唯現象論 [無断転載禁止]©2ch.net
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現象の背後に物自体など存在しない。
現象のみが実在なのだ。
現象の裏側に何らかの物が実在すると仮定しよう。
たとえそれが真であっても、自我が知覚する現象からはその証拠が得られない。
そのようなものに一切関わりがない。
我々は現象のみの世界の住人であり、その世界では現象のみが実在である。
現象以外の実在を仮定しても、それは我々の住む世界とは無関係の別世界の話だ。
我々の世界では自我すら知覚対象としての現象に過ぎない。 現象を正しく観ぜよ。
世間・他人が思い通りにならないのは当然だ。
池に沈む石に「浮かび上がれ」と願ったら浮かんでくれるだろうか。
この世に無駄な期待をしてはならない。
それは苦を増大させるだけである。 腹が減ったら最低限度の食事を摂り、
寒ければ上着を着て、
眠ければ寝る。
そのような自然かつ必然的な欲求さえ満たせば苦痛は除かれ、心は平静になる。
心に動揺が無いことこそが至高の快なのである。 唯物論や唯心論は実体にどんな名前を付けるかという違いに過ぎない。
単なる言葉遊びである。
どう名付けようとも、現象は現象であり、我々には現象しかない。 >>5
思考放棄にゃん? 南無南無 (*^人^*) 幸福になる方法を神や天国や来世に求めることこそ思考停止である。
我々に必要なのは今幸福になることであり、そのための方法は現象を観察し、正しく考え、正しく語ることだ。 友を大切にすることも自然かつ必然的な欲求である。
互いに語らい、助け合うことは幸福に資する。
ただし、正しからざる妄念にとらわれ、心を乱すものを友としてはならない。
そのような友を持つくらいなら、むしろ独り歩むが良い。 懐疑的に言えば、
その「現象」すら、感受-知覚-認識の過程の中で生じる錯誤があり得るわけで・・。
「実在してるかどうか」すら関係なく、
我々は「認識したもののみの世界」の住人であり、その世界では認識のみが実在となる。
>我々は現象のみの世界の住人であり、その世界では現象のみが実在である。
認識されたもの以外の実在を仮定しても、それは我々の認識された世界とは無関係の別世界の話。
>現象以外の実在を仮定しても、それは我々の住む世界とは無関係の別世界の話
我々の世界では自我すら知覚された対象としての認識されたものに過ぎない。
>我々の世界では自我すら知覚対象としての現象に過ぎない >>9
それは単なる独我論ですよね
現象主義、唯現象論とは違いますし、反論にもなってませんね 感受-知覚-認識の過程すら現象に含めるから現象主義なんぢゃねーの? >>11
であるならば余計に、
「実在(である)」なんて言い切るのは、少し傲慢なんじゃねーの? >>12
ここは宗教板なので、独断論的に世界観を提示するのは許容範囲であろう。
ここで主張する唯現象論は、現象の背後に神や別世界や精神的実体があると主張する妄言的宗教を打破するための提案なのだ。 全く消滅もしてしまい完全に忘れられてしまうような現象に対し実在という言葉を使うなよなwwwww という意見はあるだろう >>14
不変ではなく常に移り変わっているけれど、常に現象を知覚してますが。
実在するものは変化してはいけないのでしょうか?
だとすると、多くの宗教が説く得体の知れない形而上の存在も実在ではありませんね。
もっとも、あなたにとっては「ある日突然現象が無くなった!」とかいうことが起こるのかも知れませんが。
私にはそんなことは起こらないでしょう。 時間は止まるし消えるしなんでもありだよ。
世界は無数、アイデンティティーも姿形も無数、経験は無数
その考えも君にとどまることはないだろう
君は全く真逆の考えを声が渇れるほど唱えることもあるのだ >>16
全ての可能世界が存在するとするならば、その根拠を説明しなければならない。
それは全体的な理論の統一性を損なう考え方であり、また簡潔性にも欠ける。
それを合理的に説明できるなら是非おねかいしたい。 >>13
なぜ、「仏教(→縁起)」でなく「現象論」として立ち上げる?w
君の言うような分別せず、「一切は現象としてある(・・・縁起して生起し滅する)」として、
「現象」すらも、諸条件によって現れている一事象として、
他の様々な思想妄想と同列に括ったのが、お釈迦さんなわけだけど、
敢えて、それではなく、「唯現象論」として立ち上げた理由に興味があるw >>1
現象も知覚される対象でしょうがwwww
それらの対象は知覚された一瞬間にしかありませんが記憶がそれに連続性をもたせるんでしょう?
現象にすぎなくても、そこに好きとか嫌いとか、大事とか、大事じゃないとか、やい現象だとか、縁起がとか頭か紡いでるんやんか笑
本人がその中心の実在でしょうかなw
しかしまあ、その本人も短い人生とくる。
じゃあ実在なんて、どこにもないんじゃないの??
実在の意味よくわからんけどw
そーゆー規定を外れてるんが無分別でしょう
仏さんの慈悲てゆーのは、この沈黙の中にあって、まあ、この世界の科学的真実なんかとは、関係性ないかもよ
わからんけどさ笑 17
すまないな。
俺には説明する能力がない。
なぜそれを見たのか、その記憶があることの原因も知らない。
これもまた現象、おれは何もしていないのだ さて、スレ主さん が、「仏教的視点」を受容するか否かはわからんがw
とりあえず、その方向から見ていくと・・・・
>現象の背後に物自体など存在しない。
これはOKw
仏教でも、「全ては縁起(一般用語で言うと『関係性』とでもいうか?w)
によって現じている『現れ』・・・・即ち『現象』とする視点をとるねw
よって、「物自体」という概念は排斥される。 しかしね・・・・・
>現象のみが実在なのだ。
この言い回しはアウトに近い(仏教的にはね)
『実在』という語彙を使用すると、⇒「現象が、(他との関係性によらず)
それのみで存在しうる意味にとられる可能性が高い。即ち「自性」という属性を
付与されているかの如き印象が強い。・・・・なので、
⇒「現象のみがある」・・という言い方が(仏教的には)相応しいと思うがw
それ以降の記述は、
「人間が認識可能な領域外に、たとえ何があろうとも、それはこの世界に干渉不能
であり、それについて何らかの結論を下したり、議論することは無意味である。
よって『無記』が適切である。」 との趣旨であろうと思われるので、
(仏教的にも)OKと思われるがw
まあ、スレ主さんの書き込みが少ないので、仏教的視座とは異なる視点で
新たな世界観を構築したいのか?
それとも、仏教で伝統的にとられてきた視点をベースにした認識論を確認
したいのか?・・・・今一わからんがww サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ 私という現象が終わったとしても、再びどこかで私と同じような者が生じ、私と同じように苦しむ。
私が死ぬことは苦からの解放とはならない。
私も現象であり、その現象が消えたとしても再び同様の現象が起きることの解決とはなり得ない。
少し言い方を変えよう。
死は少なくとも今の私にとっては解決になるのではないか、と考えるならばそれは誤りである。
私はあくまで現象であって、その背後に何らかの実体があるわけではない。
再び同様の現象が起こる限り、根本的な問題は何一つ変わっていないのである。 快楽主義は誤りではない。
人は快を求める一方で苦を避けようとするものでしかあり得ない。
ここで問題なのは、快を求めることと苦を避けることがしばしば背反することである。
その点でエピクロスの倫理学説は正しい。
しかし、彼の原子論的唯物論は根拠が希薄であるし、そもそも原子論的唯物論によらなくても斯様な倫理学説は導ける。
倫理学説に限れば釈尊の教説にも似た点はある。 現代人はとかく自分探し、幸福探しをしたがる。
それが底無しの地獄であるとも知らずに。 ここで私が述べていることは正しくないかも知れない。
しかし、既製の宗教を盲目的に信じるよりは良いと信じている。
生きる指針を持ちたければ、他者の作った哲学から学び、その知識を基にして自分なりに考え、再構築するべきである。
神話という名の茶番劇や教祖の与太話に人生を託すなど正気の沙汰ではない。
しかし、残念なことに多くの人は自分なりの哲学を構築するほどの思慮を持ち合わせていない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています