戦前のプロ野球について [無断転載禁止]©2ch.net
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選手が足らなくて、親会社にいる中学野球部出身とかが駆り出されていたらしい。 「商売人の野球はダブルプレーができる」というふれこみで始まったが、
実際にゲッツーができたチームは巨人ぐらいだったという。
レベルは確実に低かっただろうね。 >>2
浅岡三郎 101歳
小田野柏 98歳
古川清蔵 93歳
この3人はほぼ間違いなく健在
ここ数年のうちに取材等を受けている人たち
古川はNHKのインタビューで最近出てきた 普通に二刀流が出来た時代、とうぜんレベルは低かった。
今の高校野球の全国大会レベルだろう。 普通に草野球の強豪レベルくらいじゃない?
中には凄いのが居て、もっとしょぼいのもいる。
エラーの数が多すぎる。 益田喜頓さんも創立時のプロに誘われていたみたいですね。 戦前のプロ野球では
延長28回の試合が一番有名だよな
少年時代のパンチョ伊東も父親と観戦していたという驚き >>11
戦前ではそんなの普通だし。
1938年秋に中島治康(巨人)が三冠王獲得の際の38試合出場で10本が異様に見
える(只、それも当時両翼76mと本塁打製造球場と呼ばれた後楽園の狭さに助けら
れたきらいも)位で。
他は1939年に大卒新人の鶴岡一人(南海)が10本打った(92試合)のが目立つ程度
で、戦時下で試合数も少なめとは言え、1ケタでホームラン王が常態だった。 首位打者が2割8分台の年もあるしな。
投手の防御率は1点台がざらにある。
ボールが粗悪で超投高打低だっただけ。
貧打だから延長28回も別に不思議じゃない。 >普通に二刀流が出来た時代、とうぜんレベルは低かった。
>今の高校野球の全国大会レベルだろう。
馬鹿を言っちゃあいかん!
戦前は大谷のような選手がゴロゴロいたんじゃよ! >>15
55分は戦後
2本しかファールがなかったらしい >>16
素材としては居たにしても、飛ばない球に加え選手不足やそれに伴う登板過多も
あって、今で言うスライダー系やカッター系とか(当時はクセ球と呼ばれていたけど)
の球を使ってテンポ良く球数少なく打ち取るピッチングが主流だったみたい。
それが投球数の少なさや試合時間の早さに繋がり、連盟側も「試合時間が短い
スピード野球」を職業野球の売りとしていた位(今とは逆だなw)。 通用するわけないだろw
80年代に川上さんが出した本で、
「現在ならホームラン配球王になってる」
と書いてあったわw
守備も下手だったらしいな。 そりゃコーチや監督として球界に携わってきた者にしてみれば、昔のほうがレベル高いなんて普通は言わないだろう
お前は指導者として何をやってたんだって話になるからな 沢村の球の急速をピッチンクマシーンから割り出すみたいなテレビの企画で
青田昇は170キロの球を「こんなもんじゃなかった」とかのたまってた 嘘っぱち。
まずそこでは165と言ってたし、
「まだまだ」と言ってたのはそこへいくまでの発言。
一番酷いのは沢村の全盛期を見たことがない青田と千葉がホラを吹きまくったこと。 パワプロやったことない人にはわからないけど
Gランク以下の選手ばかりの中にちらほらDランク(澤村とか)がいた感じだろうな。 >>24
青田は分からんけど千葉は見てるだろ
プロ入り前の話だろうが 戦前の日本プロ野球の試合で思い浮かべるのは延長28回の試合ぐらいだけど
ほかに有名な試合って何かあるかな? >>1
当時のスコアから戦前のプロ野球の特徴をまとめたサイト
http://honyakuka.jugem.jp/?eid=324
投高打低のカラクリや試合時間が短い理由など、
現代にあまり語り継がれていない事項も載ってて興味深い 投手の体力に関しては昔の方が上だな
今の投手じゃ軽い投球でも250球も投げられないだろう >>26
凡人になって以降の沢村を知っている千葉はハッキリ「スタルヒンの方が速かった」
と言っていた筈だが。
現役若手の頃、そう言ったのに対して藤本監督から「お前は肩を痛める前の沢村を
知らんからじゃ!」と一喝されたとか。 そういや晩年のスタルヒンの、試合の投球映像見たが投げ方酷くてびっくりした。
手投げとかいうレベルじゃなかったw >>30
いやいや昔の方が明らかに若い年齢から劣化していった投手が多いぞ
比較的息の長かった大投手でも、30過ぎてまだバリバリの方が珍しい
今じゃ珍しくないけど 八百長も横行してたからな。ろくでもない人間揃い。
試合後も真面目にバット振って練習してたのは川上ぐらい。 昔は野球といえば大学野球。文武両道こそがスターの条件。
職業野球なんて娯楽で飯食うゴロツキ共と世間からは卑下されてたからな。 >>7
ちなみにこのうち浅岡(大洋)、古川(名古屋)の両氏は
>>12の延長28回にフル出場して共に2打点を挙げている(スコア4-4) かつては東京六大学出身選手のステータスが高かったように感じる。
引退後、指導者になる率も高かったのではないか。
大卒が少なかった時代なので、大卒の価値が高かったのもあっただろう。 東京六大学出身意外は草野球みたいなレベルだったんじゃないの?
タイムマシンがあったら生で見てみたいもんだ。 昔のほうが体力上じゃなく打撃のレベルが低いからいくらいでも
抜いて投げれただけ
昔の投手は今見ると力入れてない立ち投げばっか 古川清蔵氏はお元気そう。
延長28回の事をインタビューで語ってるよ。 >>42
中日ドラゴンズの80周年の記念本みたいなのが今発売中。
その中に去年撮影の写真も載ってるよ。 >>43
まさかすぐにレスが返ってくるとは思わなかった
なるほど
ありがとうございます >>30
アホッ
こういう低脳馬鹿がいるからこの板は笑いものにされるんだ
戦前は物資不足で粗悪な超飛ばないボールだったから投手が無双できただけ。
だから投手の防御率が1点台なんかゴロゴロいて逆に打者の打率は低い。
試合数少ないのに首位打者が2割8分なんて年まである。
単に相対的に超投高打低だっただけとうこともわからんのかドアホ ボールの中で巻き付ける糸が不足してたんだよな。
懐古厨は池沼レベルのアホばかり。 沢村時代のミット見たこと有るけどちゃっちいショボいよ
140キロの球なんかとれないよ
あんなミットじゃ千葉青田が165キロとか言ってたけど骨折しちゃうよ >>45
当時は今より投手に有能な人材が集中しているだろうし、
分業制も無いので試合に出られる投手も限られる。
体力的には今も昔もそれほど変わらんだろうけど、
ネガティブな情報が少ないだろうし、心理面では
昔の方がタフだろうな。
>>47
とすると、
当時の大リーグも140キロ以下ということになるし、
野手は弾丸ライナーなんてとれなかっただろうな。 戦後だけど1949年のホームは
後楽園=巨人、大映、東急
甲子園=大阪、南海
中日=中日
西宮=阪急
衣笠=大陽 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています