2011年(主日A年) 9月18日 年間第25主日
イザ 55:6〜9  フィリ 1:20〜24,27a  マタ 20:1〜16

「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。 呼び求めよ、近くにいますうちに。 ・・・・・ 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。 わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザ vv.6-7)

教会がその信者たちに “悔い改める” “回心する” ということを教えて来たことは、だれもが知っています。
しかし、それが “神に立ち帰る” ことであることを、多くの人が知りません。

先月やっと、フランシスコ会訳の 「聖書(合本)」 が発行されて、名実共にカトリックの “原文校訂による聖書” が入手可能になりました。
多くのカトリックの子らが “自分で” “聖書全体にわたって読む” ようになり、すでに耳慣れたこの “回心する” という言葉の本来の意味を、正しく理解するように願わないではいられません。
私のインターネットサイトには、先月初めからその紹介ページを掲載していますが、その中に次のような一文を書いておきました。
「どうか皆さまが、読みもしないで万歳だけを叫ぶ “愚かなカトリックシンパ(党派心による護教家)” になることがありませんように。」

この 「聖書(合本)」 の緒言にある次の言葉は、現代の日本カトリック教会の信者一同への、まさに主の呼びかけに外なりません。
「この聖書が、生活の歩みの中で、日々の祈りの中で、またキリスト者並びにキリストに惹かれる方々の家庭の中で座右の書となり、人々に感銘を与え、その心を動かすことができますよう、研究所一同心から祈るものであります。」

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より