カトリックの洗礼を受けたいんだけど [無断転載禁止]©2ch.net

1神も仏も名無しさん2017/03/22(水) 15:14:34.58ID:9kYs/gVF
詳しい人います?
教会行って申し込めばいいんですか?

474神も仏も名無しさん2018/06/19(火) 15:19:55.78ID:XMeXhgnG
>>1
やめとけ。

475神も仏も名無しさん2018/06/19(火) 17:52:26.39ID:XMeXhgnG
>>1
やめとけ。

476神も仏も名無しさん2018/06/19(火) 17:55:12.02ID:XMeXhgnG
>>1
やめとけ。

477神も仏も名無しさん2018/06/19(火) 21:50:39.37ID:XMeXhgnG
>>1
やめとけ。

478神も仏も名無しさん2018/06/20(水) 08:33:56.58ID:RQxOAbj3
受洗おめでとうございます!

479神も仏も名無しさん2018/06/20(水) 23:19:10.11ID:OoG6zi5I
>>1
やめとけ。

480神も仏も名無しさん2018/06/20(水) 23:20:00.87ID:OoG6zi5I
>>1
やめとけ。

481神も仏も名無しさん2018/06/21(木) 06:52:41.62ID:1SDkQjIA
>>1
やめとけ。

482神も仏も名無しさん2018/06/21(木) 06:56:02.48ID:1SDkQjIA
>>1
やめとけ。

483神も仏も名無しさん2018/06/21(木) 06:56:42.83ID:1SDkQjIA
>>1
やめとけ。

484神も仏も名無しさん2018/06/21(木) 06:57:26.23ID:1SDkQjIA
>>1
やめとけ。

485老クリスチャン2018/06/21(木) 12:29:36.79ID:fsOSc5KT
2001年(主日C年) 6月24日 洗礼者ヨハネの誕生
イザ 49:1〜6  使 13:22〜26  ルカ 1:57〜80

洗礼者ヨハネは福音書の主人公ではなくて脇役です。
彼はイエスが登場すると、それと交代するように舞台から去って行きます。
しかし彼の誕生も、その短かった生涯も、神から来る喜びで満ちていました。

「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。 多くの人もその誕生を喜ぶ。」(ルカ 1:14)
「だから、わたしは喜びで満たされている。」(ヨハ 3:29)

彼の母エリサベトは主の母マリアに、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ 1:45)と言いましたが、
洗礼者ヨハネが誕生するとその同じ信仰によって彼女は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」(ルカ v.60)と言い、父親の 「ザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」(ルカ v.64)のでした。

そして、「主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」(ルカ vv.76-77)日が来るまで、「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」(ルカ v.80)のでした。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

486神も仏も名無しさん2018/06/22(金) 10:04:32.79ID:yN0zl83d
>>1
やめとけ。

487神も仏も名無しさん2018/06/22(金) 10:06:54.02ID:yN0zl83d
>>1
やめとけ。

488神も仏も名無しさん2018/06/22(金) 10:07:57.42ID:yN0zl83d
>>1
やめとけ。

489老クリスチャン2018/06/22(金) 12:01:47.02ID:nNhwYFMH
2007年(主日C年) 6月24日 洗礼者聖ヨハネの誕生
イザ 49:1〜6  使 13:22〜26  ルカ 1:57〜80

「あなたはわたしの僕、イスラエル、」(イザ v.3)

これは “僕の歌” の第二のものですが、“主の僕” と “イスラエル” とが同一視されていることに注目しましょう。
実にイエスは、肉によるイスラエルがなし得なかったことを、イスラエルに代わって成し遂げてくださった “僕なるメシア” でありました。
それは 「ヤコブを御もとに立ち帰らせ、イスラエルを集める」(イザ v.5)ためだけではなくて、「救いを地の果てまでもたらす」(イザ v.6)ためでした。

「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ロマ 8:3)。
「そのお受けになった傷によってあなたがたはいやされました。 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(Iペト 24-25、イザ 53:5-6)。

救済史は、その終わりの時に向かって確実に進んでいます。
そこでは “神に従う人は信仰によって生きる” のです(ハバ 2:3-4)。
そして、その福音伝承の物語りの始めに、今も洗礼者ヨハネは “燃えて輝くともし火” として立っています。
教会は、今朝の 「洗礼者聖ヨハネの誕生」 の祭日にも、また8月10日の 「洗礼者聖ヨハネの殉教」 の記念日にも、同じ叙唱をその日のミサで用います。
なぜなら、私たちは彼が指し示した 「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ 1:29)によって、永遠の命を得ている共同体だからです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

490神も仏も名無しさん2018/06/22(金) 20:47:32.22ID:yN0zl83d
>>1
やめとけ。

491神も仏も名無しさん2018/06/22(金) 22:40:11.34ID:yN0zl83d
>>1
やめとけ。

492神も仏も名無しさん2018/06/22(金) 22:42:18.93ID:yN0zl83d
>>1
やめとけ。

493老クリスチャン2018/06/23(土) 12:56:44.34ID:YD0udmnm
2012年(主日B年) 6月24日 洗礼者聖ヨハネの誕生
イザ 49:1〜6  使 13:22〜26  ルカ 1:57〜66,80

「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」(ルカ v.80)

今年はたいへん珍しく、洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日が主日と重なって、私たちはこの日固有の聖書朗読に耳を傾けます。
典礼暦には主日に次ぐ典礼日として、祭日、祝日、記念日が定められています。
祭日は主要な典礼日のうちに数えられ、その祭儀は前日の “前晩の祈り” から始まることになっています。
祝日と記念日は、祭日に較べて重要度が劣ります。

西洋美術のテーマの一つに幼い頃のイエスとヨハネが一緒にいる場面がありますが、素直に聖書を読むとこの二人はヨルダン川での洗礼の場面までは、全く面識がなかったようです(ヨハ 1:31 参照)。
今朝の福音朗読に配分されているテキストの部分は、ルカ 1:5-25 と共に、洗礼者ヨハネ単独の伝承であって、それが福音書が形成されていく過程でイエスの誕生の物語りと結びつけられました。
ヨハネをキリストの先駆者として理解することは、原始教会の宣教における基本的な要素であったからです。

494老クリスチャン2018/06/23(土) 12:57:47.62ID:YD0udmnm
(つづき)
父ザカリアへの天使の知らせ(ルカ 1:10-20)が実現して、ヨハネは誕生しました。
不妊の女で既に年をとっていた妻エリサベト(ルカ 1:7)から恥を取り去り(ルカ 1:25)、神が大いに慈しまれたことを、近所の人々や親類は喜び合いました(ルカ v.58)。
父親が天使に告げられたとおり(ルカ 1:13) 「この子の名はヨハネ」 と書くと、彼の口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めました(ルカ vv.63-64)。

「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」(ルカ v.66)というどこの家にもある子への期待が、救い主の到来と結びついて “主の道を整える、主に先立つ人”(ルカ 1:76)となって現実になったというのが、
原始教会の宣教のいつもイントロ(導入部)であったことを、私たちは聖書から聞くのです。

「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」(ルカ 2:40)というイエスについての伝承に倣って、「身も心も健やかに育ち」(ルカ v.80)と書き伝えられたヨハネの栄誉を、私たちは尊敬と羨望の思いで見上げます。

「この子には主の力が及んでいたのである。」(ルカ v.66、士 13:24、サム上 2:21,26 参照)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

495神も仏も名無しさん2018/06/23(土) 15:39:36.26ID:+WB4HtUP
>>1
受洗おめでとう。

496神も仏も名無しさん2018/06/23(土) 22:06:38.69ID:B4ait87V
フランスのカトリック司祭が泣き叫ぶ幼児を容赦なく平手打ち
https://www.youtube.com/watch?v=ihBxEmPsSSA

497神も仏も名無しさん2018/06/23(土) 23:59:51.74ID:+WB4HtUP
受洗おめでとう(。・ω・。)ノ♡

498神も仏も名無しさん2018/06/24(日) 01:08:24.64ID:E8y9zWNd
カトリック教会で洗礼なんか受けるな!

受洗しても行かなくなる人もたくさんいます!

499神も仏も名無しさん2018/06/27(水) 21:15:31.13ID:CT+FE7r2
受洗おめでとうございます!

500老クリスチャン2018/06/28(木) 12:38:08.88ID:88Ji1TqK
2006年(主日B年) 7月2日 年間第13主日
知 1:13〜15,2:23〜24  IIコリ 8:7〜15  マコ 5:21〜43

「生かすためにこそ、神は万物をお造りになった。」(知 v.14)

恐らく紀元前一世紀頃に書かれた “知恵の書” は、イスラエルに受け継がれて来た旧約聖書への有益な解釈を私たちに提供してくれます。
その一例を今朝のテキストに見ることが出来ます。

神が罪を創造されたのではなくて、罪は神の創造の御業に対する反逆ないし否定として入り込んで来たという理解が、ここで述べられています。
キリストは、地上に病や苦しみや悲惨や戦争のない平和な世界を造るために、民衆を教えたり各種の奇跡を行ったりしたのではありませんでした。
それらはすべて世界が罪に支配されていることの当然の結果であって、「罪の支払う報酬は死です」(ロマ 6:23)。

キリストは私たちを罪から救い、死を滅ぼすために(Iコリ 15:26)救い主として受肉し、十字架の血によって御自分の民を贖われました。
「私たちの主イエス・キリストによって(罪と死への)勝利を賜る神に、感謝しよう」(Iコリ 15:57)というのが、教会の信仰です。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

501神も仏も名無しさん2018/06/28(木) 19:46:47.73ID:W33ZrhRI
この度の受洗おめでとうございます!

502神も仏も名無しさん2018/06/28(木) 22:12:23.10ID:56DpCKKY
洗礼ならぬ「除染」をした方がよさそうな信者さんも結構いそうな気がしますけどね?

【教会探し】行ってはいけない教会39【教会相談】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523936973/

稀に見るインチキスレであるのが明白にもかかわらず
いつまで続けるつもりなのか・・・キリスト教嫌い、偽善者信者ネタ好きにとっては面白いけどね・・・

503老クリスチャン2018/06/29(金) 14:51:52.92ID:MFqXj7lG
2012年(主日B年) 7月1日 年間第13主日
知 1:13-15, 2:23-24  IIコリ 8:7〜15  マコ 5:21〜43

「恐れることはない。 ただ信じなさい。」(マコ v.36)

イエスの奇跡が指し示している意味を信じる、つまり “罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます” という信仰を教えるために、原始教会の説教者はこのヤイロの娘の復活物語りを語ったに違いありません。

「人々はイエスをあざ笑った」(マコ v.40)

多くの人が教会が宣教する “復活の望み” を嘲笑するだろうが、再臨のキリストは来て 「起きなさい」 と命じられる。
信じる者だけが神秘(Iコリ 15:51)を知ることを許される。
他の者たちは閉め出される(ルカ 13:25-29)。

死を “眠り” であると説明する新約聖書の表現を、現代人は軽視してはなりません。
“彼らは滅んでしまったのではない、ただ神が 「起きなさい」 と命じられる日を待っているのだ” と、教会は今も宣教し続けているのですから。
「また、復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟と、すべての死者を心に留め、あなたの光の中に受け入れてください。」(第二奉献文)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

504神も仏も名無しさん2018/06/29(金) 16:05:23.93ID:qN/d9Q+Q
誰でもできる在宅ワーク儲かる方法
少しでも多くの方の役に立ちたいです
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505神も仏も名無しさん2018/06/29(金) 21:57:22.66ID:ltiiEb5k
みなさん、受洗おめでとうございます!

506神も仏も名無しさん2018/06/30(土) 09:47:22.60ID:mSr5cOdd
どの集団にも、
驚くべき人が若干いますが、
カトリックも例外じゃない。

507神も仏も名無しさん2018/06/30(土) 10:52:33.91ID:mSr5cOdd
みなさん、受洗おめでとうございます!

508老クリスチャン2018/06/30(土) 14:08:35.24ID:gc6P7dVY
2012年(主日B年) 7月1日 年間第13主日
知 1:13-15, 2:23-24  IIコリ 8:7〜15  マコ 5:21〜43

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。 それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(IIコリ v.9)

これはエルサレム教会の窮乏を助けるための異邦人教会からの援助について、パウロが奨めている手紙の一節ですが、私たちはこれを世間一般の慈善と同じように理解してはなりません。
聖書のイエスを、ただの気前の良い太っ腹な主人のように考えるのと、「主イエス・キリストの恵みを知る」(IIコリ v.9)こととは、全く別のことなのです。
これはキリストの受肉の出来事を指していて、“神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたこと”(フィリ 2:6-7)、
“わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったこと”(ロマ 5:8)、“父なる神がわたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡されたこと”(ロマ 8:32)だからです。
エルサレム教会から始まった福音の宣教によって、異邦人はその霊的なものにあずかったのだから、今彼らの窮乏を助ける義務があるとパウロは言ったのです(ロマ 15:26-27)。

現代の私たちがミサのことばの典礼で、聖書を通して使徒たちと原始教会の宣教者の説教の片鱗に触れることが出来る幸いを、感謝しましょう。
私たち信者は、ことばの典礼を通して、善意と慈愛に満ちた美しいイエス物語りではなくて、そのために命をかけた使徒と殉教者の宣教を、確かに聞いているのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

509神も仏も名無しさん2018/06/30(土) 14:18:59.84ID:jczRCx0l
>>508
『老クリスチャンの長文コピペについて』
  
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
   そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
   どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
   老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。

【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/

510老クリスチャン2018/07/05(木) 12:10:16.05ID:wHP0d82v
2006年(主日B年) 7月9日 年間第14主日
エゼ 2:2〜5  IIコリ 12:7b〜10  マコ 6:1〜6

「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほか何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 そして、人々の不信仰に驚かれた。」(マコ vv.5-6)

マルコ福音書だけが語っている二つの率直な表現に、私たちの注意を向けましょう。
先ず第一はイエスが 「人々の不信仰に驚かれた」 という表現です。
“神様でも、ギョッとなさることがある” というユーモアだと思いますか?
そうではなくてこれは、イエスに対する故郷の人々の反応は “神の期待に応えるものではなかった” という意味です。

私たちは、いろいろな主張や見解を語りますが、神はそれらが相対的に正しいか否かではなくて、御自分の期待に応えるものであるかどうかを見守っておられると、この物語りは教えてくれます。
「信仰がなければ、神に喜ばれる(神の期待に応える)ことは出来ません」(ヘブ 11:6)とは、初代教会がイスラエルから受け継いだ基本的な理解でありました。

第二は、イエスが 「そこでは ・・・・・ 何も奇跡を行うことがおできにならなかった」 という表現です。
“神様にも不可能ということがある” と、いかにも分かったような説明がなされるとき、それがどれほど聖書の語る信仰の世界にとって異質なものであるかを、多くの信者は気づきません。
マルコ福音書が伝えるこの表現を “聖書の中の言葉” として理解することから、殆どの現代のキリスト者は遠く離れているからです。

511老クリスチャン2018/07/05(木) 12:11:18.38ID:wHP0d82v
(つづき)
第三イザヤの叫びが聞こえるではありませんか。

「主の手が短くて救えないのではない。 主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。 むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が ・・・・・ 」(イザ 59:1-2)。

初代教会がイスラエルから受け継いだこれらの基本的な信仰理解に再び目覚めることを、マルコ福音書は私たちに要求しているのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

512老クリスチャン2018/07/06(金) 11:58:54.41ID:OI+DOT30
2009年(主日B年) 7月5日 年間第14主日
エゼ 2:2〜5  IIコリ 12:7〜10  マコ 6:1〜6

使徒パウロには、その身に一つのとげ(病気)が与えられていました。
彼はある手紙の中で、「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあった」(ガラ 4:14)と言っています。
使徒パウロはこれを自分が 「思い上がることがないようにと、 ・・・・・ 与えられた」(IIコリ v.7)と解釈しました。

人は本来、キリストの福音を学んだり、その宣教の一端を担うような働きをするときには、思い上がったりしないで、むしろ謙遜になるものです。
ところが実際には福音を学ぶことを軽んじ、それ故に福音とは無関係な “人間の単なる善意や善行” に励むときには、無意識のうちに思い上がるようになるものです。
いわゆる “外国伝道” の対象とされた我が国で、西欧のキリスト教の諸活動がそのような思い上がりを伴って行われて来たことを、心ある人は気づいていたというのは確かです。

カトリック教会も含めて、キリスト教諸派が伝道と称している活動の主な内容は、福音を真実に、より深く語ることではなくて、実際には自派の組織を拡大することでありました。
そのために教会は常に、社会的にも政治的にも強くなろうとして来ました。
建前はどうであれ、信者が聖伝と聖書によってキリストの福音を学んだり、信仰によって “神の国のしるし” を読み取るということは、事実上放置されて来たのです。

「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(エフェ 1:18)という願いが私たちの祈りとなるとき、
初めて使徒パウロの言っている 「わたしは弱いときにこそ強い」(IIコリ v.10)という言葉が、生き返ることでしょう。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

513神も仏も名無しさん2018/07/06(金) 20:06:57.53ID:bSl34i7e
はやくこのすれがおちますように。

514神も仏も名無しさん2018/07/06(金) 20:07:37.38ID:bSl34i7e
カトリックで洗礼をうけるなよ。

515老クリスチャン2018/07/07(土) 12:05:21.62ID:/iIRmbBz
2012年(主日B年) 7月8日 年間第14主日
エゼ 2:2〜5  IIコリ 12:7b〜10  マコ 6:1〜6

「彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」(エゼ v.5)

「預言者がいた」 とは、どういう意味でしょうか。
それは来るべきキリストを待望する神のことばが、確かに語られていたということなのです(Iペト 1:10-12 参照)。
そして、新約聖書では預言者という呼称は、まさにキリストの福音の宣教と結びつけて使われているのです(マコ 6:4、エフェ 2:20)。

ある意味でそれは、来るべき神の裁きを警告するということでもありますが、誤解してならないのは、預言者は決して審判者ではないということです。
特にプロテスタント系の原理主義的な教派の人々が、福音宣教ということを誤解して、自分たち自身がまるで審判者になったような気分で激しく糾弾するのに出会うことがあります。
インターネットサイトでは、むしろそのような過激な書き込みが氾濫していて、ただ見苦しいだけではなくて、かなり深刻な迷惑をまき散らしているのが実状です。

516老クリスチャン2018/07/07(土) 12:06:19.21ID:/iIRmbBz
(つづき)
神がエゼキエルを預言者として遣わされたその目的が見失われると、そこにはイスラエルの民に対する非難と攻撃だけが残ることになります。
そのように聖書を誤解し、そのようにキリスト教信仰というものを考えてしまう人たちが、実際には多いのです。

しかし私たちが、キリスト教的敬虔を誇るときにも、教会の宣教や奉仕活動に参加するときにも、決して “信じる者すべてに救いをもたらす神の福音を告げ知らせる” という、本来の目的を忘れることがありませんように。
そうすれば、私たちは使徒パウロと共に次のように言うことが出来ます。

「キリストがわたしを通して働かれたこと以外、あえて何も申しません。」(ロマ 15:18)

栄光が神にありますように(ロマ 16:27)。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

517老クリスチャン2018/07/12(木) 11:30:16.10ID:FaNwE8YX
2006年(主日B年) 7月16日 年間第15主日
アモ 7:12〜15  エフェ 1:3〜14  マコ 6:7〜13

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。 ・・・・・ 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、“秘められた計画” をわたしたちに知らせてくださいました。」(エフェ vv.7-9)

既にキリストによって贖われ罪を赦されてしまったのだから、最早悔い改める必要はなくなったと理解して、“悔い改め” を過去の入信の際の通過儀礼のように考えるなら、それは間違っています。
多くのキリスト者が “悔い改め” を、まだ救われていない外の世界の人々に教える伝道上の教義のように考え、自分たちにとっては最早かつてほどの重大さはなくなったと勘違いしています。

「わたしたちも、 ・・・・・ 以前は ・・・・・ 、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(エフェ 2:3)とは、決して過去の思い出のことではなくて、今やキリストによって贖われ救われた初代教会の人々の、現在の信仰宣言でありました。
イエス・キリストは、私たちが受けるべき終末の裁きを私たちに代わって十字架の上で自ら受けてくださったのであり、その担ってくださった罪は他ならぬ私たち自身のものなのです。
この恵みを知って救われたキリスト者だけが、真に悔い改めて福音を信じる者となります。

教会だけが、教会こそが、自らを神の裁きの対象としての “神の怒りを受けるべき者” であると理解し、悔い改めて福音を信じる民なのです。
“秘められた計画”、すなわち教会が御国を受け継ぐ約束は、使徒たちによる “悔い改めさせる宣教” によって私たちに知らされました(エフェ v.9)。
教会は、この約束を保証する聖霊で証印を押されている民だということを(エフェ vv.13-14)、感謝しようではありませんか。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

518神も仏も名無しさん2018/07/13(金) 06:57:37.48ID:5OSOzAx9
>>1

545 :神も仏も名無しさん:2018/07/12(木) 18:58:26.70 ID:W1vCSN0u

信じない者、受け入れない者は怒りの日に裁かれる。
イエス・キリストの信 によってのみ義とされる。
イエスをキリスト(救世主)と信じ、その教えに従う者は裁きを受けず、天国へ。
聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。
信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ。
神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者は、この世ではその何倍もの報いを受け
後の世では永遠の命を受ける。
信じない者は滅びの宣告を受ける。
信じなかった者たちは滅ぼされる。

519神も仏も名無しさん2018/07/13(金) 09:31:51.96ID:k8nv+0xd
974:神も仏も名無しさん 2018/07/12(木) 08:46:58.50 ID:W1vCSN0u
モーセやヨシュアと、麻原彰晃には共通点があります。
どちらも
(1)圧倒的影響力のある指導者が、
(2)宗教的理由付けによって殺人を正当化し、
(3)それを命令し、
(4)信奉者たちが、その命令にしたがって殺人を実践した。
(5)殺人命令を受けた信者たちは、もしその命令を
実行しなかったら、彼ら自身がひどい目に遭うであろう、と
脅されました。

自分の意志と神の意志とが食い違うとき、自分はどうするか。
アクセサリーとしてではなく、神のご意志を実行しようとする真剣な信者なら、
直面したことがある問題です。特に、聖書を神の言葉として、絶対の真理であると
信じる信者は、モーセの殺人命令について、真剣に取り組まねばならないはずです。
もし自分がモーセの率いるイスラエルの民の一人であったら、
自分はどうしたであろうか。もし、モーセの殺人命令に従っていたとすれば、
自分の行為とオウム真理教信者の行為と何処が違うのか。
考えてみなければならないはずです。

520老クリスチャン2018/07/13(金) 17:26:41.64ID:3JZk6i/Q
2009年(主日B年) 7月12日 年間第15主日
アモ 7:12〜15  エフェ 1:3〜14  マコ 6:7〜13

アモスは南王国に生まれ、北王国の聖所ベテルで、恐らく短期間だけ活動した預言者でした。
彼は相当の知識人であったようですが、宗教の専門家ではなく、まして職業的預言者でもありませんでした。

「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、“行って、わが民イスラエルに預言せよ” と言われた。」(アモ v.15)

アモスにおいて初めて神の民イスラエルは、神の裁きの対象、“悔い改めさせる宣教” の対象となったのでした。(アモ 3:2)
現代のカトリック教会においても、このような宣教理解は、教導職に限らずすべての信者のものであるべきなのです(教会憲章33 参照)。

「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(Iペト 4:17)とは換言すれば、私たちキリスト者にこそ、悔い改めて御国の相続者とされる恵みが、先ず提供されているということです。
復活されたキリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがた(の宣教)と共にいる」(マタ 28:20)と言っておられるのですから。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

521神も仏も名無しさん2018/07/14(土) 09:01:01.94ID:+sA+hnkS
受洗おめでとうございます!

522老クリスチャン2018/07/14(土) 14:30:49.82ID:zBZBCmKF
2012年(主日B年) 7月15日 年間第15主日

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」(エフェ v.13)

すべてのカトリック信者は、洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡(入信の秘跡/カトリック教会のカテキズム p.379以下)を受けて、現在の信仰生活を歩み始めました。
たとえそれがどんなに幼稚で初歩的な理解であったとしても、悔い改めて福音を信じるようになったこと、教会の信仰宣言を共に唱える会衆の一人となったことは、間違いありません。
そして確かに 「聖霊で証印を押されたのです。」

それで ・・・・・ 、私たち一人一人はそれ以来おおいに成長して、“あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされ、キリスト(の福音)についての証しがますます確かなものとなった”(Iコリ 1:5-6)かと言うと、
これは個人差がたいへん大きくて、一概にそうだとは言い切れないのが実情です。

523老クリスチャン2018/07/14(土) 14:31:56.02ID:zBZBCmKF
(つづき)
その福音の内容とは、先ず第一に私たちがキリストの血によって贖われ、罪を赦されたこと(エフェ v.7)、第二には秘められた計画(エフェ v.9)、すなわち私たちが御国を受け継ぐというという希望を与えられたことであって(エフェ v.14)、
この福音への信仰を宣言し、キリストの体である教会を造り上げてゆくこと(エフェ 4:12/教会憲章 32)と、この福音をすべての人に宣べ伝える使命(マコ 16:15/教会憲章 33)は、
神の民全体に(信徒、修道者、聖職者に平等に/教会憲章 30)委ねられた聖なる使命であります。

多くの教会の主日のミサで使われている “聖書と典礼” には、共同祈願の意向(例文)が掲載されていて、その中に 「わたしたちが ・・・ 多くの人に福音を告げ知らせることができますように」 という文章がかなり頻繁に登場します。
私は、この祈りを唱える当日の奉仕者が本当に自分で福音を理解しているのだろうかと考えて、あるいは心を痛め、あるいは主のあわれみを願わずにはいられないのです。

私たちはしばしば、“福音” “救い” “信仰” などというキリスト教のイロハが分かっていない、理解出来ていないということを、白状せざるを得ないのではないでしょうか。
だからこそ、今年の10月11日から始まる “信仰年” が告示されたのです。
教皇ベネディクト十六世の次の言葉は、世界中の司教たちや司祭たちは言うまでもなく、私たちすべての信徒への呼びかけでもあります。
「主が与えてくださったこの霊的恵みの時に、信仰という尊い賜物をわたしと共に思い起こしてください。」

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より

524神も仏も名無しさん2018/07/14(土) 16:52:10.89ID:M5geUtxd
洗礼を受けるということは、イエスの命令に従うということです。
カルトの成員になるということです。

キリスト教はカルトの源流です。異教徒迫害の体質は老クリスチャンを見れば一目瞭然です。老クリスチャンはカルト教祖です。

昔も今も、キリスト教はカルトです。

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