンに属するのでもない。 ―これが無我説の大要である。 したがって初期の仏教は「我が存在しない」と主張したのではない。 ただ客観的・実体的あるいは機能的なアートマンは存在するか、あるいは存在しないかという問題に関しては、初期の仏教徒は沈黙を守っていた。』P96〜98 (つづき) 『このようにして、まず第一に仏教の無我説があらわれた。 無我説はかならずしもアートマンが存在しないと説いたのではないということは、すでに述べたとおりであるが、それは固定的・実体的な行為主体を否認している。 無我説は仏教の中心思想として一般に認められているが、それに類似した思想は、インド思想界の諸方面に現れている。 『マイトリ・ウパニシャッド』(三・二)においては、『(個我は)「それはわれである。」「これは我がものである。」と、このように考えて、みずから自己を束縛する。 あたかも鳥が網によって(自己を縛る)ようなものである。』といい、このような束縛から離脱すべきことを教える。 『バガヴァッド・ギーター』(二・七一)は『一切の愛欲を捨てて、我欲なく、わがものの観念なく、自我の観念のない人は、寂静に到達する。』と教えている。 無我説の表現法はまたサーンキヤ派にも継承されている。 『われは存在しない。(何ものも)わがものではない。 (何ものも)われではない。』という「清浄にして完全な智」が純粋精神としてのプルシャに起こったときに解脱が成就するという。 (つづく) (つづき) サーンキヤ学派は、アートマンに相当するプルシャを独自の形而上学的原理として想定している点に、仏教徒はいちじるしく異なった点はあるが、文面の上では非常に仏教と類似した表現をもちいている。 またバルトリハリのことばの形而上学によると、認識の対象が語の形相であるのに対して、認識主体である「我」(アートマン)とは語である。 かれの説くことばなるものは、主体的な性格を具有している。 ことばがアートマンであり、それが究極における認識の主体であるから、認識とは主体としての語が、対象化された語を自己の中に映出することである。 あたかも人間の像が布や壁に映し出されるように、主体としての語が自己を客観的に投射して、対象化された語を認識するのである。 そうしてその認識の行われる座、すなわち布や壁にあたるものが、まさに統覚機能すなわち内官にほかならない。 統覚機能なるものは、勝義においては、絶対者の自己投機の座にすぎず、能動的活動は認められない。 つきつめて言えば認識とは、絶対者である語が、自己分裂によって、主体的側面とを対他的・相待的に成立せしめる自己展開の運動の一つの相にすぎない。 行為の問題についても、それと同様に解することができる、という。これもまた一種の無我説と解することができるであろう。』P124〜125 『東洋人の思惟方法1』(中村元選集・第1巻)春秋社より引用 >>9 パーピマン殿、乙です m(_ _)m 荒らされた。という 因果応報による 縁起をもって それゆえに >荒らしてやろうかな?w と云うことなんでつね? _ _ _ >>11 栄進師匠としては アートマンは 「…である」ものではない たとえば 有為法ではない と云うような感じなんでつね? >>13 うーん、よくわかんないけど、アートマンは無為法かもしれん。 >プルシャを独自の形而上学的原理として想定している ↓これでつね? サーンキヤ 永遠に変化することのない『プルシャ』 プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる 携帯からなので、ID変わります。 9は、私ではありません。 なりすましです。 >アートマンは無為法かもしれん ↓これでつね? 宗教(religion) 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり… 縁起している世界も手放して超えて逝く ↑こんな感じでつね? >>16 ぱーぴまん殿、乙です 大変、失礼いたしました 訂正して、お詫び申し上げます スマソ m(_ _)m 宝珠真範さん乙です。 スレの趣旨に賛同し参加させていただきます。 因みに >9 名前:パーピマン[] 投稿日:2018/06/26(火) 17:17:14.08 ID:w4UkIT4K > さて荒らしてやろうかな?www の正体は http://hissi.org/read.php/psy/20180626/dzRVa0lUNEs.html で確認できます。 まずはご挨拶まで。 >>17 その「宗教」の説明は、ややもすれば精神疾患の妄想で片付けられる危険があるけど^^ 西洋の絶対神も、東洋のアートマン思想も同じものかもしれん。 妄想じゃないことを願う^^ >精神疾患の妄想で片付けられる危険がある ↓こう云うのもあるでつよ 変性意識状態 (へんせいいしきじょうたい、altered state of consciousness, ASC) …「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われる トランスパーソナル心理学ではこれを 人間に肯定的な効果をもたらすものとして研究する また精神疾患に対する有効な療法として 一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されている _ _ _ 導くための 対機説法としては >西洋の絶対神も、東洋のアートマン思想も同じもの というような場合もあるらしい >>20 ああ。ジャンキー君の18番な。 その手法で論破らしいです。 >>19 なるほど。 心底、クズだね。 マジでどうしようもない奴だ。 >>26 閻王師匠 久しぶりで乙です >涅槃の文句は俺に言え 意味がわからないけど これからも ヨロ m(_ _)m (勝義諦と世俗諦の?) 閻王師匠と 縁起一代師匠が 議論を戦わせて その後の経緯は どうなったんでつか? 【芸能】千眼美子、RADの新曲を「愛国心満載のただただ、ええ曲」と評価 「日本が好きな人、嫌いな人、浮き彫りになった」 http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1528791159/ ★★幸福の科学★★ さとうふみや 景山民夫 小川知子 阿藤快 河口純之助(元THE BLUE HEARTS) Le Couple(ル・クプル) 清水富美加 新木優子 >>29 閻王師匠へ 北斗の拳も 蒼天の拳も観たこがないので 意味が、わからないけど とりあえず 了解でつ m(_ _)m 観たこがないけど、とりあえず↓これ? ttp://anicobin.ldblog.jp/archives/cat_1332569.html >>23 私も経験しましたが、その変性意識状態こそが精神病の発症なんです。 それを精神疾患の有効な治療法とするのは、いわば毒を持って毒を征すると言ったとこでしょう。 変性意識状態をよく悟りと誤解もされますねえ。 有頂天になって教祖気取りになる輩が後を絶たない。 精神科に行けって話です^^ ≪ブッダ入滅後のヒンドゥー教≫ しかし、真我が形のあるもの・ないものの二つに分かれたために、もとに戻しても、また分かれてしまう恐れがあります。 この考え方は、お釈迦さまの時代にはなかったので、経典では批判がないのです。 お釈迦さまが亡くなった後で発展するヒンドゥー教は、かなり哲学的な宗教になり、 二元論、不二一元論など様々な思想が発展しました。二元論にせよ不二一元論にせよ、開発したのは仏教の思想家たちです。 しかし仏教は純粋なお釈迦さまの教えから離れて部派仏教や大乗仏教といったものに変わってしまい、 その思想もお釈迦さまの言葉の証拠なしに展開するようになりました。 そうやって大乗仏教の哲学が発展していったところで、ヒンドゥー教はそれをそのまま自分のものとして取り入れたのです。 ですから、ヒンドゥー教にはブッダの純粋な教えの立場から反論しなくてはいけないのです。 ヒンドゥー教の創造論によると、我ははじめは形のない、無限(英語でinfinite、サンスクリット語でanantaアナンタ)のものです。 時・空の両方で無限です。その無限の我が二つに分かれて一つは現象、つまり宇宙とか森羅万象になるのです。 そして分かれたもう半分はというと、未だに時空無限でいるのです。 それで、個になった人が、現象世界がmaya(マーヤー 幻覚)であるとわかって「本当は自分はもともとの神様とまったく 同じなんだ、自分が違うと思っていたのは勘違い、幻覚だった」ということを修行で発見するわけです。 そして発見した人はもとのbrahmanのところに行って無限になれるのです。 空間的に無限というのはちょっと想像できませんが、時間的に無限というのは永遠ということでしょう。 ≪ヒンドゥー教で説明されていない問題≫ ここで一つ、彼らが説明していない問題があります。そもそもなぜ、無限の真我・brahmanが分離したのかということです。 なんのためなのか、何か原因があったのか。これがはっきりしていないのです。 ですからこちらがせっかく苦しい修行をして向こうに行ったところで、分離してもう一度追い出される可能性があります。 だから、はっきり言うならば、無限のnirguna brahmanに「修行して分離しないようにしなさい」と教えてあげないといけないのです。 そうでないとこちらが修行して行っても、またはじき出される可能性がありますからね。 この理屈はあまり使われていませんが、私の反論です。仏教的にはそういうふうに簡単に反論できるということなのです。 もしも二つに分かれてしまうのでしたら、こちらの親分がしっかりしてくれないと困ります。 真我がいい加減に分離したり分解したりするようでは、我々個我が困るからです。 どういうことかというと、もし修行して真我のところに行っても、真我がいい加減だったら「あんた、あっちに行きなさい」と、 からだについている虫や蟻を追い出すようにまた輪廻転生に陥らされるからです。 ですからヒンドゥー教の説明は、仏教の立場から見たら笑ってしまうようなものなのです。 分離するのは、真我が自己認識するためだという話もありますが、そもそも自己認識することが間違っていると、仏教では教えています。 真我が自己認識して初めて「asmi(アスミ 私が在る)」と言うことができた、という話もありますが、 お釈迦さまはこのアスミということ自体が無明という迷いの状態の始まりだとおっしゃっています。 自己認識する人というのは、落ち着きがないのです。自分を自分と認識するために、自分でないもの、つまり現象の世界をつくって 「あれは自分でなくて、こちらは俺です」と認識します。ですから、じつは真っ先に修行しないといけないのは、その人なのです。 我々が修行するより先に、brahman(真我)が修行したほうがいいということになってしまいますし、 それとの合体を目指して修行するというのも、仏教的に見ればバカバカしい話です。 ヒンドゥー教の方々はみんな、ややこしい哲学のことを信仰しているわけではありません。 多くの人々はとてもシンプルなのです。彼らが神話に出てくるbrahman(神)を信じています。 神は複数なので、たくさんの神々を信仰しています。神の名前と形が変わっても、本来は神は一つであるというのです。 アルボムッレ・スマナサーラ. 苦しみをなくすこと (サンガ新書) (役立つ初期仏教法話) >変性意識状態をよく悟りと誤解もされます 仮設としての 我癡・我見・我慢・我愛とかが強い場合で そして 「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感など 変性意識状態とかの体験をすると 自ら覚り終ったとする独り善がりの 野狐禅(やこぜん)とかになる場合もあるらしい ダルマキールティは野狐禅ではないと思うけど、とりあえず ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf 光が輝く 輝くこと(照明)を本性とする (仮設としての) 自己自身を照らす 智慧と慈悲をもって自己を認識する 智慧と慈悲は光の如く 照明することを本性とし 他に依存することなく 自ら輝き現われる 照明するものと照明されるもの (照らす側 − 照らされる側) パオ・セヤドーも野狐禅ではないと思うけど、とりあえず ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm 智慧と慈悲の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます >自己認識することが間違っている たとえば 解脱智見とかの場合は 仮設としての 無明に依存している 我が知覚するのではなくて ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93 解脱智見を知る _ _ _ 仏そのもの の智慧と慈悲をもって 無住処涅槃をもって 仏性からの真如縁起をもって 解脱を知覚する ttps://www.yuishiki.org/category/%E5%94%AF%E8%AD%98/%E5%BF%83%E7%8E%8B/%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E6%84%8F%E8%AD%98/ 唯識学会 … 完全なる涅槃 第九意識 _ _ _ 第九意識をもって 解脱を知覚する 解脱智見 >>31 所謂、魔境ってやつもそれですよね? 常々独学は毒学と申しておりますが、修禅には正師や先達の指導を頂かないとおかしな方向に行く危険性は多いにあると思います。 そうした魔境に対しても、仏教では緻密に分析してますしね。 http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/ 駒澤大学仏教学部論集/駒澤大学佛教学部論集%20%2043/駒澤大学佛教学部論集%20%2043%20019渡邊%20幸江「禅病%20:%20『首楞厳經』に見る五蘊」.pdf >>36 の続き たとえば 大乗 1.0の世界観をもって 上座部 2.0を実践する 3.0とかの場合は たとえば 完全なる涅槃 第九意識もって 純粋な(単純な)意欲をもって 菩提分法を実践して 無住処涅槃に戻る帰る というような感じであるらしい ttp://www.j-theravada.net/pali/key-pakinnaka.html 初期仏教の世界 canda チャンダ 意欲 やる気 単純な >>37 >常々独学は毒学と申しておりますが、修禅には正師や先達の指導を頂かないと たとえば 「5ちゃん」とかに書き込みしている (中国経由の)日本の禅宗系の ナンチャッテ覚者タソとかは シッダールタは 「独学で悟りに達して仏陀となった(成道した)!」 と勘違いしてる方々が多いでつ 実際のところは 悟りに達して仏陀となる(成道する) その直前までは 六師外道とか ヒンドゥー(バラモン)とかの師匠が居たかもしれないのに 六師外道だったかもしれない ウッダカ・ラーマプッタ師匠とかに 非想非非想のようなもの? サマタ?ヴィパッサナ?のようなものとか? を教わっていたかもしれないのに 39.正師、か。 祖師を殺して、仏を殺して、悟るものである。 その方法論を持っていないバカである。 >>39 の続き サマタ?ヴィパッサナ?だけではなくて たとえば 無住処涅槃を前提として 戒・定・慧・解脱・解脱智見 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も) ということなので >>39 を訂正して、お詫び申し上げまつ スマソ m(_ _)m そして、更に? 恐怖や不安から解放され、心安んじて生きていける 安心(あんじん)とかも、あった方が良いと思うので とりあえず 準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し 天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん 一切の如来の御足を礼拝し奉る オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>3 あくまでも自分自身の言葉で 自分で書いた文章にて相手と対論して下さい。 その論旨の根拠としての各経典・論文・文献引用はもちろん構いません。 いつもどこかのサイト文章をただ丸ごとコピペする行為を繰り返すことは止めにして下さい。 >>4 >というように幅広くしてもOKでつよね? はい。 >>5 >宝珠殿が云う >真我と云うのは↓これでつかね? はい。 ただし、仏教においてはアートマンについての解説はないですから。 真我についての詳細理解については、私個人は神智学とラマナ・マハルシのジニャーナと、 偽作の多いシャンカラチャリヤの著作の中に置いてこれこそ唯一無二の真作とされる『ウパデーシャ・サーハスリー』です。 尚、ブッダの説かれた“真実の自己を求めよ”という教えと「自性清浄心」、 そして、大乗の説く「仏性」というのはアートマンの意で良いと見ています。 まず、基本前提として、ブッダは“アートマンは無い”などとは教えていないということは何よりも重要です。 この誤解を解かない限りは、どうしようもない...。 それから、 死後にも存続する意識としては大きく三つの段階レベルがあります。 1. カーマローカ-自我意識(表層意識) で、これが異常状態で存続しているものが「餓鬼」であり、 そして、視覚に捉えられれば幽霊と呼ばれる。健全な場合には一定期間で生滅する。 2.「魂」(Jiva/ジーヴァ)であり、輪廻主体としての五蘊の「識」。ここに意識の焦点が置かれたときにバラモンの行う奇跡的な通力が発揮される。 ただし、これもまだアートマンではなくて最終的には消滅する。つまり、『梵網経』によってゴータマに否定された世界のこと。 3.「真我」-究極の自己本質「アートマン」のことで「我」と漢訳される。ここに意識の焦点が留まるときにすべてのマーヤー(幻影)は消散する。 >>37 仏教もそうなんですが、あらゆる宗教は魔境ですよ。 仏教の一切皆苦、すべては苦しみであるという見解は重度のウツ病、あるいは統合失調症の陰性症状でしょう。 しかし、釈迦は精神疾患のキチガイと斬り捨てるつもりはありません。 希望は持ってます^^ >>42 >死後にも存続する意識としては ↓これで良いでつよね? 仮設としての 色蘊(肉体・身体)ではなくて 霊的な。というような意味で トゥルパ マナス(意、心)が成した身体(マノマヤカーヤ、意成身) 意によって作られる身体 シパ・バルドゥ − 再生へ向かう迷いの中有 中有身 仮設としての 異蘊相続していくもの >>43 栄進師匠へ >あらゆる宗教は魔境ですよ その魔境のようなものを 手放しするための方法は? 曹洞宗の内山興正 思い手放し … 坐禅中の心構えを一口にいうならば 坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません … ところが今 その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって 何ものをもつかまないでいることです すなわち思いの手放しです 実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません しかし 思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう 道元 普勧坐禅儀 …心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて… 余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐 _ _ _ 最終的には? 仏教(宗教)というよな『想い』も手放して超えて逝く というような感じでつね? 46.内山輿正のバカ教えである。思い手放し。 それは単なる心理学である。 それは宗教ではない。 >>43 そこまで後退というかメタに視座を置くと、このスレの趣旨から逸脱しないかな? 仏教でいう魔(境)は、あくまで仏道の妨げになるを言うのでしょうから。 >>48 junkie- ooyama.師匠へ 栄進師匠の場合は 唯識(仏教)とかに詳しくないようなので たぶん↓これも、わからないのかもしれないでつね? 仮設としての 阿頼耶識は さとりに達するための修行の障害(「覆」)がない無覆無記(むぶくむき) 末那識は 我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており、障害がある有覆無記(うぶくむき) 仮設としての 無明薫習に依存している 我癡・我見・我慢・我愛に依存している 仏道の妨げになる魔境 >>49 たしかに、栄進さんは唯識は苦手でしたね。 >>48 すいません。 釈迦(仏陀)をキチガイと侮辱してしまいました。 発言を撤回します^^ >>37 ジャンキーのエロ的下品なAAの繰り返しは確実に魔境犬だ。 >栄進さんは唯識は苦手でした 唯識というよりも 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする 宗教(religion)を理解してないかもしれないでつね? たとえば 無住処涅槃とか、その他諸々など >釈迦(仏陀)をキチガイと侮辱してしまいました このスレの場合は 論拠・根拠を提示できるのなら 宗教(仏教)を批判しても良いんじゃないかしらん? たとえば 宗教哲学(philosophy of religion) …伝統的宗教に対する、懐疑の発生と結びついており… 宗教に対する、懐疑 哲学とかは パーピマン殿(ID:8DWBMOr0)とかの 専門分野かもしれないでつね? パーピマン殿は たしか哲学から宗教板に来た というようなことを云ってたような気がする 間違ってたら スマソ m(_ _)m >>53 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする ..... 仏教は、そんなもん対象としてるんですか? してないならば仏教は宗教では無いかも^^ >>54 栄進師匠へ >そんなもん対象としてるんですか? たとえば 涅槃 無為法は 人間の力や自然の力を超えてませんか? 外道のスレでヘピーマンを呼ぶ 愚か者が居るぞ!ヽ(`Д´)y-~ >>56 いや、涅槃は人間である仏教徒が目指す目標じゃないの? 死ぬことが無為。 だからといって今すぐ死ねって意味じゃないと思うが^^ >外道のスレ ID:GrCaiKGt っていう人が スレ立てしたみたいでつね? おじゃるは ID:/OecC8EM でつ 一応、念の為 _ _ _ >涅槃は人間である仏教徒が目指す目標じゃないの? 仮設としての 縁起している世界を手放して 有為法している世界を超えて 涅槃に戻る帰る それゆえに 仮設としての 縁起している世界を超えているでしょ? (有為法している世界を超えているでしょ?) >死ぬことが無為 仮設としての 色蘊(肉体・身体)が生きている 有余涅槃というのもあるそうでつ 一応、念の為 >ヒンズー系寄りのおじゃるらしい 眉間にある 第6のチャクラ くすぐったい むずむずする とりあえず この実践も 続けて逝きたい所存で おじゃりますので ヨロ m(_ _)m >>60 世界を超えた人間って何なん? スーパーマン^^ 仮設としての 縁起に依存している スーパーマン^^も手放して超えて逝く ということであるらしい おじゃるは ヒンドゥー(バラモン)とかも肯定でつ 一応、念の為 ヘピーマン出て来るにゃん! ひゃっひゃっひゃ!( *´艸`) 南無南無 (*^人^*) >>65 の続き 最終的には? 仮設としての 色蘊(肉体・身体)が生きている 有余涅槃も手放し 縁起している世界を超えて 無余涅槃 というような対機説法であるらしい >>68 今その動画を見たけど 歌詞も聞こえ難いし 喋ってる声も聞こえ難いので 意味が、わからないので ご教示願います ヨロ m(_ _)m >>67 手放すとか超えるとか、抽象的でよくわからんなあ^^ 釈迦というか仏陀って人間じゃないの? ただのオッサンでしょ^^ >おじゃる ここのスレ主は、宝珠なので、本来、オレがいうべきことではないんだが・・・・ お前さんが呼び込んだ、閻王 は、基地にゃん ですよ。 貴方は、荒らしを呼び込んで、このスレが荒れることに協力するつもりですか? 誰とでも安易に絡む癖は止めた方が良いと思いますよ。 少なくとも他人のスレでは。 また、言うまでもないことですが、 外道の独り言 11 は、私とは何の関係もありません。 スレタイ とテンプレをパクッテましたが、 まあ、アホ嫌がらせとして 以後、スルーです。 >ただのオッサンでしょ^^ シッダールタは ウッダカラーマ・プッタとか 非想非非想とかがあって そして、それから ピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り 悟りに達して仏陀となった(成道) 普通の通常のオッサンではなくて すべての煩悩を断じ終って涅槃に入り もはや再び生死を繰返すことがなくなった 阿羅漢果 有余涅槃・無余涅槃 というような対機説法であるらしい それでも たとえば おじゃるの場合は 誰もが成仏するわけではない(五性各別) >>71 >閻王 は、基地にゃん です 縁起一代さんと 議論していた かつての閻魔さんと勘違いしてました 以後 IDとかも確認して 気を付けたいと思います 失礼いたしました スマソ m(_ _)m >>72 了解でつ >>53 のところの 宗教に対する、懐疑 宗教哲学(philosophy of religion) 間違いがあるのなら、ご指摘願います >誰とでも安易に絡む癖は止めた方が良いと思います その結果として 勝義一辺倒の勝義房に叩かれたことが しょっちゅうありました ということで 失礼いたしました スマソ m(_ _)m (おじゃるは 上座部 2.0の立ち位置なので 勝義一辺倒の勝義房に叩かれた という意味でつ) >>73 ただのオッサンは言い過ぎた。 釈迦とその辺のホームレスのオッサンと何が違うの? 悟りって何なの? 何も考えてないアホと何が違うの^^ >何も考えてないアホと何が違うの^^ 仮設としての 無明に依存している >何も考えてないアホ (これは、おじゃるのことでつね?) − これに対して − すべての煩悩を断じ終って涅槃に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった 尊敬や施しを受けるに相応しい 阿羅漢(あらかん) 釈迦 違いまつよね? 同じようにみえまつか? 77.煩悩を断じる、バカである。 煩悩を断じる必要がない。 >>77 すべての煩悩を断じ終わるって何も考えないことじゃないの? 輪廻のことも考えないから再び生死を繰り返すこともなくなるんじゃないの? 何も考えないアホは、尊敬や施しを受けるに相応しくないの? 本能は煩悩にあらずじゃ。 南無南無 (-∧-)合掌・・・ A 「滅」の原語の意味 「四聖諦」は原語では、 苦しみdukkhaという真理 苦しみの成立dukkhasamudayaという真理 苦しみの消滅dukkhanirodhaという真理 苦しみの消滅に赴く道dukkhanirodhagamini patipadaという真理 です。 この中の、「消滅」は原語ではnirodhaですが、この原語nirodhaの意味は、インド一般では「修養につとめる(人)」あるいは「(ヨーガ行者が)心や感官を制しておさめる」という意味で用いられているそうです。 チベット訳も「制する」「ととのえる」という意味の訳語にしているそうです。(何かで読んだのですが、チベット訳は比較的原語の意味に忠実であるとされていました。) 中村氏は「nirodha(心や感官を制しておさめる)」ということは、仏教の理想の境地であると考えています。 確かに、スッタニパータにも妄執に突き動かされ暴れる心を馬や馬車に譬え、馬(馬車)をうまく制御することが大切だということを説いています。 ところが、nirodhaを漢訳では「滅」としたために、仏教が虚無論を説くものという印象を与えていると言います。 本来は、四聖諦のnirodhaというのは、ほしいままの欲望を制御し、苦しみをとじこめてしまうのがもとの意味であり、 その結果、静まったやわらぎの状態をもたらすことを目指していたのが本来の四聖諦のnirodhaの意味であるといいます。 http://www.geocities.jp/avarokitei/shotenporin-kuwasiku-miru/5-sishotai.htm >虚無論を説くものという印象を与えている その結果として 机というコテのナンチャッテ覚者タソとかは 「(仮設としての)縁起している、すべては無だ!」と云ってました 勝義の立場としては、これで合ってるのかもしれないけど 導くための 対機説法としては やはり 上座部とかの (感官を制しておさめる) 苦集滅道というような説明の方がわかりやすいでつ _ _ _ >止観 とかを実践して 仮設としての 縁起している世界を手放して超えて 無為法 「…である」ものではない という感じでつよね? >>83 「nirodha(心や感官を制しておさめる)」 これを「何も考えない」ことと解釈できん? できんか^^ >>「nirodha(心や感官を制しておさめる)」 >これを「何も考えない」ことと解釈できん? 感官を制しておさめる というような段階を踏まえて その結果として 心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて という感じなんでしょ?違いまつか? >>87 「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」 簡単に言えば、何も考えない思わないってことでしょ。 アホと何が違いまっか^^ 栄進師匠のスレ >あらゆる観念、見解を手放して >縁起している世界を手放して超えているのなら >縁起している世界の中の >誰とも争わない 仏そのもの 仏性からの真如縁起 平等性智というような意味なら 合ってるんじゃないでつか? ●「止滅」という言葉 「ヨーガ・スートラ」の第一章の2番 YOGAS CITTA VRTTI NIRODHAHA ヨーガは心の作用を止滅すること というように訳されています。 「止滅」、というと、 止める、滅する、ですから、 心が止まって、消滅する、無くなる、 そのような意味かと思っていました。 しかし正直、これがどういうことなのか、わかっていませんでした。 考えが止まって、無になるような感じなのかな、と。 今回、お話を聞いてなるほどと思ったのですが、 止滅はサンスクリット語の「二ローダ」から訳されているのですが、 「二ローダ」は、問題を回避する、という意味があります。 ここでは、 望ましくないものから避ける、問題を取り除く、気づいている、より客観的に物事を見る、 ということなのだそうです。 ヴェーダーンタでの説明ならば、 アンタッカラナ・シュッディ マインド(内側の道具)を綺麗にすることです。 私が止滅という言葉につけていた、勝手な意味の解釈のように、 間違った見方、偏った見方、主観的すぎる見方を取り除いて、 より真実に近い見方になること、それがヨーガの目的です。 https://www.smilebody-seitai.com/?p=14906 で、ヨガとは心の働きを止滅(客観視してコントロールする)する、のあとに続くのが そのとき、見る者は、本来の状態(スワルーパ)にとどまることになる。 で、見る者は純粋鑑賞者、サンスクリット語ではプルシャという言い方をします。 私たちが普段使っているココロという機能。 自分の意識の全てだと思っている・・・反応・知性・自我意識。 プルシャとはそれと全く別個にある、ただ見る存在。 事象に巻き込まれることなく事象を眺めている存在。 ココロの反応に巻き込まれることなくココロの反応を眺めている存在。 何も考えないアホと何が違いまっか^^。という『想い』を手放して その結果として 仮設としての 縁起している世界を手放して超えて 無為法 「…である」ものではない に成るんでつよね?違いまつか? >>90 本来の状態に戻り帰って >本来の状態にとどまる プルシャに戻り帰って プルシャにとどまる 如来我(仏性)に戻り帰って 無住処涅槃 というような文脈で良いでつかね? 間違ってたら スマソ m(_ _)m >>90 おまえら、ほんまプルシャだのアートマンだの仏性だの好きやな。 そんな人智を超えたものを相手にするんなら仏教は宗教やな^^ 栄進師匠も 「…である」ものではない アートマン 真我 と云ってましたよね? >仏教は宗教やな^^ たとえば 中観自立とか 中観帰謬などのように 哲学的な? 対機説法のようなものも、あるかもしれないけど 基本的には 仏教も 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする 宗教(religion)でしょ? 違いまっか? >>94 違います。 仏教はあくまでも悟りを開くための実践です。 悟ったからといって人間や自然の力を超えた超能力が使えるわけではありません。 と師匠が言っとった^^ 神通力(自在力) 四神足 観神足 般若の智慧と慈悲をもって (仮設としての)思惟を観照する (プルシャが → 縁起している世界を観照する) _ _ _ 神通力(自在力)のようなものも取り扱ってる 対機説法もあるようなので それゆえに 仏教も 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする 宗教(religion)でしょ? 違いまっか? >>96 原始仏教では神通力なるものを否定してます。 『〔真理を見る〕眼ある尊き師・ブッタは、他の一人のために、真理の教えを説かれた。教えが説かれているとき、〔道を〕求めるわたしは、耳をそば立てた。 私が聞いたことは空しくはなかった。わたしは、束縛をのがれ、煩悩のけがれのない者となった。 実に、わたしの誓願としたところのものは、過去世の生活を知る〔通力〕を得るためではなく、 すぐれた透視〔力〕を得るためでもなく、他人の心を読みとる〔通力〕を得るためのものでもなく、 死と生を知る〔通力〕を得るためでもなく、聴力を浄める〔通力〕を得るためでもなかった。 』 (『テーラガーター』995〜997) >>97 神通力(自在力) 四神足 観神足 般若の智慧と慈悲をもって (仮設としての)思惟を観照する (プルシャが → (仮設としての)縁起している世界を観照する) 円成実性の世界から → (仮設としての)依他起性している世界を観照する (円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない) そして、その結果として スッタニパータ 21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが 激流を克服して すでに渡りおわり、彼岸に到着している ((仮設としての)縁起している世界を手放して超えているのなら) もはや筏の必要はない 神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ _ _ _ 道元 普勧坐禅儀 ((仮設としての)縁起している世界を手放して超えているのなら) (仏法というものが円満に全てのものにゆきわたっているのなら) 修行したり、悟り証したりすることもない _ _ _ しかし、実際のところは (仮設としての)有覆無記があるでしょ? >>98 遊行の修行者であるスシーマは、尊者アーナンダのもとへ行き、「友アーナンダよ、わたしはこの教えと規律とのもとで清らかな行いを実践したいと望んでいます」と言った。 アーナンダはブッダにそのことを伝えたら、ブッダは快くそれを受け入れた。 そのとき、多くの比丘がブッダの面前で「生は尽きました。清らかな行いは完成しました。行われるべきことは行われました。再びこの状態にもどることはない、と知りました」と、開悟したことを明言した。 尊者スシーマは、比丘たちと挨拶を交わし、親愛と敬意に満ちた言葉を述べてから、比丘たちに質問した。 「このように知り、このように見ているあなたたち尊者は神変を体得しましたか。 あなたたちは、一〔身〕であったものが多〔身〕になり、多〔身〕であったものが一〔身〕になりますか。 〔身を〕顕し、〔身を〕隠し、あたかも空中〔を行く〕ように、壁を横切り、堀を横切り、山を横切り、障害なく行きますか。あたかも水中に〔出没する〕ように、海中に出没しますか。 あたかも地上〔を行く〕ように、水上を沈むことなく行きますか。 あたかも翼のある鳥のように、空中を結跏趺坐して進みますか。 あの大きな神力のある、大きな威力のある月と太陽とに、手で触れてなでますか。 梵天界に至るまで身体で行きますか。」 これに対して、比丘たちは、「友よ、そのようなことはありません。」と答える。 つづく^^ >>98 つづき そして、スシーマは比丘たちに問うた。 「では、このように知り、このように見ているあなたたち尊者は、清浄で、人〔の耳〕を超えている天の耳で、天の人との両方の声を、また遠くと近くとの声を聞きますか。」と。 比丘たちは、答えた。 「友よ、そのようなことはありません。」 さらに、スシーマは比丘たちに、あなたたち尊者は、「さまざまな種類の前世の生存を追憶するのか。」 「天眼を持つのか。」「色〔界〕を超越して、寂静な無色〔界〕の解脱に身体をもって触れたのか。」という質問をする。 しかし、比丘たちは、そのいずれの質問に対しても、 「友よ、そのようなことはありません。」と答える。 さらに、スシーマは、ブッダのもとへ行き、ブッダはスシーマに、先にスシーマが比丘たちに聞いた同じ質問をし、スシーマは、そのすべての問いに対して、 「世尊(ブッダ)よ、そのようなことはありません。」と答える。 尊者スシーマは、ブッダと比丘たちの言葉に納得する。(『相応部経典』第2集・第1篇・第7章・第10節=「原始仏典 相応部経典 第2巻 P.239〜253 春秋社 参照) 仏そのもの 仏性からの真如縁起をもって 自分の過去世(前世)を観照する 宿命通とか 六神通とか 四神足などの 般若の智慧と慈悲をもって (仮設としての)思惟を観照する 円成実性の世界から → (仮設としての)依他起性している世界を観照する そして、その結果として 最終的には 縁起している世界を手放して超えているのなら 仮設としての 縁起している世界の中の すべて一切の諸法も手放し超えて逝く _ _ _ >>99 >>100 その経典リンクがあれば貼り憑けてもらえませんか? 本日は不動尊の御縁日にて 今、菩提寺での大祭(戦没者英霊の慰霊供養&大祭護摩法要) から帰宅したところです。 >>95 >>97>>99-100 栄進さんへ---こんにちは。 以前に栄進さん相手宛てに投稿したいものと思っていたのに (かなりの長文を途中まで書いてたところでした)、どうも私の方の都合でタイミングを失ってしまい、 そのまま擦れ違い状態でした...。 そりゃ〜確かに神通というのは目的ではありませんが、 しかし、完成された如来であれば必ず六神通の幾つかを発揮することができます。 そもそも輪廻の真理そのものが超常的な天眼で確認しなければ分からないことであって、 ゴータマは、この業に拠る転生の事実についてはバラモンの受け売りなどではなくて、 自らが確認した上でそのことを語ったものだと明言しています。 仏教は自ら体験していく道ですから。 神通はあくまでも目的ではなくて、解脱の過程において付随して自然と身に付いていくものです。 そして、普段はこれを無作為に使用することは厳しく戒められているのです。 スシーマという方は、最初から神通修得が目的で教団サンガに接触してきた人です。 無いものは無いで断固として通せば、相手は止む得ず諦めて去っていく...というのが道理です。 ゴータマはそういう人間には、決して神通の事実については明かされることがないということ。 あなたはアートマンを肯定しているにも関わらず、 まるで何か唯物論者であるかのような発言をすることは矛盾していませんか? アートマンとはそもそも物質現象界を超越したもののことですよ。 だから最初から、現象界を超えた領域へと達しなければアートマンを見出される筈ずがない。 だから五蘊の中にはアートマンが確認されなくて当たり前です。 それには修行が必要なのです。そして、経験した者にだけそれがそれとして分かるのです。 >>66 【警告】 あなたは条項4.に抵触しています。 二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。 栄進師匠へ ありました↓これでつね? ttp://expertizing30.rssing.com/chan-15834669/latest.php 第17章 神変を体得しましたか? そのようなことはありません そういったものを否定するのではなく そういったものに関する「想い」や「見解」から解き放たれた境地が ブッタの悟りであり、輪廻からの解脱である… _ _ _ 栄進師匠へ それでは↓このように訂正させて頂きます 栄進師匠にとっては、どうなのか?わからないけど おじゃるにとっては 最終的には 縁起している世界を手放して超えているのなら ということで 失礼いたしました スマソ m(_ _)m 栄進師匠の場合は 世界観を一変させるほどの 変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)とかを 否定するかもしれないけど 基本的には?やはり >経験した者に分かる というような対機説法の方が おじゃるにとっては、わかりやすいでつ ダルマキールティ(唯識派) 光が輝く 輝くこと(照明)を本性とする (仮設としての) 自己自身を照らす 智慧と慈悲をもって自己を認識する 智慧と慈悲は光の如く 照明することを本性とし 他に依存することなく 自ら輝き現われる 照明するものと照明されるもの (照らす側 − 照らされる側) パオ・セヤドー(上座部) 智慧と慈悲の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます おじゃるにとっては 『体を包む、智慧と慈悲の光がある』 というような対機説法の方が、わかりやすいでつ >>105 ダルマキールティの智慧と慈悲はプルシャと変わらなくなってしまっている 本来智慧や慈悲は生まれ育むもので最初から完成されている常住無為のプルシャとは違う >ダルマキールティの智慧と慈悲はプルシャと変わらなくなってしまっている それゆえに? (瑜伽行唯識ではなくて) 瑜伽行中観派の カマラシーラとかに論破される というよな対機説法であるらしいでつ ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf 参照 ヨロ _ _ _ 仏そのもの 仏性からの真如縁起をもって >智慧や慈悲は生まれ育むもの 仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる 衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる 無住処涅槃をもって 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように というような感じでつね? 間違ってたら スマソ m(_ _)m >>102 いや、私の悪い性癖でして天邪鬼なんです。 おじゃる殿とかが神通力がある!と言えば、ついつい反発したくなるんです。 そもそも仏典が矛盾してまして、神通力やアートマンとか人智を超えた概念を否定もしてれば肯定もしてる。 だから議論になり論争になる。 仏教の究極の目標である悟り解脱とは、あらゆる見解を捨てることでしょう。 神秘的な何か、輪廻とかアートマンなどの想いから解き放たれること。 それは、何も神通力やアートマンや輪廻を否定するという意味ではない。 むしろ仏教はそれらを積極的に受け入れております。 だから仏教は、何でもありなんですよ。 なぜ、仏教はこれほどまでに寛容、悪く言えば支離滅裂で混沌としているのか。 要するに釈迦は誰とも対立し争いたくなかった。 論争することは苦しみですから。 あらゆる見解を捨てるってことは、逆説的に言えば捨てるという見解も捨てる、あらゆる見解を受け入れることですから^^ >常住無為のプルシャ 無為法と同義のような感じもするけど 無為法の場合は 常住である。というような『想い』でもないので それゆえに 無為法とプルシャは同義ではない ということに、なるかもしれないでつね _ _ _ >おじゃる殿とかが神通力がある 「ある」と断定しているのではなくて おじゃるにとっては 上座部 2.0のような 対機説法の方が、わかりやすい という意味でつ >捨てるという見解も捨てる (おじゃるにとっては) 想う。という『想い』も手放して 想わない。という『想い』も手放して 非想非非想も手放して その結果としての無住処涅槃 >>108 すみませんが矛盾しているのは、矛盾を感じるその人がただ勝手に混乱してるだけですから。 ブッダの教説には何一つとて矛盾などはありませんよ。矛盾することを説く人などそもそも完成者である如来などではないのです。 神通については、それ目的に近づいてきた人(スシーマのような)に対してだけ「無い」として成済ましただけです。 あと普段は神通の使用については最小限のものとして戒められています。 基本的には、仏典全体をみれば随所において六神通についての明確な解説があるでしょ! アートマンについてゴータマの採った態度は「無記」なのであって、 要するに、それは在るとも無いとも示さないということです。 なので、「ゴータマは無いと説いた」というだけで、もうそれですでにゴータマの教えからは完全に逸脱しているのです。 ゴータマの態度は無記であり、そして、語られた言葉とは「それらはアートマンには非ず」(非我)というものでした。 それはつまり、「アートマンでないものをアートマンとして見るな」といってるのです。 ならばそれは、「アートマンであるものをアートマンとして正しく見よ!」ということにもなる。 ただし、そのアートマンはその境地に到達した者だけにしか知ることも語ることもできないものなのです。 その体験を語る世界がヒンドゥーなのです(仏教は語らない)。 私個人はヒンドゥーも学びますが、 まず、だいたい仏教世界において「アートマンはない」とか 「ヒンドゥーは有我だからダメだ」などという人はヒンドゥーをちゃんと知りません。 ほぼ9割以上で、ただ一方だけの偏った話だけを真に受けている人ばかりですから。 論争が起こっている場合には、あなたは一方だけの発言を聞いて判断しますか? そのようなやり方は平等で正しい判断の得られる態度だといえますか? いいでしょうか? 仏典中には同一人物としてのブッダからは一つも矛盾は説かれてなどいないということ。 矛盾というのは読み手の問題にしか過ぎません。無知と誤解と偏見がそのすべて理由です。 >あらゆる見解を受け入れる おじゃるにとっては 最終的には 仮設としての 縁起している すべて一切の諸法も手放していく 涅槃 という対機説法がわかりやすいでつ (最終的には、あらゆる見解をも手放していく) (おじゃるにとっては) 導かれるためには とりあえず 「涅槃がある」というような 対機説法の方が、わかりやすい。という意味でつ >>104 俺のネタ本バレちゃった^^ >>105 変性意識状態は経験したよ。 おかげさまで精神障害者2級です^^ 栄進師匠の場合は 唯識は苦手かもしれないけど とりあえず 仮設としての 縁起している世界の中で 無明薫習に依存して 遍計所執性に依存して 我癡・我見・我慢・我愛に依存して 貪・瞋・痴に依存している >無知と誤解と偏見 という意味でつ (唯識が、わからないと 遍計所執性の意味も、わからない、かもしれないけど とりあえず) バービーきていたが、 バービースレ混迷の原因は。 ジャンキーだな。 ジャンキーが基地にゃんを呼び込み、栄進を呼び込み、 自動的におじゃるのレスが増え、因果果がムード寄ってきて、 バービーが激怒という流れだと・・・・笑。 >おじゃるのレスが増え 栄進師匠の相手をしていた 『おじゃるが原因』ということでつね 失礼いたしました スマソ m(_ _)m 今回の このスレにおいて 栄進師匠には 栄進師匠の立ち位置があり おじゃるには おじゃるの立ち位置があるので 日本語で 現代語訳で 初心者向けに 分かりやすい説明をしても 相手が納得しない場合もある ということがわかりました たとえば 栄進師匠 − 宿命通否定 おじゃる − 宿命通肯定 というように おじゃるは 中観自立のような?立ち位置だけど それでも、とりあえず 難しくて意味が、わからないけど ダルマキールティ(唯識派)とか カマラシーラ(瑜伽行中観派)とかも 読んで勉強してる 途中なので 勝義一辺倒の勝義房の方々とかは うっとうしいので 絡んでこないで下さいね 今は勉強してる途中だけど 中観帰謬 瑜伽行中観とかを 体感することができたのなら 絡んできても良いかもしれないけど ヘピーマン何とか言うにゃん🎵 ひゃっひゃっひゃ!( *´艸`) >>110 スシーマという神通力目的の人間を拒否するために「神通力は無い」と説いたんですか。 それは貴方の勝手な推測、願望ではないでしょうか。 スシーマを拒否するために釈迦が「神通力は無い」と嘘をついたという明確な根拠の提示をお願いします。 ・尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。 ・基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、 ・もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。 >>110 アートマンについてですが、恐縮ですが貴方のレスを師匠に読んでもらい意見を貰いました。 以下お返事。 それはまだアートマンを知らない者なのじゃ。 (注、宝珠さんのことだと思われます) アートマンこそ非ずとしてのみ現される法なのじゃ。 お釈迦様はそれを知ってアートマンの法を正しく説いたのじゃ。 以上であります。 何か反論、ご意見があればよろしくお願いします。た 仏典の中には、いわゆる「神通力」「超常現象」などの『超常的、神秘的事例』 の記述が数多く見られる。 例えば、 「六神通」「仏の三十二相」「誕生譚」 もそうだし、死亡時の大地震もそう。 また、バラモン三兄弟の絡みで、釈迦が 聖火堂で龍を調伏した話、それから、舎衛城の神変、ジャータカもたいがいだしw 法華経に至っては、それこそ神秘的事例でないものを探す方が難しいww では、本当に2500年前の釈迦という人物は上記のような現象を起こしたのでしょうか? 仏教という一宗教の範疇を飛び越して、普遍的現象としてその是非を問うならば、答えは NO と言わざるを得ません。(勿論、「信仰」はまた別の話です) 人間は、空を自由に飛び回れません。 火も吹けません。生まれてすぐ話せません。 舌が伸びたりもしないし、しゃべるウサギもいません。 ・・・・・そのような現象は観測確認されていませんし、また生物学上、人間にそのような 機能が備わっていないことも判明しています。 もし、そのようなことを認めるのであれば 釈迦を 空想上のスーパーマンとして 扱わなければいけなくなります。 (事実、大乗の世界では、釈迦をそのような存在として扱っている宗派もありますが) 信仰の世界の枠を超えて、それを事実認識するのであれば、それはもう、いわゆる「オカルト」 の話です。 問題はここからですw ⇒『では、なぜそのような話が仏典に記述されているのか?』 昔の人が、上記のような現象を実際に目撃した・・・・なんてのは考えられません。 しかし、記述はある。 それは何故か?・・・ということです。 最もよく言われるのは、いわゆる「神格化」というものですね。 後世の仏弟子たちが自己の宗教の開祖に対して期待する神秘性・・・・っていうやつですw 誰でも自分の信仰する宗教の開祖に対しては、それが偉大であるほど望ましいわけであって、 「普通の人間」であっては欲しくないわけです。そういう心情の反映でしょう。 他宗教とのバランス的な問題もあるでしょう。 他宗教の信仰の対象がとんでもなく神秘的で偉大な存在であり、仏教の開祖が、「普通の人間」 ならば、一般民衆に帰依を説く場合でも、カッコがつかないw・・・と。 まあ、中村氏はこういう方向性でみてますね。 また、「在家の価値体系の許容」 という視点もあります。 釈迦は在家の価値体系を決して排斥したりはしませんでした。 勿論、それは出家の価値体系とは 異なるものですが(そのあたりは、ダニヤの章に明らか)、 それはそれとして尊重していたわけです。 ですから、当時、民間で信仰されていた土俗信仰(呪術、占い等)も、許容範囲内であると判断すれば (パリッタ等)排斥せずに、寧ろ方便として言及することもあったと考えられます。 そのような姿勢が、釈迦の死後、時代を経るにつれて、民間文化との融合が促進され、仏教に混入されて いった。 密教なども元はインドの土俗信仰の混入であると考えられていますね。いわゆる体系的に整備 されていない雑密と呼ばれるものですが。 奈良氏は、このような側面を重視しているみたいです。 また、「人間というものは何かを信仰するとき、必ず拝む対象を欲するものだ。」という意見があります。(渡邊氏) まことに尤もな意見であり、仏教ではそれが仏像製作へと繋がり、舎利信仰もその一種でしょう。 釈迦は大変賢い人だったので、世俗においてはそのようなものの必要性も理解したうえで仏塔の製作を指示 したのだと思います。 そのような信仰の対象となる具象化物が、次第に神秘性を帯び、それ自体が何やら有り難いもので、 超常現象の卸元となっていく。 日本全国にある「〜地蔵」「〜観音」などがその好例でしょう。 (例えば、刺抜き地蔵、洗い観音など) 仏典における超常事例の記述は、以上のようなことが起因となり、さらには仏典編集者の志向、信仰、信念、願望 また当時の時代背景なども影響し、 実に様々な要因が重なり合って現在のような形が形成されていったものと 思われます。 >>110 あと私のアートマン観ですが^^ 「それらはアートマンには非ず」 、、、、これは違うと思います。 言い換えれば 「それらは非ずだからアートマン」です。 「五蘊はアートマンに非ず」ではないのです。 「五蘊は非ずだからアートマン」です。 つまり一切の存在は非ずでありアートマンである、です^^ 123.それは心理学である。それでは宗教とならない。 >>124 非らず、非らず、とは「認識できるものはアートマンには非らず」という意味。 アートマンは常に見る側(主体)だから見られる側(客体)になることはない。 アートマンを見たとか捉えたと思ったらアートマンが見られる側、つまり客体になってしまうのでその瞬間それはアートマンではないことが証明される。 だからアートマンは捉えることができない。 捉えられないから。 壊れることがない。 壊されないからこだわりがない。 こだわらないから、つながれず、動揺せず、損なわれない。 五蘊は捉えられるものであり、無常で壊れるものであるのでアートマンではない。 五蘊のような認識の客体になるものはアートマンに非らず、そういうこと。 スーシマ経は有部の雑阿含経にも有部から別れたとされる分別説部の相応部にも載っている経典だが、 この経典の成立はやや後期に属すると思われる(増谷文雄)とのこと。 >>124 栄進師匠へ 仮設としての 縁起している世界の中の 無明薫習に依存して 貪・瞋・痴に依存している >一切の存在は非ずでありアートマンである リンクの貼り憑け願います 論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします ヨロ m(_ _)m ウィキペディアの 「…である」と定義することはできない 「…である」ものではない これを見ると 仮設としての世界ではない 縁起している世界ではない 有為法している世界ではない 無明薫習している世界ではない というような文脈のような気がしますが 栄進師匠としては 無明薫習に依存している >一切の存在は非ずでありアートマンである というような執着でつか? >>121 パーピマン殿へ 大変、失礼いたしました スマソ m(_ _)m ということで、とりあえず >勿論、「信仰」はまた別の話です おじゃるは どこの宗教団体にも所属してないけど それでも 「そのようなこともあるかもしれない」と妄想(信仰?)しちょりまつ たとえば 波動関数(wave function) 「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できるので それゆえに 我々が住む日常世界の他に全く異なる 並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ ttp://www.nikkei-science.com/page/magazine/0311/hologram.html ホログラフィック宇宙 3次元のように見える私たちの宇宙は 2次元境界面について定義された 今までの古典力学とは 別の物理法則によって記述できる (たぶん量子力学とか?) _ _ _ というのと同じように プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく ↓というような感じ? ttp://tocana.jp/2017/07/post_13673_entry.html 宇宙に意識はあるのか? 2017.07.03 科学者が議論 「宇宙には原意識クラウドが存在し、人間も接続されてる」 _ _ _ 元始からの すべての事象、想念、感情が 記録されているという世界記憶の アカシックレコード(Akashic Records)みたいな感じ? 伽藍は腹毛のことだと勘違いされているようだが、元々そんなことはなく、英語の造語 おそらく同性愛者宿泊施設を運営するキリスト系団体の陰謀 誰でもできる在宅ワーク儲かる方法 少しでも多くの方の役に立ちたいです 検索してみよう『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』 KI1 >>124 栄進師匠へ 創めに神が天と地を造った 神は云った。「光あれ」。すると光が出来た という旧約聖書とかに依って立っている カトリック司祭の ジョルジュ=アンリ・ルメートルとかの 膨張宇宙論 ビッグバン理論という仮説も 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする 宗教の信仰のようなものに依って立っている (科学信仰のようなもの?に依って立っている) 栄進師匠は なぜ 『 超えたもの 』 に反発するのか? その理由を ヨロ m(_ _)m >>126 ググッてたらこんな解説のサイトがあったので丸写し^^ 「インド哲学七つの難問」宮元啓一 【第3難問】本当の「自己」とは何か? インド哲学で自己の議論を樹立したのはヤージュニャヴァルキヤだった。 紀元前700年前後の哲人で、ウッダーラカ・アルーニの弟子としてウパニシャッドを代表するともくされている。 ヤージュニャヴァルキヤは、世界がすべてアートマン(真我)にほかならず、そのアートマンが認識主体になりうる唯一のものだとみなしつつ、しかし認識対象にはなりえないとみなした。 では、アートマンは自己反映できないのかといえば、そうなのだ。 アートマンは把握することも表現することもできない。 それならアートマンを確認するには、「Aはアートマンではない、Bはアートマンではない、Nはアートマンではない」というふうに。 どうするかといえば、「〜ではない、〜ではない」(ネーティ、ネーティ)というふうにしか言いようがない。 ヤージュニャヴァルキヤは、そう説いた。 これははっきりいえば「自己は知りえない」ということである。 生きるものが生きる器の中にあることを器世間というが、アートマンはその器世間に内属してはいるだろうが、その全体を器世間という環境たらしめているものそのものであるからだ。 アートマンによる自己認識は不可能だという説である。 仏教では心身にもたらされる作用のことを、まとめて五蘊(ごうん)という。 「蘊」とは集まりのこと、センシング・クラスターのことだ。 色蘊(色や形の集まり)、受蘊(感知する作用の集まり)、想蘊(識別作用の集まり)、行蘊(想起するものの集まり)、識蘊(判断作用の集まり)の五つをいう。 ブッダは五蘊いずれもが常住の自己ではないと説き、それゆえこうした頼りにならないものを錯誤して心身活動の根拠にしてはいけないと戒めた。 これを「五蘊非我説」という。五蘊には我(自己)がない、非我であるという説だ。 宮元は、ここにはヤージュニャヴァルキヤの哲学を正統に継承できているものがあると見る。 https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>128 >>134 を見よ^^ >>133 アートマンや創造主神などは、人間の認識を超えたものです。 反発も否定もしてません。 それらは我々に認識できない、諦めましょう。 そんなもんより目の前の苦しみを何とかするのが悟りなのかも^^ >>123 パーピマンへ これも某サイトの丸写しですが、ご一読を^^ 【第1難問】ことばには世界を創る力があるのか? この問いは、言葉は真実を表明できるのかという問いである。 インド哲学は言葉が世界を創ると確信する。それが大前提だ。 だから言葉は真実(サッティヤ)をあらわせる。そう、考えた。 言葉には世界を創る力があるばかりか、根本的な真実(サッティヤ)をつくる力があるとみなされたのだ。 サッティヤはそれこそ「必ずその通りにものごとを実現する力をもつもの」という意味だ。 言霊っぽい。 ふつうは、言葉なんてしごく感覚的なことで、心や真実をあらわしているとは思わない。 なぜなら言葉で嘘もつけるし、まちがったことも言えるからだ。 人や時代や土地柄によって言葉づかいもちがうし、いつも言葉が同じ意味で使われているとも思えない。 これがふつうの常識だ。 しかし、インド哲学はそう見ない。 もともとヴェーダのマントラから世界が生まれ、言葉はブラフマン(宇宙原理)でもあったのだから、言語力こそがあらゆる力の源泉なのである。 印哲では、なんだって言語力で説明がついたのだ。 それゆえ「その通りにものごとを実現する」には、たとえばサッティヤはカーマ(願望)と連合するほうに動いて願いを叶える気分をつくり、 ヴァチャナ(語句)と連合すればその気分が詩歌に至り、 そのヴァチャナをヴラタ(誓約・約束)と連動させれば、人生での約束事を保証していくというふうになるとみなされた。 いっときぼくが夢中になった5世紀の言語哲人バルトリハリは、言葉(語)そのものがブラフマンだとみなしたほどだ。 というわけで、第1難問については、「言葉には世界を創る力があった」のである。 https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) この(ダンマパダの)三つの詩句の初めの部分 「一切行(形成されたもの、有為法)無常」 「一切行(形成されたもの、有為法」苦」 「一切法(事物、有為法と無為法、離行作と行)無我」 はいわゆる「法決定」といわれるものです。 テーラワーダの世界観においては この三つが事物に備わる自性(それそのものが持っている性質)であり、 これがブッダの発見した自然の「真理」ということになります。 http://lllool.hatenablog.com/entry/2016/10/12/224622 ヨガのブラフマンやアートマンはニルバーナか? http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/12/04/050000 だから、おもしろいことに、ウパニシャッド哲学に書いてありますよ。 ウパニシャッド哲学はお釈迦様の時期に出始めました。かなりお釈迦様の影響もあったみたいね。 三つくらい、お釈迦様の時代に生まれました。当時、本はなかったから、テキストとして残ってはいません。 お釈迦様が、「これが自我ですか? いえ、これは自我にならない」「これが自我? 自我にならない」と調べて、調べて、これ以上何もない。 ということは、自我がないということでしょう。 そう結論付けたところで、ウパニシャッドでは、同じく「これは自我じゃない。これも自我じゃない。別なものです」 「別なものです」と、どうやって決める? そこが間違いなんです。ほんの微妙なところ。 だって、自我がある、と言う前提だから。 「これは自我ではありません。自我ではないんだけど、自我は別なところになる」「手は? 手は自我じゃないんだけど、自我は別のところにある」 そういうことだから、その方法では、初めから終わりまで間違えてしまいます。 だから、(ニルバーナとブラフマン・アートマンは)全く似ていないんですよ。 修行だったら、人間が考えるところだから似ているところはありますよ。 略 仏教になってくると、バイアスゼロの世界です。 自分が、ハチャメチャバイアスの世界で生きている自分が、バイアスゼロで真理を見る。 ありのままに見るとはそういうことなんです。 ヒンドゥー教はありのままに見ていないでしょう。あってほしいままにみているでしょう。アートマンとブラフマンで。 >>123 パーピマンへ、何が言いたいのかと申しますとですね。 仏典に出てくる誇大妄想的エピソードは、インド人には「真実」なんです^^ 言葉が世界を作るんですから、我々から嘘に見えても彼らには現実の世界なんです。 またメタな話になりますが、そもそも現実とは何かですよね。 仏教では、一切が空なんでしょ? 現実も空、妄想も空。 つまり現実は妄想で、妄想は現実です。 なのに、パーピマンは鬼の首を取ったかのように、仏典の妄想部分を挙げつらっておかしいと指摘しますが。 おかしいのは、パーピマンさまあなたの方です^^ 仏教を本当に理解されてるのなら、そのような指摘こそがおかしいとなるんですが。 私の方がおかしいのでしょうか^^ >私の方がおかしいのでしょうか^^ wwwwwwwwww そうですw >>140 うるせー^^ そうだよ、その通りだよ。 クスリ飲んで寝る。 >>141 栄進師匠へ ヒンドゥー(バラモン)とか? サーンキヤとかの場合は プルシャからの → プラクリティなので ttps://1000ya.isis.ne.jp/1645.html インド哲学 七つの難問 宮元啓一 … ヤージュニャヴァルキヤは 世界がすべてアートマン(真我)にほかならず そのアートマンが認識主体になりうる 唯一のものだとみなしつつ しかし認識対象にはなりえないとみなした _ _ _ 「…である」と定義することはできないという 「…である」ものではない 真我のようなものからの → 縁起している世界すべて一切の諸々 という意味で >超えたものです >反発も否定もしてません >苦しみを何とかするのが悟り 苦集滅するための方法は? 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>142 >苦集滅するための方法は? 常識的に答えれば八正道とかじゃないの。 ウィキに書いてあった^^ 143.八正道、か。 それは心理学である。 それは宗教ではない。 >>138 ID:55+rNLUO師匠は 大乗否定かもしれないけど 真如縁起そして 頼耶縁起というような文脈においては プルシャからの → プラクリティというサーンキヤと 大円鏡智からの → 阿頼耶識という唯識は 対機説法として似たような文脈があります それゆえに ダルマキールティ(唯識派)とかは カマラシーラ(瑜伽行中観派)とかに論破される というような対機説法になっているらしいでつ おじゃるの立ち位置は 仮設としての 有相唯識も肯定でつ 一応、念の為 せめて、臨床心理学とか認知行動療法とかにでもしておけば、一目置けたものを・・・w >>112 >精神障害者2級 栄進師匠は 心理療法の 認知行動療法(Cognitive behavioral therapy:CBT) とかはしてないんでつか? _ _ _ おじゃるは 心理療法の フォーカシング(焦点合わせ、Focusing) まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす 胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら 何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ これを実践しちょりまつ ヴィパッサナみたいな感じ? >>140 確かにヘピーマンはおかしいぞ! ヘピーマンの文句はパーピーマン に言え! >>120 あなたの師匠が誰かは分かりませんが、 もしも鬼和尚のことであれば、一言いってだけおきます。 たまにはあのスレを覗きますが(本人のサイトも読んだことはあります)、 私からはあの方の発言はすべて理解してるつもりです。 そして、とても高く評価しており(2ch投稿者で過去トップレベル)、これまで異論という異論も特にありません。 ただし、鬼和尚の方からはこの私の(いう)ことはよく分からないのではありませんか? ただ切り取った一部だけでは分からないと思いますが。 そして、もちろんこの私は(非体験者なので)アートマンを知りませんが、 アートマンについての記述上の理解ならばあるつもりです。 私は仏教以外では、神智学、ラマナ・マハルシ、ヨガナンダ、ラーマ・クリシュナの教えを学んできています。 所持して主に読む聖典は、『バガヴァッド・ギーター』『ウパデーシャ サーハスリー』『ヨーガスートラ』などです。 >>119 あのですね... ただ「無い」と書いてあったからない?って...。 だから、そういう読み方は国語の破壊でしょうと? あなた自身が師匠ならば、ただ超能力が欲しいといった不純な目的の人間などに弟子としての深遠な法燈を伝授しますか? 弟子たちにも神通の使用は厳しく制限して戒めているというのにですよ... 再度、スシーマという人間の教団接近の目的を仏典上から確認してみましたか? 無いと書いてあったその一つの経文にだけその意味すらも解さずに固執して、 それ以外の百万倍もの経典中に説かれている神通についての明快な解説の事実を無視する態度が道理に適ったものですか? あとで、私の方も仏典から抽出したいと思います。 少し時間貰います。 >>124 >つまり一切の存在は非ずでありアートマンである、です^^ “非ずだからアートマン。つまり、すべてがアートマンということ。” それは結局、ヒンドゥー的なアドヴァイタ論でしょう。 つまり完成者は、唯アートマンであったという自覚に目覚めてすべてのマーヤが消散すると説くのです。 私個人はヒンドゥーも仏教も最終的には同一の境地(ゴール)に到達すると見ているので、 私にはその意味は理解できますが、けれども仏教ではそういう説き方はしないということをいってる。 そもそもゴータマの教説というのは二元論的な世俗諦なのであって、なのでそういった勝義諦は説かない。 では、あなたのいってるような教説はいったい仏典の何処にあるというのですか? 仏典においては、一切にはアートマンは見出されないということ。 尚、この一切というのは仏教論上における現象界ということであって「有為」のことです。 仏教においては真理に二諦を立てており、そして、対するものとしての「無為」を上げ、 一切(有為)ではないものがあるとして説くのです。 アートマンの意味を解するならば、そのアートマンが無為であるのは明白でしょう。 ただそこまで説かなかっただけです(無記として)。 仏教には、 「アートマンが在る」という言い方はないのです。 あなたの、「アートマンは非ずとしてしか表現できない」まではイイです。 しかし、これを以てしてゴータマの非ずの教えは「アートマンを説いたことになる」は不可。 言えることというのはこれだけなのです。つまり、 決して、アートマンを否定したことにはならない。アートマンを否定などはしていない、と。 ただ、五蘊の中にはアートマンを見出すことはできないということだけです。 ならば、それは要するに、五蘊外にアートマンが見出されればいいことになる...。 ゴータマの説いたものは、 あくまでも非我(それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと語るなかれ)であって、 その採った態度は無記といものでした。 無記とは。そして、無記の態度を採ったその理由とは...。 『ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。 「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはないのですか (natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。 その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答えたら、常住 論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えられ、そして阿難に反 問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)という智が生じるのに順じるだ ろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。』 (サンユッタ・ニカーヤ.44 第10 経) 無いものはどうしょうもないので、本当に無いのならば、ただ「無い」といえば済むことです。 しかし、そうしなかったのは唯物論と勘違いする者がでるから「無い」などといわないということ。 そして、「在る」と言わなかったのは、誤解を起こしているバラモンたちと混同されたくなかったからです。 >>148 【警告】 あなたは条項4.に抵触しています。 二度と当スレに投稿して戴かなくて結構です。 >>152 だからw 「ある」と言っていないものを「ある」と改竄してしまうこと への罪を、君は感じないのかい?w 追記するなら、 (弟子たちの伝聞・聞き書きからしか判断するしかないわけだが)、 その文脈の中で、 ≪「ある」という読み解き≫ と ≪「ない」という読み解き≫ と、 どちらの文脈に、「正当」性を見出せるか? ということに尽きる。 その担保が、全て仏教外(=外道)に依らねばならないなら、 それはもう仏教ではない。 『達磨以降の禅宗を、正統仏教とする方が遥かにマシ』かもなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww そして、弟子たちの伝承を誤りだとするなら、 そもそものゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなるのさ。 >>153 【忠告】圧倒的な仏格違いを知れ! 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>151 >仏典においては、一切にはアートマンは見出されないということ。 >尚、この一切というのは仏教論上における現象界ということであって「有為」のことです。 >仏教においては真理に二諦を立てており、そして、対するものとしての「無為」を上げ、 >一切(有為)ではないものがあるとして説くのです。 >アートマンの意味を解するならば、そのアートマンが無為であるのは明白でしょう。 >ただそこまで説かなかっただけです(無記として)。 一切法無我ですから有為法無為法両方に渡って無我です どこにも我(アートマン)は存在しません いやぁ、スターウォーズ1stはよく出来とるねぇ・・ (勿論、あの時代ならではの(技術不足の)相乗効果を差し引いたとしても) >ゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなる [ キリスト 実在 ] で検索すると キリストは実在したのか?というような文脈が出て来ますね _ _ _ そして [ 大乗非仏 ] で検索すると 大乗のみならず パーリ経典も編纂されたものであることが明らかとなっている 近代の文献学上は 原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない (意図的に?)編纂されたものなら 釈迦も架空の作り話だったのか?となる場合もあるかも? _ _ _ 聖徳太子虚構説 従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである 聖徳太子も架空の作り話だったのか? ここのスレを読んでいると、 大まかにすると、魂が有るのか無いのかになるんじゃないの? 釈迦は魂が有ると説いたのか、無いと説いたのか。 真我を魂と定義してみれば、わかりやすいかもね。 感想ね、間違っていたらごめんなさい。 >>154 誰も(私は)、 ブッダは「アートマンが在ると説いた」などとはいってないでしょ。 仏典から確認できる言葉とは、「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」です。 『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5) 『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』 (Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.) 私が主張しているのは、 ブッダは「無い」などとは説いてないのに勝手に無いということにして、 ヒンドゥーなどを有我論として見下すのを止めなさいということです。 ブッダの態度は無記ですから。 そして、アートマンについては否定していないから、実際上は在っても問題にはならないといってるだけ。 勝手に「無い」と説いたなどと改竄しているのはあなた方です。 それを仏典の記述から見出すことはできませんから。 勝手に解釈として(誤解して)「無い」と弟子が言い出しただけですから。 >>155 >弟子たちの伝承を誤りだとするなら、 >そもそものゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなるのさ。 別に全部を疑うわけではないし、その必要はないです。 仏典上、アートマンが無いという教えではないのに勝手にそう誤読したのは部派からであるといってる。 そのことを近代仏教学は指摘してるのです。 仏教学は仏典を研究してる。経典の記述を読むのですよ。 しかし、現存するテーラワーダ(長老たち)というのは部派の生き残りであって、 彼らは仏典の記述を無視して口伝を信奉してる。そう、部派からの間違った口伝を二千年間も忠実に...。 しかし、それは仏典の記述とは矛盾しているのであり、仏典に反するならばそれは仏教ではないでしょう、と。 >>157 >一切法無我ですから有為法無為法両方に渡って無我です >どこにも我(アートマン)は存在しません いやだから、 その一切の中へ勝手に無為法をも含めたのは部派のアビダンマであるといってるのです。 これは原始仏典上では確認されないことであって、つまり、まったくの間違いなのです。 『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、 原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143) 部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異 なったものになった。(p151)』 (水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) >>161 いえ.違います。 仏教上、輪廻主体としての「魂」については認められています。 これをブッダは「識」として説かれてました。ただし、それはアートマンではないということ。 では、アートマンは無いと説いたのかということ、そうではなくて、決して無いなどとはいってないのです。 しかし、このスレ上でこの二つの違いすらも分からない無知な者たちが、 ただ勝手に魂もアートマンもごちゃ混ぜに味噌も糞も一緒にして、それらすべてが無いと説くのが仏教なんだと主張しているのです。 この主張には伝統テーラワーダの一部と、唯物主義者の二グループが参加しています。 私は仏典の記述から、この二グループの主張は間違いだとしています。 >>156 ん? 誰と誰の格が違うと? どうせ議論にまともについてはこれないのでしょう。 だから、「消えなさい!」といってる。 ここは参加人数を求めてない。 あなたは、二度と来なくていいですから(これが最終警告です)。 >>151 師匠に伺ったら、私の主張はアドヴァイタと同じであり違うと突っ込まれました。 撤回いたします。 しかし宝珠さんの見解も正しくないそうです。 「お釈迦様は明らかにアートマンを知って説いたのじゃ。 」 だそうです。 つづく^^ >>152 この宝珠さんのレスにどう返事すればよいのか分からなかったので師匠の智慧をお借りしました。 以下師匠からの伝言です。 『それは無記ではないのじゃ。 非ずと言う言葉によってしか説けないアートマンを正しく現したのじゃ。 アートマンは在るものでは非ず、無いものでも非ずなのじゃ。 そもそも在るとか無いとか説くものではないのじゃ。 そのように説くことも非ずなのじゃ。 何かを説けばそれは非ずではないからのう。 そうであるから無言によって真のアートマンを説いたのじゃ。 』 以上であります。 なにか異論反論ありますでしょうか。 自分で相撲が取れなくて申し訳ない^^ >>166 >私の主張はアドヴァイタと同じであり違うと突っ込まれました。 >撤回いたします。 了解しました。 尚、誤解を避けるべくいっておきますが、アドヴァイタが非真理だとはこの私はいってはいませんから。 こちらはまた異なる態度で以て示した真理なのです。 ただし、それを仏教とはいわないということ(ゴータマの教説ではない)。 >「お釈迦様は明らかにアートマンを知って説いたのじゃ。」だそうです。 はい、この私もそう見ていますよ。 だから、ここでは唯物論者たちとテーラワーダ信者がこの私に執拗に噛みついてくるのです。 しかし、この両者というのは、本来は仏教議論の机上にすら上がることが赦されない唯物論者たちと、 そして、経典の記述を無視してただ伝統(部派のアビダンマと口伝)を盲信してる人たちですから。 勝手に「アートマンは無い」というだけで、それは仏教に反して非我と無記には抵触する。 (尚、私は「アートマンを在る」と説いたなどとはいってない) >>167 >師匠の智慧をお借りしました。 はい、構いませんよ(正直でとても良いです)。 ゴータマが説いたもので唯一、仏典から確認できる言葉とは、 「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」>>162 です。 後の大乗の説く仏性、及び如来蔵の元となった 『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5) と、 『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』 (Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.)です。 私個人は、 百歩譲って大枠の大枠としては鬼和尚の見解に同意しますけれど、しかし、 “非ずによってアートマンを説いている”という言い方は仏典上では述べることはできないでしょう。 何故なら、バラモン・ヒンドゥーの説くアートマンを明確に在るものとして述べた記述は一つもないからです。 仏典から確認できる言葉とは、「私は在るとも無いともいわない」ということと、 「アートマンではないものをアートマンと見なすかなれ」です。 そして唯一、アートマン性質に合致する別言いとして、“本来の清浄な自己”について述べたことと、“真実の自己を探究せよ”というものです。 ただ言えることというのは、非我(非ずの論法)の教えというのはアートマンが無いということにはならないということと、 また、『ウダーナ』の中で縁起する無常な世界(有為)とは違うもの(無為)があると説いたことです。 比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、 覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、 彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、 色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、 一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。 かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、 われ(アートマン)というものはない。 また、わがものというものもない。 すでにわれなしと知らば、 何によってか、わがものがあろうか。 と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳) 「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、 このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、 『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、 まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。 まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」 (マッジマニカーヤ 中部経典22) 「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、 無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、 つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、 永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、⇒『仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。 』 (ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁) 無我相経・・・・・ 「比丘たちよ、色は無我です。比丘たちよ、もしも色が我であるならば、色は(変化せず) 病にかかりません。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』 と言うことが出来ます。しかし、比丘たちよ、色は無我です。それゆえ、色は(変化し)、病に かかります。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』ということ が出来ません。 受は無我です。・・・・・・以下繰り返し 相は無我です。・・・・・・ もろもろの行は無我です。・・・・ 識は無我です。・・・・」 と、このように五蘊は無我である と説きます。 五蘊はいずれも、霊魂とかアートマンとか我とかといった実体的なものではなく、相互に依存した ものでしかない。 「私のもの」という渇愛、「私」という慢心、「私の我」と言う邪見。 このような、(「我」というものがあるという)妄執によらず、如実に正しく智慧によって観よ と説いています。 片山一良 訳 解説 ・・・・・・・はい、わかりますね? どこにも、アートマン、真我なるものが存在するなどと書かれていません。 その存在を示唆する記述さえも全くありません。 勿論、「ない」とも言っていません。当たり前です。 あるものの不在を証明するのは、「悪魔の証明」と言って不可能だからです。 賢い釈迦は当然、それを知っています。 よって、アートマンなどないということを五比丘に 一つ一つ実証的に、「はい、これはアートマンではないですね。これもアートマンではないですね?」 と確認しながら、アートマンなどないことを納得させていったわけですw 「ないと断言していない。」⇒「なら、本音はあると思っていたかも?」⇒「いや、絶対にあると 思っていたに違いない」 wwwwwwwwww アホの発想です。 「無いといっていない」⇒「では、あるんだ」 とはなりませんww 賢い皆さんは、騙されないようにねww 172.相互に依存したもの、か。 その相互依存は、実体が相互依存している、のである。 過去の書き込みから・・・・・ いわゆる、「非我論」といわれるものがありまして・・・。主に中村元などが主張したものです。 つまり、⇒「仏教は真我(アートマン)がない・・・とは言っていない。 「・・・・は、アートマンではない。」と言っているだけである。即ち、無我ではなくて 「非我」なのである。」 というもの。 まあ、中村氏自身が本来、印哲出身なんで、どうしてもヒンドゥー寄りに引っ張られるんだろうw 確かに、仏典の中に、「アートマンなどない」と断言している記述はない。 しかし、仏教でアートマンの存在を肯定するはずはないのw 仏教の目的は「苦の滅」・・・・これに尽きるわけ。その状態を涅槃、解脱、悟り などと呼称するの。 では、どうやって「苦を滅するか?」 それは、その「苦を感じる主体」そのものを否定することから成り立つの。 これが即ち、無我 なんだよ。 ⇒「貴方は今、苦を感じている。苦しんでいる。だが、本当にその苦を感じている 貴方 というものが あるのだろうか? ・・・・は、貴方ではない。〜〜も貴方ではない。・・・・ ほら、貴方(我)など、どこにもないでしょう? それは、錯覚なんですよ。苦を感じている主体そのものが ないんだから、苦などあるはずもありません。」 というシステムさw 即ち、苦そのものを消去するのではなくて、それを感じる主体の消去ということ。 対処療法ではなく、根源的治療ってやつ。 だから、「苦を感じる主体の存在(我)」を認めることは、仏教の根幹が崩壊することになるのw では、なぜ釈迦は、はっきりと「我などない」と言い切らなかったのか? 理由は二つあるの。 @当時のインドは、まさにヒンドゥー社会。そこで、「我(アートマン)などない」と言い切ったらどうなる? 瞬く間に、ヒンドゥー教徒との論争になるね? ヒンドゥーの教えは、アートマン存在が絶対だから。 釈迦は、そのような他教との論争を極度に嫌ったの。それは最古層文献などに、繰り返し説かれてる。 そのような形而学上の論争をするくらいなら、とっとと修行に励め。まあ、毒矢の喩え にもそのスタンス はよく現れているw 「無記」というのは、まさに釈迦の形而上学的論争の忌避を示してるねw A上記の@にも関連しているが、釈迦は『経験主義者』なんだよ。 自分で確認したものを基盤に論理展開するの。 単に形而上の思想をああだ、こうだ といっても 解答はない・・・ということを知ってたの。釈迦は、自分で観測、確認できる範疇内に「我」などないことが わかった。・・・・・しかし、「ない」と断言はしなかった。・・・・この辺も釈迦の賢いところなんだが 「不存在証明の不可能性」をちゃんと理解してたんだ。 ・・・・つまり、「ない」ことの証明は不可能。それが分かってたわけ。 もし、「ない」と断言してしまえば、それの証明を求められるでしょ? それを避けたの。 また、「ない」と断言すると、六師外道のアジタと混同される危険性もあったしなw もし、釈迦が「アートマン」を自己の教説の重要部分であると考えていたなら、必ずどこかで、それを 説いていたはずだ。 だが、そのような経典は全くない。 つまり、表現上は「非我」でも実質は「無我」なんだよw 174.苦を感じる主体そのものを否定する、か。 バカ丸出し、である。 >>161 夕師匠へ >真我を魂と定義して 同じなのか?わからないけど、とりあえず ウィキペディア参照 霊魂(SoulもしくはSpirit) (色蘊・肉体?)を超えた永遠の存在 _ _ _ >>167 栄進師匠へ >アートマンは在るものでは非ず、無いものでも非ず 「…である」と定義することはできないという 「…である」ものではない アートマン 真我 非想非非想の世界? あるいは 無為法の世界? 「識」について・・・・・ 「識」とは、『対象を区別して認識すること』・・・・これが本意です。 さらに突っ込んで言えば、「言語的認識」です。 よって、この「識」を「我の本体」「霊魂」「輪廻の主体」と見做して しまう「邪見」を釈迦は、しっかりと批判しています。 以下は、サーティ比丘 と釈迦との対話・・・ 「私は、世尊がこのように法を説かれたと理解いたします。すなわち、 〈この識は、流転し、輪廻し、同一不変であると。」 「サーティよ、その識とは何ですか?」 「尊師よ、それは語るもの、感受するものであり、それぞれの処において もろもろの善悪業の果報を受けるものです。」 「愚人よ、そなたはいったい誰のために私がそのように法を説いたと理解 するのですか? 愚人よ、私は多くの根拠をもって、縁より生じる識について述べてきたでは ありませんか? 〈縁がなければ、識の生起はない〉と。 しかし、愚人よ、そなたは自分の誤った把握によって我々を誹謗し、また自分 をも傷付け、多くの罪を創り出しています。 愚人よ、それはそなたにとって長く不利益になり、苦になるはずです。」 中部 第38経 「大愛尽経」 片山一良 訳 ・・・・・・・ 「識」は、⇒「縁によって生じるもの」に過ぎず、したがって、実体性はない。 アートマンでも霊魂でもない ということです。 >>161 夕師匠へ 梵我一如(ぼんがいちにょ)とかは否定派でつか? 想う。という『想い』も手放して 想わない。という『想い』も手放して 非想非非想も手放して超えて そして その結果としての梵我一如? 道元 普勧坐禅儀 心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて 余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐 (『想い』を手放して、梵我一如?仏に成っているのなら) 仏法というものは 円満に全てのものにゆきわたっており 修行したり、悟り証したりすることもない マインドフルネス瞑想 Part12 (Jカバットジン系) ・ http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529938706/ 394 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 10:43:22.00 ID:Owtr5/AU ちなみに私が先ほど書いたサティアユガの人間が数千年生きる話のソースは ヨガナンダの師匠ユクテスワの教えで アップルのジョブズが生涯信仰したヨガ哲学からの抜粋です 400 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 10:53:53.24 ID:FzSuR+Al >>387 ジョブズは随分とはやく亡くなってしまいましたね これもヨガナンダのお陰かな 402 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 10:59:04.46 ID:+STT5GAL ヨガナンダも59歳…(-人-) 405 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:21:05.16 ID:Owtr5/AU >>400 ヨガは長生きごっこではありません ヨガ聖者はヨガナンダのように肉体が古くなると自らの意志で肉体から離れます ビベーカナンダも40代かな 釈迦は毒キノコで死んだとの伝説があり 解脱してなかったという人もいます 408 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:33:28.64 ID:FzSuR+Al >>405 ヨガナンダは自殺したんすか えらいこっちゃ 409 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:34:14.30 ID:+STT5GAL ジョブズも自らの意思で肉体を離れたのか…やるなジョブズ… 410 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:35:49.95 ID:Owtr5/AU >>408 霊的レベルの低い人にはそう思うでしょうね 411 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:36:47.15 ID:FzSuR+Al ヨガナンダは加齢を苦にして自殺(ヨガナンダ信者・談) 412 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:38:56.13 ID:Owtr5/AU >>409 ジョブズはどうか知りませんが ヨガナンダはトリックができない ようアメリカの大観衆の目の前で 今から死にますと宣言して 瞑想状態にはいり 魂の離脱をしました 413 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:40:23.88 ID:Owtr5/AU >>411 大観衆の承認がいるわけだから そんなデタラメいってもわらわれますよ 414 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:41:21.42 ID:+STT5GAL とSRFは言っています 415 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:42:19.57 ID:5BWjqHEu ヨガナンダはなぜ肉体が古くなってしまったのですか? 呼吸を止められれば古くならないので数千年生きられるのではないのですか? 416 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:43:54.72 ID:FzSuR+Al ヨガナンダは加齢を苦にして大観衆の目の前で自殺(ヨガナンダ信者・談) 417 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:45:17.68 ID:Owtr5/AU >>415 ババジのように意図的にそうする聖者もいます 418 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:51:57.31 ID:5BWjqHEu >>417 するとヨガナンダは新たな肉体を得て再びこの物質界に現れるのでしょうか? その場合、成人した姿で現れるのですか? それとも母体に宿って赤ん坊として産まれてくるのですか? 420 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:53:29.88 ID:Owtr5/AU >>418 別の惑星かもしれませんね 421 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 12:00:19.46 ID:Owtr5/AU >>418 ヨガナンダの師匠ユクテスワは 地球での死後に ヒラニャローカという星に 自らの肉体を物質化して 教えを説いています ヨガナンダにも死後肉体を再度物質化し 地球に現れもしています 以下略(現在進行中 >>171-178 あなたは自己都合による誤読が酷いし、相変わらず進歩が無いな...。 本来、唯物論者は仏教議論に入る資格がない (物質科学で否定されている超常的内容のすべてが神格化というならば、そのことを証明しなさい)。 今時、使われない無我の古い語訳を根拠にし... あなたは何十年、説明しても理解できない認めない人間ということがよく分かります。 こちらは記述に時間掛かるので、あとであなたの投稿すべてに対して完全に反論します。 もう、容赦しませんから。 【警告】 あなた方は条項1.に抵触しています。 ---------------------------------------------------- >>180-181 唐突にコピペではなくて、 ちゃんとその投稿をすることの旨(理由)を述べて下さい。 何ですかコレは? >>32-34 >>137-138 あなたもコピペは気を付けて欲しい。 自分の口(筆)はないのか? >>176 【警告】 あなたは条項4.に抵触しています。 しっかりとした理由や根拠を示さないのならば、 あなたの投稿はただの落書きや中傷行為と見なします。 二度と参加されなくて結構です。 盛り上がって参りました!\(^o^)/ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ 184.バカはバカを判定できない。 その代表がバカ宝珠である。 >>182 >(物質科学で否定されている超常的内容のすべてが神格化というならば、そのことを証明しなさい)。 仏教ではですねえww たとえ、悟って覚者になっても、空中を飛びまわったり、何万年も何も食わずに生きたり 出来んのですよw 神智学では、どう説いてるかしりませんがwww >>186 いいから出てってください。 このスレでは迷惑ですから。 どこか他で好きにやって下さい。 188.バカ宝珠が良く言う、よ。バカ失格であることを理解できない。 バービマンはバーかマンであることを認めるべきである。逃げるバカである、か。 >>188 宝珠殿へ 仏の顔も三度まで。なので 三度までは警告して それ以降は、相手にしない _ _ _ VIPQ2=2以上であればワッチョイできるけど この板の場合は VIPQ2という表示がないので ワッチョイできないかもしれない。ということで ワッチョイに関しては 失礼いたしました スマソ m(_ _)m ワッチョイの参照資料として ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12159337082 190.バカおじゃる、の登場である。覚者になれないバカである。恥を知れ。 >>169 すいません、某サイトのコピペになりますが一読を^^ 【第2難問】「有る」とは何か。「無い」とは何か? ウッダーラカ・アルーニの「有の哲学」は「有」から始まっていた。 「有」から始まるということは、この世において「いったいどうやって無から有が生じたのか」などとは考えないということだ。のっけが「有」なのだ。 最初から「有」があったのだ。どんな「有」も「有」からしか生じないとみなすのである。 こういうインド哲学は流出論的な一元論である。 そういう特徴をもつ。ユダヤ教もエン・ソフという流出から世界が始まったと見るが、インド哲学は「有」だけが流出していくと見た。 流出論的な一元論はいきおい唯名論的になる。 唯名論(ノミナリズム)というのは、ヨーロッパ中世のスコラ哲学が生んだ普遍論争が際立たせたもので、そこでは「人間」「愛」「犬」「薔薇」といった類の概念は実在しないとみなし、それらには名(名辞)があるだけだと見た。 これに対して実在論(リアリズム)は、どんな歴史や現象であれそこにおこっていることは、それらに名前がついていようといまいと、それらについての記述があろとなかろうと、ほぼ実在しているとする見方である。 インド哲学は言葉を本質化して見るので、最初ははなはだ唯名論的になる。 へたをすれば名辞がありさえすればいいので、それを次々に連ねていくと神秘主義的な傾向にもなる。 とくにウッダーラカ・アルーニの哲学を解釈していくと、そうなりかねない。 しかし六派哲学の時代になると、インド哲学にも実在論が台頭する。 ミーマンサー、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカの学派だ。 とくにヴァイシェーシカ学派は、「すべては知られるものであり、かつ言語にも表現できる」と見て、「知られるもの、言語表現できるものはすべて実在する」とみなした。 この「知られる」には「知覚される」だけではなく「推理される」も含まれる。 >>169 つづき そこで第2難問だが、「有る」はともかく、「無い」の説明が面倒だろうと思われようが、そんなことはない。 インド実在論の見方からすると、「ない」や「無」の議論は実はたいへん明快なのである。「ここに水瓶がない」は「ここに水瓶の無がある」といふうに言えばいいからだ。 これは、「対蹠者」と「場」と「無」の3つを一挙に捉えるという方法だ。 ラッセルやクワインらが先導してきたヨーロッパの論理学では、「丸い四角形」は意義(センス)をもつけれども指示対象としての意味(ミーニング)をもたないとされてきたのだが、 印哲のヴァイシェーシカ学派では、「丸い四角形」は「絶対にありえないものとして実在するもの」というふうになる。 こういうわけで、すべては「ある」であって、「無」や「ない」すら「無がある」のだし、「ないということがある」なのである。 この方法は、初期宇宙に「なかった」はずのヒッグス粒子やダークマターを「あるもの」として提案した宇宙物理学の推論方法につながるところがある。 https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html 以上であります。 コピペばかりして申し訳ない。 つまり、このコピペで私は何が言いたいのかは後ほど^^ 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>193 栄進師匠へ ttps://1000ya.isis.ne.jp/1645.html >最初から「有」があった >どんな「有」も「有」からしか生じない >インド哲学は「有」だけが流出していく 何回も説明してるけど ↓これでしょ? サーンキヤ プルシャからの → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく 無為法の世界からの流出なのか? あるいは 非想非非想の世界からの流出なのか? 非想非非想の世界は 仮設としての 縁起している世界に依存している ということで、とりあえず、一応、念の為 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>169 上記のコピペをヒントに考えるとですね。 インド人は言葉に出したものは、すべて実在すると考えるそうですね。 ここにコップは無い、ではなく、ここにコップの無があるという言い回しです。 この「無がある」というのがポイントでして。 無とは、非ずと言い換え、ここに「非ずによってアートマンを現す」を代入してみましょう。 ここにコップのアートマンがある、です^^ アートマンとは、無である。 いや、アートマンという無があるという言い回しかな。 この言い回しは普通日本人はしませんが、宝珠さんは無意識に使ってる。 >『ウダーナ』の中で縁起する無常な世界(有為)とは違うもの(無為)があると説いたことです。 無為がある、とね。 ヒントになったでしょうか^^ 194.無為法からの流出か。非想非非想からの流出か。 そんなことはない。 貴方は、カッパではない。 私もカッパではない。 彼も彼女もカッパではない。 ・・・・・・・上記の文には、「カッパは、いない とは書かれていない。〜は、カッパではない と言っているだけである。 ということは、・・・・・・・『カッパはいるんだあああ〜〜。 それが真実だああああ〜〜〜〜」 wwwwwwwwwww はい、みなさん、 ここは笑うとこですよw >>197 笑われ者のヘピーマンや〜い!w ひゃっひゃっひゃ!( *´艸`) >>195 栄進師匠へ >コップの無がある 仮設としての おじゃるは「実有」ではない。がある おじゃるは「変化しないもの」ではない。がある おじゃるは「自性」ではない。がある それゆえに おじゃるは「我所」ではない。がある おじゃるは「我」でもない。がある 想う、という『想い』も手放して。がある 想わない、という『想い』も手放して。がある 非想非非想も手放して超えて逝く。がある 197.カッパはいる、か。 実在か否か、を留保して、観念としては存在している。 >>197 もうそーゆーレベルの話じゃないんですよ^^ カッパは実在しない、しかしカッパのアートマンは実在する。 わかるかな?わかんねーだろーなあ^^ 199.おじゃる、は実有ではない、か。 実有でないならば、否定する理由がないことになる。 なんで否定するのか。 実有であると、都合が悪いから、否定するのである。 バカおじゃるは、反省せよ。 >>201 栄進師匠へ ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf ウダーナヴァルガのギルギット写本 「壊滅しない(常住不変)」ではない。がある 「縁起しない(常住不変)」ではない。がある それゆえに 仮設としての 縁起をもって 縁起したものを離れることもある 縁起したものを離れて、そして ブッダは そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも 死ぬことも、生まれることも説かない それこそが苦しみの終わりである そして、その結果として 仮設ではない。がある 縁起ではない。がある 有為法ではない。がある 対機説法としての?涅槃がある 203.ブッダは説かない、か。 それで苦しみの終わり、か。 バカ丸出し、である。 そんなことで、苦しみが終わることはない。 >>163 それならば無常や苦と同じく無我についても諸行は無我であると言えばいいのです それをあえて諸法(一切法)としているのは何故か? それは行(形成されたもの)ではない無為法も含んでいるから >比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、 >それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。 >何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」 http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html 無為なる涅槃は釈迦にとってはあるものでありだから一切に含まれます 初期仏教では一切法は消滅変化する現象法に限定されたのものであるということはありません 限定したら涅槃はありもしないものになります (一切法の法とはここでは事物や存在のことを指します) >>190 おじゃるさん、了解です。 >>192-193 エーと、 自分の意見を自分自身の言葉でしっかりと述べるならば、 その為の参考資料としての論拠の提示はもちろん何も問題ないです。 なので文献等から一部をコピー転載されてまったく構いません。 いや寧ろ、お薦めの良い情報があればどしどし皆さんに教えてください。 それと、鬼和尚のことで一言だけ云わせてもらいますね。 鬼和尚の投稿はいつもスパッと簡潔にして快活にされてるので、 そのこと自体にとても驚かされています。 そのような芸当はとてもこの私にはできないことです。 ただ、いつもポ〜ンと解答(私には正しいものと理解できますが)だけがあるので、 殆どの閲覧者には難しくてなかなか理解されないのではないでしょうか? 要するに、その中身については説明不足だということ。 つまり、最初から分かってる者にだけしか分からない。 (機会があったら宜しくお伝えください!) すみません。 こちらの方こそ簡単には返答レスが返せないことが多々あります。 そのことをどうかご了承のほどを願います。 栄進さんの投稿は、またあとでゆっくりと読ませて頂きます。 >>187 パーピマン、 あなたに対する反論は何処からでも入れるのですが (外道スレでの後半の投稿も忘れてるわけじゃないし...)、 ではまず、その発言について確認したいと思います。 >仏教ではですねえww エッ、仏教では? 仏教では唯物論を説くとな? そんな話は私は今まで聞いたことがないのですが、それはいったい何処の何という諸派ですか? まずは、それをここへ明らかにして下さい! 尚、個人の唯物主義者の僧侶が〜というのは辞めて下さいね。 >>207 宝珠殿へ >仏教では唯物論を説くことなのか? たとえば↓これを前提としてる。とか? ttps://takanetosyo.jimdo.com/2011/11/05/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E6%9C%97%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E8%80%83%E5%AF%9F/ 松本史朗の仏教の批判 第1章 仏教であれ、キリスト教であれ すべて宗教とよばれるものは 人間がつくりだした夢にしかすぎない _ _ _ (唯識ではなくて) すべてを脳に還元する単純な脳一元論ではない 「脳が心を作り出す」というよりは 「脳という構造が心という機能と対応」しているとする 唯脳論(ゆいのうろん)とか? >>205 諸法は最初から元々、無為を含みません。 それが一切の法「一切法」なのです。 涅槃はゴータマにとってはあるものでも、我々にはそれを示すことができない。 従って、仏教では二諦によって世俗諦で教えるのです。そうでないと我々には役立たないからです。 現象法に限定して、尚且つ、それとは異なるものがあると教えるのが仏教です。 縁起(一切法/有為)には拠らないものがあると説く、それがウダーナの教える「無為」ですから。 あなたがウダウダいったところで経典ではそうなっているのだから、 それがゴータマの教え方ですよ。 あなたの話はすべて部派仏教のアビダンマの理解です。 初期仏教のものとは見なされません。 いや、分からなくても仕方ないのです。 何故ならば、すべての仏教諸派が間違えてるのだから...。 寧ろある意味では、「仏性」と「如来蔵」を説く部分について大乗はその点が優れている。 また、「諸法」については後で述べます。 >>209 >諸法は最初から元々、無為を含みません。 その根拠を経典から明確示してください >>210 >その根拠を経典から明確示してください ↓ その根拠を経典から明確に示してください >>209 >縁起(一切法/有為)には拠らないものがあると説く、それがウダーナの教える「無為」ですから。 縁起に拠るものは一切法ではなく諸行(一切行)です 縁起に拠らないものも含んで一切法であり釈迦は一切法無我と説きました 僧兵達のバトルが始まるにゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>212 >縁起に拠らないものも含んで一切法であり釈迦は一切法無我と説きました リンクの貼り憑け願います ヨロ m(_ _)m スッタニパータ 1119 仮設としての 縁起している世界の中で 縁起に依存している (無為法がある。という『想い』も手放して) すべて一切の諸法を『空性である』と観照して (縁起に依存しているを手放して超えて) その結果としての涅槃がある という涅槃に導くための対機説法も否定しまつか? 涅槃に導くための 根本仏典とかの 苦集滅道に導くための対機説法も否定しまつか? そもそも「無い」の意味って? 誰が定義した? 人によって違うだろう。 唯一絶対の定義があるのなら指摘してよ。 無理だろ? じゃあ、 「アートマンは無いのか」という問いは、言い換えると 「アートマンは○○のか」という問いになる。 答えが出るはずがない。 他の問いも同じこと。 >>205 > 一切法の法とは、ここでは事物や存在のこと 無為法とは 仮設ではない 縁起でもない 有為法でもない それゆえに 事物や存在でもない _ _ _ 真俗二諦 その当時のインドの人々にとって仏教を理解せしめるためには 世間的な『想い』を一応認めて その理解のうえで その当時のインドの人々に 仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった 仮設としての 縁起に依存して 苦しい。という『想い』が現れる場合もあるので それゆえに 苦しい。という『想い』が依存している 縁起している世界を手放して超えて逝こうという そのための涅槃・無為法という対機説法でつ >>209 だからw >現象法に限定して、尚且つ、それとは異なるもの が、 「境地」としての「涅槃」なわけ。 こんなにも単純でシンプルな事柄なのに、なんでわざわざ複雑怪奇なものにしちゃうかな・・・w 日本語で言う『境地』という捉え方は、結構言い得ていると思うんだけどねぇ・・。 「境地」って、 ≪どこかに≫≪具体的に≫(≒空間的に)(質量をともなって)≪永遠に≫≪存在する≫ ものなのかねぇ・・・ ┐(´ー‘)┌ >そもそも「無い」の意味って? おじゃるは 仮設としての 縁起している世界の中で 無明薫習に依存して 我癡・我見・我慢・我愛に依存して 遍計所執性に依存して 貪・瞋・痴に依存して それゆえに 何かが「ある・ない」と妄想・分別しちょりまつ 青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二 … 諸の法の実相は性としての空である 如来の滅後も、こう思惟してはならない 有るのか?無いのか?有ることもあり、無いこともあるのか?と 如来がいる。という『想い』は 本より畢竟じて空である 如来は戯論を超過している − これに対して − おじゃるは 仮設としての 無明薫習に依存して 戯論を生じている >〜ものなのかねぇ? おじゃるにとっては 苦集滅道の後に 最終的には 何があるのでしょうか? (縁起ではない) 涅槃の世界のようなものがある という対機説法の方がわかりやすいでつ それゆえに対機説法としては 仏そのもの 仏性からの真如縁起とか 無住処涅槃など その他、諸々 世間的な『想い』も一応、認めて… >>214 >リンクの貼り憑け願います ヨロ m(_ _)m ダンマパダ279 http://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201005/article_20.html Sabbe dhammā anattā' テーラガーダー678 http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html スッタニパータ1119の無為法があるという思いを手放すという解釈は単に貴殿のドグマだと思います 逆に質問しますが世界を空と観じることと一切法無我と観察ことの違いは何でしょう? 滅諦とは涅槃寂静の悟りの世界であり すべての事物(ダルマ=法)は無我だと智慧によって見る時に滅諦に至ります >>216 比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。 http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html ということで貴殿の「無為法は事物や存在ではない」は否定されます >>222 >逆に質問しますが世界を空と観じることと一切法無我と観察ことの違いは何でしょう? ↓ 逆に質問しますが世界を空と観じることと一切法無我と観察することの違いは何でしょう? 一方,大乗の諸論書の中で,三句ではなく四句で表現される用例を檢索すると,中觀派の諸論書の中には見出せず, 瑜伽行派の液れの中でのみ,具體的には「菩薩地」に, ʻdharmoddānaʼ という用語をもって, 菩薩にとっての,言わば,「法」の四つの「標語」 (uddāna) として,「一切行無常」「一切行苦」「一切法無我」「槃寂靜」との四句が出る。 唯識『大乘莊嚴經論』(Mahāyānasūtrālaṁ kāra) の6說によると, 「空・無願・無相」の三昧それぞれと結びつけられて,「一切行無常」「一切行苦」は「無願三昧」が, 「一切法無我」は「空三昧」が,そして,「槃寂靜」は「無相三昧」が奧義として說かれたのであるという解釋が行われる。 この場合は,「一切法無我」を「空」と觀る所說である。 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/180561/1/jic088_442.pdf >>224 >槃寂靜⇨涅槃寂静 唯識の行者にとっても空と一切法無我の観察法は変わらないようです >>222 ttp://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201005/article_20.html たとえば 仮設としての 縁起している世界の中で 縁起に依存して 現れ・変化して・滅しているので それゆえに 変化しない常住の実体がない 実有ではない という意味では? ttp://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html 大乗で云うところの 仏法 『仏そのもの』の 法(真理)の住者たるままに… >貴殿のドグマだと思います おじゃるが勝手に憑けたけど 仮設としての 縁起している世界の中で 縁起に依存して 無為法が「ある・ない」という『想い』が現れる場合もあるでしょ? という意味でつ >>222 ttp://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html 『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在する それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される _ _ _ 解脱智見 解脱によって解脱智見を知る 縁起からの 解脱を知覚して 涅槃に住む それゆえに 涅槃・無為法は 仮設ではない 縁起でもない 有為法でもない それゆえに 事物や存在である。という『想い』ではないでしょ? (縁起に依存している『想い』ではないでしょ?という意味でつ) >>207 え? ええ??? 仏教のお偉いさん、もしくは仏教学者で ⇒「悟って覚者になれば、空中も自由に飛べるし、何万年も生きられまっせ。」 なんて言ってる人いるの?www ・・・・・そういえば、麻原は空中浮遊できるとか言ってたみたいなw それくらいしか知らないんだがw >>224 ID:SVItGl+6師匠も随分と難しいものを読んでるんでつね? おじゃるには 難しくて意味がわからないけど、それでも、とりあえず ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/180561/1/jic088_442.pdf 「三法印」古典インドにおける三句の… … この場合は 「一切法無我」を「空」と観る所説である _ _ _ [ 一切法無我 ] を検索すると - 諸法無我 仮設としての 縁起している世界の中の すべて一切の諸法は 縁起によって生じたものであって実体性がない この諸法無我 この一切法無我がある。と 掴もうとしている『想い』も手放して 円成実性がある。と 掴もうとしている『想い』も手放して そして 勝義無性みたいな感じ? 間違ってたら スマソ m(_ _)m >>222 > 世界を空と観じることと > 一切法無我と観察することの違いは何でしょう? [ 一切法無我 ] を検索すると とりあえず 四法印 諸行無常印 すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である それゆえに一切皆苦 「色は苦なり」「受想行識も苦なり」 諸法無我印 すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである 涅槃寂静印 ニルヴァーナは、安らぎである _ _ _ これを見ると ニルヴァーナは、安らぎである 涅槃寂静印に戻る帰るための 世界を空と観じること。という対機説法である という感じで おじゃります m(_ _)m 諸法無我 (結び) はじめに、有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを言う。 これは、《絶対者の否定ではなく》、「神」などが我々との関係の上にのみ存在することを意味している。 仏典の中にも「神」が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。 その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。 http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%BB%E3%81%86%E3%82%80%E3%81%8C と書いてあるが《絶対者の否定で良い》と思う。 仏教では六道輪廻する存在の神はもちろん輪廻から解脱した修行完成者でも絶対的な存在ではない。 もちろん神にも修行完成者にも主体と呼べる我は存在しない。 仏教での"唯一の"絶対は無為法の涅槃だけだが仏教は涅槃において真我実現するという教えではない。 中観帰謬とかの場合は 世俗の次元においても 自相(自性)ではないので それゆえに >真我実現するという教えではない で良いかもしれないけど たとえば 中観自立のような おじゃるにとっては ニルヴァーナ 涅槃寂静印がある という対機説法の方が、わかりやすいでつ 世間的な『想い』を一応認めて、その理解のうえで 仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった そのための 苦集滅道である と云うように >>169 宝珠さんへ、師匠からお返事が来ました^^ 『それにはアートマンに関する知識が欠けているのじゃ。 そもそもアートマンを知らずしてアートマンを語るべきではないのじゃ。 諸法無我というのが無によってアートマンを説いているのじゃ。 アートマンを在るものとして述べる筈は無いのじゃ。 無と非によってのみ説くものであるからのう。 アートマンを理解していない証拠なのじゃ。 先ずヴェーダを読んでアートマンを理解してから思考し、語るべきなのじゃ。』 以上であります^^ >>233 栄進師匠へ >無によってアートマンを説いている 何回も書いているけど 「…である」と定義することはできない 「…である」ものではない アートマン 真我 非想非非想なのか? あるいは 無為法なのか?と >>233 私は、鬼和尚と論争する意思はまったくありません。 お互いにどうみても結果的には同じ見解にあることは明白なのですから。 ただ私がいっているのは、アートマンは無と非によってのみ説くものであるから、 だからといってゴータマの語った、「それらはアートマンではない」という非我の教説を以てして、 それはアートマンを説いたことになるんだ、という言い方はできないといっているだけです。 当たり前の話ですが、これがバラモン・ヒンドゥーであればアートマンを説いてるでもいいでしょう。 しかし、仏教ではアートマンを説いているという言い方はできないんですよ。、 ただ言えることというのは、アートマンを無いものとして否定したことにはならないというだけなのです。 誤解して欲しくないのは、私はゴータマはアートマン体験をしてるものと見ています。 ただし、バラモン・ヒンドゥーとは教え方のアプローチが違うのです。 私は、古典的『ヴェーダ』と『ウパニシャッド』はあまり読みませんが、 「ラーマクリシュナ・ミッション」の教えとパラマハンサ・ヨガナンダの「セルフ・リアリゼーション・フェローシップ」、 ラマナ・マハルシのジュニャーナ、シャンカラチャリヤのアドヴァイタ不二一元論、 シュリ・クリシュナの『バガヴァッドギーター』、そして『聖典ヨーガ・スートラ』などを読みます。 僧兵諸君、お早うにゃん♪(*^ω^*)ノ 口角泡を飛ばして彼岸に渡るにゃん?(笑) 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>234 ウィキを調べたですが^^ アートマン→無我→空→仏性→無為→涅槃 これが乱暴な解釈ですが仏教の歴史かと^^ >>235 私にも、鬼和尚も宝珠さんも同じ見解だと思います^^ ただ宝珠さんは、アートマンを実体視してるんじゃないですか? この世界にアートマンは見いだせない。 ならばこの世界を超えたとこにアートマンがあるはずだと。 だからパーピマンに弄ばれる^^ >>226 スッタニパータ758 Amosadhammaṃ nibbānaṃ, 涅槃は虚妄の法ではない http://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201501/article_14.html しかし虚妄の法mosadhammañも虚妄ならざる法Amosadhammaṃも法は法であり諸法の内であり無我です ついでに涅槃はブラフマンでもありません(涅槃はブラフマンであると釈迦は説いてはいません) >>227 >>216 >無為法とは >仮設ではない >縁起でもない >有為法でもない >それゆえに >事物や存在でもない の説明になっていません >だからパーピマンに弄ばれる^^ けたけたけた 宝珠 「いいですか? アートマンというのは、アストラル界であって、空中を飛べるんですよ。 風船がはねてるように飛ぶんですよ。 そして、何万年も生きるんです。 何も食べないんですよ。・・・・・・・・・・ あ〜〜〜〜〜〜〜、 もう、お兄さんは何を言ってるのか、自分でも分からなくなりました(´;ω;`)」 wwwwwwwwwwwwwwwwwww ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6 真俗二諦 … その当時のインドの人々にとっての 世間的な『想い』を一応認めて、その理解のうえで 仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99 ヒンドゥー(バラモンなど) 人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって 次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる 人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き 無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める ttp://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201501/article_14.html 763.(758) 虚妄の法ではない 涅槃は それを 聖者たちは真実であると知る 彼らは 実に真実を悟るので 静かなる涅槃に至ると >>239 ID:W3v4+mqi師匠へ質問でつ 有為法 - 虚妄の法 涅槃 - 虚妄の法ではない (ID:W3v4+mqi師匠にとっての)無為法とは何でつか? (論点が嚙み合ってないようなので質問させて頂きます) >>239 ID:W3v4+mqi師匠へ >>241 の続き たとえば 中観帰謬とかの場合だと 涅槃は 「無為法である。という『想い』ではない」という導きになりまつ ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B … 「誰も気づいていない山火事」も いま(仮設としての)我らによって (無明に依存して妄想して)分別されている _ _ _ 無明に依存して 妄想に依存して 「火自体の側にある固有の要素がある」 「自相(自性)のようなものがあるはずだ」というような『想い』が現れる場合もある それゆえに (勝義一辺倒の勝義房の方々とか?)中観帰謬とかの場合だと 涅槃は 「縁起に依存している。という『想い』ではない」 「(縁起に依存して)掴もうとしている『想い』ではない」 それゆえに 「(縁起に依存している)事物や存在である。という『想い』ではない」というような導きになりまつ >>239 ID:W3v4+mqi師匠へ >>241 >>242 の続き たとえば 無明に依存している おじゃるが↓この経典を見ると ttp://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html 『生じたもの』でなく 『成ったもの』でなく 『作り為されたもの』でなく 『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する _ _ _ 仮設としての 無明に依存して 妄想して 分別して 「にゃるほろ =^・ ・^= 涅槃は存在するのか?」と掴もうとする (掴ことではなく手放すことが正しい対機説法という意味) ↓掴もうとする心の働き 仮設としての 無明に依存して 我癡・我見・我慢・我愛が 睡眠中でも深層において働き続け 根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを「自分であると考えて執着し続けている」 この有覆無記に依存して 「にゃるほろ =^・ ・^= 涅槃は存在するのか?」と掴もうとする『想い』が現れる場合もある という意味でつ 宗派が錯綜すると怖いから、他宗を知ることも体験後は大事なのだろうね。 >>19 Junkie-Ooyama..師匠も唯識とかも専門にやってるようでつね? Junkie-Ooyama..師匠へのお願いでつ おじゃるにとっては Junkie-Ooyama..師匠の説明も、わかりにくいので 日本語で 現代語訳で 初心者向けに 分かりやすい説明で よろしくお願い致します ヨロ m(_ _)m ↓参照資料として ttps://www.yuishiki.org/ 唯識学会 (リンク貼り憑けできない) だるま文庫 八宗綱要 法相宗 ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html チベット ニンマ派 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%A7%B0 ダルマキールティ(唯識派) ttps://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13 有相唯識 無相唯識 >>241 >(ID:W3v4+mqi師匠にとっての)無為法とは何でつか? その前におじゃる様は私の >>222 >逆に質問しますが世界を空と観じることと一切法無我と観察ことの違いは何でしょう? に答えてくれていません >>242 >>243 中観とか唯識とか話を広げても煩雑になって整理できなくなるだけです その調子で有部では〜、大衆部では〜、密教では〜、禅では〜とされたら話に切りがなくなります お釈迦様はラーダ尊者にこう言いました 「ラーダ、問い過ぎている。問いの終わりを捉えて見ることはできない」(相応部ラーダ相応) 貴殿は話を広げすぎている 法(存在するもの)の話の終わりを捉えて見ることはできない >>246 己が内面を疎かにして外面に刺激 を求める愚かさを知れ!にゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>238 1,ブラフマンは実にこの一切(宇宙)である。 心が平静となった者はそれをジャラーン(意味不明の神秘的名称)として念想すべきである。 そして実に人間は意向から成っている。 この世において人間がいかなる意向をもったとしても、この世を去って後もそれと同じ意向をもつものとなる。 (それゆえに)人間は意向を定めるべきである。 ※意向を定めないと輪廻するという意味か? 2,意から成り、生気を体とし、光輝を形相とし、その思惟は真実であり、虚空を本性とし、一切の行為を内包し、 一切の欲求を有し、一切の香りを持ち、一切の味を具え、この一切に遍滿し、無言にして、超然としているもの、 3,これが心臓の内部にある私のアートマンである。 それは米粒よりも、あるいは麦粒よりも、あるいはけし粒よりも、あるいはきび粒よりも、あるいはきび粒の核よりもさらに小さい。 (しかし)この心臓の内部にある私のアートマンは大地よりも大きく、空よりも大きく、天よりも大きく、これらの諸世界よりも大きい。 4.一切の行為を内包し、一切の欲求を有し、一切の香をもち、一切の味を具え、一切に遍滿し、無言にして、超然としているもの、これが心臓の内部にある私のアートマンである。 これはブラフマンである。 「私はこの世を去った後で、これと合一しよう」という(意向の)ある人は、もはや疑念をもつことはない。 (『チャーンドガヤ・ウパニシャッド』iii,14) 古代インドではアートマンは心臓の内部に実在するものと思われていました >>249 数学についてはサッパリなんですが、無限小と無限大という概念があるそうですね^^ アートマンは無限に小さいもの。 ブラフマンは無限に大きいもの。 この二つが同一というのは、どちらも「無限」だから^^ 大きいとか小さいは関係がない。 大乗涅槃経では、「仏陀はアートマンそのものである」と説かれてるとか。 仏陀が永遠であること、アートマンが無限であること。 そこに同一性があるのではないかと。 言っとくけど、これは俺のオリジナルアイデアだからな^^ どこかのサイトのコピペじゃねーから^^ 250.人間には到達不可能である。 それを語るバカである。 我執にとらわれる人間は愚かだが、過去の自分が娘や孫に薄くなりつつ 映る年だ。 >>246 >有部では〜、大衆部では〜、密教では〜、禅では〜とされたら話に切りがなくなります >>4 のところにも書いたけど たとえば 中観自立派と 中観帰謬派では立ち位置が違うので 『根拠にしているものが違う』 『拠って立つものが違う』ということでつ >世界を空と観じることと一切法無我と観察ことの違いは 一切法無我 諸法無我 仮設としての 縁起している世界の中の すべて一切の諸法は 因縁によって生じたものであって実体性がない 実有ではない 三法印・四法印の一つ スッタニパータ 1119 仮設としての 自我に固執する見解をうち破って 縁起している世界の中の すべて一切の諸法を「空性である」と観照せよ 「似てるような文脈の対機説法である」という。おじゃるの感想でつ >>250 大乗涅槃経やない。 大般涅槃経 やった^^ >>247 junkie- ooyama.師匠へ レスありがとうございます おじゃるは 初心者の段階にも及ばないので これからも ご教示の程よろしくお願い致します ヨロ m(_ _)m _ _ _ >>249 ID:W3v4+mqi師匠へ おじゃるは 一応 根本仏典とかも肯定なので 経典に「(涅槃)は存在する」と書いてある。ということも理解してます (涅槃に戻る帰るための対機説法として、わかりやすくて良いと思います) それでも、たとえば >>254 栄進師匠の >大般涅槃経では… 阿含経典類から大乗経典まで数種あるらしいけど 根本仏典と大乗とでは それぞれの根拠としてるものが違うでしょ? それぞれの拠って立つものが違うでしょ? 大乗の『涅槃経』 は 初期の『涅槃経』とあらすじは同じだが 「一切衆生悉有仏性」を説くなど、趣旨が異なる。ということでつ >>255 そうやった。 大乗の涅槃経でええんやった^^ すまん。 栄進師匠が云うところの 「…である」と定義することはできない 「…である」ものではない アートマン 真我 大乗の 一切衆生悉有仏性と同義である と云う栄進師匠の主張である。という感じでつ ↓一応、念の為 六師外道とか ヒンドゥー(バラモン)などを これを 部分的には受け入れて 部分的には批判・否定している 釈迦 根本仏典 これを 部分的には受け入れて 部分的には批判・否定している 大乗 それぞれの拠って立つものが違う場合もある。ということでつ >>256 そこは、ものすごく大きな違いで、 その、仏教史・仏教思想史の分岐・色分けに関わる大きな違いを 「把握できてない・勘違いする」(違いが判ってない) という時点で、そもそも≪何も見えてない≫という自白にしかならんわ。 >>253 >『根拠にしているものが違う』 >『拠って立つものが違う』ということでつ 今は >>214 >>縁起に拠らないものも含んで一切法であり釈迦は一切法無我と説きました >リンクの貼り憑け願います ヨロ m(_ _)m というおじゃる様からの催促でダンマパダとテーラガーダーを明示しました これら初期の仏典を根拠にして話をしているという前提です それで話を進めていかないと話はまとまりません 貴殿も>>214 スッタニパータと根本仏展を持ち出して問いかけてきましたがならば最後まで根本仏典で話を進めていくのが筋というものですよw 次に空と観じることと一切法無我と観察することの違いの結論として >すべて一切の諸法を「空性である」と観照せよ ここはすみません自分もスッタニパータ1119の極一部だけ見てその前をスルーしてました 原文は「世界(loka)が空なりと観ぜよ。」であり有為に属するlokaを空なりと観ぜよなので有為無為合わせた一切法無我という訳ではありませんでした これは自分も不注意でしたが まあしかし最初の無為法があるという想いを空なりと観ずるのはそれはいいとしてお釈迦様は無為法なる涅槃は存在すると明確に言ってるので涅槃は存在するのですw >>241 >(ID:W3v4+mqi師匠にとっての)無為法とは何でつか? 因がない法(ダルマ)です 具体的には(虚妄の法ではない)涅槃のことです 唯識だと虚空、択滅、非択滅、不動滅、想受滅、真如が無為法ですが前述のように話が煩雑になるのでここでは触れません 比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、生じたものではなく(ajātaṃ)、成る、起こるものではなく(abhūtaṃ)、作り為されたものではなく (akataṃ)、原因によって形成されたものではないもの(asaṅkhataṃ)(涅槃)が存在することから、 それゆえに、「生じたもの(jātassa)」「成る、起こるもの(bhūtassa)」「作り為されたもの(katassa)」「形成されたもの(saṅkhatassa)」からの出離(nissaraṇaṃ)が覚知される。 http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2015/06/14/231657 asaṅkhataṃが無為 saṅkhatassaが有為 >>250 無限小とは0次元つまり点の世界で実質的に体積は0です 3,これが心臓の内部にある私のアートマンである。 それは米粒よりも、あるいは麦粒よりも、あるいはけし粒よりも、あるいはきび粒よりも、あるいはきび粒の核よりもさらに小さい。 (『チャーンドガヤ・ウパニシャッド』iii,14 シャーンディリヤの教え) 八九:「真の理解」という性質を持つ、このアートマンは心臓の中、プラーナのそばで、自ら光り輝いているだろう そして金床のように変化を受けぬものの、このウパーディゆえにそれは行為者となり、かつ享受者となるのである (シャンカラ「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」) アートマンの体積は極小とか微細いう表現はあっても無限小(実質0)ではないでしょう と言いたいところですがアートマンの概念もヴェーダ時代から流派によってまちまちなので 古代インドに無限という概念があったのならどこかの流派で無限小と言ってたのかもしれない!? 一応 根本仏典とかも肯定なので それゆえに >涅槃は存在するのです 了解しちょりまつ m(_ _)m >無為法とは? 生じたものではなく 成る、起こるものではなく 作り為されたものではなく 原因によって形成されたものではない 了解で おじゃりまつ m(_ _)m >>260 >世界を空と観じる 一切法無我と観察の違いは 五蘊を空と観る ゥ法無我を空と観る ↑これのことかしらん? >>262 >五蘊を空と観る ゥ法無我を空と観る 違いますw そもそも自分が言いたかったのは 一切皆空と観ることと一切法無我と観ることの違いはないのでは ということだったのでした その論をスッタニパータ1119を題材にして展開してしまったのは前述の通り不注意でしたが >>255 おじゃるさん、あまり無理されないでね。 >>262 の続き 一応、根本仏典の ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757 大念住経(大念処経) 身・受(感覚)・心・(有為に属するlokaの)法 我所ではない・我でもない。と知覚して住む ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349 この身体には…大便…がある。と知覚して住む 地の要素、水の要素、火の要素、風の要素 この、それぞれの要素も 我所ではない・我でもない。と知覚して住む _ _ _ これを見ると 「空性である」という意味においては 五蘊を空と観る ゥ法無我を空と観る 「似てるような文脈の対機説法である」という。おじゃるの感想でつ >>233 栄進さん? 横から悪いけど、あなた何か勘違いしてませんか? それとも故意にやってるのですか? 鬼和尚に尋ねても、かれは教典等の根拠のない私見を述べてるだけじゃないですか? そういうのは、対応する側としては一番困るんですよ? 最初からその根拠と思われる教典を調べなければならないですからね。 >>233 先ずは相手が何を考えているか検証してから反論するのに、「鬼和尚が〜じゃと言ってますから」って、あまりにもいい加減じゃありませんか? 少しは対応される方の事も考えてあげたらどうですかね? >>261 私の師匠が、アートマンは「無(非ず)」によって現す、みたいな言い方するんですよ。 無とはゼロ=0ですよね。 アートマンが無いという意味なのか。 それとも無いがアートマンなのか。 仏教では空は説いても、無それ自体を説いてるんですかね? 私の師匠の珍説でしょうか^^ ご意見を伺いたいです^^ おまえの師匠に直接聞けってのは無しで^^ 268.空、か。無、か。 空じた結果が無、である。 >>267 いや、俺の幼稚な私見が入るとかえって混乱するかなと思って。 あえて俺は伝書鳩を演じたんだけど。 マズかったかな? こりゃ失礼^^ >>264 junkie- ooyama.sage師匠 ありがとうございます アリガト m(_ _)m _ _ _ >>270 栄進師匠 >無それ自体を説いてるんですかね? ある。という『想い』も手放して ない。という『想い』も手放して 空性である。という『想い』も手放して それゆえに 円成実性である。という『想い』も手放して 勝義無性である。という『想い』も手放して 仮設としての 縁起している世界をも手放して超えて その結果として 有ではない 無でもない 空性でもない 涅槃 (あるいは無住処涅槃?) >>265 >五蘊を空と観る ゥ法無我を空と観る それやると 諸法無我という観察それ自体を無我と観る、という観察それ自体を無我と観る、という観察それ自体を… (無我を空に置き換えても同じ) と無限後退に陥ります 無限後退に陥らないために「正しい智慧による」観察とか「常に気付きある者として自我に固執する見解をうち破って」などの断りが必要になります 智慧を育む四禅あっての観るです >>273 根本仏典も肯定なので >智慧を育む四禅 了解しちょりまつ m(_ _)m ↓勝義一辺倒の勝義房の真似をしてみました 「空性である『想い』も手放しせよ!」と云うように (勝義としては、これで合ってると思うけど…) >>270 三証ルールを守らず、「わしは悟ったらのじゃー」「悟ったから正しいのじゃー」と嘯く奴はキチガイですから。 そもそも見性さえして無いでしょ、あの方は。 キチガイの私見を披露する場所じゃ無いですよね、このスレは。 >>268 アートマンを非ずとして表現するのはウパニシャッドの哲人ヤージニャヴァルキャのアートマン論です アートマンとはいわば世界、人間、被造物の網の目をなす糸であり、万物の内制者だ。それは認識の主体として万物に内在している。 私たちはアートマンによって初めて何かを認識することができるのだから、それが何であるかを認識することはできない。 アートマンとは、「目に見えない視覚の主体、耳に聞こえない聴覚の主体、思考されない思考の主体、認識されない認識の主体」なのだ。 アートマンが何であるかを言い当てることはできない。それはただ「非ず、非ず(neti, neti)」としか表現することができないのだ。 このアートマンを知ることで、バラモンは現世的な願望から離脱し、遊行者となる。 したがってバラモンは何かを知りたがるべきではない。 知りたがらないことも知りたがることも等しく煩わしいと感じるとき、かれは聖者となり、真のバラモン、 つまり宇宙の最高原理であるブラフマンと合一した人となるのだ(梵我一如)。 https://www.philosophyguides.org/amp/decoding/decoding-of-upanishads/ 上に続いて 「ヤージニャヴァルキャは続けて次のように言う。」 とあり、ヤージニャヴァルキャの説くアートマンの具体的な相や様態、行動などが書いてありますが、 『それが何であるかを認識することはできない。』と最初に言ってるのに何故それらが分かるのか? サイト主も 「熟睡でブラフマンに到達すると言われても本当にそうなのかは誰にも分からない。目覚めたときには何も覚えていないからだ。これでは説得力はゼロだ。」 と語って(書いて)いてつまりはこのアートマンはヤージニャヴァルキャの想像の産物であるということになると思います 絶対に想像の産物であるとはいいませんがw 仏教は非有非無の中道を説きます 大乗仏教中観派の空とは非有非無の中道のことでもあります >>275 キチガイキチガイうるせーよ^^ 宗教ってのは、キチガイの産物だ^^ >>276 ヤージニャヴァルキャは、アートマンは実在するが、それが何かは言えないと。 しかし私の師匠が言うには、釈迦はアートマンが実在する実在しないは言えない。 無記とも違うらしい。 アートマンは沈黙、無によって現す、みたいなこと言うんです。 仏性もアートマンとは違うらしいし。 ならばアートマンは非有非無の空、中道のことなのでしょうか。 まあ直接師匠に聞いたらいいんですが^^ >>219 いや、だから... この私の話を理解できないのはあなた方なのです。 私はそうは述べたことはないから。 「境地」とは“意識の状態”のことを指しているのであり、 有為レベルの意識と無為レベルの意識とでは認識可能領域の次元が異なるのです。 無為レベルは有為を超えたものであり、そして有為についても経験値から理解をしている。 しかし、有為レベルの意識では無為については絶対に理解することはできない。 有為レベルの人間が語る無為についての言葉のすべてはただの憶測や何かを読んだ話でしかない。 そして更に、有為レベルの意識状態は輪廻によって何度も同じところを巡るだけであるのに対し、 無為レベルの意識というのは、一度そこに達したならば二度と再び有為レベルに下がるということがなく、 その意識レベルの状態は永遠だということ。これが仏教の説くところにおける恒常世界(場所ではなく次元)です。 二次元の蟻と三次元の蟻の話というのがあります。 そして、三次元の蟻は四次元の蟻を理解できるか?という...。 この割と昔からよく使われるこの科学理論の例え話はそのことをとても旨く表現しています。 知らないという人は是非、自分自身で検索を。 >>279 >釈迦はアートマンが実在する実在しないは言えない。 >無記とも違うらしい。 これについても正確にいえば、やや違うと思いますよ。 ゴータマは、アートマンを実在するしないとは言えないものだと説いたのではなくて、 「実在論」といいますけれど、そのような“形而上の存在論”(一般に形而上学と呼ばれる)については扱わないとしたのです。 何故ならば、私の弟子の修行においては役に立つものではなく、 ゴータマの修行課程の中では特に必要なものではないものだからです(要するに時間の浪費扱いという意)。 「無記」は態度であり、「アートマンの有無については説きません」という師の姿勢のこと。 しかし、部派の洗脳者たちは、ゴータマの説いた「それらはアートマンではない」という五蘊非我の教えが 一切(有為)に限定されているという事実を無視し、或いはそのことを理解せず、または無知の為に知らずして、 ならば、「アートマンは無い」ことになると、ゴータマの意志に反することを勝手に流布してきた。 それと追記しておきますが、 適切な訳語が見つからなかったためと思われますが、 漢訳経典で使われてきた「無」という表現は確かにありますけれど、 しかし、厳密には「空」は「無」ではないですからね。 「空」と「無」とは違うものです。...一応、念の為です。 それから、junkieさんが>>275 で指摘されていますけれど、 あの方はいつも解答だけポンポンと出されてくるわけ...。 私はたまたま、ヒンドゥーにおいても最終的には仏教と同じゴール(涅槃)に到達する。 仏教の涅槃はヒンドゥーの梵我一如と同一であり、それぞれは単に教え方のアプローチや手法の違いに過ぎないのだ。 という見解にある人間だから、その発言は理解できるけれども、 しかし、何の論拠も示さずにただ「○○なのじゃ〜」ポンポン♪では それを見た人というのは、ただの基地外か妄言の扱いでしかないのが殆どでしょう。 ましてや...それが「仏教」(これこそ真実の?)などとは見なさないでしょう。 第一、仏教枠から逸脱してる発言であれば当然のことです。 まっ、あそこはただの“悟りスレ”ということで「仏教」だとは謳ってはなかったか??? >>238 この私は、 世間一般に流布されている仏教理解というものは、 そのかなりの部分が間違いだらけと見なしています。 誤解や改竄に部派からの間違った伝承への盲信、そして、唯物論者たちによる意図的な改変...。 この私は、 アートマンは“唯一なる実在(それ以外のすべてが幻影マーヤー) ”として理解しています。 これが正真正銘の正しいヒンドゥー的理解であると自負します。 そして、仏教で説くところの「実在視するな」という教えは本当は一体、何かというと、 これはアートマンではないものをアートマンとして誤認している間違ったバラモン行者たちの (見解と主張のこと)をいっているものと私は見なしています。 そう、それがパーリ『梵網経』で説かれるバラモン六十二見のことです。 ここに説かれる凄い通力の境地に達した行者たちというのは、実際にはアートマン(真我)ではなくて、 まだ自己の意識の焦点が魂(識/阿頼耶識)との融合レベルにも関わらず、 けれども、その素晴らしい境地に囚われてしまってそれがアートマンだと誤認してしまった者たちなのです。 これらのバラモンたちの見解に対して、ゴータマはそれらはアートマンには非ず、 アートマンでないものをアートマンと見なすなかれと説いたのです。 これが、「実体視するな」という教えと解されるようになった。 そして、もう一つの意味としては当然のことですが、 アートマンを岩石や有機体(濃密物質肉体)や或いは「識」のような仮和合の存在 (縁起してるだけの無自性空のもの)として見なすなということです。 ゴータマが実際には、 アートマンそのものを否定などはしていないことについては、 「非我」(アートマンではないものをアートマンと見なすなかれ)の教えと「無記」(無いとは説かない)とによって明らかです。 本当に無いならば無いと説けば良いし、もしそうだったならば隠してもショウガナイわけだから「無い」と説いたでしょう。 何故なら、唯物論が非真理であることについては当時の六師外道として説かれていたこと、 そして、唯物論が最悪の見解である「邪見」として厳しく戒められていることからみても一目瞭然だからです。 尚、部派に洗脳された人たちが執拗に、 ゴータマはすべての何処にもアートマンがないといったのだから、結果的は無いことになると豪語しているけれども、 それは一切においては確認されないと説いただけなので、一切外であればその否定意には抵触しないことになる。 一切とは何か? その一切には涅槃すらも入ってない事実を指摘しても彼らはトボケてばかりなのです。 一切に中に涅槃が含むことを示す経文があるならばここにてみなさい。絶対に出来ないから(ある筈がないので)。 彼らには、一切の説明の経文すべてをここに貼ってみなさいといいたい。読めば、そこには涅槃がないことがハッキリするだけのこと。 それが「無為」ということなのです。アートマンの性質からみてアートマンが無為であることは自明というのに...。 と、やや話を拡大して私見を述べさせてもらいましたが、それでは改めてお聞きします。 では栄進さんの理解でいうその“アートマンの「実体視」と「非実体視」の違い”について明確に説明して下さい。 では、どうか宜しくお願いします。 >ゴータマが実際には、 >アートマンそのものを否定などはしていないことについては・・・・・ 貴方は、カッパではない。 私もカッパではない。 彼も彼女もカッパではない。 ・・・・・・・上記の文には、「カッパは、いない とは書かれていない。〜は、カッパではない と言っているだけである。 ということは、・・・・・・・『カッパはいるんだあああ〜〜。 それが真実だああああ〜〜〜〜」 >本当に無いならば無いと説けば良いし、もしそうだったならば隠してもショウガナイわけだから「無い」と説いたでしょう。 wwwwww では、なぜ釈迦は、はっきりと「我などない」と言い切らなかったのか? 理由は二つあるの。 @当時のインドは、まさにヒンドゥー社会。そこで、「我(アートマン)などない」と言い切ったらどうなる? 瞬く間に、ヒンドゥー教徒との論争になるね? ヒンドゥーの教えは、アートマン存在が絶対だから。 釈迦は、そのような他教との論争を極度に嫌ったの。それは最古層文献などに、繰り返し説かれてる。 そのような形而学上の論争をするくらいなら、とっとと修行に励め。まあ、毒矢の喩え にもそのスタンス はよく現れているw 「無記」というのは、まさに釈迦の形而上学的論争の忌避を示してるねw A上記の@にも関連しているが、釈迦は『経験主義者』なんだよ。 自分で確認したものを基盤に論理展開するの。 単に形而上の思想をああだ、こうだ といっても 解答はない・・・ということを知ってたの。釈迦は、自分で観測、確認できる範疇内に「我」などないことが わかった。・・・・・しかし、「ない」と断言はしなかった。・・・・この辺も釈迦の賢いところなんだが 「不存在証明の不可能性」をちゃんと理解してたんだ。 ・・・・つまり、「ない」ことの証明は不可能。それが分かってたわけ。 もし、「ない」と断言してしまえば、それの証明を求められるでしょ? それを避けたの。 また、「ない」と断言すると、六師外道のアジタと混同される危険性もあったしなw もし、釈迦が「アートマン」を自己の教説の重要部分であると考えていたなら、必ずどこかで、それを 説いていたはずだ。 だが、そのような経典は全くない。 つまり、表現上は「非我」でも実質は「無我」なんだよw 284.私もカッパではない、か。 それは私を規定したものである。 それはカッパを規定したものではない。 なんで、カッパを規定しない、のか。 それはバカであるからである。智慧が不足しているからである。 >>228 はい、パーピマンへ 「仏教では、 そう説かれている(そう信じられていた/そう信じている)」と見なすのが当然、 正統で健全な仏教学上の視点ですよ。当たり前じゃないですか! (実践の場である信仰の世界である法門・宗門であれば、尚更、当然です) その個人の学者が、そのような超常能力を実際に在り得るものと思っているかどうかというのはまったくの別問題です。 尚、経典の成立が後代に進むにつれて神格化が進んだとか、 或いは、これは大乗のことですが神格化が激しいといった説明があるのは別に何も問題ない。 神格化の有無と時代に拠る増大についてはこの私も認める話ですから。 パーピマン、 誤魔化しとオフザケはもういいから!! その唯物論を説く仏教とやらが、 一体どこで信奉されている何というものなのかをここに提示を願います。 時間は要らない筈ですよ。 まだ待っていますから! >>240 いやいや... アートマンは「アストラル界」などではありませんから。 アートマンは神智学的には「モナッド」(閃光)であり、アヌパーダカ界層レベルということ。 アストラル界というのは神智学的にはまだ物質次元扱いであって、 濃密物質→エーテル質料→そして、その一つ上の階層がアストラル界層ということになる。 尚、今流行のスピリチュアル通信というのはすべてアストラル界からのものであり、 それらはアートマンどころか魂レベルにも遥かに及ばない低次元のものです。 仏教の基本すらも理解できないようなレベルの者が神智学を理解できる筈がないから。 まず、唯物論者というのは仏教を学んで修得できる機運にすらもまだ恵まれていないということを強く自覚すべし。 恐らくは、まだ「数百年」は早い。 288.カッパを知らないバービマン、バーかマンが何か言ってる。 >そう説かれている(そう信じられていた/そう信じている)」と見なすのが当然、 > 正統で健全な仏教学上の視点ですよ。当たり前じゃないですか! > (実践の場である信仰の世界である法門・宗門であれば、尚更、当然です) だったら、 ⇒「悟れば、空中も自在に飛びまわれるし、何万年も生きられる と言う教説を 主張している」宗門を挙げてみなwww あ!! カルトはやめてよw 291.カッパを知らない、アートマンを知らない、ばかバービマンが何か言っている。 逃げるバカである。 >>282 >アートマンは“唯一なる実在(それ以外のすべてが幻影マーヤー) ”として理解しています。 懐かしい。 私もこの論法で、神なんて実在しないよねースレに突撃した思い出があります。 曰く、神のみが唯一の実在でありそれ以外は妄想であり非実在である、神の実在の証明終わり^^ 我ながら完璧な証明だと自画自賛してたのですが、何故かパーピマンがスレ主気取りでツッコミしてきました。 曰く、それは仏教的には正しいが、このスレはあくまでもキリスト教的神の実在を問うものでありスレ違いだと。 私は納得できませんでしたが、スレから追い出されました^^ ここは仏教スレなので、その見解は大いにありだと思います。 パーピマンも文句は言えんでしょう^^ >>285 論争を望むわけではないけれども、 たがらといって、しかし、「ダメ」なものはやはり「ダメ」でしかないから。 「無い」ものは「無い」のだからショウガイでしょうが! >もし、釈迦が「アートマン」を自己の教説の重要部分であると考えていたなら、必ずどこかで、それを >説いていたはずだ。 だが、そのような経典は全くない。 >つまり、表現上は「非我」でも実質は「無我」なんだよw バラモンのやってることには誤解や迷信を多々含むから、 それらと同一見解とみなされることを避けるために同じアートマン論を説かなかっただけです。 これを読めばアートマンの意味を含むことが理解されるでしょう。 >仏典から確認できる言葉とは、「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」です。 > 『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5) >『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』 > (Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.) >>162 アートマンが見い出せないのは有為だけですから。それが一切というものです。 これについてはこの後で、追々やりますから。 *余裕のある方は是非どうぞ!! 仏典中の一切の説明をどんどん書き出して、 果たして、そこに無為(涅槃)が含むのかどうかを確認して下さいな。 まっ、絶対にないから。 そして、アートマンはその(無為)中にある。 ただゴータマはそう明言しなかっただけです。 >>290 あの〜逃げないで、自分から早くどうぞ!! イヤハヤ... 認めてる宗門も何も... 仏典の記述を神格化だとする宗門がある筈がないからね。 迷信も神格化もすべて信じてるのが宗門でしょうが...。 個々の僧侶の認識はまた別問題です。 あなたは話にならないわ。 まっ、所詮。 唯物論者を相手にするのは無駄だな。 答えないから相手するの止めるかな.... >>283 >“アートマンの「実体視」と「非実体視」の違い”について まず「実体」とは何ぞやと調べてみました。 実体とは哲学用語で難解でしたが要するに「そのものの本当の姿。実質。正体。」ということですね。 我々の実体とは仏教的には五蘊の集合でありアートマンではないと。 ここでポイントは我々の自体は五蘊だけど、五蘊には我々の自体は無い。 こーゆー言い回しで我々は五蘊の集合であり五蘊には我という実体はない、だから無我だと。 んじゃアートマンに実体はあるのか? アートマンは、、、、ではない、ではない、否定によってしか現せない。 アートマンに五蘊のような実体はない。 アートマンとはこれです!と言った時点でアートマンでは、無い。 宝珠さんは、アートマンがある!と言いたいんでしょ^^ んじゃアートマンの実体とは何ぞやは言えない。 言えば、それはアートマンではなくなる。 もう一つ、アートマンとは実体そのものであり「そのものの本当の姿。実質。正体。」であるとも言いますが。 アートマンを実体そのものとすれば、そもそも我々は五蘊でありアートマンではないと言った釈迦の教説と矛盾します。 どうでしょうか^^ w >>280 >「境地」とは“意識の状態”のことを指して うんうん、そうだよね!(ゝ_ )b その 『状態』 は、 【どこに】 【どのように】 存在し得るのでしょう? ※(ドーナツの穴は、ドーナツが存在しない限り存在し得ないのですよ?w 『愛情友情気持ちetc.etc.』は、 【どこに】 【どのように】 存在し得るのでしょう? 虚堂和尚は孔子の言を借りて言いました。「礼非玉帛而不表、楽非鐘鼓而不伝」と。) >>295 自体と実体がごちゃまぜになりました。 自体は実体の変換ミスです^^ >>296 補 『境地』だけが、 それだけで、 それ単独で、 他の影響力に頼らず・受けず、 それのみ(その境地のみの含有要素・性質のみ)で、 どこかに、 永遠に存在し続けているんでしょうか?w >>298 ID:3kwge3y8師匠 >…他の影響力に頼らず… 仮設としての 縁起している世界の中で 縁起に依存して 無明薫習に依存して 我癡・我見・我慢・我愛に依存して 貪・瞋・癡に依存して たとえば おじゃるが経典とかを見て 「にゃるほろ =^・ ・^= 涅槃は存在するのか?」と 掴もうとする『想い』が・現れ・変化して・滅して・いるので それゆえに 仮設としての 縁起している世界の中で 縁起に依存しているものは チベット ゲルク 中観帰謬 それ自体の自性によって成立しているのではない という、お導きでつね? >>299 想いというのは仏教では普通は想蘊つまりイメージとか表象とか概念のことを指します スッタニパータの〈想いからの解脱〉とは想解脱とも訳されます 思慮とかとはちょっとニュアンスが違うのでそこは注意が必要です念のため >…永遠に存在し続けて… ↓説一切有部の場合は 仮設としての 主観的な我(人我)は空であるが − これに対して − 客体的な 法(ダルマ)は三世に渡って実在する それゆえに 前世 → 現世 → 来世みたいな感じ? この場合の 法(ダルマ)とは 有為法の世界のこと? >思慮とはニュアンスが違う 純粋な 意欲(チャンダ)をもって 注意深く(思慮をもって) 智慧を育む サマタ?ヴィパッサナ?でつよね ttp://www.j-theravada.net/pali/key-pakinnaka.html 初期仏教の世界 チャンダ (有覆無記ではなくて、無覆無記として) 単純な(純粋な)意欲・やる気 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%A8%98 無覆無記 有覆無記 >>295 要するに、 バラモン・ヒンドゥーとは見ている視点と教え方のアプローチが異なるのです。 では聞きますが、 彼らの、「アートマンだけが唯一なる実在であり、それ以外のすべてが非実在であるマーヤーに過ぎない」という教えと、 ゴータマの説く「すべてのものが縁起しているだけの無自性空(有為)であり、そうではないものが涅槃(無為)である」 という教えは果たしてまったく違うものですかね? この私は、同じことについてを別の教え方をしているものと見なしますが...。 つまり、仏教の目指す境地である涅槃とは意識の状態のことであり、その境地にある意識こそがアートマンに他ならない、と。 涅槃を涅槃であるとして、涅槃が有為とは異なるものであることを。 有為から出離していることを自覚している自己意識こそがアートマンだと。 問題は、 アートマンではないものをアートマンと誤認してる間違ったバラモン達ばかりだったということと、 実際上、生贄や馬鹿げた多くの迷信が行われていたのが当時のバラモン宗教なのでした。 これらと同じ扱いにされることだけは、どうしてもゴータマは避けたかったのです。 本来あるべきの正しいヴェーダの真理とは、如何なるものかを示すことがゴータマの意図したものでした。 なので、本当はバラモン教の一派なのであり、そして改革派ということなのです。 それが異端派の扱いとして仏教と呼ばれるものとなり、バラモン教とは区別されるようになったのです。 なので、最も初期の成立と見なされる『スッタニパータ』を読めば、 ヴェーダは否定などされてはおらず、それどころか逆に本来のあるべき正しいバラモンとは何か?が、 ゴータマの教えの最大テーマに置かれているということが分かるでしょう。 >>285 >・・・・つまり、「ない」ことの証明は不可能。それが分かってたわけ。 いやいや。だから「無い」のだけれど、そのことを証明できないということではなくてですね、 つまり、そんな悪魔の証明というものではなく、ただ「在る」ということを示すことができないということに過ぎない。 それはゴータマが未熟なのではなく、単にこちら側がそのことを認識できないからです。 ------ここが重要------認識できないのは「無い」からが理由ではなくて、単に我々のレベルがその境地に達してないだけのことです。----- だから、その境地に到達して自分自身で確認する以外にはないので、 あれこれ議論することを良しとしないのです。経験すれば分かるです。 それが経験主義を説くゴータマの姿勢なのです。 >>298 いや、だから何処かにではないから。 所詮はただの唯物論者には理解はできないか....。 意識の状態、意識レベルが永遠ということが分からないのか??? そんな程度の話も....(苦笑)。 死んだら、それであらゆる意識は断絶するという理解の人間には無理ですから。 う〜〜ん^^ おまいらのアートマンをウルトラマンに変えると少しはおもしろくなるかもしれん^^ >有為から出離していることを自覚している自己意識 どこの誰が知覚するのか? 有為法に依存している [ おじゃる ] が知覚するのか? それとも有為法から出離している 無為法の世界の [ おじゃる ] が知覚するのか? ↓何回も書いているけど 大乗 1.0の世界観をもって 上座部 2.0を実践する 3.0とかの場合は 無為法の世界から → 縁起している世界を見る 円成実性の世界から → 依他起性している世界を見る (円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない) ↓それでは、もう一度 ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93 どこの誰が [ 解脱智見 ] を知覚するのか? どこの誰が [ 涅槃 ] に住むのか? >>307 有為上の意識が知覚できるわけないでしょ。 それとは異なるのが無為涅槃だといってるのだから。 まっ、おじゃるさんは当然、分かってるだろうけど。 まず皆さんは、 一切が有為に限定されているということ。 一切の中は無為涅槃は入ってないことを確認しましょうか。 話はそれからだな...。 >>296 次元というのは、 今ここにすべてが重なってるという理解はないのですか? 意識については、“変性”ということを理解できませんか? パーピマンもそうだけれども、 まずは己自身の唯物主義を破壊することが先決ですよ。 唯物論が正しい可能性などは1%どころか、完全に「 0% 」なのだから。 まず経験することです。唯物論など経験しない者だけしか語らないのだから。 たとえ、次元が異なろうが、パラレルに世界が重なっていようが、 そんなことは、まったくもって関係ないw なぜ、「来て、見よ」 と言われねばならないか? つまり、「来なかったなら」「見なかったなら」、【そこに】涅槃は無いんだよ。 正しく行じた、その先に、「ある」、と言われているのだよ。 宝珠が言っているのは、誰かが、行じる行じないに関わらず「存在する」ということ。 しかし、そうではない。 行じれば、その先に必ずある、例外なく、必ず見ることができる、 という意味での、「常にある」なのさw で、宝珠に依れば、 片山センセも馬場さんも、村上さんも、前田センセも水野センセも、 み〜んな揃って唯物論者、と。 (´∀`)b >有為上の意識が知覚できるわけない それゆえに たとえば 大乗とかの場合は 我 仏や涅槃の境涯は 人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある として 仏そのもの 仏性からの真如縁起をもって 仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる 衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる 矢印の向きは仏から(とは限らないけど?) 準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し 天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん 仏そのもの。にまかせて、心が動揺しない 安心立命が大乗の醍醐味? と云うことで >あの〜逃げないで、自分から早くどうぞ!! >イヤハヤ... >認めてる宗門も何も... >仏典の記述を神格化だとする宗門がある筈がないからね。 > 迷信も神格化もすべて信じてるのが宗門でしょうが...。 >個々の僧侶の認識はまた別問題です。 逃げてる??? 逃げてるのはどっちですか?w こっちは、仏教のあらゆる宗派が、 ⇒「悟れば、空中を自由に飛び回れるし、何万年も食事をとらずに生きられます。」 などと説いてはいない。 そのような教説を説いてる宗派があるのならば、上げてくださいと言ってるのw はい、逃げ回らずに、どの宗派が⇒「 」のようなことを説いてますか?ww 前にも言ったがね、・・・・ いい加減に、神智学の正当性を主張するのに仏教の権威を利用するのは止めなさいw 仏教には、分けのわからん「なんちゃら界」とかいうのもないし、アートマンも認めていません。 さらに、(言うまでもないことだがw) 悟ったからと言って、空中を飛び回ることができるようにも ならないし、何万年も食事をとらずに生きられる・・・・なんてことも説きませんww >いや、だから何処かにではないから。 > 所詮はただの唯物論者には理解はできないか....。 ついに、セブンも唯物論者か?ww アートマンを認めない者は、全て唯物論者ww 宝珠氏へ 諸行無常 一切行苦 諸法無我(一切法無我) 無我のみ諸法(一切法)となっている理由を教えていただけますでしょうか? (参考) 長老偈(テーラガーター) 15.1 第一の章 15.1.1 アンニャーシ・コンダンニャ長老の詩偈 より 676.(676) 「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが常住ならざるものである(諸行無常)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。 677.(677) 「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが苦しみである(一切皆苦)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。 678.(678) 「諸々の法(事象)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。 ※ご存知でしょうが同じような詩偈はダンマパダやウダーナヴァルガにもあります 宝珠氏へもう一つ質問です >>163 > 『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな >い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、 >原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143) 原始仏教では消滅変化しない常住不変の無為法は存在するのですか?しないのですか? ↓無為法と涅槃は違うもの? ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%86 WikiDharmaとかの場合は 一切が「縁起した存在」つまり 有為法に限定されるのか、無為法をも含むのかなど解釈は一定ではない と書いてあるので 無為法をも含む場合もあるのかもしれないでつね? ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/33/1/33_1_274/_article/-char/ja/ このリンク先の 藤田正浩という人の場合は 「無為法 = 涅槃という考え方はありえない」と書いてありますね? _ _ _ おじゃるとしては 「無為法と涅槃は違うものなの?」という疑問があるのでつ >>319 の続き たとえば この経典の この文脈においての 一切法は「無為法も含む」とか この経典の この文脈においては 「無為法 = 涅槃ではない」とか (それぞれの経典の) 「この文脈において」の [ 断り書き・但書き ] を書いて置いた方が、わかりやすいでつね? たとえば ウィキペディア参照の 諸法無我の場合は 全てのものは因縁によって生じたものなので この場合は 仮設としての。有為法している という文脈で。と云うように >>319 >>320 の続き >無為法は存在するか? 一切法に無為法も含めれる場合もあるかもしれない 無為法 = 涅槃ではない場合もあるかもしれない それでも、とりあえず おじゃるにとっては (無為法)涅槃の世界に戻る帰る という対機説法が、わかりやすくて良いと思いまつ 大乗の場合は 無住処涅槃? >>303 またまた師匠に助け舟を貰いました。 ・涅槃とアートマンはちがう、しかしアートマンは涅槃に至る法である。 ・無為とアートマンはちがう、しかしアートマンは無為に至る法である。 ・アートマンとは認識主体であり、それを認識する自己意識はアートマンではない。 ・諸法無我の諸法には、無為法も含まれる。なぜなら諸法無我も無為法の観念を破壊するから。 ・アートマンとブラフマンは同一である。しかしアートマンを知らない者は無闇にそれを説くな。 ・アートマンは捉えられないので破壊できない。ただ追い求めることができるだけ。 以上であります^^ 毎度ポンポン♪と答えだけ投げ出して申し訳ない^^ 見解の相違はございますが、お互いアートマンは認めているということは一致してるかと。 あと私の私見ですが、イエスキリストも最初は単なるユダヤ教の改革者にすぎなかった。 これと同様に釈迦もバラモン教(この用語も語弊がありますが)の改革者にすぎないと思います。 その点についても宝珠さんの見解に賛成です(師匠はまた別ですが) なぜ特定の民族宗教にすぎないバラモン教が仏教として世界宗教になりえたか。 それを分析し掘り下げれば仏教を解くカギになるのではないかと^^ >>322 人生を諦めれば全て解決の教えが 絶望の生存を続ける人達に支持 されたからにゃん♪ 投げやり宗教に (-∧-)合掌・・・ >>322 横から済まないけど、「答え」と云うよりも「見解」の方が適切じゃないのですか? >>322 栄進師匠へ >仏教として世界宗教になりえた 一時的には そうだったかもしれないけど ↓これからは ttp://manapedia.jp/text/550 (たとえば中観帰謬とかの) 難解な教理の研究に重点を置き… それゆえに 民衆が離れていった(らしい?) ttps://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume004.html 仏教徒は、ヒンドゥー教に吸収されて それゆえに仏教が減少した(らしい?) ttp://blog.livedoor.jp/zzcj/archives/51835118.html (『仏教を信仰しない』という意味も含めて) スウェーデン、国民の64%が無神論者 デンマーク、国民の48%が無神論者 フランス、市民の44%が無宗教 ドイツ、国民の42%は神を信じてない(らしい?) この場合 仏教の信仰を取り除いた 心理療法の 認知行動療法(Cognitive behavioral therapy:CBT) とかは、実践している場合は、あるかもしれない >>322 栄進師匠へ たとえば 仏教は 「他の宗教の信仰とは違う」と云う人も、いるかもしれないけど それでも スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 明知が 信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである (他の宗教の信仰とは違うものであったとしても、それでも) 仏教には、仏教としての 信仰と念いと精神統一と意欲と努力がある という対機説法でつ これからは (日本も含めて)世界的に (仏教も含めて)宗教全般が更に衰退していく場合もあるかもしれない たとえば 科学主義も (科学の)崇拝?信仰?に依存している(と思うけど…) >>322 栄進師匠に質問でつ 栄進師匠の場合は どのような方向性でつか? たとえば おじゃるの場合は 生老病死 愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五蘊盛苦 それゆえに 自分の心身を厭う思を起こし 心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥ける このように現実を厭うことは 人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが その世俗性の否定によって、結果として (因と縁の双方の縁起をもって) 真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられる というような場合もあるかもしれない というような方向性で おじゃりまつ m(_ _)m (それゆえに菩提分法とかも肯定でつ) >>326 初期ウパニシャッドでは梵我一如は説かれてない。 ヴェーダではアートマンを把握することが重要と説くけど、その方法は未熟。 仏教とはにアートマンを把握する方法である!? フムフム、勉強になった^^ >>324 そもそもアートマンがある!ってのはインド人の見解にすぎんわけで。 アートマンを探求することが仏教ならば、その答えは自分で出すしかない。 ジャンキー殿が拘ってる定だの止観だのは、そもそも何のためにするのか。 アートマンを見出すことに他ならないのでは^^ >>328 よくわかんない、私見だけど何故キリスト教圏で科学が発達したか? これはキリスト教が不完全で支離滅裂で矛盾した宗教だから。 キリスト教を心の底から信仰できない、信仰の疑いが科学を進歩させた、かも^^ 以上、聖書もまともに読んだこともない無知からきた偏見でした^^ >>329 私の方向性は単純というか不純な動機です。 心の病を治したい^^ そもそも宗教というのは心の病が生み出したモノなので、それに嵌るのは危険なのですが。 仏教が宗教にすぎないのであれば、クスリなんか飲むの止めて加持祈祷で病気を治す!レベルかもしれません。 しかしそうではない可能性もある、、、、一種の賭けであります^^ 栄進師匠へ 神は「光あれ」と言われた カトリック司祭 ジョルジュ=アンリ・ルメートル 宇宙創生の理論であるビッグバン理論 「やはりキリスト教(宗教)は正しいのだ!」 と説明するための 宗教に依って立っている(科学への)崇拝?信仰? >>334 >心の病を治したい^^ 仏教(宗教)への崇拝・信仰を取り除いた 心理療法の 認知行動療法(Cognitive behavioral therapy:CBT) 心理療法の フォーカシング(焦点合わせ、Focusing) その他諸々あると思いますよ 宗教のようなものに興味があるのなら 仏教(宗教)でも良いかもしれないけど… (おじゃるは、フォーカシングを実践しちょりまつ) キリスト教団体とキリストは 切り離して考えれば良いにゃん♪ 仏教も仏教団体と釈迦を切り離して考えれば素直に受入られるにゃん♪ 権力や財力を求める偽者が胡散臭いから人々は立ち去り馬鹿にする にゃん♪ 欲深き偽者達に (-∧-)合掌・・・ 分別説部における「無我」の理解 ―人空法有 http://www.horakuji.com/treasures/vibhajjavadin_cetasika.htm >分別説部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、 >我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(atta)なるものなども存在しない、故に「無我」(anatta)である、と無我を理解。 ➡テーラワーダの長老方が押し並べてアートマンを否定するのはそれが教義だから ➡➡しかしテーラワーダ以外でもアートマンを認める部派や宗派はぶっちゃけない(だろう) >しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、究極的には四つの範疇に分類されるモノが実在する、 >という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。 ➡説一切有部では五位七五法、唯識派では五位百法(こちらは仮の存在だが)、 比べてテーラワーダでは四位七二法(という名称はなくテーラワーダでは勝義法とかいうらしい) 私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。 わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。 如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。 如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり。 さて、これは釈迦が縁起について説いた有名な説法だが、唯識の人はこの説法をどのように理解するのだろう? という見解が釈迦の意識にもたらされた、というようになって法界常住というとの個人的な認識であり、 主観を超えた真理ではない、となるのかな? それはお釈迦様が転識得智後に四智によって明かされた事を我々に説かれてるんですよね。 そこには個人とか主観とかは無いと思います。 >(釈迦が)悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである 初心者の段階にも及ばない おじゃるの 個人的な妄想(崇拝?)としては たとえば (大乗の)唯識の場合は 真如縁起を前提とした 頼耶縁起で そして 一切衆生悉有仏性などについて 根本仏典と大乗とでは >>258 >そこは、ものすごく大きな違い が、あるかもしれないけど 部分的には 説一切有部の五位とかを 唯識が受け継いでいる部分もあるのかもしれない ウィキペディアには 説一切有部の教理を批判した点に特色がある と書いてあるので 批判・否定してるところが多いのかもしれないけど おじゃるの場合は 説一切有部も唯識も両方とも理解してないので、わからないけど… >>341 の続き >(釈迦が)悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである 初心者の段階にも及ばない おじゃるの 個人的な妄想(崇拝?)としては 無住処涅槃としての 仏性からの真如縁起なので 仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる 法界体性智をもって観照する 大円鏡智から → 阿頼耶識を見る 平等性智から → 末那識 を見る 妙観察智から → 第六意識を見る 円成実性から → 依他起性を見る (円成実性を見ずして、依他起性を見ることはできない) ttps://www.yuishiki.org/%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%A8%E7%A9%B6%E7%AB%9F%E4%BD%8D/ 唯識学会 第九意識は完全なる涅槃 ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html …さらに涅槃に留まる世界も超えて 無住処涅槃として 平等性智をもって 移り行く世界の様を、ありのまま見つめている ttps://ci.nii.ac.jp/naid/40018822743 チベットに伝わる心の訓練法 道の本体は阿頼耶の自性に置くこと(大円鏡智から → 阿頼耶識を見る) >>340 なるほど >如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり。 この言葉と辻褄はあうね 法界で検索すると ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 1法はかくあるべき真理であり,法界とはあるがままの事理であり,真如ともいわれる 2部派仏教時代には六根,六境,六識を合わせた十八界としたが その一つとしての意識の対象を法界といった。これは狭義の法界である デジタル大辞泉の解説 1意識の対象となるすべてのもの 2因果の理に支配される万有の総体。全宇宙 3一切の現象の本質的な姿。真如。実相 世界大百科事典 第2版の解説 仏教用語としては種々の意味に用いられる その他諸々あるようなので >>339 の場合の法界常住の意味がわかる リンク貼り憑けをよろしくお願いいたします m(_ _)m (法界常住で検索すると難しいものしかでてこないので ヨロ ) ↓これでつかね? ttp://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000qx7.html 雑阿含経 巻第十二 然れば彼の如来が世に出づるも及び未だ世に出でざるも法界は常住なり 彼の如来は自ら此の法を覚って等正覚を成じ、諸の衆生の為に、分別し演説し開発し顕示したまふ _ _ _ たとえば法界とかも コトバンクの世界大百科事典 第2版の解説に 仏教用語としては種々の意味に用いられる。と書いてあるので 一つの意味だけに限定しない方が良いかもしれないけど それでも、とりあえず おじゃるとしての法界は 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある。という意味として 法界は常住なり おじゃるの超訳としては たとえば 無住処涅槃は 無明に依存している依他起性ではない この無住処涅槃を前提とした真如縁起でる (と断定して良いのか?わからないけど、とりあえず) (無明に依存している。という意味においての)我所ではない・我でもない (仏そのもの)如来我が解脱を知覚する解脱智見 というような対機説法もわかりやすい(かもしれない?) >>345 の訂正とお詫び × 無住処涅槃を前提とした真如縁起でる 〇 無住処涅槃を前提とした真如縁起である 訂正してお詫び申し上げます スマソ m(_ _)m _ _ _ ↓たとえば(大乗の)密教とかにも興味があるのなら ttps://en-park.net/words/7441 大日如来 仏教の開祖は釈迦であり、この世ではじめて悟りを開いた人物です ですが 大日如来はその釈迦をも創りだした創造主といった考え方に近いです _ _ _ ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html 初期仏教の世界 慈悲の冥想 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように ブッダン・サラナン・ガッチャーミ 一切の如来の御足を礼拝し奉る オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 法界常住ですか。 以下の話を思い出しました。 和尚は暑さをしのぐ為、扇子を使って涼んでいます。一人の修行僧がやって来て質問します。 「風性、つまり空気は何時でも何処でも満ち満ちている。それなのに何故扇を使うのですか」。 和尚はそれを聞くと、「空気が何処にもある事を知っているけれど、空気のない処がない事を知らない」と誡めます。 すると僧も負けてはいません。「空気が何処にもあるという事と、空気のない処がないという事とは一緒の事ではないか、あえて和尚が空気のない処がないという道理を聞かせて下さい」と追いかけますが、和尚はただ黙って扇ぐのみだったというのです。 (臨黄ネットより) junkie- ooyama.師匠へのお願い >空気が何処にもあるという事と >空気のない処がないという事とは一緒の事では 何を主張したいのか? 何処から → 何処へ導くための対機説法なのか?わからないので 初心者向けに分かりやすい説明で よろしくお願い致します ヨロ m(_ _)m ちなみに、おじゃるにとっては (無苦集滅道ではなくて) 苦集滅道という対機説法の方が、わかりやすくて良いと思いまつ (大乗も肯定だけど) 初心者向けに分かりやすい対機説法という意味においては おじゃるの場合は 上座部 2.0寄りで おじゃりまつ あるいは(1.0ではなく)3.0寄りで おじゃりまつ と云うことなので ヨロ m(_ _)m ttp://www.mitamagic.com/devil 悪魔の証明 非存在も証明されてないからいないとも限らない、くらいはわきまえてるものです こう云う場合もあるんでつね? 知らなかったでつ ベトナム出身の禅僧 ティク・ナット・ハンとかの場合は 上座部系の? マインドフルネスの普及活動を行なっているようだけど (中国経由の)日本の場合の禅宗系とかは 上座部系の? マインドフルネスとかを批判・否定しているんでつかね? たとえば 上座部系の? マインドフルネスとかを批判・否定しているのなら その理由は? 道元禅師 普勧坐禅儀 心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて 余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐 (中国経由の)日本の場合の禅宗系とは世界観が違うから という感じなんでつかね? >空気のない処がない ↓これでつかね? (リンク貼り憑けができない) だるま文庫 八宗綱要 真言宗 大日如来は法界(世界)に遍満している 如来我(仏性)は 縁起している すべて一切の諸法にも満ちている これなら意味がわかる(かもしれない?) 間違ってたら スマソ m(_ _)m ちなみに おじゃるの場合は サーンキヤも肯定なので プルシャからの → プラクリティ というのも対機説法としては、わかりやすくて良いと思いまつ >>348 引用したサイトには、以下の解説がありました。 「一切の存在はすべて仏性(悟り)であり、その仏性は空気のように私達の回りに満ち満ちているのです。しかし、その道理を知っただけでは何もなりません。絵に描いた餅でしかありません。「扇ぐ」という実践があって、初めて体得出来るというわけです。」 「道元禅師は、「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」と云っておられます。」 犬ジャンキーは知ったか、ハッタリで説明能力はないであろう。 犬ジャンキー、このような展開で、バービーを怒らせ・・・ >「扇ぐ」という実践があって、初めて体得出来る にゃるほろ =^・ ・^= 実践が必要である。ということなんでつね? てっきり junkie- ooyama.師匠も 机師匠と同じような 『すべて無である!(上座部系の)菩提分法など必要ない!』 というような勝義一辺倒のナンチャッテ覚者タソなのかと 勘違いしちょりました 失礼いたしました スマソ m(_ _)m これも何回も書いてるけど 呼吸を 3秒も見れないけど一応、実践もしちょりまつ 蚊とかを瞬殺してるので戒律は守ってないでつ 戒・定・慧・解脱・解脱智見 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も) ということで 大変、失礼いたしました スマソ m(_ _)m >>355 の補足として 上座部系とかの場合は ttp://pao.hamazo.tv/c601110.html パオ森林僧院 妄想、思考が入らないように 呼吸に 30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します _ _ _ おじゃるは↑これを 3秒もできないという意味でつ 何故できないのか? その理由は↓これでつ 青目(ピンガラ) 中論 觀如來品 第二十二 如来の滅後も、こう思惟してはならない 有るのか?無いのか?有ることもあり、無いこともあるのか?と 如来は戯論を超過している − これに対して − 仮設としての おじゃるは戯論を生じている 仮設としての 遍計所執性に依存して それゆえに 呼吸を 3秒も見れないという感じのようで おじゃります >>367 ジャンキー師匠は、狂犬論だ、戯論を超えた、人間の理性がない、 >>322 >なぜ特定の民族宗教にすぎないバラモン教が仏教として世界宗教になりえたか。 >それを分析し掘り下げれば仏教を解くカギになるのではないかと^^ 大乗仏教がいつ成立したかということが今までわからなかった。 発掘、最古の大乗仏教経典等の発見でクシャンの時代ではないかとわかってきた。 クシャン人はもともとゾロアスター教(拝火教)を信仰していた。 クシャン人で有名なのはカニシカ王です。当時は大乗仏教はなかったと言われているが、 クシャン人の志向が仏像等を作り上げていった。 当時仏教側が積極的に広めていたのと、クシャン人の死後の世界に不安に対する解答に仏教が答えた。 仏教側とクシャン人のインド社会を治めるという思惑があったということではないか? ドキュメンタリー 歴史 文明の道 ガンダーラ・仏教飛翔の地 https://www.youtube.com/watch?v=feraHBfxdjA ミリンダ王の時代はまだ仏像はなかったみたいです。 >仏教側とクシャン人のインド社会を治めるという思惑があったということではないか? この言い方おかしいな。 クシャン人のインド社会を治めるという思惑と仏教を広めるという仏教側の思惑が両方あったのではないか? >クシャン人で有名なのはカニシカ王です。当時は大乗仏教はなかったと言われているが 言いきっちゃたけど、よくわからない。 日本や中国の仏教徒の記録ではカニシカ王は大乗仏教を支持していたとされるが、 実際には大乗仏教とカニシカ王の関係はあまり強くなかったらしい。 アシュヴァゴーシャの残した作品などから、カニシカ王の支持した仏教とは伝統的保守仏教、 特に説一切有部であったといわれている wikiで調べると、成立年代が結構クシャーナ朝と重なるんだよな。 >>361 夕師匠へ ↓これでつかね? ウィキペディア参照 クシャーナ朝 大月氏 紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着した 説一切有部 紀元前1世紀の半ば頃に上座部から分派した クシャーナ朝 中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えた 部派仏教 西北インドの上座部系説一切有部 _ _ _ たとえば バクトリア、そして 中央アジアから北インドにかけてのクシャン系と 西北インドの説一切有部系の [ 場所も 年代も 重なるなら ] という感じなんでつね? >>362 の訂正とお詫び 失礼いたしました スマソ m(_ _)m ↓ウィキペディアに書いてありました カニシカ1世 仏教とカニシカ王 仏典の伝説 宗派 日本や中国の仏教徒の記録ではカニシカ王は大乗仏教を支持していたとされるが 実際には大乗仏教とカニシカ王の関係はあまり強くなかったらしい アシュヴァゴーシャの残した作品などから カニシカ王の支持した仏教とは伝統的保守仏教 特に説一切有部であったといわれている (ウィキペディアも間違ってる場合もあるらしいけど、とりあえず) 訂正してお詫び申し上げます スマソ m(_ _)m おじゃるの妄想・崇拝?としては アトランティス以前の古代文明? ↓ アトランティス ↓ ? ↓ 古代エジプト ↓ ? ↓ ゾロアスター(拝火教) 六師外道 バラモン その他諸々 ↓ 釈迦 ↓ そして 仏教とは関係がないかもしれないけど たとえば中国の魂魄へと 古代エジプト人の魂の概念と似てるかもしれない という、おじゃるの妄想・崇拝?でつ スマソ m(_ _)m ウィキペディア参照 古代エジプト人の魂 バー(魂) 死んだ後も生き続ける人間の一側面であるとエジプト人たちは信じていた 墓から飛び立ち来世で「カー」と合流する人頭の鳥として描かれることもあった カー(精神) クヌムが轆轤で幼児の体を造り そして 母の胎内へと送り込むのだとエジプト人たちは信じていた クヌム 古代エジプトから伝えられている創造神の一人 人間を創造した神とされ、多産を司るヘケトの配偶者とも言われる 中国の道教や伝統中国医学における霊についての概念である 魂魄(こんぱく) 魂は陽に属して天に帰し 魄は陰に属して地に帰すと考えられていた 「気は必ず散るものであり、二度と集まることはない」と儒学では定義している これは仏教における輪廻転生という再生産を否定するためのものである ということであるらしいので 来世で「カー」と合流するという 古代エジプトの概念とは違うかもしれないでつね 度々、失礼いたしました スマソ m(_ _)m 僧兵達の寝言は更に続くにゃん♪ 好奇心に (-∧-)合掌・・・ バー(魂) 生命を持たない物体も 独自の性質である「バー」を持ち得 実際に古王国のピラミッドは その主の「バー」であると呼ばれていた ↑↓似てるような気がする 仏性 一切悉有仏性 日本の天台宗では 仏性を衆生(人間)に限らず 山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え 一切悉有仏性までが、後世に生まれた 仏性や一切衆生悉有仏性は 仏教全体に共通する教義ではない しかし 現在の日本仏教では 法相宗などの一部の宗派を除き 仏性・一切悉有仏性・如来蔵を説く宗派が多勢を占めている 法相宗(唯識)は 誰もが成仏するわけではない(五性各別)なので バー(魂)によって 生命を持たないものも現れる。とか バラモンとか その他諸々の崇拝・信仰など その当時の『(掴もうとしている)想』を一応認めて 真俗二諦 仏教を理解せしめるためには その当時のインドの人々にとって 世間的な『想』を一応認めて その理解のうえで 仏教を理解せしめる というやり方がとられねばならなかった たとえば おじゃるの場合は 「落武者の霊を見たのだから」という(掴もうとしている)想を一応認めて トゥルパ マナス(意、心)が成した身体(マノマヤカーヤ・意成身) シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有 ルン 光明としての心の乗り物となる微細なる風。生体エネルギーのようなもの ヤブユム 男性尊格が配偶者と性的に結合した男女両尊 そして又この現世に戻り来る。と云うことで ヨロ m(_ _)m >>368 の補足として 仮設としての 無明に依存している シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有 ttp://mmori.w3.kanazawa-u.ac.jp/misc/newspaper_pr/bardo.html 「チベットの死者の書」とは何か … (再生へ向かう迷いの中有の世界の中で) 男女が交接している幻影があらわれても (掴もうとしている『想を』手放して) これを配偶神と合体した仏であると心に念じ ひたすら礼拝し供養せよ そうすれば解脱することができる… (ヤブユム 男性尊格が配偶者と性的に結合した男女両尊) 掴もうとしている『想を』手放しできないのなら 又(無明に依存している)この世の生に戻り来る というような対機説法で おじゃります m(_ _)m 369.バカおじゃる、の程度がわかる。バカは反省しない。 >>316 >諸行無常 一切行苦 諸法無我(一切法無我) >無我のみ諸法(一切法)となっている理由を教えていただけますでしょうか? どうもすみません。時間及び体力的理由にて私からの返信はかなり遅れてしまったり、投稿が大きく途絶えたりすることが度々あります。 どうかご了承のほどを願います。問いに関しては、正直いって私の得意分野ではないのですけれど、頼りにしている優秀な書籍の解説を提 供することで返答にしたいと思います。 三宝印(四法印)においては「諸法無我」にだけ、何故「行」ではなくて「諸法」といって「法」の文字が充てられているのか? 一見する と、「無常」と「苦」の「行」は限定意の印象を受けますが、「無我」の「諸法」は「一切法」のすべてをそのまま指しているかのように見て るかもしれません。そして、仏教の説く境地である「涅槃」も当然、教えとしての「一切法」の中にある筈だと。よって「涅槃」も「無我」 であるし、涅槃に安住する「如来」も当然のように無我であると。普通に僧侶の説く仏教解説を学んできた者であれば、まず全員が例外なく そのように理解しているものと思います。私の尊敬するダライラマ猊下もそのように教えています。 しかし、近代仏教学上の理解においては正直いって、それらとはまったく違うものとなります。ハッキリいって法門の僧侶たちの理解は、 まず例外なく部派二千年の伝承によって洗脳され勘違いを犯しています。残念ながら、実際の僧侶たちはテーラワーダをはじめ仏典(原始経 典)の記述には従ってはいません。仏教学というのは文献学ともいいますが、学者たちというのは経典の記述を読みます。その文字、経スッタの 言葉そのものを研究している。 前置きが長くなってしまいましたけれど、「諸法無我」でいう「法」というのは、無我性の“もの”という意味で使われており、理由とし ては単にそれだけです。経典の記述によっては「諸行無我」とも書かれています。拍子抜けするかもしれませんが、実際にはどちらでも何も 問題はないということ。返答としては、単にこれだけになってしまいます。 『諸法の法とは、前に法の特質を掲げた中の第四の「無我性のもの」を意味する。これはたんに「もの」ともいえるが、原始仏教では 「もの」というのは「無我性のもの」に限られるから、この諸法は諸行と同じく、現象としての一切法ということになる。(p160)』 (水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) 【ただし『漢訳増一阿含』巻十八、三十六では、ともに「一切諸行無常、一切諸行苦、一切諸行無我、涅槃為永寂」となっており、ここで は「諸行」を無我と見ている。】 (『東洋思想5/平川 彰著「初期仏教の倫理/無我の立場」』東京大学出版会刊p49) この前、外道スレの後半においては、「一切皆苦」というのは正しくは「一切行苦」であるけれども、つまり、ここでいう「苦」とは“「行」 に限定されている”という意味の投稿をした方がいたと思います。けれども、そのような理解もまた間違いです。この「行」は五蘊の中の 「行蘊」に限定したものではなく、“現象としての事物”すべてという意味として使われるものなので、「一切行」と「諸行」の「行」という のは、これも一切法の全体すべてを指します。 『「最広義の行としての一切行または諸行無常の行は、すでにのべたように現象のすべてを指すから、五蘊の中の行蘊だけではなく、五蘊 全体が行ということになる。」(p132) 「一切行苦とは、一切皆苦、諸行皆苦ともいう、五蘊・十二処・一八界などの一切の現象法が苦であるということである。原始経典に現象 法は無常であるから苦であるとされているのはそれである。」(p167)』 (水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) >>318 >原始仏教では消滅変化しない常住不変の無為法は存在するのですか?しないのですか? 仏教では、客観的で実体論的なものとしては扱いませんが、“永遠の存在”(言葉として便宜的に「存在」といい回しを使います)としての “涅槃がある”という言い方をします。部派は有為法に対するものとしての存在論的な無為法を説いたともされていますが、いずれにせよ、 本来は元々、ゴータマの教説においては「一切法」(十二処中の法処)には無為法は含まれていませんでした。 『「諸行とは生滅変化する一切の現象法を指し、有為と同義である。すべての現象は一瞬の停止もなく、無常にして生滅変化するというの が諸行無常である。」(p158) 「四法印については、漢訳増一阿含巻十八に、一切諸行無常、一切諸行苦、一切諸行無我、涅槃為永寂とあり、---略---それらのすべて で、四法印の列挙順序は無常・無我・涅槃寂静となっている。原始経典には一般に三法印とか四法印とかの説はない。しかし五蘊などの諸 法の無常・苦・無我については無我相として随処に説かれ、これを有為の三相としている。パーリ仏教もこの説を受けている。有為を脱す ることによって涅槃寂静が得られるから、以上四つで四法印とされたものであろう。」 (p154-155) 「ところで仏教で一切法とは存在するすべてのものを指すのであるが、原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化する現象の法に限 られていた。一切法を五蘊・十二処・十八界などとした場合、それらはすべて時間と空間の中にあってわれわれに認識され得る現象界だけ を意味した。」(p112) 「現象のことを仏教では有為(samskrta,sankhata 造作されたもの)とか行(samska^ra sankha^ra 諸行無常の行)とかいう。われわれはこ の現象界の中で生滅変化し、苦しみ悩み、喜び楽しみ、迷い悟るなどの生活をしている。われわれにとっての世界は現象界のみである。こ の意味における一切の現象界を仏教では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。」(p127) 「原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しない常住不変 の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、原始仏教とは違っ た性格のものとなった。」(p143) 「無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語としてしばしば 出ている」。(p145) 「部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異なったも のになった。(p151)」』 (水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) 「無為法」というのは「有為法」の反対語であり、その「有為」とは人為的な作為的なという意味の文字であって、これはつまり、この 世のあらゆる現象(現象界における諸々の“作られたもの”)のことを指しています。対する「無為法」は非人為的ということであり、元々、 “作られたものではない”の意味となるので現象界の性質である「縁起」もない世界です(「依り所のないもの(appaThitta)、生起のない もの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。」『ウダーナ8.1』)。ですから、これは涅槃の別語 (同義語)ということになります。そして、この「涅槃」というのは「一切法」(“「一切」のもの”/一切の無我性のものの意)には含まれない、 ということは非常に重要なポイントとなります。何故なら、このことを理解している僧侶や仏教信者は殆どいないという事実が仏教界におけ るあまりにも重大な欠落だからです。冷静になって、少しだけ考えればすぐに分かる筈なのですが、思い込みによる洗脳によってこのことを 自力で理解できてる人は、ほぼ皆無だといっていいでしょう。 まず、一切(法)とは何か? 仏典ではこう述べられています。すでに何度も出てきているので皆さんがご存じの通りです。 『比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。 それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。 比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。 比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう >と、そのように言うものがあったならば、それは、ただ 言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。何故であろうか。 比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである。』 (南伝『相応部経典』35-23) 般若心経のフレーズとして良く知られているものですが、この「六根」と「六境」による「十二処」が、仏教の説く「一切」であるとして います。この中には「涅槃」(無為)は含まれないのに勝手に涅槃も入ることにしてしまったのだから、ブッダの教説とは“異なる一切”にし てしまった部派というのは、つまり、絶対にしてはならない“他の一切”を勝手に説いてるということになるのです。この「六根六境/十二処」 は大きく纏めると「五蘊」ということになります。つまり、眼色・耳声・鼻香・舌味・身触・→「色蘊」、法(法処)→受蘊・想蘊・行蘊、意→ 「識蘊」です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A7%91#/media/File:%E5%9B%B3%E8%A7%A3%EF%BC%88%E4%BA%94%E8%98%8A%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%87%A6%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%8C%EF%BC%89.png では、仏典は「五蘊」のことは何といっているでしょうか? 『大徳よ、魔羅(悪魔)、魔羅と仰せられますが、いったい何を魔羅と言われるのでしょうか? ラーダよ、色(肉体)があれば、そこには魔羅がある。殺す者があり、また死する者があるであろう。ラーダよ、だから、色を魔羅であると観じ、 殺す者であると観じ、死する者であると観じ、あるいは病なり、瘍(はれもの)なり、刺(とげ)なり、痛みなり、痛みのもとであると観ずるがよい。 そのように観ずれば、それが正しい観察というものである。 ※以下、受・想・行・識についても、同じ説明が繰り返される。 大徳よ、では、いったい、何のためにそのような正しい観察をするのでしょうか? ラーダよ、厭い離れるために、正しい観察をするのである。』 (『相応部経典』羅陀相応 1 魔羅) ゴータマは、悪魔の正体が五蘊であるといっているのです。五蘊を悪魔として見なさい。そして、これら(五蘊)から厭い離れなさいと。 「一切皆苦」、「一切行苦」については、私は以前、一切が「苦」であるとしているのに、その中に涅槃が入る筈がないといいました。すでに 解説にあったようにこれは「行蘊」に限定された「行」ではなくて、“現象としての事物のすべて”。つまり、これは「一切法」のことを指し ています。一切法は苦(自己の思い通りにならないこと)であるということになるので、苦から永遠に解放された境地である筈の涅槃がこの中 に入る筈がないのです。厭い離れなければならない悪魔の作用の中に涅槃が含まれるわけがありません。 そして、「無我」ですが、「無我」というと仏教徒の中には何だかとても素晴らしい境地か何かであると勘違いしている人がいるのではない でしょうか? 禅の世界などで、よく“無我の境地”などとも話すからでしょうか。しかし、これもトンデモナイ間違いなのであり、誤解なの です。「無我」こそが「苦」の要因なのであって、だからこそ、“無我なるものを自己と見なすなかれ”といっているのです。苦であるものが 無我なのだから、無我が涅槃の状態のわけがない。逆説的にいうならば、要するに涅槃こそが真我の状態だということになるのです。 『比正たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我 ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。... 』 (SN.111,雑阿含経1-91) 従って、涅槃が無我である筈はなく、涅槃に住する如来も無我などではない。「空」とは無我の同義語ですから、当然、涅槃も如来も空など ではない。そして、涅槃に達した者は本当の意味において「わたしが語る」といっても良いともゴータマは述べました。ここで改めて、涅槃に 達した者は「わたし」ということができるとは一体、どういうことなのか? ここまでいっても分からない人については、これ以上のことを私から話すことはもうできませんから。お手上げとなります。 【なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもよ いでしょう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってもよいでしょう。真に力量ある人は、世間における 名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。】 慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。聡明な叡智ある人は、死 の領域を超えていまったので、『わたしが語る』と言ってもよいであろう。また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉であると語っている』と 言ってもよいであろう。真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもよいのである。】 (サンユッタ・ニカーヤ T,3-5 ) ---規制エラー脱出しました--- このサイトページは、私(宝珠)の渾身の編集資料です。 これを読んで正しい無我の理解を得ましょう。 そして、ヒンドゥーを見下す愚かしい無知から脱却しましょう! まだ、このスレは「第一巻」目だというのに、これを以てして早々と論決です。 http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm http://houjugusya.web.fc2.com/nirvana-brahmAtmaikyam.htm 以上 「…である」と定義することはできない 「…である」ものではない アートマン 真我 (「真我そのもの」のことではなくて) たとえば 仮設としての 縁起している世界の中で 縁起に依存している おじゃるの 「真我がある」という『想い』 この掴もうとしている『想い』は「有為法している」ということでつね? 仮設としての 色受想行識の仮和合は 地水火風の微細な粒子に依存している 地水火風の微細な粒子は縁起に依存している (大乗とかの場合は) 縁起は真如縁起に依っている 真如縁起は無住処涅槃を前提としている 間違ってたら スマソ m(_ _)m 小難しい屁理屈を並べ立てる為に 釈迦が仏教を始めた訳では無いと 思うにゃん♪ 屁理屈に (-∧-)合掌・・・ >>373 増一阿含は大衆部の思想の片鱗が知れる貴重な資料ですが後の大乗に繋がる三乗を説くなど独特の個性があるアーガマです 個人的にはアーガマの中では二次資料の部類に入ります >>377 >この中には「涅槃」(無為)は含まれないのに勝手に涅槃も入ることにしてしまったのだから、ブッダの教説とは“異なる一切”にし >てしまった部派というのは、つまり、絶対にしてはならない“他の一切”を勝手に説いてるということになるのです。 それは違うと思います 涅槃はありもしないものではないですからね >>378 一切法が現象界に限定されるのなら釈迦は一切行苦ではなく諸法皆苦とか一切法苦とか堂々と言えば良かったのです でもそれをしない 言葉遣いには厳密な釈迦があえて分けていることに注意を払った方が良いと思います 無我だから苦ではなく苦だから無我です 現象界が苦であり無我であると正しい智慧で如実智見したら苦滅つまり涅槃に至れます 正しい智慧での如実智見で無我であったのに涅槃に至ったらそれが我に変わるわけではありません >>380 >名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。 言語表現だけのものとして、仮に です 先に反論を入れてしまいましたが 詳しい解説での質問への回答には感謝申し上げます >>386 >涅槃はありもしないものではない 「涅槃は無為法である」という『想い』 この掴もうとしている『想い』は 「縁起に依っている一切行苦である」という意味でつかね? (一切皆苦 = 一切行苦とする場合) >増一阿含は…三乗 ↓これでつかね? ttps://hu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=259&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1 [PDF]原始経典成立史試論 2 四節 現存『増一阿含』の特異性 『増一阿含』には大乗思想が伺われる 「如来の法身は敗壊せず。永く世に存して断絶せず。天人聞く事ことを得て道果を成ぜん」 とあって、法身が経を説き続けるとされる また 「菩薩、意を発して大乗に趣く。如来この種々の別を説きたまい、 人尊、六度の無極を説きたまう布施と持戒、忍、精進、禅と知恵力」 「六波羅蜜を具足し疾く無上正眞等正覺を成る」 と六波羅蜜に言及され、経典書写の功徳も 「若し經卷を書寫する者、繪綵花蓋を持して供養する者あらば、此の福、無量にして計るべからず」 と説かれ、さらに大乗興起後のこととされる仏像制作が 「是の時、優填王、即ち牛頭栴檀を以て、如來の形像、高さ五尺なるを作る」云々と記される ≪「法」でないものはない≫ (→およそこの世に存在するものは、(個物だろうが理念だろうが)、ダルマ(法)としてあるのであり、 究極の価値もまた、法に他ならない) とするインド思想の”癖”があるのなら、そして、その中で 因により縁により生じ滅していく諸行(有為法)とは異なる、(涅槃という)境地がある、と教わったなら、 当然【それ】は、『そうではない「法」』(→無為法)である、と考察されていくのも、自然の理かもしれぬw >>388 >「涅槃は無為法である」という『想い』 >この掴もうとしている『想い』は >「縁起に依っている一切行苦である」という意味でつかね? 想い…この言葉を巡ってやりとりするのは一体何度目ですか?w 想いという言葉によほど拘りがあるのですか? そういう執着こそ四禅の段階で手放すといいかもしれませんww それは"瞑想を通して"お釈迦様と対話するか、 同じく瞑想を通してウダーナ73にTatiyanibbānapaṭisaṃyutta-sutta(第三涅槃関係経)とタイトルをつけた経典編纂者と対話して聞いてくださいw それでなければ四禅まで到達した時点で自問してくださいw ウダーナ73てお釈迦様は、 「無為はあるとので有為からの出離(解脱)が知覚されるのである」 と比丘の皆さんに説法している この説法は方便なのか、それとも涅槃のことを言ったのではないのにウダーナを編纂した後世の比丘たちが涅槃関係経と勝手にタイトルをつけたのか、 やはりお釈迦様ご自身と問答されるのが良いと思います、瞑想を通してw …その「想い」に拘るのならねw >>388 >四節 現存『増一阿含』の特異性 そこを読むと増一阿含と他の阿含との関係において増一阿含は法華経と同じことを説いているのだな、とw おじゃるの場合は 呼吸を 3秒も観ることができないけど それでも、とりあえず >>390 > 四禅の段階で手放すといいかも (↓その当時のことではなく今、現代の上座部は) そして更に 空無辺処 識無辺処 無所有処 非想非非想処 上座部 パオ・セヤドー ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/23/065209 非想非非想処 ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 因縁生滅智 刹那生滅智 (誰もが成仏するわけではない(五性各別) それでも、とりあえず) 了解 おじゃります m(_ _)m >>389 >この世に存在するものは、(個物だろうが理念だろうが) >ダルマ(法)としてあるのであり、究極の価値もまた、法に他ならない >とするインド思想の”癖”があるのなら… 説一切有部 あらゆる現象(諸法)を構成する基体として 有法、法体(ダルマ)を想定し 主観的な我(人我)は空だが 客体的な事物の類型(法)は三世に渡って実在する (というインド思想の”癖”があるのなら…) たとえば↑これでつかね? 或いは 「…である」と定義することはできない 「…である」ものではない。みたいな? _ _ _ >>391 とりあえず了解 おじゃります m(_ _)m >>392 の補足として ↓その当時は? ttp://suttanipata.com/ae-2/ 874 注釈 四無色定(非想非非想その他諸々) のちの教義を適用した趣がある … 想いを消滅した者でもない このように理解した者の形態は消滅する けだしひろがりの意識は『想い』にもとづいて起るからである 『(〜である。という)想い』ではない(という法がある?) ↑↓似てる気がする?(インド思想の”強い癖”?) 「…である」と定義することはできない 「…である」ものではない(という法がある?) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%80%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF ウッダカラーマ・プッタ 非想非非想 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E7%90%86%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%92%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%BC%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4 代理ミュンヒハウゼン症候群(Münchausen syndrome by proxy、MSbP、MSP) 1970年代から1980年代にかけて テキサス州の准看護師であるジェニーン・ジョーンズは 自身が担当する乳幼児60人あまりを殺害した疑いがある その背景には代理ミュンヒハウゼン症候群があった可能性も指摘されている 2008年12月 京都大学医学部附属病院の病室内で 当時1歳の五女につながった点滴に注射器で腐敗した飲み物を混入させて殺害しようとしたとして 母親が殺人未遂容疑で逮捕された 精神鑑定の結果 MSbPの疾患であると診断され… _ _ _ 唯識の場合は 仮設としての 無覆無記あるいは有覆無記に依るMSbP? (MSbPとは関係ないかもしれないけど、とりあえず) 大口病院で2016年9月、入院患者2人が相次いで中毒死した >>372-381 やっぱりもう、 これ以上の説明は私は不要ではないかと思います。 これをちゃんと2〜3回は読み直して欲しいと思います。 そして、資料として推奨している私の編纂サイトページを繰り返し読むことです。 とにかく先入観は捨てて下さい。でないとどうしようもない...。 混乱してる人は一端、テーラワーダからの説明もここでは無視した方がいいでしょう。 読むべきものは「仏典」(原始経)の記述ですよ。そこと合致しているかどうかなのですから。 そうすれば、自ずと回答は出ます。 近代仏教学に裏打ちされたこの私の見解と それまで信じ込まされてきたいわゆる仏教信仰の教えの一体、どちらが仏典に忠実なのかが? ゴータマは「信仰を捨てよ」といいましたが、 それは、それまでの古くて間違った概念に対する固執のことをいっています。 それには勇気が必要なのです。仏教でも、心が素直でないとダメだといってませんか? 神格化の恐れがあるから逆効果であるとか・・・ 周囲に死刑廃止論者が絡んでいて云々ともいわれていたので、 私は結局は処刑されないのかな? とも見ていたのですが、 なんと、とうとう麻原主犯を含めて7人も一気に実行されたとのこと...。 彼らは極端な狂気と教祖への盲信からの悲劇でしたが、 宗教に対する間違った盲信ということでは変わりがない。 こういう人たちは本当に、わたしは可哀想だという思いがします(犯罪者に対する同情で申し訳ありませんけれど)。 この私とまったく同時期に重なる求道者たちの末路なので他人ごとではないな、と思っています。 >>378 で、原始経典の言葉、 「無常なるものは苦で、苦なるものは無我である」を取り上げたばかりですが、 ここには奈良先生の受講生もきているのでNHK「こころの時代」を再掲していおきます。 「無常なるもの、無常だからこそ、無我なんだ」(奈良 康明氏)といってるわけですから、 縁起(縁起/因縁生起しているこの世界の状態を無常という)に拠らない世界である無為(涅槃)が「無我」である筈がないのです。 『依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。 これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』(ウダーナ8.1) 『奈良: 実は「無常なるものは苦で、苦なるものは無我である」と。実はこれ「原始仏典」で有名な言葉の一つの言葉なんです。その「無常 なるものが苦である」という意味は、比較的分かりいいと思いますね。今もちょっとお話が出ましたけれども、私どもはいつも良いもの、好ま しいものは、常なるものとしたいんですから、それがすべては無常ですからガラガラ変わっていってしまう。自分のものとして握りしめていた ものが抜けていってしまいますので、それは苦である、と。これはその通りでわかるんですね。苦なるものは無我である、とこういうんですけ れども、実はこの「無常、苦、無我」というのは、本来はそれぞれ別個に、仏教でいろいろに説かれてきた考え方なんですけど、これはそれを 一応三つ並べちゃった面がございまして、それほど綺麗に論理的に並んでいるものじゃないんですね。「苦なるものが無我である」という時に、 むしろこれを解釈とすれば、もう一回「無常なるものは苦である」。もう一つ無常というのをそこで繰り返しまして、「無常なるものは無我であ る」というふうにみた方が、私は分かりいいと思うんですね。つまり私どもは命でも何でも永遠に持ちこたえたい、と思います。それが無常で すからできない。ということは、この前の第一回の時にいろいろ話が出たんですけれども、命だろうと、何だろうと、これは私ですよ、とか、 私のものですよ、と、持ち続けることはできない。だから「非我である。無我である」と、こういう意味でありますからね。 事実、実は仏典の中には、今の三つの言葉の「無常なるものは苦なり、苦なるものは無我である」。その「苦なるものは無我である」ということ の中間に、「苦なるものは移り変わるものである」という言葉が入っている例が非常に多いんです。ということは、なんのことはない、「無常なる ものは苦である。苦なるものは無常である」と言い直しまして、「無常なるもの、無常だからこそ、無我なんだ」というふうに、説明を付け加え ている例がたくさんございますのでね。ここのところは、いろいろ解釈しては難しい面があるんですけれども、「無常と苦と無我」というものが、 こう論理的に、こういうふうに起こってくるというよりは、「無常」とか、「苦」とか、「無我」という言葉の意味を、一つの関連するものとして 受け止めておいた方がわかりいいと、私は思いますですね。』 (『原始仏典をよむA』NHK教育テレビ「こころの時代」平成三年五月十六日放送 駒沢大学教授 奈良 康明 ききて 草柳 隆三) >>394 仏教ではその非想非非想定の上に想受滅定を置き、 これは受と想の働きが止まるので行も働かず識も働かない、 つまり識別作用が止滅するとか心の働きが止滅する(ヨガスートラみたいだが)という状態になりますね この想受滅定は九次第定の頂点に立つもので滅尽定と同じものだと思っていたら 唯識五位百法だと想受滅は無為法に、滅尽定は有為法の中の心不相応行法に分類されている 唯識では想受滅と滅尽定の違いをどこに置いているのでしょう? あるいは滅尽定はあくまで禅定で想受滅は想受滅定ではなく想受滅定によってもたらされた心の働きの止滅のことを言う、とか? しかし、滅尽定でも結局は想受滅に至りそうだしどうなんだろう? あと無為法で説一切有部から継続している択滅というのは「正しい智慧による煩悩の止滅」と解説されているけど、 択滅が慧解脱で想受滅が心解脱となる? でもそうなると唯識無為法には他に不動滅と真如というのを置いているけどそれらとの関係は? っていうか、上座部仏教では無為法は涅槃だけとしているように唯識でも無為法は真如だけでも良いような気がするw あとは虚空即真如、択滅即真如、非択滅即真如、不動滅即真如、想受滅即真如、 そして真如即空で究極的には一切皆空で(少なくとも無為法は、本当は有為法もだろうけど)OKなのではないかな?w https://ja.wikipedia.org/wiki/ 五位 鬼籍に入られて幾ばくかになるが、 宝珠みたいな学生が、話降ってきたら、いったい何て言ったろうかな・・ 満面の笑みをたたえながら・・・w ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%B5%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86 不相応行 存在(色)でも心でもない(という法?) 現代的なモノの見方でいえば 存在するものは物質存在か心による認識かいずれかであるが 説一切有部と唯識では それら二つのものの何れでもない 説一切有部 物質や心とおなじ程度の存在性をもつもの、実有の法である 唯識 心の働きの上に仮に立てられるもの、仮有の法である ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%B5%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%BB%E3%81%86 不相応行法 心と結びつかない存在のことで、他の4つに当てはまらない 色、心、心所、無為 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D 有為法 滅尽定 無為法 想受滅 何でじゃろ?(知ってる方がいたら)ご教示願いまつ ヨロ m(_ _)m 無為 (仏教) 一切の法を 無為と有為に明確に二分して、両者を全く異質なカテゴリーとして扱う 説一切有部 有為法が、無数の法の流動生滅が織りなす われわれの生きる有為転変の世界であるとしたうえで そのような因果的存在を超えたところに見出される常住の涅槃こそが無為である(という法) ↑普通は、この説明で合っていると思うけど 唯識思想 あらゆる存在は精神を離れて存在しないという一切不離識の立場により 「無為」は心・心所の領域に入れられるとみなされる ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき) … 仮設としての 心(識)は仮に存在すると考え 深層意識の阿頼耶識が 自分の意識も 外界にあると認識されるものも生み出していると考え 最終的には阿羅耶識もまた空であるとする 無覆無記からの有覆無記に依って 「無為である。という法」を妄想?崇拝?している。みたいな感じかも? >>404 お前、馬鹿だろ?w いいんだよ、心理学で。 今の時代の尺度で分類したら心理学的であるだけで、 当時は、そんな区別も認識も「その方向で」役立てようという意識すらなかろうて。 宗教的な事柄の中には、心療内科的なものも多く含まれていたろう。 それを、分離したのは、(神仏分離の如くw、精神医学・心理学と「こころ模様」を峻別した)近代医学だろ? >>387 はい、こちらこそどういたしまして! 理由が明確になる必要があるものと思っていますので、 そういう意味でお役に立てればとても嬉しく思います(同意の必要はないです)。 >>386 また何も書かないでいると、 “尻尾を巻いて逃げた”という馬鹿タレがいるので(そのような事実は一つもないにも関わらず)、 一応は、簡単にレス(感想程度でも)をつけておきます。 『増一阿含』の大衆部所持(大乗的改竄あり)については存じていますが、 しかし、この部分は意味的にそれらのこととは無関係かと...。 「涅槃」は仏教の目指す最終境地なのですが、これは最終的な結果ということであり、 それは一切法について学び修得することで最後に達成されるものです。 その境地は一切法で説く世界とはまったく異なる“別世界”であると経典『ウダーナ』では教えます。 「一切行苦」などという言葉も部派が作った造語に過ぎません。それらは教義として彼らの都合に合わせたものなので、 「諸法皆苦」「一切法苦」といったより適した説明がないのは別にゴータマのせいなどではありません。 >涅槃に至ったらそれが我に変わるわけではありません 確かに、ウパニシャッドのようなアートマンそのものを説きませんでしたが、 しかし、求めるべき本来の清浄なる自己であるとしてブッダは説いています。 それは“アートマン性質の最も重要な要素”なのです。 そして、『「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )ことの理由が最も大切だと私は思います。 何故、涅槃以前にはわたしを語ることは不適であり、涅槃後には言ってもいいのか? と。 ----->>372-381 補足----- 「ハッキリいって法門の僧侶たちの理解は、まず例外なく部派二千年の伝承によって洗脳され勘違いを犯しています。残念ながら、 実際の僧侶たちはテーラワーダをはじめ仏典(原始経典)の記述には従ってはいません。」>>372 彼ら(テーラワーダの僧侶たち)が重視している伝承というのは『アビダンマ』(アビダルマ)です。これは論蔵と呼ばれる論書であり、 つまりは経典の解説書や注釈書のことです。経典についての有難い注釈書ということなので、本来であれば確かに大変、助かる有難い ものであるにも関わらず、現実には、これは部派仏教の制作したものであり、それは彼らの理解に応じて彼らの都合いいようにして書 かれてあります。そして肝心なことは、本来の経典の記述とは矛盾する勝手な内容へと改竄されているという事実にあります。 『原始経典には一般に三法印とか四法印とかの説はない。』 (水野著『要語』春秋社刊)>>374 そもそも三宝印(四法印)というもの自体がゴータマのものではなくて、アビダンマによって意図的に勝手に説かれたものです(もちろ んその要素は経典の記述から抜き出してきていますが)。現存するテーラワーダというのは、これらのアビダンマを所持する継承教団で あって、つまりは当時の部派仏教の残存だということ。そして、北方仏教(大乗)も基本教義としてはこれを受けてきています。 そして、彼らが重視しているのは恐らく「口伝」なのだろうとこの私はみています。経典というものは、我々のような在家でも素人 でも誰でも手にして読むことは可能なのですが、しかし、僧侶にしか明かされない口伝というものがあるとされてしまうと、もう門外 漢には手の出しようがなくなってしまう...。経典の正しい読み方と意味でさえも、「口伝の知らない者には分からないのだ」などと言 われてしまうものなら、もうどうしようもない。 現実からいうと、彼らは伝承(口伝/師匠からの伝授-教育)を疑うことなく信じてきており、実際上、経典の記述内容との整合性につ いては殆ど無視の状態だということ。鵜呑みにしてる者というはたとえそこを読んでもそれとしては気付くことができない。 その口伝の伝承というのが、恐らくは二千年来も部派から語り継がれてきたものなのです。 『有為を脱することによって涅槃寂静が得られるから』 (水野著『要語』春秋社刊)>>374 とは、『ウダーナ』で説かれた有為と涅槃(無為)との関係についてのことです。この『ウダーナ』では、涅槃は有為(一切法)とは異な る別のものであり、だからこそ有為からの出離を(それとして)覚知できるのだと述べています。仏典そのものが涅槃は一切法とは異なる 別のものだと説いているのに、勝手に一切法の中に涅槃があると教えることは信者に嘘を植え付けることになります。 『比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』 でないもの(涅槃)が存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの 出離が覚知されると。』 (ウダーナ8.3) 『しかし、比丘たちよ、生まれもしないもの、生成もしないもの、作られもしないもの、形成されもしないものがあるから、生ま れるもの、生成するもの、作られるもの、形成されるものの出離が知られる(paJJAyati)。』 (同、別訳) そして、以前に一切法についての図解を提示するといっていましたが、それをやっと今回ここに紹介することにします。勿体つける ほどのものではありませんが、これが平均的仏教者たちの理解と、この私の理解との違いを簡潔明確に示したものとなります。 *****【一切法の図式】***** ●部派影響による誤解 (平均的仏教徒たちの理解) 一切法 非存在(妄想) -------------------------------------------- ------------------------- 無常、無我、無自性、空(縁起)、苦、涅槃(無為) 自性、神ブラフマン、我アートマン ●正解(宝珠の理解) 一切(有為) 一切外(無為) --------------------------------- ×(別次元) ------------------------------------- 無常、無我、無自性、空(縁起)、苦 涅槃、(永遠、自性、神ブラフマン、我アートマン) (ズレが生じたので再掲します) *****【一切法の図式】***** ●部派影響による誤解 (平均的仏教徒たちの理解) 一切法 非存在(妄想) -------------------------------------------- ------------------------- 無常、無我、無自性、空(縁起)、苦、涅槃(無為) 自性、神ブラフマン、我アートマン ●正解(宝珠の理解) 一切(有為) 一切外(無為) --------------------------------- ×(別次元) ------------------------------------- 無常、無我、無自性、空(縁起)、苦 涅槃、(永遠、自性、神ブラフマン、我アートマン) 平均的仏教者たちの理解というのは、ご覧の通りで一切法のすべての中に仏教の説く教えのすべてが入っており、当然、その中に涅 槃もある。そして、自性というもの、及びバラモンの説くブラフマンやアートマンなどは彼らのただの妄想の産物に過ぎないというも のです。 対するこの私の理解、本来の(経典に沿った)正しいブッダの教えというものは、それとはまったく違うものです。この「一切」とい う言葉が我々の日常語の感覚では”これから外れたものはない”というイメージなのですが、しかし、こと仏教に関していえば違う。 仏教における「一切」とは限定意なのであり、これは現象世界の事物と性質のことを意味しており、涅槃というものはその一切から 脱した結果としての境地であるためにこの一切内には含まれないのです。当然、「無我」「空」というのも一切の現象界に限定されたも のであって、涅槃が「無我・空」(価値のないもののこと)であることはない、と。 つまり、仏教の教えというのは、「一切法」(世俗諦)と「涅槃」(勝義諦)の“二元論(二諦) ”として教えているのです。そして、肝 心なことは涅槃とは結果のことであり、そして、その境地に達した者にしか理解は到底不能なので、ブッダが教える内容というものは 普段は世俗諦としての一切法にほぼ限定されることになるわけです。 私の図式でいうと、無為である涅槃は一切に含まれないので、便宜上は「一切外」としています。そして、この無為とは、苦から解 放された永遠の境地であり、ゴータマが求めなさいと随処で説いた“真実の自己”(本来の清浄な自己)の状態をいいます。 確かに、ゴータマの説いた真実の自己(アッタン)としてのアートマンこそがヴェーダの説くアートマンと同一ということは示されなかっ たけれど、同じものについての別意を示したものだと解することができると思います。 >>412 無常と涅槃が切り離されるわけない 一切が苦しみである なぜなら、すべて、無常だから その、一切の他のものがあり 無常でないなら 涅槃はない 一切の他のものがある とするが故に、それに執着がでている それ故に己に居場所がある そうなると涅槃もなくなる 涅槃の境地はすでに目の前にある^ ^ 自我が落ちた時現れる^ ^ >>416 無常でないものがあれば それに執着が残るのだよ だから、涅槃もなくなるの >>412 のつづき 尚、これもとても誤解されていることなのですが、仏教では絶対的な創造神を認めていないものと一般に信じられていますけれども、 実際上は、明確にその存在は認められているということが殆ど知られてはいません。当然、この神も無為の性質だということになります。 中には、この経文で説かれた「神」を輪廻している天界“天部の神々”のことだと反論する者もいるでしょうが、しかし、それは在り得 ません。何故ならば、それらの神々のことは普段から大いに説かれており、仏典においては当たり前のものとして随時、登場するものか らです。この経文では、問われない限りは神の有無は述べないとしているのだから、それらの神々のことでないとして分かります。 『「本当に、神は、この世に存在しているのですか。」 「私は、神が居ることを、自ら確めている。故に、居るのかと問われたら、居ると答える。 しかし、問われないならば、答えることはない。」 「ゴータマよ、その訳は、如何してですか。」 「人々は、神が居ることを、徒に信じている。確めることなく、信じられている、からである。」』 (パーリ中部.第100経/サンガーラヴァ経.第4章) >>413 - ID:uqIrOhkTは話にならない。 私の投稿を何も読んでない。 読解力ゼロ >>417 確かにそれは正解です。 しかし、その為には修業が必要。 その精神の状態を獲得するのには何生涯もかかる。 ただ本や経典を読んで、「はい、解りました!!」というものではない。 >>420 それでは、僕の書いた 無常でないものはない ということに反対なんですね?? まあ、色んな理由によって 無常でないものがあるとwwwwwww 話にならないとまでいうんやからなあwww 現象世界の外側に内側にか知らないが この表れ来たる一切、以外のものがあり それはしょうぎかなんか知らんけども そのとくところの 一切の他のものなんでしょwwwwww 一切が五蘊を基にするならば 智慧により五蘊皆空とみなせばいい^ ^ >>423 だから 五蘊以外に 空なるものが、あるわけないでしょうがwwwww それ以外にあるとか なんなん? 自己を形成する一切の五蘊が、空なんだから 消失して涅槃なんでしょ それ以外に、恒常のものが 世界の外にあったりしたら 輪廻しちゃうでしょうwwwwwww 無我・空を価値のないものという時点で 終わってる(笑) 中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察 仮設としての 無明の暗闇に覆われて 人はその者自身を未来の生へと 追いやることになる性質を持った 「身体的な・言葉による・心による」行為を行う(カルマを積む) 無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている 真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている 無明薫習に依存して 渇愛(タンハー)が生じて 誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じて こだわりがある偏見をもって論争におもむいて それゆえに >>425 >輪廻しちゃうでしょう スッタニパータ 877の超訳 『これらの偏見はこだわりがある』と知って 論争に赴かない思慮ある賢者は 世の中の激流を渡り終わり種々なる変化的生存を受けることがない この世に生れる素因はつきて、遂には解脱した ttp://suttanipata.com/2017/11/11/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%80%80-%E4%BA%89%E9%97%98%EF%BC%98%EF%BC%97%EF%BC%97%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC/ 無我・空は価値のないものというとらえ方は完全に間違い。 学者の仏教理解はこの体たらくなんで 学者の注釈書は害でしかない。 経典を忠実に翻訳することに徹してない、独自の珍説を述べる学者は ポワしかない(笑) >無我・空(価値のないもの たとえば↓おじゃる超訳なら 我所という『想い』も手放す 我という『想い』も手放す 有るという『想い』も手放す 無いという『想い』も手放す 空性という『想い』も手放す 想うという『想い』も手放す 想わないという『想い』も手放す ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93 八正道 … われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り 自分の心身を厭う思を起こし 心身のうえに起こす喜や貪の心を [ 価値のないもの ] と斥けることが正見である スッタニパータ 21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが 激流を克服して(縁起を手放して超えて) すでに渡りおわり、彼岸に到着している という法がある(というインド思想の”強い癖”?) >>430 あなたは>>378 を千回は読みなさい!!! “苦なるものは無我だ”といってるのに、この無我の何が素晴らしいのか? 「空」は無我のことをいっており、同じこと。無自性で縁起しているだけの状態(無常)を指す。 理解できないのなら投稿しないでくれるかな? ただスレを無駄に消費するから...。 『比正たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我 ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。... 』 (SN.111,雑阿含経1-91) >>431 おじゃるさんね... その想いに捕らわれるならば、 その対象が「解脱」であれ、「涅槃」であれ、 そりゃ〜なんだって執着になるからダメに決まってる。 だからといって、 “知らなくてもいい”という意味ではないから。 「真実の自己が在る」という教えを知らなくていいということと、 その想いに捕らわれるなということとは違うから。 まずは、“知る”ということは何よりもとても重要です。 話はそれからですよ。 で、おじゃるさんは、 これまで難しいものをとても多く読んできて そして、この私の投稿を何年間も読んできて、 私のいってることは分かったのですか? >>419 仏教の基本は縁起の法です。 全ての現象は、独立して存在するものではなく、相互の関連性によって発生すると考えますから、 創造主→被創造物という一方通行的な世界観は、仏教にはありません。 >私のいってることは分かったのですか >>389 ID:Yydy2I/f たぶんセブン僧侶? >インド思想の”癖”があるのなら、そして、その中で >因により縁により生じ滅していく諸行(有為法)とは異なる、(涅槃という)境地がある、と教わったなら >当然【それ】は、『そうではない「法」』(→無為法)である、と考察されていくのも、自然の理かもしれぬ 最終的には?これ↑という感じでつかね? ダルマキールティ(唯識派) 智慧と慈悲は光の如く 照明することを本性とし 自ら輝き現われる 解脱智見 「この絶対的な?体験がった」という『想い』も手放すための 瑜伽行中観派の カマラシーラとかに論破される。という対機説法でつ ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf 参照 ヨロ カマラシーラは瑜伽行を実践していた瑜伽行中観派でつ。一応、念のため それゆえに >>4 >中観自立(あるいは有相唯識)と >中観帰謬では依って立つものが違う。と書いているのでつ 「(絶対に)私の意見が正しい」という『想い』の手放し(中観帰謬) >>435 だ・か・ら 縁起に拠らないのが「無為」だといってる。 『ウダーナ8.1』>>397 を千回嫁!!! 創造主もその性質上から無為でしょ(そして、その存在も認められている『パーリ中部.第100経』>>419 )。 あなたこそ仏典の記述を無視しておいて何が仏教なのか? >>436 いやいや疲れるな... どんだけ洗脳が激しいのか??? その「初期の構図」って、そんなものは最初からないって。 「部派的構図」においては、「自性」は妄想で在る筈のないものでしょうが。 そして、デタラメで「宝珠」の図式を書くの辞めてくれるかな? だから、「無為」は一切ではないと何度、言ったらわかるのかな? ブラフマンとアートマンは分離したものではないから。 いわば、海がブラフマンでコップで掬った海水がアートマンだから。 間違いだらけだから、全部を廃棄願うわ。 ただ作るの旨いのだけは大いに褒めたいとは思う。 >創造主 → 被創造物という一方通行的な たとえば↓(大乗の)密教とかの場合は ttps://en-park.net/words/7441 大日如来 … 仏教の開祖は釈迦であり、この世ではじめて悟りを開いた人物です ですが 大日如来はその釈迦をも創りだした創造主といった考え方に近いです 大日如来が → 釈迦をも創りだした 無住処涅槃を前提としている 仏そのもの 仏性からの真如縁起 円成実性からの → 依他起性 「円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない」という法がある というインド思想の”強い癖”?かもしれない その当時のインドの人々にとっての『想い』を一応認めて、さらにその理解のうえで ということで ヨロ m(_ _)m ああw だったらそこは「無為」のみに脳内改訂しとけ。 そこはどうでもいいとこだから。 >>438 重要なのは、各項の対応関係だから。 或いは、何を「ある」と見做し「ない」と見做し、何を「法」と見做し何を「有為」と見做しているのか、と。 >>419 婆羅門サンガーラヴァがゴータマに神は存在するのかと聞いている、その神の原語はabhidevā(devāは神=天)で上天という意味です。 下天は信長の敦盛の歌詞にも登場する神ですがその対義語が上天ですので梵天、とりわけ大梵天のことを上天というのでしょう。 しかし大梵天とはいえ解脱してなく輪廻する存在であります。 寿命がとても長いので自分が不死だと錯覚してゴータマに叱責されたこともあります。 そもそも仏教では梵天(ブラフマ神)は創造主であるというのはパーリ梵網経で外道の六十二見の一つとして否定されます http://www.ko-kon.net/religions/buddism/62ken_02.html の 2.部分的永遠論 を参照のこと >>440 いやいや.ジョウタンじゃないな。 一番重要なことが一切には無為は入ってないってことだ。 そして、なんだかこの私のいってることが、 本来の正しい初期の構図とは違うことを勝手にいってるような展開は辞めなさいな。 部派は改竄が得意なのは分かるが嘘は辞めて欲しい。 殆ど犯罪級だぞ!! とにかく削除宜しく。 どうしても作りたければ、改竄せず私の説明通りにするように。 その「初期」もいらない。部派のアビダンマと私の説明と二つしかないから。 >>441 そういうのもすべて後代の創作(勝手教義です)です。 輪廻してる天部しかいないような解釈は後代の意図的改竄の最たる部分。 梵天との対話など問題外です。 >>431 おじゃるさん 厭うというのは、どのように、翻訳されてきたんですか? 外国語から、翻訳されたんですか? 厭うというのは、嫌うと同じ意味ですか? とりあえずの↓まとめ ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%86 一切法 有為法に限定されるのか、無為法をも含むのかなど解釈は一定ではない ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%B5%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86 不相応行 存在(色)でも心でもない(という法?) 説一切有部 - 物質や心とおなじ程度の存在性をもつもの、実有の法である 唯識 - 心の働きの上に仮に立てられるもの、つまり仮有の法である ttps://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E7%95%8C-133397 法界 意識の対象となるすべてのもの。とか 真如など 仏教用語としては種々の意味に用いられる ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D 有為法 - 滅尽定(←何でじゃろ?) ttps://www.yuishiki.org/%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%A8%E7%A9%B6%E7%AB%9F%E4%BD%8D/ 唯識学会 第九意識は完全なる涅槃 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE 瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき) 阿頼耶識が 自分の意識も 外界にあると認識されるものも生み出していると考え 最終的には阿羅耶識もまた空である 有相唯識から → 無相唯識から → 中観帰謬へ。ということで ヨロ m(_ _)m ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93 自分の心身を厭う思を起こし ウィキからの↑コピペで おじゃります おじゃる妄想としては↓こんな感じ ttps://kotobank.jp/word/%E5%8E%AD%E3%81%86-434824 世俗を嫌って離れる 世を厭う _ _ _ おじゃるは マガダとか パーリとか サンスクリットとか 漢訳とか 外国語など まったく、わからないので それゆえに 日本語で 現代語訳で 初心者向けに 分かりやすい説明で よろしくお願い致します。ということで ヨロ m(_ _)m 簡単に言えば・・ 色即是空 空即是色 色=有為 空=無為なんたよな・・^^ 空=無為・・・つまり・・^^ 利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、 増さず、減ぜず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、 眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、 乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、 老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、 智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、 般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙なし。罣礙なきが故に、 恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。 「一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。」 これなんだな・・・^^ >>443 wwwwwwww >そういうのもすべて後代の創作(勝手教義です)です。 > 輪廻してる天部しかいないような解釈は後代の意図的改竄の最たる部分。 > 梵天との対話など問題外です。 お前が自分で引用した経典だろうが?ww んで、 >>441 まあ、私見だが、それは、梵天というよりは、「天」「天部」・・・即ち、一般的な表現で言うと「神々」というような「複数」の意味合いを 持つのでは? つまり、キリスト教で言うような大文字のGod ではなく、gods ではないかと? (原文みたが、少なくとも「絶対神」を想起させる記述は一切なかったw) この辺りは、セブンが専門w (ちなみに、仏教では梵天勧請の梵天に固有の名前が付加されているw これは、どういうことかというと、梵天たりとも、絶対神ではなく、複数存在する 梵天の一人が釈迦に勧請したということw ヒンドゥーに比べて、その価値は大分、目減りするww) なんだ?? このスレも、荒らしが居つきだしたのか? 消えるか?ww >>446 の補足として 漢訳も、まったく、わからないので、それゆえに ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html 漢訳 第一義空経 業報有るも而かも作者無し。此の陰滅し已らば異陰相續す この作者の意味も、わからないけど おじゃる妄想としては 作者 = 変化しない 作者無し = 変化している 仮設としての 縁起に依って 変化しているので それゆえに 業報も縁起に依って現れ変化して → そして異蘊相続へ というように妄想超訳しちょりまつ これの意味も、わからないでつ → 乃至純大苦聚滅す 苦しい。という『想い』が滅する。という意味かしらん? >>453 の補足として ttp://matsunamilab.cocolog-nifty.com/dharma/2015/10/post-78c0.html 業報あるも而も作者〔すなわち〕此の陰滅し已らば異陰相續す〔となす作者〕無し この解説の場合だと 「異蘊相続は無い」というようにも見えるけど たぶん 「異蘊相続は作者無し」 「異蘊相続は変化しないものではない」 変化しないものではない それゆえに 縁起に依って 解脱する場合もあるかもしれない という おじゃるの妄想超訳で おじゃります 因みにだが、自在天も大自在天と自在天は別とされてたり、ヒンドゥーでもシヴァが何十もの化身で様々な活躍したとされ、1人格とは思えない様々な言動をしたとされる。 向こうの神は、日本の神とも違うイメージなんだよ。 一柱の神というより、○○神という属性ってのが近いと思うぞ。 (^。^)まぁ、所詮は世俗的イメージだから、実態とはまた微妙に違うんだがな。(笑) 実態とはまた微妙に違う? ↑↓難しくて意味が、わからないけど、とりあえず 歓喜天(ナンディケーシュヴァラ 歓喜自在天)? 聖天(歓喜天)? 他化自在天? 大自在天 オン・マケイシバラヤ・ソワカ オーン。マヘーシュヴァラ(シヴァ)神よ。スヴァーハー (諸天も含めて?) 一切の如来の御足を礼拝し奉る オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>443 だからw 脳内補正しとけと言ったろ? 何のために二つも三つも区分けしたと思ってんだ。 ちゃんと、縦エリア毎に区分されてんだから。 重要なのは、対応関係だと言ったろ? つまり、 「涅槃」 に 「個」 の要素が入る ということ、 及び「五蘊無我」を踏襲する故に、「五蘊以外の個」が要請されている のが宝珠図面なわけ。 が、縁起という世界観を受け入れる以上、宝珠的世界観は相反するわけ。 部派とか初期とか中期大乗とか中央アジアとか、そういう歴史的地域的変遷以前の、 『根本的な基礎部分』の問題なの。 だから、なぜ、わざわざ【初期】を入れたかといえば、「無為法」という(部派的)括りでなく、 因により縁により存在するのでなく、そのようなものとして「ある」だけであり(語弊を恐れず言えば可能性として「ある」ということ) それを見る(知る)ための機縁が、梵行なわけ。 ≪行じることによって、【そこに】【生じる】≫のではない。(→有為ならざるもの、縁に依らないもの) また、≪行じることがなかったとしても【そこに】【存在している】≫のでもない。(→常に【どかかに】あり続けるのでない) 修行者が、正しく行じ、正しく観察し、正しく定を修めた時、そのとき、 その修行者は、涅槃の境地にあることを知るわけ。 それは生じたのでなければ、どこかからやってきたのでもない。その修行者がもともと涅槃の境地にあったというのでもない。 ましてや、その修行者に、もともと内在されていた、或いは(我=涅槃なればw)その行者はもともと涅槃だった(なんという十牛図www)、 (存在が境地と=とか意味不明だけどw)、なんて、おとぎ話はちゃんちゃらおかしいわけでね。 うむ、 ここだなwポイントは。 >「五蘊以外の個」が要請され る 近代仏教学でも一切法に無為法は含めないは見解が分かれていて定説ではありません 三法印とか四法印という区分は部派仏教時代に生まれたのかもしれませんがその法印の説法や自説はダンマパダやテーラガーダーに載っていて諸行無常、諸行皆苦、諸法無我となっている なぜ無我だけが諸法なのか一切法とは現象界だけと言ってる学者からははっきりとした説明がありません 仮に一切法を現象界(有為)に限定したとしてもアートマンはあるとした場合でも 「アーナンダよ、じつに、〈識〉が母胎に入らない場合、いったい、〈名色〉は母胎において成長するでしょうか」 というお釈迦様の説明において識か名色の中にアートマンがもともと在るのか、と? 入ってないとしたら無為法に至って何故アートマンは在るものになるのでしょうか? あるいは自性清浄を根拠にされるかもしれませんが、その清浄な自性とは識のことなのかそれとも名色のことなのか? むしろ修行により六根を清浄にしていって貪瞋痴を滅したとこが無為法(涅槃)ではないの、と? あとウダーナの涅槃の説明はおそらくは貪瞋痴が滅した者が行する想受滅定の時(あるいは想受滅定から覚めた時)の境地ではないのかな、と 宝珠氏の説明には感謝しますがなお疑問が絶えません とりあえずのまとめ 諸法無我:全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がない 諸行無常:すべての現象は、無常である 一切行苦:色受想行識も苦なり 諸法無我:すべてのものごとは、自己ならざるものである 涅槃寂静:ニルヴァーナは、安らぎである >清浄な自性とは識のことなのか ttps://www.yuishiki.org/%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%A8%E7%A9%B6%E7%AB%9F%E4%BD%8D/ 唯識の場合は 第九意識は完全なる涅槃 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3 ヴェーダの場合?は 「…である」と定義することはできない「…である」ものではない ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html 十牛図の場合は …さらに無の世界も超えて 分別のない心で 移り行く世界の様をありのまま見つめている。という法がある >もともと涅槃だった(なんという十牛図 (↑このリンク先のものは)苦集滅道から始まっているように見えるけど? ウダーナ71 「比丘たちよ、その場所(処)は存在する ――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、 虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、 識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、 無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、 表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、 この世なく、他世なく、月と日の両者はない。 比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、 これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。 これこそは、苦しみの終極“おわり”である」と。 これは場所を(想受滅定での)境地にすれば割とすんなりと読めるんだよね 想受滅定で想と受を滅(二ローダ)すれば四大(物質元素)もなく無色界(名(名称)のみの世界)もなくどこかの場所でもない境地となる 想受滅定により識別が働かないので依るとか転起(縁起によって生起したりすること)とか認識とかがない そういう境地が在るというように だが、唯識での滅尽定と想受滅との違いは未だに謎w 滅尽定での心解脱により想受滅というウダーナ71〜74のような無為(法)に達するというのが一番納得するのだが、でもまだ腑に落ちないw >もともと涅槃だった(なんという十牛図 ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html 十牛図 … 長い年月の葛藤の末、童子はどうにか牛を飼いならすことが出来るようになった たとえば、長い年月の葛藤の末に 妄想、思考が入らないように 呼吸を 30分観れるようになった あるいは、長い年月の葛藤の末に 余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐 (心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて) という文脈のような気がする 大乗の場合は 一切悉有仏性というような世界観があるかもしれないけど とりあえず。ということで ヨロ m(_ _)m >>460 第九識を究竟位とするのは唯識よりも法華教からの宗派、つまり天台とか日蓮だと思う いかにも十如是の本末究竟が語源であるのでw しかし唯識でも究竟という言葉を使うとは… 最澄と宗論した徳一も究竟という言葉を使ったのだろうか…? >>462 最後の入鄽垂手で童子は布袋さんになって別の童子と遊ぶんじゃなかったんでしたっけ? そのリンク先のサイトの説明は違うみたいだけど ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3 十牛図 どんな人にも仏の真源、仏性が備わっているが… そして 最終的には? 仏の真源、仏性に戻る帰る。という文脈なんでつね?(たぶん?) >>461 >>463>>464 了解で おじゃります m(_ _)m >(唯識での)滅尽定と想受滅との違いは未だに謎 知ってる方がいたら、ご教示願いまつ ヨロ m(_ _)m (何でじゃろ?) ttps://ameblo.jp/suryasoma/entry-11745717081.html 法(ダルマ)について 心不相応行法 … 生・住・異・滅そのものも有為法である それゆえに 滅尽定も有為法である。ということなのかしらん? この場合だと 想受滅も有為法である。という感じがするけど? 大智度論 仏教用語辞典 [ 滅尽 ] で検索すると 身証 不還果(阿那含果)の人の滅尽定を得たもの たぶん↑これかもしれない? 滅受想定身作証具住 受想などを捨てて、滅尽定に入る。(滅受想定とは、滅尽定である) 滅尽定:滅受想、心と心所をすべて滅する そうすると 「滅受想と想受滅の違いは?」ということで ttp://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm 初期仏教の解脱・悟り=想受滅 初期仏教の場合は 想受滅 = 滅尽定 >滅尽定での心解脱により想受滅という ↓おじゃる妄想としては 不還果(阿那含果)の滅尽定 その次の段階として 阿羅漢の想受滅 それゆえに 滅尽定と想受滅は違う。みたいな感じ? 間違ってたら スマソ m(_ _)m ↓参照資料として ttp://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm 大智度論 仏教用語辞典 [ 滅尽 ] で検索 >>459 >なぜ無我だけが諸法 常なる「法」はあり得るから、楽なる「法」もあり得るから、では? 少なくとも、仏教以前からの古代インドの世界観に於いて、 「法」の、普遍性、万能性、絶対性、或いは価値レベルの最上位、等を考慮すれば、 「悟りの(解脱の)境地」、つまりは「涅槃」もまた、 修行者(沙門)の目指すべき・求むべき、価値ある、学び・見るべき「法」であると見做されていた可能性は想像に難くない。 そして、ブッダにとっては、そこにアートマン(或いはブラフマン)を設定できなかった、と。 ※他多くの外道に於いては、そこにこそアートマンを据え置く形で、既存の宗教観を踏襲してしまっている、と。 アーチャン・チャー https://mobile.twitter.com/ajahnchahbot ●ブッダは「空を理解する者を、死王は追うことができない」と言った。 空を理解したとき、死は私たちに影響を及ぼすことはできない。 なぜなら、そのとき「私たち」というものは存在しないから。 ●ブッダは私たちに「我見」(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いた。 もし、我というものが施説(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わる。 より正確に言うなら、問題が終わったというより、解決法が必要なくなったのです。 ● ブッダは、無我(アナッター)を説きました。 けれども、この無我についての話を聞くときには、どうか注意をして聞くようにしてください。 この無我という言葉の本当の意味は、私たちの世界のどこに「人」というものが存在するのか?ということなのです。 ● 自らの身体が空であると知るとき、私たちはその中に住することなく、死王は私たちを捕らえることはできません。 私たちはもはや死なないのです!違いますか? 「私たち」というもの、我(アッタン)が存在しないとき、私たちは死なないのです。 >>437 >ID:Yydy2I/f たぶんセブン僧侶? >最終的には?これ↑という感じでつかね? それは、 私がこれまで述べてきたことの3/1〜5/1程度のものでしかありませんが... いや、それでもそのことそのものは正解です。僅かではあるけれども、 オープンマインドでそういう方向性が見い出せたのであれば、 セブンもおじゃるさんも確かに大きな一歩、より大きな前進でしょう。 それと同時に私には、 おじゃるさんはセブン(専門大学で正式に学修してきた学僧など)がいえば信用するのだな... ということがよ〜く分かりましたね。 >「(絶対に)私の意見が正しい」という『想い』の手放し(中観帰謬) まっ、所詮...この世の中には絶対などというものはないですよ。 もちろん、この私も間違うし、100パーセント正しい見解を提示できるということもまたないでしょう。 それと私から見て、おじゃるさんのこれまでのような限定しない幅広いジャンル での公平な勉強の在り方は私はとても良い姿勢だと思います。 >>445 >一切法 有為法に限定されるのか、無為法をも含むのかなど解釈は一定ではない そりゃ〜そうでしょ! 一切法の中へ勝手に無為もぶち込んだ張本人、 その部派仏教の残存が今のテーラワーダ教団(スマ長老たち等々..)なんだから。 従って、無為法を含まない経典の言葉と勝手に説いてくる僧院との両者がある形だね...。 >>451 まぁ残念ながら...一端、 『サンガーラヴァ経』については取り下げます(今後の課題に)。 >梵天たりとも、絶対神ではなく、複数存在する >梵天の一人が釈迦に勧請したということw 尚、この私は仏典中における“梵天との対話”すべてを創作と見ています。 これはバラモン本来の最高神にて最高原理の「梵」(ブラフマン)を、 後代の弟子たちが勝手に諸天(尚且つ、複数扱い...)の一つにしてしまうことで 仏教の優位性を図ろうとしたものであり、かなり悪質な経典編纂者たちの意図的な陰謀であるとみなしています 私は、『ジャータカ』のブッダ転生物語と梵天との対話 (有名な“梵天勧請”と『SN』などにおける対話録)については例外なくすべて架空創作としています。 >>457 まぁ.この図表の作成者が我々の知るセブンであれば、 たぶん悪質な意図はないだろうから? 一応、その点だけは長年の論敵として認め、そして安心しておくが....。 けれども、やはりその図表は間違ってるから。だからもし、どうしても作りたければ正しものに修正しておくように!! >それは生じたのでなければ、どこかからやってきたのでもない。その修行者がもともと涅槃の境地にあったというのでもない。 >ましてや、その修行者に、もともと内在されていた、或いは(我=涅槃なればw)その行者はもともと涅槃だった(なんという十牛図www)、 > (存在が境地と=とか意味不明だけどw)、なんて、おとぎ話はちゃんちゃらおかしいわけでね。 いやいや..大変、申し訳ないけれども、それはあなたの勝手理解でしょ? 涅槃に達した者にとっては、無始の初めから元々、自己が涅槃の状態だったことを自覚するのですよ。 不思議でしょ????? だから我々、凡人には今の状態では到底、理解不能なのですよ。 それは体験者だけがそれとして分かる世界であって。だから、それが勝義諦といわれるのです。 だから、このことを誤解してる馬鹿な禅者たちが、最初から我々は悟ってるだの何もしなくて大丈夫だのと勘違いを犯す...。 で、以下の指摘に対して早急に修正願う!!! @初期の図表の間違い。 元々、最初から一切法の中に涅槃が入っていることはないからデタラメは辞めて欲しい。 私はそのことを仏典の記述から論証したでしょ! 涅槃が入っていることを示した経文などは一つもないから(在るのならば出してみなさいな!絶対にないから)。 A「幽体?」はこの図表には不要。 いつ、この私が一切法と涅槃との関係の中で「幽体」の話をしたの? してないから。 誤解を産むから、そんなまったく私が述べてないことを加える勝手な改竄は辞めなさい。 そもそも「真我(アートマン)」は「幽体」などではないから。分からない人間が勝手な憶測で書くな!! 「幽体」は、「真我(アートマン)」でも「魂(ジーヴァ)」でもないから。 (幽体の異常状態が「餓鬼」ですから)。 B「宝珠」の図の「アートマン」。 なんで、真我ではないアートマンがあるの? そして、どーして私がいつアートマンを妄想だとしたの? >>459 「識」は、魂(ジーヴァ)であって輪廻の主体なのですが、 しかし、これも一定期間(涅槃に至るまでの)において縁起しているだけでアートマンそのものではないのです。 確かに、「魂」はアートマンから生じたものなので非物質性であり、転生現象においては時空を超越する能力を保持しますけれど。 魂の一部が「識」であるか、「識」の一部が「魂」であるかは難しいところですが、転生主体の核コアそのものは清浄と理解されています。 真我アートマンであれば、更にその清浄さは増して光り輝いています。 とにかく、魂である識が母胎に宿ったり死後に出ていく現象とは別に、その外にアートマンは在る。次元の階層が異なるのです。 仏教枠では、それ以上のメカニズム的理解を得ることは無理だと思います。そういうことには力説をおいてないのがゴータマの姿勢ですから。 理解を得て疑問を氷解したいのならば、「神智学」に拠る以外にはないと思います(神智学はそのためのものですから)。 >修行により六根を清浄にしていって貪瞋痴を滅したとこが無為法(涅槃)ではないの、と? なので、無為法/涅槃というのはその「結果」なんですよ。 その結果は話しても理解はされないのです。体験すれば分かることだからそんな無駄なことはしない。 話しても理解できないものには力説などしないというのがゴータマのやり方です。 だから、この現象界の性質とその中での我々の生き方や態度、 そして、現象界での修行の在り方を指導するというのが一切法ということになる。 涅槃というのはただの結果に過ぎないから、この一切法には入ってないのです。 >涅槃に達した者にとっては、無始の初めから元々、自己が涅槃の状態だったことを自覚する たぶん ヒンドゥー系も? そして、たぶん 大乗の無住処涅槃 この無住処涅槃に 光り輝いている(仏そのもの)に 外来のもろもろの煩悩とかが取り憑いている という対機説法という感じで 縁起をもって 外来のもろもろの煩悩も含めて 縁起しているものを手放して超えて 無始の初めから元々 無住処涅槃であった 仏そのものであった。と気づくこと みたいな感じ? >>472 はあ? てめぇの意見だけを反映した表だと思ったか? 何度も、 重要なのは、 『各項各要素の対応関係』 だ と言ったろ? どこ読んでんだ。 故に、想定し得る説の主軸を並べたら(各項を対応させたら)、ああならざるを得ないわけ。 だから、てめぇの分類部分については脳内補正しろと言ったし、改訂するのも吝かでない。 が、てめぇの説明からは、 ああした分類(表記)しかできねーんだよw それくらい、異質な説だということ。 「一切」の区分についてはすぐにでも訂正できるが、それ以外に関しては、 世界中にただ一人、てめぇしか理解していない・見えていない構図なんだから、ワシが直せるわけなかろ?w 気に入らないなら、てめぇが、(プリントアウトして、赤ペン添削して、うpして)直し方を教えろwwwww 図式2 「一切法」と「涅槃」の正しい関係を図にするとこうなる。 涅槃(無為法) -------------------------- | 一切法(有為法) | | 無常・無我・空(無自性) | -------------------------- 意味(イメージ)としては、 物質現象界の限定的な境地である「一切法」(有為法)を出たところに、 有為とは全く異なる性質の「涅槃」(無為法)が無限的に広がっている。 涅槃は、一切法(有為法)の修行における結果(有為とは異なるもの)であり、 一切法の中に涅槃が含むわけではない。 そして、 無為法/涅槃は永遠の境地であるけれども、 これは有為の「無我」に対しては、「我」アートマンということなのか? 有為の「無自性」に対しては、「自性」ということなのかどうか? が、ブッダが明確にしなかった部分である。 私(宝珠)は、 意味としては結果的にはそうなるものと解する。 (少なくとも、ヒンドゥーを馬鹿にする無知を晒すな!!といってる) >>472 だからw >無始の初めから元々、自己が涅槃の状態だったことを自覚する というのが、 永遠に存在し続ける「個」(個我)でなくて何なのか?と。 それを、(君が贔屓とするw)古代インド思想は「アートマン」としてきたわけ。 で、貴方が、『そういうアートマン』を(それは「縁起性」のもので無常であるとして)否定し、 別の、無始劫来存在し続ける自己を別に設定するなら、―まさに、「五蘊以外の個」を設定するならば― そのような「真我」の存在の仕方、我々の現象界へのかかわり方・影響の与え方は、どのようなものになるのか、 ちゃんと説明できなきゃ、表に反映のさせようもなかろ?w >@初期の図表の間違い 間違いじゃない。君が嫌う、伝統正統な、既存の教義としては、だよ。 だから、表に入ってんだよ。 てめぇの意見だけを反映するような太鼓持ちなぞするか馬鹿w >なんで、真我ではないアートマンがあるの だからw 既存のインド思想も盛り込んであるのw 寧ろ、真我とアートマンを別と見做す考え方の方が珍しいんじゃねーの?w >>474 の続き 無始の初めから元々 仏そのもの 無住処涅槃を前提として 真如縁起をもって (仮設としての) 阿頼耶識が 自分の意識も 外界にあると認識されるものも生み出している それゆえに 古代エジプト 生命を持たない物体もまた独自の性質である。バー(魂) 衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに一切悉有仏性 (法相宗などの一部の宗派を除いて) 日本仏教では 仏性・一切悉有仏性・如来蔵を説く宗派が多勢を占めている 『 インド思想の”強い癖” 』 も 真如縁起からの(仮設としての)仮の現れ?ということかも? >『そういうアートマン』を(それは「縁起性」のもので無常であるとして)否定し 「…である」と定義することはできない「…である」ものではない 勝義諦(無為法?)である。という『想い』でもない 世俗諦(有為法?)である。という『想い』でもない 「…である」と定義することはできない。という法がある 仮設としての 縁起に依存して 無明に依存しているのなら 渇愛(タンハー)が現れて 誤ったあり方を掴んで離さないような (無明に依存して) 「…である」ものではない。という法がある という固執も 現れて・変化して・滅して・逝く・場合もあるかもしれない? おじゃるの場合は (クンダリニーもチャクラも肯定で、そして) 根本仏典・上座部も肯定なので >>475 >>481 了解しちょりまつ この場合は、やはり↓これでつね? ttps://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E スマナサーラ 手放すこと ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm 曹洞宗 内山興正 … 坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません … ところが今 その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって 何ものをもつかまないでいることです。すなわち思いの手放しです 実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません しかし 思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう _ _ _ 大自在天 オン・マケイシバラヤ・ソワカ (諸天も含めて?) 一切の如来の御足を礼拝し奉る オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 「てめぇ」と言ってる凡夫が涅槃を語る^^ おもろいな・・^^ そう言う意味で、ワシが2chで頭を下げるのは一代だけだw >>483 あなたはたしか、 色=有為 即是 空=無為の人ですね? wwwwwwwwwwwwww 何等をか有爲空となすや。有爲法とは欲界・色界・無色界に名ずく。 欲界の欲界とするは空なり。色界の色界とするは空なり。 無色界の無色界とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故なり。 何以故。性自爾。是を名ずけて有爲空となす。 何等をか無爲空と為すや。無爲法とは名ずけて無生相・無住相・無滅相と為す。 無爲法の無爲法とするは空なり。常に非ず滅に非ざるが故に。 何以故。性自爾。是を名ずけて無爲空と為す。 大智度論 有爲=生住滅の相 無為=無生相・無住相・無滅相 簡単に言えば・・・^^ 刹那生滅するものは有爲なんだよな・・・^^ 住はどうだかしらんけど^^ 一応、スタンダードな説では、一切(法)には無為と有為が包括される。 ところで仏教では「一切皆空」と云い、大智度論では「一切皆空」の「一切」中での十八種類の空を説明している。 > 復次に須菩提。 > 菩薩摩訶薩に復た摩訶衍あり。 > 所謂、内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有爲空・無爲空・畢竟空・無始空・散空・性空・自相空 > ・諸法空・不可得空・無法空・有法空・無法有法空なり。 つまり一切(有為・無為)皆空って事なのではありませんかねぇ? 皆、確認しておいた方がいいと思うが、 インド思想に於いては、「法」でない「存在」が、ないってことなんじゃねーの? だから、所縁に依らないものも「ある」と見做すなら、それも「法」になるよね。 >所縁に依らないものも「ある」と見做すなら、それも「法」になる それで結局のところは 「一切法」に 「無為法も含まれるのか?」ということで ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%86 一切法 一切が「縁起した存在」つまり有為法に限定されるのか、無為法をも含むのかなど解釈は一定ではない 無為法を含まない場合の文脈もあるかもしれない ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%B5%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86 不相応行 説一切有部 物質や心とおなじ程度の存在性をもつもの、つまり実有の法である 唯識 心の働きの上に仮に立てられるもの、つまり仮有の法である 唯識の場合は (絶対的な無為法も含めて)心の働きの上に仮に立てられている という場合の文脈もあるかもしれない >>494 の補足として 「心の働きの上に仮に立てられている」を前提とするのなら 五位 唯識 無為法 - 想受滅 唯識の場合は (無為法 - 想受滅も含めて)心の働きの上に仮に立てられている という意味になるのかもしれない >>492 (続き) つまり、空=無為っていうのは一寸ねぇ・・・ 無為asankhata自体、有為の対概念として希求されたものかも? たとえば反物質とかと同様に。 >空=無為 ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%A9%BA 空 十空。 内空・外空・内外空 ・有為空(有為法が空であること) ・無為空(無為法即ち涅槃が空であること) ・散壊空(仮の集合であるから離散し破壊する相をもっていて空であること。散空ともいう) ・本性空(自性が空であること。性空ともいう) ・無際空(始めなくして存在する一切の諸法がすべて空であること。無始空、無前後空ともいう) ・勝義空・空空(大毘婆沙論巻八) この場合は、やはり 無為法である。という『想い』も空性である (絶対的な)勝義諦。という『想い』も空性である すべて空である。という『想い』も空性である という感じでつね? _ _ _ >無為は、有為の対概念として希求されたもの インド思想という意味として了解おじゃります m(_ _)m ↓インド思想の歴史? ヒンドゥー(バラモン) 人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって 次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる 人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き 無限に続く輪廻。という法がある この不安の輪廻から解脱。という法もある (たとえば(絶対的な?)涅槃。という法がある) もっとも、たとえば 涅槃は 絶対的な。という『想い』でもないけど この不安の輪廻から解脱。という法もある たとえば 空海 : 菩提分法これ法宝なり >>467 よく探されましたありがとうございます とは言ってもやり方が悪いのか滅尽では調べることが出来ず、滅尽定で調べたら >(滅受想定とは、滅尽定である。これもまた第四禅に依って、前の非非想、即ち一切の所縁を棄捨する。故に解脱という。) >滅尽定(めつじんじょう):滅受想(めつじゅそう)、心と心所(しんじょ、心の働き)をすべて滅する。 http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm などというワードしか見つけることはできませんでしたが(苦笑 しかし大智度論では滅尽定にこういう解釈もあるからヒントを得て大乗仏教での滅尽定について調べたら ウィキペディアで簡単に調べることができましたw https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A なるほど、大乗仏教では滅尽定はまだ究極ではないとする場合もあるということか っていうか、説一切有部のころから滅尽定は有為法(心不相応行法)になってるのですがw 問題は唯識では何故想受滅を無為に入れたのかということになりますかね ↓インド思想の歴史? クンダリニー覚醒 ムーラーダーラに眠っているシャクティ女神が目覚め上昇し 頭頂部上方のサハスラーラに鎮座するシヴァ神と再結合を果たす クンダリニー・ヨーガにより クンダリニーが上昇し サハスラーラが押し開けられればクンダリニー覚醒となる サハスラーラが押し開けられるその際に 「パチ、シュワ」「コン」という音が鳴ることがあるという ↑↓似てるような気がする? スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 明知が 信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである (頭頂部上方の) サハスラーラを押し開ける 頭(無明)を裂け落とす >>468 そう考えるのが一番腑に落ちますよね(無常ではない法があり苦でない法がある) >常なる「法」はあり得るから、楽なる「法」もあり得るから、では? >「悟りの(解脱の)境地」、つまりは「涅槃」もまた、 >修行者(沙門)の目指すべき・求むべき、価値ある、学び・見るべき「法」であると見做されていた可能性は想像に難くない。 ですよね だからお釈迦様はウダーナで比丘たちに 「無為がなければ有為からの出離は知覚できないものだが、無為はあるから有為からの出離が知覚される」 としてそれを目指しなさいと(感興の言葉としてですが)説いたのだと思います ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A 定、サマーディ … 大乗仏教における滅尽定の解釈 滅受想定から出定する際の観である 想受滅定 にゃるほろ =^・ ・^= ご教授 アリガト m(_ _)m ttp://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%82%81%E3%81%A4%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%88%E6%BB%85%E5%B0%BD%E5%AE%9A%EF%BC%89 file6:弟子、修行 十八有学 身証 不還果(阿那含果)の人の滅尽定を得たもの >>473 >とにかく、魂である識が母胎に宿ったり死後に出ていく現象とは別に、その外にアートマンは在る。次元の階層が異なるのです。 >仏教枠では、それ以上のメカニズム的理解を得ることは無理だと思います。そういうことには力説をおいてないのがゴータマの姿勢ですから。 >理解を得て疑問を氷解したいのならば、「神智学」に拠る以外にはないと思います(神智学はそのためのものですから)。 それは宝珠氏ご自身の原始仏教にはない教えを部派仏教で勝手に入れたという発言と同じになってしまうのですよ 原始仏教とは違う、更には大乗や密教まで含めての仏教とは違う学派の論を持ってくるというのは というか別な教えを持ってきて氷解するというのであれば畢竟何でもありとなってしまいます あくまで仏教の枠内で解決すべきであり、それが出来ないのであれば少なくとも原始仏教の十二支縁起におあてアートマンの入る余地はないということになります また十二支縁起で入る余地がなかったアートマンが解脱して涅槃に入ると現れるというのもやはり納得がいきませんw 涅槃というのは結果としてであろうが在るとお釈迦様が言ってる以上は法(存在)です とりわけウダーナで説明している涅槃はおそらくは想受滅の境地でこの境地も法(存在)です 別な一切ーーありもしないものーーではありません また我があるというのが我見であり貪瞋痴であり無明である それを滅すると涅槃に至るというのが一般的な仏教理解だと思います >唯識では何故想受滅を無為に入れたのか [ 唯識 想受滅 無為 ] で検索 唯識初歩: 心を見つめる仏教の智恵 - 120 ページ - Google ブック このリンク先を見ると 妄想ではなくて 真実の不動無為 真実の想受滅。を前提としているようでつね >>508 情報ありがとうございます 早速読みましたがやはり滅尽定と受想滅の違いは分からなかったもののw 無為は真如でありそれらを便宜的に六つに分けて六法ということでやはり、とw それらは心解脱と慧解脱を更に細分化したとも言えるのかも!? では 世親のアートマン批判 http://nbra.jp/publications/71/pdf/71_24.pdf こんなのを見つけましたがこれ読みながら寝るとしますw >>507 失礼しました、私の勘違いです。 そういえば、なんかの本か論文でその違いを一瞥した記憶があります。 junkie- ooyama.師匠としては 滅尽定 想受滅 の違い何だと思いまつか? おじゃる妄想としては >>467 こんな感じでおじゃります m(_ _)m 説一切有部 有為法 心不相応行法 〜 無想定・滅尽定 唯識(法相宗) 有為法 心不相応行法 〜 無想定・滅尽定 無為法 想受滅 無想定 〜 第六識まで 滅尽定 〜 第七識まで 想受滅 〜 想と受を行じ無い(=無為)事 >>511 間違っていたら済みません。 想受滅定とは滅尽定の事で、無為法に分類される想受滅とは別ではないでしょうか? 説一切有部 有為法 心不相応行法 〜 無想定・滅尽定 唯識(法相宗) 有為法 心不相応行法 〜 無想定・滅尽定 無為法 想受滅 無想定 〜 定により第六識まで滅することが可能? 滅尽定 〜 定により第七識まで滅することも可能? 想受滅 〜 想と受を行じ無い(=無為)事、想も受も行わないときに(無為=真如)あらわれる。 >>513 (間違ってたら、訂正・修正していく。ということで) とりあえず 真如ということで ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m ご参照下さい 「想受滅は(中略)滅尽定の想・受の滅を云うのであって」 「想受滅は滅尽定にお いて想受が滅して無作用となっている法性を云うのである。」 (無為法について/水野弘元 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/1/10_1_1/_pdf/-char/ja ) ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/1/10_1_1/_pdf/-char/ja 無爲法について 水野弘元 … 想受滅は滅蓋定において 想受が滅して無作用となつている法性を云うのである ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A 大乗仏教における滅尽定の解釈 … 無相の心定(想受滅?) 滅受想定から出定する際の観であると解釈されている にゃるほろ =^・ ・^= (やはり?)そういう感じなんでつね? ttps://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E7%9B%B8%E5%94%AF%E8%AD%98-1425138 無相唯識 見るものと見られるものの区別を失った絶対知が得られる ttps://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13 無相唯識 「心の輝き」は真実であるとします ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93 そして 何処の誰が。解脱智見するのか? 何処の誰が。涅槃に戻る帰るのか? >>476 >が、てめぇの説明からは、 ああした分類(表記)しかできねーんだよw それくらい、異質な説だということ。 エッ、水野氏の解説がか? 用語解説の辞書で書籍タイトルは『仏教要語の基礎知識』なんだけどね? まっ、それくらいあなた方の知ってる平均的な仏教理解というものが間違いだらけという証拠なんだけど。 >>478 >そのような「真我」の存在の仕方、我々の現象界へのかかわり方・影響の与え方は、どのようなものになるのか、 >ちゃんと説明できなきゃ、表に反映のさせようもなかろ?w 残念ながら、ゴータマはそういう解説はしなかったの。 「やればわかる」という実体験主義なのであり、理解できない今の段階であれこれ論じるような無駄については却下された。 涅槃を体験したときにすべて氷解する、と。ゴータマが語ったものは「無明」の一言だけでしょ。 尚、ヒンドゥーには近代アヴァターたちの体験に拠る説法が在る(現・仏教僧には体験を説法できるレベルの者はゼロ)。 そして、神智学には膨大にして理論的な詳細解説が提供されているので、それらのすべての疑問は解消されます。 * とにかく...私が言いもしないことを勝手に私が言ったかのようにしないでもらいたい! でないと、ズ〜と後々になってから、“宝珠が言ってたのがコレだ”という話に摩り替えられるネタにされるから。 (早々に、「幽体」とか消しといてね!!) >>485 >ワシが2chで頭を下げるのは一代だけだw 確かに、2chきっての最大の鬼才でした。 著名な学者にして、たった独りビルマ等々の南方にて修業し、大乗〜密教まで修めた阿闍梨。 すべての仏教が素晴らしいとして、経文の一句一句すべてを完全に信じ切った仏教への愛が止まない熱烈な信仰者でした。 私も、その熱意には心から敬服します。 その一代が、 仏教学修のためにと最も推奨していた書籍のナンバーワンがこの水野『要吾』なんだな。 しかし、あの方が分かるのは“イイ本”ということだけ。 あの方が推奨した書籍を私は4冊購入した。確かに、あれほど力説するだけあって内容の濃いものばかりで満足していますが、 その内の二冊、この水野『要吾』と一代が仏教学の天才だと評した石飛氏の書籍は、 一代にとってはとても都合の悪い主張を展開するものだったわけです。 あの方はイイ本ということだけがわかるのであり、その内容は思い込みの盲信で読むから誤読だらけですよ。 そして、この水野『要吾』というのは、私にとってはトラブルで消失してしまっていたものであり、 元々、私が18歳当時から所持して読んでいたものです。 >>506 >原始仏教とは違う、--略-- >というか別な教えを持ってきて氷解するというのであれば畢竟何でもありとなってしまいます 言いたいことは分かりますが、 私の説明は(その中身としては)別に原始仏教の内容とは相反してはいないのですが・・・。 >あくまで仏教の枠内で解決すべきであり、 仏教しか知らない人には無理があるといことか... けだし残念です。 >原始仏教の十二支縁起におあてアートマンの入る余地はないということになります >また十二支縁起で入る余地がなかったアートマンが解脱して涅槃に入ると現れるというのもやはり納得がいきませんw 当り前の話ですよ。 十二支縁起のプロセスの中でアートマンが見出される筈がないでしょう。 アートマンを理解してないからそういうことをいうのです。 だから、無為法は一切法の中にはないといってるのです。 >とりわけウダーナで説明している涅槃はおそらくは想受滅の境地でこの境地も法(存在)です >別な一切ーーありもしないものーーではありません たから、ブッダの教説の中では入ってないじゃないですか。 仏典経文中に入っていることを示す文句があるのなら出して下さい(絶対にないから!) 無為法は一切法とは別なのであり、ただ勝手に無為法を一切の中に入れた張本人(テーラワーダ)の話や、 その影響下にある諸派〜大乗の理論をみて“やっぱり入ってる”とかやってたら無意味でしょ。 それは混乱するだけです。 >また我があるというのが我見であり貪瞋痴であり無明である >それを滅すると涅槃に至るというのが一般的な仏教理解だと思います 確かにそう。そりゃ〜一切(有為)にはないでしょう。 また、間違ってアートマンでないものをアートマンだと勘違いしてるバラモン行者たちの主張(『梵網経』) を正しいものと解することも不可に決まってます。 それらを在るものと思い込んでの修行もまた不要な想いの捕らわれになるから。 >>481 論破済なので諦めたほうがいいと思いますよ。 ただ同じことの繰り返し。書籍画像も内容繰り返し...(書籍大杉だわ)。 やればやるほど、自分(長老)の無知のレベルのほどをただ露呈するだけです。 チャクラが妄想ね....。はい、エーテルレベルの視力すらも獲得してない証拠ですから。 分かる人はそういうことは言わないから。 チャクラが霊視できる導師は、弟子の進歩の度合いは弟子のチャクラを見ることで判断する。 だから、嘘や誤魔化しは一切通用しないのです(今の感情状態から肉体の状態まですべてが一目瞭然)。 >>519 ヒンドゥーを知らない人しかヒンドゥーを馬鹿にしないから。 実際、その滅尽定が外的にはどうなのか知らないのでしょう? ヒンドゥーにおいてはこの近代でも、滅尽定レベルを現実に示せる人が何人もいる。 現・仏教界にはいるのかな? 自分で心臓くらいは好きに止めれるレベルの人は??? いるのならその名前、個人名を出せますかね? 上で貼られたリンク。(選集二巻の教理研究にも収められてるけど) 印度学仏教学研究 10(1), 1-11, 1962-01 日本印度学仏教学会 ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/1/10_1_1/_pdf/-char/ja 以上によつて、阿含における無爲は、三十七菩提分等の修行によつて到達される涅槃であり、 それは三毒その他一切の煩悩が滅しており、執著なき清浄解脱の境地であり、 不老不死なる堅牢不壊のものであり、無苦安穏にして、究極の理想境であることが知られる。 それではそれが無爲と云われるのは何故であろうか。 その参考となるものとして、自説経や如是語経に、無爲の語と共に、 不生ajAta・不成abhUta・不作akataの語が用いられている。 つまり無爲とは、 因縁等によつて発生せず、爲作されることのなかつたもの、因縁等と關係のないもの、 ということになる。 これは無爲の反對としての有爲が、因縁によつて作られた現象の法を指すことによつても知られる。 しかし原始佛教では、無爲をぱ有爲としての現象に反するもの、 即ち永遠の存在としての本髄というようなものとしては、 絶封に説いていない。 本髄的存在は繹尊によつて、我(attan,Atman ) として拒否されているからである。 それでは無爲をいかに解すべきであろうか。 >【有爲としての現象に反するもの】【としては】【絶封に説いていない】 >【本髄的存在は】【我(attan,Atman ) として拒否されているから】 水野大先生の有難いお言葉である。 恐らく無爲asaNkhata, asaMskRta とは、行saNkhAra・saMskAra による 爲作を離れたものという意味であろう。この場合、行にも廣狭種々の意味があるが、 今は十二縁起の第二支における行と同じく、 善悪の行爲及びその余力として、輪廻を起す原動力と見てよいであろう。 從つて行は善悪業や輪廻業報に關係したものであつて、 行による爲作を離れている無爲とは、因果業報に關係しないものと云えるであろう。 ところで善悪業や輪廻の行われる所が三界世間であるから、 無爲は三界世間を超え離れた出世間に属すると見られる。 しかし世間を超えていると云つても、三界の外にあるものではなく、 世間の中にあつて、世間的な業や輪廻を超えた解脱の状態を無爲と云う。 云わば無爲とは存在ではなく、さとりの状態であり、覚者の態度を指すものに他ならない。 それは要するに涅槃と同じである。 >【三界の外にあるものではなく、世間の中にあつて】【解脱の状態を無爲と】 >【存在ではなく】【状態であり】【覚者の態度を指す】 >【それは要するに涅槃と同じである】 >>524-525 仏教的には、無為涅槃は「存在」ではないからね。 仏教でいうところの「存在」の定義を確認すればわかることであって、 別に異論なし。 永遠の存在ではなくて、永遠の「境地」だな。 つまり、視点が違うのでしょう。 ゴータマは、「アートマン在り」とは言いたくないのだから(無記の理由です)、 あとは分かる者にだけ意味が解れば、別にそれでいいということになるのかな...。 つまり、 涅槃を覚知している主体がアートマンということなのであり、 涅槃という境地がアートマンということではないのだ、とね-----宝珠理解ではだが...。 だから、ゴータマの姿勢では涅槃にあるものは「わたし」ということができるのだと。 (SNT,3-5 )>>380 参照のこと ●水野大先生の有難い総評!! 『この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく知り、それを体験することによって、 理想が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如の境を涅槃の語によって呼んではいないけれども、この境 地は「非ず、非ず」(neti neti)と云われているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境であるとせられているから、 実際には仏教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。(p126-127)』 (水野弘元著『原始仏教』02年第16刷/平楽寺書店) >>525 >【三界の外にあるものではなく、世間の中にあつて】【解脱の状態を無爲と】 >【存在ではなく】【状態であり】【覚者の態度を指す】 >【それは要するに涅槃と同じである】 Sankhârâ sassatâ natthi. 現象には常住、永遠、実体、といえるものはありません。 一切は因縁により一時的に現れる現象なのです。 因縁の働きを発見して、一切の現象に対する執着を捨てることを語っているのは、ブッダだけです。 ですから、仏教以外、現状では解脱の道を語る宗教はありません。 ヒンドゥ教などで語っている真理の境地は、「現象の世界の裏」なのです。 一つである真理の裏と表の考えなのです。 仏教の涅槃は、現象の世界の裏ではありません。 「無常の裏に、無常でない涅槃がある」と言わないのです。 「涅槃の境地」と、「仏教以外、解脱に達する道はない」ということは、我々の理解能力の範囲を超えているのです。 ですから、今月の説明はとてもわかりにくいと思います。苦労して理解しようとしても、その理解も知識の一つになるので、現象でありパパンチャなのです。 実践して経験する以外、涅槃について語れないのです。 大般涅槃経でお釈迦さまがこのように語ります。 「涅槃に達するためには、四聖諦を体験しなくてはならない。その四聖諦を語っているのは、仏教だけです。 解脱に達するために八正道を実践しなくてはいけない。これも、語っているのは仏教だけです。 だから、第一の覚者も、第二の覚者も、第三の覚者も、第四の覚者も、仏教にしか現れないのです」 と。 http://www.j-theravada.net/howa/howa148.html >>527 でスマ長老の言ってることは >【三界の外にあるものではなく、世間の中にあつて】【解脱の状態を無爲と】 >【存在ではなく】【状態であり】【覚者の態度を指す】 >【それは要するに涅槃と同じである】 と大体同じだということ >>524 の >【有爲としての現象に反するもの】【としては】【絶封に説いていない】 >【本髄的存在は】【我(attan,Atman ) として拒否されているから】 これとも同じだわ ttp://www.onedhamma.com/?p=5136 魚川祐司氏:山下良道僧侶:藤田一照僧侶 たとえば↑この podcast法話の場合は 無為法は 「縁起している」ではない。を前提としているので それゆえに 魚川祐司氏 「無為法の世界から → 縁起している世界を見れるのか?」 山下良道僧侶 「無為法の世界から → 縁起している世界を見る。という不思議なことが起きる!」 _ _ _ たとえば 中観帰謬の場合は 世界観を一変させるほどの強烈な(あるいは絶対的な?) 変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)も 「手放しせよ!」と云うことになるかもしれないけど ジャンキー、仮面レス頑張っているなあ、本性出さずに。 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83 説一切有部などでは 涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられた 経量部などでは 涅槃は煩悩の滅した状態を 仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた 大乗では 常・楽・我・浄の四徳を具えない 部派の涅槃を有為涅槃とするのに対して この四徳を具える涅槃を無為涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする _ _ _ にゃるほろ =^・ ・^= 涅槃は 有為法なのか? : (絶対的な)無為法という世界なのか? これを見ると(やはり?) 「インド思想の”強い癖”?」という感じがする おじゃる >>526 >別に異論なし いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや、 異論の権化でしょうが、貴方の言い分はw まったく正反対の意見にしか見えないけど?www 端的に言おうか。 「境地」なるもの(≒意識の状態)が、 無始劫来の太古から、存在し続けるという「ことわり」(法・理)があり得るのか?と。 *一在家相手のポッタパーダ経の時のような意味で。 (長野の竈と鹿児島の竈、油を水底に沈め、大岩を湖底から空中へ浮遊させるが如き”ことわり”が) >無為涅槃は「存在」ではないから ちなみに問う。 存在ではない、2500年前のAさんの境地と、西暦2018年のBさんの境地は、同か異か? >涅槃を覚知している主体がアートマン 更に問う。 存在ではない境地を知覚する”ソレ”は、存在するのか存在しないのか? ああ、 リンク先のリンク先の元レス、全部コピペした方がいいかなぁ・・・ 何度同じ指摘をしてきたことか・・ ┐(´ー‘)┌ 一個だけ貼っとくか。 参考に。 274 旧7 sage ▼ 2009/07/12(日) 18:56:40 ID:zCn+3f+Z [7回目] 1:不死と言われる理由 → 《凡夫としての》《輪廻の中にある生死》が無い。 仏、阿羅漢、如来には「死」がない。 何となれば、≪「死」は、因により縁により生じる「果」であるから≫。 仏や阿羅漢、如来には、「死」があるのでなく《「(五)蘊の滅」があるのみ。だから「不死」。》 《「輪廻の中にある“次の生”」が無い。だから「不生」。》 ※「“不死”だから“常住”」ということではない※ 2:主体が不要である理由(涅槃もまた無我であると言われる理由) → 完全なる寂滅の境地であるが故に、 そこに、≪「誰それ」という個別性はない≫≪「誰それの涅槃」というものではない≫ 完全なる寂滅という「一色」「一味」であるが故に、 そこに「アートマン(という個)」はありえない。 3:常住である理由 → 生じたのでなく、作られたのでない寂滅は、 「一切の作用が止滅した」境地であり、生じるでもなく、 またその寂滅という境地が滅するでもなく、 何かによって(たとえば“主体”“アートマン”等によって)維持され継続されるのでなく、 縁によって生じ滅するものでないから、常住である。 (・・・・・後代の「自性」との共通性有。) 《所縁のものでない》から常住と言われる。だから(「不生」であり)「不滅」である。 ※「“不死”だから“常住”」ということではない※ 4:常住であることが、主体(アートマン等)を必要としない理由 →>>165 及び上記2から、主体が要請されることはない。 また、3にあるように、所縁のものでないから常住たりえているわけだが、 (・・・消極的常住?www) それは、一切の、完全なる寂滅であるが故であり、 《何がしかが常住たらしめている》のではない。 (・・・積極的常住?www) もしそうであるなら、それは(互いに)所縁のものとなってしまうだろう。 たとえば 「…である」と定義することはできない 『「…である」ものではない』に依存しているのなら 涅槃ではなく >(互いに)所縁のものとなってしまう 仮設としての縁起に働きかけている サーンキヤの場合 (絶対的な)プルシャからの → プラクリティ (縁起ではない)プルシャからの → プラクリティという 「インド思想の”強い癖”?」という感じがする ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81 密教においては 仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる 衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる 9年も前から… 宝珠氏が立ち上げられたこのスレの住民になるということはそういう泥沼に陥る覚悟が必要というのがよく分かりましたw 私には無理なのでドロップアウトします ああ・・・・ ↓のやりとりは、今のこのスレのデジャビュだわ・・・w orz 〔「無為なる意識?」 URL集〕 仏教 議論スレッド その3 http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/643 つか、水野論文もw http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/491 > 「無為法について」 水野 弘元 印度学仏教学研究 10(1), 1-11, 1962-01 > これ↑が読めるといいんだけどなw PDF化されてない。 > 選集第2巻(p407-424)には収められているんだが・・。 > 今の流れに“ぴったり”該当する箇所も(幾つか)あるが、 > 引用するにはちょっと長いw (キーボード打つのも面倒だし・・w) > さて、どうしたものか・・・ (;´ー`)y━~~ ↓無爲法について 水野弘元 ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/1/10_1_1/_pdf/-char/en 説一切有部を代表とする部派佛教、 及びこれをうけた喩伽行派では、 三切法を 色法・心法・心所法・心不相慮法・無爲法の 五位に分類するようになつた。 この分類は、原始佛教では全く知られないものであり、 部派時代の阿毘達磨において、始めて現われたものである。 しかも阿毘達磨の初期時代には五位が明確でない。 説一切有部の阿毘達磨についてこれを見るならば、 五位の分類が明示されているのは、 七論中でも最後の獲達段階に屡する品類論においてであり、 パーリ佛教では七論や註繹書にもこの分類はなく、 後世の綱要書に始めて出ている程度であり、 また舎利弗阿毘曇論は五位をはつきり分類していない。 然し五位の要素となるものは、諸部派において、 初期又は中期の阿毘達磨時代から、 部分的には掲げられている。 >>543 どーしたぁ? お〜〜〜〜〜ぃ(涙目) ホント...もうすぐ十年なのか.. (コレ全部、セブンが悪いんだよぉ〜) >>533 はい、修正再upお疲れさ〜ん♪ まぁ..「幽体」が消えたから取りあえずは良しとしますけど (しかし、十分に納得する図ではないから)。 とにかく“私(宝珠)の提示したものではない”ということだけは明確にお願いします。 あくまでも、あなた(セブン)の理解によるものです。 それと、一つだけ感想意見です。その「初期の構図」というのは、 何かまるで「初期仏教」であるかのような印象を受けるものなので良くないと思う。 「部派的構図」というのがその下にあれば、尚更のことです。「一般的理解」とか何か他の名称にすべきかと....。 まっ、わたしが作成した作成資料ではないので任せますけど。 >>539-540 何も... そういった仏教的視点というものについては 必ずしも私も否定しない。 特には、否定しないでおくから(笑顔) >>542 >いずれにしても、これまで及び今後の宝珠への反論も、上記及びその上のリンクで120%賄えるものであるw どうして、そうも強気で居られるのかが不思議。 強がりなのか...意地になってるのか...それとも? あの〜〜もう、決着はついたと思うけれど? たとえ気に入らなくても、それがゴータマブッダの教え方だということ。 少なくとも、仏典上の記述ではそういうことになるのだから、もがいてもショウガナイでしょ。 要するに、 一切法(有為)の中には涅槃(無為)は入ってないから。 であるから、元々から現象界を超越している無為的性質であるアートマンに対して、 テーラワーダ信者が執拗に長老の説法書籍を提示してるけれども... それら有為法の縁起やら、無常やら、無我/空...やらの理論などまったく通用しないのだということ。 そして、ゴータマは「アートマンが無い」とは述べたことはなく(そういった存在論そのものを扱わないから「云わない」)、 単に、「非我」としてアートマンではないものをアートマンと見なす愚を戒めているということに過ぎないから。 「アートマンは無い」そのものが存在論なのであり、そういうのが部派のアプローチなのです。 本来、ゴータマの教説にはなかったものを勝手に「無い」ということにしたのが彼らです。 それが彼らの至宝『アビダンマ』ですよ。彼らは自分らの部派論書を読み、 それに帰依してるのです。仏典にではない。以降〜すべての仏教諸派はその影響を受け、 伝統と称して二千年間、それを伝承してきたのです。 こうして真実が明らかとなり、また一歩、真理へと近づいたのです。 気持ちを切り替えて互いに邁進しましょう。 以上にて、論決 >>550 へぇ・・ 「涅槃」は、「法」じゃないんだw インド思想に於いて、「法」以外に何があるんだろうか? (´・ω・`) 百歩譲って、「縁起する諸法」ではない、という意味で、「一切法(”壊”法)」に入ってないとしても、以下添削w × >一切法(有為)の中には涅槃(無為)は入ってないから ↓ ○ >一切行(有為)の中には涅槃(無為)は入ってないから >少なくとも、仏典上の記述では この辺も、 方が、一在家並みの裏読みをしてるだけで、 一代始め諸氏から山ほど提示されてきたろうに・・・w どこ読んでんだか・・ ┐(´ー‘)┌ >>537 では、コレは応えておきます。 >端的に言おうか。 > 「境地」なるもの(≒意識の状態)が、 > 無始劫来の太古から、存在し続けるという「ことわり」(法・理)があり得るのか?と。 そういうものなのだからショウガナイでしょ! 文句をいうような話しではないから。 この世界はあなたが作ったものじゃないからね (あなたの思い通りのものではない) ! では、逆に問うわ。ならば、縁起の法はいつから始まったの? そういうこととまったく同じであり、それは云わば“無始の初めから”であり、 そして、また無記時な性質のものになる。 それらの「法」そのものが無始の初めから永遠に続くものだとして、 「法」そのものを永遠の存在としたのが「説一切有部」でしょう。 その視点はいいのだけれど、「存在」にしてはいけないというのが仏教ルールなんだな。 涅槃の境地は永遠であり、それを覚知してる意識(主体)も永遠だ。 で、最大の不思議ミラクルといえる涅槃に達して悟るものというのは、 もともとこれが本来の自己意識だったのだと初めて自覚することにある。 まっ、その辺はシャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』を読めば詳細ですよ(仏教枠では無理か...。 >ちなみに問う。 >存在ではない、2500年前のAさんの境地と、西暦2018年のBさんの境地は、同か異か? ん、涅槃のこと??? 涅槃にあるものの意識というのは、個のものでありながら個の垣根を超越しているのです。 つまり、あなたAとわたしBという分離も消えるし、物質(岩石)とわたしという分離すらもなくなる。 すべてのすべてが自分であるという理解も生じる。 尚且つ、そのまま自分という個も理解してる、と。 〜ということ、らしいですよ! >更に問う。 > 存在ではない境地を知覚する”ソレ”は、存在するのか存在しないのか? ヒンドゥーの説く“唯一なる実在” は、(涅槃後は初めて「わたし」ということができる) 『なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、 「わたしが語る」と言ってもよいでしょう。』(SNT,3-5 )の自己のことです。 ただし、仏教的にはそれを「存在」とはいわない。 何故ならば、それは「存在」という言葉の定義を超えたものだからです。 重要なことは、決して「無い」という意味ではないということ。 >>551 涅槃は「無為法」という「法」。 しかし、無為法は「一切法」の中にはないから。 そんなに「法」という言葉が好きなら、ではこうならばどうよ.... 図表.3 ---------------「法」------------ 「一切法」 | 「涅槃」 (有為法) | (無為法) -------------------------------- * 「行」はこの場合には限定意ではないと水野氏の解説にて説明済です。 そのことを一代がわかってるわけがないしょ。テーラワーダに洗脳状態なのだから! 諸行無常:すべての現象は、無常である 一切行苦:色受想行識も苦なり 諸法無我:すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである この場合は 有為法 仮設としての 我である。という『想い』も変化している 無為法 我である。という『想い』ではない (「…である」ものではない。という『想い』ではない) で結局のところ すべてのものごと(法)に 無為法が含まれるのか?ということで ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%86 一切法 一切が「縁起した存在」つまり有為法に限定されるのか、無為法をも含むのかなど解釈は一定ではない _ _ _ _ _ _ 「…である」ものではない。という『想い』を超えるための (アートマン。という『想い』を超えるための) 想う。という『想い』も手放して 想わない。という『想い』も手放して 非想非非想も手放して(超えて) : 涅槃寂静みたいな感じ? >>555 の続き 六師外道だったかもしれない? ウッダカ・ラーマプッタ師匠からの 『「…である」ものではない』を手放すための法を (アートマン。という『想い』を手放すための法を) 瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす瀉瓶のように 釈迦が受け継いだのかもしれない? ttp://suttanipata.com/ae-2/ 874 注釈 四無色定(非想非非想その他諸々) のちの教義を適用した趣がある かもしれないけど? 無自性なるものが真理を語ることができるであろうか^ ^ Dharma(dhamma,法)・artha(attha,義)・もの・こと ――仏典和訳の語彙体系の構築試論―― 村上 真完 印度學佛教學研究 62(2), 841-833, 2014 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/62/2/62_KJ00009296635/_pdf/-char/ja 法(dharma)と存在(bhava)と存在しているもの(sat) 村上 真完 印度學佛教學研究 60(2), 892-885, 2012 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/60/2/60_KJ00007978330/_pdf/-char/ja こっちだったw スッタニパータ 21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、 激流を克服して、 (縁起している世界を手放して超えて) すでに渡りおわり、彼岸に到着している。 もはや筏の必要はない 874 (縁起している世界を手放して超えているのなら) …想いを消滅した者という『想い』でもない このように理解した者の形態は消滅する (円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照して 平等性智をもって正見したときに) けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起る ということが信解円通する? ttp://www5.kcn.ne.jp/~kannon/buddhism/MiniSermon201109.html 信から入って解という土台をつくる道がありますし 解から入って信を得るという道もあります ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/60/2/60_KJ00007978330/_pdf/-char/ja 法と存在と存在しているもの … わが身, 自己, 自分自身, 主体 さらには自我を意味する一般に周知されている 我(アートマン, 魂, 霊魂) という語があるにも拘わらず 「我ではない」「私の物ではない」とは説いても 「我がある」とは明言しない ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf ウダーナヴァルガのギルギット写本 … 縁起したものを離れることがある』とブッダは説く … ブッダは そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも 死ぬことも、生まれることも説かない それこそが苦しみの終わりである _ _ _ 『「…である」ものではない』という法がある (『「縁起している」ものではない』という法がある) とブッダは説いているようにも見えるけど? 204. chanda-rāga-viratto so, bhikkhu paññāṇavā idha. 意欲からも貪りからも離れた、智慧のある修行者は、ここに ajjhagā amataṃ santiṃ, nibbānapadam accutaṃ. 不死・平安・不滅なる涅槃の境地に達した 智慧のある修行者=真理を見るもの 涅槃の境地=不死・平安・不滅 スッタニパータ によるとこうなる^^ 明解やな・・^^ 智慧のない修行者が・・あーだーこーだー^^ 有為だー無為だーと叫んでいるだけ^^ 不死・平安・不滅の境地^^ 智慧のある修行者か・・・^^ すんばらしい^^ 不死というのは死なないんじゃなくて死と同化してるんじゃないかな・・^^ 生死即涅槃とか・・^^ 体が消えまわりの景色に溶け込んだことがあったがその境地だろうな・・^^ 何故ならば、 『涅槃』は、 『有( Skt.bhaava≒有為法 )』と、 『呼ばれることはない!』、 『有』とは、 則ち、 『老死の相である!』。 『有』という、 『法』は、 『老死の相』を、 『離れる!』ことが、 『無い!』。 解りやすい^^ 復た次ぎに、 若し、 『涅槃』が、 『存在する!』ならば、 『涅槃』は、 『有為ということになる!』が、 終に、 『一法』として、 『無為である!』者は、 『存在しない!』。 なるへそとなる^^ 答え、 諸の、 『因縁』を、 『受ける!』が故に、 『生、死』中に、 『輪転する!』、 諸の、 『因縁』を、 『受けない!』ことを、 『涅槃』と、 『称する!』。 うわっ^^ 因縁解脱きたな・・^^ とこうなる^^ まぁ・・龍樹ちゃんの言ってることが正しいとは限らないけどね^^ ふ〜〜ん^^ という軽い気持ちで読んだほうが正解^^ 龍樹ちゃん涅槃の境地に達したことあるのか?という気もするが^^ 1レスで済む話をダラダラ書き込む人間に碌な奴はいない。 ttp://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm 仏教の思想的土壌 ウパニシャッド … 名称と形態(現象界)の展開 かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって [現象界の]名称と形態をはっきりと展開した _ _ _ スッタニパータ 872 名称と形態とに依って感官による接触が起る 諸々の所有欲は欲求を縁として起る − これを対処するために − (かの神(=有)の生命を与えるアートマンも手放して超えて) 欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない 形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない 中論 献呈歌 何であれ依存的に生じたものは 独自の性質がない それ自体の自性。という法も『手放して』超えて それ自体の自性によって成立しているのではない ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html チベット ニンマ派 すべての事象は独立してではなく 原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています (かの神(=有)の生命を与えるアートマンも手放して超えて) 無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません 1レスで言えば^ ^ 現象界の真理を悟れば身も心も寂滅するんだろうな^ ^ 個からの解脱かー^ ^ 無我の境地に必然的に至る^ ^ 簡単に言えば執着が消えるということやな^ ^ そう言う意味で因縁を受けない涅槃の境地に至るかもしれん^ ^ 585.因縁を受けない涅槃の境地、か。 因縁が吹き荒れているからして、涅槃の境地である。 私は墓の中で眠っていることはない。 因縁がなければ、涅槃もない。輪廻がなければ、涅槃もない。 >>585 六道に落ちた亡者では生涯無理にゃん♪ 六道地獄に (-∧-)合掌・・・ >>585 【警告】 あなたは条項2.に抵触しています。 スレを無駄に消費するので以降は注意を願います。 守れない方の参加は堅くお断りします。 >>519 部派のテーラワーダ長老信者へ >>523 追記: では再度、確認させてもらいますから。 テーラワーダ(南方全体でいい)には今、その滅尽定レベルを現実に示せる人というのはいったい何人います? それは何派で何という寺院にいる何ていう僧侶ですか? その方の個人名をここに上げて下さい。 そして、できればその人について知れる情報源をここに提示願う。 もしも今いないのであれば、それは近年のいつの何処の話ですか? あなた方はヒンドゥーのやってることはすべて“妄想の類”だと馬鹿にしてるよな? 大乗についても同じく然りで、それらは非仏説でヒンドゥー化したダメ仏教だと。 そして、自分たちだけが唯一、ブッダ直説のパーリ仏教なんだとか自信満々に豪語してる。 ならば、もしもそこまでいうんだったら当然、その本物とやらのレベルの違いを示せますよね? だから聞いてる。心臓くらいは自分の意志力で好きに停止できるくらいの人のことをだ...。 いっておくけれども、 己れの無知を恥じること無く自ら露呈して、ヒンドゥー馬鹿にするのも大概にしておいたほうがいいぞ! 仏教瞑想ですら、そのすべてが元々、バラモンヒンドゥーから学んだものだ。 すべてがヒンドゥーにあるのであって、ココこそあらゆる叡智の源泉そのものなんだから。 何? たしかヒンドゥーは有我論だから初禅レベルに過ぎない低い瞑想だとかもいってましたっけ? その低レベルのヒンドゥーには、近代においても滅尽定レベルがゴロゴロといる。 長老は、ラーマクリシュナも馬鹿にしてたけれども(長老の理解では、アートマンを語ればすべて低レベルだ)、 ラーマクリシュナ最愛の高弟スワミ・ヴィヴェーカーナンダは心肺機能完全停止の仮死状態で一週間後に意識を戻すといったことが何度もあった。 外的には完全に肉体死と同一の状態であり、彼らは自らの深い瞑想の境地によってそのような状態になるのであり、 そして、その定から覚めれば肉体蘇生して通常意識へと戻るわけ。 ヴィヴェーカーナンダは何度も、その境地のあまりの素晴らしい心地良さ(至福の境地といわれる)のために、 もう、そのまま肉体意識には戻って来たくないこと (それは苦痛であるから) を師に嘆願すると、 「この馬鹿者め!」と師であるラーマクリシュナからは、“肉体生存は義務である”と何度も叱られるといったことが続く...。 もちろん、二度と意識を吹き返さない場合にはそのまま肉体死を迎えることになる(それは本人の意志に拠る)...。 パラマハンサ・ヨガナンダも同じくマハー・サマーディ(同様の滅尽定レベル)のままで、 自らの意志で肉体を放棄しこの世を去った(若くして使命を全うしたことによる自殺)。 ヨガナンダはこのマハー・サマーディでヨーガの本物の科学的奇跡を示すといってから定に入った...。。 そしてその通り、ヨガナンダの遺体にはまったく腐敗しないという奇跡の不朽現象が示されたのです。 当然、ヒンドゥーにおいては今日もまったく同じであって、今も随所にそういう驚嘆すべきレベルの聖者が何人でもいる。 ということなので、仏教僧侶たちの状況について提示を願う。 繰り返しいう。 「ヒンドゥーを知らない人しかヒンドゥーを馬鹿にしない」 >滅尽定レベルを現実に示せる人というのはいったい何人います? ↓とりあえず有名な?上座部系の僧 ウ・ジョーティカ・セヤドー マハーシ・サヤドー サティア・ナラヤン・ゴエンカ パオ・セヤドー パオ・セヤドーの弟子の山下良道僧侶の場合は 阿羅漢道智によって余す所なく滅尽する時 五蘊もまた般涅槃の時に 余すところなく滅尽します 因縁滅を了知する智慧 因縁滅智 ↑ここまで4年掛かったらしい ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 上座部 パオ・セヤドー 因縁滅を了知する智慧 因縁滅智 世界の中には 因縁滅を了知する智慧まで逝っている阿羅漢もいると思うけど 日本には何人いるのかな?ということで ヨロ m(_ _)m >>592 の補足として 上座部 パオ・セヤドー ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/23/065209 … 一歩一歩修行する事によって 非想非非想処まで到達する事ができます その他の止禅業処の修行もできます その後に観禅の修行をし 各段階における観智を証します ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858 因縁生滅智 刹那生滅智 ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93 (どこの誰が?) 戒から定(三昧)を生じ、定によって智慧を得、智慧によって解脱に到達し、解脱によって解脱智見を知る 戒・定・慧・解脱・解脱智見 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3 ベトナム出身のティク・ナット・ハン マインドフルネスの普及活動を行なっている 日本の場合は 余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐? スマナサーラ長老の「聖者論」も面白かったです。 これ全部聴いてみてくださいね。MP3ダウンロード 「インドでグルと名前の名乗っている人のほとんど99,99インチキなんですね」 「インド人も言うんです」 「グルはいくらでもいるんですよ」 「本物はひとりもいやぁせんのです」 「だから、何で自分を宣伝するのかて、それが自我(エゴ)なんです」 いいですよ。スマナサーラさんの辛口は! 仲間だと思いました。 http://teruterulog.jugem.jp/?eid=420 ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349 大念住経(大念処経) (「仮設としての」という意味で) 地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある (最終的には、地水火風の微細な粒子も手放していく) ttp:// mor fov.blog 79.fc 2.com/blog-en try-62.html 現代のミャンマーで行われているパオ流の「四界差別観」 ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429 (上座部 パオ・セヤドーとかの場合は) 通常は、四界分別観から修行を始めなければなりません (ちなみに おじゃるには難しいので全く四界分別できない それゆえに 呼吸も 3秒も見れない おじゃる) ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 第一禅定を支える五つの要素 ヴィタッカ(尋) どこかへ飛んでいってしまう心を集中対象である呼吸に戻してくる要素があります 五禅支 尋(ヴィタッカ) - 認識対象把握 伺(ヴィチャーラ) - 認識対象維持 喜(ピーティ) - 喜悦 楽(スカ) - 安楽 一境性( エーカッガター) - 集中 空海『菩提分法是れ法宝なり』ということで ヨロ m(_ _)m >インドでグルと名前の名乗っている人のほとんど99,99インチキなんですね この論法でいくと 人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念 宗教・崇拝・信仰 科学崇拝・科学信仰 「仮設としての」という意味で 無明に依存しているのなら「99,99インチキなんです」 とりあえず↓一応、念のために 仏教は「他の宗教の信仰とは違う」という人も、いるかもしれないけど、それでも スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 明知が 信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである (他の宗教の信仰とは違うものであったとしても、それでも) 仏教には、仏教としての 信仰と念いと精神統一と意欲と努力がある という対機説法なので ヨロ m(_ _)m 591.そんな聖者にはなりたくない。 なんでか。 それは自己満足でしかないからである。 仏教はひょっとしたら カルトではないのか? 原始 小乗 大乗 密教と プラユキ・ナラテボー カトリック司祭ルベン・アビト教授に師事し… キリスト系とかからの → (チベットも含めて)上座部系へ という場合も結構あるらしいでつね ttp://www.onedhamma.com/?p=6674 (キリスト系) 柳田神父とかは ゴエンカ系そして 3.0とかもやっているようでつ いま現在の崇拝・信仰を手放して超えて 他の宗教の崇拝・信仰に移る場合もあるかもしれないので それゆえに 他の宗教の崇拝・信仰を批判しない方がよい場合もあるかもしれない ということで ヨロ m(_ _)m ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99 チベット (極力、幅広く?ということで) 根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から 大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教であり… ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC ヒッピー(今までの?)人間生活を否定することを信条とし… 仏教 の 「 無為 」 とは 何か ? ── アビダルマ の 犯した 間違い、その@ ── https://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/ed0c0059c84087c3ab1b06553b811c77 この和井恵流と言う人によると、 部派仏教で無為に対して「 永遠不滅 ( 恒常・不変 ) 」 という 解釈がされるようになり、お陰で無為を真我と同義であると錯覚するようになってしまったらしい。 本来は無為とは不可知であるはずなのに >後世の アビダルマ論師たち が 解釈 してしまっているような、 >「 無為 」 とは、 〈 因縁によって造作されないもの。生住異滅の四相の転変がないこと 〉 であり、 >〈 人為的に作られたものでないもの。因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実。真理。 〉 であり、 >〈 仏教では原因や条件 ( 因縁 ) によって作り出さたものでない、不生不滅の存在をいう。 >涅槃のことを 〈 無為 〉 というが、それは涅槃が生死輪廻を超越した、不変のものであることを表現した 〉 のである。 >… というような 諸々の 解釈 ( 定義説明 ) は、全て 、 誤謬見解 ( 迷妄 ) である ── と、断言 すること が 出来る のです。 となってしまったと。 だから、 シンプルに、 ≪「有為」でないもの≫「作られたのでないもの」(→「生じさせられたわけではないもの」) として言語化されただけで、特別なもの・ことではない、 (まさしく、無我が非我「an-attan、an-Atman」であるように。 ・・・a-sankhata、a-saMskRta ) と理解すれば、何の不具合も無い筈なんだけどね・・。 有為でない、という意味しか持たなかったものが、 いつのまにか『永遠なるもの』という性質を帯びてしまい、 終には、修行者が目指すべき本来の自我、真我と見做されていくw (なんという主人公、なんという本来の面目、なんという無位の真人w そうかぁ・・・臨済禅師も、実は神智学徒だったのカモナー・・・ ) ↓これでつかね? ttp://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku1.html 臨済録:その1 … 今の喝は無位真人(本来の面目=真の自己)に収まりそこから出ている _ _ _ 無住処涅槃を前提として 仏そのもの 仏性からの真如縁起をもって… ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1528362218/501 栄進師匠からの、お言葉 『本当の私、自分を探せ!』 _ _ _ 大乗 1.0の世界をもって 上座部 2.0を実践して逝く 3.0とかも 本当の私に・本当の自分に 如来我(仏そのもの)に戻る帰る という対機説法で おじゃりますので ヨロ m(_ _)m 道元 普勧坐禅儀 (本来自性清浄涅槃に留まっているのなら) そもそも仏法というものは 円満に全てのものにゆきわたっており 修行したり、悟り証したりすることもない >神智学徒だった? ttp://soto-tokai.net/cgi-bin/kotoba.cgi?page=41&bl=0 正法眼蔵生死の巻より - 曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター) この生死は、すなはち仏の御いのちなり この生死は(無住処涅槃を前提としてる?)仏の御生命であり… 道元禅師も? 神(仏も含めて?)とむすびついた神智学(theosophy)? 日本土着の神祇信仰(神道)と 仏教信仰(日本の仏教)が混淆し 一つの信仰体系として再構成(習合)された神仏習合? その当時の、インド・中国・日本とか(その地域)の 「…である」と定義することはできない 「…である」ものではない。という法もある というような『想い』も一応認めて 日本土着の神祇信仰(神道) というような『想い』も一応認めて、さらにその理解のうえで その結果としての、本来自性清浄涅槃? あるいは、無住処涅槃? ブッダゴーサ(清浄道論Visuddhi Magga) 『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。 結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。 単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』 ブッダゴーサはアートマンを認めてないのだろう 全ては現象であり縁起であり無常・苦・無我(空)であるとしている様子 >>598 あなたは「カルト」の意味を分かっていってます? 宗教や霊的がカルトということではないですからね! この日本では、「宗教」は公然のものとしてその信教の自由が認められています。 単に、「宗教」ということだけでは”カルト”などとはいわない。 ここに私が纏めたページがありますから、 それを読んでカルトの正しい意味を知ることです。 でないと、恥ずかしいことですから。 『宗教: 神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに対する信仰・行事。 またそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。(広辞苑第4版)』 宝珠編著:「カルトの特徴とは」 http://houjugusya.web.fc2.com/cult.htm >>592 情報ありがとうございます。 おじゃるさん、さすが調べるのが早いですね。 で、この私が知りたいのは、 ただ単に「滅尽した (する) 」といった言葉ではなくて、 それは、いつ何処で誰々といた際の出来事だったのか? そして、その時の周囲の状況や、最も肝心の瞑想者当人の状態 (特に肉体の外的状態の変化等々)についての詳細情報のことです。 何処かに、その情報や記録があるのですか? >>607 同じことはヒンドゥーでも説くよ。 あなたが知らないだけのことだ。元々、アートマンは行為しないから。 マハリシを学び『ギーター』を読むならあらゆる疑問はすべて消散する。 単に、部派に洗脳された上座部仏教の注釈者に過ぎない人間によるアートマン否定論などに価値などない。 ゴータマ・ブッダ同様、本当に解ってる者はアートマン否定などしない。 『人間の自我意識(アハンカーラ)がマーヤー(幻)である。その自我意識に幻惑された人は、「私は行為者である」と思うのだ。 自我という「私」が死ぬと苦しみは無くなる。もし【神の慈悲】によって、「私は行為者ではない」という自覚を得たのであるなら、 その人は生前解脱者になったのだ。その人にはもはや恐れるものなどない。』 (ラーマクリシュナ) 『行為する、あるいはしないについて心を悩ませてはならない。汝自身を知りなさい。行為とは一体誰の行為なのか、観察しなさい。 それは誰のものなのか。自然に行動してみなさい。行為する者がいる限り、行為者は行動の成果を刈り取らねばならない。もし彼が自 身を行為する者であると考えなければ、彼にとって行為は存在しない。そのような人間こそは、世俗的生活を捨てた行者なのである。』 (ラマナ・マハルシ) 『心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを捨てる。それゆえに、おまえは実修に専念せよ。(私欲のない)行為に熟達 することは、この(心の)実修にある。(2-50) 心の実修を修めた賢者は、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛を脱して、わずらいのな い境地(解脱)に到達する。(2-51) 行為はわたしに影響せず、また行為の結果をわたしは期待しない。わたしをこのように理解する者は、行為に束縛されることはない。(4-14) すべての行為が欲望や意図を離れた人、その行為が智恵の火で焼き尽くされた人を、智恵のある者は賢者とよぶ。(4-19) 行為の結果 に対する執着を捨て、常に心が満ち足り、他に依存しない者は、たとえ行為にたずさわっていても、なんら行為を行わない。(4-20) 期待を抱かず、心身を制御し、すべての所有物を捨て、身体のみによる行為(生理的行為または、なんら期待を求めない行為)を行う者は、 なんら罪過(輪廻)を得ることはない。(4-21) 行為の結果を期待せず、義務的行為をなす者、彼は遠離者サンニャーシンであり、実修者である。(6-1) パーンドゥの子よ、遠離サンニャーサとよ ばれるものは(行為カルマの)実修ヨーガであると知れ。なぜなら、意図を遠離することがないならば、いかなる者も実修者ではないのだから。(6-2) 実修にのぼろうとする者にとっては、行為がその手段とよばれる。すでに実修にのぼりついた同じ者にとっては、静寂(行為の止息)が (解脱を得るための)手段とよばれる。(6-3) なぜなら、感覚器官の対象や行為に執着せず、すべての意図を遠離するならば、彼は実修 にのぼった者とよばれるから。(6-4) 自己の本性によって規定された行為を行う者は、罪過を招かない。(18-47) 』 (宇野 惇訳『バガヴァッド・ギーター』) >>608 『イニシエーション』とは、 これは“文化人類学及び民俗学用語”であって 英語では一般に通過儀礼を意味するものとして使われます。別に神智学の専売特許ではありません。 西洋オカルティズムの系譜においては「秘儀参入(儀式)」を示すものとして、 これは近代神智学が発生する以前から西洋のオカルト世界においては広く使われてきたものです。 尚、神智学においては人類の霊的進化促成のためにハイアラキー(聖白色同胞団)の覚者方によって導入された内界での秘儀灌頂の儀式です。 1-2段階イニシエーションはMaitreya (仏教での弥勒存在)によって与えられ、3段階以降〜の高位階はサナート・クメラが司ります。 『アストラル』は、 パルケルスス(ヨーロッパ16世紀に活躍した医師にして錬金術・自然哲学者)から神智学へと流入した言葉で、 神智学においては情緒・感情の意味であり、普段は主に「アストラル体」(情緒エネルギーで形成される不可視の体/幽体)や 「アストラル界」(想念界/アストラル体が過ごす階層)などとして使われます。 間違いなく、この言葉を全世界に広めたのは神智学運動による功績であり、 現在では世界中のスピリチュアル組織において、 そして、ヒンドゥー関係においてもヨーガの説明のために導入されるケースが増えました。 とにかく、誤解を招くような発言は控えてもらいたいものです。 別に麻原教祖やオウム団体が神智学協会やその他の継承グループと交流したなどというものではなく、 彼が勝手に自身の教義を説明するための語句として神智学用語を多用したということ。 >>603 だから、アビダンマそのものが間違いなのです。 まっ、実際には「有為」「無為」という語句そのものがもビダンマ考案のものなのですが....。 そのサイト著者に対しては、「一切(法)」の中へ勝手に無為/涅槃を含めたのが部派である ということが理解されれば、別にそれですべて済む話だといいたい。 一切(有為)とは異なるものがあると説いたのもゴータマなのです。それが無為/涅槃なのです。 だから、『ウダーナ』経を読めばすべて済むことですから。 >>604 『「無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語として しばしば出ている。しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死 にわたらないということを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。 それを部派仏教では不生不滅の客観的事実としての存在として無為を考え、有為という存在に対するものとした。これは原始仏教 では説かない概念であって、仏教本来の立場を逸脱したものである。」(p145) 「原始経典に涅槃の同義語として、無為、終極、無漏、真諦、彼岸、微妙、極難見、不老、堅牢、不壊、無譬、無戯論、寂静、 甘露、極妙、安泰、安穏、愛尽、希有、未曾有、無災、無災法、無瞋害、離欲、清浄、解脱、無住、州(灯明)、避難処、救護処、 帰依処、到彼岸などの語が掲げられている点から知られる。 涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、---中略---しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、パラモン教では 古くから不死(amrta甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。」(p170-171)』 (水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) 「ある」と言っていないことを、「ある」という意図である、 と読み替えてる人間が、部派の考察を批判する『資格』も『権利』も『正当性』も、 どれ一つとして欠片も無いと思うんだけどねぇ・・。 いったいどれくらい厚い面の皮なんだかw >>宝珠 仏教には無為(法)があるから神も真我も肯定される。 仏教の無為(涅槃)は梵我一如と同じというような宝珠論には無理がある。 涅槃と梵我一如の境地は同じとする津田真一のような学者はもともと真言宗の住職だから そちらの方向に流れてしまうというのは分かるけどさ。 >>621 @仏教には無為(法)があるから神も真我も肯定される。 A仏教の無為(涅槃)は梵我一如と同じである。 というような宝珠論には無理がある。 >>594 そりゃ〜ダメ導師や偽導師もいるでしょうよ。沢山...。 けれど、「殆ど99.99インチキ」などとは悪口もほどがある。 ラーマ・クリシュナのレベルならそんなことはない (まっ、長老からみれば所詮はアートマンを口にする者はすべてインチキグル扱いなのだろうが?)。 ラーマ・クリシュナはNHK講義の教科書でも扱われるほどの世界的な評価の歴史的聖人の一人です。 受信料払いたくないからNHKは見てないのかな? >>621 >涅槃と梵我一如の境地は同じとする津田真一のような学者はもともと真言宗の住職だから なるほど...。 では、水野 弘元氏< 日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者にして駒澤大学総長を務めた同大名誉教授 > の場合は、曹洞宗僧侶(長崎県天諫早市『天祐寺』元住職)だから、 “涅槃と梵我一如の境地はそれ程違ったものではない”という評価に留まった、と? まっ、ヒンドゥーも学び神智学徒であるこの私からみれば、 津田氏同様に「涅槃と梵我一如の境地は同じ」ものとみますけれど。 しかし、そうではないあなた方が無理に同一だと見なす必要性はありません。 私があなた方にいいたいこととは、その可能性は残されるということと、 ヒンドゥーを有我論という理由で愚弄する行為は即刻、辞めるべきだということです。 それは無知に拠る仏教側の醜態的な恥晒しなのだから。 >>604 >実は神智学徒だったのカモナー・・・ 自分たちのミス(無知や誤解で勘違いしていたこと)を 神智学のせいにしたり、このわたしのせいにしたりしないでもらえます? 部派の教義を鵜呑みにして洗脳されていたのはあなた方の勝手ですよ (ちなみのこの私も仏教を学んだ当初はあなた方とまったく同じだった。 「アートマンなどは無い」、「ヒンドゥーでは解脱できないから仏教が在るんだ」、 「唯一の真理は仏教だけだ」と見なしていた。けれどもそんな間違った偏見などは約三年で気付いて脱却している)。 仏典(の記述)を読んでなかったあなたがた自身が悪い。 私がすでに論証したように、 最初から、すべて仏典の教えに忠実でさえあれば何も問題がない。 「一切」(「一切法」とは、一切の諸法則についての教えとその中における人間の正しい生き方、及び修行の在り方を説くもの) とは、「六根.六境/十二処」のこと。これは「五蘊」ということであり、「五蘊」は“厭い離れべき悪魔”であるとゴータマはいった。 「五蘊」は「無常」であり、「無常」であるものは「苦」(自分の思い通りにならないこと)である。 そして、「苦」であるものは「無我」(わたしのものではなく、わたしの本体でもない)であるといった。 “厭い離れべき悪魔”であり、「苦」だという「五蘊」(つまり、これが「一切」です)の中に、 仏教の目指すべき究極のゴールである「涅槃」が含まれる筈がないでしょう。 「五蘊」というのは、“五取蘊苦”とか“五盛陰苦” (五蘊/一切法に対する取著執着はすべて苦である-水野氏)として知られる。 そして「一切」は、“一切皆苦”(正しくは、「一切行苦」であるが、 この場合「行」は五蘊の「行蘊」に限定したものではなく一切法そのものを指している-水野氏)だといわれる。 “苦の滅”(苦悩から永遠に解放された安らぎの境地)である「涅槃」が、「苦」の根本要素である原因となる「一切」の中にある筈がない。 仏教のすべてのスタートは“四門出遊”のエピソードにある。 ゴータマが人々の“病→死”“老→死”といった姿を目の当たりにして衝撃を受けて、それらの苦悩からの救済を求めたことに始まる。 であるから、苦を滅した安らぎの境地である涅槃が一切皆苦の中にあるわけがないのです。 涅槃はあくまでも、一切法における修行の最終結果としてあるものであって、 その境地は、“一切とはまったく異なるもの”です。 それは“没することなく(終わりがない/永遠)、依り所のないもの。生起せず、所縁のないもの”。 そして、涅槃は「無為」(「有為」ではないもの)であるからこそ「有為」(現象界)からの“出離を覚知する”と教えている (当たり前のことですが、同じものならば出離を覚知しない。異なるからこそ出離を覚知する『ウダーナ』8.1-8.3)。 “涅槃とは無為”であり、 「無常・無我・無自性・空」(現象界の諸性質)ではないことが明らかになったのならば、 元々、現象界を超越しているアートマンを否定する根拠にはならないのは自明の理です。 仏教においては確かに、ヒンドゥーのようなアートマンは説かないが、 仏教が求めるべき“真実の自己”(Vin.Maha^vaggaT,13.p.23)、本来は煩悩に拠らない“心性清浄である自己”(AN 1.6)、 そして、『煩悩を滅して死の領域を超えた真人は「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 ) と、説かれたゴータマの教えがアートマン性質の核コア部分に相当することは素直に受け止めなければならない事実だということ。 従ってつまり、最終的な結論としては、仏教ではヒンドゥーのようなアートマンを説いていないからといって、 彼らの実体験に基づくアートマンについての教えを「妄想だの」、 「在る筈がない」だのということはできない(そういう発言は恥ずかしいから辞めなさい)。 まして、ゴータマが「アートマンは無い」といったなどというのは、 自分たちの無知からくるまったくの妄想に過ぎないことを恥じて早く自覚しなさい、 ということです。 あなた方が悪いのではなくて、 あなた方は部派教義に洗脳されしまった云わば被害者なのです。 その自覚が大切なのであり、心を落ち着かせて事実に対して素直になる必要があります。 さて、今でも麻原に拠って洗脳され続けている後継団体『アレフ』の現信者たちと、 あなた方では、どちらが先に洗脳が解けて真実に目覚めることができるでしょうか? citta = 自己、自我 とか、 citta = 真我、ましてや、無為涅槃だとか、 御笑い種だろw cittaは、縁起性の諸法じゃないのかい? (真我や無為涅槃は、制御されるようなものなのかい?) >>心性本浄 バカ宝珠はカルトの信者である。バカだからして、自分では理解できないのだよ。 >>624 >では、水野 弘元氏< 日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者にして駒澤大学総長を務めた同大名誉教授 > >の場合は、曹洞宗僧侶(長崎県天諫早市『天祐寺』元住職)だから、 >“涅槃と梵我一如の境地はそれ程違ったものではない”という評価に留まった、と? (正法眼蔵の)「仏性」で道元は「世界が1つの自我によって成り立っているというのは、外道の邪見である」と言います。 これはヒンドゥーイズム(インド思想)のブラフマン(真我)の否定です。 また道元は「仏性のことばを聞いて、修行者達の多くは、外道の唱えた永遠の我のように誤って考える」とも言います。 これもブラフマン(真我)やアートマン(真我)の否定です。 https://blog.goo.ne.jp/anandabhavan/e/f841f2ac08de31220754546e08838705 上記引用文のソースとなる正法眼蔵の仏性の章(↓) http://www.dogen-shobogenzo.com/bussho2.html その後曹洞宗は密教化してきてるし、 また中興の祖と言われた井上義衍禅師の思想も無我論者でありながらもどこか宇宙意識のようなものを認めているようでもあり、 道元の頃とは違ってきてると思う。 水野氏もその流れの中にいるのかもしれない? >>633 水野氏が何で密教化なんですか? 都合が悪いと「密教だから」ですか??? 水野氏は、パーリ語仏教(原始仏教)の日本を代表するエキスパートですよ。 対する「道元」(日本仏教の大巨人としては評価しますけれど)は、まだ近代仏教学を知らない鎌倉仏教の時代の方。 五時八教の支配下にあって原始経典である阿含経を小乗扱いしていた時代であり (天才道元は阿含の価値に独自で気付いた形跡はあるが...)、 当然、すべて部派仏教のアビダンマ教学に洗脳されていた人間の一人ですよ。 その道元の説くアートマン否定意などには正論などは何処にもないのです。 そんなもの無価値ですから。 >>628-629 貴重な学生時代のテキストの開示をありがとうございます。 とても真面目で熱心に勉強されていたことが伺えてとても嬉しく思いました。 私の感想と理解としては、ご指摘の通りで確かに「citta」(心)では、自己の究極の本性としての真我(アートマン)を示すものとは いえないでしょう。けれども、仏典というのは意外と使用するその言葉はかなり広義的で曖昧だったりもします。第一、仏典では自己 (わたし)を意味する言葉そのものが、すべて「アートマン」なんですから。 原語はパーリ語でアッタン(attan)、サンスクリット語ではアートマン(ãtman)ですが、幅広い自己の状態を示す明確な使い分けがな く何でもアートマンです。日常の会話で使用されるごく普通の意味合いでの仮和合的自己もアートマン、形而上学的な意味合いの自己 でも、ウパニシャッドの究極的存在でもアートマン。 だから、仏典に出てくるアートマンについては、それがどのような自己のことを指しているのかを前後の文脈から読み取らなければ ならないのです。私はそのことを、セブンと対話を始めたばかりの9年以上も前にそのことを指摘しましたよね。けれども当時のセブ ンはそのことをあまり取り合わないようでした。「アートマンなどある筈がない」という決め付け理解のあなたにとっては、さして重要 なこととは見なされなかったのでしょう...。 しかし、これは非常に重要なことですから。でないとそれが、日常の自己の否定なのか? またはどのアートマンを否定し、或いは肯 定しているのかも何も見えなくなるからです。 因みに仏教では、異名同義として「心」(citta)、「意」(mano)、「識」(vimmáça)の三つの語が用いられているところから、「citta」 の語そのものに奥深い意味を含ませているものと理解できます。たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つ の語を使い分けしてるのでしょう。 ユング心理学では人間の意識レベルを、「表層意識」、「個人的無意識」、「集合的無意識」、「類心的領域」という段階によってその意識 の深さを説明します。「citta」にも本当は、「識」の中の最奥深層域である阿頼耶識(魂)の意味を含めて語る場合も当然あるのだろうし、 その辺は仏典というのは実に曖昧ですよ。 で、結論なのですが、 道の修行において自己の心(citta)を制御することなく、 真我(アートマン)や“仏教の説く真実の自己”でもいいですが、 それが顕れることができるとする教えが何処かにあるのならばどうぞ教えてください。 私はそんな教えは、仏教にもヒンドゥーにもまったく皆無だと思っていますが... 制御すべきは当然、日常のこの心の状態のことですよ! 真我が顕れるのはその結果ですから。 〜如何ですか? 水野氏は、 あなたの学んだその大学総長にして名誉教授。そして、宗門の大先達ですよ! 是非、心を開いて水野氏の言葉に向き合うことを私はお薦めしますが...。 さて、 次はどうしたら日本仏教界から“唯物論(唯物僧侶)”を排除できるか? そして、霊供養を信じてない僧侶による詐欺供養、詐欺法要(詐欺の通夜葬儀)を駆逐できるのか? でもいきますか!!! >>636 >因みに仏教では、異名同義として「心」(citta)、「意」(mano)、「識」(vimmáça)の三つの語が用いられているところから、「citta」 >の語そのものに奥深い意味を含ませているものと理解できます。たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つ >の語を使い分けしてるのでしょう。 独自解釈すごいな 都合よく解釈して自己正当化するのが宝珠流アビダルマだな 隠居や在家とやったみたく、一言一句添削しなきゃならんかねぇ・・・w(呆 >>635 このように私は聞いた(如是我聞)の時の私はme 無我を表す時に2番目に来るこれは私ではないの私はahaṃ ああ、一部抜き出しとくか。参考に・・ > 「これあらばこれあり」という此縁性を否定するものは、もはや仏教徒ではない。 > 「これあらばこれあり」という認識論、言語習慣を尊重することが >「これあらばこれあり」という認・・・ はマズイっしょw 後者は「かれ」でないとw > いやいや、これは原語ママですよ。 > 「これ」という指示代名詞は、名指し、言葉の働く根源状態をよく表していると思う。 > 例えば、「これ」と指さしながら説かれていることを想起すると分かりやすいと思う。 > 釈尊のお言葉は、一見すると単純なことを述べておられるように見えて、 > 重層的にいろんな段階でも対応できるようになっていて、流石ブッダと > 驚愕することが沢山ありますが、中でもこの此縁性は最も含蓄の深い言葉ではないかと思われ。 > 水野片山を始め、どちらをも「これ」と訳している者は居ないと思われるが、 > その意図も汲むべきでは?(特に「この場面(隠居相手)」に於いてはw) > その使用に際しての曖昧さは日本語の指示代名詞でも同様だが、同一であることが示されているわけではなかろう? > 文脈として別個であるから(→時間的先後を加味するから)、「かれ」と訳されているのではないかい? > それとも、中観的には「同一」であることが強調されねばならない? > そこはママがいいと思ってる。 > 「これあらばかれあり」と訳すと意味が損なわれるように思うっす。 > 生命教とかタヌポンは何書いてもどうせ分からないから、彼に書いてるわけではないです。 > 峻別(断絶)の危険性を怖れれば、その方が良いかもしれない。 > その意味で気持ちは解るが、格変化のない日本語での表現に於いては、 > 言い換えておいた方が良いように思うわけさ。 ―― 以下略 >>639 心に意識を入れるのは有部や唯識だと確かにそう分類されるが日頃部派仏教やアビダルマを否定している人がそれやっては駄目だよね 初期仏典に「比丘たちよ、心とは何であるか。意と識である」と書いてあるのを探してもってこないと いつも人にそうやって要求してるのだからw >>639 >>644 あまりにも偏見が酷いね! そうやって素人イジメですか? この私は、 水野氏の解説に深い全面的な信頼を寄せてるので、どうもすみませんね。 『原始経典では識の異名として心(citta)、意(manas,mano)をあげているが、この心・意・識の三者は名称が異なっても同じものを指 すとされている。部派仏教もこの立場を採用しているが、瑜伽行派になると心・意・識の三者はその名称も体も別であるとされている。』(P134) (水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) 文句あるの? たとえ、草野球や草サッカー程度でも、そこに参加するなら、 最低限のルールや、プレー上の約束事は「知っていて」「則る」ことが必要だろうに。 観戦するだけだったとしても、指摘や野次が見当外れでは、言われた方も気分が悪かろうてw 「何も知らない素人なんで・・・(テヘペロ」 が許されない場面ってのも、大人の世界にはあるのよw >>645 19 比丘たちよ、では、どのようなものが、識(識別)なのでしょうか。 比丘たちよ、これら六つの識別にかんするあつまり(カーヤ)のことです。 色(いろかたち)についての識別、音声についての識別、香りについての識別、味についての識別、触れられるものについての識別、意(心)についての識別、 比丘たちよ、これが識(識別)であると言われます。 名色の集起によって、識の集起があります。 名色の滅から、識の滅があります。 この聖なる八支の道が、識の滅に向かう道(方法)です。すなわち、正見、正思、…、正定であります。 (サンユッタニカーヤ ) http://manikana.la.coocan.jp/canon/upadanaparivatta.html >>647 のサンユッタニカーヤの説法に従う限り 心=意=識 ではなく 識=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識 また心=意識ではなく心=受想行識ではないかと思う(これは私個人の解釈) ------------------------------------------------------------------------------------ (参考) 説一切有部五位七五法だと 心(心王)=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識 唯識五位百法だと 心=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識+末那識+阿頼耶識 軽量部だと 心=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識+(受+想+行+慧+念+触…などの心所) テーラワーダだと 心=欲界心(54法)+色界心(15法)+無色界心(12法)+出世間心(8法) 部派仏教では部派によって心に含まれる法の数や種類に違いがみられる にしても>>645 の水野氏の解説は上記と照らし合わせるとちょっと違うのではないかと思う ・原始経典では識の異名として心(citta)、意(manas,mano)をあげているが、この心・意・識の三者は名称が異なっても同じものを指 すとされている。 →サンユッタニカーヤの釈迦の説法ではそうではない ・部派仏教もこの立場を採用しているが →部派仏教の中でも確実に心・意・識を同じものとしているのは知られているなかでは有部のみ ・瑜伽行派になると心・意・識の三者はその名称も体も別であるとされている →全く別ではなく同じ心法の中にカテゴライズされている >>650 >水野氏の解説は上記と 別に宝珠の肩を持つわけではないが、 心的作用・意識作用(特に「意図のあるもの、意欲的に方向性を持ったもの」)は、 「意manas」であり「行であり、「心による行為(→業)」である、と見做せるならば、 広く「心citta」と括った場合、そこには「意」としての働きも「識(認識)」としての働きも含まれざるを得ないのでは? その意味で、初期原始仏教に於いては同じことを指す場面は多々ありそう。 勿論、今問わるべきは、そうした(心的作用を含む)「心」が、 最終的に目指される(≒求められるべき)「境地」である―或いは百億歩譲って、目指すべき真我・アートマンである― という言い方が妥当かどうか、だが・・・。 つーか、 「固定的決定的絶対的な、善なる・浄なる・安穏たる様相」を持たない、 そのような(縁起性の)千変万化なる「心」なるが故に、 それを、善き方向へ向かわせねばならんし、三毒に染まらぬようにせなならんし、 一切を放著して、静めねばならんのじゃなかろうかね・・。 その意味で、慧可の安心も、その後数多の禅家の言わんとするところも、 そうした、静まりきった心(≒境地)かもしれん。 おっと、ここで ≪「心」=「(寂滅の)境地」≫ という新たな等式が出現してしまった!(汗 Σ(゚д゚; >>650 自己レス >→部派仏教の中でも確実に心・意・識を同じものとしているのは知られているなかでは有部のみ 有部は 心(心王)=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識 なので心=識=意ではなく 心=識=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識 になる と訂正します >>651 識といっても意識mano-vijñānaだけではなく他にも色々な識があるので、厳密には心と意と識は違うという話でしたが、 ダンマパダの最初の句「ものごとは心にもとづき〜」を正田先生は「諸々の法(事象)は意を先行[の因]とし〜」とありこの場合の意は心にで良いと思う。 ダンマパダ33の「心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。」の心は意に置き換えられない、理由はあなたのレスの通り意欲的方向性(志向性かな)があるものではないから。 ちなみにダンマパダ1の心は原文でmano、33の心はcitta。 >その意味で、初期原始仏教に於いては同じことを指す場面は多々ありそう。 ダンマパダ1が好例ですね。 で、>>636 に戻って >その辺は仏典というのは実に曖昧ですよ。 曖昧ではなく先にあなたが書いたように >たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つの語を使い分けしてるのでしょう。 厳密に使い分けしていると思う。 もちろんアートマンではないチッタをアートマンとみなす比丘がいたらゴータマから叱責されたことでしょう。 >>645 >水野氏の解説に深い全面的な信頼を寄せてるので、どうもすみませんね。 >文句あるの? そういうこと言ってると ★スマナサーラ長老の見解に深い全面的な信頼を寄せてる人の意見 ★スマナサーラ長老自身の見解 ★上座部の教義 にも文句や反論を言えなくなるよw ANの心性本浄系の内容も、 ≪辛くて、困難で、自分には到底無理そうで、そもそもこんな苦労して汚れ・煩悩・欲望・怠惰が無くなるだろうか、 いや、無くなったからと言って、その先に安穏・寂静なぞあるんだろうか?≫ という不安に対する説示であり、(→実はこれはウダーナ8も同じ)、 ≪『染まらないようにし』、『タブララサな状態をキープし』、『顕現した清浄な状態(≒境地)を持続させる』≫ べきであるということを説示しているものと思うんだけどね・・・。 つか、ウダーナは、 そのおしえが説かれることになった原因も、 前フリとして言及されてるけどね。 勿論、それもまた、権威付け・正当化のために付加された後代の改竄、 という見方もあり得るけれども。 参考1: Pabhassara (adj.) [fr. bhAs] shining, very bright, resplendent https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/35/1/35_1_38/_article/-char/ja/ https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_article/-char/ja/ ttp://fallibilism.web.fc2.com/051.html 参考2:(一部隠居用餌) 、 (墨括弧は引用者挿入。大括弧は引用者による註。) ttp://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=ibk1952&cdvol=20&noissue=2&startpage=503 「心性本浄の意味」水野 弘元/印度學佛教學研究, Vol. 20 (1972) No. 2 pp.503-511 (著作選集2巻p219〜) 『心性本浄説については、今日までわが国多くの学者によって取り上げられ、すでに論じ尽くされているといってよい。 しかし、本浄説の源流は阿含経の原始経典、パーリ仏教や法蔵部などのような上座部系の文献にも見出され、 それは大衆部系の心性本浄説から発達したとされる大乗仏教における如来蔵説や仏性説では、 清浄なる本性としての【常住不変とも見られる心性】が考えられているのに対して、 原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、 【むしろ現象として生滅変化する心相が清浄であると】説いていると考えられるからである。 元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、経験可能の現象界だけを考察して、 これを一切法と呼んだ。従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである。 周知のように、仏教が【存在するもの(一切法)】として現象界だけを考察の対象としたことは、 外教の説く形而上学的実体を排除するためであった。ところで積極的自主的に作用する心のあり方について、 外教ではこれをどのように説いていたかといえば、正統派[バラモン、ウパニシャッドの系譜]と 非正統派[正統以外の遊行者達、沙門と呼ばれる系譜]ではまったく違った解釈をしていた。 正統派では転変説(pariNAma-vAda)[≒継続するモノの変化変遷]に立ち、 有機的な生命体としての我(Atoman)という実体を立て、これを不生不滅の本体的存在とした。 我は心の中心となって自主自律的に活動する主体である。 これに対して、非正統派では積集説(Arambha-vAda)[≒物質的、機械的集合離散及び作用による存立]に立ち、 精神的存在をも物質的に考え、我(霊魂)を不生不滅の本体であると説くとしても、 それは自主的な積極活動をなすものではなく、他の力によって機械的に動かされるにすぎないとした。 周知のように、仏教では外教の本体説と違って、【心を生滅変化する現象としてのみとらえ】、 心に自主自律の積極作用があるとしても、それは他の種々なる条件(縁)によってはじめて作用するという 無我縁起の説を立てた。 このように仏教では生命活動や精神作用を自主自律のものとして認めるとしても、 【その奥に常住の本体があるかないかはこれを問題とせず】、【現象として表面に現れているものだけを】考察した。 この意味の生命や精神の自主的活動力のことを仏教では根(indriya)と呼んだ。[生物学的器官も含。] 根の概念は仏教以前のウパニシャッド等で既に説かれており、仏教もこれを採用しつつ、仏教独自の立場から解釈した。』 さて・・・ 水野大先生の有難いお言葉だが、 宝珠尊師の耳には、どう聞こえるだろうかね。 すでに繰り返し言っているように、心性本浄説について考えるとき、まず問題となるのは「性」であった。 このことについて水野弘元博士は、 「大乗仏教における如来蔵説や仏性説では、清浄なる本性としての常住不変とも見られる心性が考えられているのに対して、原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、……。 元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、経験可能の現象界だけを考察して、これを一切法と呼んだ。従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである(25)」 と述べておられる。 http://fallibilism.web.fc2.com/023.html 水野先生の視点だと原始仏教では一切法は現象界に限定されるので全てが無常であり、 仏性や如来蔵などの心性本浄つまり常住不変の(浄らかな)心が入る余地はないとのこと。 また同じサイトに 自性清浄心思想に対する論難の一つに、「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。 如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。 これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。 とあるが確かにそうだ。 自性清浄なら十二因縁の最初は少なくとも無明ではないでしょう。 >>661 ありゃ、チンタラチンタラ文字打っている間に水野先生の私の引用とほぼ同じ言説を引用して自性清浄説への疑問を呈していらして、内容が被りましたね。 私の方が後になりましたがw さて、宝珠さんはどう答えるのでしょう。 >>663 プロパティ見ると、テキストファイル自体は4年前くらい前っぽいけど。 >>664 スマホから打ってるのでプロパティは見れません… >>665 いやw 自分のPCでのファイルデータ(作成時期)の話。 ああ、初出は 仏教 議論スレッド 19 http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/485-486 485 神も仏も名無しさん sage ▼ 2011/08/04(木) 19:44:36.40 ID:eost3eKv [6回目] のようだwww >>659-660 面白いの見つけたw http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/524 > >> 485-486 > >正統派では転変説(pariNAma-vAda)[≒継続するモノの変化変遷]に立ち、 > >有機的な生命体としての我(Atoman)という実体を立て、> >これを不生不滅の本体的存在とした。 --中略-- > >非正統派では積集説(Arambha-vAda)[≒物質的、機械的集合離散及び作用による存立]に立ち、 > >精神的存在をも物質的に考え、 > > これなら、“間違いだ”といわても当然ですね。 > アートマンというのは有機的でもなければ、物質的に見えるものなんかじゃないからです。 > どうも何故か・・・こういった現象界的な表現にしていかないと > アートマンを「存在」や「実在」としては理解されないようですね。 > これならダメに決まってる。アートマンはそういうものじゃない。 > >仏教では外教の本体説と違って、【心を生滅変化する現象としてのみとらえ】、 > >心に自主自律の積極作用があるとしても、それは他の種々なる条件(縁)によってはじめて作用するという > >無我縁起の説を立てた。 > そりゃー仏教のいう通りですよ。心は違いますから。 > 「心」そのものはアートマンじゃないから。 以下 URLのみ http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/525 http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/528 http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/530-531 http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/530 > 「心」の中には肉体崩壊後にも存続を続ける部分もあり、 > 魂など呼ばれている「識」等々も在るけれども、アートマン本体はそこにはない。 > 「心」はアートマンではないし、心の中にアートマンが内在しているわけでもない。 > けれども、双方それぞれ別物でありつつも、この「心」と「アートマン」は“繋がっている” > という言い方は可能でしょう。 http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/524 > アートマンというのは有機的でもなければ、物質的に見えるものなんかじゃないからです > 「心」そのものはアートマンじゃないから。 話はぶっ飛ぶんだけど、今更ながら量子力学ってあるよな。 なんかよくわかんないんだけど、量子同士の情報は光速を超えて伝達するらしい。 すでに量子テレポーテーションって実験も成功してるとか。 ほんで俺たちの脳も量子コンピュータと同じ原理で、死んでも情報は失われず宇宙の原意識と一体化するらしい。 これってアートマンやブラフマンのことじゃねえか!? この仮説が本当なら昔のインド人やお釈迦様マジやべー。 何言ってるのか自分でもわからねえが、パーピマン、宝珠、おじゃるならわかってくれるよな! さて、薬飲んで寝る^^ いろいろ間違ったこと書いた。 恥ずかしいから寝る^^ >>671 一皮剥けたにゃん♪ 栄進に (-∧-)合掌・・・ さて・・、 一千億歩譲って、アートマンこそが、求めるべき境地だとして、 一神教系に対しては、どう、折伏する論立てをするんだろうね。 >>神智学 結局、 仏教、禅宗、キリスト教カソリック、キ教プロテスタント、 イスラム教、ユダヤ教、 道教・老荘思想、儒教、古神道、エジプトや南米の太陽信仰、 古代インドの各種信仰、バラモン教・古ウパニシャッド、etc.etc. の中で、真我やブラフマン等、永遠なる実在から、最も遠いスタンスを取ったのが、 新興外道の沙門達であり、抜きんでて異彩を放ったのがシッダッタだったわけ。 だから、反感を買い、迫害を受け、(イスラムの侵攻があったにせよ)インド本土では潰えたわけでね・・ 仮に、仮に、アートマンの肯定が最終段階であったなら、 なぜ、釈子は迫害されねばならなかったのか? なぜ、諸宗諸外道は合流しなかったのか? なぜ、「自分たちもアートマンを求めてるんですよ」「自分たちも梵我一体となりましたよ」 と言わなかったのか? (言えば、自分たちもあなた達と同じですよとちゃんと説明していれば迫害されずに済んだだろうに・・・) >>674 釈迦が迫害されたのは、バラモンの四住期を無視したからでは? アートマンを求めて出家するのはバラモンの老人の道楽だった。 それを無視して老若男女誰でも出家を許した仏教はインド社会を破壊する危険思想と迫害されたと^^ 釈迦は人気がありすぎてライバルの教団(どこの教団だったかは失念)から女性を使った謀略という迫害を受けたりはしたけど 当時の二大大国のマガダ国とコーサラ国の国王は釈迦に帰依してたしそんなそんな大きな迫害はされてない 釈迦入滅後100〜200年後のアショーカ王は仏教を国教にしたしその後の王朝(クシャーナ朝など)も仏教の迫害はしてないよ ただ仏教側が大衆の支持を失っていっただけであって 先日は、 地下鉄サリン事件の実行犯のなかで唯一死刑判決にならなかった林郁夫受刑者(無期懲役)についての、 再現ドキュメンタリー・ドラマ『オウムを終わらせた男〜 林受刑者はなぜ全てを告白したのか?』を見たが、 昨夜はまた、 “オウム真理教でサリンを作り、先日刑を執行された土谷正実元死刑囚の半生と事件に至るまでを再現する”を見た...。 被害者側の皆さんからの反感を買うかもしれないけども、この私の目から見れば正直、 彼らのすべてが無知で純粋な心の持ち主だったために洗脳されてしまった可哀想な被害者にしか見えない。 この土谷正実は、わたしとまったく同じ生年なんだなぁ...。 とにかく、このような悲劇が二度と起こらないことを願うばかり。 それとやはり、どんな犯罪者に対しても死刑は行うべきではないという思いについては変わらない。 数年前に、死刑廃止を訴える文書を政府に提出したことがあるが...。 それから洗脳マインド・コントロールや思い込み決め付け等々については、 その思想が過激であるかどうかは別にして、 既成仏教であっても人間の反応については同じこと。 討論が続いてヒートupしてきたときにはそのまま投稿せず、 一晩〜二晩の一呼吸おいてみると冷静さを取り戻すもの。 改めて自分や相手の投稿を読み直してみると、 あの時の印象はそうでもなかったりと受ける印象はガラリと変わる。 >>651 >勿論、今問わるべきは、そうした(心的作用を含む)「心」が、 >最終的に目指される(≒求められるべき)「境地」である―或いは百億歩譲って、目指すべき真我・アートマンである― >という言い方が妥当かどうか、だが・・・。 >>635-636 でも述べたように、 心(citta)そのものは、もちろん「真我」(アートマン)などではないけれども、 しかし、訓練によって心(citta)を制御することで、 心(citta)の奥深い「識」の更に深層で繋がっている“本来の清浄で輝いている自己”が顕現できるようになる。 心(citta)〜意(manas,mano)〜識(vijnana,vinnana)までは現象界(有為)に限定された一切法ですが、 これを制御した結果として、つまり煩悩を制御し鎮めたその結果として、 それまでそれらの煩悩で隠されていた「無為」としての“本性清浄心”が発現するとものと理解します。 次元のネジレの果てにおいて繋がっている的な云い方しかできないでしょうね。 “本性清浄心”が一切法の中に在るというわけではない。 私の見方では、この問題はその辺の誤解なのだろうと思われます。 >>659 同じく、 “心性本浄説”の誤解については上記の通りであって、 その清浄心は元々、現象界の一切法内のことではないと理解。 従って元々、一切法の無常・無我・無自性・空の規定法則には抵触しないから問題。 >>660 については、 その>>668-669 で述べられている疑問符の指摘は的を得たものだと思います。 そもそも、この私には>>660 にあるような正統派非正統派の双方についての説明が意味不明に映ります。 そんなものを説いていたというのは今一つ、聞いたことが無い...。判然としない...。 正直、それらは仏教徒側(当時の?)の偏見によって全く誤解した異なる内容へと改変されてしまったアートマン論なのではないか? と、私には思えてしまいます。とにかく意味不明ですよ。アートマンの説明にすらなってない(それアートマンじゃないじゃん)...。 >>662 >「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。 > 如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。 >これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。 そりゃ〜その説明はないですよ。 縁起は何故あるのか? 縁起は何時から在るのか? というのと同じく愚問なわけです。 仏教というのは元々、そういうことを説明しようという教えではない。 ヒンドゥーや神智学では説かれています。仏教とはアプロ―チと姿勢が違う。 >>670 アートマン.ブラフマンはおいといて... その量子論が、 濃密物質レベルの自然科学における常識を超えた超常的領域について理解するカギです。 理論上ではすでに超常領域については肯定しており、また量子レベルでの素粒子実験では、 とっくに人間の思念エネルギーが素粒子に作用することを確認済です。 ただ普段、我々の眼に見えるものとしては確認がないというだけであって、 しかし、驚異的な精神エネルギーを発動できる人間ならば理論的に物質に影響することは不可能ではない。 >>674 ゴータマがヴェーダ・ウパニシャッド同様のアートマン論を説かなかったのは、 バラモン達に蔓延る数々の生贄やらその他の迷信や儀式万能主義やらの...非常に宜しくないのが氾濫していたからでしょう。 バラモン伝統のアートマン論をそのまま支持してしまうと、それらも一緒に肯定したものとして誤解されるからです。 それだけは絶対に避けたかったというのが、ゴータマの意識であったと私は見ています。 最後の涅槃死についての自身の遺体の置き方でなされた北枕の指示も然りで、 バラモン達の行う生贄の寝かし方がどうやら南枕だったからというのが真相らしい...。 バラモンのアートマン論を認めれば、彼らと一緒扱いをされることになるし、 かといって否定しては唯物論だと誤解される。だから、明確に返答をしない姿勢を採った(それが無記の理由)、と。 迫害というか.... インドで仏教が消滅したのは後代の(部派に始まる)弟子たちがゴータマの教えを誤解して、 “アートマンは無い”という意味の無我論を説き、 その教義に頑なに固執し続けたためにインド人から見放されたことが一番の原因とみています。 インドではそういう宗教は誰も入信しません。少し手だけ勢力を維持できたのはインド大乗〜密教というヒンドゥー化だけです。 >>680 訂正: ×「抵触しないから問題」 ○「抵触しないから問題なし」 >>654 確かに、“信頼している”ということでは同じです。 そもそも信仰心というもの自体が、あらゆるどの宗教においても等しく同じですよ。 尚、スマ長老と水野氏の違いは明確ですよ! スマ長老は部派の継承教団そのものの高僧です。 本人は、自分の信奉しているのが部派教団だという認識は無いかも知れませんが、 しかし、アビダンマの信奉教団ということは変わりがない。 対して水野氏は、原始仏教の文献学者です。 それは何を信じて何を信仰するというものではなく、 純粋に原始経典の記述を学問的に研究しているのです。 そして、アビダンマは部派による成立であって、 その内容は原始経典とは異なっていることを知っている。 それが両者の違いであり、私が水野氏の側を支持する理由です。 部派仏教とアビダルマ哲学の成立: 『ブッダの入滅後100年ころ、教団は律の解釈をめぐって、保守派の上座部と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)に分裂した。その後さらに分裂 をかさね、成立した部派の数は18あるいは20と伝えられる。各部派は、自派の教理にもとづいて聖典を編纂しなおし、独自の解釈を立てて 論書を生み出した。それらはアビダルマといわれる。そして、これを集めたものが論蔵(アビダルマ蔵)で、ここに経蔵・律蔵とあわせて三蔵 が成立した。1)論 (abhidharma) は、部派仏教時代に成立した教理の解釈である。』 (インド思想史略説) 水野センセも、草葉の陰で嘆息しておられることだろうw >>679 >これを制御した結果として、つまり煩悩を制御し鎮めたその結果として、 >それまでそれらの煩悩で隠されていた「無為」としての“本性清浄心”が発現するとものと理解します。 なんで清浄心が無為になるの? 論理が飛躍していますねえ。 自分がそう思うというそう信じるに止めるのならそれでも良いけど、 人の前で「本当の仏教では煩悩を制御すると無為なる本性清浄心が出てくる」などという独説を唱えたりはしないことですな。 >>680 >その清浄心は元々、現象界の一切法内のことではないと理解。 >従って元々、一切法の無常・無我・無自性・空の規定法則には抵触しないから問題。 これもさ… 結局清浄心というのは現象界の無常無我無自性とは違うものといったらアートマンと変わらなくなるじゃん! 結局清浄心こそがアートマンであるといいたいんでしょ? あなたが全面的な信頼を寄せている水野弘元氏はそれとは反対のこと言ってますが。 >>688 時間がないので、これについてはまた後で返答します。 まず、一つだけいっておきます。 私は何も水野氏に洗脳されているわけじゃないので、 水野氏のいうこと100%に同意するというわけじゃない。 私はもし、仏典の記述とテーラワーダの間に差異がある場合は迷わず仏典の記述を支持します。 同じく、水野氏の説明と仏典の記述に差異があれば、同様にして仏典の記述の方を支持します。 当り前のことですが...。 論争の起こるすべての原因は、 仏教では、ものごとの疑問符に対する説明解答がないことに尽きます。 ゴータマ・ブッダが在世の当時であれば、疑問が湧けば聞いて確認することができたでしょうが、 残念ながら今はそれができないということにある。 書かれてる内容は別として、本の帯に書かれている「初期仏教長老・・・」 流石にそれはないでしょw >>677 >人気がありすぎて そう。 なぜ、人気があったのか? もし、他の外道と同じことを説いているのに、上っ面だけ違うこと(無我)を説いて、 人集めをしていたのだとしたら、とんでもない詐欺師だし、迫害されて当然だと思うけど?www 多くの外道の末端に限らず、指導者までもが、『転向』『鞍替え』し、釈尊の説くところに賛同していったわけだが、 その際、 彼らは、 『 ≪どっちに≫ 賛同した』のだろうかね? >>683 宝珠は、仏教系大学で、 『インド思想史』そのもの を、一から学び直すべきだと、 心の底から思う。 by7 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6 量子力学(quantum mechanics) 因果律が成り立たない 実在論としては記述できず、非実在論的である ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E9%96%A2%E6%95%B0 波動関数(wave function) 「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できる 我々が住む日常世界の他に全く異なる並行世界が存在する >>670 栄進師匠へ >量子力学 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E8%B7%B3%E8%BA%8D 量子跳躍(quantum leap or quantum jump) ttp://amenama.on.arena.ne.jp/?p=2741 二次元平面に保存された情報からの → 宇宙(三次元空間+時間)が投影されている ttp://tocana.jp/2017/01/post_12093_entry.html 人間の意識は宇宙法則とリンクしていた ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE プルシャからの → プラクリティ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81 仏が大悲・大智によって → (仮設としての)衆生に応じる (仮設としての)衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる >なぜ、人気があったのか? 「仮設としての」という意味で 前世からの功徳・人徳があったから ((無明に依存して) 功徳・人徳の少ない指導者のところには 怨憎会苦の集団ができるかもしれない?) ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E6%A5%BC%E9%A0%BB%E8%9E%BA%E3%83%BB%E8%BF%A6%E8%91%89 ウルヴェーラ 釈迦は 火界定三昧に入り竜の魔力を奪った 釈迦は静かに禅定していて竜が小さくなって鉢の中にいた ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E8%B6%B3 「仏そのもの」の自在力(神通力)をもって 智慧と慈悲をもって → (仮設としての)縁起している世界を観照してるから 戒・定・慧・解脱・解脱智見 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も)の実践をしてたから 非想非非想も超えて (仮設としての)縁起している世界も超えて 有余涅槃(本来自性清浄涅槃?)に戻ったので それゆえに >人気があった という対機説法?ということで ヨロ m(_ _)m >宝珠は、仏教系大学で、 『インド思想史』そのもの を、一から学び直すべき… (おじゃるも含めて) 宝珠殿の場合は 『「…である」と定義することはできない「…である」ものではない (絶対的な?)真我のようなものがあるはずだ!』 という強い信念があるのなら 仏教系大学で、 『インド思想史』を勉強しても意味がないのでは? たとえば 「無我 = 真我という意味だ!」という強い関連付けがあるのなら… 真我 = 本来自性清浄涅槃だ! ということで ヨロ m(_ _)m 中観帰謬の場合は (真我も含めて)無我という 『 想い 』 も手放して超えて逝く ということになるけれど… >>692 ほーう...。 専門大学では私とは違うことを学ぶよ、と...。 そりゃ〜「ブッダはアートマンを説いた」とはお教えたりはしないでしょうからね。 (私もバラモンたちとまったく同一のことを説いたとはいってない) しかしながら、ゴータマの名声は何だったのか? といえば、 当然それは、“梵我一如の境地”、悟り、“輪廻からの解脱”を目指すバラモンたちの中において、 そのゴータマこそが本物も達成者であり、完成者(ブッダ)であるとの評判が高まったからです。 その評判がインド中に広まっていったからに他ならない(当時、本物の完成者は他にはいなかった)。 実際、ゴータマに集った弟子たちというのは彼らバラモンたちでした。 別に、「アートマンは無い」という意味の無我を説いてから人が集まったわけではなくて、 間違っているバラモンたちを指して、「それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ (アートマンであるものこそアートマンとして見よ!)」という非我を説いていたゴータマに人が集った。 「アートマンは無い」という意味の「無我」を説いたというのは、ゴータマ入滅後の数百年後の部派教団によってです。 それがアビダンマの教義というもの。 インド仏教史の略図でも書かなきゃダメなのか? >>696 訂正: ×「本物も達成者であり」 ○「本物の達成者であり」 ×「無我を説いてから」 ○「無我を説いてたから」 ●当時のゴータマとのやりとり実際事例 『私(マーガ)はいま梵(brahma)に遭うことができた。あなたこそ本当に梵(brahma)と等しい方である。光明をもっている方である。どうすれば梵天界に生まれるのか。』(Sn.508) 『私(ブッダ)は梵となりたる(もの) であり、無比であり、魔軍をほろぼしすべての敵を屈服させ、おそれることなく喜ぶ。』(Sn.561) (田上 太秀 訳) メモ【五火二道説】 と【梵我一如説】 と【無我説】 http://open.mixi.jp/user/8715268/diary/1124265974 さて、死後梵天界への再生を願うマーガ青年は五火ニ道思想だったのか梵我一如思想だったのか、 あるいはそれ以外のバラモンの思想信仰を持っていたのか? それとも釈迦に梵天界への再生の道を先に説かれていたのだろうか? しかし、釈迦はマーガ青年に「そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ」と何度も言うが これは自分のような立派な人にこそ供物を捧げよと言ってるに等しいなw ヤージュナヴァルキのアートマン論だと梵我一如となったものは死後に想念なしとしているから梵天界に生まれ変わるというのとは違うな >>696 >(アートマンであるものこそアートマンとして見よ!)」という非我を説いていたゴータマに人が集った。 流石に(心の内)としても勝手な想像を事実であるかのように書くのは酷いわあ >立派な人にこそ供物を捧げよ ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C 預流・一来・不還・阿羅漢 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%BC%A2 阿羅漢 仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者 この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができる 漢訳には応供(おうぐ)という意訳もある _ _ _ >釈迦に梵天界への再生の道を先に説かれていたのだろうか? ヒンドゥー(バラモン) 人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって 次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる 人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き 無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める ウッダカ・ラーマプッタ師匠は非想非非想の世界まで 釈迦は(非想非非想を超えて、そして) 身体について…感覚について…心について…諸法について… (それらを)観察し、熱心につとめ、明確に理解し よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去る 四念処(四念住)を実践するように説いた >>1 宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる 科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう 時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる (神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし 無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、 それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる 空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説) 存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想) 創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間) 始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる >創造−維持−破壊−創造を繰り返す ブラフマー(創造)・ヴィシュヌ(維持)・シヴァ(破壊) オルペウス教 魂と肉体の二元論、転生、輪廻からの最終解脱、などを基本的な教義とする ピタゴラス教団 古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から輪廻転生の考え方を有していた ピタゴラス派 均整及び調和の理念が → 宇宙全体から日常生活までを支配しているのだと考えられた 万物は宇宙の中心点である中心火の周囲を決まった軌道を通って周行するものとされた ピタゴラス ポルピュリオスなどの伝記によれば ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれる さらにはイギリスやインドにまで旅したという伝説もある _ _ _ >今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる 古代ギリシアの哲学者プラトンが著書『ティマイオス』及び『クリティアス』の中で記述した アトランティス 波動関数(wave function) 「波1の世界」と「波2の世界」が同時に存在できるので 我々が住む日常世界の他に全く異なる 並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ ↓幽霊・心霊関連として ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%82%BD%E3%83%B3 エジソン 高齢となって会社経営からは身を引くが 研究所に篭り死者との交信の実験(霊界との通信機の研究)を続ける ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%9D%A5%E5%8F%8B%E5%90%89 福来 友吉 学会追放 高橋貞子での実験成功に力を得て、1914年(大正3年)9月に『透視と念写』を出版した 学長であった上田萬年から10月に呼ばれ 「東大教授として、内容的に好ましくない行為」として警告を受けたが 透視も念写も事実である旨主張して東京帝国大学を追放(公的には休職)され 1915年(大正4年)10月28日付の東京日日新聞や萬朝報でも報じられた 彼が取り上げた人物も「イカサマ」「ペテン師」などの攻撃を受けることになってしまった その後 物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なった 1921年(大正10年)、真言宗立宣真高等女学校長、1926年(大正15年)から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授 >>696 > (私もバラモンたちとまったく同一のことを説いたとはいってない) つまり、今、貴方が説いていることは、 歴史上誰一人として説いたことのない、人類史上初の思想だということです。 > 実際、ゴータマに集った弟子たちというのは彼らバラモンたちでした。 そう。 だからこそ、そのような彼らが、 なぜ、 「これまで自分たちが希求してきた真理(『アートマン、真我』)こそを、ゴータマは説いている」 という長老偈(テーラガーター)になっていないのか? なぜ、(ゴータマ自身は、貴方や他の人が言うように、本当のことを口にしなかったとしても) 弟子達までもが、永きに亘って、そのことを秘密にし続けねばならなかったのでしょう? 教えを秘匿することは、ゴータマが最も嫌ったことであった筈なのに。 > 間違っているバラモンたちを指して、「それらはアートマンではない。アートマンでないものをアートマンと見なすなかれ > (アートマンであるものこそアートマンとして見よ!)」という非我を説いていたゴータマに人が集った。 のであるならば、尚更、弟子たちは、ゴータマこそが、自分たちが求めていたものを説いた方だ、 と、尊崇し、人々に知らしめる責務を感じるであろうに。 > インド仏教史の略図でも書かなきゃダメなのか? てめぇより、はるかに理解してる自負はあるよw 一千億歩譲って、 田上センセが院生時代に記した論考のように、 『ブッダは、菩提樹下でアートマンとなった』 という言辞を受容したとしても、 そこで、ブッダが実感された、頷かれた「アートマン」は、 「永遠なる万能な実在」「太古から存在し続けた”おのれ”」ではないように見受けられるんだよね。 だから、 ≪臨済禅師(及び真実自己を肯定する祖師方)は「アートマン」を説示したのかどうか?≫ を、”専門家の”宝珠氏に検証してみてほしいわけさwwwww たとえば、昭和の禅僧朝比奈宗源は「仏心」を掲げる。 これが、 如来蔵や本覚思想とどうかかわるかは、普通に仏教学・禅学・宗学の範疇だけれども、 ≪それが、「アートマン」かどうか?「真我」かどうか?≫ は、まったくもって、従来の僧侶や学者の領域を超えている。 神智学を併修する仏教学者は、大拙さんくらいのもんだろうw そして、その大拙さんにしても、 手法や視線の投げかけ方、考え方を採り入れただけで、 自身のスタンスを変えてはいない、という点も留意されるべきところだろう。 (勿論、大拙さん始め西田さんとかの方向性が、禅として如何なものか?という批判的研究はされるべきではあるけれど) >>705 >つまり、今、貴方が説いていることは、 >歴史上誰一人として説いたことのない、人類史上初の思想だということです。 いやいや、 仏典の内容を吟味にして考慮すれば必然的にそうなると思いますが。 まっ、確かにそれは、ヒンドゥー及び神智学を知る者からみればの話ではあるけれど....。 しかしながら、たとえヒンドゥー視点を除外視した場合においてでも、 「アートマンはない」などとゴータマがいってもいないことをいったことにしたり (ゴータマは形而上存在論そのものを説く姿勢ではない)、 ヒンドゥーのアートマンの教えを馬鹿にすることなどは決してできないということ。 セブンは馬鹿にしてないとは思うけれどね....。 しかし、いつも来てる長老信者と平均的な仏教信者にはそういうのが多いから。 これは早急に改善されなければならないとしているのが私の採る姿勢です。 とにかく、「アートマンはない」と説いたなどいうとっくに時代遅れとなった古き間違った教義は廃棄されない、とね。 でないと、いつもまで進歩が無く、迷信のままだ。 >だからこそ、そのような彼らが、 なぜ、 > 「これまで自分たちが希求してきた真理(『アートマン、真我』)こそを、ゴータマは説いている」 >という長老偈(テーラガーター)になっていないのか? >なぜ、(ゴータマ自身は、貴方や他の人が言うように、本当のことを口にしなかったとしても) >弟子達までもが、永きに亘って、そのことを秘密にし続けねばならなかったのでしょう? >教えを秘匿することは、ゴータマが最も嫌ったことであった筈なのに。 その視点を持つことの必要性と重要さについては認めます。 そして今、一つだけ言える決定的な事実? は、何かというと、 紀元前1世紀頃の「第四結集」で文字化されたともいわれる経蔵もその成立は長きに渡っており、 最も古いとされるスッタニパータから、長部経典のようなズ〜と後代成立のものもあって、 つまるところ、その全過程においては部派仏教の時代と重なって書かれたのであって、 そして、それがそのまま部派教団によって今日まで所持されてきたのです。 従って、残念ながら経典の一部は改ざん(都合の悪い箇所は削除)され、 後代の経典などは彼らの都合に合わせて書かれているのだということ (たとえば実際のゴータマが説いたかは疑わしいともされる十二因縁など...つまり、アビダルマ的教義に沿って書かれたものです)。 そのようなことも踏まえた上で、まだ原始仏教当時の教えが残れている部分を汲み取っていくということが必要 (完璧は不可能であっても、「怪しい...」と見かければならないことはいろいろとある)。 それがセブンも指摘するような疑問符の数々ともなるのです。 話が少し逸れますけど、 セブン宛てに書いちゃいますが、 >>685 これを見て私は唖然としました。 というか..酷過ぎてショックを受けたんです。脳天を打ち付けたくらい驚いたんですよ。 こんな低レベルを語る高僧とやらとそれを信じる信者たちって、一体なんだろ? って。 そんな人たちと真剣に話しても、そりゃ〜無駄だよなぁ...とね。 “マーヤーの幻影と唯一なる実在(アートマン) ”との関係すらも理解できないような、 インド宗教についての超ドシロウト人間に、ウパニシャッドのアートマンと仏教の無我の対比関係が正しくわかる筈もないから。 内容が幼稚園レベルなので、これはインド宗教についてまったく何も知らない人間にか通用しない書籍です。 もう対話する気も起きませんよ...。 >690 「初期仏教長老」 ...って。 まっ、言うのは自由なんだろうけど、もうかなり調べはついているのであって、 現存しているテーラワーダというのは初期仏教どころか(冗談でいってのか? もしも本気でいってるとしたら勘違いか、詐欺です)、 根本二大分裂時の「上座部」などではなく、Vibhajava^da[ヴィバジャヴァーダ]の末流にある派の中の三派中の一つ、 Maha^viha^ra Nika^ya[マハーヴィハーラ ニカーヤ]『分別説部大寺派』だといわれていますね。 自分たちはお守りの効果も認めてパリッタ(護呪)を読誦しておきながら、 他派の行為については“沈めた石の話”をしてゴータマが禁止した呪法だとして嘲弄する。 原始仏教の研究においては、当時のゴータマも実際には簡単な呪法は使っていたらしい...といわれています。 バラモン呪法そのものではない“仏教独自の呪法”(の容認)という視点はあっても然るべきなのですが....。 >>706 >そこで、ブッダが実感された、頷かれた「アートマン」は、 > 「永遠なる万能な実在」「太古から存在し続けた”おのれ”」ではないように見受けられるんだよね。 パーリ大涅槃経中のアナンダを叱った寿命が延ばせられるの文句が、 まさしくアートマンを自覚している人間だからこそいえるものであり、そして、その気になれば実際にできることです。 それが「延命」、そして「不死」(不死としての意識の自覚のことであるが、肉体的にも奇跡的な延命ができる)。 >>707 > 如来蔵や本覚思想とどうかかわるかは、普通に仏教学・禅学・宗学の範疇だけれども、 >≪それが、「アートマン」かどうか?「真我」かどうか?≫ >は、まったくもって、従来の僧侶や学者の領域を超えている。 大乗が大乗の特徴としての「仏性」の教義に拘り続け、 これを「如来蔵や本覚思想」として発展させたというのは、まさに「自性清浄心」がゴータマが実際に説いたものとして、 つまり、一切法(無常/縁起)には抵触しない「無為」だとして認める見解だということでしょう (水野氏個人は「自性清浄心」は原始仏教の教えとしては成立してないと見たかもしれませんが、 大乗についての解説ではそうなっているものと理解)。 私もこれに大きく同意します。これが大乗の最大レベルで良い点の一つです。 要するに、 これまで反仏教とかヒンドゥー化などとも評されてきた“如来蔵や本覚思想”こそが 実際には、ゴータマの説かれた“我々の目指すべき完成の自己”を象徴したものなのだということ。 これをウパニシャッドのアートマンとは別に同じではないとするのならば、それは結構です。 それはヒンドゥーを学んでよく知ってる者と知らない者との視点の差異ですから。 脳科学が仏教に同意「無我を全面的に認める」! 一方、ダライ・ラマは「科学に改宗してもいい」 https://a.excite.co.jp/News/odd/20170202/Tocana_201702_post_12191.html ところでテーラワーダに限らずダライ・ラマにしても他の仏教宗派にしても我(アートマン)の実在を認めている宗派はありませんよ 宝珠には、 「文脈で」 という言い方が、未だに理解してもらえない・・・ orz 仏典に書いてある書いてないでなく、どのように解説(注釈・伝承)されたか、でもなく、 提示された、及び、インド宗教思想の考古学的分析の上でも文献学的分析の上でも、 (そして、あらゆる、『仏教的手法による』瞑想に於いても)、 あらゆる情報を総合して、全方位分析した時、 その時どこに「アートマン」が「真我」が見出し得るだろうか?(【必要】だろうか?) ということなんだけどね。 そして勿論、『仏教的手法』を用いないならば、 それは仏教ではないし、ゴータマの系譜でもないのは理の当然。 そう、 そうなんだよね・・。 (って、自分で大発見的発言になるけどw) たとえ、「一千億歩の一千億倍」譲って、『あらゆる宗教的思想は、一つの真理を示している』 という言辞を受け入れたとしても、 そこへのルート、アプローチの手法が、もし異なるなら、 それは、それぞれの手法毎の思想・宗教となる筈なんでね・・。 その意味で、異宗教異思想は存在していいし、ただ、具体的に手法が異なるなら、 それは、別の括りをすべきなんじゃないかなぁ・・と。 キ教イ教的一神教的世界観は、仏教的世界観とは決して相容れないわけだけれど、 それでも、ゴールの「安らぎ」「寂静」を同とするなら、それはそれでいいだろうが、 やり方が違うなら、違うと言わざるを得ないわけでね・・。 ttps://drive.google.com/file/d/1zH28jxeR4sm8FMVzIwh5rGcq-nkcM2MM/view (寄稿)精神世界、無関心な私たち 高村薫 … …(宗教の名のもとの)教義と信仰に依る犯罪だったのか?… … …変性意識状態を得られる?… …教祖の教えを信じた?… ttp://www.onedhamma.com/?p=6687 ポスト・オウムの<魂>のために 今回のpodcast法話でも 「(一応、仏教では)我ではない。魂という『想い』ではない」という説明をした上で それでも (大乗 1.0の世界観を前提としているので) 「解脱智見をするためには ヴェーダなどの 「…である」と定義することはできない「…である」ものではない 本当の自分(根源的な?魂) という対機説法も、わかりやすくて良い」という説明もしている しかしまあ、よりによって豪雨被害地域真上を通過する台風とか・・・ ttps://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E4%B9%97-70827 三乗 1)は声聞乗。苦,集,滅,道の四諦(四聖諦)を悟り阿羅漢となるための実践 2)は縁覚乗。十二因縁を悟って独覚(縁覚)となる 3)は菩薩乗。無上菩提を証得せんとする菩薩たちの道 ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm 上座部 パオ・セヤドー 五禅支 ヴィタッカ(尋) どこかへ飛んでいってしまう心の働きを 集中対象である呼吸に戻してくる要素があります − これに対して − (中国経由の)日本の禅宗系?とかは すべて本来自性清浄涅槃なので それゆえに (心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて) 余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐 大乗の場合は 仏そのもの 仏性からの真如縁起なので 上座部系の菩提分法という方法と 日本の大乗系の「元々仏そのもの」は 世界観も(涅槃に戻るための)方法も違う ttp://www.onedhamma.com/?p=5136 魚川祐司氏:藤田一照氏:山下良道氏 このpodcast法話を聞けば 1.0と 2.0の違いもわかるかもしれない オウム元幹部たち残りの6人も26日に死刑が執行された(6日の麻原を含む7人に続いて)。 結局、一審では無期懲役の判決だった井上や自首した岡崎も減刑はされなかった...。 教祖麻原の除く他の幹部たちはマインドコントロールさえ解ければ、 ごく普通の庶民に過ぎなかっただけに麻原と同じ死刑執行はというのは悔やまれてならない。 私の職場でもごくたまに宗教云々..という話題が上がることがあるけれども、 どうも若い人ほど「宗教は興味なし」という態度を見せる印象がある(年配者もそういう人が増えた)。 しかし、調査データからみても日本人が元々、宗教嫌いということは全然ないのであって、 ただ詳しいことまでは知らないというだけに過ぎなかった。 今でも、多くの家庭には神棚があり、そして仏壇がある。 また初詣(三が日)の参拝者数は有名どころはいずれも300万人超であり、日本全体では1億人近い(メッカの巡礼月ですら約250万人だという)。 日本全体での各宗教信者数の総計人口(登録報告)は重複分を入れて軽く日本の人口を大きく超える (まっ、中身はもちろん、いろいろな程度のレベルの人たちだが...)。 それがこうも宗教嫌いのような態度が増えたというのは、やはり一連の新興宗教団体による行動や事件による不信感と嫌悪感に他ならない。 オウムは当然のこととして、それ以前からも、悪霊払いで死亡させただの、 足の裏臭いですねぇ「幸せですか/幸せで〜す!!」や、ミイラ化した遺体が発見されただの、 「グルは死なない.サイババの勝手なんですよ!」のライフスペースとか、スカラー電磁波の白い団体パナウェーブとか、 もう訳解らないのが次々と溢れかえったから。 要するに、正確には宗教団体に対する不信感だということ。 そして今また、あのアホのビジネスマンの科学が、 死刑直後の麻原の霊言を伝えるとかいう本を出して被害者感情をまったく無視した商売行為をしてる...。 >>530 成田山新勝寺では、 希望者は誰でも最長、6泊7日の断食参籠修行を体験することができます。 歌舞伎の市川團十郎は代々ここで断食行をしてきています(特に、二代目は二十一日間の断食行を敢行している)。 また、新勝寺に隣接する成田山公園内の滝では、その昔、団十郎も滝修行をしています。 今でも、一般で滝行指導を受けられるかは未確認。 毎月の不動尊御縁日は私もプチ断食しているけれども、 俳優の榎木孝明氏は「30日間固形物を口にしない」という驚異的な「不食」の行を達成している。 この人は本物の達人だと私は思う。 では、再び「無我」に関して投稿していきます。 断食ではなく 金剛界法 胎蔵界法 如意宝珠法 護摩法とか (無料で公開して) 教えて頂きたい所存で おじゃります m(_ _)m 越法罪とかがあるので 正式な真言宗の僧侶じゃなきゃ無理だと思うけど… ttp://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html 護摩の思想は インドから中国を経て空海に及ぶ頃にはこの火の行事が高度に思想化され 火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼くという思想に至った _ _ _ >無我 「…である」と定義することはできない「…である」ものではない 本当の自分 仏そのもの 本来自性清浄涅槃ということで良いと思うけど 仮設としての 無明に依存している、我ではない。という意味として ↓おじゃるの知り合いには創価信者が多い ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A 創価学会 1930年 牧口常三郎と、戸田城聖ら 1960年 池田大作が第3代会長に就任 1991年 日蓮正宗は、「創価学会」と「創価学会インタナショナル」(SGI)を破門した … 創価学会は「霊魂は存在しない」と断言している _ _ _ どうして「霊魂は存在しない」と断定するのか? その理由を聞いてみたい所存で おじゃります m(_ _)m おじゃるの知り合いの創価信者は 「霊魂について語ることは霊魂のことを馬鹿にしてることになるので それゆえに霊魂について語ってはいけない」 「(創価信者は)神社・仏閣・霊場・心霊スポットとかに逝ってはいけない」 というような感じのことを云ってたきがする とりあえず今の現状では 創価は日蓮正宗を破門されているらしいけど かつては繋がりがあったかもしれない? 日蓮宗の三木大雲僧侶の場合は ttps://www.youtube.com/watch?v=HFfwX4QSGbI 「仮設としての」という意味で、幽霊肯定という感じがする 古代インド人の特徴は、夢の中の体験を、目覚めているときにも体験しようと執拗に試みたところにあります。 それが、ヨーガ(瞑想)だと思われます。 ヨーガ(瞑想)に関する教典から、古代インドのバラモン教の実践者たちが、現実の世界よりも夢(空想)の世界の内容を「より真実の世界」であると思い込んでいたことがうかがえます。 夢における知は、夢の中で拝んでいた、神の美しいすがたを対象としている。 目覚めたときの静かな心で同じ神の姿に凝念すれば、ヨーガ行者の心は安定に達する。 (「ヨーガ・スートラ」、同上) このように、ヨーガ行者は夢の中と同じ体験を瞑想のなかに求めます。 さらに、夢の中で自由に徘徊する自己、という考えをエスカレートさせて、ヨーガ行者は水上を歩き、蜘蛛の糸の上を歩き、光線の上を歩き、さらに虚空を自由に行くことができる。 (同上) とか、 心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである。この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る。 (同上) などともいわれます。 夢のなかで「自己」が身体を離れてゆく現象を、目覚めているときに意図的につくりだす心理的テクニックが本来のヨーガ(瞑想=夢想)の目的だったろうと思われますが、後には、身体を持ったまま空中を飛ぶ、いわゆる「空中浮遊」などが信じられるようになります。 いずれにしても、夢や空想を現実から区別をしようとしない独特の宗教的習慣が古代インド人の間にあったことは否定できません。 このような考え方の中で、死後、身体を離れてゆく永遠の魂(アートマン)を想定することは、何でもないことです。 つまり、アートマン(永遠の魂)の思想は、もとをたどれば、古代のインド人たちが、身体とは別に夢の中で自由に徘徊する自己を「真実の自己」と思い込んだところから、生まれてきたものと考えられるのです。 このような歴史的背景を知ることによって、シッダータ・ゴータマが、「無我」の思想を真理として発見した自分のことを、「ブッダ=目覚めた者」と呼んだことの歴史的な意義が明確になると思います。 ブッダの思想家としてのデビューと考えられる、いわゆる「第一説法」において、瞑想・苦行にいそしむ旧友に対して彼は なんじらは、わたしを名をもって呼んではいけない。また「友」と呼んでもならない。 わたしはもはや如来である、最高の「目覚めたもの」である。 (『マジマ・ニカーヤ』26) と宣言します。 すなわち、「buddh =眠りから醒める」という言葉を用いることによって、彼の真理の特徴が夢想的なバラモンの思想の否定にあることを主張したのだ、と考えられます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul02.html 面白い発想、と思ったら佐倉さんw けど、 煩悩、欲望、自意識、怠惰、快楽に浸っていたいと思う、その意識自体が 夢の中(無明、顛倒妄想、三毒の中)にある、という意味では、 確かに、「それらを離れた賢者」は、『目覚めた』人に他ならないわなw 実際、伝承されている「評」も、 まさにその、「世俗の満足は、夢のような満足」であるというものだしな・・。 そういえば、昨日のNスペは、 アインシュタインの脳の解析へ向かう一歩の話だったが、 常人とは相違する特徴的な部位が有るらしい。 お釈迦さんも、特殊な部位があったかもな。 ttps://www.youtube.com/watch?v=Agd1tvxsZ2g NHKスペシャル アインシュタイン 消えた 天才脳 を追え 2018年7月29日 ttps://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180729_2 宇宙・科学・テクノロジー アインシュタイン 消えた“天才脳”を追え 初回放送 2018年7月29日(日) 午後9時00分〜9時49分 >>729-730 ホーウ... ヒンドゥーの神通は単なる夢想に過ぎないとはね? 仏典も同じくそれらの神通が説かれてるのに... 仏典の場合には夢からの目覚めとは、 これ如何に? あまりにも幼稚な発想です。 この内容は以前にも見ているけれども、 そのときはそのような文句を 『ヨーガ・スートラ』からは見つけることはできなかったのだけど、 それは単にこの私の見逃しなのですかね? それら(聖句)のすべてが一体、『ヨーガ・スートラ』の”第何章何節”のことなのかを明確にしてもらえます? すぐ確認するので早急に宜しくお願いします。 ↓怪しいリンク先かもしれないけど、とりあえず ttp://www.bukkyou-bungaku.com/buddhism/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%9B%9E%E3%80%80%EF%BD%89%EF%BD%8F%EF%BD%94%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82%E3%80%8D/ ↓大乗はバラモン教の世界観にもどった? 道元 尽十方界は是(本来自性清浄涅槃そのもの)自己なり (本来自性清浄涅槃そのもの)自己は尽十方界なり (それゆえに、すべて無住処涅槃である?) ttp://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bonga.htm 宇宙原理「ブラフマン」と個体原理「アートマン」が本質において同一であると、瞑想の中でありありと直観する 梵我一如 無知と破滅が克服され… 仮設としての 縁起している世界を超えていく? (無明している世界を超えていく?) ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf ウダーナヴァルガのギルギット写本 … 縁起したものを離れることがある 縁起したものを手放して超えて ブッダは そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも 死ぬことも、生まれることも説かない それこそが苦しい。という『想い』の終わりである (「…である」と定義することはできない。「…である」という『想い』ではない) これも何回も説明しているけど 中観自立 有相唯識 無相唯識 中観帰謬 それぞれ依って立つものが違うでしょ?ということ ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf ダルマキールティ(唯識派) 光が輝くとき その輝くこと(照明)を本性とする故 自己自身を照らす そのように 智慧(と慈悲)も自己を認識する 智慧(と慈悲)は光の如く 照明することを本性とし 他に依存することなく 自ら輝き現われる − これに対して − カマラシーラ(瑜伽行中観派) 恒常な照明されるもの。という『想い』は常住なものとして存在しない ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm 上座部 パオ・セヤドー 智慧(と慈悲)の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてきます そして、たぶん 最終的には 智慧(と慈悲)の光も含めて 縁起している世界を手放して超えて逝く (たぶん上座部系も中観帰謬に近いかもしれない?) ↑間違ってたら スマソ m(_ _)m 現代の科学崇拝においては 大槻義彦教授のように 「インチキだ!ヤラセだ!合成写真動画だ!」と断定する学者も多いかもしれないけど それでも、とりあえず (↓仮設としての。縁起している世界において) ↓検索キーワード ワイルダー・ペンフィールド 魂 イアン・スティーヴンソン(前世の記憶を持つとされる子どもたち) 脳神経外科医 エベン・アレグザンダー(死後の世界) ピタゴラス ゾロアスター教とか 古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から輪廻転生など 古代ギリシアの哲学者プラトン アトランティス エジソン 死者との交信について研究を続けた ttp://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3 死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか? 曹洞宗 内山興正 『霊魂はある』ということで ヨロ m(_ _)m ttps://www.youtube.com/watch?v=crOX7l4xkzs 日蓮宗 三木大雲 京都の心霊(深泥池?) >>735 このベストアンサーの解説は、 確かに親切丁寧でとても素晴らしいものです。 しかしながら、それらは30年以上も前とかならば通用したものであって、 今ではもう古くて時代遅れの内容です。 従って、これでは間違いとなります。 それから説明で使われていた、 「魂」(Jiva/ジーヴア)というのは輪廻主体としての「識」であり、 アートマン(真我)とは異なりますから。 その辺は非常に重要なところなのでそこを曖昧でテキトウでは困ります。 【悲報】早稲田大教授「ピップエレキバンは完全なインチキ商品。なぜ薬事法違反に問われないか不思議」 ・ [471942907] http://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1533015091/ 252 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ d390-kTp/) :2018/07/31(火) 18:19:58.07 ID:zHHz53Gf0 >>20 本当の科学者ってのは、「幽霊はいない」なんてことは絶対に言わない。 その断言自体が、逆に科学的な考え方じゃないから。 本当に科学的な考え方の出来る奴は、ビリーバー達が持ち出す 個々の「証拠」に対して、「それは幽霊がいることの証拠にはなりませんよ」と 反論をするだけ。 これは、「幽霊はいない」と主張することとは、全く別。 「幽霊がいない」ことの証拠もないのにそんなことを断言しちまったら、 自分もビリーバーと同じレベルに堕ちるということを知ってるのが、 真の科学者。 ID:xAjPdnFu師匠本人の個人的な見解が >本当の科学者ってのは、「幽霊はいない」なんてことは言わない ということで良いのかしらん? 或いは(ID:xAjPdnFu師匠本人の個人的な見解ではなくて) ID:zHHz53Gf0師匠の見解のコピペだけ? ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A7%BB%E7%BE%A9%E5%BD%A6 大槻義彦 超自然現象や超能力などを科学者として徹底的に批判する学者としても知られる 「月の石はアメリカの砂漠の石」発言のように 発言や著作では科学界の通説とは違う独自の説を唱えて 反オカルト、月の石捏造説など、彼の専門外の話題発言が多い アポロ宇宙船が持ち帰ったとされる「月の石」はアメリカの砂漠の石と同じもので 世界中の物理学者が分析しても何の科学的成果も得られていないと主張している アポロ月着陸捏造説については 「自分はアポロ宇宙船の月着陸が捏造だと認めたわけではない」としているが 捏造は否定しておらず、「ノーコメント」を強調している 有人宇宙飛行について、投下した費用の割に目立った研究成果が無い 宇宙滞在の実績の意義が見出せないことから、『ブードゥー科学(英語版)』と否定的である _ _ _ ↓おじゃるの個人的な見解としては 本当に月に逝ってたとしても (現代の科学崇拝の測定器などによる分析においては) 「(月の石とされているものは)地球のどこかの石である可能性がある!」という感じがする 魂は巨大妄想の産物である 〜仏教の無我は因縁論です〜 The theory of soul if a product of wishful thinking http://www.j-theravada.net/howa/howa163.html ↓訂正してお詫び申し上げます スマソ m(_ _)m ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%81%AE%E7%9F%B3#%E6%9C%88%E3%81%AE%E7%9F%B3%E6%8D%8F%E9%80%A0%E8%AA%AC 月の石捏造説 『大槻義彦教授が勘違いしてた!』という感じであるらしい (月の石の肯定派による ヤラセ!仕込み!という可能性もあるかもしれないけど…) ttps://indeep.jp/precursor-to-2011-giant-japan-earthquakes-detected/ 巨大地震の前に《異常》が起きていたことをNASAの人工衛星が検知していた 人工衛星からの観測によるデータ 「地震の直前に上空の電子数が増大していた」ということがわかった _ _ _ 大槻義彦教授の場合は 「この上空の電子数を観測をしても、あてにならない それゆえに 上空の電子数の観測は金の無駄使いである!」 というような発言をしてたこともあるようで おじゃる _ _ _ おじゃるの個人的な見解としては 地震の直前に上空の電子数が増大する場合があるのなら (多少の?)金の無駄使いであったとしても 上空の電子数を観測するべきである という見解で おじゃります m(_ _)m >>742 ホント.必死ですよね! 執拗なまでに...。 彼らは何故こんなに繰り返し叫ぶのか? それは、近代仏教学の研究によって彼ら(部派)の間違いが、 つまり、「アートマンは無い」などというのは、 部派によって勝手に創りあげられた教義だったことが明らかにされてしまったからです。 だから、こんなにも必死なんですよね。 >>717 >仏法は無我にて候 >古くからそう言われている 確かにそうです。 それが仏教の一大特徴ともされてきた...。 『「仏教は無我にて候」と昔からいわれている。しかし、最初期の仏教では、無我説ではなく、非我説が説かれていたと見るべきである。 無我説は、そもそもアートマンなるものは存在しないという、高度に形而上学的な議論を骨子とするものであり、釈尊には似つかわしくな い。ちなみに、のちに無我説を唱えた仏教は、輪廻の主体としてのアートマンがないのなら、輪廻や因果応報をどう説明すればいいのかと いう問題の解決に苦心することになる。とてもではないが、無理なことを説明するために、多大な学問的労力が払われた。』 (宮元啓一著『仏教誕生』筑摩書房刊p173-174) 『この無常観をさらに補助するものとして考案されたのが、非我説、非我観である。「我」の原語は、サンスクリット語で「アートマン」、 パーリ語で「アッタン」であり、要するに、先の第三問で見てきた「自己」のことである。自己は、輪廻転生を貫く主体であり、常住にし て不変だとされる。ところで、われわれは、心身を自己だと勘違いすることが多い。だからこそ、人生の無常がわからず、死という無常に 直面するまで、安逸に生きてしまうことになる。これを戒めるために、ゴータマ・ブッダは、心身を五つ要素に分け、そのいずれも常住の 自己ではない(非我)と説いた。これを五蘊(ごうん)非我説という。 ---非我説から無我説へ--- 一方、ゴータマ・ブッダは、経験論の立場をとり、経験的事実を出発点としない、いわゆる形而上学的な議 論には、みずから口を閉ざし、また、弟子たちにも、そのような果てしない水掛け論に熱中して修行がおろそかになることを強く戒めた。 そこで、ゴータマ・ブッダは、日常的な会話には「自己」ということばをふつうに用いているが、自己をめぐる形而上学的な質問には、沈 黙をもって対応した。 ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからしばらくすると、心身のいずれも自己ではないならば、そもそも自己なるものはないのだと する、きわめて形而上学的な無我説が誕生することになった。親の心、子知らずというか、後世の仏教徒たちは、ゴータマ・ブッダの重要 な戒めを忘れてしまったのである。』 (宮元啓一著『インド哲学七つの難問』講談社刊) >>688 >なんで清浄心が無為になるの? >論理が飛躍していますねえ。 >自分がそう思うというそう信じるに止めるのならそれでも良いけど、 >人の前で「本当の仏教では煩悩を制御すると無為なる本性清浄心が出てくる」などという独説を唱えたりはしないことですな。 それこそが本当の仏教だという言い方についてはこの私も控えますが、 しかし、少なくとも大乗(の「如来蔵」)においてはこの自性清浄心を無為法だと理解してホトケの所説とします。 私もこれには大きく同意したいと思います。 注15 『如来蔵や仏性を無為真如とのみはいえないかも知れない。真如随縁を説き、真如は有為法とも密接に関係しているとするから である。なお唯識において阿頼耶識に依付するとされる本有無漏種子と如来蔵や仏性とは同視できないであろう。無漏種子は生滅変化す る有為法であるのに、如来蔵や仏性は無為法としての真如法性と関連して説かれるからである。』(p510) (水野 弘元著『心性本浄の意味』) https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf >これもさ… >結局清浄心というのは現象界の無常無我無自性とは違うものといったらアートマンと変わらなくなるじゃん! >結局清浄心こそがアートマンであるといいたいんでしょ? >あなたが全面的な信頼を寄せている水野弘元氏はそれとは反対のこと言ってますが。 確かに、この私はアートマンと同義だと見ています。 水野氏はそうではないと否定していますけれど...。 しかし失礼ながら、 水野氏はこのことに関して複雑に混乱を起こしてるように私には見えます。 要するに、無理やり一切法の無常・無我・無自性/空の法規と照らして問題有りとして、 これを間違った記述扱いにしようとしているのです。 けれどもそうではなくて、最初から素直に経文の言葉通りとして受けるならば「無為法」としては何も問題はないのであって、 一切法の法規に抵触することはないのだということ。勝手に、“ブッダの教え(言葉)を違法扱い”する姿勢というのはどうにも戴けない。 経文通りの無為ならばブッダの教えとしては何も問題がないのだから。 さすがに水野氏もこの句を混入扱いとまではできないとみえて、そして、いろいろとあれこれ苦心した挙句に、 この自性清浄心は(消極と積極の二つの内の)積極的な清浄のことだなどとします。 そして、その積極的な清浄心は仏典においては他にも説かれている、とするのです。 『それでは浄潔や浄白の意味はいかなるものであろうか。パーリ辞書によれば、これらの語はともに「清い」「白い」「清浄」などと説 明されているが、その具体的な意味は明らかでない。元来清浄ということには積極・消極の二つの意味があると考えられる。積極的な清 浄とは繊濁を除いて洗い浄められた状態であり、心の場合ならば、修行によって煩悩汚濁を除き、清浄なる悟りの智慧が得られた状態を 指すのである。これに反して消極的の清浄とは濁り汚れのない清水や白紙のような状態であり、心についていえぱ、善悪のいずれにも染 まない無記の状態を指す。それでは「心が浄潔である」とは右のいずれの清浄を意味するものであろうか。原始経典やパーリ仏教におけ る心清浄は積極的のものではなく、消極的意味の清浄と考えられる。何となれば、もし心が最初から修行が完成して得られるような清浄 な悟りの心であるとすれば、心は汚れることは決してないであろう。ところが一般の心は汚れることもあれば浄まることもある。(p12) ---中略--- このように、心性清浄には消極的と積極的の二つの意味があることは否定できないであろう。そして心に理想追求への積極的な可能性 や能力としての如来蔵や仏性を認めなければ、修行証果の可能性も説明できないことになる。原始仏教で信等の五根や三無漏根などが説 かれたのは可能性としてのものではないが、心に積極的な清浄のはたらきがあることを経験的事実の上からのべたものであろう。 なお原始経典には有名な自灯明(自洲)、法灯明(法洲)の説法があるが、自(attan, atman)は法という真如や理想を理解し体得する能力 をもった自己であり、理想に向かう心をもった自己である。この意味で、原始経典の中に積極的な自性清浄心もすでに至るところに説か れていることが知られる。流転縁起や還滅縁起を説く四諦や十二縁起の中にも積極的な清浄心が予想されており、仏教の根本目的として の「いかにあるか」「いかにあるべきか」という理論や実践の面も積極的な清浄心なしには存在し得ないのである。 ただこのような清浄心としての仏性や如来蔵を外教のアートマンなどと混同しないようにし、両者の明確な区別をつけて説明すること が必要である。』(同著p509) ず、 根本的にどう読んでも文意として自性清浄心が無為を示す以外にはない文言であるにも関わらず (水野氏の言葉でいうと「消極的清浄」ということか)、 これを勝手に何とか有為(一切法)における我々の日常の心のこととして扱おうとするところにそもそもの無理がある。 そのために水野氏による消極/積極の双方どちらの解釈も間違ったものでしかないのです。 私の理解に拠れば、元々、無為として本来は本質的に自性清浄である心が、 この有為の世界においては煩悩によって覆われて汚れている状態であるというのが我々の仮和合の心です。 この両者は意識の深い深い深層域で繋がってはいるけれども、それぞれが次元の異なる別ものなのです。 無為の自性清浄心というのは無始の初めから清浄のままであり、輪廻していない。 けれども、有為の仮和合の心というのは深層部の輪廻する核コアである阿頼耶識と 死後に間もなく消滅するパーソナリティのマインドとが重なったものです。 まっ、これらのメカニズム解というのは、ヒンドゥー及び神智学を学ばない者は殆ど知らない(仏教枠では解説がない)。 そもそも、 もしもこれがゴータマ・ブッダ自らの言葉(教え)ではないとするならば、 いったい何処の誰がどんな意図で以てこのような誤解を生ずる文句を敢えて挿入したというのですか? 水野氏自身もこのパーリ文は消極的清浄の意味であるから一切法に抵触するものとしています。 まったく以て、オカシイではないですか! であるから、これはゴータマが元々、説いていた教えだと見なすことがごく自然なのです。 なのにこれを無理に抹殺したり、無視しようというのは不自然であって、決してしてはならない悪行でしょうよ。 エッ、違いますか! 『もし心が最初から修行が完成して得られるような清浄な悟りの心であるとすれば、心は汚れることは決してないであろう。 ところが一般の心は汚れることもあれば浄まることもある。』(同著p507) 汚れているのは、正しくは有為における心のこと。 無為の自性心は最初から、そして、今も汚れることはない。 では何故、有為の心というのは最初から汚れているのか? そのことを仏教では「無明」といってるわけですよ 『邪見・俗念に妨げられて真理を悟ることができない無知。最も根本的な煩悩で、十二因縁の第一、三惑の一とされる。 サンスクリットでアビドヤーavidyā。原始仏教においては〈四諦の理を,あるいは縁起の理を知らないこと〉が無明であ ると定義される。』 (「デジタル大辞泉の解説」より)。 >自性清浄心思想に対する論難の一つに、「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。 >如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。 >これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。>>662 http://fallibilism.web.fc2.com/023.html 「無明」について分からないというのは当たり前のことであって、 これを説明しなかったのはゴータマ当人なのだから(なので、悪いのは別に如来蔵派ということではない)...。 尚、ヒンドゥー及び神智学を学ぶ者は当然、その理由や原因についてはよく分かっているので、 それらの初歩的な疑問はすべて解消しています。 しかし残念ながら、仏教では多くの事柄に対して説明無しということが多々あって、 それでも平均的な仏教徒というのは、それ以外を学ぶことがないのでいつまでも無知のままです。 テーラワーダ信者のようになると、仏教以外はすべて低い教えで迷信扱いと洗脳されているので、 自ら他の思想や宗教を真剣に勉強しようとする人は殆どいない (彼らの知っている情報はすべてテーラワーダ発信のものばかり)。 以上. >>712 >究極的には、我(アッター)も無我もないのだ。 アートマンを自覚するということは、 それまでの自我意識(個我/分離的な「個」としての意識)は消散するのです。 >>718-719 それらはすべて有為法の説明です。 アートマンはそれらに抵触しない。 >>713 >脳科学が仏教に同意「無我を全面的に認める」! 一方、ダライ・ラマは「科学に改宗してもいい」 >https://a.excite.co.jp/News/odd/20170202/Tocana_201702_post_12191.html 「有為」である「一切(法)」が無我(そこではアートマンと認知できるものはない)なのは当たり前の話です。 それは真理なのですから、私はそのことを否定したことはありませんよ。 ただし、アートマンは最初から有為などではないので、それらの無我の教えには何も抵触しないということ。 そのことを分からない者だけが「無我だからアートマンは無い」と連呼するのです。 >ところでテーラワーダに限らずダライ・ラマにしても他の仏教宗派にしても我(アートマン)の実在を認めている宗派はありませんよ 私も猊下のことは、 仏教と出逢って以来〜35年間ずーと尊敬しています。 2015年ダライ・ラマ法王14世来日法話「般若心経・菩提心の解説・観音菩薩の許可灌頂」 の法話の一部を地方の映画館にて拝聴もしました。 しかし、だからといって全面的に何でも信じるわけではないし、 法王が観世音菩薩の化身だなどとは見てはいません(歴代数回の法王の転生には間違いないものとみてるが)。 そして、仏教史から判断して、「原始仏教→根本二大分裂→部派仏教時代→現在における南方北伝の各諸派」なので、 現存する仏教教団で部派仏教の影響を受けていない諸派は一つも存在していません。 当然、ダライ・ラマ法王とて然りです。 『第一の理由は、原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。すでに前項で見たように、原始仏教に おける無我説は、決してアートマンが存在しないとは説いておらず、むしろ実体として固執する種々のアートマン論の過誤を指摘 して、論理的実践的な意味における本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。その後、アビダンマ教学の盛んな部派の時代 に進むと、積極的にアートマンは存在しないと主張することとなり、本書の編纂された時代は、こうした考え方が支配的であった。 したがって、仏教の無我説は時代の変遷とともに、その解釈が大いに変わった。無我即無霊魂という考え方もその所産である。ナ ーガセーナ長老もアビダンマ教学の説く無我説の立場から、無我とは無住普遍の実体のないことであり、個人にとっては実体とし ての人格的個体の存在しないことであり、更に無霊魂である、と明言している。 ブッダの時代にあっては、決して霊魂の有無を論じなかったし、仮に論じたとしても、それは宗教的実践に何ら役立たない形而 上学的論議として斥けられていたものである。保守伝統教学をもって特色とする部派のアビタンマに至って、ブッダの説いた真の 意味の無我説がゆがめられたのには、それ相当のわけがあった筈である。つまり、人間性の探求と真実の自己の実現という、生き 生きしたブッダの無我観が、部派仏教になると、アビダンマ教学の得意とした精神現象の分析と、およびバラモン教神学の有我論 との対決という観点から、“我を立てない”無我論へと移っていったのである。シナでは、アナートマンを無我と非我との二つに訳 したが、今日、一般に誤って無我を“我がない”ととるならば、むしろ、“我でない”という意味の非我の訳語のほうが、最初期仏 教のアナートマンの原義にふさわしい。』 (『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊p75-95) >>715 >仏典に書いてある書いてないでなく、 その経典の記述を最重視しない姿勢というのは “禅の傾向”“禅宗の特徴”なのだろうか? 結局、座禅にひたすら専念するということなのだから (臨済の公案もあったり、作務行も当然大切だけれど)、経典の記述などは二の次だ。 要するに、経典に書かれてある内容をどれだけ知っているか、理解しているかは然して問題とはならない...。 それよりも、師僧(老師)からの指導が最重視だから。 で、その導師グルが間違ってれば皆んな間違うのだから、洗脳のコワイところだけれども...。 かつて私が電話で輪廻についての宗派見解を教えるよう呼びだした黄檗宗の大本山萬福寺の高僧 (電話で呼び出したので幾段階かの高僧には間違いない)なんかは、 「そんなものはない」と荒々しい声を張り上げて豪語して私からの電話を切った。 どうも何故だか、禅宗僧侶には輪廻すらも否定するような唯物論者らしきが多いような印象を受ける。 南 直哉とかいう曹洞宗の禅僧もそう。輪廻などまるっきり信じちゃいない。 それで自分は僧侶には向かないものとかなり葛藤する経験をするのだけれども、 「そういう者は僧侶はやるな!」とこの私はいいたい。 まったく向かないし、するべきじゃないから。 良く見られるような、ただ単に家の寺院を継ぐために止む無し...などというのは、 信者たちに対して失礼であり、唯物論者の僧侶による引導や年忌法要など...は、 ハッキリいって詐欺に他ならないから。 >>716 手法が異なるから別の宗教だとはもちろんその通りです。それはいい。 では、手法が異なるとその結果(そのゴール)も異なるのか、否か? 「その時になりゃ嫌でも分かるさ」だから、 今はそのことは問わないとするのは、もちろん構いません。 しかしながら、その判断の危ういことが指摘されているにも関わらずそのことには目耳を塞いで、 ヒンドゥーを間違いと決め付けて馬鹿にする。 尚且つ、仏教だけが唯一の真理でありそれ以外は間違った低いものと断罪するのは如何なものか? 私は、“自分の信じる宗教だけが唯一の真理”と説いているところでロクなものを知らない。 そのようなことを主張する宗教にはロクなものがないのは歴史が証明してきた。 『この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのように さまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。(891) ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の 諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。(891) 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、 「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。(891)』 (スッタニパータ) これらが仏教徒(現テーラワーダなど)には当て嵌らないなどと、 どうしていえるのですか? >>692 >宝珠は、仏教系大学で、 『インド思想史』そのもの を、一から学び直すべきだと、 >心の底から思う。 by7 ならば、 駒澤大にでも電話して聞いてみますか(それともメールかな)? う〜〜む...。いや、それはやっぱり、どうも気が重いよなぁ.あっははは!!(苦笑) では、 一代によって“近代仏教学の天才”と評され、 何とあの長老からも 『石飛道子先生は、元々は 仏教が専門で、上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ長老をして 「日本の仏教学者で仏教を一番理解しているのは石飛先生だ」と言わしめた方(石飛先生は専門は大乗仏教の方のようですが・・)。』 https://kelp.jp/blog/other/1425/ ともいわれている期待の学者さんなので、まずこの石飛女史に答えてもらうこととします。 以前、女史とは軽くメールを交わしてもいますが(面倒なのでそのことは伏せて)、ごく簡単な質問に対して返答してもらいます。 果たして、一体どういう返答を書いてくるのでしょうか? わたしにもまったく分かりません。 想定通りか、いや、それとも想定外でしょうか? ワクワク いずれにせよ、その返答については私も真摯に受け止めて今後の良き参考にしたいと思います。 質問はちょうど今、ここで議論して私から仏教の無我の教義に関して主張している疑義についてです。 それを公開のBBSで投稿して、そこで返答を頂こうかと思います。 尚、議論する意図はまったくありません。 >>727 >金剛界法 胎蔵界法 如意宝珠法 護摩法とか(無料で公開して) >教えて頂きたい所存で おじゃります m(_ _)m >越法罪とかがあるので >正式な真言宗の僧侶じゃなきゃ無理だと思うけど… ちなみに私個人は、 “密教にもっと深く参入してこれを極めたい”的な想いはまったく以てない。 それだったら、最初から迷わず正式な密教僧への道を志す。 もしも、僧侶にならず護摩を自分で焚けるところまで修得するのなら、 阿含宗に入会して1回10万円以上の伝法勧請を何十回?と受講していくか、 何処かに師僧を見つけて在家のままでも伝授して頂けるよう自分を認めてもらう以外ないのでは? あとは、醍醐派系や真如苑とかならば道が開かれているかもしれないのと、 或いは、山岳修験道(山伏修行)ならば護身法と不動金縛りの術、九字と早九字は修得できるでしょう。 在家として勉強できる書籍は、現役真言僧が著した『実修 真言宗の密教と修行』くらいでしょうか。 この書籍で密教僧による十八道(十八契印)の解説を写真付きで知ることができる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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