一番正しい究極の教え

1神も仏も名無しさん2017/10/22(日) 01:08:26.61ID:oU7En2Qy
一番正しい究極の教えとは。

116902018/03/19(月) 23:15:31.86ID:3hjrCe24
>>115
死に至るプロセスではなく、死後永遠に無になるのでは?という事に対する恐怖です。
しかし先ほど教えて頂いた通り永遠に無という考え自体が曖昧なので
仰る通り望むものを創造する事で救われるかもしれません。
逃げる事、没頭することをポジティブに考え過ごしていきたいと思います。

>>114
お気遣いありがとうございます、続きお待ちしています。

117962018/03/20(火) 04:30:25.38ID:NCQqmo86
【114の続き】
その暗黒の世界で私は孤独であることに恐怖を感じ、大声で叫ぼうとした。
だが、私には自分自身の声は聞こえなかった。そう無音の世界だった。寒いような感じがしたので、自身を抱きしめようとしたが自分には体がなかった。
手も足もボデイも無いようだった。当然、地面にあたるものも無い。
ただ、かすかに上下の方向感のみあった。自身の意識の中心を”眼”の位置とし”頭”の方向を上、”口・喉”の方向を下、とする、肉体をもっていたときの方向感覚が少しだけあった。
そして、頭上方向、遥か、遥か、遥か彼方に点にも満たない微かな光があるように感じた。
・・・・・・
多分、幼い私は「何も無い世界」「光も音も物も自分の肉体もない世界」を夢の中で体験しようとしたのだろう。
その体験は底知れぬ恐怖感を伴うものであったので、必死で忘れようとした。”死”や”死後の世界”については、考えないように努めた。
【続く】

118神も仏も名無しさん2018/03/20(火) 19:03:04.64ID:HH9RbnlD
【117の続き】
最初に見てからひと月以内に二度目を見た。その後は徐々に間隔を開き、中学生の時には年に一・二度くらいになった。
高校生になって、1年生の終わりか2年生になってからか、の時期に一回だけ見たのだが、相変わらず恐怖心を覚えた。
だが、子供の時と違い、自分の心を少しはコントロールできるようになっていた私は、「もう二度とこの夢は見ない。」と自身を暗示にかけることにした。
「見ない」と自身に誓ったといった方がより正確な表現かもしれない。
この夢(あるいは体験)はそれ以降、私には「思い出」の一部となった。
その代わり非常に明確なある夢を定期的にみるようになった。いや、見せられるようになったというべきかな?
新たに見るようになった「予知夢」はその時点では単に「明晰夢」の一種と考えていたが、約十年後に夢に出てきた通りの風景の地で現実となった。
繰り返し繰り返し同じ夢を見ていたので、事故を避けることができたが、その「予知夢体験」は私にとって唯物論を離れる大きな原因の一つとなった。
17歳のときに初めて見た夢は27歳の時、それがいわゆる「予知夢」と言われているものが本当にあると理解させてくれたのだ。
だが、実は、「予知」そのものを21歳の時に体験して、「ひょっとして、目に見えない世界があるのではないか」と考えるようにはなっていた。(その時点では”霊界”の存在にはまだ懐疑的だった。)
私が二十代の後半に「唯物論は間違ってる」と判断することになったのは、自身の体験に基づいているので、他人の前では、「さあね、唯物論と有神論どっちが正しいのかねぇ」ととぼけて見せるが気心の知れた友人は皆私がどっちを選んだか知っている。
【続く】

119神も仏も名無しさん2018/03/20(火) 20:09:54.35ID:HH9RbnlD
【118の補足説明】
118の文中で「目に見えない世界」と「霊界」と分けて書いたのは実は理由がある。
最初から「唯物論者の父」と書いたが、さらに加えて、多くの人が予想したであろう通り、父は「共産主義者」であった。
当時は米ソ冷戦下で両陣営とも軍事力での対決も辞さない構えだったが、「超能力の研究」も両陣営とも秘密裏に行っているという情報があった。
父の影響でソビエト連邦びいきであった私は、通常兵器以外の軍事力にも興味があり、「唯物論に基づいた方法で科学者が研究している”超能力"」というものはきっとあると考えていた。
両陣営とも極秘に研究しているらしく、全貌は分からなかったが、漏れ伝わってくる情報では透視・遠隔透視・テレパシーについては、一定の成果が有ったらしい。
宗教には否定的な思いがあった私は、「霊能力」はほぼ全否定だが、「超能力」となると比較的には肯定派だったのである。
自分にそういった能力があることを期待してアメリカで作られた「透視能力判定カード」(〇△☆等が描かれたわりと普通のカード)で自分を試してみたりしていた。
期待外れも甚だしい結果だったが、まあ自分が特殊能力を持っていれば、それだけトラブルに巻き込まれる可能性も高くなるだろうし、持ってなくても生きていくのに不便はないと考えて自分を慰めることにした。
多分、中学生のときだったと記憶しているのだが、一時的に熱中して本を読んだが、それっきりにしていた。
だが、運命は皮肉にも私に「予知夢」と「予知」を体験させた。運命ではなく、おそらくは・・・「守護霊」が体験させてくれたのだろうと最近は思っている。
【続くかも知れないし、身バレを防ぐためにレスを辞めるかもしれません】

120902018/03/20(火) 23:48:12.63ID:FVGfMeET
実に興味深い内容なのでよければ続けていただきたいです
自身で経験する程説得力のある事はないでしょうし羨ましいですね
自分もあわよくば自身の経験によって唯物論から解放されたく思います

12112018/03/21(水) 02:46:50.37ID:15jTjk5p
>>116
> 死に至るプロセスではなく、死後永遠に無になるのでは?という事に対する恐怖です。

死後永遠に無になるのであれば恐怖を感じる主体(私)はいないですね。
(私がいるのであれば無ではないので。)

それとも私がいなくなることに恐怖があるということでしょうか?
でもこの場合、私はいないので恐怖を感じる者がいないです。

それとも、もし無であれば私はいないので、逆に安心できる?

> しかし先ほど教えて頂いた通り永遠に無という考え自体が曖昧なので
> 仰る通り望むものを創造する事で救われるかもしれません。
> 逃げる事、没頭することをポジティブに考え過ごしていきたいと思います。

・・・?
ポジティブに考える必要はないと思うのですが・・・。

122902018/03/22(木) 00:01:48.74ID:fXD3XyQd
死後、「無」になったまま二度と再び意識を手に入れる事なく時が進み続ける事を想像する事で
意識を持っている今を愛おしく感じると同時に恐怖に襲われます。
無になれば恐怖する事も無いでしょうがその状態になる事自体が怖く、生きている今現在恐怖を感じていました。
ですので何かに没頭し、考える事から逃げ続ける事も悪くはないのかなとポジティブに(肯定的に)考えてみようと思いました。
どうしても前レスの通り懸念要素が頭によぎり、目をそらす事に否定的になってしまっていたので…

123962018/03/22(木) 01:44:56.09ID:2oa76tdZ
90さん >>122 のレス
よく分かります。レス90以降あなたは一貫してこの件について書き込みしているので、私は、自分の少年期に見た夢のことを書いたのです。
あなたが思考から想像力によって感じている恐怖を、幼い私はいきなり夢で味あわされたように思っています。
 今日は私が体験した予知や予知夢については、端折りますが、私が少年期に見た例の夢はどうやら、仏教で「無間地獄」と言われている世界に酷似しているということを、お伝えしておきます。
なお、ある人が書いた本によると、他でもなくマルクスさんは無間地獄に落ちておられるらしいです。
一方スターリンさんはもう一つの無間地獄で、相変わらず闘争の日々を過ごされているようです。
・・・・・・・
人の心はいろんなものを「創り出す」のですが、「無間地獄」もその一つです。
唯物論から、一旦、離れてみたらよいのですが。
まあ唯物論の呪縛から解きほどかれるのに20年近く掛かった愚図な私が偉そうに言えるものでもないが。
【今夜はこれっきり】

124902018/03/23(金) 00:13:06.13ID:0Yu+/Pwe
そうなんですね…
体験談等語っていただいてありがとうございます。
興味深い内容で参考になりました。
自分以外の方も似た様に苦悩した経験があると知れて少し安心しました。

125神も仏も名無しさん2018/03/23(金) 15:52:11.30ID:XkBCaQ5E
前レスでスターリンの死後についてちょっと書きましたので、それについて簡単に整理しておきます。
唯物論者の落ちる「無間地獄」が2種類あり、片方は私が見た夢に酷似しており、おそらく90さんが感じておられた恐怖感とも関連しているでしょう。
対してもう一つの「無間地獄」はかなり様相が違います。この差は何なのでしょうか。

>>121 で1さんがいっておられるこの↓

>死後永遠に無になるのであれば恐怖を感じる主体(私)はいないですね。
>(私がいるのであれば無ではないので。)

という、論理的に正しい言葉がヒントになります。ただし、”死後永遠に無になるのであれば”でしかありませんが。
゛私がいるのであれば無ではない”と唯物論の゛死後の世界は無い”とを組み合わせて考えてみると、肉体の死を迎え、肉体を離れた唯物論者たちの魂(意識)は「自身の死」をどううけいれるか?
「私はいる(意識がある)ので、死んでなどいない」と思っているスターリンは、同じように考える唯物論者たちと”誰が指導者(支配者)になるか”を争い続けています。
「どうやら私はしんだようだ」と思ったマルクスさんは自分の意識が無くならないまま自身が作った「無の世界」で恐怖感に囚われ苦しんでいる。
と、私は考えています。ー 今後クンロクを使います。他の人は使わないでください ー

126クンロク(96)2018/03/23(金) 16:15:23.99ID:XkBCaQ5E
>>125 に名前を入れずにレスしてしまった。勘弁してください。

127神も仏も名無しさん2018/03/23(金) 16:16:58.81ID:SA+orOqf
天理

128神も仏も名無しさん2018/03/23(金) 19:33:35.61ID:XkBCaQ5E
>>125 訂正】
123レスでスターリンの死後についてちょっと触れましたので、それについて簡単に整理しておきます。
唯物論者の落ちる「無間地獄」が2種類あり、片方は私が見た夢に酷似しており、おそらく90さんが感じておられた恐怖感とも関連しているでしょう。
対してもう一つの「無間地獄」はかなり様相が違います。この差は何なのでしょうか。

>>121 で1さんがいっておられるこの↓

>死後永遠に無になるのであれば恐怖を感じる主体(私)はいないですね。
>(私がいるのであれば無ではないので。)

という、論理的に正しい答えがヒントになります。ただし、”死後永遠に無になるのであれば”ではなく゛死んでみたら、あの世があった”と考えてみてください。
゛私がいるのであれば無ではない”と唯物論の゛死後の世界は無い”とを組み合わせて考えてみると、肉体の死を迎え、肉体を離れた唯物論者たちの魂(意識)は「自身の死」をどう受けいれるか?
死後、「私はいる(意識がある)ので、死んでなどいない」と思っているスターリンは、同じように考える唯物論者たちの霊と”誰が指導者(支配者)になるか”を争い続けています。
一方「どうやら私は死んだようだ」と思ったマルクスさんは自分の意識が無くならないまま自身が作った「無の世界」で恐怖感に囚われ苦しんでいる。
と、私は考えています。
ー 今後クンロクを使います。他の人は使わないでください ー

129クンロク(96)2018/03/24(土) 22:30:25.73ID:0T9YF12c
 【閑話休題(それはさておき)】
共産主義と唯物論は、セットで語られることが多いが、実際はまったくの別ものですよね?
キリスト教徒にも共産主義に賛同する人がいますが、彼らは原始キリスト教的共産主義者と呼ばれています。
また、他方、経済・政治体制は自由主義を支持するが、宗教を否定し唯物論を信奉する人たちもいますね。
私はマルクスさんの「資本論」のダイジェスト版(日本語)を学生の頃 読んで「ああ、やっぱり」と納得した部分と「えっ!」っと驚いたことがあります。
マルクスがキリスト教徒として「なぜ、キリスト死後千八百年も経過しているのに地上に『神の国』が実現されないのか?」「産業革命・資本主義の発達はどうコントロールすれば人々の幸福・社会の健全な発展に役立つか?」
という至極当然な問題意識をもって19世紀欧米諸国の資本主義経済を研究し、彼なりに「科学的社会主義」思想をエンゲルスと共にまとめ、「これで神の国が実現できる!」と考えるに至ったのです。
このとき彼は、「もうキリスト教は必要ない」と勘違いというか早とちりしてしまったようです。
 【続く】

13012018/03/24(土) 23:05:23.12ID:FY+8W8Xf
>>122

自分があるのですか?

はなから自分がないことを確かめれば一気に解決します。

13112018/03/24(土) 23:06:05.06ID:FY+8W8Xf
(続き)

死後、意識があれば安心なのですか?
意識がある死後の世界はどのような世界でしょうか?
その死後の世界で永遠に在り続けることに平安があるのですか?
もし平安がないなら意識は無い方がいいですね。

生物として死を避けようとするのは当然の本能です。
ただあまり想像を膨らませすぎるのもどうかと。

何事もほどほどが良いです。

「過ぎたるは及ばざるが如し」

13212018/03/24(土) 23:06:29.23ID:FY+8W8Xf
(続き)


想像すること。
信じること。

人はこれらによって癒され、
一方恐怖にさいなまれます。

恐怖無しに生きるにはどうすればいいか?
ということです。

13312018/03/24(土) 23:07:33.46ID:FY+8W8Xf
(続き)

信じることは、継続的なエネルギーが必要ですね。
なかなか疲れます。
そもそも、信じていないから信じるわけで、
何かを信じるということは、信じていないことがベースになっています。
信じると信じないは表裏一体というわけです。
なので、信じる人は常に「万が一違ったら・・・」という恐怖を潜在せざるを得ません。
もちろん、強烈に信じることで 、
信じたものを体験することはあります。
たくさんの宗教があるように、人は信じたものを体験します。
見たいものを見るわけです。

ですが、自ら確かめたことは、信じる必要がありません。
目の前にリンゴがあるのに、リンゴがあることを信じる必要はないということです。

真に楽になるためには、何も信じず、分からないことは分からない、
という当たり前のことに落ち着くことです。

死を体験した人や厳密に検証した人はいません。
死んだらどうなるかは実際のところ誰にも分からないのです。
(脳が記憶していることを体験する人はいますが)

つまり、死は想像であり、信じることの範疇です。

脳は、分からないことに対して自分の定義をして安心しようとしますが、
その定義によってまた苦しみます。

分からないことを分からないままそのまんまを生きる、
つまり何も信じない、
目の前のことに集中する、
これがもっとも原始的でシンプルで純粋な生き方であり、
楽な生き方です。

134クンロク(96)2018/03/25(日) 00:38:53.18ID:Q/x3fLDt
【129の続き】
ダイジェスト版の「資本論」を読んで、「あー、やっぱり」と思ったのはマルクスは人間心理という計量しずらいものを思考から外してしまったために失敗したということです。
そして、「計画経済」という一見効率よさそうなシステムが実は経済発展に向かない面があることに気づけなかったことです。
私は、中学生の頃までは共産主義が正しいと思っていたので、ロシア革命やソビエト連邦に関する本などをよく読んでいたのですが、読んでいくうちに理想とはほど遠い史実に落胆するばかりでした。

マルクスはキリスト教徒ではありましたが、熱心な信仰者ではなく、「キリストの救世は失敗した」と考えていたようです。
現代の日本にも知識人の中にもよく「自分は仏教徒です」と言いながら「仏陀=釈尊の説かれた仏教思想は夢物語ではないか」と考えている人がいるのと同じです。
【続く】

135神も仏も名無しさん2018/03/25(日) 12:41:14.04ID:bfpFdlKZ
>>70を読むと、
「自分達だけが唯一の正しい宗教」とする宗教は、
それゆえに正しくなく、問題とのことですね。
「本質的には、多くの宗教は正しいもの」、というのが正解のようですね。

13612018/03/26(月) 23:41:59.14ID:AMZMaszd
>>133
(続き)

もし、明日死ぬとしたら、今日一日しかないとしたら、
今日一日をどのように過ごしますか?

13712018/03/26(月) 23:48:21.20ID:AMZMaszd
究極とはそういうことです。

13812018/03/27(火) 00:24:26.73ID:ljUirOqq
>>135

人はドラマを愛していますからね。

どの宗教も正しいです。
本人が癒されているかどうかがすべてです。

13912018/03/27(火) 00:25:18.21ID:ljUirOqq
>>138(続き)


最も正しい教えは個々の癒しを尊重します。

ただ一方で、信じることの不完全さに満足できず色々変遷を経て、
どうにもならず、いきつく場所があるのも事実のようです。

14012018/03/27(火) 00:25:45.03ID:ljUirOqq
>>138(続き)

信じるという範疇の中で落ち着く人もいます。

極端には、洗脳されて幸せということもあります。
(信仰も洗脳も自ら確かめないという意味では同じ)

本人さえ良ければOKです。

信じることの不安定さに気づく人や、
徹底的でなければ気が済まない人は、
信じることではなく確かめることに重きを置きます。

141クンロク(96)2018/03/27(火) 02:58:43.06ID:Ja+iLOHG
>>133 に対する疑問】

>そもそも、信じていないから信じるわけで、
>何かを信じるということは、信じていないことがベースになっています。

私や友人たちは「知らない事物は『知っている人』の言葉を信じるしかない」と考える。
何かを信じるということは「自分では知りえないし経験できないが『経験した』という人を信じる 」ことだと思う。

例えば、私は戦後生まれなので第二次世界大戦を経験していないが、それがあったと信じている。
明治維新や江戸時代についても同様に信じている。
また、目の前にあるもの、例えば、パソコン・ボールペン・コーヒーカップの存在は疑いようがない。
あなたの文章は

>そもそも、知らないから信じるわけで、
>何かを信じるということは、知らないことがベースになっています。

に直した方が良いのではないかと思います。
そうして論理の正しい道筋を改めて歩んでみてくだされば、現在持っておられる結論とは違う答えにたどり着くでしょう。

142クンロク(96)2018/03/27(火) 03:08:01.97ID:Ja+iLOHG
>そもそも、知らないから信じるしかないわけで、
>何かを信じるということは、自分は知らない(経験してないし見たことはない)ことがベースになっています。
と書いてあれば私たちも理解しやすいのですが。

14312018/03/28(水) 00:47:11.83ID:nF8Y0lSQ
>>141

私は、第二次世界大戦があったかどうか知りません。
ただ多くの人があったと言っているので、
たぶんそうなんだろうと思います

信じる必要も疑う必要もないですよね。

第二次世界大戦があったものとして生きているだけです。

>>142

知らないと必ず信じるわけではないですよね。

知らなくて信じることもあれば、
知らなくても知らないままにしておくこともあります。

信じたいという欲求があるときにのみ信じます。

この欲求についての話です。

何故信じたいのでしょうか?

その根底に何があるのでしょう?

144神も仏も名無しさん2018/03/29(木) 01:51:00.70ID:wXP2gjEv
確信してないから信じるんじゃない?
友達が不慮の事故もなく待ち合わせにくる事は確信できないけどほぼほぼ来るから信じて待つわけで。
別に友達が来ることを根本的に信じてないわけではない。

145神も仏も名無しさん2018/03/29(木) 09:26:11.29ID:7EEI3zBF
>>140
幸福の科学信者なんか信じることしか能が無いので誰一人として幸福になっていない惨めさを露呈。

14612018/03/30(金) 00:01:21.86ID:SKzdPkfs
>>144

ほぼ来るのなら信じる必要はないのでは?

確信する必要があるのですか?

来ない可能性もなくはないけど、
まあほぼほぼ来るだろう、
ではダメですか?

待つことに恐怖があるのでしょうか?

確かに「恐怖無しに生きるには」というのが
この対話の始まりだったと思います。

もし仮に、友人を待つことに恐怖があるなら、
その根底に不信とそれを否定して信じようとする心理がないでしょうか?

(念のため申しておきますが、
「信じる」という言葉を使うかどうかを問題にしているのではありません。
心理状態についてのお話です。)

さて、待つ人が気楽に待つためにはどうしたらいいでしょう?

疑いがあればあるほど、
「いや、絶対に来るはずだ!信じて待とう!」
のように、疑いとは反対のエネルギーを燃やそうとします。

この葛藤についてお話ししています。

147神も仏も名無しさん2018/04/01(日) 12:22:00.52ID:4l9i/gxk
>>70ですが、シリーズ後作の2冊の抜粋も追加させて頂きました(^^ゞ

『新しき啓示』(神が「神との対話」の世界へのスタンスを述べた後作の書)

◆聖なる書(宗教)は色々あっても、基本的なメッセージは同じだということだよ。違うのは、人間の解釈の方だ。
P21

◆あなた方の世界は今、大きな問題にぶつかっている。
あなた方は信念(神や自分に対する考え方)のレベルで問題を解決しなくてはならない。
行動のレベルでは解決できないのだよ。
行動ではなく、信念を変える努力をしなさい。信念を変えられれば、行動は自然に変わってくる。
P41

◆地球の平和はあなた方が信念を変えた時にだけ達成できる。
しつこいようだが、そこを肝に銘じて理解していなければ、何をしても地球を癒すことは出来ない。
あなた方が癒そうとしているのは、信念が生み出した傷なのだ。
P71

◆この対話の中で私が言う「組織的宗教」とか一般的な「宗教」とは、排他的な教義を教えている宗教のことだ。
言い換えれば、「私達の信じているものだけが、唯一の真の宗教だ」と主張する宗教のことだ。
こういう宗教は問題だ。
全ての宗教が問題なのではない。
P82

◆世界は新しい霊性(スピリチュアリティ)を生み出さなければならない。
古いもの(宗教)に完全にとって代わるのではなく、古いものを新たにする霊性だ。
古いものを縮めるのではなく、拡大する霊性だ。
古いものをくつがえすのではなく、その中の最善のものを支える霊性だ。
P266

◆その霊性は、伝統的な宗教の教えを頭から否定するのではなく拡大し、もう適切でなく有効でもないと皆が考える一部を変えるものだ。
P278

◆人類は大きな危機に直面している。
その危機とは、イデオロギーの対立だ。信念の危機だよ。
P278

◆「(他の宗教・人種・国などより)優れている」という人間の考え方は、あらゆる知的存在が生み出した中で、最も有害な概念だ。
P302

 

148神も仏も名無しさん2018/04/01(日) 12:22:49.22ID:4l9i/gxk
『神へ帰る』(神が死後の世界の事も詳しく述べた後作の書)

◆魂は霊的な世界(あの世)を通って完全な知に到達し、物理的な世界(この世)の道を通って完全な体験に到達する。
どちらの道も必要で、世界も二つある。
P68

◆希望は「死」においても「生」においても素晴らしい役割を果たす。決して希望を捨ててはいけない。
希望は神聖化された思考だよ。
P192

◆あなたは(死後)「一つであるもの(神)」へ戻り、(また来世)「一つであるもの」から分かれて現れる。
これを未来永劫、永遠に、さらにその先まで何度も繰り返す。
P266

◆全ては完璧なタイミングで、完璧な方法で起こる。
「神の王国」において、不完全ということはあり得ない。
「この地上」は神の王国だよ。神の王国の一部でない場所など、どこにも無い。
P276

◆全ての人、全ての事に神を見て、全てを完璧だと見なさい。
P278

◆「神の愛」への信頼は、人生の日々を生きる時に役に立つし、死を迎える日にも同じく役立つのだよ。
私はあなた方を愛している。あなた方すべてを深く愛している。
P436

◆あなたがここ(この世)から去った時、以前亡くなっていつまでも心の中に残っていた人達ときっと再会出来ることを知っておきなさい。
それから後に残していく人達のことも心配しなくていい。永劫の中で、その人達とも何度も再会し、何度も愛するから。
P464

◆本当は皆天使だ。あなたが対立相手だと思っている人、敵だと想像している人達でさえそうなのだよ。
全て神聖な理由と目的が有って、あなたの世界に現れている。
だから闇をののしらず、闇を照らす光となりなさい。
起こる事は皆、想像する中でも最高に素晴らしい世界と経験に導く道を開くのだから。
P482



 

14912018/04/04(水) 00:19:15.06ID:ToXq6kwZ
>>147

> ◆聖なる書(宗教)は色々あっても、基本的なメッセージは同じだということだよ。違うのは、人間の解釈の方だ。
> P21

人間は解釈をします。
そしてそれは必ず分かれます。
たくさんの宗教があるように。

裏を返せばその基本的なメッセージの中身を知りたいのであれば、
解釈をしてはいけないということですね。
「精神でそこに至ることはできない」
のような記述がありましたよね。

精神つまり仏教などで言うところの自我ですが、
このシステムはどのように働くのでしょう?

自我が世界を作っていますので、
自我の構造を明らかにすれば、
世界が明らかになります。


> ◆あなた方の世界は今、大きな問題にぶつかっている。
> あなた方は信念(神や自分に対する考え方)のレベルで問題を解決しなくてはならない。
> 行動のレベルでは解決できないのだよ。
> 行動ではなく、信念を変える努力をしなさい。信念を変えられれば、行動は自然に変わってくる。
> P41

神は存在する、
自分は存在する、
という信念。

そして、そこから発展して、
神とはこういうものである、
自分とはこういうものである、
という信念を持ちます。

大切なのは、どれかの信念が正しくどれかが間違っているということではないですよね。
もし、正しい信念を持ちなさい、ということになると、
結局のところ、解釈が別れ、どっちが正しい正しくないという果てしない迷路に迷い込みます。

では、どうすればいいのか?

右とか左とか、正しいとか正しくないとか、優れているとか劣っているとか、こっちとかあっちとか、
といった二元論とはまったく別次元の方向へアプローチしなければならないということです。

150神も仏も名無しさん2018/04/05(木) 19:33:47.92ID:yGDxINmD
>>149
1巻5章に、
「精神の旅ではなく、心の道で神にたどり着きなさい」とのことですが、
翻訳の関係で、この場合は精神(常識的思考)、心(感覚、感性)かなと私は考えています。
最も明確に神(神の存在、働き)を知るには「経験」とのことですからね。

あと世界に伝えられているメッセージは同一ということは、各宗教やスピリチュアルの共通項的な核の部分、
例えば「神は世の創造者・支配者で愛である」「生命は永遠である」「人間は神の子である」等ですね。
中には輪廻転生の部分は教団組織に都合が悪いので排除しているような所もあるようですが。

そして誰か他より優れた正しい人間・人種などがいるという、単純な善悪、優劣などの二元論ではダメだということでしょうね。
1巻P62辺りに少し難解な話として、
素朴(未成熟?)な領域の関係は二元的(対極)で、より崇高な領域の関係は三元的(三位一体、循環)だと述べていますね

あまり小難しく考えず、我々が日常的に意識しておくべき事を端的に言えば、
人間は皆、神から愛された素晴らしい存在である。
そして誰にも存在意義がある。
簡単に善悪や優劣は決めつけられないし、決めつけてはいけない、ということだと思いますが。

 

151クンロク2018/04/06(金) 00:13:14.38ID:HOxi5tvE
>>101
西部邁さんの自殺を手助けした男が二人、逮捕されましたね。
いづれ、あの人の死生観についても少しは報道されるでしょうし、自殺を選んだ心境についても、より正確に推理することができるようになるでしょう。

15212018/04/06(金) 22:33:15.34ID:gf6eaIpz
>>150

確かめるのか信じるのか、ということなのですが・・・。

『神との対話』の定義では、
神はすべてであり同時にすべてでないもの、
ということです。

平たく言うと、あれもこれも神であるというわけですが、
すると神でないものはないわけですね。

神に限界や境界があってはいけないわけです。

全知全能なわけですから。

これは核心をついておりまして、
つまり、神はいないと言っているのです。

神しかないということと、神がいないこととは同義なんですね。

リンゴが在るというのは、
リンゴではないものがあるからです。

リンゴはリンゴではない空間に囲まれているから、
リンゴとして存在できます。

つまり、必ずリンゴとそうでないものとの境界があるんです。

どんなものも境界がなければ、存在することはできません。

それだけしかない、ということはないんです。

それだけしかないということは、それはないということです。

神しかいないということは、神はいないということですね。

神以外のものがあるなら、神は存在します。

もはや全知全能ではありませんが。(笑)

15312018/04/07(土) 23:47:04.12ID:YYpU5iJh
神を体験するには、
すべての前提を一旦脇において、
何もないところに入っていかなければなりません。

私が解釈した神や、私が理解した神、
もっと言うと私が知ることのできる神は、
相対者でしかなく絶対者ではありません。

私が知る事ができる神は、
私が分類したり定義したりできる神だということです。

私というものは、知っていることしか理解できないのです。

その神は、私が既に知っていることをかき集めて、
それに当てはめられたものだということです。

私が神を理解したなら、その神は私を超えていないのですね。

私の守備範囲にいるのです、その神は。

(もはや私が神です。(笑))

ですからどこまで行っても、その神は、
イメージであり観念なんです。

ですから、私は真っ白になって飛び込まなければなりません。

真っ白な私は、もはや私ではありません。

「それだけになる」ということです。

たとば音に集中し、その中に入ってしまうのです。

音を聞くのではなく、理解するのではなく、
それだけ、になってしまうともはや音ですらありません。

それだけ、ですからもちろん体験者もいません。

その、それだけ、は理解できませんし、解説もできません。

その、それだけ、は日常当たり前に起きていることなのですが、
そこから出て分類・理解したときだけが記憶に残っているので、
神がいないように見えるのです。

すべてであり同時にすべてでないものが体験できないのです。


さて、神しかないのですから、
神がいるとか信じるとか体験するとか、
ナンセンスなんです。

空気のような存在、当たり前の存在なわけですから、
とりわけ意識する意味はないですよね。

神を信じることなく、普通に生活している人の方が、
よっぽど神を完全肯定しているわけです。

154クンロク(96)2018/04/09(月) 18:15:29.75ID:ZD5k/zPO
90 さんへ
 私は唯物論から有神論へと転向する過程でいろいろなことを考えたのだが、その一つが「目に見えないもの」についてだったのは、当然と言えるだろう。
 私たちは多くの「目に見えないもの」に囲まれて暮らし、その恩恵に預かっているよね?。例えば電波、赤外線、紫外線、電磁波、放射線といったものは、私たち人間の目では直接には見えないものだ。
 また、耳に聞こえない音というものもある。いわゆる超音波をレーダーのように使って蝙蝠が暗闇を飛んでいるのはあなたも聞いたことがあるだろう。「犬笛」は人には聞こえないが、犬には聞こえるそうだ。
 犬や豚の嗅覚が人間より遥かに優れていて、麻薬探知犬やトリュフ探しに豚を使うこともある。フクロウの暗視能力や鷹の動体視力も人間には無い。
 あなたは多分、携帯かスマホを持って日々利用しているだろうが、他の人のスマホとの間を繋いでいるという「電波」を見たことがあるかい?。有り得ないよね。でも、実在している。
 そう、21世紀に生きる私たちは、最初に「目に見えるものは存在する」と認めて考えるべきなんだと私は思い至ったのです。

155クンロク(96)2018/04/09(月) 18:26:25.75ID:ZD5k/zPO
人間の五感なんて、それほど優れているわけではなく、お釈迦様の時代から、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六識のうち、唯一、他の動物より優れているらしいのは「意識」だけなんだよね。

156クンロク(96)2018/04/09(月) 18:31:04.05ID:ZD5k/zPO
うまく言えないけど、ともかく、目に見えないものを、その存在を認めないというのは、19世紀的な発想だと思う。
現在の科学は、「目に見えないもの」を研究している。

157クンロク(96)2018/04/09(月) 18:36:45.04ID:ZD5k/zPO
「目に見えないもの」のなかには、未来や過去がある。他でもない、あなたの未来も、まだ見えてないけど、確実にある。
おそらくは、肉体の死後のあなたの意識もある。
 今日はここまで。

15812018/04/14(土) 22:55:21.48ID:eXiJ+BjJ
つまり、私の体の機能がこうだから、
世界はこうなんですね。

159神も仏も名無しさん2018/04/16(月) 10:34:34.10ID:Nug3FHz4
ホーキング博士の幽霊は"自由"だった

先月亡くなった、宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士は生前、自身が研究で追いかける最終的な問いについて、こう語っていた。

なぜ今のような姿であり、なぜ存在するのか――。

これは、博士が自分自身についても、投げかけ続けた問いでもあろう。博士は、21歳の若さで筋委縮性側索硬化症(ALS)を発症し、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていくという、過酷な運命と闘った。

晩年、宇宙を解明する理論を進化させるにつれ、博士は人と神の存在について、以下のような"結論"を出していた。

「脳はコンピューターのようなもの。部品が壊れれば動作しなくなる。壊れたコンピューターには天国も来世もない。天国は、暗闇を恐れる人間のための架空の世界だよ」(*2)

「青の導火紙に点火して宇宙をスタートさせるために神を持ち出す必要はない」(*3)

では今、博士が運命と闘った汗と涙、そして、宇宙の仕組みに対する天才的な慧眼は、全て消えてなくなってしまったのだろうか――。

「あの世を受け入れられない科学者」という現代的問題
そうではなかった。博士が亡くなってから約3週間後の4月4日、大川隆法・幸福の科学総裁の元に、博士の霊からコンタクトがあった。大川総裁は博士の霊を身体に入れ、霊言を行った(*4)。

博士は霊言の冒頭、自身の今の状況への困惑を以下のように訴えた。

「It's a mystery. Am I alive or not? Are we alive? I'm thinking, thinking, thinking or dreaming, dreaming, dreaming?」
(不思議なんだ。私は生きているのか? 我々は生きているのか? 私はずっと思考し続けている……もしくは、ずっと夢を見続けているのか?)

本欄を読みながら「霊などない」と思っている人も、仮定でもいいので、想像してみて欲しい。もし自分の死後、予想に反して、意識が残ってしまったら。自分が生きているのか、死んでいるのか分からず、混乱するだろう。

160神も仏も名無しさん2018/04/16(月) 10:44:15.36ID:Nug3FHz4
博士は、質問者である幸福の科学職員に「あなたは霊だ」と説明されても、「No one can prove that(そんなこと、誰も証明できない)」と受け入れない様子だった。
しかし博士は、音声合成装置もなく話し、車椅子なしで移動している。その矛盾を説明できず、戸惑っていた。

科学的なアプローチで、世界の様々なことを説明できるようになればなるほど、宗教的な世界観を拒否するようになる人は多い。博士の困惑は、そんな現代社会の問題を象徴しているといえる。

「神に呪われた」人生だったのか?
博士は対話を進める中で次第に、なぜ自身が無神論となったのかを語る。そこには、「物理学的な結論」とはまた別の不条理感があった。

「If God made me, I cannot accept the reason why I'm so heavily destroyed my physical actions, or perception. I hate God. If you think, you believe, that you are like gods, or God. I cannot believe that kind of God」
(私が神に創られたとしたら、なんで自分がこんなに重い肉体的障害があって、知覚も障害があったのか、その理由が納得できない。神なんか嫌いだ。君らが、『自分は神に似せてつくられた』と思うとしても、私はそんな神は信じられない)

しかしその後の対話の中で徐々に、博士の中にあった「神に呪われた人生だった」という見方が揺らいでいく。

そして博士は自身の境遇を、『旧約聖書』に書いてある「義人ヨブ」に重ね合わせるかのような言葉を口にし始めた。

「ヨブ記」では、信仰心深く、心正しく生きていた義人ヨブが、神により、病気や身内の死などの、ありとあらゆる災難を与えられる。そんな中で神を疑うようになったヨブに対し、神は次のような主旨の言葉を与える。

「おまえに神の心が分かるのか。この宇宙を創ったものの、ほんとうの思いが分かるのか。なぜ私がおまえにこのような試練を与えているか分かっているのか」

ヨブは心改め、その後、大きな幸福を得ることになる。

161神も仏も名無しさん2018/04/16(月) 10:45:05.94ID:Nug3FHz4
ホーキング博士は、過酷な運命と戦いながらも、偉大な理論や功績を残した。そして、世界中の人々を勇気づけた。それは、当事者にとっては過酷な時間だったかもしれない。
しかし霊として「自由な身体」となった今、その人生を振り返れば、苦難の経験は魂の勲章として、さらに大きな喜びにつながっていくに違いない。

自身の人生の意味を、そして幸福も不幸も共存するこの宇宙が存在する意味を、博士はこれからも追究し続けるのかもしれない。

16212018/04/16(月) 22:50:29.83ID:JmFCBASt
目に見えないものも目に見るものも、すべてのことについて、
ありとあらゆる前提を一旦脇に置いておいて、
ゼロからはじめてみるというのはいかがでしょうか?

16312018/04/17(火) 00:06:52.57ID:Licdoau+
未来や過去など、確実に在ると言えるものであっても、
目に見えないものは存在しない、という19世紀的な発想と同様に、
絶対的な根拠にはなりえません。

目に見えないということを根拠に無いと判断することと、
目に見えないけど何らかの根拠に基づいて在ると判断することは、
同義ですよね。

私が得た根拠に基づいて在るとか無いとか判断しているという意味で同じなわけです。

その根拠は自我という機能が作り出したものであって
どこまでいっても相対的です。

私というものは絶対者ではないので。

16412018/04/17(火) 00:07:43.42ID:Licdoau+
未来とか過去という概念は、
そもそも人間が作り出したものですよね?

大前提として時間というものが存在しているという考えがあるのですが、
時間も人間が創り出したもので、そもそものところ存在しません。

それは私たちの決め事ですよね。

動きとか変化のことを時間と決めたわけです。

そして、動きとか変化は、人間が記憶という機能を持っていなければ、
存在し得ません。

記憶という機能や私の体の機能が、動きとか変化を作り出しているのです。

「犬笛」が聞こえる機能を持つ犬がそれに反応するように、
記憶という機能やこのような体の機能を持つ持つ人間が、
動きや変化が存在すると判断しているのではないですか?

16512018/04/17(火) 00:22:23.17ID:Licdoau+
目に見えない世界があるという主張は、
人間に認識できない世界があるということとは違いますよね?

前者には目に見えない世界を認識する主体つまり私が必ずいますが、
後者にはそれがありません。

つまり、死後の世界も私(自我)の投影だということですね。

そうなってくると、生きている世界も死後の世界も、
私(自我)というメカニズムが作り上げた幻想であるということになります。

16612018/04/17(火) 00:54:45.53ID:Licdoau+
人は、
「何の罪も無い人が何故こんな目に?」
などのように考えたりします。

ところが実際にはそこに理由はありません。

ヨブがどんなに善人であっても災いは降りかかります。
そこに理由は無いのです。

ところが人はどうしても「何故?」と問います。

そして、試練とか前世などを持ち出して納得を得ます。
(試練も前世も私の中の根拠でしかありません。
つまり相対的なものです。)

自我は納得を得たいのですね。

ところが疑問を作り出さなければ納得も要りません。

疑問は作り事なんです。

問題は、「何故?」と問うことなく「分からない」というそのままの中に安住できるかどうかなんです。

安住する人の「何故?」と安住できない人の「何故?」は、
まったくの別物なんです。

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