仏教議論スレッド 119 [無断転載禁止]©2ch.net
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仏教とはいかにして「自己を有利に持っていくか」の実践に尽きる。
まあ俺は今はクリスチャンだけどな(*_*)。 ジャンキー君、人気者だね。
988神も仏も名無しさん2017/06/25(日) 04:32:24.99ID:AQ+VB0k5>>990
>>953
ジャンキーさん、
あなたの言う公案はあるのか無いのか?
その公案とやらを実践出来る人間がいますの?
>まだ公案で瞬殺された事を根に持って、ちくちくと粘着しに来たのか?
これ意味がわからないです
公案そのものもわからないですよ
公案と公案を実践して悟りに近づけますの?
>だから、知らんがなと言っておるw
そうか、説明も出来ず何も知らんのね?
ここに何しに来てるの? でおーとか、まことの喜びじじいが入ってきたスレは
議論なんか成立しないから。
でおーが入ってきたべ?間もなく、まことの喜びじじいも来るぞ。
その時点で「仏教議論」にはならない。 オウム信者体験者こそが、仏教議論が可能と自信満々だそうです笑。 仏教は競争社会で働く人には合わない教えかもしれない。
矛盾・対立・闘争を乗り越えて、神の使命を果たすというような考えがないからさ。 >>2
>仏教とはいかにして「自己を有利に持っていくか」の実践に尽きる。
日本で実践は阿闍梨さんしかしてないですよね
チベットやネパールのお坊さんの中にはおられますが
小乗仏教を習われてるからね
仏教のいう実践ですが、悟りに拘り実践出来る人がいないの
それが仏法の目的なら仏法は必要ないと思う
あなたはクリスチャンの方なら告解についてもお詳しいでしょう
クリスチャンの信徒さんは告解をすれば神に許されて天国に行くと
教えられてるの? >>8
>>仏教とはいかにして「自己を有利に持っていくか」の実践に尽きる
はて?
ドコの国の仏教よ?それ。
お経でいうと、なんのに書いてる?
おせーて♪ >>10
>仏教とはいかにして「自己を有利に持っていくか」の実践に尽きる
これがおかしいと言いたかったのですが
レスの流れ見てないのかな 検索もいいが、とにかくガムシャラに修行する
ことを、まことにはお勧めする >>12
>自利・利他ですよ〜
それは仏法の要ではないですよ
他力(本願)のない仏法は救われませんよ?
小乗仏教かカルトは自分の行いを重視しますが
>自利・利他ですよ〜
そんな仏教はないですよ?
自利利他を本願とする宗教ってあるの? ゆえに、バレバレの自演になり、まことは恥も何もなくなった >>17
>無じゃ
アホですか?
『心の対象が滅するときには、言語の対象も滅する。
その法相は不生不滅(の如く)であり、
じつにニルヴァーナの如くである。』(龍樹 中論18‐7)
心に対象が滅した『想いからの解脱』(Sn.1072)において
有無の二項相対設定はありえない。 竜樹(ナーガールジュナ)はその著「中論」で空を次のように定義している。
「衆の因縁生の法、我はこれを<空>なりと説く。何となれば、衆の縁が具足し和合して而して物は生ずるをもて、
是の物は衆の因縁に属するが故に自性なく、自性なきが故に空なり。空も空なればなり。
但し、衆生を引導せんが為の故にのみ仮名(けみょう)を以て説く。有と無の2辺を離れるが故に名付けて中道となす。
是の法には性無きが故に、有と言うことを得ず、亦空も無きが故に無と言うことをも得ず。若し法に性相あれば
即ち衆縁を待たずして、而も有ならんも、若し衆縁を待たずんば即ち法無し、この故に空ならざる法は有ること無きなり。」
注:
1)仮名(けみょう):言葉による表現
2)「自性なき」=無自性(むじしょう):固定した不変の性質を持っていないこと。条件に対し無条件に応答し変化する性質をいう。
? 「中論」の文章を読んでも訳文が古いため何を言っているかわからないと思われるので現代語にすると次のようになる。
「諸々の因縁から生成したもの(法)を私(ナーガルジュナ)は<空>であると説く。何故なら、諸々の因縁(条件)が具備・和合して
はじめてもの(法)は生成する。このもの(法)は因縁によって生成したのであるから諸々の因縁から切り離すことはできない。因縁に
属すると言ってもよい。因縁自身は一定した性質を持ってはいないので自性は無い(無自性である)。自性は無いので<空>である。
但し、<空>という言葉(仮名)で表現するのは衆生を導くためである。諸々の因縁から生成したもの(法)は有と無の二辺を離れている。
故にこれを中道と名付ける。もの(法)は一定した性質を持ってはいない(無自性)ので有と言うこともできない。また無であるとも言い切れ
ない。もし、もの(法)に固定した性質があれば、因縁の助けなしに、生成するだろう。しかし、すべてのもの(法)は因縁によって生成する。
従って<空>でないもの(法)は無いのである。」
ここには<空>の意味が説明してある。竜樹(ナーガールジュナ)が説く空とは
1.? 諸々の因縁(条件)によって生じたもの。
2.? 固定した性質を持たない、無自性なもの。
ここに結論が出てる 仏教は自分の心をいかに安楽にするかがテーマである。
他人を助けるとかどうでもいいんだよ。まず自分が安楽に
なれるかどうかである。
そのために何故自分は苦しいのかを観察するのである
原因が分かれば対策もある。
難しく考えることもない。 【話題】高野山が昔、猫の立ち入りを禁止した理由 ⇒ 「あまりにも可愛くて修行の妨げになるから」 [無断転載禁止]©2ch.net
http://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/●1498550420/ 中論は、難しい誰も理解できん 学者さんは、研究して下さい >>24さん
yesかnoかで答えて下さい
生きとしものは皆生まれ変わり死に変わり迷いの中を流転し続ける >>28
生まれ変わり死に変わりとかはそもそも無い。
妄想である。
人が死ねばどうなるかリアルに考えてみればわかる。
二酸化炭素と水に変化する。
それらは大気の一部となり地球を循環する一部となる。
あとは現在の大気循環を考えれば分かるだろ。
意識も無意識も死んだ時点で無くなり終わる。
生きてるうちに今の苦しみをなくし安楽な境地を
得るべきである。 火葬とかに立ち会ったこともないのか?
動物が死んでそれが腐っていく様を見たこともないのか?
死んだ死体をそのままにしてればどういう変化をすること
くらい分かるだろ >>29
>人が死ねばどうなるかリアルに考えてみればわかる。
>二酸化炭素と水に変化する。
>それらは大気の一部となり地球を循環する一部となる。
比喩としても酷い。
要素還元主義は仏法ではない。 >>24
>ここに結論が出てる
アホですか?
結論なんか出ようがないんですが、何かご不審な点でも?
他者の言を引用するなら、引用先を明示するのが当然だろう。
『縁起しているもの、
(1)それをわれわれは「空」と説く。 *空観
(2)それは、相対(相待)の仮説でもある。 *仮観
(3)それ((1)と(2))は〔じつは)すなわち「中道」にあるのである。』 *中観
(龍樹 中論24-18) >>24
>ここには<空>の意味が説明してある
空の如しは比喩示唆でしかなく、意味は論外だ。
『(1)他によって知られるのではなく、 *Sn.907参照
(2)寂静であり
(3)戯論によって戯論されることなく
(4)無分別であり
(5)★無意味である *「一味」(青目、月称)把握は間違っている。
―これが勝義である。 >>35
それを実体験したか、もしくはそれを得るために修行をした人がいないことについては?
コピペして切り貼りしてあなたはその境地になったの?
>空の如しは比喩示唆でしかなく、意味は論外だ。
それはどこに書いてありますの?
空についてですがそれこそ仏教を勘違いし、観念に囚われること
引用は私もしますが龍樹菩薩は空だけで仏法を説かれていませんよ? >>35
>勝義である
そんな言葉お経のどこにあるの? 仏教は、アートマンを否定してるのか肯定してるのか教えてください(´・ω・`)
(無我は、我の否定でありアートマンの否定ではないことは知ってます) 40.
アートマンは存在としては否定される。
だが、存在しないものとしては肯定される。
理解できるかな。無理かもな。 栄進はラジニーシの非仏教の信奉者の鬼和尚に依存しすぎだな。 >>41
つまり、アートマンは否定されると。
>>42
鬼和尚曰く、目覚めたものになる教えは全て仏教なのじゃ、だそうです。 釈迦が言ったのは、五蘊無我だよ
五蘊(肉体・精神を構成する要素)、つまり現れたものの中には
我(=アートマン)は存在しない、ということ
アートマンを漢訳したときに 「我」 としたから
自我のことのように誤解を生むことになった
つまり、直接的には言ってないが、五蘊以外の現れてないもの
がアートマンだと言外に言ってるようなもの 比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
形成されたのではないもの、生起したのではないものがある。
〔さらに一方〕 生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものがある。 比丘たちよ、もし生じたのではないもの、現れたのではないもの、
作られたのではないもの、形成されたのではないもの、生起したのではないものがないならば、
『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものを離れることがある』と私は説かないであろう。
ところが比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
形成されたのではないもの、生起したのではないものがあるから、
だから『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものを離れることがある』と私は説く。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>44
そうですね。
>>45
>>比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
>> 形成されたのではないもの、生起したのではないものがある。
これは、アートマンのことを指してるのかしら(´・ω・`) >>46
栄進をパチンコさせるパチンコマンでいいじゃないか笑。 余談だが、先日、「ハロー張りねずみ」でオカルトを扱ったものをやっていて霊媒師がまだ不動明王
を中心にとなえていたが、不動は悪いほうへいってしまいもう消滅させられたという情報を得ている。
これからは降三世明王を中心に唱えるべきだ。
大日如来はパワーがほしいときあるいは怒りがほしいとき不動(シヴァ)と合体しては絶対ならない。
ハトフル、マリア他も同じ。みんないいように記憶をすりかえられたり、術中にはまって
ほれぼれピーに不正にさせられたりしている。だから取り返すものがいつまでもとりかえせない。
不動は人間側も唱えてはいけないし何万年分の入れ替え弁償とって早く元から消滅完全に
させなければならない。 >>40
我とアートマンは同じ言葉ですよ
我を否定してアートマンを否定してない、というのは何かおかしいですね
我を否定してるならアートマンも否定してます
我を否定してないならアートマンも否定してないですよ
アナートマンは「我ではない(非我)」という意味ですが、まあ、これをアートマンを否定せずに
「貴方たちがアートマンと言ってるのは実はアートマンではない」(ほかに真のアートマンがある)と仰ったと解釈したければそれでもいいんじゃないですか >>50
つまり仏教はアートマンを否定してない、でよかとですか(´・ω・`)?
>>51
そうですか。 バラモン教の土台はあったかも知れないけど仏教はほぼオリジナルで考えた方が良いと思う
いちいちバラモン教で捉え直すことで余計ややこしくなるんじゃないか 梵我一如を目指すのではなく、そもそも我っちゅーのは縁起で成り立つ諸法無我であることに気づきましょうって話だし >>53
バラモン教と仏教は別物と考えるからややこしいような気が。
むしろ真のバラモンになるための方法が仏教だと考えればシンプルのような。
>>54
『梵無我一如』と言ったほうがいいのかな。 >>55
インドに行ってヒンドゥー教を学んでこいよ 梵は全ての源だけど仏教では不要な思想としてる
梵天が仏教を広めよと指示した方便的な神話があるだけ
さらにバラモン的な我という不変の概念は仏教では認めない
したがって仏教の思想からブラフマンやアートマンを定義し直すことは
仏教でいう無明煩悩しがみ付いている様なもの
その先を学びたいなら大乗仏教の神々を取り入れたヒンドゥー教から学ぶのが筋だし早いだろう >>56
ワシ、引きこもりやねん(´・ω・`)
>>57
Suttanipata(Sn.) には, 次のような釈尊と信者の対話が残されている。
聖者よ,お尋ねしますが,私は今, brahmanをまのあたりに見たのです。真にあなたは我らにとってbrahmanに等しい(brahmasama)方だからです。
光輝ある方よ。どうしたならば, 梵天界(brahmaloka) に生まれるのでしょうか。(Sn,508G )
これに対して釈尊は「施しの求めに応じる人が, このように正しく祀りを行なうならば梵天界に生まれる」と答えている。 >>58
なるほどね
それならブラフマンやアートマンという考えを一旦捨てて
しっかりと仏教に勤しむといいよ
その逸話はそういう意味だから 58.
施しを求める者の詐欺の言葉である。
バカは、その言葉でだまされる。 >>52
>つまり仏教はアートマンを否定してない、でよかとですか
Kimatthakāmo na dade kiṃ macco na pariccaje
利益を求めるものは、何を与えてはならないのか?人は何を捨ててはならないのか?
(Bhagavā:) attānaṃ na dado poso attānaṃ na pariccaje,
(世尊曰く)自己を与えてはならない。自己を捨ててはならない。
仏教で説かれている自己(アートマン)というのは捨てたり与えたりできるレベルのものってことやね 以前ここで中論についての質問をしたものです。
中村元先生の龍樹を読了しましたが、龍樹の思想背景などは理解できましたが、
肝心の中論本文についてはさっぱりでした。
やはりチャンドラキールティのプラサンナパダーや
ツォンカパの正理の海などを読むしかないのでしょうか?
価格が高いので理解できなかった時のことを考えて購入を躊躇しています。 ダライ・ラマ法王の「中論講義」は、難しくはありますが、簡易な言葉で書かれており
また法王は師から直接教えを受けられていますから、中論解説に有りがちな
独善的解釈の心配もないと思われます。 >>59
すいません、意味がわからないので教えてください。
>>61
でも自己(アートマン)の存在は否定してないわけですよね。 >>62
チャンドラキールティやツォンカパは難解なのでオススメしません
(特にチャンドラキールティは良い訳がない。丹治先生のは部分訳だし)
レグルス文庫の三枝先生の訳でいいと思いますよ
青目註の書き下し訳がついてるので参考程度にはなりますし
あと、龍樹を勉強するなら中村元先生じゃなくて石飛道子『ブッダと龍樹の論理学』を読まないと理解できないと思います >>64
世俗諦なら自己は認められますよ 「自己をより所とせよ」っていうでしょ
ただし永遠不滅という意味はないけどね
あるいは宮元先生みたいにヤージュナヴァルキヤみたいな「〜ではない」、〜ではない」としか語ることのできない言語化不可能なアートマンとかそういう意味もないですね >>61
これ、原文はパーリ語というものですか?
attānaṃ=アートマン=自己(´・ω・`)? >>66
我=アートマンであるものは否定されると。
自己=アートマンでないものは肯定される。
世俗諦では自己は認められる。
勝義では自己は認めないということ?
(´・ω・`)???
なんで仏教で相反する結論が二つもあるん? >>68
諸行無常。
自己は縁起によって、いま成り立ってる様に見えるもので永遠不滅のものではない。
その辺は空観によって語られる。
でも空観を真理の頂点とすればニヒリズムとなり現世を楽に生きられない。
だから、逆に、仮に全て有ることを認めて生きて行こうという考えが仮観。
でも仮観では現世に執着して楽に生きられない。
この両極端を知った上で概念を止揚させる考え方が中観。
この前提を踏まえた上で、自らの中観での灯を頼りにせよという自明灯に行き着くことができる。
つまり永遠不滅のアートマンとは全く違う概念。 >>64
いま梵天界に生まれたいと考えてるのなら、布施の修行をしっかり喜びをもってやりなさいってこと。 >>68
>なんで仏教で相反する結論が二つもあるん?
たとえれば勝義諦は原子だけの世界みたいなもん
われわれの世俗の認識だとここにPCもしくはスマホ、ガラケーがあるけど
原子の世界ではPCもスマホもガラケーもないでしょ?
ただの原子しか存在しない
逆に言えば仏教で認めてる自己(サ:アートマン、パ:アッタン)というのはその程度のことでしかなく、永遠の魂とか精妙な霊我ではない
ただし仏教では霊魂を否定しているからといって死んだら無になるとは言わない >>69
なるほど。
自己とアートマンはちがうと。
納得いたしました<(_ _)>
>>70
ハイ
>>71
原子は分子レベルで変化してるだけで、原子は不滅ですよね。
そういう意味でアートマンということでしょうか。 >原子は分子レベルで変化してるだけで、原子は不滅ですよね
宗教板ってたまにすごい人いるよね(´・ω・`) 仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1497619233/149
149 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2017/08/11(金) 14:30:35.32 0
「中論」関連
ナーガールジュナ (150-250)
・『龍樹』 中村元 (2002)(中論全訳)(原文なし)
・『中論 − 縁起・空・中の思想(上中下)』 三枝充悳 (1984 )(漢文・梵文あり)
・『中論』 西嶋和夫 (1995)(梵文あり)
チャンドラキールティ (600-650)
・『中論註釈書の研究:チャンドラキールティ「プラサンナパダー」和訳』 奥住毅 (2014)(梵文あり)
ツォンカパ (1357-1419)
・『全訳 ツォンカパ 中論註「正理の海」』 クンチョック・シタル、奥山裕 (2014)(蔵文あり)
・『大正蔵』中観部 第30巻p1(龍樹造、目釋、鳩摩羅什譯)
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=1564_,30,0001b11
・『国訳大蔵経』論部 第5巻(コマ番号114)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207557
・『国訳一切経』中観部 第1巻 相対性理論や量子力学や脳科学について動画でも良いから調べたら仏教ってすげーなって思うよ >>76
核消滅ってあるん(´・ω・`)?
>>77
相対性理論=縁起?
量子力学=唯識?
脳科学=無我?
これでええんかな(´・ω・`)?
わしアートマンについて調べとんやけど。 >>78
アートマンって輪廻転生の根拠だから仏教で言えば苦の対象なんちゃう? >>79
チベット中観派でも説一切有部でもテーラワーダでも
アートマン(またはアートマン的な主体)を輪廻の根拠として説いているまともな学派はないよ >>79
アートマンを我と思う無明?が輪廻転生という苦の根拠なんですかね?
>>80
ならば輪廻転生の根拠・主体とは何でしょうか(´・ω・`)? >>80
言葉が足りなかった
1.他の宗教ではアートマンを輪廻転生の根拠としている
2.仏教宗派ではアートマンなら輪廻転生は成り立たないと考える
3.仏教哲学では無我なら輪廻転生は成り立たないと考える
2.は辻褄の合わないところなど、論争が未解決なので
差し当たり1.と3.によって、単純にアートマンへの執着が苦だと考えた >>82の続き
2.の場合は、アートマンを否定することで輪廻転生を正しく認識することで
その上で涅槃寂静があると考える
したがって、仏教ではどこをつまんでもアートマンへの執着が苦であるという結論になる >>81
えーっとまず輪廻に主体はありません。
仏教では人間を心と身体(漢:名色)というパーツにわけて考えます。
仏教では、心の根本的な原因は物質(=脳)ではありません。二つはお互いに影響を与えるけれど別物と考えてください。
心は身体に依存しています。
今生において、身体が機能しなくなると、心は次の依存先の身体を探します。
今世の最後の心(死心)が滅するとき、この今生最後の心は自分が滅する代わりに、来世の身体(色蘊)に自分にそっくりな新しい心を生みだします。
この因果の連鎖が続いていくこと(梵:サンタティ)が輪廻です。
で、死んだ後に、今の身体と次の身体が地理的に離れていることが問題となります。
というか、これが納得できないから多くの人が魂とか主体を想定したがるんだと思いますが。
テーラワーダでは中有を認めないので、臨終の心が、フッと消えたとたんに
何百キロ先の身体にパッと新しい心が生じると考えます。
中有(バルドゥー)を認める学派(中観、有部)は
バルドゥーの身体をインターミッションにして来世に転生するとします。(多分こっちの方が想像しやすいかもしれない)
幽霊(ガンダルヴァ)に生まれ変わって次の転生先までふらふら〜っと移動していく感じです。
勘違いしないで欲しいのは今世と来世で意識に断絶があるわけではないことです。
今現在も私たちの心は滅して、自分にそっくりな新しい心を生み出しているからです。
輪廻で意識が断絶するなら、今現在も意識が断絶しているようなものです。
魂ではなく、五蘊が生じて滅してを繰り返す「因果の連鎖」(梵:スヴァ・サンターナ、漢:自相続)
が途切れることなく続いていくことが仏教における輪廻の教理です。
個々人の因果の流れがあるから、私が突然、となりの田中さんになったりすることは起こらないわけです。
私の今の心は、一瞬前の私の心のコピーだからです。
こんな感じです。分かりにくかったらもう一回質問してください。
それでもアートマンがあると信じたいならさようなら >>82
3について気になったのでちょっと。
3番目は近代仏教学者が科学的唯物論の立場から仏典を解釈した文献学の見解で、
「仏教哲学」とでもなんとでもご自由に呼べばいいですが、
この解釈を信奉している主体は、ナーガールジュナや、釈尊ではなくて、
現代の仏教学者とそのフォロワーだけです。
(龍樹や釈尊のテキストは、中立的な解釈対象であって、「釈尊の真意は輪廻否定」とか霊言をのたまい出したら、
その人は輪廻を認める宗教者と同じ立場に立つハメになりますよ。自覚がないだけで。)
たとえば宮崎哲弥氏が中観帰謬論証派は輪廻を否定している!とうそぶいてますけど、
自立論証派であろうと、帰謬論証派であろうと、こういう解釈をしている「哲学・思想」は過去にありません。
それは「中観宮崎哲弥派」の創始と同義です。
文献学の学者が何千年前のインドに現れた現代人であるブッダの思想を再発見したと妄想しているだけです。
自分の見解に合わない仏典の記述は「後代の発展や付加」と決め付けていく還元論であって、
はじめから「輪廻などの迷信はありえない」という結論ありきで考察していくという方法論ですよ。
めちゃくちゃ単純です。
以上です。 >>85
なるほど、仰る通りだと思いました。
仏教って面白いなあ。 俺氏真宗の理解だと縁起そのものが輪廻や魂だと思ってるんだよな
常に魂は生まれ続け輪廻し続けている >>84
よくわかりました。
解説ありがとうございます<(_ _)>
悟ると輪廻が停止して二度と生まれかわらないと聞きますが。
これはなぜですか(´・ω・`)? 諸説あるけど、正確に近いは涅槃寂静はアートマンが輪廻転生し続けるという思想から
完全に離れた状態のことだと思う
煩悩の火を搔き消し、諸行無常、諸法無我を腑に落とし瞑想によって悟ることで
それに身を任せるから涅槃寂静だと言えるんだろうと思う
もっと細かい説明や教えもあるだろうけど、こればかりは悟ってみないと正確なところは分からない 悟りはアウフヘーベンと体験だと思ってる
論なく中観を語ってもアウフヘーベンのない半端な考えでしかないし
体験が無いと正確なところは分からない
体験というのはものすごく単純なことだと思う
これを言葉で説明しようとするから大量の言葉が溢れ過ぎて悟りを見え辛くしてるところもある 悟りとは悟らで悟る悟りなり悟る悟りは夢の悟りぞ。⭐🐻 >>89
ならばインド人はともかく、アートマンという観念思想をもってない日本人は最初から悟ってることになりますよ。
(´・ω・`)? >>92
ゴメンその上での諸行無常、諸法無我と瞑想の境地が涅槃寂静
ちなみに日本人は死者と冥界への恐れを持つ民族で
そこに霊魂と先祖崇拝と六道輪廻の考えが輸入された無明の民族と言える >>92
ちなみに、今でもアートマンへの執着をお持ちなんですね 梵我一如って劣等コンプレックスの塊が中二病を拗らせた超人変身願望っていうイメージがある 99%五蘊の支配下に置かれているおまいらに・・^^
アートマンの存在を自覚するのは不可能^^
五蘊の支配下から解脱するためには・・
どうすればいいのか・・^^ >>96
仏教への信仰の先にはアートマンは居ないからね
ヒンドゥー教への信仰の先にはアートマンの自覚が生まれるかも知れない 五蘊に執着してるんだよな・・^^
おまいらは^^
だから解脱できずにいる^^ 五蘊の執着から解脱したとき・・^^
アートマンは現れる^^
しかし・・
その存在は・・^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています