【老クリスチャン】破邪顕正! わしが「義」じゃ! [無断転載禁止]©2ch.net
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自分のことは棚上げし、他人を責める、自分の罪は神様に謝れば許される、そして他人は裁く
このままなら地獄に堕ちると言う
はい、わしだけ天国に行けます
一般社会とうまく行ってないのは、わしだけが正しいからである
線香あげちゃダメ、仏壇に手を合わせちゃダメ
そんな律法的なことばかり守って立派なクリスチャン面
人を批判してばかりのくせに
こんなんだからクリスチャンをやめられない 144 :老クリスチャン:2015/11/05(木) 14:34:21.45 ID:ORSAaIdF
【聖書と説教 -4-】
一般に人々は、牧師や司祭と呼ばれる人は皆、聖書の専門家であるとか神学者であると思っているものです。
しかし実は皆さん実態をご存じないのであって、ほとんどの司教や司祭も、また牧師たちも、神学者ではない ・・・ 神学者になるということは、そんな片手間で簡単に出来るものではないのです。
しかもその上に、大部分の教会指導者たちは、そのような本格的な神学の成果を神学書によって学び、自分の説教に取り入れる能力にさえ欠けているのが現実です。
冷静に考えれば分かることですが、日本のキリスト教人口は極端に少ないのですから、確率から言っても、そんなに有能な人材が滅多にいないのは当然です。
その意味で、牧師や司祭と一般信者との間に、教養や知識、能力に優劣の差があるなどと考えるのは、全く間違っています。
彼らは、UFO に乗ってどこかから来たのではなくて、現実のこの日本の貧弱な教会が産み出した人々なのですから、せいぜい信者全体の平均レベル、下手をすると平均以下の人物だと考えた方がよいのです。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1407104440/144 > 彼らは、UFO に乗ってどこかから来たのではなくて、
>現実のこの日本の貧弱な教会が産み出した人々なのですから、
>せいぜい信者全体の平均レベル、下手をすると平均以下の人物だと考えた方がよいのです。
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∬ ∬ ∬ ∬ 994 :老クリスチャン[]:2017/06/23(金) 12:27:40.25 ID:BFSi48mZ
2005年(主日A年) 6月19日 年間第12主日
エレ 20:10〜13 ロマ 5:12〜15 マタ 10:26〜33
使徒たちや教師たちに語っておられる復活の主の宣教命令 (マタ 28:20) を、
初代教会がいかに生き生きと聞いていたかを、私たちはこのテキストから理解します。
それは過去のイエスの説教の思い出ではなくて、現在の生きた語りかけであり、
しかも語っておられる方は死者の中から復活して教会の宣教と共におられる天上のキリストだからです。
現代の私たちにとってと同様に、初代教会のキリスト者にとっても、十字架の福音は
決して分かり易い常識的な教えではありませんでした。
キリストの救いは 「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(Iコリ 1:23)
でありますが、救われた人々の体験では、隠されているものを知り(マタ v.26)、
暗闇で語られているものを聞く (マタ v.27) ようにして得た福音でありました。
神が受肉して人となり、私たちの罪のために死んで復活し、神の右に上げられてそこから
聖霊を地上の教会に注ぎ、終わりの日の再臨を待っておられるという事実があればこそ、
「恐れるな」(マタ vv.28,31) という語りかけは今もキリストの福音の宣教者にとっての力強い慰めなのです。
私たちにとってキリストは伝説の人でも、伝説を元に書かれた小説の中の登場人物でもなくて、
「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」(黙 1:4) であればこそ、私たち自らがキリストの側に
立つかどうかが決定的な意味を持つのです。
そのような信仰的な決断を伴わない単なる慣習としての宗教、人生の節目を飾る偽りの気慰めとしての
宗教行事が、いかに歴史の教会で容認されて来たかを私たちは知っています。
それは 「神のことばの食卓の富を豊かに与える」(典礼憲章 51) 務めを教会が怠って来たからでありました。
しかし主は生きておられます。
このキリストは 「御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために (終末の日に) 現れてくださるのです。」(ヘブ 9:28)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1464534802/
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「__,h_」 <_-,ィ_/ 『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ,.:::.⌒⌒:::::ヽ
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423 :老クリスチャン[]:2017/08/11(金) 11:22:13.81 ID:05FWwgot
2005年(主日A年) 8月7日 年間第19主日
王上 19:9〜13 ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
「彼らはイスラエルの民です。 神の子としての身分、栄光、契約、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」(ロマ vv.4-5)
古代から現代に至るまで、ユダヤ人の歴史は苦難の歴史でありました。
紀元後のキリスト教的西欧世界においても、ユダヤ人はその生存を根本から脅かされる状況の中で数奇の運命をたどって来ました。
1948年のイスラエル共和国建国後も、今日に至るまでその生存のための戦いはなお続いています。
使徒パウロのうめくような同胞への熱き思いを、聖書の民であるはずの歴史のキリスト者はずっと軽視して来ました。
全世界のキリスト者たちの中で、今年8月の課題であるガザ地区からのイスラエル入植地撤去について、その当事者たちへのどれだけの同情と理解に基づく議論がなされているでしょうか。
使徒パウロの身を裂くような嘆きを理解することなしには、ロマ 9:15 の 「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」 という神のことばを、私たちが真に恵みとして聞くことは出来ません。
キリストが万物の上におられ(ロマ v.5)、神はキリストを高く上げて 「あらゆる名にまさる名をお与えに」(フィリ 2:9)なったのです。
21世紀の教会が立つのも倒れるのも、人間の信仰や人間の権威によってではなくて、生ける神の子キリストによるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
543 :老クリスチャン[]:2017/08/11(金) 11:23:34.20 ID:05FWwgot
2005年(主日A年) 8月7日 年間第19主日
王上 19:9〜13 ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
五千人への給食の物語りが福音書の読者に最後の晩餐の場面を思い起こさせるとすれば、それに続いてイエスがひとり祈るために弟子たちと別れる物語りは主の死と埋葬を象徴しているように思われます。
残された弟子たちはもはや前に進む気力も失せて 「逆風のために波に悩まされていた」(マタ v.24)に違いありません。
しかし主は死者の中から復活して弟子たちのもとに帰ってこられました。
「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(マタ v.25)とはそれを指しています。
マタイ福音書が 13:54〜17:27 の部分に加えたいくつかのペトロに関する補充記事は、他にはない独特なものなのですが、教会におけるペトロの比類のない権威を支持するために捧げられています。
その第一のものがペトロが水の上を歩いた記事(マタ v.29)で、教会とは他のどの個人の信仰よりもペトロの信仰の上に建てられたのだという歴史上の事実が、象徴的に表現されています。
ペトロは、終わりまで師のそばにとどまろう、迫害、憎しみの暴風を耐えようと勇敢に申し出たのだが(マタ 26:33 参照)、勇気がくじけて沈み始める ・・・・・ 。 遂にイエスが彼を捕まえます(マタ v.31)。
その上に教会が建てられているペトロの信仰さえも、それ自体では一個のもろいものであり、彼自身の力量にではなくてキリストに依り頼まねばならない。
彼は 「信仰の薄い者よ」(マタ v.31)と言われたのであり、キリストに依存しない信仰は無力なのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
758 :老クリスチャン[]:2017/08/11(金) 11:24:59.62 ID:05FWwgot
2005年(主日A年) 8月7日 年間第19主日
王上 19:9〜13 ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
プロテスタントの人々の多くは、主イエスが 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタ 16:18)と言われたのは、ペトロ個人のことではなくて、ペトロの信仰のことだと主張します。
この主張は真理の一部を含んではいますが、その意図はカトリック教会に対抗する反論としてであって、彼らはしばしば人間の “信仰の強さ” に過度に依存する誤りに陥っています。
人間は自らの信仰の力によって水の上を歩くことは出来ないし、ましてや自らが考える理想の世界を造り出すために神に指図するという、誤った思い上がりに陥ってはならないのです。
「舟の中にいた人たちは、“本当に、あなたは神の子です” と言ってイエスを拝んだ。」(マタ v.33)
同様にカトリック教会の教導職の権威も、決して機械的なものではなくて全くキリストに依存しているのであり、「自分の兄弟たちに奉仕する」(教会憲章 18)もの、「神のことばに奉仕」(神の啓示に関する教義憲章 10)するためのものなのです。
権威の力によってではなくて、「信仰の薄い者よ」(マタ v.31)と言われたペトロの謙遜な信仰によって歩むことが切に求められています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
670 :老クリスチャン[]:2017/08/11(金) 11:26:06.46 ID:05FWwgot
2011年(主日A年) 8月7日 年間第19主日
王上 19:9〜13 ロマ 9:1〜5 マタ 14:22〜33
「彼らはイスラエルの民です。 神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」(ロマ vv.4-5)
第二バチカン公会議と共に始まったカトリックの典礼刷新の前段階に、ピオ12世教皇の1956年の演説があったことを、“ローマ・ミサ典礼書を公布する使徒憲章” は述べています。
この典礼刷新は、聖書に関する刷新と合流し(典礼憲章 51,52)、啓示憲章は “聖書研究はあたかも神学の魂のようなもの”(24)と明確に述べました。
そしてカトリック教会は、この ロマ 9:1-5 を ロマ 11:17-24、エフェ 2:14-16 と共に、“忘れることができない” と宣言したのです(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言 4)。
ここで、先に述べた “ペトロは怖くなり、沈みかけた。 しかしついに、イエスが彼を捕まえた” という福音書の物語りを思い起こしましょう。(マタ vv.30-31)
その上に教会がうち立てられているペトロの信仰さえ、それ自体ではもろいものであり、教会は人間の力量にではなく、常にキリストに依り頼まねばならない。 ペトロは “信仰の薄い者よ” と言われた人物である、という事実です。
この逆風と波に悩まされた過去を持つカトリック教会に、主は第二バチカン公会議という出来事を通して、ロマ 9:1-5 を再認識させてくださったのでした。
ですから先に引用した宣言は、「肉によればキリストも彼らから出られた」 を言い換えて、“キリストは(ユダヤ人である)処女マリアの子である” と敢えて述べ、
“教会はさらに、教会の土台であり支柱である使徒 ・・・・・ がユダヤ民族からの出身者であったことを想起する” と記しているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より | .i /: ⌒ ⌒ |
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vymyvwymyvymyvy ザッ
748 :老クリスチャン[] :2017/09/23(土) 12:07:56.80 ID:ZE+n+Tqm
2011年(主日A年) 9月18日 年間第25主日
イザ 55:6〜9 フィリ 1:20〜24,27a マタ 20:1〜16
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。 呼び求めよ、近くにいますうちに。 ・・・・・ 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。 わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」(イザ vv.6-7)
教会がその信者たちに “悔い改める” “回心する” ということを教えて来たことは、だれもが知っています。
しかし、それが “神に立ち帰る” ことであることを、多くの人が知りません。
先月やっと、フランシスコ会訳の 「聖書(合本)」 が発行されて、名実共にカトリックの “原文校訂による聖書” が入手可能になりました。
多くのカトリックの子らが “自分で” “聖書全体にわたって読む” ようになり、すでに耳慣れたこの “回心する” という言葉の本来の意味を、正しく理解するように願わないではいられません。
私のインターネットサイトには、先月初めからその紹介ページを掲載していますが、その中に次のような一文を書いておきました。
「どうか皆さまが、読みもしないで万歳だけを叫ぶ “愚かなカトリックシンパ(党派心による護教家)” になることがありませんように。」
この 「聖書(合本)」 の緒言にある次の言葉は、現代の日本カトリック教会の信者一同への、まさに主の呼びかけに外なりません。
「この聖書が、生活の歩みの中で、日々の祈りの中で、またキリスト者並びにキリストに惹かれる方々の家庭の中で座右の書となり、人々に感銘を与え、その心を動かすことができますよう、研究所一同心から祈るものであります。」
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
ローマカトリック教会20170328
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532 :老クリスチャン:2017/10/19(木) 13:57:33.95 ID:kqYRv9rW
誰でも初心者の頃に、一度は 「信仰と行為」 について、いわば無意味な議論をするものです。
どこの教会でも、「信仰」 という言葉で何を意味しているのかを真面目に教えてくれる先輩信者に、出会うことはめったにありません。
ということは、実は 「信仰とは何か」 を真面目に学んで理解している先輩信者がほとんどいないということです。
歴史の教会は、 ・ ・ それは不完全な人間の言葉によってではありますが ・ ・ 常に繰り返し 「我ら(教会)の信仰」 を表明し、宣言し、そして教えてきました。
その最も基本的なものが 「使徒信条」 や 「ニケア・コンスタンチノープル信条」 です。
そしてプロテスタントには多くの歴史的 「信仰告白」 の遺産群があります。
カトリック教会の場合には、「第二バチカン公会議の公文書」 や 「カトリック教会のカテキズム」 があります。
このようなものを真面目に学習し、「私も信じます」 というレベルに到達しないと、ただスローガンのように 「信仰によって救われる」 などと主張しても意味がないのです。
+++旧・新約聖書をディープに考察するスレ+++ 第2章
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1462883464/532
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357 :老クリスチャン:2017/10/27(金) 11:34:49.92 ID:2JCy7vQs
カトリック教会のミサで、後半の感謝の典礼で主の祈りを唱和した後に、司祭が 「教会に平和を願う祈り」 を唱えると、会衆はこれに 「アーメン」 と応えます。
この祈りの中に、「わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み ・ ・ 」 という言葉があります。
「信仰」 について議論している皆さんの中で、この 「教会の信仰」 を自覚的に理解している人は少ないのではないでしょうか。
私の WebSite にある下記の小論をご紹介します。 ぜひご参照ください。
http://www.kuwaei2000.com/2ch.html
→ 信仰宣言とカテキズム
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1285440009/357 | .i /: ⌒ ⌒ |
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439 :老クリスチャン:2017/10/31(火) 19:31:13.12 ID:BvFcdkE+
【福音の学び @】
キリストを伝える使命を受けた者(教導職と信徒のすべて)は、先ず、「キリストを知ることのすばらしさ」 を求めなければなりません。
「キリストを得、キリストの内にいる者」 となるため、「すべてを塵あくたと見なし」、
「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達し」(フィリ 3:8-11)なければなりません。
キリストの愛に燃える知識から、「キリストを告げ知らせ」(Iコリ 1:23)、「福音を告げ」(Iコリ 9:16)、他の人々をキリスト・イエスへの信仰に導きたいという願望が生じるのです。
同時に、この信仰をますますよく知る必要を感じます。
(カトリック教会のカテキズム 428,429 参照)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/439
455 :老クリスチャン:2017/11/01(水) 16:51:15.97 ID:401J3wYn
【福音の学び @ への解説】
カトリック教会のカテキズム 426-429 は、その表題に 「カテケージスの中心はキリストである」 と掲げています。
私のささやかな体験によれば、普通のクリスチャンの多くはただ観念的に、信仰による救いか?それとも行いによる救いか?、あるいは行いを伴う信仰によって救われるというのが正しいのか?と、言い争ってきたように見えます。
しかし、“ではあなたは現在、何によって救われているのですか” ・ ・ と真正面から問われると、実はみなさんあまり自分のことについては本気で考えていなくて、びっくりするか、あるいは怒りだしたりするのです。
あなたは本当に救われていますか?と問われて不安になる人もいます。 かと思えば、カトリック教会で洗礼と
堅信の秘跡を受けた信徒に、あなたは救われていますかとは失敬な物言いだと反撃する人もいます。
いちばん大切なことは、ここで取り上げている 「信仰」 とは、イエス・キリストへの信仰であるということです。
それはイエス・キリストの受肉と死、復活、召天という歴史上の出来事を通して、父なる神が現された啓示(救いの出来事/福音)への信仰です。
カテケージスの目的は、このキリストにおける啓示(キリストの福音)を理解し、信じて 「死者の中からの復活に達する」 ことができるように、信徒を教育することです。
そんなに難しいことは理解しなくても、ただイエス様を拝んでいれば、神は愛であるから、結局はみんな救っていただける ・ ・ というのは、「教会が公に言い表している信仰」(ヘブ 4:14)とは全く相容れないもの、「塵あくた」(フィリ 3:8)に過ぎません。
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/455  ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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440 :老クリスチャン:2017/10/31(火) 19:32:36.02 ID:BvFcdkE+
【福音の学び A】
神はイエスのうちに人間を救われる救済史全体を集約なさいました。
イエスの名はキリスト者の祈りの中心的な役割を果たしています。
あらゆる典礼上の祈りは、「わたしたちの主イエス・キリストによって」 ということばで結ばれます。
アヴェ・マリアの祈りは、「ご胎内の御子イエスも祝福されています」 のことばが頂点になっています。
教会の初期に出来た様々な信条は、当初から、イエスに 「主」 という神の称号を与えています。
これは、父である神に固有の 「力と誉れと栄光」 がイエスのものであるという主張に他なりません(ロマ 9:5、テト 2:13、黙 5:13)。
(カトリック教会のカテキズム 430,435,449 参照)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/440
470 :老クリスチャン:2017/11/02(木) 17:58:49.88 ID:cefL5Ysi
【福音の学び A への解説】
「イエスキリストは主である」(フィリ 2:11)というお題目を唱えるという以上に、この “主” という信仰宣言の言葉を信徒一人ひとりが体験的に理解し、表明することが大切です。
私たちは聖書から、そのような活き活きとした信仰を学ぶことが出来ます。
「 ・ ・ ・ すなわち、至るところでわたしたちの “主” イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。
イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの “主” であります。」(Iコリ 1:2)
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの “主” イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 ・ ・ 神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ 5:1-2)
「わたしたちの本国は天にあります。 そこから “主” イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリ 3:20)
キリスト教
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481 :老クリスチャン:2017/11/03(金) 17:13:20.08 ID:Ioc5/lRE
【福音の学び B】
他に例を見ない 「神の御子の受肉」 という事実から導き出される唯一の結論は、イエス・キリストが真に神のままで、真に人となられたということです。
主は神のひとり子、・ ・ ・ まことの神よりのまことの神、・ ・ ・ おとめマリアよりからだを受け、人となられました。(ニケア・コンスタンチノープル信条)
教会は最初の数世紀の間、この信仰の真理を歪めた異端に対してこれを擁護し、その内容を明確にしなければなりませんでした。
信条がキリストの生涯に関して述べているのは、ただ受肉(受胎と誕生)と過越の神秘(受難、十字架刑、死、埋葬、死者のもとに下ったこと、復活、昇天)についてです。
しかし、イエスの受肉と過越に関する信仰箇条は、キリストの地上の生活のすべてを解明します。
「イエスが行い、また教え始めてから、・ ・ ・ 天に上げられた日までのすべてのこと」(使 1:1-2)は、降誕と過越との神秘に照らして見なければなりません。
(カトリック教会のカテキズム 464,512 参照)
キリスト教
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482 :老クリスチャン:2017/11/03(金) 17:14:06.02 ID:Ioc5/lRE
【福音の学び B への解説】
教会の信仰は、イエス・キリストの受肉と死、復活、召天という歴史上の出来事に基礎をおいています。
この歴史から切り離して抽象的に “信仰というもの” を考える人にとっては、“救い” もただの心の中だけ(気分だけ)のものになってしまいます。
世の中にはキリストが神の子であることが信じられない、復活も召天も、そしてキリストの再臨と来たるべき神の国の約束も幻想であると思っている人々がいます。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」(Iコリ 15:17)
「(神は)罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ロマ 8:3)
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラ 3:13)
「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」(主の祈り/副文)
キリスト教
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1486274984/482
486 :老クリスチャン:2017/11/04(土) 17:56:19.08 ID:vh3YDHJE
【福音の学び C】
「公現」(マタ 2:1-12)は、イエスがイスラエルのメシア、神の御子、世の救い主であることを表すものです。
周辺の異教徒たちを代表する 「占星術の学者たち」 は、ユダヤ人の王を拝むためにやって来ました。
この訪問は、異教徒がユダヤ人に目を向け、彼らから旧約聖書に記されたメシアについての約束を受け入れない限り、イエスを見出し、彼を神の御子、世の救い主として礼拝できないことを示しています。
「公現」 は、数多くの異教徒が信仰によりアブラハムの子孫となり(ガラ 3:26-29)、約束された栄光にあずかる(ロマ 4:13〜5:2)ことを表しているのです。
キリストの福音によって、「秘められた計画」 が啓示されました(ロマ 16:25)。 それは、異邦人が福音によってイエス・キリストにおいて、約束の神の国をユダヤ人と一緒に受け継ぐ者になるということです(エフェ 3:6 参照)。
(カトリック教会のカテキズム 528 参照)
キリスト教
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487 :老クリスチャン:2017/11/04(土) 17:57:08.14 ID:vh3YDHJE
【福音の学び C への解説】
すでにかなり早い時期から、西欧キリスト教世界では、自分たちキリスト者が “異邦人” であるという自覚を失って、教会こそが福音の真理と恩恵を全世界に分け与える聖なる民であると、思い上がるようになりました。
そして、教会は自らが異邦人であることを見失った代償として、イスラエルに約束されていた神の国を受け継ぐという “秘められた計画” を理解出来なくなりました。
私たち教会は、「福音によって ・ ・ (神の国を)ユダヤ人と 一緒に受け継ぐ」 のだという、エフェ 3:3-6 のテキストを理解するためには、もう一度自らが異邦人であること、与える側ではなくて受ける側にあるということを思い起こさなければなりません。
それが聖書の語っている “秘められた計画” なのです。
キリスト教
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494 :老クリスチャン:2017/11/06(月) 16:43:03.39 ID:9swVoahZ
【福音の学び D】
イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。
イエスはご自分の洗礼において、その死と復活とを先取りされました。
キリスト者は洗礼の秘跡によって、このイエスに結ばれます。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与る者となります。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです(ロマ 6:1-11)。
(カトリック教会のカテキズム 535-537 参照)
キリスト教
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495 :老クリスチャン:2017/11/06(月) 16:45:24.95 ID:9swVoahZ
【福音の学び D への解説】
罪のない神の子が、なぜヨハネから “罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼” を受けたのかは、原始教会においても論争されたようです。
一方には、イエスは神の子であるから罪を犯していない(はずだ)という主張がありました(ヘブ 4:15、Iペト 2:22以下)。
他方には、「自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」(Iペト 2:24)ことが、決して単なるお芝居ではなかったという、真剣な主張がありました。
それが、「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り ・ ・ 」(ロマ 8:3)、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって ・ ・ 」(ガラ 3:13)などという弁明です。
「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかった ・ ・ ・ 神はこのイエスを復活させられた」(使 2:24,32)という証言は、
「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れた」(Iヨハ 3:8)などと共に逆説的に、「陰府に下り」 という使徒信条の用語の背景をなしているように思われます。
2chで以前に(かなり不真面目に)非難されていた “十字架蛇説?” も、新約聖書そのものに起源があるのです。
キリスト教
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501 :老クリスチャン:2017/11/07(火) 11:28:05.45 ID:By5fRH7B
【福音の学び E】
十字架の死と復活というキリストの過越の神秘は、原始教会以来代々に亘って歴史の教会が世界に告げ知らせて来た「福音」 の核心を成しています。
「(キリストは)御自身の血によって、ただ一度(天の)聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブ 9:12)
神の救いの計画は、キリストの献げられたこの唯一の献げ物によって、実現されました(ヘブ 10:12-14,18 参照)。
「わたしたちの過越キリストは、世の罪を取り除かれたまことのいけにえの小羊、ご自分の死をもってわたしたちの死を打ち砕き、復活をもってわたしたちにいのちをお与えになりました。」(復活徹夜際と復活節中の叙唱)
(カトリック教会のカテキズム 571 参照)
キリスト教
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502 :老クリスチャン:2017/11/07(火) 11:29:25.75 ID:By5fRH7B
【福音の学び E への解説】
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、 ・ ・ ・ キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと ・ ・ 」(Iコリ 15:3-4)
「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。 御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」(ロマ 1:2-4)
「キリストは ・ ・ ・ 御自身の血によって、ただ一度(天の)聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブ 9:12)
「われわれの救い主は、渡される夜、最後の晩餐において、御からだと御血による聖体のいけにえを制定された。 それによって、十字架のいけにえを再臨のときまで世々に永続させ、 ・ ・ 教会に、御自分の死と復活の記念 ・ ・ を託された。」(典礼憲章 17)
「十字架上のいけにえと、ミサにおけるその秘跡的再現は、奉献のしかたを除けば同一のものである ・ ・ 」(ローマ・ミサ典礼書の総則/暫定版 2)
キリスト教
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572 :老クリスチャン:2017/11/08(水) 10:15:59.92 ID:gVn5BHfq
【福音の学び F】
福音書の叙述に見られるように、イエスの裁判は歴史的には複雑な出来事でした。
事件の当事者たち個人個人の罪がどうであろうとも、イエスの死の責任をエルサレムのユダヤ人全体に帰すことは出来ません。
ましてや、「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタ 27:25)と全群衆が叫んだからといって、イエスの死の責任をあらゆる時代の、あらゆる場所のユダヤ人にまで及ぼすことは出来ません。
「教会は神の新しい民であるとはいえ、あたかも聖書から結論づけられるかのように、ユダヤ人は神から見捨てられた者としても呪われた者としても紹介されることがあってはならない。」(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言 4)
(カトリック教会のカテキズム 597 参照)
キリスト教
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573 :老クリスチャン:2017/11/08(水) 10:16:43.33 ID:gVn5BHfq
【福音の学び F への解説】
新約聖書を文字通りに解釈するということに起因する近代の最大の悲劇に、反ユダヤ主義があります。
歴史の教会は、聖書に保存されている1世紀末あるいは2世紀初め頃の教会の反ユダヤ主義的偏見に、気づかずに汚染されてきたのです。
当時、既存のユダヤ教徒に抵抗するには未だ少数者であったキリスト者側は、彼らの初期の伝承を反ユダヤ主義的な色合いで語ることによって、結束しようとしました。
そして遂にヨハネ福音書で、それが頂点に達したのでした(ヨハ 8:44)。
現代の進歩した歴史的批評的研究を無視しては、今日の聖書解釈は最早成り立たないということを、教会の指導者や説教者、また教養ある信徒たちの多くは学ぶ必要があります。
キリスト教
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582 :老クリスチャン:2017/11/09(木) 11:28:00.61 ID:6TYo+oBk
【福音の学び G】
洗礼は、罪の赦しの第一の主要な秘跡です。
洗礼は私たちを、「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス」(ロマ 4:25)に結合させ、「わたしたちも新しい命に生きる」(ロマ 6:4)ようにするからです。
洗礼は、信仰の秘跡です。
しかし信仰は、信者共同体を必要とします。
一人ひとりの信者が信仰を持つことが出来るのは、教会の信仰があってのことです。
「カトリック儀式書/成人のキリスト教入信式」 では、その第一段階の入門式で、司式者は 「あなたは教会に何を求めますか」 と尋ね、求道者は 「信仰を求めます」 と答えることになっています。
そしてさらに、「信仰によって何が与えられますか」 「永遠のいのちが与えられます」 という問答が続きます。
(カトリック教会のカテキズム 977,1253,168 参照)
キリスト教
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583 :老クリスチャン:2017/11/09(木) 11:29:21.03 ID:6TYo+oBk
【福音の学び G への解説】
一部のプロテスタントの教派の中に、人は信仰によって救われるのであって、洗礼は救いの前提ではないという主張をする人々がいます。
その根拠は、彼らの(いわば自己流の)聖書解釈にあります。
「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を知らせるためであり ・ ・ 」(Iコリ 1:17)
はっきり言って、これは屁理屈に過ぎませんが、専門的な知識のない信者が議論しても迷路に迷い込むだけですから、避けたほうがよいでしょう。
「キリスト教入信の秘跡である洗礼、堅信、聖体の三つの秘跡が、キリスト者の生活全体の土台となります。」(カテキズム 1212)
カトリック(あるいは正統的な)教会は、一貫してそのように教えてきました。
この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は(歴史の)教会にはありません。(Iコリ 11:16 参照)
キリスト教
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