【心寂止】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか5【寂滅為楽】 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
【注意事項】
1.瞑想・座禅経験者以外の書込み禁止
2.凡夫の書込み禁止^^
3.我執のある人書込み禁止
前スレ
【無分別】石の上で瞑想すると何が見えてくるのか4【瞑想】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1477382684/ >>1
創価学会に興味がお有りのようですので、ぜひ前向きにお調べになって頂きたいと存じます。これまでの信仰生活を無駄にせず、昇華する形で、案外すんなりと大聖人の教えや学会の考え方が受け入れられていくものと信じます。
こちらのサイトの活用をお勧め致します。各項目をクリックなさって、ゆっくり焦らず勉強してみてください。
http://www.sokanet.jp/ 比丘は托鉢から戻ったとき、次のことを観察すべきである。
それは「六処によって生じる貧欲・瞋恚・愚癡などの不善法」が
捨断されているかどうか
「五妙欲・五蓋・五取蘊」が捨断されているかどうか、
「四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八聖道・止観」が
修習されているかどうか、
「明・解脱}が直証されているかどうかである。 「止を」修習すれば、心が修習される。
心が修習されれば、食欲が捨断される。
食欲が捨断される心は「心解脱」という。
一方、「観」を修習すれば、慧が修習される。
慧が修習されれば、無明が捨断される。
無明が捨断される慧は「慧解脱」という。 「止を」修習すれば、心が修習される。
心が修習されれば、欲が貧欲が捨断される。
貧欲が捨断される心は「心解脱」という。
一方、「観」を修習すれば、慧が修習される。
慧が修習されれば、無明が捨断される。
無明が捨断される慧は「慧解脱」という。
こっちが正解^^ 初詣は不動関係の神社、仏閣は絶対行ってはいけません!こいつは嫉妬とひがみ
でできているので、みんなつぶしあい、引きづり落としあいになりダメにされます。
わかりやすく言うとオーム真理教と同じです。いくなら月読関係の神社などにしましょう。 >>1
このスレ好きだけど
「3.我執のある人書込み禁止」
を入れたらほとんどの人は書き込みできないと思うよw >>5
「止」のほうはなんとなくわかるけど
「観」を修習すれば慧が修習される、がわからない
「 慧 」とは具体的に何? 皆の衆、お早うにゃん♪
( ^∀^)ノ"
>>9
それは缶切りにゃん♪
南無南無 (´・人・`) 禅問答は好きじゃないんだけど...
だから「具体的に」と書いたんだけどな... >>11
言葉で説明すると循環論法に陥るだけになります。
こればかりはご自身で明らめるしかありません。
覚りとも、無相の自己とも、イエス様のいう赤子とも、
般若の智見とも・・・ >>12
だから「缶切り」にゃん♪
南無南無 (´・人・`) あら、ごめんなさい。
×という事です?
○という事です。 当たり前のことを当たり前に言うこと?
何が当たり前?
また「缶切り」でごまかす? 相手に伝わらなければ
その書き込みは意味がないのでは?
また「缶切りにゃん♪」でしたり顔かな?
人より上からで満足々かな? 「缶切りにゃん♪」って書いてる俺
めっちゃカッコええー 人に教えるつもりなんてない
今自分が「 缶切りにゃん♪」って書くことに酔う
気持ちいいから 皆の衆、お早うにゃん♪
( ^∀^)ノ"
>>20
缶切りは電動が至高にゃん♪
ひゃっひゃひゃ!("⌒∇⌒")ノ >>21
いや、ぜんぜんおもんないし
缶切りは手で開けてなんぼやろ
電動とかないわ >>22
上善は電動の如しにゃん♪(笑)
ひゃっひゃひゃ!("⌒∇⌒")ノ >>23
水と電気を一緒にされてもなぁ...
どちらも流れるけども 私は明日誰かに質問されても
「缶切りにゃん♪」ってええカッコしないで
生きたいとおもう >>26
このアホとの因縁を解消するのにはどうすればいい? >>27
まぁお座りなさい!(笑)
ひゃっひゃひゃ!("⌒∇⌒")ノ 少しお昼寝するにゃん♪
(+.+)(-.-)(__)..zzZZ
_
/´ `フ __ ヾ
, '' ` ` / ,! ;'',,_,,)
. , ' レ _, rミ,;' ノ )))
; `ミ __,xノ゙、,r'' ,,_,,)
i ミ ; ,、、、、 ヽ、//,,_,,)/_,,))
,.-‐! ミ i `ヽ.._,,))∧
//´``、 ミ ヽ ヽ(・∀ ・)ノ < 南無南無
. | l ` ーー -‐''ゝ、,,)) (( ノ( )ヽ ))
ヽ.ー─'´) < >
`"""´ AA使うとか子供かよw
おもんないからずっと寝とけよ >>27
あなたがあり、基地ニャンがある。
その相対概念から抜け出せばどう? >>32
普通にええ年してニャン♪とか言ってる子供を
まともに相手にしなければいいだけの話 基地にゃんは二十歳の可愛い
女の子でつよ♪ ( ^∀^)ノ"
.:| . :| .! .l .l .i::l
.:| . :|彡⌒ミ .! .l .l .i::l
.:| .__|・ω・`):| .i .i .|.:!hageは貴方を見つめてる
.:|::||□| ̄ ̄ ̄〜〜〜
└l[ ̄]- >>35
食わず嫌いは未熟者でごわすよ。
ひゃっひゃひゃ!("⌒∇⌒")ノ うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ 福島県警白河署は11日までに、福島県泉崎村の神社でキツネの石像などを壊したとして、
器物損壊と建造物侵入の疑いで、
住所不定、韓国籍の無職、チョン・スンホ容疑者(35)を逮捕した。
福島県では今月に入り、泉崎村の北側に位置する須賀川市、郡山市、福島市の寺や神社などから、
仏像や地蔵像が壊されたとの被害届が相次ぎ、損壊数は少なくとも100体近くに上っている。
白河署は関連を調べる方針。
逮捕容疑は、9日夜、同県泉崎村の稲荷神社でキツネの石像2体を壊し、
さらに本殿に侵入してキツネの木像などを壊した疑い。
署には10日、稲荷神社とは別の寺と神社から石仏が倒されたり、ご神体が壊されたりしたとの届けがあり、
署員が白河市内で容疑者を職務質問。犯行を認めたため逮捕したという。
http://www.sankei.com/affairs/news/161211/afr1612110008-n1.html
______
/___ \ _____ 思った通り
( ( ))  ̄ \ \. / \ 小っさい脳みそだお
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ . \ / \
/;;:: ::;ヽ / ノ ー \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ .| (●) (●) |
\ (__人__) /
__ / ` ⌒´ \
__/_;;;::ヽ___ . | ヽ
|;;:: ィ●ァ ィ●ァ::;;| . | | |
|;;:: ::;;| . | | |
|;;:: c{ っ ::;;| | | |
|;;:: __ ::;;;|
ヽ;;:: ー ::;;/
\;;:: ::;;/
|;;:: ::;;|
|;;:: ::;;|
/ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄\
|;;:: ::;;|
|;;:: 朝鮮人 ::;;| このスレを寂滅のスレとする^^
すべてカキコミ禁止である^^ よっしゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ^^ 「刹那滅」と「心相続」
「私たちは、この瞬間において輪廻転生している。」
ときたか・・^^ さてっと^^
修行にいくかなっと^^
南無南無 ( ^人^) 大日如来様が雪かきをしなさいと言っておられる^^
すべてが修行である
南無南無 ( ^人^) それは「顕教」が、応化身(おうげしん)すなわち歴史的人物である釈尊の説い
た教えであるのに対して、「密教」は、法身(ほっしん)すなわち普遍的な真理
である法を、そのまま人格化した大日如来の直接の説法であるとしたところにあります。
つまり、弘法大師は釈尊の教えを超え、釈尊の悟りを成り立たせる真理そのものを
仏(法身)として、教えの主体にしたわけです。 大日如来様のの直接の説法である^^
控えよ^^
南無南無 ( ^人^) 雪・・カキカキしてくるかなっと^^
南無南無 ( ^人^) 三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別
南無南無 ( ^人^) 雪カキカキ終わった^^
大日如来様の直接の説法であるとなると・・
なんのこともない・・
心が世界を造りだしている^^
しかも雪かきでかなり勉強になった^^
う〜〜ん^^
すんばらしい^^ さてっと・・^^
修行に行くかなっと^^
最近水風呂の中での瞑想で・・
なんか悟れそうなんだよな・・^^
ん?
水風呂から外に出て石の上での瞑想でか・・・^^
南無南無 ( ^人^) >>62
風邪を引くだけにゃん♪
南無南無 (´・人・`) その逆で・・
ここ数年風邪引かないんだけど・・^^
南無南無 ( ^人^) ミストサウナ毎週入ってるから大丈夫^^
南無南無 ( ^人^) 大日如来様が寝なさいと言っておられる・・^^
寝る^^ おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら
はらばりたや う
https://www.youtube.com/watch?v=Vre68Y4yjkE この宇宙には法がある・・
法に従って生きろと・・
宇宙の法身である大日如来様の説法を聞いて生きる^^
すんばらしい^^
・・となる^^
寝る^^ 釈迦ももうおまいりしてはいけません。釈迦はもうとっくにブッダとはいえません。何かを自分がやっていてたまたま失敗すると
回りも全部騙して失敗させ、その中では自分が1番勝ちであるというようなことばかりやっています。物事退歩しかない。
成功するために悪戦苦闘して成功を勝ち取った方はどうなるといいたい。それまでの努力も苦労も騙しで水の泡にされます。 この状況で、お早うと言えるのは
まことぐらいなもんだろwww どっしゃぁああああああああああああああああああああ^^ 「安般念」
1 身体
1 息を長く吸っている時、吐いている時はそれと知る
2 息を短く吸っている時、吐いている時はそれと知る
3 全身を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
4 全身を静めながら息を吸い、吐くと訓練する
いつも身体そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
2 感覚
1 喜悦を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
2 楽を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
3 心のプロセスを感じながら息を吸い、吐くと訓練する
4 心のプロセスを静めながら息を吸い、吐くと訓練する
いつも感覚そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
3 心(感情)
1 心を感じながら息を吸い、吐くと訓練する
2 心を喜ばせながら息を吸い、吐くと訓練する
3 心を安定させながら息を吸い、吐くと訓練する
4 心を解放させながら息を吸い、吐くと訓練する
いつも心そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く
4 法(真理・教説)
1 無常であることに意識を集中させながら息を吸い、吐くと訓練する
2 色あせていくことに意識を集中させながら息を吸い、吐くと訓練する
3 消滅に意識を集中させながら息を吸い、吐くと訓練する
4 手放すことに意識を集注させながら息を吸い、吐くと訓練する
いつも諸法そのものに注意し続けることで貪欲と苦悩を取り除く ところで・・・^^
水の中でふとおもったんだが^^ でだ・・^^
その時思考とはなんの価値があるのかと・・^^ 思考は妄想虚構であり・・
その無価値さに気がついたんだよな・・・^^ そういば・・^^
だれか実験してたような・・^^
調べるかなっと^^ 「研究者のスードフェルドが、毎日瞑想を行っているという禅の師範に
アイソレーションタンクでの体験を聞いたところ、瞑想によって年に1度達する
ことができる水準であったと述べた」
ん? 瞑想的な状態では遅いアルファ波から時にはシータ波が観測され、
これは自他の境界の消失、融合などの絶対的一者の体験とされる。
ん? 「タンクに入ると右脳がでてきて『わーい!』と言うのです」
なるへそ^^ つまり・・・^^
「虚論寂滅」の境地に到った^^
・・ということで^^ 仏性が前面に出てきているので・・^^
まわりからなんとなく仏教やってるんじゃないかと・・
感ずかれる^^
困った^^ 仏教は言葉で表すものではなく・・
その存在で示すものだと・・^^ 阿羅漢きたぁああああああああああああああああああああああ^^ 寂滅為楽の境地・・^^
それが悟りの境地である^^ ,. -――‐- 、
∠--_、__,. , ---\
/:∠二、 ´_二二_'ヽ
__/ / ,. ― ミヽ /,. ―-、ヾ,マ、_
__/,、匸:| { ● }}={{ ● } |::] ,、ヽ__
r―/: :|├/ヘヽゝ--彡'―ヾミ ---'ノノヾ┤|: :├: 、
/: : : : :ハ Y `三三{_ _}三三´_ Yノ : ノ: : :}
V: : : : : :`| ({{ : : : : : : ≧≦: : : : : : : }}) |: : : : : ノ、
` ヾ: :_ -ヽ  ̄マ ̄ ̄  ̄ ̄タ ̄ / :: : : :}
■□■ \ ` ー---‐ ´ /ヽ
□■□■ ` ー .____, - '"
■□■ /  ̄ ̄丶
\ \ / 。 ハ l
\ \ / /__l l
\ \ / / _ ノ
\ \ / / ̄ ̄
\ /
`ζ )
(( )、 、
、\ 丶
丶 \ \
\ \ ヽ
\ \ 丶
\ \ \
\ \ 丶
\ \ ヽ
ノ ノ )
⊂´ ⊂ _/ 変化するから自我はない・・^^
変化とは因果である^^ 十二因縁
人間の肉体生成を十二種の法則に分類し、心の変化にも十二に分かれた因縁の法則があるという教えです。
前者を外縁起(がいえんぎ)、後者を内縁起(ないえんぎ)と言いますが、その内容は、私達人間の肉体が
どのような過程(かてい)を経(へ)て生まれ、成長し、老死にいたるかということを、過去、現在、未来の
三世にわたって、千変万化(せんぺんばんか)する人間の心のありさまを示されたものです。 1.無明(むみょう)⇔2.行(ぎょう)⇔3.識(しき)⇔4.名色(みょうしき)⇔5.六処(ろくしょ)⇔6.触(そく)⇔7.受(じゅ)⇔8.愛(あい)⇔9.取(しゅ)⇔10.有(う)⇔11.生(しょう)⇔12.老死(ろうし) ,. -――‐- 、
∠--_、__,. , ---\
/:∠二、 ´_二二_'ヽ
__/ / ,. ― ミヽ /,. ―-、ヾ,マ、_
__/,、匸:| { ● }}={{ ● } |::] ,、ヽ__
r―/: :|├/ヘヽゝ--彡'―ヾミ ---'ノノヾ┤|: :├: 、
/: : : : :ハ Y `三三{_ _}三三´_ Yノ : ノ: : :}
V: : : : : :`| ({{ : : : : : : ≧≦: : : : : : : }}) |: : : : : ノ、
` ヾ: :_ -ヽ  ̄マ ̄ ̄  ̄ ̄タ ̄ / :: : : :}
■□■ \ ` ー---‐ ´ /ヽ
□■□■ ` ー .____, - '"
■□■ /  ̄ ̄丶
\ \ / 。 ハ l
\ \ / /__l l
\ \ / / _ ノ
\ \ / / ̄ ̄
\ /
`ζ )
(( )、 、
、\ 丶
丶 \ \
\ \ ヽ
\ \ 丶
\ \ \
\ \ 丶
\ \ ヽ
ノ ノ )
⊂´ ⊂ _/ ,. -――‐- 、
∠--_、__,. , ---\
/:∠二、 ´_二二_'ヽ
__/ / ,. ― ミヽ /,. ―-、ヾ,マ、_
__/,、匸:| { ● }}={{ ● } |::] ,、ヽ__
r―/: :|├/ヘヽゝ--彡'―ヾミ ---'ノノヾ┤|: :├: 、
/: : : : :ハ Y `三三{_ _}三三´_ Yノ : ノ: : :}
V: : : : : :`| ({{ : : : : : : ≧≦: : : : : : : }}) |: : : : : ノ、
` ヾ: :_ -ヽ  ̄マ ̄ ̄  ̄ ̄タ ̄ / :: : : :}
■□■ \ ` ー---‐ ´ /ヽ
□■□■ ` ー .____, - '"
■□■ /  ̄ ̄丶
\ \ / 。 ハ l
\ \ / /__l l
\ \ / / _ ノ
\ \ / / ̄ ̄
\ /
`ζ )
(( )、 、
、\ 丶
丶 \ \
\ \ ヽ
\ \ 丶
\ \ \
\ \ 丶
\ \ ヽ
ノ ノ )
⊂´ ⊂ _/ 石の変化が少ないのは・・^^
因果の連鎖が遅いからである^^
石には時間が存在しない^^
因果の連鎖が遅いだけである^^ 2ちゃんねるお絵描き観測所へもどりなさい^^
もっと頭をひねるように^^ わぁあああああああああああああああああああああああああああああああああ
となるもんだせや・・こら^^ 最近書き込み無いけど、水風呂で心臓発作でも起こしてくたばったのかw 水風呂で心臓発作起こしたら何が見えてくるのか、ってか 相対象的なものが現れ・・
それが現象となってさも存在するかのように
現れる・・
それは常に変化しており・・
最終的には崩壊する・・^^
つまり・・
対象性が崩壊し消滅するのである^^
そうなると現象として現れなくなるのである^^ 諸行無常 −−− すべての存在は移り変わる
是生滅法 −−− 是がこの生滅する世界の法である
生滅滅已 −−− 生滅へのとらわれを滅し尽くして
寂滅為楽 −−− 寂滅をもって楽と為す 対象性が崩壊すれば寂滅の世界・・^^
すなわち・・^^
悟りの境地が得られることになる^^ 対象性があるものは崩壊する・・^^
しかもその現象は実体の無いはかないものである^^ この現象を深く理解すると・・^^
この現象の世界は寂滅の世界へと変貌する^^
これが悟りの世界である^^ 無分別智
知られるものと知るものとの対立を超越した絶対知をいう。 無分別智
対象を客体として認識・分析する分別を超えた絶対的な智。
世界の窮極の真理を把握する智慧 この現象世界において対象性を持つものは・・
すべて崩壊する・・
ゆえに・・・^^ そういえば・・^^
人の体も対象になってるな・・^^ この現象界全てのものが虚妄の現象であり
こころがつくりだしている虚構の世界であると・・^^ すべてが己の無明が生み出している世界・・^^
妄想虚構の世界なんだよな・・^^ この己の生み出している妄想虚構の世界から解脱するには
どうすればいいのか・・^^ 解脱には、三つの階梯が認められる。心解脱、身解脱、そして慧解脱である。 心解脱は、修行のプロセスで体験する一時的な「悟り」で、
時解脱とも呼ばれる。安定した禅定に入ることで、
心が煩悩(汚れ)から解放された状態である。
もう一方の慧解脱は、智慧を開発して無明を滅ぼすことをいう。
慧解脱を経験すると煩悩は完全に絶たれ、二度と生じなくなる。
先ほどの4段階の「解脱」は慧解脱のことである。
しかし、瞑想修行において智慧の開発を支えるのは禅定の集中力なので、
慧解脱は心解脱とともに起こるのがふつうである。これを具分解脱という。 教徒の「さとり」は、慧解脱でなければならない。
智慧の開発=因果法則の発見には、禅定が不可欠というわけではない。
ブッタとの対話によって法眼が生じた(預流果になった)という場合に
起きているのは、禅定を伴わない慧解脱である。 よくよく考えてみると・・^^
慧解脱から心解脱だよな・・^^ とりあえず・・^^
おまえらには絶対むりなことで^^
寝る^^ 仏教においては、煩悩による繋縛から解き放たれて、全ての執着を離れることで、迷いの苦悩の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することを指す。 我執は自分に対する執着で、仏教ではその克服が重要な課題とされる。 そこでだ^^
瞑想で自分とは何か・・を極める^^
すると・・^^ 余談ですが、法蓮のいちかは他より高い金とって依頼した結果はほとんどださない。しかもだいぶ前から病気で結果を出してもいないのに出したと言うきちがい妄想にやられ
勝手に言ってるだけ。要するに、タクシーで新宿にいってくれというやつを勝手に渋谷にいき正当化してごまかしてくるようなモン。
こんな所へ行ってはいけない。お金を病気の患者に恵んでるというよりはドブにすてるようなもん。苦情、弁償取る以外行くべきではない。
会社ぐるみでやってるサギはただのひとりよがりのキチガイなので、少なくとも完全ににそれらが直り用を成せるまでは関わらない方が無難 捨覚支(捨てさることによる悟りへの方法)
定覚支により、対象への執着がない状態となり、すべてを捨てさることができるようになる。すべてを捨てさることができるようになると、捨てさることが悟りへの方法となる。
四如意足から、さらに発展したものである。 七覚支の内容は以下の通り
念覚支(sati-sambojjhaṅga) - 気づき。心で今の瞬間の現象を自覚すること
択法覚支(dhamma-vicaya--sambojjhaṅga) - 法の中から真実のものを選ぶ
精進覚支(viriya-sambojjhaṅga) - 努力
喜覚支(pīti-sambojjhaṅga) - 喜びに住する
軽安覚支(passaddhi-sambojjhaṅga) - 心身に軽やかさ・快適さを感じる
定覚支(samādhi-sambojjhaṅga) - 心が集中して乱れない
捨覚支(upekkhā-sambojjhaṅga) - 対象に囚われない 現象という虚妄の世界を見極める^^
・・つまり・・^^ 「身心脱落」・・・^^
道元ちゃんの言葉が浮かんだ^^ 体も心も一切の束縛から解き放たれるということです。
道元が宋の如浄禅師のもとで修行し、それによって身心脱落することで、
悟りの印可証明を得たとされています。
ふむふむ^^ つまり・・^^
解脱には、三つの階梯が認められる。心解脱、身解脱、そして慧解脱である。
これらをなし得なければならないと・・^^ それでは・・^^
それらを為すために・・^^
修行に行ってくる^^ 定覚支 - 心が集中して乱れない
捨覚支 - 対象に囚われない
これだけでもいける^^ つまり・・^^
精進覚支 - 努力・・次第やな^^ 冬に水風呂から外に出て瞑想を繰り返してきたせいか・・^^
少しの太陽の光でも暖かく感じるようになってきた・・^^ ひたすら枯坐黙照してそれに満足していたのでは、一生を無駄についやすというものであり、
仏道に大いに違反するばかりか、世俗の仕事もろくにできぬであろう。 役人が仕事をほったらかし、武士が武術の稽古も忘れ、
農、工、商がそれぞれ仕事をほったらかして枯坐黙照しているならば、国はかならず滅びるであろうし、
そんな禅はそれこそ不祥の大兆であると言われるだろう。 その昔、禅門が盛んであったころの祖師方は、土木作業をし、水を汲み薪を集め、
自ら畑で野菜を作っていた。
もっぱら動中で得力を求める修行をなされていたのである。 弱った魚はたまり水にかくれ
病んだ鳥は芦にひそむ
少しばかりの安心は得るが
大安心をしらないのである 在家より出家の方がよいとか、街中より山中静寂の方が工夫が進むというものではない。 もし一人で万人と戦うような気力で工夫するならば、修行の場所を選ぶことはない。
寺であっても家であっても同じことである。
もし出家し寺に入らなければ見道はないというのならば、君主であれ臣下であれ、だれも見道の望みはないことになってしまおう。 勤めを怠り、どうかすると病と称して退隠したいなどとも考える。 そんな心がけでもって、いくら静かなところで精錬刻苦し、たとえ妄念がなくなったように思えても、
肝胆がそこなわれ、そのためにいつもおどおどし、
ほんのささいなことにも驚くような始末で、 まさかの時になったら、大将どころか一兵卒としても、
何の役にも立たぬであろう。
まことに亡国の徒ではある。 三十(みそ)あまり われも狐の穴に棲む 今ばかさるる 人もことわり
これが二乗の落ち込む穴蔵であり、似て非なる悟りではある。 仏教においては、煩悩による繋縛から解き放たれて、
全ての執着を離れることで、苦しみの輪廻の世界から悟りの涅槃の世界へと脱出することを指す。 煩悩の束縛から解放されて、安らかで自由な悟りの境地に達すること。悟ること。 それゆえ解脱とは「煩悩から解き放された心の状態」である。
このためには三学(戒(かい)、定(じょう)、慧(え))
中の慧(プラジュニャーpraj。智慧(ちえ))が必要であり、
この慧は中道(ちゅうどう)、八正道(はっしょうどう)、四諦(したい)、
縁起(えんぎ)、無我などの理解より生ずる。 もし汝らが仏を愛し、凡夫を憎むようなら、迷いの世界に浮きつ沈みつ果てしがないであろう
(臨済録) 三学
戒をまもり生活を正すことによって定を助け
禅定にある心によって智慧を発し
智慧は真実を正しく観察(かんざつ)することができ、それによって真理をさとり、仏道が完成される。 戒(仏陀が定められた戒め=仏教の生活規範)を守って正しい生活を営み
定(禅定、静慮)を修して精神力を統一し
慧(出世間智、無漏智)を磨いて正しい世界観、人生観をもって真理を悟るという実践の大綱である。
三学
これは慧(え)が生まれるには定(じょう)が必ず必要であり、
定が成立するには戒が守らねばならないことを示す。
つまりだ^^
おまえらには解脱はむりぃいいいいいいいいいい^^
・・となる^^
わかった?^^ 戒(仏陀が定められた戒め=仏教の生活規範)を守って正しい生活を営み・・^^
どっからどうみてもおまいらにはむり^^ おまえらは日々てきとうに遊んどけ^^
となる^^
それが・・ありのまま^^
ということで^^ 因縁果よ、そうではない
すべての人間と生き物を哀れみ、その苦しみを取り除き、救わんとする
すべての衆生を迷いから救わんとする
それが如来の御心なのだ かの菩薩は、いよいよ深く悟るために菩薩道の実践項目を修行しつつ体得していく。
しかし、そうすればそうするほど、
愛情深い心を持つ。
柔和な心を持つ。
人々に恵みをもたらし、安らぎをもたらす心を持つ。
あらゆる衆生をあますところなく守護しようとの心を持つ。
師を深く尊敬して従順な心を持つ。
かくしてかの菩薩は、 やましい言葉がない。つくりごとがない。
高慢でない。衆生を見捨てない。
かくも調えられた心を体得しているのである。 かの知ある人々は、まことに愛情深い心になり、柔和にして温和にして誠実。
人々に恵みをもたらし、安らぎをもたらす。
仲間を見捨てず、凡夫を見捨てず、地獄の衆生も見捨てない。 菩薩行を実践しようとの意欲が起こるとき、いわれた言葉に従順であり、やましい下心もない。
慢心もなく、悪しき言葉も吐かない。すべての存在、すべての衆生を慈しむ。
善行を積み重ねる徳性も、どんどん成長する。
あらゆる仏と修行者と凡夫の心と平等にあり、清浄にありつづける。 かの菩薩は、このように真理についての知を成就するとき、ますます衆生をあわれむ大慈悲心が現前してくる。 いまや、あらゆる衆生のためになろうとつとめ、めでたい如来の知をどこまでも探し求めるゆえに。 かの菩薩は、このように広く観照する知によって現前してきた悟りのままに、
善行を行う徳にむかって努力する。
そのすべては、あらゆる衆生をやさしく見守って守護するためである。 あらゆる衆生に恵みをもたらすためである。
あらゆる衆生が安楽であるためである。
あらゆる衆生を深く憐憫するためである。 あらゆる衆生が災難にあわないためである。
あらゆる衆生がすっかり解脱して自由になるためである。
あらゆる衆生を仏の教えにみちびき入れるためである。 あらゆる衆生の信心をゆるぎなくするためである。
あらゆる衆生を仏の教えにしたがって教化するためである。
あらゆる衆生がまったき涅槃を得るためである。 奥深くで劣等感を感じている人は、外側ではひじょうに優れているふりをする。
優秀でありたいと思うのは劣った人々だけだ。
本当に優れている人々は少しもかまわない。 劣等感で苦しんでいる人々はみんな尊大で多弁になる。
なぜなら、自分たちが大いに優れていることを証明する方法はそれしかないからだ。 「俺は、おまえよりも高潔だ」といった表情を浮かべている人は、実情はまったく逆であることを奥深くでは知っている。
彼は罪の意識にさいなまれている。
彼は奥深くでは自分には価値がないと苦しんでいる。 今や世間からそれを隠す唯一の方法は神聖さの仮面をつけることだ。 真の聖者は、他人のことなど少しも気にしていない。
彼は自分が誰であるか知っている。
全人類がその男は聖者ではないと言ったとしても、どうということはない。
彼の理解は内なるものだ。 あなたは鎧を脱がなければならない。
あなたはみずからのあらわな本質に入ってゆかなければならない。 あなたの人格を脱ぎ捨てなさい。
すべての知恵を、すべての仮面を落としなさい。 自分が苦しみから救われることは、依然として
自己中心的であり、自己に焦点が合わせられている。
自己の何かが依然として残っている。
あなたは自分のことにしか関心がない。 今もがき苦しんでるのに
そこから救われることが自己中心的って非難されるのか
優しくないな 内観を行なったのと言っているけれども、内観などは全然できていない。
内観というのは、石の上で座ることを内観というのではないのだ。
内観というのは、第三者の目で自分自身の心を見つめて、まちがったところを反省して、懺悔するということが内観であって、いろんな所に行って一週間座ったところで、そんなものは内観にも何もなってないということです。
あなたのは内観ではなくて、外観だ。外だけをそういうふうにとりつくろっている。そうした自分の人生の偽りというものを徹底的に反省しなさい。
あなたは、内観ではなくて外観ばかりをやっていて、そういう真理という雰囲気だけに酔っている。そして中身を全然知っていない。 おい、因縁果!
水風呂で心臓発作起こしてくたばったかw ホログラフィック原理によれば、宇宙(三次元空間+時間次元)に存在する実体は
すべて、宇宙の境界にある二次元平面に保存された情報が投影されたものとして説明される。 実のところ、知識を蓄えれば蓄えるほど自我が膨らんでゆくために、あなたは前よりもっと光明から離れてゆく。 苦行を積めば積むほど、あなたの自我は膨らんでゆく。
「私はこれをやっているし、あれもやっている。私はずいぶんたくさんのことをやってきた――
断食をくり返し、数しれぬほど礼拝をしてきた」
やればやるほど自分に価値があると思い、光明に値すると思うようになる。 だが、この探求もまた
「私は求道者だ」「私は凡人ではない」「私は精神的だ」「私は知性的だ」「私は高潔だ」「私は私は」
と言って、あなたのエゴを膨らませる。 もしこの"おまえよりも私のほうが高潔だ"といった態度が生まれてきたら、
あなたはいつまでも道に迷ってしまう。 他人よりも自分のほうが高潔であり、すぐれており、
自分は聖者だが他人は罪人であり、
「見ろ、私の徳の高い人生を」といった思いが浮かんできたら、あなたは道に迷ってしまう。 自作自演の妄想虚構の世界にいるおまいらは^^
・・となる^^ 「外に出よう」
そのとうり^^
自作自演の妄想虚構の世界から外にでるには・・^^
どうしたらよいか^^ スッタニパータ 734
およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起こるのである。
識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。 「ただ識別作用があるのみ」
「戯論が寂滅し言語表現を超えていく領域」
とは^^ やばい・・・^^
悟りの世界へと・・
ひきずり込まれる・・^^ 悟りの世界とは・・
戯論寂滅の世界であり・・^^
寂滅為楽の世界でもある^^ >>250
不二元論的なことか
識別が無ければ我も彼もない それでは、比丘たちよ、考えてみるがよい、識別作用は、恒常だろうか、それとも、無常だろうか。」
「無常です、尊師よ」
「では、無常なるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」
「苦です、尊師よ」
「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己である>
と見ることは、適当だろうか」
「適当ではありません、尊師よ」 比丘たちよ、このように見て、(教えを)聞いている聖なる弟子は、
色において厭離する。感受において厭離する。表象において厭離する。
志向作用において厭離する。識別作用において厭離する。厭離するものは、
貪欲から離れ、解脱する。解脱したとき、「解脱した」という知識がある。 滅尽したのは、生まれることである。完成したのは、清浄行である。
為したのは、為すべきことであり、さらに、この(輪廻の)状態にいたる
ことはない、と知るのである。 尊師は、このように言った。心かなえる五人の比丘たちは、尊師の説いたことに歓喜した。そして、この説明が説かれている最中に、五人の比丘たちは、
執着なく、煩悩より心が解脱したのである。 「無常であり、苦である変化するもの(法)」
↓
苦
↓
<これは、わたしの本体(自己ではない)>
となる^^ 変化するもの(法)は苦であるが自己ではない・・^^ すなわち・・・^^
0248因縁果 ◆d........o 2017/04/28(金) 19:43:32.69 ID:aOQ3AzGT
自作自演の妄想虚構の世界にいるおまいらは^^
・・となる^^ また古い経典には、識住と言われて、「色受想行」の四識住が識の働く
よりどころであるとする。
この場合、分別意識が、色にかかわり、受にかかわり、想にかかわり、
行にかかわりながら、分別的煩悩の生活を人間は展開しているとする。
分別的煩悩の生活・・^^
すなわち^^
おまえらの住む「自作自演の妄想虚構の世界」である^^ 「どのように気をつけて行っている人の
識別作用が、止滅するのですか?」
うん^^
いい質問だ^^ 識には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つあり、
別のものであるようだが、識としての物柄(体)は一つであるとする。
六識はそれぞれ色・声・香・味・触・法と別の対象をとるから、
別々の認識であり、境(きょう、外界の対象)を写し取るようなものと考える。
識・・外界の対象を写し取るようなもの・・・^^ それは自己ではないとスッタニパータで言っておられる^^ さてっと^^
この連休で識別作用を止滅してみるかなっと^^
・・ということは・・^^
無分別智の世界へと旅立つのかな^^
楽しみだっ^^ >>266
> 分別的煩悩の生活・・^^
すなわち^^
おまえらの住む「自作自演の妄想虚構の世界」である^^
17連投しても全然わかってないな
「おまえらの住む世界」「俺様が住む世界」
この連休だけで無分別智の世界へ旅立てるのかな? 当然今日も水風呂で全脳の活性化及び体を清めてきた^^
いつものことである^^
ついでに日焼けもしてきた^^
石のうえで^^ 「この世の一切の現象は縁起で生起する」
「世の中の一切の現象は変化するものであり、因果関係で表現できる」
「人間の煩悩を滅却して、物事の因果関係を考える」
ふむふむ^^ >>277
因果関係は一般ですしつまり、心理学です。
科学も知識も到達しません。
数学,論理,神学,体験,精神,では不可能です。
ニコラス,グザーヌスの反対の一致を使いましょ! 縁起とはすなわち、
無明が原因で行(形成力)が生じ、
行が原因で識が生じ、
識が原因で名形(心身)が生じ
名形が原因で六処(六根:五感と心)が生じ、
六処(六根)が原因で触が生じ、
触が原因で受が生じ、
受が原因で渇望(欲)が生じ、
渇望が原因で執着が生じ、
執着が原因で有(界)が生じ、
有が原因で生が生じ、
生が原因で老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩みが揃って生じます。 因果関係は一般ですしつまり、心理学です。
生から死かー^^
生のなかに死が同時に存在しているかー^^
真理学というより法に近いな・・^^ うろうろするな^^
つまり・・^^
有漏有漏するな^^
つまり・・^^ 【無漏路】
仏語。煩悩(ぼんのう)のない清浄な世界。悟りの境地。⇔有漏路(うろじ)。
【有漏路】
煩悩 (ぼんのう) にけがれた迷いの世界。
有漏路は、煩悩の多いもののいる世界。つまり、おまいらの世界のこと。
煩悩が漏れているからうろうろ迷うんだよな^^
おまいらは^^
となる^^ 因果関係など存在しない。それは錯覚で、すべては偶然だ。 識別作用が滅すれば解脱
別知の識から無分別智に転じて始めて覚られる 余談だが、先日、爆笑問題の田中がやってる番組でバックに不動明王の像を置いてるのを見かけた。バカかと思う。
不動明王(シヴァー)は実は一番中心になって東大震災を起こした張本人といわれている。
こいつによってそうゆう因縁でもないのに不正に障害者にされたものもいる。また古代から不正にひどい陰謀を
たくまれてきた者もいる。赤不動、青不動、黄色、白、黒とあって、家のは赤だからあるいは白だから大丈夫と
言ってるのもいるが、全部同じで百面相でごまかしただけ。共産党の悪化したみたいにみんなで引きずり
落としあいになってしまう、また何らかの形でからかわれるようにばっかもなる。オーム教と同じ。
さっさと何処へでも納札してすててこい!アホッ!! 仏教では,あらゆる因縁に応じて五蘊がかりに集って,すべての事物が成立しているから,
五蘊仮和合,五蘊皆空と説かれる。 ブッダはこれに関して他の問題より多く語り、
「五蘊は無我である(実体がない)」と結論しています。 しかし第一義で見れば、土・水・風・火の四大種であろうと、
炭素、酸素、水素などの元素であろうと、形・受・想・行・識であろうと、
すべては自分がない「空っぽ」の状態と分かります。土・水・風・火の
どこにも実体はありません。それを仏教では空と言います このようにすべてのものの空が見える人に、執着、あるいは取が生じる余地はなく、
既に生じている執着も、残ることはできません。すべて溶けて消滅し、
まったく執着しなくなります。人もなく、動物もなく、大種もなく、
蘊もなく、その物という実体のない空です。
執着がなければ苦が生じる隙はありません。 誰でも三学(持戒、サマーディ、智慧)と呼ばれる実践項目を実践して、
五蘊への執着をすっかり抜き取らなければなりません。
そうすれば五蘊の支配下に落ちないので、苦は終わります。 つまり・・・^^
五蘊という実体のないものに執着するなと・・^^
五蘊は無我であると^^ 苦しみ悩みのすべては「受・想・行・識」の中で生まれるのです。
だとすると、人間生きている以上様々な苦しみから逃れることなどできないわけです。 実体のないものに執着し苦が生じていると・・^^
こうなる^^ このように本当に純潔になれば、続いて本当の心の寂滅が生じます。
混乱や妨害、争いごとや煩悶のない穏やかさです。これらの苦しめ合いや
混乱のない状態を、ブッダはまとめて「サンティ(寂滅)」と呼んでいます。
すべてが穏やかに静まることです。 奴隷であることから脱して、二度と俗世のものの奴隷に陥らなくなれば、
清浄になります。ここでは憂鬱でないという意味です。それまでいろんな
ものの奴隷になっていたので、心と言葉と行動がすべての面で曇っていました。
どっちを見ても憂鬱なことばかりでした。世俗の味の奴隷から脱出すれば、
純潔になることができます。つまりその後、憂鬱はありません。 実体のない五蘊に執着してるおまいらは・・
永遠に五蘊の奴隷であると・・^^
ゆえに苦から解脱できずにいると^^
こうなる^^ 心寂止・・
寂滅為楽・・
これやな^^
う〜〜ん^^
これもまた基本やな^^ ブッダは『人は智慧で純潔になる』と、極めて短い教えを残しています。
戒で、あるいはサマーディで純潔になれるとは一言も言っていません。
智慧であらゆるものから脱出し、純潔になります。 仏教で言う智慧は、四つの取(執着)を消滅させ、あらゆるものから自分を脱出させる智慧
です。四つの取は私たちを縛り付けている縄であり、智慧はその縄を断ち切る刃物です。
智慧で執着を切断すれば、それ以後人を何かに執着させるものは何もありません。 人間はみな同じ苦、つまり、生老病死から来る苦、欲望執着に支配蹂躙される苦を
背負っているからです すべてのものへの執着を捨てて心を自由にしろと・・^^
こうゆうことだ^^ うわっ^^
おまいらにはむりぽ^^
・・とこうなる^^ 自分という執着は、すべての生き物にあります。そうでなければ生き伸びることはできません。
しかし自分への執着は、食べ物を探す苦、闘う苦、生殖する苦、何をするにも苦を生じさせます。
だからそれは、あらゆる苦の根源と言います これについてブッダは、次のような内容を述べています。
『執着のある人が掌握しているいろんなもの、それが苦であり、苦の根源である』。
あるいは『人が取で執着している体と心は苦である』。 パーリ経典(ブッダの言葉)の、阿羅漢に到達することについて述べている経の最後は、
どれも「心が取から解脱します」という言葉で終わっているのを見ることができます。
心が執着から解脱すれば、二度と俗世の奴隷に縛りつけるもの、あるいは生老病死の輪廻に
縛りつけるものは何もありません。 「心が執着から解脱」
執着からの解脱・・^^
これ基本^^
やな^^ 執着からの解脱といっても・・^^
智慧がなくてはあかん^^
つまり・・^^
おまえらにはむりぽ^^
とこうなる^^ おまいらがいくら瞑想や座禅をしても・・
「心が取から解脱します」なんてことは・・^^
ありえへんな・・^^ 「心が取から解脱します」は不可能ではないな・・^^
どっからどうみても^^ 取とは、仏教において執着を意味する概念であり煩悩の一種。
十二因縁(十二縁起)において、「取」は9番目に登場する。
無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→(無明) 喜覚支では「身は不浄なり」が寂滅すると生ずる禅定(初禅)を覚(し)り、
軽安覚支では「受は苦なり」が寂滅すると生ずる禅定(第二禅)を覚(し)り、
定覚支では「心は無常なり」が寂滅すると生ずる禅定(第三禅)を覚(し)り、
捨覚支では「法は無我なり」を成し遂げて、我(われ)が寂滅していること(第四禅)を覚(し)ります。 「身は不浄なり」
「受は苦なり」
「心は無常なり」
「法は無我なり」
四法印
諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静
に似てるな・・^^ 「認識できるすべての存在は我ではない」ということが第二の法印、諸法無我である。
諸法は諸行と同じことを意味しており、諸行が無常だから、諸法は無我である、
つまり変化する世界には変化しない我は存在しないということである。 無明と渇愛がもととなって、様々な煩悩が起こる。
煩悩とは我々の身心を悩ませ煩わせるものである。
煩悩の代表格としては、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩がある。
諸行無常であることを本当に自覚することができず、
諸法無我の真理を無視して、常一主宰の我ありと執着する
無明と渇愛煩悩によって、我々凡夫の現実生活は一時として
充たされることのない不満と苦悶の連続である。
おまえらになんか言ってる^^
その苦しみを苦しみと知る事ができないほどの深い迷いの中に沈没している、哀れで愚かしい真実の自己の在り様を一切皆苦と説かれたのである。 我ありと執着する
無明と渇愛煩悩によって、おまいら凡夫の現実生活は一時として
充たされることのない不満と苦悶の連続である。
うわっ^^ 無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→(無明)
う〜〜ん^^ 仏教では五蘊という煩悩の根拠、迷いの境地はこの「空」の覚りにおいて
消滅するとされる。
う〜〜ん^^ 煩悩の代表格としては、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩がある。
諸行無常であることを本当に自覚することができず、
諸法無我の真理を無視して、常一主宰の我ありと執着する
う〜〜ん^^ 定覚支では「心は無常なり」が寂滅すると生ずる禅定(第三禅)を覚(し)り、
捨覚支では「法は無我なり」を成し遂げて、我(われ)が寂滅していること
(第四禅)を覚(し)ります。
ここらへんやな^^ 「受は苦なり」を寂滅する修行に向かうと、表面意識で動く愛(タンハー)
によって生じる五蘊の転変を消滅させ、「苦」を生じる心の動きが無くなります。
すなわち欲貪と瞋恚が薄らぐことを示しています。 「心は無常なり」を寂滅する修行を実践すると、「心は無常なり」で表される、
潜在意識すなわち心の奥深くにある愛(タンハー)によるストレス感を滅盡します。
これによって表面意識だけでなく潜在意識で動いている「欲貪と瞋恚」も完全になくなります。 「法は無我なり」の実践は、「我」に執着する記憶を動かなくします。
すなわち、掉慢無明が記憶を探して「我」を実現しようと動く脳と心の
仕組みを捨離し、記憶のエネルギーを減らして、阿羅漢の寂滅した脳と
心の境涯を作り出します。 そもそも・・^^
寂滅する修行というのが・・^^
おまえらには似合わない^^
なぜなら・・・^^
おまいら我執の塊だから^^
うわっ^^ 仏陀の解脱法「三十七菩提分法」の中で、四念処観は解脱へ向かう一乗道といわれています。
すなわち四念処観を実践していれば、解脱の終着点ニルバーナに至るのです。
七覚支では四念処観が成就した証拠を覚ります。 「七科三十七道品」
四念住法・五根法、これは、瞑想です。
四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想です。
四神足法は、特殊な tapas( 練行)です。
神足とは、神通力(超人的能力)のことで、この四神足法は、
超自然的な神通力を得るための四種の修行法です。 うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああ^^ 「有為の四顛倒」
四つの道理に背く見解。すなわち、おまえら凡夫が
無常・苦・無我・不浄のこの世を常・楽・我・浄と思い誤ること。
無常であるものを永遠と見、苦を楽と考え、無我を我あり(固定的実体)と
考え、不浄なものを清浄であると見なす、 釈尊は、おまえら凡夫の四顛倒を破すために、
不浄・苦・無常・無我の四念処を説きました。 「無為の四顛倒」
二乗は涅槃の悟りにおいて無常・無楽・無我・無浄に執着し、
これを無為の四倒といいます。二乗は有為の四倒を断じ、
菩薩は有・無為の八到を断ずるとされています。 「顛倒とは、一切の妄想、虚妄、虚偽に執われる逆さまの見解のこと
すなわち、おまえら凡夫が自らの性分に迷い、その妄想によって
客観的な真理に迷うこと」
ふむふむ^^ 八顛倒とは、四顛倒にさらに加えて、
無為にして常住不変の四徳たる常楽我浄について、
一に常を無常と計し、二に楽を苦と執し、三に我を無我と考え、
四に浄を不浄と妄想して、仏法真実の四徳に迷う四顛倒を
合わせて八としたものであります
ここらへんがややこしい^^ 涅槃が最高の楽であると説いて不浄・苦・無常・無我を超越した常楽我浄・・^^
南無妙法蓮華経と題目を唱え奉るとき、私たちも四大菩薩の常楽我浄の徳を顕わして、
成仏の境界を得ることができるのです。
日蓮・・・きた^^ 「二乗は有為の四倒を断じ、
菩薩は有・無為の八到を断ずるとされています。」
まぁ・・これはあるな^^ 常楽我浄に執着することを有為の四顛倒
二乗は涅槃の悟りにおいて無常・無楽・無我・無浄に執着し、これを無為の四顛倒
有為、無為を離れた菩薩には常楽我常の正見が備わる。
ふむふむ^^ 上行は我を表し、無辺行は常を表し、浄行は浄を表し、安立行は楽を表す。
有る時には一人に此の四義を具す。二死の表に出づるを上行と名づけ、
断常の際を踰(こ)ゆるを無辺行と称し、五住の垢累を超ゆる故に浄行と
名づけ、道樹にして円(まど)らかなり故に安立行と曰うなり。
『御義口伝』
涅槃の四徳を『法華経』に出てくる地涌の四菩薩に配当している
ふむふむ^^ 問う十二因縁を三世両重に分別する方如何、 答う無明と行とは
過去の二因なり識と名色と六入と触と受とは現在の五果なり
愛と取と有とは現在の三因なり生と老死とは未来の両果なり、
私の略頌に云く過去の二因無明行現在の五果識名色六入触受
現在の三因愛取有未来の両果生老死と,問う十二因縁流転の
次第如何,答う無明は行に縁たり行は識に縁たり識は名色に
縁たり名色は六入に縁たり六入は触に縁たり触は受に縁たり
受は愛に縁たり愛は取に縁たり取は有に縁たり有は生に縁たり
生は老死憂悲苦悩に縁たり 是れ其の生死海に流転する方なり
此くの如くしておまいら凡夫とは成るなり、
問う還滅の十二因縁の様如何答う無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば
則ち識滅す識滅すれば則ち名色滅す 名色滅すれば則ち六入滅す六入滅
すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す受滅すれば則ち愛滅す愛滅す
れば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す有滅すれば則ち生滅す生滅すれば
則ち老死憂悲苦悩滅す、是れ其の還滅の様なり仏は還つて煩悩を失つて
行く方なり 私に云く中有の人には十二因縁具に之無し 又天上にも
具には之無く無色界にも具には之無し。
日蓮ちゃんかーふむふむ^^ 無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果 十二因縁流転・・生死海に流転
おまえら凡夫のあり様^^
・・と日蓮様がおっしゃられてます^^ 是れ其の還滅の様なり仏は還つて煩悩を失つて
行く方なり 私に云く中有の人には十二因縁具に之無し 又天上にも
具には之無く無色界にも具には之無し。
仏は還つて煩悩を失つて行く方なり・・^^ 生の内に限りたる事なれば臨終の時に至りて 諸のみえつる夢も覚て
うつつになりぬるが如く 只今までみつる所の生死・妄想の邪思ひがめの
理はあと形もなくなりて 本覚のうつつの覚にかへりて 法界をみれば
皆寂光の極楽にて日来賎と思ひし 我が此の身が三身即一の本覚の如来にて
あるべきなり
三身即一の本覚の如来ときたか・・^^ 妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは 何様なる体にておはしますぞと尋ね出してみれば
我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり、 されば我が身の体性を妙法蓮華経とは
申しける事なれば 経の名にてはあらずして・はや我が身の体にてありけると知りぬれば
我が身頓て法華経にて法華経は 我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそ
ありければやがて 我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり、 かく覚ぬれば
無始より已来今まで思いならわしし・ひが思いの妄想は昨日の夢を思いやるが如く・
あとかたもなく成りぬる事なり、 是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば
法華経を覚て如法に一部をよみ奉るにてあるなり、 十遍は十部・百遍は百部・千遍は
千部を如法によみ奉るにてあるべきなり、かく信ずるを如説修行の人とは申すなり、
南無妙法蓮華経。
^^
思いの妄想は昨日の夢を思いやるが如く・あとかたもなく成りぬる事なり^^^ 念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば 我が身本覚の如来なること
悟り出され 無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪
いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、
此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す
一心三観・一念三千の謂を観ずれば無明のが雲晴れると・・^^
う〜〜ん^^
となる^^ ここらへんだよな・・^^
人それぞれ考え方があるからな・・^^
ここまでとしておくかなっと^^ 【一心三観】
天台宗の観想法。一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、
それらは仮に現象していると観想する仮観(けがん)、この二つも一つで
あると観想する中観(ちゅうがん)を、同時に体得すること。
ん? 【一念三千】
天台宗の教義で、人の一念には宇宙の全存在が備わっていること。
一念とは、おまいら凡夫が日常におこす瞬間的な心(念)をいう。
三千とは法数(ほっすう)の展開である。十界が互いに他の九界を具足し
あっている(十界互具)ので百界、その百界にそれぞれ十如是があるから
千如是となり、千如是は五蘊(ごうん、ごおん、五陰とも)世界・仮名
(けみょう、衆生とも)世間・国土(こくど)世間の三種世間の各々にわ
たるので三千世間となる。つまり十界×十界×十如是×三世間=三千とな
る。
天台宗ではこれを、極小から極大の相即した統一的な宇宙観を示し、
実践的には自己の心の中に具足する仏界を観法することをいう。
うん? やめられんなこれ〜〜^^
とりあえず・・^^
温泉瞑想にいくかなっと^^
これだけは・・
やめられないっと^^ 温泉瞑想行ってきた^^
温泉と水風呂との繰り返し・・
さすがに体が日に焼けている^^
非思量の境地になれるから^^
いいんだよね^^ 非思量の境地・・^^
すなわち・・^^
無分別の境地となる^^ 釈尊の三法印という教えであり、一般には諸行無常・諸法無我・涅槃寂静と
いうことですが、この三法印をさらに詳しく説いたものが後の色受想行識・
十二入・十八界であり、これは三観によって得られる空仮中の三諦とも同じ
であり、空仮中の三諦をさらに深めたのが十如実相・百界千如・一念三千と
なり、南無妙法蓮華経であるという事 仏教は諸法実相を浅くより深く、狭きより広く順次悟らせようとするものであり、
それぞれ三法印・十二因縁・陰入界・空仮中・一心三観・十如実相・百界千如・
一念三千・妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と、言葉こそ違っても同じ実相のことを
いっているのです。ではなぜ言葉が違うのかといえば、実相を上から観・
横から観・縦から観、流動的に見ることによって違う呼び名が付けられたのです。
ふむふむ^^ 実相を上から横から縦から流動的に見ることに・・・^^
うわっ^^ 仏教の中心は、あくまでも諸法の実相を明らかにしたものなのです。
ふむふむ^^ ここでちょっと日蓮ちゃんの動画でもみるかなっと^^ う〜〜ん^^
法華経を読め^^
ということやな^^ 無量義経説法品第二
世尊、悟りを求める修行者や大乘を求める修行者がすぐに悟りを成就しようと
するならば、どのような一切の真理をあまねく知った最上の智慧を得る
ための仏の教えを修行すればいいのでしょうか。
どのような仏の教えが悟りを求める修行者や大乘を求める修行者を
すぐに悟りへと導くのでしょうか。
おまいら凡夫には教えん^^ 悟りを求める修行者が無量義を修学することを望むならば、
この世に存在する有形や無形の一切のものはそれ自体その根本と
経過と現在の姿において釣り合いが取れていて、宇宙の性質や有様
全ての事物は実体がなくその本性は空であり、大きさもなく、
小ささもなく、生じることもなく、死ぬこともなく、留まることもなく、
動くこともなく、進むこともなく、後退することもなく、何も妨げるもの
がなくすべてのものの存在する場所としての空間があり、これ以外の法は
無いと智慧によって対象を正しく見極めよ。 次に本質をはっきりと見極め全てのこの世に存在する有形や無形の一切の
ものは一瞬たりとも変わらないで続く事はなく、次から次へと生まれては
消滅すると思いめぐらしなさい。またすぐその時に生まれ、変わらないで
続いていき、変化し、消滅すると思いめぐらして物の真理本質を悟りなさい。
無量義とは一つの永遠普遍の真理から生まれたのです。
その一つの永遠普遍の真理とはすなわち一切の執着を離れた
無という状態です。
このような一切の執着を離れた無という状態は、物事がなく、
物事が起らず、物事が起らないために物事がないことを真実の本性と
呼ぶのです。 う〜〜ん^^
簡潔明瞭ではないな〜〜〜^^
「大乘を求める修行者」からして怪しい^^ これを読んだからといっても悟れるはずもなく・・^^
時間だけが過ぎていく・・^^ 三身即一
法身宇宙の真理・真如そのもの、仏性。諸行無常ー法身
報身仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。 諸法無我ー般若
応身この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿。涅槃静寂ー解脱 諸法如是と読む時は 是れ中道の義に順じて業に依つて受くる所の相性等云云、
其に随いたる無明皆退いて即身法身の如来と心を開く、 此の十如是・三転に
よまるる事・三身即一身・一身即三身の義なり三に分るれども一なり一に定まれ
ども三なり。 う〜〜ん^^
日蓮ちゃんはよく勉強しとる^^
うむ〜〜〜^^ 比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖 うん?
道元ちゃんもいた^^
どうりでみんな基本はおなじだもんな^^ 弘法大師は日本に両界の曼陀羅を弘め、 尊高三十七尊・秘奥なるもの
なり然るに顕教の極理は尚密教の初門にも及ばず 爰を以て後唐院は
法華尚及ばず 況や自余の教をやと釈し給へり此の事如何が心うべきや。
聖人示して云く予も始は大日に憑を懸けて 密宗に志を寄す然れども彼の
宗の最底を見るに其の立義も亦謗法なり汝が云う所の高野の大師は嵯峨
天皇の御宇の人師なり、然るに皇帝より仏法の浅深を判釈すべき由の宣旨
を給いて十住心論十巻之を造る、 此の書広博なる間要を取つて三巻に
之を縮め 其の名を秘蔵宝鑰と号す始異生羝羊心より終秘密荘厳心に至る
まで十に分別し、第八法華・第九華厳・第十真言と立てて法華は華厳にも
劣れば大日経には三重の劣と判じて此くの如きの乗乗は 自乗に仏の名を
得れども 後に望めば戯論と作ると書いて法華経を狂言綺語と云い釈尊を
ば無明に迷へる仏と下せり、 仍て伝法院建立せし弘法の弟子正覚房は
法華経は大日経のはきものとりに及ばず・釈迦仏は大日如来の牛飼にも
足らずと書けり、 汝心を静めて聞け 一代五千七千の経教・外典三千
余巻にも法華経は戯論三重の劣・華厳経にも劣り 釈尊は無明に迷へる
仏にて 大日如来の牛飼にも足らずと云う慥なる文ありや、
設ひさる文有りと云うとも能く能く思案あるべきか。
うわぁああああああああああああああああああああああああああああああ^^ 弘法大師いわく・・^^
@法華経を狂言綺語と云い釈尊をば無明に迷へる仏と下せり
A法華経は大日経のはきものとりに及ばず・釈迦仏は大日如来の牛飼にも
足らず
B華経は戯論三重の劣・華厳経にも劣り 釈尊は無明に迷へる仏にて
大日如来の牛飼にも足らず
こういうことか^^
弘法大師って・・^^
もしかして・・
空海ちゃん・・・・・^^ おい空海^^
おめ〜〜〜^^
言っていい事と悪いことが・・^^ 空海は、顕密二教と十住心の教判を立て、大日経第一、法華経第三とした。
そして、真言行者が身口意の三密相応すると、大日如来の加持力で、
即身成仏できると説いている。しかし、大日如来は架空の仏であり、
空海の教説は、釈尊の正意からはずれた邪説であることはいうまでもない。
日蓮は、文証・理証・現証の観点から、空海の邪義を徹底して破折し
「真言は亡国の悪法」と断じている。
う〜〜ん^^
こうなるわな^^ 分別も戯論も言葉による活動であり、概念的知識が得られるのみである。
空性体験という直接経験によって、言葉や概念は滅し、そして業と煩悩の
滅した人は解脱する。 業と煩悩との滅から、解脱がある。業と煩悩とは分別から生じる。
それらは戯論から生じる。しかし、戯論は空性体験において滅せられる。 無明(無知)は煩悩であり、ヨーガによる体験知である識別知や真智に
よって消滅する。煩悩の滅により、新たな業が生起しなくなり、
人は解脱できるようになる。 十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果 比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。 唯識思想では、各識の認識作用において、無明の妄念・妄執、煩悩に
汚されて覆われてしまっている者の側(世俗諦)の心から、現出して
しまっている迷い苦しみ(虚妄分別)の世界 十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果
解脱の鍵はここにある^^ 心地観経に曰く
「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」 十二縁起を苦を滅する過程として見ることを逆観と呼び、
「還滅(げんめつ)の縁起」と称する。「順観」からみれば「
無明」から展開していく苦の人生の姿があり、「逆観」からみれば
「無明」もなく「老死」もない悟りの世界がある。 無明の妄念・妄執、煩悩の心から、識の認識作用において、
虚妄分別の世界がはじまると・・^^ 平均的に、われわれが「動作」を始める約0.2秒前には、
「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。しかしわれわれの脳内では、
「意識的な決定」を示す電気信号の約0.35秒前には、それを促す無意識的な
「準備電位」が現れているのだ。つまり、われわれが「こうしよう」と
意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されている
ことになる。 十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果
意識的な決定をする約0.35秒前^^ A「無意識的な電気信号(脳→筋肉)」→B「意識的な決定」→C「動作の開始」
という一連の流れについて、AとBの間に0.35秒、BとCの間に0.2秒の時間差が
あることが示された。リベットはこの実験により、BとCの間の0.2秒の間に
、意識が運動を拒否する権利を持つと理解した。 このリベットの実験の第一の衝撃的な部分は、Bの意識的な決定の0.35秒も
前に、無意識的に既に意思決定が成されているということだ。
これによると、意識的に認識する前の無意識の段階で意思決定はなされている
ことになる。 しかし、この脳科学的実験の解釈は難しいところがある。BとCの間で
自由意志は拒否権を持っているとリベットは解釈をしたが、その拒否で
さえ、すでに無意識が決定したものが遅れてBとCの間で表れただけという
可能性が十分あるからだ。このように解釈した場合、「自由意志はやっぱり
何にも決定権を持っていないよね」という結論になってしまう。
後者の解釈のしかたは、受動意識仮説という考え方を徹底した場合のもの
である。受動意識仮説とは、人間の意思決定は無意識的に全て行われてい
て、意識はそれをただただ合理的に解釈しているだけというもの。 人間の意思決定は無意識的に全て行われていて、
意識はそれをただただ合理的に解釈しているだけというもの。
う〜〜ん^^
興味深い^^ 脳科学によると、脳はある一瞬における「内部的状態+外部の刺激」
という入力に対し、ある計算を施して、その結果として、その次の瞬間に
おける「内部的状態+外部環境への働きかけ」を出力している。
脳をこのような計算機と考えれば、この計算は徹頭徹尾完成されており、
自由意志がこの演算に入り込む余地はどこにもない。
決定論とは、「世界はその前の瞬間の世界の状態のみによって決定される
というもの。ここで紹介した脳科学者による決定論は、脳のメカニズムから
見た決定論なので、「メカニズム決定論」と呼ばれている。 脳をこのような計算機と考えれば、この計算は徹頭徹尾完成されており、
自由意志がこの演算に入り込む余地はどこにもない。
すなわち・・・^^
これ↓
十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果 人間の意思決定は無意識的に全て行われていて、
意識はそれをただただ合理的に解釈しているだけというもの。
すなわち・・^^
意識は傍観者であると・・^^
人間の意思決定してるのはだれか?
となる^^ 無明と渇愛がもととなって、様々な煩悩が起こる。
煩悩とは我々の身心を悩ませ煩わせるものである。
煩悩の代表格としては、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩がある。
諸行無常であることを本当に自覚することができず、
諸法無我の真理を無視して、常一主宰の我ありと執着する
無明と渇愛煩悩によって、おまいら凡夫の現実生活は一時として
充たされることのない不満と苦悶の連続である。
ん?
おまいら凡夫きた^^ 誰でも三学(持戒、サマーディ、智慧)と呼ばれる実践項目を実践して、
五蘊への執着をすっかり抜き取らなければなりません。
そうすれば五蘊の支配下に落ちないので、苦は終わります。
つまり・・^^
おまいら凡夫は五蘊の支配下にあると^^
結論でたな^^ う〜〜ん^^
「おまいら凡夫は」と書くと身が引き締まってすっきりする^^
日蓮ちゃんとおなじや^^ 仏教では,あらゆる因縁に応じて五蘊がかりに集って,
すべての事物が成立しているから,五蘊仮和合,五蘊皆空と説かれる。
これもやな^^ 比丘は托鉢から戻ったとき、次のことを観察すべきである。
それは「六処によって生じる貧欲・瞋恚・愚癡などの不善法」が
捨断されているかどうか
「五妙欲・五蓋・五取蘊」が捨断されているかどうか、
「四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八聖道・止観」が
修習されているかどうか、
「明・解脱}が直証されているかどうかである。 「止を」修習すれば、心が修習される。
心が修習されれば、欲が貧欲が捨断される。
貧欲が捨断される心は「心解脱」という。
一方、「観」を修習すれば、慧が修習される。
慧が修習されれば、無明が捨断される。
無明が捨断される慧は「慧解脱」という。 人間の意思決定は無意識的に全て行われていて、
意識はそれをただただ合理的に解釈しているだけというもの。
からの・・・^^
貧欲が捨断される「心解脱」・無明が捨断される「慧解脱」やな^^ ここで^^
止観が重要になってくると^^
こうなる^^ 止観と言えば・・・^^
温泉瞑想か・・^^
いくしかないな^^ では・・^^
行って来る^^
おまいら凡夫は五蘊の支配下に落ちぬよう・・^^
止観瞑想するよに^^
では^^ 酸素飽和度と血糖値を失神のギリギリまで下げれば、脳の統合が下がっていろんな変なもんが見られるかも。 温泉瞑想してきた^^
一種のデフラグやな^^
おまけにクリーンアップもついてきた^^ おまいら凡夫も水風呂で・・
再起動しなきゃ・・あかん^^ 1571年9月30日、織田信長による比叡山焼き討ちの日。
比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖 当時の史料である1570年の「多聞院日記」にも
「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と
記されており、
「信長公記」にも以下のような記述があります。
山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の
作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、
淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、
ほしいままに相働く
当時の比叡山が堕落していたことが指摘されたものは他にもあり、
焼き討ちの責は比叡山にあるとの指摘は・・・
うん?
300年後くらいかー^^
どうしてこうなった^^
つまりですね・・^^ 比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。
良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。
源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者
良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖
法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖
栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖
慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。
道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖
親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖
日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖
500年後・・「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」
900年後・・現在 見回せば自ずとわかる^^
・・とこうなる^^ またまた・・・^^
戯論寂滅やな・・・^^
とこうなる^^ う〜〜〜〜〜ん^^
おまいら凡夫が悪い^^
・・とこうなるのかー^^ 一般的に考えられていること
@指を動かそうと「意図」する。
A指令が随意運動野に伝わる。
B無意識のスイッチがONになる。
C運動準備電位が発生する。
D指が動く リベット博士の実験結果
@無意識のスイッチがONになる。
A運動準備電位が発生する(「意図」するより0.35秒前)。
B指を動かそうと「意図」する。
C指令が随意運動野に伝わる。
D指が動く(「意図」の0.2秒後)。 十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果 @無明 無知、あるいは本能的な生への欲望
A行 心的形成作用
B識 意識活動
C名色 五蘊
D6処 6感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)
E触 6感覚器官による接触
F受 感覚器官による外界からの情報の受信と知覚
G愛 絶ち難い欲望
H取 欲望の対象に執着すること
I有 生存、人間生活
J生 生きること
K老、死 老化と死 @無意識のスイッチがONになる。
@無明 無知、あるいは本能的な生への欲望
A行 心的形成作用 @無意識のスイッチがONになる。
*無明 無知、あるいは本能的な生への欲望
A運動準備電位が発生する(「意図」するより0.35秒前)。
*行 心的形成作用
B指を動かそうと「意図」する。
*識 意識活動
*名色 五蘊
*6処 6感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)
*触 6感覚器官による接触
*受 感覚器官による外界からの情報の受信と知覚
C指令が随意運動野に伝わる。
*愛 絶ち難い欲望
*取 欲望の対象に執着すること
*有 生存、人間生活 意識する前に形成されちゃってんだよな・・^^
無明で^^ うむ〜〜〜^^
どうにもならん^^
おまえら凡夫はっ^^ さてっと^^
どうするかなっと^^
答えはこのスレにかいてあるはず^^
探してみるか〜^^ チョット休憩^^
意識より先に無明→行が動き出していやがった^^ 日蓮ちゃんも同じ思いをしただろうな^^
どっからどうみても^^
過去の二因だから難しい^^ 問う十二因縁を三世両重に分別する方如何、 答う無明と行とは過去の
二因なり識と名色と六入と触と受とは現在の五果なり愛と取と有とは
現在の三因なり生と老死とは未来の両果なり、 私の略頌に云く過去の
二因無明行現在の五果識名色六入触受現在の三因愛取有未来の両果生老死
と,問う十二因縁流転の次第如何,答う無明は行に縁たり行は識に縁たり
識は名色に縁たり名色は六入に縁たり六入は触に縁たり触は受に縁たり
受は愛に縁たり愛は取に縁たり取は有に縁たり有は生に縁たり 生は
老死憂悲苦悩に縁た
り 是れ其の生死海に流転する方なり此くの如くして凡夫とは成るなり、
問う還滅の十二因縁の様如何 答う無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば
則ち識滅す識滅すれば則ち名色滅す 名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれ
ば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す 受滅すれば則ち愛滅す愛滅すれば
則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す 有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち
老死憂悲苦悩滅す、是れ其の還滅の様なり仏は還つて煩悩を失つて行く
方なり 私に云く中有の人には十二因縁具に之無し 又天上にも具には
之無く又無色界にも具には之無し。 う〜〜ん^^
「おまえら凡夫とは成るなり、」とはでてきたが・・^^
ブッダの解釈で終わっている^^
日蓮ちゃんも「おまえら凡夫」と書くのがよほど好きなんだろうな・・^^
おいらとおなじで^^ おまえら凡夫ぅうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううう う〜〜ん^^
もしかしてこれだけで涅槃の境地にたどり着くかもしれん^^ え〜〜と^^
問題はっと^^
意識する前に形成されちゃってんだよな・・^^
無明で^^
無明→行→すなわち・・過去の二因で^^
これかー^^ 答えはここらへんかな^^
454因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 08:21:03.59ID:Gr9Z7nKu
人間の意思決定は無意識的に全て行われていて、
意識はそれをただただ合理的に解釈しているだけというもの。
からの・・・^^
貧欲が捨断される「心解脱」・無明が捨断される「慧解脱」やな^^ これもかー^^
453因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 08:17:28.53ID:Gr9Z7nKu
「止を」修習すれば、心が修習される。
心が修習されれば、欲が貧欲が捨断される。
貧欲が捨断される心は「心解脱」という。
一方、「観」を修習すれば、慧が修習される。
慧が修習されれば、無明が捨断される。
無明が捨断される慧は「慧解脱」という。 これも参考になるな^^
448因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 08:04:32.77ID:Gr9Z7nKu
無明と渇愛がもととなって、様々な煩悩が起こる。
煩悩とは我々の身心を悩ませ煩わせるものである。
煩悩の代表格としては、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩がある。
諸行無常であることを本当に自覚することができず、
諸法無我の真理を無視して、常一主宰の我ありと執着する
無明と渇愛煩悩によって、おまいら凡夫の現実生活は一時として
充たされることのない不満と苦悶の連続である。 これも参考になるな^^
440因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 07:39:55.65ID:Gr9Z7nKu
このリベットの実験の第一の衝撃的な部分は、Bの意識的な決定の0.35秒も
前に、無意識的に既に意思決定が成されているということだ。
これによると、意識的に認識する前の無意識の段階で意思決定はなされて
いることになる。 これも参考になるな^^
436神も仏も名無しさん2017/05/04(木) 07:28:17.74ID:Gr9Z7nKu
無明の妄念・妄執、煩悩の心から、識の認識作用において、
虚妄分別の世界がはじまると・・^^ これも参考になるな^^
434因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 07:12:45.58ID:Gr9Z7nKu
心地観経に曰く
「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」 これも参考になるな^^
426因縁果 ◆d........o 2017/05/03(水) 21:38:58.75ID:nT8RVnnV
分別も戯論も言葉による活動であり、概念的知識が得られるのみである。
空性体験という直接経験によって、言葉や概念は滅し、そして業と煩悩の
滅した人は解脱する。
427因縁果 ◆d........o 2017/05/03(水) 22:04:35.78ID:nT8RVnnV
業と煩悩との滅から、解脱がある。業と煩悩とは分別から生じる。
それらは戯論から生じる。しかし、戯論は空性体験において滅せられる。
428神も仏も名無しさん2017/05/03(水) 22:10:52.00ID:nT8RVnnV
無明(無知)は煩悩であり、ヨーガによる体験知である識別知や真智に
よって消滅する。煩悩の滅により、新たな業が生起しなくなり、
人は解脱できるようになる。 いちおこれもか^^
【一心三観】
天台宗の観想法。一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、
それらは仮に現象していると観想する仮観(けがん)、この二つも一つで
あると観想する中観(ちゅうがん)を、同時に体得すること。 323因縁果 ◆d........o 2017/05/01(月) 21:17:01.01ID:PYjAwjma
パーリ経典(ブッダの言葉)の、阿羅漢に到達することについて述べている経の最後は、
どれも「心が取から解脱します」という言葉で終わっているのを見ることができます。
心が執着から解脱すれば、二度と俗世の奴隷に縛りつけるもの、あるいは生老病死の輪廻に
縛りつけるものは何もありません。 250因縁果 ◆d........o 2017/04/28(金) 19:52:49.18ID:aOQ3AzGT
スッタニパータ 734
およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起こるのである。
識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。 @「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着 A「依他起性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起(仮構)
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
識が働く
↓
縁起関係によってのみ、あらゆるものは仮に成り立つ B「円成実性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓↑縁起的な分別(虚妄分別したものへの執着)の否定
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
無分別(諸法実相・真如) 十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果
@「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着 @無意識のスイッチがONになる。
*無明 無知、あるいは本能的な生への欲望
A運動準備電位が発生する(「意図」するより0.35秒前)。
*行 心的形成作用
B指を動かそうと「意図」する。
*識 意識活動 おまえら凡夫は*識 意識活動から虚妄分別がはじまってるからな・・^^ おまえら凡夫^^
識 意識活動
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着 縁起的な分別(虚妄分別したものへの執着)の否定
↓
無分別(諸法実相・真如)
う〜〜ん^^
識を滅しなければどうにもならん^^ これか?
256神も仏も名無しさん2017/04/29(土) 05:14:32.06ID:v0pLu7bE
それでは、比丘たちよ、考えてみるがよい、識別作用は、恒常だろうか、それとも、無常だろうか。」
「無常です、尊師よ」
「では、無常なるものは、苦だろうか、それとも、楽だろうか」
「苦です、尊師よ」
「無常であり、苦である変化するもの(法)について、
<これは、わたしのものである>
<これは、わたしである(わたしは、これである)>
<これは、わたしの本体(自己である>
と見ることは、適当だろうか」
「適当ではありません、尊師よ」 これもだな^^
257神も仏も名無しさん2017/04/29(土) 05:17:42.08ID:v0pLu7bE
比丘たちよ、このように見て、(教えを)聞いている聖なる弟子は、
色において厭離する。感受において厭離する。表象において厭離する。
志向作用において厭離する。識別作用において厭離する。厭離するものは、
貪欲から離れ、解脱する。解脱したとき、「解脱した」という知識がある。 これもだ^^
266因縁果 ◆d........o 2017/04/29(土) 05:47:38.30ID:v0pLu7bE
また古い経典には、識住と言われて、「色受想行」の四識住が識の働く
よりどころであるとする。
この場合、分別意識が、色にかかわり、受にかかわり、想にかかわり、
行にかかわりながら、分別的煩悩の生活を人間は展開しているとする。 ついでにこれも^^
270因縁果 ◆d........o 2017/04/29(土) 06:01:39.24ID:v0pLu7bE
識には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つあり、
別のものであるようだが、識としての物柄(体)は一つであるとする。
六識はそれぞれ色・声・香・味・触・法と別の対象をとるから、
別々の認識であり、境(きょう、外界の対象)を写し取るようなものと考える。 最後にこれ^^
290因縁果 ◆d........o 2017/04/30(日) 22:02:38.15ID:wn3bMYxW
識別作用が滅すれば解脱
別知の識から無分別智に転じて始めて覚られる 識別作用が始まる前に空性を理解していなければならないと・・^^
これかっ^^
【一心三観】
天台宗の観想法。一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、
それらは仮に現象していると観想する仮観(けがん)、この二つも一つで
あると観想する中観(ちゅうがん)を、同時に体得すること。 またまた無明→行が動き出し五蘊が反応しやがった^^
たばこ買ってくる^^
五蘊の奴隷だとえらくてたまらん^^
これは苦労するは^^ 識別作用⇒虚妄分別こうなるからな・・
あるいは・・
識別作用の止滅⇒無分別になればいいと^^ なんかおいらすでに答えを知ってしまっている^^
この先の答えを・・^^
なぜなんだろう^^
うわっ^^ このことは既にどこかの経典に書いてあるはず^^
流れに乗っちゃったからね^^
わかるんだよ^^ 「対象への執着と対象の認識とは事実上不可分であることを、釈尊は見ていた
のであろう。わずかでもなんらかの対象を認識するところに、無明や妄執が
滲み出している。心の微細な領域において、そういうことがあることが、釈尊
には知られていたのである。そういう意味で、認識活動が死滅するとき、
個体への執着も解放されるというのである。」
うんうんそうだろう^^ ブッダは「智慧と気をつけることとによって、識別作用が滅止し、
名称と形態が残りなく滅びた場合に、解脱が起こるのです。」と答えているのです。 およそ苦しみが生ずるのは、全て潜在的形成力を縁(原因)として起こる
のである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずる
こともない。
「苦しみは潜在的形成力の縁から起こるのである」と、この災いを知って
、一切の潜在的形成力が消滅し、(欲などの)想念を止めたならば、
苦しみは消滅する。このことを如実に知って、正しく見、正しく知った
諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの
生存に戻ることがない。
「およそ苦しみが生ずるのは、全て識別作用(識)に縁って起こるのであ
る」というのが、一つの観察(法)である。
「しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずる
ことがない」というのが、第二の観察(法)である。
およそ苦しみが生ずるのは、全て識別作用に縁って起こるのである。
識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。
「苦しみは識別作用に縁って起こるのである」と、この禍いを知って、
識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに
帰しているのである。 およそ苦しみが生ずるのは、全て潜在的形成力を縁(原因)として起こる
のである。
@無明 無知、あるいは本能的な生への欲望
A行 心的形成作用
B識 意識活動
Aやな^^ 釈迦は「観」に瞑想により悟ったと考えられました。
一般に「観」の対象は、「四諦」や「十二縁起」です。
そして、「法」が「苦」であり、「無常」であり、
「無我」であると理解して、それに対する執着を捨て去ります。
ふむふむ^^ 釈迦は「観」に瞑想により悟ったと考えられました。
一般に「観」の対象は、「四諦」や「十二縁起」です。
おいらはこのスレの「十二縁起」により悟った^^ う〜〜ん^^
おまえら凡夫が息してないのが手にとるようにわかる^^ 五蘊無我
五蘊とは物質的なかたち(色)、感受作用(受)、表象作用(想)、
形成作用(行)、識別作用(識)である。
五蘊とは人間存在の5つの根源的要素である。
蘊とは積集、即ち寄り集まってできたものの意味である。
五蘊は仏教の中心概念の一つである。
ここでいう物質的なかたち(色)とは無機的物質ではなく身体(肉体)のことと考えて良い。
ブッダは人間存在を(色)、(受)、(想)、(行)、(識)の5要素(五蘊)に分析する。
これらの5要素はたえず変化しており、自分の思う通りにはならない(コントロールの外にある)。
我(アートマン)と言われる霊的中心はそこには存在しない。
我(アートマン)的実体や霊魂のようなものは無いにもかかわらず、
人はそれをあるとして執着する。
そのため苦が生じる。それをありのままに正しい智恵によって見、
我(アートマン)という考えに執着しなければ解脱できるという教えである。 十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果 @無明 無知、あるいは本能的な生への欲望
A行 心的形成作用
B識 意識活動
C名色 五蘊
D6処 6感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)
E触 6感覚器官による接触
F受 感覚器官による外界からの情報の受信と知覚
G愛 絶ち難い欲望
H取 欲望の対象に執着すること
I有 生存、人間生活
J生 生きること
K老、死 老化と死 釈迦は「観」に瞑想により悟ったと考えられました。
一般に「観」の対象は、「四諦」や「十二縁起」です。 四諦
4つの諦(たい)を示す。これらは苦集滅道と略称される。
苦諦(くたい) - 一切は苦であるという真理
集諦(じったい) - 苦には原因があるという真理
滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理
道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理 釈迦は、人生は苦であり、苦の根本的な原因としは、「無明、無知、迷い」、
無知である為に迷い、迷う為に物事に対して「愛(愛憎の念)」をもち、
それに対して「取(執着)」し、執着する事で苦しむと考えました。
四諦、八正道でこの無明から抜け出す方法を説いています。 ○七科三十七道品(三十七菩提分法)
@ 四正断(四正勤)
A 四念処(四念住)
B 四如意足(四神足)
C 五根
D 五力
E 七覚支
F 八正道
これが阿含経に説かれているニルヴァーナへと到る、
解脱のための修行体系である。
ブッダが説いた思想、世界観には、縁起の法、四諦の法門、
十二因縁などがあるが、ブッダが説いた修行体系としては、
これしかないのである。 五蘊とは色(物質)、受(感情)、想(概念)、行(意志)、識(意識)の
五要素のことで、色蘊は肉体、他の四蘊は精神及びその作用のことである。
したがって因縁によって五蘊が仮に和合している我であり、因縁がとけると
自ずと解体されるものである。無我は大乗仏教では無自性空として説かれる。 う〜〜〜ん^^
五蘊の支配下にいるのでしゃぁない^^ 「五蘊皆空」
この世の全ての存在や現象は、実体などなく全てのものは空であるという
仏教の言葉。
「五蘊」は人の体と精神を構成する五つの要素のこと。
全ての物質をいう「色」、感覚をいう「受」、心の中に浮かぶ像をいう
「想」、欲求をいう「行」、意識をいう「識」の五つ。 「五蘊」
色 物質一般 あるいは身体。身体および物質。
受 感受作用 感覚・単純感情を言う
想 心に浮かぶ像で、表象作用のこと
行 意思 あるいは衝動的欲求に当たるべき作用
識 認識作用 識別作用 区別して知ること。意識そのもの 十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果
無明→行→
行 意思 あるいは衝動的欲求に当たるべき作用
う〜〜ん^^
しゃーない^^ 結局・・
(識 認識作用 識別作用 区別して知ること。意識そのもの )
意識は過去の二因(無明→行→)を 識別しているだけとなる^^ こうなると・・^^
やはり・・^^
五蘊無我かーとなる^^ ・・ということは・・・^^
したがって因縁によって五蘊が仮に和合している我であり、因縁がとけると
自ずと解体されるものである。無我は大乗仏教では無自性空として説かれる。
とこうなり・・^^
無我でもありそれは無自性空となる^^ ゆえに・・^^
おまいら凡夫は実体のない無自性空となる^^ 五蘊とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものである。
この五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとして、五蘊仮和合
と説く。これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした @無明 無知、あるいは本能的な生への欲望
A行 心的形成作用
B識 意識活動
C名色 五蘊
D6処 6感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)
E触 6感覚器官による接触
F受 感覚器官による外界からの情報の受信と知覚
G愛 絶ち難い欲望
H取 欲望の対象に執着すること
I有 生存、人間生活
J生 生きること
K老、死 老化と死
う〜ん^^
どっからどうみても無我だよな〜〜^^
アートマンなるものは存在しない^^
・・とこうなる^^ ところで有身見ということですが、現実の存在はすべて縁起であり、
空であるのに、空でないなにかが残る、すべての条件を取り払っても
なにかが残るというように考えるのが有身見ということで、具体的には
アートマンの存在を認めるということでしたが、そういう有身見を否定
しているというか、有身見を成り立たなくしているものに、有名な五蘊無我説
があります。
五蘊無我説の「五蘊」というのは、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊で、
「蘊」というのは「集まり」という意味です。つまり、五つの集まり
の集合によって私たちの個体存在(身体)は成り立っているということです。
・・とこうなる^^ 辺見、一辺にとらわれた考え方をいう。
もっとも一般的には断常二見をさしている。すなわち、人間は死によって
無に帰すとするのは断見、何かが残って続いてゆくとするのは常見である。
このような一方的な考え方を辺見という。
ところで、これをもう少し詳しくいうならば、色受想行識という五つの
要素(五蘊)によって成立している人間が、自らに対して常住普遍的支配
的である我を執じ、さらに、その我執によって五蘊それぞれに我を執ずる。
そのように執着された五取蘊について断無と執じ、常有と執ずることを
いうのである。その点で執辺見とよばれることもある。 おまいら凡夫は・・
我執によって五蘊それぞれに我を執ずる。
う〜〜ん^^
そのとうりである^^ つまりだ^^
五蘊皆空・・^^
因縁によって五蘊が仮に和合している我であり、因縁がとけると
自ずと解体されるもの・・
5要素はたえず変化しており、自分の思う通りにはならない
(コントロールの外にある)。
これらのものをおまえら凡夫は・・
自らに対して常住普遍的支配的である我を執じ、
さらに、その我執によって五蘊それぞれに我を執ずる。
すなわち我執からくが生じていると・・^^
こうなる^^ うわっ^^
おまいら涙目^^
しかし・・・
これだけはしゃーない^^ 十二因縁 考察してみるかー^^
十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果 @無明 無知、あるいは本能的な生への欲望
A行 心的形成作用
B識 意識活動
C名色 五蘊
D6処 6感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)
E触 6感覚器官による接触
F受 感覚器官による外界からの情報の受信と知覚
G愛 絶ち難い欲望
H取 欲望の対象に執着すること
I有 生存、人間生活
J生 生きること
K老、死 老化と死 ・無明がゆえに
↓☣ー大脳皮質(長期記憶)、海馬(短期記憶)、小脳(運動記憶)
真理でない記憶、間違った記憶、記憶(データー)が無い無知
・行がある、行があるがゆえに識がある
↓☣ー大脳皮質(判断、これは何だ!と思う、考える)・側頭葉(音、言葉)
(行を行動と解釈する場合がありますその場合は帯状回となります) 物質的現象が空だというならば、もう一つの現象である心的現象の方は
どうでしょうか? 私たちの感覚、想い、意思、判断といったものは
確かな存在なのでしょうか?
これについては現代の脳神経科学が教えるように、私たちの思いや考えは
脳のニューロンの物理的な動作によって決定されており、「意識」は
それによって生じる副産物、つまり幻かもしれない、ということが分か
っています。したがってこれらの心的現象もまた「空」だといえるでしょう。 したがって人間のことをいうならば、まず第一に目、耳、鼻、舌、体、脳と
いった感覚器官や思考器官の存在も確固たるものとはいえません。
また、色、音、匂い、味、手触り、(脳に浮かぶ)イメージといったものは、
感覚神経や脳のニューラルネット内を駆け巡るただの電気信号であり、
そこに色や音としての実態はありません。したがって脳内で発生する
クオリアも幻といえます。 心と脳の関係を考える時に中心となる問いの一つは、脳の中のニューロンの
発火から、どのようにして私たちの認識の内容が決定してくるのか・・^^ 私たちの認識は、ある心理的瞬間におけるニューロンの発火にのみ
基づいて形成されている(認識のニューロン原理) ニューロンの発火から私たちの認識が生まれてくるメカニズムを説明することはできないと考えられる ニューロンが発火して、私たちの脳の中に「バラ」という認識が生じた
としよう。この時、そのニューロンの発火が「バラ」という認識を引き
起こすのは、そのニューロンが「バラ」に対して選択的に反応するから
ではなく、脳の中の他のニューロンとの関係において、そのニューロンが
「バラ」という意味を持たされたからである。 脳の空間的に離れたニューロンどうしが相互作用によって結びつくこと
によって、初めて認識が成立するからだ。
このような認識のメカニズムを考える際には、ニューロンとニューロンの
間の相互作用に、神経伝達物質の種類によって興奮性(シナプスの前側の
ニューロンが発火した時に、後側のニューロンが発火しやすくなる)と
抑制性(シナプスの前側のニューロンが発火した時に、後側のニューロン
が発火しにくくなる)があることが重要な意味を持ってくる。 相互作用同時性は、私たちのニューロンの発火から、どのようにして
私たちの心の中の時間や空間の秩序が生まれてくるのかというより
一般的な問題の一部である。ここで指導的な原理となるのが、因果性だ。
つまり、私たちの認識の時間的、空間的な構造は、ニューロンのネット
ワークの時間的な発展を因果的にどのように記述するかという観点から
導かれてくるのである。 私たちの脳の中で言葉の意味が成立するメカニズムは、ちょうど認識に
おいてあるクオリアを伴った認識の要素が成立するメカニズムと似ている
と考えられる。すなわち、言葉の意味も、言葉の意味を司る脳の領野
(ウェルニッケ野)におけるニューロンの発火の間の相互作用による
結び付きから決定されてくると考えられるのである。 私たちは、自分の外の事象を認識している場合と、単にそれをイメージして
いるに過ぎない場合を区別することができる。また、現在まさに目の前に
あるものを認識している場合と、過去に見たものを思い出している場合を
区別できる。重要なことは、このような区別は、それぞれの場合に私たち
の心の中に浮かぶ表象のクオリアの違いとして現れるということだ。
例えば、現在、外にあるものを認識している場合には、そこには非常に
鮮烈な、生々しいクオリアが伴う。それに比べて、過去に見たものを思い
出している時のクオリアは、薄ぼけた、抽象的なものだ。私たちは、
このような区別を当然のものと思ってしまいがちである。
だが、これらの表象は、元をただせばニューロンの発火に過ぎないのだ。
物理現象としては均一なニューロンの発火から、どのようにして
「自己の内と外」、「現在と過去」といった区別を支えるクオリアの差が
出てくるのか? この問いは、脳の情報処理能力の根幹に関わる問題なの
である。 「五蘊皆空」
この世の全ての存在や現象は、実体などなく全てのものは空であるという
仏教の言葉。 【一心三観】
天台宗の観想法。一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、
それらは仮に現象していると観想する仮観(けがん)、この二つも一つで
あると観想する中観(ちゅうがん)を、同時に体得すること。 ニューロンの発火に妄執するのをやめなさいと・・^^ 瞑想すればわかるんだろうな^^
ニューロンの発火の間の相互作用が・・^^
ゆえに・・^^ 天台宗の観想法。一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、
それらは仮に現象していると観想する仮観(けがん)、この二つも一つで
あると観想する中観(ちゅうがん)を、同時に体得すること。
これだよな・・^^ 瞑想でニューロンの発火と表象のクオリアの違いまでわかっちゃったか^^
さすが・・^^
ブッダちゃんや^^ ライターで発火して
ニコチン中毒が「悟り」を騙るスレ ニューロンの発火から、どのようにして「自己の内と外」、
「現在と過去」といった区別を支えるクオリアの差が
出てくるのか?
う〜〜ん^^ タバコを吸う人間と吸わない人間
どちらが煩悩が多いのか? 「スッタニパータ」にも、解脱に関連して、
(1)想受滅または想を離れる、
(2)識の滅または識別の止滅、
(3)名称と身体(形態)から解脱、
(4)捨念清浄、
(5)論議が絶える、
ということが言われる。
このことからも、最も初期の頃から、想、受、識、言語作用の滅した
清浄な体験があって解脱したと考えられる。 「大海と一個のコップ」の喩えかー^^
うまいこというね^^ 階級制度でも人生規範でもなく 慣習でも法でもない
集中 瞑想 ヨーガ その他の修行のどれも必要ない
「私が」「私の」という観念は自己でないものから生じる
その誤りは捨て去るべきである
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する 清き人々との交わりあるところに 離欲があり
離欲あるところに 迷妄からの解放がある
迷妄からの解放あるところに 不変の真理があり
不変の真理あるところに 今生での解脱がある シャンカラの不二一元論かー^^
ブラフマンだけが実在でほかのものは虚像である
いま見ている世界は「無明が生み出した幻影に過ぎない」 不二一元論
それはブラフマン(梵:宇宙を支配する原理)とアートマン(個我・自己:個人を支配する
原理)が唯一であることを指し、全知全能の神・大いなる宇宙とあなたの内側に宿る魂
(内なる神)は唯一である うん?
なんかきた^^
う〜ん^^
タバコはひと時の休息である^^ ブラーマンとアートマン同一性・・^^
「神と我々の真の自己は同一である」 プルシャ・自己=精神原理=純粋意識。
プラクリティ・自性=創造原理=身体。 ヴェーダーンタ哲学の不二一元論の立場を確立した
インド最大の哲学者シャンカラは、原因を必要とせず
存立するところのブラフマンと、個人の本体である
アートマンは本来同一であると主張した 宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と個体の本質であるアートマン(我)と
は本来は同一である 現実の日常経験がこの真理と矛盾しているのは、この知識を会得しない
無知(無明)によるとし、肉体をも含めた一切の現象世界は無明によって
ブラフマンに付託されたものにすぎないものであって、本来実在しないと
説いて幻影主義的な一元論(不二一元論)を唱えた つまり・・^^
ニューロンを発火させているものと・・
発火させられているものがあるわけだ^^ サーンキヤ学派では、精神原理プルシャと物質原理プラクリティが対置されている。
プルシャは、プラクリティの展開がつくりだす現象世界を観照するとする。
プルシャを説明するのに、水面や鏡に映った映像を見る人のたとえが用いられている 精神原理プルシャ・・ニューロンを発火させているもの
物質原理プラクリティ・・ニューロンを発火させられているもの
プルシャは、プラクリティの展開がつくりだす現象世界を観照している^^ 宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と
個体の本質であるアートマン(我)とは本来は同一である
う〜ん^^
これが問題だ^^ 宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)・・ニューロンを発火させているもの
個体の本質であるアートマン(我)・・ニューロンを発火させられているもの
う〜ん^^ 肉体をも含めた一切の現象世界は無明によって
ブラフマンに付託されたものにすぎないものであって、
本来実在しないと説く
ニューロンの発火によって造り出されている世界だからな・・
本来は本来実在しないだろ・・^^ 瞑想で見えてくる光というものは・・
ニューロンの発火の光ではないか・・^^
う〜〜ん^^ ニューロンを発火させているもの は宇宙から来てるんだろうな・・^^
つまり・・^^
宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と
個体の本質であるアートマン(我)とは本来は同一である
となる^^
すなわち・・^^ 不二一元論
それはブラフマン(梵:宇宙を支配する原理)と
アートマン(個我・自己:個人を支配する原理)が
唯一であることを指し、全知全能の神・大いなる宇宙とあなたの
内側に宿る魂(内なる神)は唯一である
とこうなる^^ うっ^^
たばこきれた^^
買いに行く・・^^
つまり・・^^
煩悩の奴隷である^^
控えよ^^ 十二因縁
無明→行→(ニューロンの発火)→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果 (ニューロンの発火)→無明→行→ 識→名色→六処・・^^
こうかな^^ 無明(ニューロンの発火)→行→識→名色→六処・・^^
これくさいな^^ ブラフマン(梵:宇宙を支配する原理)
↓ニューロンを発火
自性 自己 ・・観察(個体の本質であるアートマン(我))
↓
プラクリティ・自性=創造原理=身体。
↓
十二因縁
できた^^ 温泉瞑想で・・^^
ブラフマン(梵:宇宙を支配する原理)
↓ニューロンを発火
自性 自己 ・・観察(個体の本質であるアートマン(我))
↓
プラクリティ・自性=創造原理=身体。
↓
十二因縁
を確認してくるかなっと^^
では^^ なぜ人類は意識を持つに至ったかという理由は、
脳に伝えられる膨大な情報の中からニューロンが
抑制的なオートレセプターの反回路によって
0.5秒間以上の連続発火を行える刺激のみを選別し、
それを有用な情報として意識上に姿を現させること
で「考えた行動」をとることが可能になる・・ 570因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 00:56:40.10ID:8SaYA+vx
ニューロンが発火して、私たちの脳の中に「バラ」という認識が生じた
としよう。この時、そのニューロンの発火が「バラ」という認識を引き
起こすのは、そのニューロンが「バラ」に対して選択的に反応するから
ではなく、脳の中の他のニューロンとの関係において、そのニューロンが
「バラ」という意味を持たされたからである。
571因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 00:59:25.77ID:8SaYA+vx
脳の空間的に離れたニューロンどうしが相互作用によって結びつくこと
によって、初めて認識が成立するからだ。
このような認識のメカニズムを考える際には、ニューロンとニューロンの
間の相互作用に、神経伝達物質の種類によって興奮性(シナプスの前側の
ニューロンが発火した時に、後側のニューロンが発火しやすくなる)と
抑制性(シナプスの前側のニューロンが発火した時に、後側のニューロン
が発火しにくくなる)があることが重要な意味を持ってくる。 573因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 01:04:14.45ID:8SaYA+vx
私たちの脳の中で言葉の意味が成立するメカニズムは、ちょうど認識に
おいてあるクオリアを伴った認識の要素が成立するメカニズムと似ている
と考えられる。すなわち、言葉の意味も、言葉の意味を司る脳の領野
(ウェルニッケ野)におけるニューロンの発火の間の相互作用による
結び付きから決定されてくると考えられるのである。
574因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 01:07:22.50ID:8SaYA+vx
私たちは、自分の外の事象を認識している場合と、単にそれをイメージして
いるに過ぎない場合を区別することができる。また、現在まさに目の前に
あるものを認識している場合と、過去に見たものを思い出している場合を
区別できる。重要なことは、このような区別は、それぞれの場合に私たち
の心の中に浮かぶ表象のクオリアの違いとして現れるということだ。
例えば、現在、外にあるものを認識している場合には、そこには非常に
鮮烈な、生々しいクオリアが伴う。それに比べて、過去に見たものを思い
出している時のクオリアは、薄ぼけた、抽象的なものだ。私たちは、
このような区別を当然のものと思ってしまいがちである。
だが、これらの表象は、元をただせばニューロンの発火に過ぎないのだ。
物理現象としては均一なニューロンの発火から、どのようにして
「自己の内と外」、「現在と過去」といった区別を支えるクオリアの差が
出てくるのか? この問いは、脳の情報処理能力の根幹に関わる問題なの
である。 37因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 07:33:01.79ID:Gr9Z7nKu
平均的に、われわれが「動作」を始める約0.2秒前には、
「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。しかしわれわれの脳内では、
「意識的な決定」を示す電気信号の約0.35秒前には、それを促す無意識的な
「準備電位」が現れているのだ。つまり、われわれが「こうしよう」と
意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されている
ことになる。 439因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 07:38:05.46ID:Gr9Z7nKu
A「無意識的な電気信号(脳→筋肉)」→B「意識的な決定」→C「動作の開始」
という一連の流れについて、AとBの間に0.35秒、BとCの間に0.2秒の時間差
があることが示された。
リベットはこの実験により、BとCの間の0.2秒の間に、意識が運動を拒否する
権利を持つと理解した。
440因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 07:39:55.65ID:Gr9Z7nKu
このリベットの実験の第一の衝撃的な部分は、Bの意識的な決定の0.35秒も
前に、無意識的に既に意思決定が成されているということだ。
これによると、意識的に認識する前の無意識の段階で意思決定はなされて
いることになる。 470神も仏も名無しさん2017/05/04(木) 16:18:05.22ID:Gr9Z7nKu
一般的に考えられていること
@指を動かそうと「意図」する。
A指令が随意運動野に伝わる。
B無意識のスイッチがONになる。
C運動準備電位が発生する。
D指が動く
471因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 16:20:01.17ID:Gr9Z7nKu
リベット博士の実験結果
@無意識のスイッチがONになる。
A運動準備電位が発生する(「意図」するより0.35秒前)。
B指を動かそうと「意図」する。
C指令が随意運動野に伝わる。
D指が動く(「意図」の0.2秒後)。 472因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 16:21:20.69ID:Gr9Z7nKu
十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果
@無意識のスイッチがONになる。
*無明 無知、あるいは本能的な生への欲望
A運動準備電位が発生する(「意図」するより0.35秒前)。
*行 心的形成作用
B指を動かそうと「意図」する。
*識 意識活動
*名色 五蘊
*6処 6感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)
*触 6感覚器官による接触
*受 感覚器官による外界からの情報の受信と知覚
C指令が随意運動野に伝わる。
*愛 絶ち難い欲望
*取 欲望の対象に執着すること
*有 生存、人間生活 @「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着 【一心三観】
天台宗の観想法。一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、
それらは仮に現象していると観想する仮観(けがん)、この二つも一つで
あると観想する中観(ちゅうがん)を、同時に体得すること。 「五蘊」
色 物質一般 あるいは身体。身体および物質。
受 感受作用 感覚・単純感情を言う
想 心に浮かぶ像で、表象作用のこと
行 意思 あるいは衝動的欲求に当たるべき作用
識 認識作用 識別作用 区別して知ること。意識そのもの 五蘊とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したものである。
この五蘊が集合して仮設されたものが人間であるとして、五蘊仮和合
と説く。これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした 辺見(一辺にとらわれた考え方をいう。)
もっとも一般的には断常二見をさしている。すなわち、人間は死によって
無に帰すとするのは断見、何かが残って続いてゆくとするのは常見である。
このような一方的な考え方を辺見という。
ところで、これをもう少し詳しくいうならば、色受想行識という五つの
要素(五蘊)によって成立している人間が、自らに対して常住普遍的支配
的である我を執じ、さらに、その我執によって五蘊それぞれに我を執ずる。
そのように執着された五取蘊について断無と執じ、常有と執ずることを
いうのである。その点で執辺見とよばれることもある。 565因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 00:40:31.56ID:8SaYA+vx
物質的現象が空だというならば、もう一つの現象である心的現象の方は
どうでしょうか? 私たちの感覚、想い、意思、判断といったものは
確かな存在なのでしょうか?
これについては現代の脳神経科学が教えるように、私たちの思いや考えは
脳のニューロンの物理的な動作によって決定されており、「意識」は
それによって生じる副産物、つまり幻かもしれない、ということが分か
っています。したがってこれらの心的現象もまた「空」だといえるでしょう。
566因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 00:42:38.67ID:8SaYA+vx
したがって人間のことをいうならば、まず第一に目、耳、鼻、舌、体、脳と
いった感覚器官や思考器官の存在も確固たるものとはいえません。
また、色、音、匂い、味、手触り、(脳に浮かぶ)イメージといったものは、
感覚神経や脳のニューラルネット内を駆け巡るただの電気信号であり、
そこに色や音としての実態はありません。したがって脳内で発生する
クオリアも幻といえます。 「スッタニパータ」にも、解脱に関連して、
(1)想受滅または想を離れる、
(2)識の滅または識別の止滅、
(3)名称と身体(形態)から解脱、
(4)捨念清浄、
(5)論議が絶える(戯論寂滅)
ということが言われる。
このことからも、最も初期の頃から、
想、受、識、言語作用の滅した清浄な体験が
あって解脱したと考えられる。 十二因縁
無明→行→ 識→名色→六処→触→受→ 愛→取→有→ 生→老死→
過去の二因 現在の五果 現在の三因 未来の両果 う〜〜ん^^
おまえら凡夫の無明である脳に発火するか・・^^
智慧のある脳に発火するか・・・^^
それが問題である・・^^ うわっ^^
おまえら凡夫の煩悩だらけの脳に発火すると・・^^
大火事になって手が付けられん^^
それが我執となって燃え広がる・・^^
困った^^ う〜〜ん^^
すなわち・・^^
戯論寂滅やな^^
寝る^^ タバコごときに負けてるカスが
マーラに勝てるわけがない
解脱できるわけがない 煩悩即菩提・・・^^
煩悩がそこにあるからこそ^^
悟りの境地が描ける・・^^
煩悩なくして修行なし・・
煩悩なくして悟りなし^^ うん?
弘法大師は「煩悩(苦しみ)なければ菩提(覚り)なし。」と
まで言っています。
うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ 空海ちゃん・・・・^^
真似しやがったぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
こらぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ 修行とは、系統的なストレスで脳をおかしくして効率的に変性意識を生成し、基地外集団に取り込みやすくする方法。 寂滅した境地なのに
コテをつけ、^^をつける
全然 寂滅してませんやん 悟ればそれが寂滅する^^
現象が空性とともに寂滅する^^
そして全てが寂滅したあとに^^
涅槃の境地は開かれる^^
戯論寂滅・・^^
一切の知解が滅し、戯論が滅して、寂静なる境地となる^^ すべては識別のなかに現象として現れる・・^^
それを空性とともに寂滅する・・^^
う〜〜ん^^
すんばらしい^^ 「無明滅則行減。行減則織減。識減則名色減。名色減則六入滅。六入減則触減。
減則受減。受減則愛減。愛減則取減。取減則有減。有滅則生滅。
生滅則老死憂悲苦悩減。」
やないかい^^
う〜〜ん^^
ブッダちゃんとおなじこと考えていたか・・^^ 「無明滅則行減」・・・^^
この則がなんとも言えん^^
たぶん日蓮ちゃんもおなじこと考えていただろうな・・^^
「即」を多用してたからな^^ 「問う還滅の十二因縁の様如何 答う無明滅すれば則ち行滅す行滅すれば則ち識滅す識滅すれば則ち
名色滅す 名色滅すれば則ち六入滅す六入滅すれば則ち触滅す触滅すれば則ち受滅す 受滅すれば則ち愛滅す愛滅す
れば則ち取滅す取滅すれば則ち有滅す 有滅すれば則ち生滅す生滅すれば則ち老死憂悲苦悩滅す、 是れ其の還滅の
様なり仏は還つて煩悩を失つて行く方なり 私に云く中有の人には十二因縁具に之無し 又天上にも具には之無く又
無色界にも具には之無し。」
うむ〜〜^^ 「則ち」
ん?
「ち」が付いておる^^
なんでやねん^^ うむ〜〜^^
日蓮ちゃんはわからんから・・^^
横においといてっと^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています