外道の独り言 9

1神も仏も名無しさん 2018/05/12(土) 05:57:04.76ID:wjY7fqmc
 
「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです

自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524

前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html

2おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 06:03:31.77ID:wjY7fqmc
 
前スレは
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/764
でdat落ちした? おじゃる?

前スレの764
>「法」と言えば、「涅槃」も

根本仏典
上座部
苦集滅道という文脈においては

仮設としての
縁起している世界を手放して超えて
悟りに至るための菩提分法という法である。という感じがする

たとえば
スッタニパータ 21

激流を克服して
(縁起している世界を手放して超えて)
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない

この彼岸(涅槃)の世界においては
仮設としての
縁起している世界を手放して超えて
悟りに至るための菩提分法という法も
すべて一切の諸法という法も
手放して超えている

この文脈においては
彼岸(涅槃)の世界は
法である・法ではない。と掴もうとしている『想い』ではない

3おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 06:28:14.83ID:wjY7fqmc
 
とりあえずの?キーワード

六師外道
ヒンドゥー(バラモン)

釈迦

根本仏典
中観派
瑜伽行派
密教

前スレの764の
ID:yIp2CHvG師匠は中観帰謬派の系統なのかしらん?

ちなみに
おじゃるは
中観自立派のような系統なので
「我所もある我もある」と妄想しちょりまつ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E6%88%91%E6%B5%84
常楽我浄

仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を手放して離れ、如来我(仏性)がある

4おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 07:10:27.32ID:wjY7fqmc
 
おじゃるは
幽霊肯定派なので
とりあえず

ttp://www.gibe-on.info/entry/spirit-spot/
心霊スポット

ttps://vimore.org/watch/A9R4X8Rb31Q/
不動産物件紹介ページの心霊写真

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E6%95%B7%E7%AB%A5%E5%AD%90
座敷童子(ざしきわらし)

5神も仏も名無しさん2018/05/12(土) 12:38:05.99ID:MESLRBwH
アーチャン・チャー「無常の教え−手放す生き方2 苦しみの終焉」(3)

●世間の人々は幸せになることを望む。彼らは苦しみを望まない。だが「ニッバーナ(nibbana涅槃)」とは、望むこと・望まないことを「超えたもの」だ。

●ブッダは「空を理解する者を、死王は追うことができない」と言った。空を理解したとき、死は私たちに影響を及ぼすことはできない。なぜなら、そのとき「私たち」というものは存在しないから。

●ブッダは私たちに「我見」(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いた。
もし、我というものが施説(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わる。
http://samten.seesaa.net/article/446643678.html

6神も仏も名無しさん2018/05/12(土) 14:27:46.01ID:fuMVRi82
わかる

7宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/12(土) 16:15:39.55ID:TscNnaUU
>>1
おじゃるさん、スレ立て乙!!!

私の述べてることは、
あなた方には簡単には理解されないということは最初から分かっています。
もしも、そのことが本当に判れば、とっくに“仏教徒ズラ”(自称仏教徒?)なんかしなくなるからね。
今はまた時間が無いので、またおいおい少しずつ投稿していきます。が、
とりあえず、これを指摘しておきます。

8宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/12(土) 16:16:38.49ID:TscNnaUU
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/764
>>前スレ764
>最初から自我はなかったのです。
>自我があるとは人間の錯覚·幻覚です。
>覚りに達する人には、自我の錯覚が消えます。
>覚った人に、今までなかったアートマン (自我)が突然現れるはずはないのです。
>涅槃も無我です。

8.3 第三の涅槃に関することの経
 【比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。
比丘たちよ、もし、その、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が有るこ
となくあったなら、ここに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離は覚知されないであろう。比丘たちよ、
しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在する
ことから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される」と。】
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html

はい、
では『〜からの出離が覚知される』というのは、
つまり、誰が覚知してるのか?
涅槃を涅槃であるとして覚知するのは誰か?
涅槃を認識している主体は誰だ?

もしも、本当に無我(自我意識の主体がないこと)ならば、
涅槃を出離したことを認識できない筈ですが。。。

長老さんよ、
この決定的な経文と矛盾することを仏法として語るでないと、
この私はいいたいね。

そもそも最初から、
ゴータマは無我(我は無い)などとは説いてないのだから。
「我は無い」として述べている経文といものは何処にも見つめることはできないのだから。
無我を我は無いという教えにしたいというのは、
あなた方の感情論(バラモン・ヒンドゥーとは異なる仏教の決定的な一大特徴にしたいという想い)に過ぎない。
所詮、それは部派が勝手に言い出したことに過ぎないから。
もしも、ゴータマが今ここにおられたら、
唖然として、「私はそんなことはいってない」というでしょうね!

9神も仏も名無しさん2018/05/12(土) 16:42:26.83ID:iEhhy6sL
>>5
このアーチャンチャー というのはタイのテーラワーダ 比丘で現在の阿羅漢とも言われている
ただしテーラワーダは阿羅漢であることを自称するのは在家の崇拝の対象となり利益誘導に繋がるために禁止されている

10おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 16:43:41.97ID:wjY7fqmc
 
>私の述べてることは

おじゃるの書き込みも「理解されない」という感じがする

宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする

神智学
神あるいは超越者が叡智的性格をもち
宇宙や自然もこのような叡智からつくられ
人間の智も神の智に通ずる性格をもっており…

クンダリニー
宇宙に満ちている根源的エネルギーを中心として
人体内に存在する根源的生命エネルギーが現れる

仮設としての
人間本位の自我を手放して離れ
仏や涅槃の境涯は − 如来我(仏性)

仏性からの真如縁起をもって
種子と現行の頼耶縁起を観照する

解脱智見
(縁起している世界からの)解脱を知覚して
涅槃に住む

どこの誰が? − 如来我(仏性)が涅槃に住む

11パーピマン2018/05/12(土) 16:46:07.86ID:g2ZyMaqF
新スレ立て乙

12宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/12(土) 17:08:43.55ID:TscNnaUU
>>10
おじゃるさんのことは、
とても真面目で熱心な方だといつも感心していますよ。

確かに、
おじゃるさんは知識もあるし、情報も得られる。
けれども、>>10のような、突然的なただの羅列的なものは何の繋がりも無く、
ただの知識の露呈にしか見えないのでは?

あとは、
あくまでも投稿においては基本的に、
“相手との対話形式”にすることを肝に銘じて心掛ければ問題ないと思う。
おじゃさんにはそれがいつも不足してると私は思う。

それといつもそうなんだけれど、
それが“自分自身の言葉”なのか、それとも引用した転載文なのかの違いはもっと明確にして欲しい。
必ず何か分かるような【】『』で以て区切って締めるというようなことはどうかお願いしたい。
ソースのアドレスリンクを付けるだけではダメだと思う。

〜ただそれだけ

13おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 17:33:08.69ID:wjY7fqmc
 
自分自身の言葉はほとんどないでつ

今は
大乗1.0の世界観をもって
般若の智慧と慈悲をもって
上座部 2.0の実践をする
3.0のpodcast法話を前提としているので
それゆえに
おじゃるの書き込みも「理解されない」という感じ

ちなみに
中観自立派の説明も
自分自身の言葉はほとんどなくて

チベット ゲルク派の
中観自立派を前提としているので
「理解されない」という感じ

>涅槃を認識している主体は誰だ?

解脱智見
如来我(仏性)が
(縁起している世界からの)解脱を知覚して
涅槃に住む

という相手との対話形式になってる おじゃる

14宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/12(土) 19:10:55.17ID:TscNnaUU
>>13
最近、使っているその1.0-2.0-3.0...というのは何?
簡単に説明もらえる??

15おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 20:00:01.97ID:wjY7fqmc
 
仏教1.0
中国経由の日本の大乗(禅宗とか)

仏教 2.0
1990年代後半から日本に入って来たテーラワーダ(上座部、南方仏教)

仏教3.0
両者の資産を活かしつつも両者の問題点を克服した仏教のあり方

ttp://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-13592-1/
〈仏教3.0〉を哲学する
藤田一照 / 永井均 / 山下良道

日本の伝統的な〈仏教1.0〉
上座系瞑想実践的な〈仏教2.0〉
共に包み超えて、新たな〈仏教3.0〉を提唱

藤田一照 − 曹洞宗の僧侶
山下良道 − 元曹洞宗の僧侶・元テーラワーダ僧侶
永井均  − 日本大学文理学部 哲学科教授

大乗の
般若の智慧と慈悲をもって
上座部 2.0の実践をする
3.0
という感じ
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24 藤田一照:魚川祐司:山下良道
podcast法話

如来我(仏性)から → 縁起している世界を見れるのか?という対話

16おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 20:34:54.52ID:wjY7fqmc
 
2016〜2017に鎌倉の
一法庵に逝ってたときには

ヨーガの専門の先生が
瞑想状態を維持するために身体を整えるヨーガを実践を教えていた
そして
それから
3.0として
山下良道僧侶が
上座系瞑想実践へと進めていく

たぶん今でも
ヨーガの専門の先生が
瞑想状態を維持するために身体を整えるヨーガを実践を教えていると思う

身体を整えるヨーガを実践をして
思考している空間とは → 別の空間に入る

そして、この別の空間から観察して
縁起している世界を
身体を
地水火風の微細な粒子に分解する

ちなみに
おじゃるは
約一年位は鎌倉に行ってたけど
この四界分別という観察は出来なかったけど…
(「意識の集中が出来なかった」という意味でつ)

17おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 21:00:40.23ID:wjY7fqmc
 
身体を整えるヨーガの実践をして
思考している空間とは → 別の空間に入る

この別の空間から観察して
縁起している世界を
身体を
地水火風の微細な粒子に分解する

そして
それから
第一禅定
五禅支の一番目
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
呼吸の観察に戻す
思考している空間から → 別の空間に戻す

3.0の場合は
(仏の世界からの現れなので、それゆえに)
仏の世界に戻り帰る
という説明になるのでつ

ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
上座部 パオ・セヤドー

通常は、四界分別観から始めなければなりません

18神も仏も名無しさん2018/05/12(土) 21:01:43.39ID:yIp2CHvG
≪三つの解脱≫

 仏教とは、解脱という最終目的を目指して実践する教えです。
お釈迦様は「解脱(涅槃)という境地について、概念を用いて語ることはできません」と、おっしゃっています。
何でも論理的かつ明確に説かれるお釈迦様が、解脱とはどういうものかについて説明しなかったのは、解脱という境地は神秘的なものであると言うためではありません。
解脱という境地は生命の理解能力範囲を超えています。概念の範囲を超えています。
ですから、解脱の状況を説明する言語は存在しないのです。

お釈迦様が説かれた解脱の説明は、間接的です。
例えば、“ 一切の苦しみを乗り越えた境地”、“生死を乗り越えた境地”、“超越した境地”、“不死なる境地”などと説明されています。
また、否定形の形容詞で語られた言葉もたくさんあります。
“ 不貪不瞋不痴の境地”、“ 輪廻転生しない境地”、“ 再び生まれない境地”、“不生不死の境地”などです。
否定形の形容詞は、解脱について、分かったような分からないような気にさせます。
なぜならば、そこで否定されている無常・苦・生・死・貪瞋痴・煩悩無などは一般常識で理解できるからです。
それらの否定なので、分かったような分からないような気がするのです。
 解脱を説明した具体的な例を挙げると、「涅槃に入られた聖者はどうなるのか?」という質問に、炎の喩えでお答えになっています(火ヴァッチャ経)。
「油と芯があって、炎が燃え続けます。もし油か芯がなくなったら、炎は消えます」と。
そのとき、「その炎はどこへ行ったのでしょうか?」と質問されても、それは答えられません。
言えるのは、「原因がなくなったから結果もなくなった」ということです。
煩悩があるから、五蘊で生命が構成されて変化し続けるのです。煩悩を完全に断ったところで、五蘊の構成が終了します。
生命体として輪廻転生することが終了するのです。

19神も仏も名無しさん2018/05/12(土) 21:02:46.24ID:yIp2CHvG
 このような説明を聞くと、涅槃とは虚無の境地ではないかと勘違いします。
かつて仏教を研究した西洋の学者たちから、「ブッダは生きる苦しみに対して虚無の境地を推薦しているのだ」と言われたこともありました。
これはそれほど突飛な意見というわけではありません。
お釈迦様の時代にも、「ブッダは虚無を説く人である」との批判を受けたことがありました。
お釈迦様はその批判に、「私は一切の煩悩の断滅を推薦するから、虚無主義者だと言われても構わない」とユーモア的に答えられています。
 それでも最終解脱について「言葉で語れない」ということは、知識でものごとを理解しようとする人々にとっては曖昧な表現に映るのです。
ブッダは曖昧な表現を徹底的に避けます。次のように、弟子たちに「比丘たちよ、涅槃という境地がある」と明確に説かれるところもあります。  
 比丘たちよ、生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、という[境地 ī が ある。
比丘たちよ、もしも、その生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、
という[境地]がなければ、生まれるもの、存るもの、造られたもの、作為されたものに救済はなくなるのです。
しかし比丘たちよ、生まれることがない(不生)、…… という[境地]があるゆえに、生まれるもの、……に救済があるのです。
                        (ウダーナ八章三経)    

20神も仏も名無しさん2018/05/12(土) 21:03:29.56ID:yIp2CHvG
 大変難しいフレーズですが、意訳してみれば簡単に理解できます。
「涅槃という境地があります。涅槃という境地がなかったならば、輪廻転生して苦しんでいる生命に何の望みもありません。
しかし涅槃という境地があるからこそ、苦を転生している生命に、救済の望みがあるのです」という意味です。
 というわけで、人間が目指すべき唯一の目的は解脱になります。
解脱はゴールなので、当然一つです。種類の違う複数の解脱がある、という考えは論理的に成り立ちません。
 では、それなのになぜここで、空解脱、無相解脱、無願解脱という三種類になっているのか、それを理解する必要があります。
これは決して、三種類の解脱がある、という意味ではないのです。実践する修行者の観察の仕方によって、また、「どのように真理を発見するのか?」ということによって、三種類に分けているだけです。
喩えで言えば、東京にいる人が大阪へ行く場合に、交通手段として飛行機を使うか、新幹線を使うか、夜行バスに乗るか、という差のようなものです。
旅の経験はそれぞれ違いますが、着くところは皆、同じです。


アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ 第七巻・第八巻[合冊版]

21神も仏も名無しさん2018/05/12(土) 21:16:50.61ID:yIp2CHvG
ブッダ ラボ - Buddha Laboratory
無我って怖すぎ?【無常・無我】前編
 より抜粋

すべての生命には、自分がいるという実感があるんですよ。それで生きているんだから、無我と言われると不安になります。

結構不安がる可能性があります。

どれほど不安になるかというと、お釈迦様は初めから「無我で、因縁性です」と言われたのに、涅槃に入られて100年も経つと、仏教の中からあらゆる工夫をして「何か実態があるんだ」という必死で言いたがる声が出てきたんですね。

「我」と言う言葉を使わないようにだけ気を付けて。それを使っちゃうとやられますから。その代りに他の概念を作るんです。法身とか仏性とか。何か変わらないものを作ったりするんです。

結局は永遠不滅の我があるんだというところに戻ってしまったんです。ブッダの話は消えてしまった。元の原始人の話に戻りました。
これくらい人間が、我と言う幻覚に頼っているんです。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/04/05/050000

22おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 21:24:11.52ID:wjY7fqmc
 
>涅槃という境地がなかったならば、輪廻転生して苦しんでいる生命に何の望みもありません

ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める

無限に続く輪廻の運命から抜け出す
そのための
クンダリニー
宇宙に満ちている根源的エネルギーに戻り帰る
(「仏の世界に戻り帰る」と同義語として)

釈迦の場合は
六師外道だったかもしれないウッダカ・ラーマプッタの
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も手放して超えて
縁起している世界を手放して超えて
そして
解脱智見
如来我(仏性)が
(縁起している世界からの)解脱を知覚して涅槃に住む

23おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/12(土) 22:08:06.78ID:wjY7fqmc
 
>法身とか仏性とか。何か変わらないものを作ったりする

仏性という言葉を使ってはダメなの?

それでは、その代わりに
衆生が持つ
仏としての本質、仏になるための原因
覚性(かくしょう)
仏種(ぶっしゅ)
如来蔵(にょらいぞう)

さとり(菩提)を求める心の働き
菩提心(ぼだいしん)

真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのもの
法身仏(ほっしんぶつ)
自性身(じしょうしん)
法性身(ほっしょうしん)

光り輝いている(仏そのもの)

ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0071/DY00710L019.pdf
ダルマキールティとかの場合は
光が輝くとき
その輝くこと(照明)を本性とする故
自己自身を照らす
そのように
智も自己を認識する
智は光の如く
照明することを本性とし
自ら輝き現われる

24神も仏も名無しさん2018/05/12(土) 22:56:00.17ID:yIp2CHvG
>>23
>仏性という言葉を使ってはダメなの?

ブッダ ラボ - Buddha Laboratory
2017-02-03
人は生まれながらに仏性を持っているのか
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2017/02/03/050000

25宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/12(土) 23:27:18.29ID:TscNnaUU
>>19-20
>比丘たちよ、生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)--中略--
>大変難しいフレーズですが〜

だから私は、その涅槃を涅槃であるとして、
涅槃ではないものからの出離として覚知しているのは誰なんだと聞いてる。
まっ所詮、あなた方には絶対に答えられる筈がないが...。

>>21
>お釈迦様は初めから「無我で、因縁性です」と言われたのに、涅槃に入られて100年も経つと、
>仏教の中からあらゆる工夫をして「何か実態があるんだ」という必死で言いたがる声が出てきたんですね。

イヤハヤ逆ですよ。まったくの真逆ですから!
ゴータマは元々から、「アートマンは無い」などとはいったことがないのに
(「アートマンはこの現象界では知覚されない。故にアートマンでないものをアートマンと誤認することなかれ」といっただけ)、
ゴータマが涅槃に入られてから100年以上を経過してから発生した部派仏教らが、
勝手にゴータマが、「アートマンは無い」と説いたということにしたのです。
このことは、学問的にほぼ確立した事実であり、すでに定説となっているのです。
あらゆる工夫(これには工夫はいらなかったが)をして「バラモン・ヒンドゥーなどとは仏教は違うんだ」と必死に語る派が出てきた。
現存する仏教教団のすべてはこの部派の教義であるアビダルマ(の影響)というのを受け継いでいる。

26神も仏も名無しさん2018/05/12(土) 23:42:35.94ID:yIp2CHvG
 インドには、サンスクリット語でローカーヤタ ワーダ「Lokāyata vāda」という、唯物論のとても優れた哲学学派がいました。
彼らは、徹底的に攻撃されたため、テキストとしては一冊だけ、ジャヤラーシ( Jayarāśi)という人による『Tattvopaplavasiṃha』というたいして古くないもの(紀元八〇〇年頃)が遺っているだけです。
しかし、お釈迦さまの時代から、唯物論を語る人々はいました。
 お釈迦さまと同世代のアジタ・ケーサカンバラ(Ajita Kesakambala)さんは、生命は「地」「水」「火」「風」という四つの物質元素と、「感覚器官」でできていると考え、人間は死ぬとすべてが無になると考えました。
その詳細は略しますが、いわば「魂はない」という話です。
 しかし周囲からは、「魂はあるに決まっている」と激しく攻撃されます。
そこで唯物論者たちがとった態度は、一種の妥協でした。
「魂はある、ただし、魂は物質だ」と主張したのです。
 ところが、「魂が物質であるはずがない」とまた激しく攻撃されます。
そこでまた妥協をします。「感覚器官が、考えたり見たり聞いたりする。それが魂だ」と。
「だから、死んでしまえば魂は空に飛んでいく。遺体を焼けばボーッと出ていってしまうのだ」というのがアジタ・ケーサカンバラさんの主張でした。
アジタ・ケーサカンバラさんは厳密な唯物論の哲学者で、「魂は不滅である」という説は否定しましたが、それでも「魂はない」とまでは言えなかったのです。
 こうして唯物論者たちは、何とか自分の立場を守ろうとしました。
しかし、唯物論者でさえ「魂はない」とは言えないのは、なんと恐ろしい状況でしょう。
 このように、 宗教・哲学・文学・民話 などのすべてが、魂 =「我」があるという立場で語られてきました。
私たちは数千年の間、「魂はある」という思い込みの 世界で生きてきて、進化してきたのです。
 ですから、 私たちの頭の中や遺伝子は、お釈迦さまが語られる「無我」を理解できるようにはなっていないのです。
一般常識的な立場では、無我を理解することはできません。「私たちには無我を理解できるだけの知識能力がない」ということです。

アルボムッレ・スマナサーラ. 無我の見方(サンガ新書): 「私」から自由になる生き方

27宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/13(日) 00:32:14.15ID:fK9V61Py
>>26
>  このように、 宗教・哲学・文学・民話 などのすべてが、魂 =「我」があるという立場で語られてきました。
> 私たちは数千年の間、「魂はある」という思い込みの 世界で生きてきて、進化してきたのです。
>  ですから、 私たちの頭の中や遺伝子は、お釈迦さまが語られる「無我」を理解できるようにはなっていないのです。
> 一般常識的な立場では、無我を理解することはできません。「私たちには無我を理解できるだけの知識能力がない」ということです。

半分は合ってるが、半分は間違ってる、だから50点だな。
昔から、人間が永遠不変の魂を想定して信じてきたというのは、確かにその通り。
いや、もっと正確に言うと、人間は死後に存続する意識(魂)という概念を持つことで初めて動物から人間となった。
それまでの我々の古き祖先たちというのは、死んでしまった家族の遺体を埋めることはあったが、
それは死を忌み嫌うものであり、また病死の伝染を遮断したい意志などの顕れに過ぎないだった。
しかし、やがてこの祖先たちは自分たちの家族が死ぬとその遺体を手厚く葬る行為をするようになる。
花を手向けて、死後の生活に困らぬようお供えを捧げ続けるようになる。
これらは明らかに、死後の生存を想定したもの。
だから、人間は死後の魂という概念を持つことで初めて猿から進化したというのです。
〜これはとても有名な学術的な定説としてある。

28神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 00:32:59.16ID:qfYii/HC
<『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。>

この説明にある「生じる」「成る」「作り為される」「形成される」というのは、素朴な直感による認識(例えば、肉体が生じるというような)、すなわち、感覚器官と知識とに基づいて自動的に私たちの心に生じる認識を意味していると解釈します。
人間社会で育つ過程で私たちは自然に「この肉体は私のものだ。この肉体が私なのだ。そう考えている心も私の心なのだ」というような認識を持つようになります。
そして、この認識が正しいと確信するようになるのです。

8-3の感興の言葉は、そういう世間的な認識は誤りであり、そういう認識の仕方をしないのが「涅槃」なのだとお釈迦様は説明しているのです。

正しい理解の仕方ではないかもしれないが、この立場は、例えば肉体は有るのかそれとも無いのかというような考え方をしているのではないということだとも言えそうです。
認識の対象の有無や本質、性質などを云々しているのではないのです。
認識の仕方そのものについて追求しているのだと思います。

29宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/13(日) 00:33:11.15ID:fK9V61Py
ただし、大衆たちの想いのその殆どはただの盲目的な信仰であり、
ただ永遠でありたい(永遠に生きて欲しい)とするだけの願い(迷信)に過ぎないものでした。
やがてバラモン教が起こって、ゴータマ当時のバラモン司祭や行者たちの中には、自らアートマン(との合一)を自認する凄い者たちも出てきた。
しかし彼らでさえ、ゴータマから見れば、それらはただ誤認しているに過ぎないものだった(それがパーリ『梵網経』)。
つまり、ゴータマ的にいうと、それは「アートマンではないものアートマンとして見なしていた」のです。
ゴータマの説く輪廻基体であるところの識蘊(後の大乗が説くアーラヤ識)との合一を果たすと、行者は様々な驚異的な能力を発揮するのです。
しかし、これをアートマンとして誤認したままでいれば、遂に涅槃に到達することはないということ。
最終的に本当に難しいのは、自己存在は永久不滅であるということを“自覚すること”です。
それ以外のすべてが無常であり、苦を生ずるものであり、真実において価値の無いものです。
この自己が涅槃にあることを自覚する意識こそがアートマンに他ならない。
それ以外に、涅槃を涅槃であるとして覚知することはできないのだから
(何故なら、涅槃とは現象界の一切有為を超越したものだから)。

30宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/13(日) 00:37:50.05ID:fK9V61Py
>>12
追記:

それと資料(根拠としてのソース、サイトや論文書籍の紹介と引用)
の提示は価値があり、必要かつ重要なことであるけれども、
しかし、最終的に相手(の心)に訴えるものはあくまでも自分自身の発する言葉だということ。

31宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/13(日) 00:53:20.55ID:fK9V61Py
>>28
前段はいい...。
としても、

>認識の対象の有無や本質、性質などを云々しているのではないのです。

明らかに私からの問いからの逃げだな。
まっ、所詮は絶対に答えられないし、仏教信奉者にとっては答えたくない事柄なのだから。

涅槃でないものからの出離を覚知しているのは誰だと聞いているのに、
それには答えられないとは、...これ如何に?
「分からない」からではなくて、答えたくないのでしょう!

タイのテーラワーダ仏教僧プッタタート比丘は、
「涅槃をアートマンと呼んでも良いのだが、仏教では人格化を避けてこの表現を使わないのだ」と述べたらしいけれど、
同じ現存する伝統テーラワーダ僧侶でも、スマ長老とは随分と心の素直さが違うね。

32宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/13(日) 01:06:54.37ID:fK9V61Py
>>25
追記:

>ゴータマが涅槃に入られてから100年以上を経過してから発生した部派仏教らが、
>勝手にゴータマが、「アートマンは無い」と説いたということにしたのです。
>このことは、学問的にほぼ確立した事実であり、すでに定説となっているのです。
>あらゆる工夫(これには工夫はいらなかったが)をして「バラモン・ヒンドゥーなどとは仏教は違うんだ」と必死に語る派が出てきた。

これ(部派の勝手)をゴータマの真実の教えだと信じた仏教徒たちは、
何度いって聞かせても、これがゴータマの教え(無我)なんだといって頑なに人の話を聞かず、
そして遂には、インドでは誰からも相手にされなくなって信者が絶えて滅んだ。
密教化とイスラムからの破壊などもあったが、信者が減少の一途をたどったのはこの間違った無我の理解に他ならない。
つまり、仏教界にとっては最も罪深いのがこの無我の誤解だった。
歴史的には、バラモン的アートマン論を知らない外国において仏教は栄えることができた。

33神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 01:12:26.71ID:NYT8OvrL

34神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 01:19:08.59ID:NYT8OvrL
>>31
お釈迦さまは我はアートマンによって涅槃を知覚したとか、死後アートマンが残るとか、そういうことは一度も口にはしなかったのです。
ヴァッチャ火経でも如来の死後について尋ねるヴァッチャにアートマンなる言葉は全く使いませんでした。



>「認識することによって「私がいる」と言うだけなのですが、その認識することができなくなったら(認識の流れが止まったら)そこに「私」はいるのでしょうか?
>「私」はどうなったのですか? 次の状態はどういう状態ですか? 何も説明できません。
>次の状態は認識できない状態ですから、何の言葉も、何の存在の次元も当てはまらないのです。
>どんな理屈でも考えられません。言語の世界も、体験の世界も、思考の世界も、すべて終わりです。」(スマナサーラ長老 ブッダの実践心理学 勝義諦4:涅槃は寂静)
https://samgha.co.jp/blog/%E3%80%8C%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80%E3%81%AE%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E7%89%B9%E5%88%A5%E8%AC%9B%E7%BE%A9%E3%80%8E%E6%B6%85%E6%A7%83%EF%BC%88%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC/

35神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 01:21:30.26ID:NYT8OvrL
>>25
>ゴータマは元々から、「アートマンは無い」などとはいったことがないのに
>(「アートマンはこの現象界では知覚されない。故にアートマンでないものをアートマンと誤認することなかれ」といっただけ)、
>ゴータマが涅槃に入られてから100年以上を経過してから発生した部派仏教らが、
>勝手にゴータマが、「アートマンは無い」と説いたということにしたのです。
>このことは、学問的にほぼ確立した事実であり、すでに定説となっているのです。

定説ではなく、中村元始めそう言ってる学者がいるというだけの話です。

36宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/13(日) 01:33:08.44ID:fK9V61Py
>>33-34
ゴータマの説いたは、五蘊無我というものであり、それは「五蘊は無我ではない」といっただけ。
そして、「アートマンではないものをアートマンと見なすなかれ」です。
これを言い換えるならば、「アートマンをアートマンとして正しくみよ(体験せよ)!」となる。
ただ、ゴータマはアートマンについては教えを説くことがなかったのです。
アートマンの有無については答えずに沈黙した。つまり、無記の態度を採った。
その理由については明確に述べています。それは単に、誤解を受けたくないからであるとしており、
決して、「アートマンがないからである」という意味はそこにはない。
有為にアートマンがなかったとしても、無為であれば問題はない。

 『しかし上述の経には、「それ(五蘊)は私の我ではない」と言っているのみであるから、五蘊以外に「我」があると考えれば、問題は別になろう。
このように考えられた我は、いわゆる「離蘊の我」であるが、この教説には、この離蘊の我については、何も言っていない。その理由は、離蘊の
我は認識できないものだからである(注)。
-----------------------------------------------------
(注)離蘊の我については、ヤマカ比丘と舎利弗との問答が理解に資するであろう。「如来は死後に断滅して、何も残らない」と主張したヤマカに
対して、舎利弗が、「五蘊の中に如来があるか」「五蘊を離れて如来があるか」等と質問して、その邪見を捨てしめたのである。SN.vol.V,pp. 109-12.
南伝大蔵経、第14巻、174-78頁。『雑阿含』巻5、大正2、30下-31下。いまは細説を略するが、その趣意は、認識されないものについて、その有無
はいえないということである。したがって離蘊の我がないと、積極的に否定することは勿論できないことである。』
(『東洋思想5/平川 彰著「初期仏教の倫理」』東京大学出版会刊)

37宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/13(日) 01:40:21.65ID:fK9V61Py
>>35
定説じゃないって?
これだけの錚々たるメンバー(著名学者)が殆ど完全同一の見解にあるというのに?
では、どうなら定説ということになるのか?
まっ、定説や永年の常識が覆るということは確かに在るが...

宗教上の迷信(伝統だからといって盲信すること)を打ち破るのが学問の役目です。
何故なら、本人たちにはできないから。

38おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/13(日) 03:32:24.63ID:alY3NKGm
 
>>24 ID:yIp2CHvG師匠へ
ttp://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2017/02/03/050000
人は生まれながらに仏性を持っているのか
「あなたは優しい人間だけど……」とそこは認めて
それから直す、という(順番・段階がある)

中論 第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察
勝義諦・世俗諦
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない

それゆえに
チベット ゲルク派の
中観自立派を理解して
光り輝く照明から観照する
と導いて
そして
それから
中観帰謬派に導いていく
という順番・段階がある
という対機説法

39おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/13(日) 03:55:20.06ID:alY3NKGm
ID:yIp2CHvG師匠へ
最終的には?
中観帰謬に導く
そのために

上座部 パオ・セヤドー
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
通常は、四界分別観から始めなければなりません

そして
それから
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定
五禅支の一番目
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
呼吸の観察に戻す
思考している空間から → 別の空間に戻す

という順番・段階がある

根本仏典
上座部の場合は
少しずつ段階的に
止(サマタ禅定)
観(ヴィパッサナー智慧)の実践を進めていく

これも
解脱智見に導くための
(縁起している世界からの)解脱を知覚するための対機説法

40おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/13(日) 04:25:52.29ID:alY3NKGm
 
ID:NYT8OvrL・ID:yIp2CHvG師匠へ
そして
宝珠殿へ
>自身の発する言葉

おじゃるは一応、上座部も肯定なので
ttps://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
(自分の意見・見解も含めて
  縁起している世界を)
手放すこと スマナサーラ

そして一応 3.0として
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正
(自分の意見・見解も含めて
  縁起している世界を手放して超える。そのために)
坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません

…ところが今
(自分の意見・見解も含めて
  縁起している世界を手放して超える。そのために)
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
思いが
それをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう

41宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/13(日) 06:12:26.69ID:fK9V61Py
スマ長老がとても良いことを述べていたので、ここに紹介しておきます。
この部分の長老の言葉ならば、この私も同意します。
大乗のように「空」という言葉に踊らされていないところは、流石ではある。
この、“涅槃とは一切を超越した状態であり、涅槃を「空」ということはできない”という部分は特に大事な部分です。

 『それでは、一般の人々は困るので、「最高な幸福、最高な安らぎ、不死なる境地、一切の苦しみの終焉」などの言葉も使っています。それでも、理解
できるとは思えないのです。涅槃とは、一切の次元を超越した状態です。ある、存在する、という理解できる範囲を超越しています。それ以上、目指す
べきところはありません。
 我々は、有の世界にいるのです。有・有るということは、因縁によって現れた、変化生滅していく、一時的な現象の世界です。神の次元も、梵天の次元
も、有の世界です。有は、無常なのです。有に対立して、人間は「無」の状態も想像しますが、実感があるとは思えません。どちらかというと、虚無主義
に陥りやすい概念なのです。仏教の世界でも、「無」「空」という概念は人気があります。それは、虚無主義ではなく、我々が経験している現象の世界は、
実は実体のないものです、という意味です。この存在は、「空」というのです。しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないのです。そうなると、輪廻も
涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。釈尊は、涅槃を anakkhâta (ineffable)表現不
可能だと説かれているので、涅槃を「空」とは言わないのです。しかし、「有」でもないのです。その境地は観念的なものではなく、経験できるものです。』
(『解脱は理解できない』) http://www.j-theravada.net/howa/howa125.html

42おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/13(日) 09:50:44.84ID:alY3NKGm
>涅槃を「空」とは言わないのです
>しかし
>「有」でもないのです
>その境地は観念的なものではなく
>経験できるものです

どこの誰が
解脱を知覚して涅槃に住むのか?

仏そのものが
解脱して知覚して涅槃に住む

戒・定・慧・解脱・解脱智見
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も)

そして
それから
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html

さらに無の世界も超えて
「仏そのもの」の世界から
移り行く世界の様を
ありのまま見つめている

どこの誰が?
仏の世界の「仏そのもの」が → 縁起している世界を見てる
という対話がこれ↓
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24 藤田一照:魚川祐司:山下良道
3.0のpodcast法話

43神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 10:31:41.09ID:LYg2pCPR
仏教の本質とは?

https://i.imgur.com/4lRyPEa.jpg

44神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 15:30:05.97ID:z9Cet1V/
>>41
やはりスマナサーラさんが言ってることは浄土真宗の僧侶ながら仏性や如来蔵や霊魂やもちろん真我も否定している小川一乗と大して変わらないのなw

真宗における空無我
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/seminar5.pdf

45神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 17:30:20.53ID:zXyvVv30
>>31
解脱した修行完成者には主客はないから誰とかいう問いをすること自体がナンセンス。
これは仏教の基本中の基本。
涅槃や真理の世界はは言葉では表現できないとは主客とか分別とかから離れているからなのだよ。

46神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 18:03:58.64ID:S4q4eWmq
>仏教1.0 中国経由の日本の大乗(禅宗とか)
>仏教2.0 1990年代後半から日本に入って来たテーラワーダ(上座部、南方仏教)
>仏教3.0 両者の資産を活かしつつも両者の問題点を克服した仏教のあり方

このナンバリングは流石に、デタラメすぎるでしょ。
最初の仏教は原始仏教
次の仏教は部派仏教(その流れを汲む上座部仏教も)
その次の仏教は大乗仏教(江戸時代までの日本仏教も)

今は、マルクス主義張りの(自称)科学的仏教が日本の伝統仏教と言われている。
仏教を科学と主張しているテーラワーダも、あまり期待は出来ない。

日本仏教の勝者は、日蓮世界宗と化した創価学会と言うことが、認めたくない現実だよ。

47神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 18:18:40.72ID:S4q4eWmq
>>37
和辻や中村などの著名な仏教学者は、宗教としての仏教を理解できなかった。
彼らの意見を定説とした日本仏教は、もはや幸福の科学以下の存在。
そんな定説を有難っても、得られるものは無い。

48承狂 ◆AHZLgKnOHuTj 2018/05/13(日) 18:27:12.23ID:IVKusNqT
(^。^)まぁ、お前らみんなが伝聞だけで「宗教としての仏教」を体験してないんだから目くそ鼻くそなんだがな。(笑)

49神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 18:40:50.93ID:S4q4eWmq
>>48
×5chのみんなが目くそ鼻くそ
〇かなりの日本人が目くそ鼻くそ
近年はライトな信者が増えているけど、欧米とかではまだ半数以上が信者と認定できると思う。

50神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 19:18:49.81ID:wUcP64BQ
>>8
涅槃を認識している主体は誰だ?

という問いはウダーナ涅槃に関する経の第一の
>比丘たちよ、その場所(処)は存在する
のその場所とは何処のことだ?
という問いと同じくらいの愚問。

51神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 19:21:20.12ID:wUcP64BQ
>>46
創価学会の信者は宿命転換のカルマ落としのために熱心に布教(折伏大いにあり)するからね
伝統宗教は檀家制度に甘んじて布教には熱心ではないから

52神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 19:50:12.28ID:MZ5gmeux
経験論から導かれる答えが、非我ではなく無我なんだよ。   >>宝珠

53神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 19:54:51.10ID:MZ5gmeux
勿論、
仏教に於ける答えは、お釈迦さんの経験に依っているし、
それ以外の出発点・起点はない。

54神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 19:57:01.37ID:MZ5gmeux
「涅槃なるもの」
 涅槃(nibbAna)とは、煩悩の消えた(nir-√vA)状態、あるいは煩悩を離れた(nir-√vR)状態を言います。
具体的には、最上の悟りを得た人である阿羅漢の境地を指し、貪・瞋・痴の滅尽(khaya)という、
いわば三毒のない状態であるとされます。また涅槃は、「不死」(amata)、「不生」(ajAta)とも呼ばれますが、
それは、阿羅漢には、煩悩が断たれ、
もはや【渇愛(taNhA)・邪見(diTThi)に満ちた凡夫として】【生まれることも死ぬこともない】、
つまり業(kamma)による生死の輪廻(saMsAra)がないという意味です。これに関連して原始仏典に、
煩悩のある一般的な凡夫の死を「死ぬ」(marati)「時を作る」(kAlaM karoti)と表現するのに対し、
阿羅漢の場合には「入滅する」(parinibbAyati)「時を待つ」(kAlaM kaNkhati)とし、
はっきり両者を区別していることが注意されます。
それは、仏や阿羅漢は、身心が滅びても、死ぬことがない、
それゆえ仏教には「仏の死」とか「阿羅漢の死」という言葉は存在しないということです。
 涅槃の状態は、「有余依」(saupAdisesa)と「無余依」(anupAdisesa)の二種によって説かれることもありますが、
それは、身心の有る涅槃か身心のない涅槃か、
つまり「煩悩の滅尽」か「蘊(煩悩の素因)の滅尽」かを区別しただけのものです。
後者は前者の単なる帰結に過ぎません。
これを、後者に重きを置き、真の涅槃は死後にあるとして、涅槃を死と結びつけるならば大きな誤りになります。
【涅槃は死に関わらぬものです】。その意義は、あくまでも、
【この世で、戒・定・慧の実践によって獲得される】【「煩悩の滅尽」に、目覚めた者の境地にこそ】あるはずです。
その意味でまた、成道について言われる「涅槃」(nibbAna)と入滅について言われる「般涅槃」(parinibbAna)とは、
言葉の使用において明確に区別される必要がありましょう。
なお涅槃は、縁によって生じない無為のものであり、【勝義的には】【常住】、【寂静】、【無我】のものでありますから、
【いわゆる絶対的な我としてのアートマンと同一視されることはありえません】。

(季刊原始仏教第5巻(平成5年四月八日発行)P.143) ※(【 】は、重要と思われる部分に引用者が挿入。)

55神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 20:00:47.09ID:S4q4eWmq
>>51
そりゃ商売でもない限り、信じてもいないことを布教する馬鹿はいないからな。
そして伝統仏教は、商売者と、外道と、馬鹿学者の溜まり場になった。

56おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/13(日) 20:02:23.60ID:alY3NKGm
>>44のリンク先

空の世界観と浄土真宗

…二種深信(特に機の深信)の徹底は
結果として
空の世界観が志向するものと一致する

二種深信
一には決定して深く
自身は現にこれ罪悪生死の凡夫
曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して
出離の縁あることなしと信ず(機の深信)

二には決定して深く
かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと
疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず(法の深信)
  _  _  _

「法の深信」の方はともかくとして
迷いの生死を出る手掛かりがまったくない「機の深信」の方は

誰もが成仏するわけではない(五性各別)という感じもするけど?
どうなのかしらん?

57神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 20:10:53.03ID:wUcP64BQ
>>41
>しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないのです。そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。

●維摩経

善意菩薩
「生死(輪廻)と涅槃は対立しています。
もし生死の本性を見れば、本来生死なく束縛するものもなく、解脱もなく生滅もありません。
このように得心するならば、これが不二法門に入ることです」はは
→生死即涅槃

維摩
色々な菩薩の不二法門意見発表を聞いて最後に維摩の意見を求められた時に沈黙を返答とする(維摩の一黙雷)。
「真理は言説をはなれている」を表現したとされる。

●中論

「輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない」(p.387)

58神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 20:28:31.46ID:S4q4eWmq
少なくとも宗教を謳うのなら、体系的に完結している必要がある。
そうでないと、信者が混乱するからね。
「涅槃」みたいな大意で争いがおこるようなら、創価学会みたいに
釈迦ごと切り捨てた方が、人々を幸せにできるんじゃない。
それか、「仏教」と言う呼称を「仏クイズ」とか「仏パズル」に
変えたら、間違えたり、混乱する人が少なくなって良い。

59おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/13(日) 20:36:22.03ID:alY3NKGm
 
>>57
中論
第二十五章 ニルヴァーナ(涅槃)の考察
涅槃の終わりがどこまでであるにせよ
それは輪廻にある存在の終わりである
(涅槃と輪廻の)両者の間にはわずかな違いも
最も微細な違いすらも存在しない
(勝義諦としては、これで良いかもしれないけど)

それでも、とりあえず世俗諦としては
第二十四章 四つの聖なる真実(四聖諦)の考察
勝義諦・世俗諦
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない

60おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/13(日) 20:48:49.27ID:alY3NKGm
 
>>59の訂正と、お詫び

涅槃がある。という『想い』の終わりがどこまでであるにせよ
それは輪廻にある存在の『想い』の終わりである
両者の間の『想い』にはわずかな違いも
最も微細な違いすらも存在しない

これなら
仮設としての
固執が現れ滅している
おじゃるにも意味がわかる場合もあるかもしれない

ということで訂正して、お詫び申し上げます スマソ m(_ _)m

61神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 21:03:30.14ID:S4q4eWmq
      自我  世界
原始仏教 無   n/a=無記
部派仏教 無   有 
大乗仏教 無   空=無

正しい正しくないの問題でなく、どの宗派を信仰しているのかで想いも答えも決まる。
科学でなく、信仰で正解が決まるのなら、最も信者の多い宗派の所属者が正解となる。

62ポッタン師2018/05/13(日) 21:06:10.55ID:NmPi7fRY
多数決で決めるバカが多い。

63おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/13(日) 21:41:27.75ID:alY3NKGm
 
>>61
      自我  世界
原始仏教 無   n/a=無記

スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ…

拡大解釈をすれば

仮設としての
有為法している世界の中で
縁起している世界の中で
縁起に依存して
無明薫習に依存して
無明の暗闇に覆われている → 頭

スッタニパータ 21
…彼岸(涅槃)に到着している

涅槃の世界
無為法の世界

という解釈もできるかもしれない

64神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 22:57:42.04ID:NYT8OvrL
 無我という場合の「我」とは、最初にお話ししたアートマン(ātman)のことです。
それは永遠不滅で、これが人間だと言えるような、絶対に変わらない、確固とした実体、言い換えれば、私たるもの、私と言えるべき芯のようなものです。
そのような「我」=アートマンなど存在しない、というのが「無我」の意味です。
 無我とは、ある意味では哲学的な言葉です。霊魂・魂・アートマンといったものは、一部の宗教家たちが頭の中でごちゃごちゃと考え、妄想を膨らませてつくり出した形而上学的な概念です。
 それが、絶対神ブラフマンと真我・個我に関する話です。
つまり、宇宙を成り立たせている根本原理・万有に遍在する力は絶対的な神ブラフマン(梵)であり、各個人は小宇宙であるとともに
個体それぞれの純粋な本性は永遠不滅の魂アートマン(真我)であって、アートマン(真我)の中にブラフマン(梵)は実在する が、
ありのままの魂(個我)はブラフマン(梵)と同一ではなく、自己の本体であるアートマン(真我)を理解して個我を真我へと高めることで
宇宙の原理であるブラフマン(梵)と個人の本体たるアートマン(真我)を合一させることができる…… といった、わけがわからない話なのです。
 ですから、 無視してしまってかまいません。
 しかし、真理を発見できなかった思想家・宗教家たちは、永遠不滅の実体(我、アートマン)が有ると固く信じて、論じていました。
だからお釈迦さまは、それに応えて、「我は無い」と語ったのです。このようにお釈迦さまは、世の中の質問に答えただけです。
世の中が、あまりにも「我が有る」と言うので、「いいえ、無いです」と言っただけの話です。
 ですから仏教の立場は、 有我論でも無我論でもありません。あえて「無我論」を語る必要はないのです。

65神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 22:58:37.05ID:NYT8OvrL
 それを、大乗仏教の「空」思想のように、説明概念を極限まで敷衍して哲学や思想体系をつくることには、お釈迦さまは反対の立場です。
なぜかといえば、論があると異論も成り立って争論になり、時間を無駄にするからです。大切なのは、一日も早く清らかな心をつくることです。
 実際、「空」の思想体系をつくったナーガールジュナ(龍樹)は、輪廻も解脱も涅槃も空の立場から観ると成り立たない、と語ってしまったのです。
当然、修行も成り立たない。ブッダの教えをしっかりした思想体系として構築しようとしたところが、あえて修行する必要はない印象を与えてしまった。
仏教に命を吹き込む努力が、命を吸い上げる結果になった。
努力はしましたが、この問題を解決するすることは、偉大なるナーガールジュナにもできなかったのです。
 初期仏教では、苦・無常・無我・空は、ほとんど同じ意味で使います。
ただ、「空」は虚無主義と間違える可能性があるので、パーリ聖典ではとりたてて強調していません。
 ただ、変わらない実体が無いからこそ、因縁によって森羅万象が変化していくことははっきりと説かなければなりません。
 お釈迦さまは無我を発見するためではなく、苦しみをなくすために修行したのです。そこで、因果法則を発見されたのです。

アルボムッレ・スマナサーラ. 無我の見方(サンガ新書): 「私」から自由になる生き方

66神も仏も名無しさん2018/05/13(日) 23:58:31.05ID:MZ5gmeux
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1513948234/748
748 123師 ▼ 2018/05/13(日) 21:03:57.59 0 [0回目]
多数決で決めるバカが多い。
釈迦のバカ弟子が作ったバカお経を信じるバカが多い。

>>62

67神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 00:57:03.51ID:ZihXhpJL
>>59
そのレスは全文同意
スマナサーラさんも龍樹(や道元)はかなり勉強したそうで中論24章も当然熟読していることと思いますよ
それでも龍樹に敬意を払いつつ涅槃や解脱も空にすると勝義のみが尊重されて四諦による修行の必要性が不要になるという危惧感からそれはいけないとした
これはスマナサーラさんの方便品ですかね!?
中論24章を紹介しても分からない人には分からないだろうと思って触れなかったのかもしれません

68神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 01:40:55.39ID:BSncRpuF
日本の皆様にもよく知られている『スッタニパータ』にも「世界を空として観なさい」と説かれている経典が載っています(Sn. 1 116 モーガラージャ経) 。
Mogharaja (モーガラ-ジャ)というたいへん智慧のある行者がお釈迦さまと対話をした記録です。

(モーガラージャさんが尋ねました。)
尊師に二度問い尋ねたが、眼ある方はお答えにならなかった。
三度目に問い尋ねると、仙人は返事をすると聞きました。
梵天、神々を含む、この世、あの世、に対する、偉大なるゴータマの見解を世は知らない。
かくも優れた智慧ある方に、お尋ねいたします。
世をいかに観察すると、死王を見ずに済みますか。
(釈尊が答えました。)
常に気づきを持ち、世は空としてみなして我見を取り除く。
かように世を観察すれば、死王を見ずに済む。

モーガラージャさんは、「どのように世間を観るならば、死を乗り越えられるのか」と質問しますが、それは「死なないでいたい」という意味ではありません。
「生きる苦しみを乗り越えて真理に達するために、私はこの世をどのように観察すべきか。どんな立場で観るべきか」ということです。
釈尊は、「常に気づきを持って(sato サトー) 、この世を空として観察しなさい」
と答えます。sati サティ 気づき、観察瞑想をしてありのまま観察して、1気づいてみると、「世の中は空 sunna スンニャである」と観えるはずなのです。
そのように観てください、と。
そうなってくると、自我という邪見が、「自分がいるんだぞ」という邪見がなくなる。
それで死を乗り越えたことになるのです。
輪廻転生の苦しみの世界を超えて、解脱に至るのす。

69神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 01:47:30.85ID:BSncRpuF
「世を観察する」という言葉の意味は、いきなりはわからないかもしれません。
仏教でいう「世 lolak ローカ」は、物理的な世界り、一切生命のことをいうのです。
釈尊が「一切生命を空とみなしてください」と言うのは、「実体たる自我がない」と発見するためです。
これはパーリ経典のなかでも、最も古いところで出てくる教えです。
「生命は空である」と分析すると、色受想行識の五蘊でできているものが生命なので、「五蘊には実体がないから空である」ということがわかるのです。
生きるとは何かといえば、眼耳鼻舌身意で認識することであって、それも実体がない。空である。そういう空論です。
空の観察(空観)は初期仏教からあった考え方で、べつに大乗仏教が発見したわけではないのです。
ただ初期仏教における「空」は、一切現象の無常·苦·無我を観察するもうひとつの観察の仕方なのです。


アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?

70おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/14(月) 04:03:40.55ID:N3AO8EkB
>>67 ID:ZihXhpJL師匠へ

↓ 注意して読んで

中論
第十八章 自己と実在物の考察
行為〔カルマ〕と苦悩(煩悩)が消滅したところに涅槃がある
行為〔カルマ〕と苦悩は概念的思考から生じてくる
これは心的に作り出されたもの(戯論)に由来するのである
作り出されたものは
(根本仏典・上座部系の)
「空性である」という観察によって消滅する

第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止は
(根本仏典・上座部系の)
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである

青目(ピンガラ)の中論 觀法品 第十八
(根本仏典・上座部系の)
八正道を修習しながら
我と我所との因縁(生処)を滅すれば
無我や無我所という決定した
智慧を得るだろう

諸の禅定の中で、滅尽定が第一

71おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/14(月) 04:27:15.17ID:N3AO8EkB
 
>>70の続き

(根本仏典・上座部系の)
ttp://www.j-theravada.net/sakhi/pali_sutta3.html
非想非非想を手放して超えて → 想受滅

ttps://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経 ポッタパーダ経(心作用の消滅)

意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして順々の正知による『想滅定が生起する』

根本仏典・上座部も
大乗の中論も
(根本仏典・上座部系の)
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じる
という対機説法

何が生じるのか?
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.anapana.htm
上座部 パオ・セヤドー
智慧の光は、体を包むようなかたちで、光が現れてくる >>23を参照

72神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 04:56:36.91ID:E7UEjDEc
>>68
『スッタニパータ』=数多有る仏典の一つ、作られた、残された仏典の中では最古のものであると言われているが、
釈迦の時代まで遡る者かのかは不明である。
スマナサーラが空に言及しているのは、それが上座部仏教的に正しいからではなく、日本で布教するための方便。
それを真に受けても、馬鹿を見るだけ。

73神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 05:06:17.61ID:E7UEjDEc
「根本仏典・上座部系の」→これも間違い、wikiにも書かれている

根本仏典:存在しない
説一切有部:部派仏教の最大派
分別説部:部派仏教の一派、南伝仏教の源流と言われている

74おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/14(月) 07:06:40.46ID:N3AO8EkB
 
ID:ZihXhpJL師匠へ

ttp://yamaneko.hatenablog.jp/?page=1442018163
上座部 パオ・セヤドー
『自らの清浄なる』によって実現します

ブッダの本体、色も形もない真実そのものの
『仏そのものからの清浄なる』によって…

ttp://www.onedhamma.com/?p=6618
18/05/13
「分別」をマインドフルネスによって離れることが証であり、不戯論

ttp://www.dogen-shobogenzo.com/hachidainingaku3.html
八大人覚
(根本仏典・上座部系の)
正念

ttp://www.j-theravada.net/pali/key-ariya-attangika-magga.html
初期仏教の世界
八正道

正念 − サンマー・サティ
正定 − サンマー・サマーディ

75おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/14(月) 07:27:28.55ID:N3AO8EkB
 
>根本仏典:存在しない

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
大乗のみならず
パーリ経典も編纂されたものである
最古の経典も編纂とみなされている
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が記録されているか否か明らかでない

それでも、とりあえず
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF
スッタニパータ
がもっとも古い経典かもしれない

という
涅槃に導くための対機説法でつ

ヒンドゥー
釈迦
(とりあえずの)根本仏典
上座部
大乗
瑜伽行派
密教

肯定派でつ一応、念のため…

76基地子菩薩2018/05/14(月) 10:23:31.30ID:i3+ZWqFC
釈迦が入滅した時点で

釈迦仏教は消滅したにゃん♪

今に伝わる仏教は釈迦の教え

とは似て非なる物と心得るにゃん♪

南無南無 人( ´•ω•` )

77神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 10:33:50.96ID:BSncRpuF
>>72
タイの上座部の高僧(一説には阿羅漢)の
アーチャン・チャー「無常の教え−手放す生き方2 苦しみの終焉」(3)

●世間の人々は幸せになることを望む。彼らは苦しみを望まない。だが「ニッバーナ(nibbana涅槃)」とは、望むこと・望まないことを「超えたもの」だ。

●ブッダは「空を理解する者を、死王は追うことができない」と言った。空を理解したとき、死は私たちに影響を及ぼすことはできない。なぜなら、そのとき「私たち」というものは存在しないから。

●ブッダは私たちに「我見」(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いた。
もし、我というものが施説(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わる。
http://samten.seesaa.net/article/446643678.html

78宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 12:59:06.42ID:87epkHEE
>>52
>経験論から導かれる答えが、非我ではなく無我なんだよ。

それはあなたが唯物論者だから、
勝手に自分の都合のいいように解釈してるだけです。

確かに、ゴータマは自らの経験に基づいて、
この現象界(有為)においてはアートマンは知覚されないとは述べたものと思う。
けれども、それは現象界(有為)を超越した世界であれば話はまた別となる。
ゴータマは現象界を超越した恒常なる世界があることを説いた。
そして、アートマンについては自ら体験しなさいということなのであって、
「無い」などとは一度も述べたことがない。アートマンの有無についてのゴータマの態度というのは無記だということ。
それをあなた方が勝手に、現象界において確認できないということは、つまりは「無い」(結局は無い)ということなんだと結論付けているわけだ。
そこが唯物論者の間違った勝手な論理だというのです。
そして、この判断の在り方が部派による誤解した無我の理解と酷似してるということ。

79宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 13:01:18.28ID:87epkHEE
>>53-54
>なお涅槃は、縁によって生じない無為のものであり、

こういう部分はとても良いのに...

>【勝義的には】【常住】、【寂静】、【無我】のものでありますから、

と、これに続く部分においては、「常住」と「無我」とを結び付けてしまうという愚を犯している。
こういった混乱してるものを教科書にしてる限りは、いつまで経っても正しい理解を得ることはできないでしょう。

何だか...
世界的な権威である中村 元氏に対する批判的な意見すら上がっていますけれど、
駒沢大学でセブンたちに講義していた奈良康明教授は中村氏の一番弟子でしょうよ!
その奈良教授がTV(NHK)の中でなんて解説してましたか?

80宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 13:05:39.82ID:87epkHEE
『草柳:  色(受想行識)は無常である。無常なるものは苦である。
苦なるものは無我である。無我であるものは「私のもの」ではない。
「私」でもない。「私の本質」でもない。
正しい智慧をもって、この道理を如実に観察しなくてはならない。
(「サンユッタ・ニカーヤ」)

奈良:  ここにも先ほどと同じ「色受想行識」と「五蘊(ごうん)」というものが、一つの無常の例として挙げられておりまして、括弧の中に、
「受想行識」とありますのは、経典は、まず「色」は無常である。無常なるものは苦である、と説きだして、それから次に「受」は無常であ
る云々と。その一つひとつについて述べるわけですね。

草柳:  ここは、例えば無常なものは苦である。苦なるものは無我である。何故苦なるものが無我なのか。無常なるものというのは何故苦な
のか。その辺のところはどういうふうに。

81宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 13:13:26.93ID:87epkHEE
奈良:  実は「無常なるものは苦で、苦なるものは無我である」と。実はこれ「原始仏典」で有名な言葉の一つの言葉なんです。その「無常
なるものが苦である」という意味は、比較的分かりいいと思いますね。今もちょっとお話が出ましたけれども、私どもはいつも良いもの、好ま
しいものは、常なるものとしたいんですから、それがすべては無常ですからガラガラ変わっていってしまう。自分のものとして握りしめていた
ものが抜けていってしまいますので、それは苦である、と。これはその通りでわかるんですね。苦なるものは無我である、とこういうんですけ
れども、実はこの「無常、苦、無我」というのは、本来はそれぞれ別個に、仏教でいろいろに説かれてきた考え方なんですけど、これはそれを
一応三つ並べちゃった面がございまして、それほど綺麗に論理的に並んでいるものじゃないんですね。「苦なるものが無我である」という時に、
むしろこれを解釈とすれば、もう一回「無常なるものは苦である」。もう一つ無常というのをそこで繰り返しまして、「無常なるものは無我であ
る」というふうにみた方が、私は分かりいいと思うんですね。

82宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 13:30:25.45ID:87epkHEE
つまり私どもは命でも何でも永遠に持ちこたえたい、と思います。それが無常ですからできない。ということは、この前の第一回の時にいろい
ろ話が出たんですけれども、命だろうと、何だろうと、これは私ですよ、とか、私のものですよ、と、持ち続けることはできない。だから「非
我である。無我である」と、こういう意味でありますからね。事実、実は仏典の中には、今の三つの言葉の「無常なるものは苦なり、苦なるも
のは無我である」。その「苦なるものは無我である」ということの中間に、「苦なるものは移り変わるものである」という言葉が入っている例が
非常に多いんです。ということは、なんのことはない、「無常なるものは苦である。苦なるものは無常である」と言い直しまして、「無常なるも
の、無常だからこそ、無我なんだ」というふうに、説明を付け加えている例がたくさんございますのでね。ここのところは、いろいろ解釈して
は難しい面があるんですけれども、「無常と苦と無我」というものが、こう論理的に、こういうふうに起こってくるというよりは、「無常」とか、
「苦」とか、「無我」という言葉の意味を、一つの関連するものとして受け止めておいた方がわかりいいと、私は思いますですね。』
 (『原始仏典をよむA』NHK教育テレビ「こころの時代」平成三年五月十六日放送
  駒沢大学教授 奈良 康明 ききて 草柳 隆三)

83宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 13:33:19.77ID:87epkHEE
上記(サイトリンクは旨くでなかったので省略)の押さておくべき重要ポイントと、
そこから導き出される当然の理解は、必然的にこうなるということ。

「無常なるものが苦」であり、「苦なるものが無我」。
であるから、「無我であるものは私のものではない」。
(苦は、私でないものを私であると誤認する結果であり、
私のものでないものを私のものであると同一認する結果として生ずる)。
ということは、つまり、恒常なるものが苦からの離別であり、
無我からの出離こそが涅槃であるということが理解されるのです。
「空」というのは、無我空といって無我と同義ですから、涅槃が空である筈もないのです。
従って、無我(の境地)を求めるだの涅槃が無我だのというのは在り得ないこと。
だから、そういったものはすべて仏教(原始仏教の理解)の根本的な基本のすべてが間違ってる人たちの話です。

苦は私でないものとの同一認の結果ですから、
苦から永遠に解放される世界であるところの涅槃とは、
当然、真実の自己(私の本質)との同一認のこと以外にはないのです。

それがつまり、真我(アートマン)でしょう。

84宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 13:39:56.07ID:87epkHEE
なんだか...

「空」をまるで素晴らしいものであるかのように見ている人がいたら、それは大間違い。
「空」は理解すべきものであり、現象界が空であることを体感することは一つの重要な境地ではあるのですが、
「空」そのものというのは素晴らしいどころか、その真逆に価値がまったく無いもののことをいうのです。
無価値であり、脱すべき世界が「空」だということ。

こういう勘違い者の殆どは大乗徒が多い。

85宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 13:52:39.28ID:87epkHEE
>「無常なるものは無我である」というふうにみた方が、私は分かりいいと思うんですね。(>>81)

おっと、これがまたとても良い言葉なのでしたね!!!
ということは、要するに“恒常(非無常)である涅槃は無我ではない”となる。
涅槃が無我ではない境地だということは、
それはつまり、我が在るということに他ならない。

はい、以上にて論決しました。

86神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 14:06:35.21ID:BSncRpuF
こうまとめてもよいでしょう。
行..因縁によって起こる現象
法..涅槃も含むすべて
「法」と言えば、「涅槃」も「ウサギの角」も「亀の毛」も「空華(虚空に浮かぶ実在しない花。凡夫が、実体の無い存在を実体が有るかのように誤ることのたとえ) 」も全部入っています。
それらはすべてが無我です。
ですから、涅槃もまた無我なのです。
「涅槃もまた無我」と言うと、誤解するでしょう。
仏教では究極の幸福の境地として涅槃を説かれています。
無我を発見していない一般の方々は、涅槃の境地に達したら永遠の幸福の命を獲得したようなものだと推測します。
しかし、涅槃という境地は、認識概念では説明不可能です。
すべての概念は現象の世界を指しています。
現象を乗り越えた世界に対して、言葉も概念もありません。
強いて言えば、生き続けることは苦であり、それを乗り越えられたならば、幸福である、という程度の話です。
最初から自我はなかったのです。
自我があるとは人間の錯覚·幻覚です。
覚りに達する人には、自我の錯覚が消えます。
幻覚が無くなるのです。それだけです。
覚った人に、今までなかったアートマン (自我)が突然現れるはずはないのです。
涅槃も無我です。
ですから、諸行無常で諸法無我なのです。

(無我の見方 (「私」から自由になる生き方) アルボムッレ・スマナサーラ)

87神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 14:12:48.30ID:BSncRpuF
ブッダは私たちに我見(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いたのです。
もし、我というものは施設(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わります。
より正確に言うなら、問題が終わったというより、解決法が必要なくなったのです。

自らの身体が空であると知るとき、私たちはその中に住することなく、死王は私たちを捕らえることはできません。
私たちはもはや死なないのです!違いますか?
「私たち」というもの、我(アッタン)が存在しないとき、私たちは死なないのです。

存在するのは、ただこの五蘊のみなのです。
「人」というものは、本当はどこにも存在しません。
人とは、単に地(パダヴィー)、水(アーポ)、火(テージョ)、風(ワーヨ)のあつまったものにすぎません。
これら四大のあつまりを、施設(パンニャッティ)として「人」と呼んでいるのです。
ブッダは、無我(アナッター)を説きました。
けれども、この無我についての話を聞くときには、どうか注意をして聞くようにしてください。
この無我という言葉の本当の意味は、私たちの世界のどこに「人」というものが存在するのか?ということなのです。

アーチャン・チャー
https://twitter.com/AjahnChahBot

88おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o 2018/05/14(月) 14:44:58.93ID:N3AO8EkB
 
>>84
>「空」をまるで素晴らしいものであるかのように

仮設としての
縁起している
空性の世界を手放して超えて → 涅槃

どこの誰が?
仏そのものが
解脱を知覚して涅槃に住む

真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのもの
法性身

ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
無明滅 → 行滅 → 識滅 → 苦しい。という『想い』も滅する

どのように無明滅するのか?

仮設としての
縁起している
空性の世界を手放して超えて → 涅槃(無明滅)

89宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 14:46:32.04ID:87epkHEE
>>86-87
必死だな...。

あなた方は確かに、
永々とした気の遠くなるほどの時間における伝統を大切に受け継いできた。
そのことは私は高い評価に値するものと思う。
けれども、それは部派の教義、部派に拠って創られた教義だった。
ゴータマの教えではない(これを含むけれど)。

対する近代仏教学の研究というのは、
あくまでも原点(本来のゴータマを求めて)を追及している。
その研究成果があなた方との決定的な差となっている。

90神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 15:04:04.97ID:QoxKUE/D

91神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 15:20:59.67ID:FbbgkWVe
>>84
勘違いというか大乗仏教の権威である龍樹が空思想を構築し、著書中論の中で「空」を第一義諦・勝義諦(最高の真理)としているということ
中論二十四章でそう説かれている

空という第一義諦においては輪廻とニルヴァーナには区別は何一つない(中論二十五章)
また空においては我も無我もない(中論十八章)
輪廻とかニルヴァーナとか我とか無我とかは仮であり現象世界のための言葉であり衆生を第一義諦に導く方便であり世俗諦である

この龍樹の空思想は中村元や石飛道子などの仏教学者に賞賛されていたはず

92junkie- ooyama2018/05/14(月) 15:44:11.96ID:nchKkuOT
> 要するに“恒常(非無常)である涅槃は
> 無我ではない”となる。

涅槃は常住って聞いた事がある。
涅槃が恒常って聞いた事はない。

涅槃は無為じゃないのかなぁ?
無為=恒常なの?

あっ、ボヤキなんでスルーして下さい。

93junkie- ooyama2018/05/14(月) 15:59:47.42ID:nchKkuOT
> 苦は、私でないものを私であると
> 誤認する結果であり、
> (中略)
> ということは、つまり、恒常なる
> ものが苦からの離別であり、

私でないものとは、恒常でない仮構された私(無我)だよね。
私であると錯誤するのは、私を恒常されたものと認識する事だよね。

つまり、恒常であるという錯誤からの離別が、苦からの離別だよね。

あっ、呟きです、スルーで。

94宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk 2018/05/14(月) 16:17:30.76ID:87epkHEE
>>91
彼らとてパーフェクトではない。
私は「中論」には価値を見ないのでね。
何故なら、内容が仏典(ゴータマの教え)とはまったく異なるから。

ゴータマの教えは世俗諦であり、
そうでなければ人々の役には立たないから。
役に立たないもの(勝義諦/中論)は結果的には価値が無い。
役に立たないダンヤモンドと、
実際に役に立つガラスとではどちらに価値があるか?

95神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 16:32:27.66ID:HNA0BHnb
>>94
その話も中論二十四章でしているでしょうに

>ゴータマの教えは世俗諦であり、
>そうでなければ人々の役には立たないから。
>役に立たないもの(勝義諦/中論)は結果的には価値が無い。
>役に立たないダンヤモンドと、
>実際に役に立つガラスとではどちらに価値があるか?

96神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 16:44:40.12ID:E7UEjDEc
>役に立たないダンヤモンドと、
>実際に役に立つガラスとではどちらに価値があるか?

役に立たないダイヤモンド→日本の伝統仏教
実際に役に立つガラス→(日本では)創価学会の教え
当然、こうなるよな。

役立たずの学問仏教を押しているようだが、
この結果は自分も賛成する。

97神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 16:58:54.43ID:E7UEjDEc
>>87
>自らの身体が空であると知るとき、私たちはその中に住することなく、死王は私たちを捕らえることはできません。
>私たちはもはや死なないのです!違いますか?
>「私たち」というもの、我(アッタン)が存在しないとき、私たちは死なないのです。

ほんとうに、釈迦がこんな事言ったと思ってる?

実際は、こんな感じでしょ。
「執着から離脱できれば、死は怖くなくなる。
しかし、人は仙人ではなく、仙人にもなれない。」

98神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 18:14:55.27ID:rPylhcVZ
>>94
>役に立たないもの(勝義諦/中論)は結果的には価値が無い。

君のように自分の信条に都合のいい学者の意見や仏典でも都合のいい箇所を引用してはアートマンの有無とかについて戯論を並び立てる人にこそ中論は価値がある
言葉への執着を断つことができるからな

99神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 21:13:13.53ID:HM43+juO
>>85
>ということは 云々


なんという短絡思考wwwww

奈良さんの授業は、単位関係なしに網羅してるから、
奈良さんのスタンスは、多分君よりも遥かに理解してる自負はあるよ。

また、片山さんをディスれるほど(片山さん以上に)貴方が仏典を読めているとは到底思えないw >>79
片山さんはビルマの長老方との繋がり深いぜ?




というか、君の「涅槃論」が【歪】であることの論証もきっちりしてあげた筈だがねぇ・・・  ┐(´ー‘)┌

100神も仏も名無しさん2018/05/14(月) 21:18:27.93ID:QRafp8cM
奈良:この場合、涅槃(ニルヴァーナ)というのは、「心の安らぎ」という意味で、とってよろしいと思うんですね。
教学的に難しいことを言えば、いろいろ出てくるんですけれども、心の安らぎと言いましても、決して老とか死というものを、嫌だ嫌だ、と言っていたわけですから、それが綺麗になくなっちゃうわけじゃないんですね。
そうじゃなくて人生生きておりますから、いろんなことがあるに違いない。
死にたくない、というのもございます。「歳を取って嫌ですね」というのもむろんございます。
ただそうしたことが感覚としてはありながら、それをカチッと受け止めながら、しかしそれに振り回されずに乗り越えていくところに、心の安心を得るという。
よく言われる言葉を使うならば、その意味で安心して悩めみたいな言い方がよくあるんですけれども、
むしろ悩みは悩みとして、物理的な悩みは消えないんですから、それを乗り越えるところに安心を得なさい、という、そういう意味での涅槃です。
 
草柳:そうすると、涅槃というと、つまり彼岸の、あちら側の世界のことではなくて、つまり生きていくプロセスの中で、そういう安心立命、安心の境地というか、心の平安を保っていくと。
そのことを言っているわけですね。
 
奈良:そういうふうにみるべきだと思うんですね。
ですから涅槃というのは、何かある一定の時に、パッと何か精神が開けて、確かに一つの直感があって、なるほど、と思うことが当然ありますけれども、
むしろ大切なことは、その一瞬にわかったというだけではなくて、それが有ろうと無かろうと、常にいろんなことにぶつかるたんびに、
例えば今日のテーマの脈絡で言うならば、無常なるものは無常と見、無我なるものは無我と明らかに受け止める毎日毎日のプロセス、そのプロセスの中に心の安心という涅槃が現成(げんじょう)していく。
そういうふうにみるべきだと思うんですね。

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