なんちゃって覚者✴気づかない教.2

1神も仏も名無しさん2017/12/09(土) 06:39:12.09ID:121v+9we
悟りと非二元に関しておしゃべりしましょう!

なんちゃって覚者とは、既存の宗教、宗派の教理に適合しないのに、悟った自覚があり、自信もある人たちのことです

気づかないとは、あるがままの事実を取り上げず、そのままにあることです

悟り、非二元、等々に迷いがない人は、ここには用はないでしょう

お花畑、妄想、という批判はご遠慮ください

あと【悪魔からの批判】は受け付けておりませんので、よろしくwwwwww.

357神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 00:48:35.10ID:nvaxj393
>>355
苦しみは苦しみのままでは解決していない
苦しみが苦しみのままでしかないが解決しているのは、特殊な理解が働いているからである
苦しみも喜びも、同じく、感受からくる
そして、この感受している、わたしなる、思いが、つまり、心などと呼ばれているものが、苦しみに対して、不平を鳴らしている
が、これは、自然的に湧き上がってくるもので、動物的である
これらの働きのうちに自己が、巻き込まれないことができるなら、平安である
生死が、そのまま涅槃であるが、それは、なにもしなくてもそうであるという意味ではない
実際には、そこに、理解が働いている
生まれもしなければ死にもしない
生まれていないわたしが、死ぬことはない
しかし、体は滅ぶし、意識もどうなるかは、わからない
これらの反射的、自動的、えっと、自然活動は、わたしの介入なしにある
涅槃なるものの上に生死があるのでなく
生死が、イコール、涅槃になる
生死と、イコールであれば、涅槃になる

これらは、特殊な理解が入っている

それは、個人が、見抜くものである

しかし、人が人に、これを教えることは、ほぼ不可能であると思われる

358神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 00:52:04.41ID:nvaxj393
>>356
それ、そのとおりだが、それを言葉にしたので、それを方法と捉えられてしまうかもしれない
これは、状態を述べているだけで、今、このことが、わからない人に対しては、どんな効果があるのか疑問である
しかし、間違えているということではない

359ハルヤン2018/06/12(火) 05:22:34.24ID:uSqoWyEf
言葉は全て事実とは異なる
それに気付くために「体験」が必要になるんだろう
「そのままで解決」は当然、そのままで解決とは違うから

360ハルヤン2018/06/12(火) 05:25:43.79ID:uSqoWyEf
「理解」も「知る」も、事実と違う、
だから「煩悩」だ!、退けなきゃならん!
こうなりがちなんだけど
それもまた、違うんじゃないかと
「知る」対象が違うってだけで「知る」はたらきは紛れもなくそのものから外れてないんだから

361ハルヤン2018/06/12(火) 05:30:45.00ID:uSqoWyEf
取るでもなく、捨てるでもなく
「知る」に飛び付くでもなく、違うと拒絶するでもなく
「そのまま」

362ハルヤン2018/06/12(火) 05:43:59.92ID:uSqoWyEf
「わたし」という思い、対象を認めて喜んだり苦しんだりする「主体」のはたらき、
まあこれを「無明」って呼んでるんだろうけど

「無明もなく、無明の尽きることもない」だから

363神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 08:37:15.95ID:nvaxj393
>>359
内的経験が、洞察が必要であって、そのために見方、視野の持ち方の変化が必要になる
しかし、一般的に、みんなが言っているような、体感のことだけではない
体感に頼るのは、まったく、間違いである
知覚も思考も、これらの働きを、己であるという思いが、これは、想いというより、なんだろう、、、
粘着しているのである

364ハルヤン2018/06/12(火) 08:43:35.98ID:uSqoWyEf
>>363
「内的」「外的」、それも言葉でしょう?
内外が外れるというか、
やはり「言葉の世界」と事実が違う
それに気付く、事実そのものにぶち当たる体験が要るのではないかと思う

365神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 08:44:44.99ID:nvaxj393
>>360
見るものと見られるものは同じである
と、クリシュナムルティが言ったという
しかし、この見るものは見られるものであるという不二の事実、は、確かに、そのとおりであるが、それに気がつくことが、即、悟りというわけではない
これらは縁起しえいるわけだが、つまり、相寄っているのだが、その、自然活動の中で、人間の肉体の欲求や反射的行為、それに付随する快楽への依存や、不快感への怒りなど、様々な精神活動から、わたしなる思いが、休止する必要があるからである
この休止は、欲するという機能との戦いなしには達成されない
心理的な修練なのだ
この力には様々なレベルがあるのである

366ハルヤン2018/06/12(火) 08:47:07.15ID:uSqoWyEf
「言葉(思い)の世界」、これを此岸、世間と言い
その思いそれぞれの様子を「六道輪廻」と言って
仏教はその妄想の苦しみを指摘してくれているのではないかと

367神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 08:48:21.51ID:nvaxj393
>>361
それを休止することと、つまり、止まることと表現したいと思います
正に、そのとおりです

368ハルヤン2018/06/12(火) 08:50:33.89ID:uSqoWyEf
>>365
「見るものと見られるものは同じ」
それは「見る主体」と「見られる対象」を分ける、つまり「思いの世界」が嘘だってことでしょう
禅で「一隻眼」とか「正法眼蔵」とかいうのと同じなんでしょうね

369ハルヤン2018/06/12(火) 08:55:54.59ID:uSqoWyEf
ここで間違いやすいのは
「一つなんだから、分かれていないんだから、一つに見なきゃならないんだ!
「己を修練して自他ない完全な境地に到達しなきゃならないんだ!」
こう思ってしまうことってのはよく聞く

370ハルヤン2018/06/12(火) 08:58:29.07ID:uSqoWyEf
思い以前の事実としてもともと分かれていないんだよ
分けて見ても、見なくても、事実として分かれようがない
そういうものとして人はあり続けてる
それに気付くことなんだよ

こういう方向ではないかと思っています

371神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:11:52.13ID:nvaxj393
>>362
それを自然反応ではなく
わたしの意志で起こっていると勘違いする
そして、その反応に飲み込まれた、ものが、つまりエネルギーが、次々とカルマを生む
このような連鎖を、止めてしまうことが、特殊な修練によって可能となり、その、働きから、一歩、離れていることが、静寂と智慧の開花になっていく

372神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:14:25.72ID:nvaxj393
>>364
言葉の世界と事実は違う
そのとおりです
そして事実の世界に学ぶこと、これも必要なことであります
しかし、このことが、イコール悟りではありません

373神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:20:26.10ID:nvaxj393
>>366
言葉、思い
人間には、様々な機能があります
そして、問題になっているのは、感情的に苦しむことです
こころが悩み苦しんでいる
これを解決したのが仏教だと思います
合ってるかは知りませんw

374ハルヤン2018/06/12(火) 09:20:41.57ID:uSqoWyEf
「事実」、「実際」、
「見るもの」っていう主観の歪みのない【そのもの】
これを真如、無上菩提、阿耨多羅三藐三菩提とか言っているのではないかと

375ハルヤン2018/06/12(火) 09:23:21.40ID:uSqoWyEf
まあ、もうちょっと参究しますw

376神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:26:58.96ID:eDlpBk22
>>368
ひとつの眼というのは円相のことです
見るもの主体は、見られるもの対象と、全く同じ、ひとつの水晶のようなものの、反映なのです
これらは、それこそ、体感に寄って、つまり、視野の変化によって知られるのです

377神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:31:36.59ID:eDlpBk22
>>369
それは、ひとつに見ようとすることでは達成されないのです
わたしに対するアクションを様々にしていかないといけないのですが、それは、これをこのわうにしたら、こうなると、短期的にできるものではなく
徐々に、変化していき、ある日突然、スコンと、そうなるんです

378ハルヤン2018/06/12(火) 09:33:58.82ID:uSqoWyEf
円相は、「世界」の実相でのそのものであって
それは今のこの様子そのものなのです
食べたり飲んだり立ったり座ったりしてる
怒ったり喜んだり悲しんだりしてる、そのものなんでしょう

だから、「解決済み」なのではないでしょうか?

379神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:35:22.16ID:eDlpBk22
>>370
そうだと思います
ひとつというのは、別れてないってことですね
事実、そうですからw

380ハルヤン2018/06/12(火) 09:36:40.84ID:uSqoWyEf
宝鏡三昧、
この円相という宝鏡に映されたまんま
見るもの見られるものという分裂なしに

381神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:44:54.31ID:nvaxj393
>>374
事実を、見るには、特殊な修練をしなくてはいけません
そのものを見るというより、視野が変化するのですが、それは付随したものです
真如というのは諸行無常のことですかね

382神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:47:38.29ID:nvaxj393
>>375
ぼくも、参究中なので、合ってるかは、わかりませんよw
今は、こう感じているというだけですからね
お互い、理解が深まるといいです

383神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:51:11.34ID:nvaxj393
>>378
この解決済みは難しい問題になりますね
活動している、これが、これしかないのだから、解決しているのだけど、解決しているということを知らない
だから、解決していませんwwww

384ハルヤン2018/06/12(火) 09:54:25.07ID:uSqoWyEf
解決は「知らない」ですか…

385神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 09:57:07.85ID:nvaxj393
>>380
そのとおりです
分かれていないのですw
そのまんまなのです
宝鏡というのは意識のことで
その意識は、あなたと、わたしと、まったく同じなのです
完全に同じなんです
分かれましてないんです

水槽に魚が泳いでて、その、水槽の水みたいなもんです、

386神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 10:05:56.63ID:nvaxj393
こちら側をわたし
あちら側をあなた

このような視野が、分裂してる

ところが、この、わたしとあなたは、同じ意識の下で、現れたり消えたりしている

この意識は、全体の意識なのです

その、全体の意識は、生きているのですが、永遠です

しかし、これを生命というのは、どうなのか

生命の生じて滅していく、その、スペース

それが、意識です

そして、その、一つの円を、様々な角度から、我々が個人的に表相させたものを生きている

これがブラフマンです
円相です

387神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 10:09:34.96ID:nvaxj393
>>384
解決は実質的にあるものです
その、質感は、静寂です

388ハルヤン2018/06/12(火) 10:10:33.58ID:uSqoWyEf
解決は解決を知らない
そのものはそのものを知らない
なるほど…

389ポッタン師2018/06/12(火) 10:11:37.43ID:YTH68Yr6
386.意識、か。それは心理学である。それは宗教になる、か。

390神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 10:15:36.17ID:nvaxj393
>>388
真如は、そのようにあるかもしれませんね

391神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 10:26:52.91ID:nvaxj393
>>389
ポッタン師って123ひふみ、とーさんでしょw
宗教っていっても様々だから、何が宗教かなんて、よくわからんし
神仏の信仰が日本では宗教なんだから、その意味では、意識の同一性は、宗教ではないかもしれないね

392神も仏も名無しさん2018/06/12(火) 10:31:25.96ID:nvaxj393
神仏信仰で、こころが洗われる
このようなことで、受容が起これば、苦しみに悩まなくなるんだから、
これも、また、安心になるすばらしい方法
ようするに、煩悩
煩う気持ちが静まればいいのさwwww

393ポッタン師2018/06/13(水) 12:19:29.12ID:WYswViOG
392.気持ち、の問題ではない。

394ポッタン師2018/06/13(水) 16:13:04.19ID:B3F2qZFy
仏とは何か。糞をかき取るヘラ、である。
それで、綺麗にになる、という問題である。

395神も仏も名無しさん2018/06/14(木) 04:45:18.03ID:vwO9UUMh
>>393
気持ちの問題だよおおおおんw

396神も仏も名無しさん2018/06/14(木) 04:46:46.35ID:vwO9UUMh
>>394
仏とは、くそかきとる、ヘラである
だから、綺麗になる
なんの、おかしな話でもあるまいてよ

397神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 13:21:54.75ID:qxOUC1gk
グルジェフさんの説く
思考、感情、動作、本能、性の諸センターの活動の観察、正確なものを、捉えていくこと
これは、様々なことに気がつくことができる
まず、普段、思考と思っていたものが、感情センターの働きである
次に、感情センターの働きと思っていたのが、本能センターの働きである
または思考センターが動作センターで動く時もあるし、、、
そして性というのは、愛情やら、そういう感情的なものとは違い、独立したものであるとか
このような観察の積み重ねである
これは、自分で、その、動きを見ているしか方法がない
つまり、自分で自分の機能の、まあ、グルジェフさん流に言わせれば、機械の、働きを注視することなのである

そして、この注視、こそ、智慧である

398神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 13:28:58.09ID:qxOUC1gk
わたしの注視が、わたしの機械を観察していくには、この、注視は、独立しなければならない
つまり、この意識は、発達しなければならないし、また、あらゆるものと、分離していなければならない
思考に没頭していれば、普通の人間は、思考しているだけである
しかし、この、観察を行っているものは、思考しながら、思考している己の、他のセンターを同時に起動させて置かなくてはならない
つまり、その時の姿勢や、感情の、流れと、思考とが、あり、また、かつ、この、わたしが、今、思考しているということを、見ているものが存在しているのだ

399神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 13:32:42.98ID:qxOUC1gk
観察を続けていけば、苦しみ、つまり心理的な不安や恐怖、怒りや不快感などなどは、どういう状況において発生しているかに気がつく
これを一般に平均的なものとして、教えることができないのは、ある人は、そうでも、人が違ったら、スイッチが変わるからである
それらは性格や、環境の影響で、人間の内部で特殊な構造を形成しており、これが、人間の様々な場面における決定を生んでいるのである

400神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 13:42:03.42ID:qxOUC1gk
一見すると、わたしの、機能を観察して、明確にしていくことは、仏教とは、何の関係性もないように思えるかもしれない
しかし、これは、まったく似ている

瞑想と、よく似ているのである

しかし、この、観察は、いつ、実行するかは、環境に左右されず、気がつきさえすれば、いつでも、どこでも、やれるのである

わたしが、今、書き込みをしていたら、それを全センターで感じること

これによって、いままで、見ていたものが、己ではなく、本能や感情の、反応の累積であると知ることができる

そして、想いの連続を、断ち切り、形成された、心理的苦しみの、傾向性、各、個人、個人の、魂の不純物の、純化を成すことができるのは、この方法のみであると思われる

とにかく、実行してみてば、様々な、新たな、宗教的理解が、生まれてくるものであり、しかも、コツさえ、分かれば、やり方は簡単である

401神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 13:51:05.99ID:qxOUC1gk
これらの研究において、普通の学問的研究と違うところは、この研究は、文字による理解ではなく、実質的な理解である点である

このことが、実質、この、私と呼んでいる

この、わたし!

を基盤に据えて、理解が生まれていくのだ

もちろん、それは、知識がなければ不可能であるわけだが、しかし、その知識は、実際に生身の活動体である、この、思考、感情、動作、本能、性の諸センターからなる

肉体精神機能の上に描かれている、理解なのであって、決して、字義の理解ではない

実際の、この、わたし、の、諸活動における、無常、無我の理解なのだ

このような理解が生まれると、ある人間が主張していることが、わたしの中の、どの点のことを指しているのか、わかってくる

例えば、魂、アートマン、ブラフマンというのは、イメージとしてあるのではなく

実質、胸と意識と、顕現のことを指していふ

などなど、の理解は、わたし自身の機能を通して、理解されるものなのである

それをバカどもは、この、私自身を抜きにして、本の中の、論理性、、、

辻褄があうあわない、と、批判するが、

それは、その、理解が、知識と、洞察の、両者の働きの上にないから

まあ、単純に言えば、何の、実質的理解もしてないからなのだ

402神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 14:01:37.71ID:qxOUC1gk
これは化学や、文学の、研究ではなく
私自身の、研修であり、それらを、通して、私自身が、明確に、実存的な解決を見出すものである

想いによる解脱
想念をなくす

まあハジ的には、見ることを止める

などという話は、想念とは、自己の中で、どのようなものであるかを

見ることとは、どのような働きのことであるかを知らなければ、分かりようがないのであり

それらは、宗教的理解は、読書と瞑想の中から生まれてくるのであり

それも、その、探究の、意識、つまり、四六時中、いつでも、気にかかって仕方がなく、夢中に、それを中心に、邁進していることが、何十年と重なって、

突如、わかるのである

403神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 14:08:11.52ID:qxOUC1gk
仏教の存在は、私にとって、この、わたしのニルヴァーナの理解にとって、その洞察が、非常に素晴らしいものであるからいいのだ

つまり、この、諸活動が、因縁によって起こっており、わたしなるものの、実体がない

ということが、実質の、この、ここで、見抜かれていなければいけない

本に書いてあるのが、正しいか、正しくないかは、他の本との比較もあるかもしれないが、

当然、わたし自身の、瞑想からの理解が、中心になければならないのである

静寂というものも、それである

なぜ、静寂が、慈悲に繋がるのか

このようなことは、論理的な話ではなく

実際の話なのだwwwwwwwww

わかったかいな?

404神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 14:10:53.58ID:TF55CUvK
凄くよく分かります。

405神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 14:20:13.62ID:qxOUC1gk
本能的欲求
食欲、性欲、睡眠欲
それから心理的な欲求
愛情欲求、承認欲求

これらは、どの人間も、持っている

しかし、この、欲する機能が、わたしではないことは明らかである

これは、肉体精神の機能である、自己保存欲求と言えるものだろう

しかし、この、例えば、食べることは、実際に、毎日の行為の中にあり、その時々に、この欲する機能が、わたしの、感情的を刺激して、そして、動作を促す

こういうことが、わたしの意志ではないのは、明確である

わたしの意志は、もし、あるなら、それらの、動物的反応を、超えたものである

一般に理性などと呼ばれている、冷静な思考と、行為

食べたいと欲求があって、それから、それを判断して、食べるか食べないかを決める

この決める主体、これが、我である

が、この、わたしは、欲求と連動した働きと、常に、敵対しているものである

この、冷静な注視が、わたしの、活動全般を、見ている時

わたしの思いは、欲求であると知る

食欲が阻害された→イライラ
おいしい海鮮料理で満腹→よろこぶ

などという単純なもの

貶された→イライラ
褒められた→よろこぶ

これらに付随した感情的な思い

この、想いが、わたしだと思っているが

こんなものは自然反応である

406神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 19:14:26.81ID:qxOUC1gk
外的環境によって、いとも簡単に操縦されている、我が想念
これが胸の中で、様々な、感情の渦から、沸いているわけだが
この、流れに、わたしの、意志が、完全にくっついてしまっているのである

同一化

自己に同一化すること

これを、止めることが、表面的な感情の渦の、深みにある慈悲に触れさせるのである

この悲しみに似たものは、わたしの動物的反応から、離れて、高度な人間的情緒を発現する

澄んでいて静寂だが、これには、感情的な要素があるのである

それを体験なしに言葉だけで、理解していくことは、不可能である

なぜなら、今までの経験に、言葉が束縛されているから、イメージが固定化されているからだ

わたしは知らない
知らないから、知ることができるのである

しかしもちろん、概念や理論も知らなくてはならないことではある

一方に傾きすぎれば、進歩はないと、グルジェフさんは説いた

もしも、欲求に基づいて、すべてが、起こるのなら、自由はない

しかし、人間は、その、想念を、超える、慈悲、もしくは、忍耐、という力を、用いることができるのである

もちろん、それだって縁によるわけだが、どのような縁によってか、それを知ることができたのである

自己同一の解除は、止まることであるが、いくらそれを説いてもうまくいかない

これもグルジェフさんの説である

それ以前に、わたしと思っているもの、つまり、各センターの機能の観察からなる

自己の研修の長年の経験が、わたしの、内的状況を、明らかにして、その、仕組みを納得している必要があるからだ

つまり、ここにおいて、自分を覚えていること

自覚と

その自分の感情的反応の、動物的側面の、奥にあるものに触れていくこと

想念からの解脱

が、実現していく道筋ができてくる

欲することからの、距離があるからである

欲望が、ないわけではなく、欲望に対して、それらの、自然反応ではないものが、当たることによって、わたしの活動が、変化を生じていく

そこで、理解も様々に起こる

まあ、これは、違う道だが、しかし、まあ、なかなか、効果のあるものである

407神も仏も名無しさん2018/06/18(月) 15:04:01.32ID:B8mmXwO3
374 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/18(月) 01:00:22.45 ID:lZTMGpTQ
中観とか唯識とか、いろいろあるけど
原点は原始仏教ですよね。
中観や唯識を学ぶに当たっても、原始仏教から逸脱していたら疑わしいと思う。
龍樹菩薩も原始仏典を「聖典」と呼んでいたように
帰る場所が原始仏教だと思いますね。


394 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/06/18(月) 07:23:14.30 ID:lZTMGpTQ [3/9]
麦ちゃん、俺は180で75キロのボクサーのような筋肉質で
しかもチンチンがデカい(笑)

400 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/18(月) 07:46:16.94 ID:lZTMGpTQ
麦ちゃん僕のレスは無視ですか?
今朝なんてビンビンに勃起しててパンツの穴から飛び出してたよ。

         。ρ。
         ρ         ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         m
        C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
      /⌒ヽ⌒ヽ___   |  ∴ヽ  3  )
     ./  _  ゝ___)(9     (` ´) )
    /  丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
    _/ )          (   Y ̄ ̄ ̄ ̄)
   (__/           \____/

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