坪井和田タラスコ新庄大豊ハートキー矢野田中川尻
野村克也監督2年目
ミレニアム・タイガース
〜20世紀最後の挑戦〜
4月に9連勝して1位になったかと思えば最下位に戻ったり
8月半ばに4位になるが9月以降は最下位だった。
この年と01年はやたらサヨナラ勝ちが多かった。 この年からホームでもビジターと同じ黒の帽子を被るようになったんだよね。 前年のオールスターで新庄剛志と和田豊が2000年のホームの
スタイルで出場したんだよね 新庄はようやく開花したと思った。
まだ現役の平尾が2番・セカンドでけっこう出てる。
今岡と桧山の成績が酷い。 前の年の三振数がリーグ2位だったんだっけか、桧山
1位とは2つ差、3位とは50近く離れてたと記憶している >>7
それって1997年のこと言っているのかな
その年ならリーグ最多が清原→桧山→新庄の順だよね タラスコと大豊とハンセルは6月終わりくらいまで不調だったな。
7月くらいから調子よくなり出した。タラスコは残ってもおかしくないくらいだったが
いたら翌年に浜中と赤星の出番はあっただろうか 2000年、他のチームの四番
巨人・松井
中日・ゴメス
横浜・ローズ
ヤクルト・ペタジーニ
広島・金本
阪神・新庄
ダイエー・小久保
西武・フェルナンデス
日本ハム・オバンドー
オリックス・イチロー
ロッテ・ボーリック
近鉄・ローズ 2000年のMEP賞
巨人・松井
中日・立浪
横浜・鈴木尚
ヤクルト・岩村
広島・金本
阪神・新庄
川尻チーム唯一の二桁勝利
期待の先発転向の福原、星野王子様は共に5勝 『ゼブラと呼ばれた男』今岡誠も引退か…
この年、出場減ったよね 平塚、ホームラン数は多くねぇんだが出る時はでけえの出すね!平塚の打ったホームラン全部覚えてるよ
一号4月6日ヤクルト戦でハッカミーから
2号4月11日対広島で小林から三号4月26日対巨人で入来から4号5月13日対横浜で川村から五号6月8日対広島で苫米地から6号7月18日対ヤクルトでレモンから7号対広島で小山田から
8号9月2日対巨人で平松から9号9月15日対ヤクルトで石井一から。
HR打つ時はあいつ必ずHRギリギリの微妙な飛距離じゃなく男気有るでけーのぶち込むんだよなあ〜
でけーのをよぉ。でっけぇなあ
ちなみにこの年は打率258ホームラン9盗塁14でパワプロはミートEパワーD走C肩D守Cだった ハワード・バトル以外はタラスコ、ハートキー、フランクリンと
輝きを見せた フランクリンは7月に途中から入ったがホームラン本打ってすぐケガした。
ハートキーはやたらセンター返しが多かった。けど長打不足だった。
ラミレズって投手もいたけど全然パッっとせんかった、バトルに限っては岩瀬からホームラン打っただけだったw
タラスコとハンセルは>>9の通り タラスコはかなり期待されてたのに
ヘタに実績があるとダメなんかな 打てよ♪ハートキー
はゴールデンウィークに一軍が甲子園で横浜からボコボコの3タテ食らっていた時に
二軍の鳴尾浜でホームランとか鮮烈デビューを飾って、救世主扱いで
次の広島市民での広島とのカードから一軍へ上がったって記憶 この年の最終戦に先発した
岡本という投手が全く、どんな投手か思い出せん >>22
中日の朝倉と同期で甲子園に出て、
エースの朝倉は1位指名だっけ
岡本も期待高かった記憶 的場って背番号1を提示されて遠慮したんだよね
そういう弱腰では阪神のドラ1はつとまらないのかも PL〜青学〜東芝〜坪井〜〜
のファンファーレはこの年からだっけ 今岡が平尾に負けた年
干されたとかよく言ってる奴がいるけど普通に競争に負けてるのが現実 >>27
セカンドを平尾や和田にとられ、ショートも秀太にとられ
ショートの出場試合は移籍してきた吉田剛より少なかったっけ タラスコのホームラン打った後のバットの放り投げ方が好きだった。不自然じゃない投げ方で
新井良のはわざとらしすぎる 今岡 40試合.212 2本
平尾 62試合.238 2本
吉田 65試合.242 2本
和田 88試合.253 1本
秀太 113試合.251 1本 吉田剛って65試合も出てたのかって思ったらWiki見たら阪神では36試合なのね。
2000年7月19日の対巨人戦(阪神甲子園球場)では、延長10回裏に桑田から左中間を破るサヨナラ安打を放ち、
16年前の夏の甲子園の決勝戦を再現してみせた。ヒーローインタビューで「三年のときに桑田から本塁打を打った
のはよく覚えています。打った球はカーブかな。桑田とは公式戦では甲子園以来。
一塁には清原が守っているし、打席に入って久しぶりという感じがした」と語り、
「阪神に入団してから早くここに立ちたかった」とコメントをした。野村克也監督は「吉田はベテランの味を見せてくれた」と褒めた。
2007年11月14日、大阪府警松原署に道路交通法違反(無免許運転)で現行犯逮捕された。
引退後にタイーホされてたのは知らなかったよ。
訂正
00年の吉田剛は近鉄7試合、阪神65試合みたい。 開幕投手はFA移籍の星野だったが2回5失点でノックアウト。しかしその後に
6点とって一時逆転するも延長でサヨナラ負け。結局開幕カードは横浜に3連敗だった。 ノムのやる事は何でも正しいと思ってるファンだったけど
ミラーの抑え起用は大丈夫か?と思った。前の年もかなり打たれていたし。 この年確かノムは福原に「10勝したらベンツをあげる」と約束していたはず >>40
ルーキーイヤーの前年にリリーフで10勝挙げて
満を持しての先発転向だったもんね
チーム先発勝ち頭が川尻の10勝で、次が福原、星野の5勝だったっけ 開幕3戦目にカツノリを使ったことで
チームの士気がさがった 中継ぎで出てきた福原の登場曲がモーニング娘のハッピーサマーウェディングだったな
福原は先発やったり中継ぎやったりしてたなこの年 次の01年も福原は先発・中継ぎ・抑え、何でもやった。 湯舟は5月までに2つ完封して完全復活かと思いきや
シーズン終わってみれば防御率5点台でトレードに出されたな >>44
同級生の二岡も使ってたね
この頃の藤川がまさかあそこまで成長するとは思えなかった
井川には片鱗を感じれたけど 甲子園で登場曲は2000年からだな
新庄は福山雅治の『HEAVEN』と5月半ばくらいから『桜坂』だったな。
大豊はハイホーハイホー
当時のスレ
http://mimizun.com/log/2ch/osaka/963657837/ >>47
藤川が中継ぎで使われてたとき
解説のヨッシャーが藤川のふがいない投球にあきれて
福原、福原と連呼していたのを覚えている 湯舟と竹内も遠山と同じくシュートをマスターしたらしいけど
それほど活躍できず、トレードで阪神を去った メキシコのマシンガン・ラミレズは巨人戦で1つ勝っただけだった >>51
シュートじゃなくてシンカー、左ならスクリューって言い方かな 野村は選手が来たりしないように遠征時の部屋番号は秘密にしていたらしい >>49
阪神って登場曲流し始めたの他球団と比べて早いほうだったかな?
カツノリのハウンドドック・アンビシャスが印象的
それとなんといっても、遠山の、遠山→遠山の金さん→サラリーマン金太郎つながりでALFEEのその主題歌 タラスコwiki
2002年にニューヨーク・メッツでメジャーに復帰してそこそこの成績を残すものの、マリファナ所持で2度逮捕された。
2000年、観客数いずれも平日中日戦。実数ではないが
6/13 20000
6/14 33000
6/15 28000
8/1 27000
8/2 33000
8/3 27000
2000年の入場者数2,413,000人 入場者数
98 1,980,000人
99 2,601,000
00 2,413,000
01 2,077,000
02 2,678,000
03 3,300,000
04 3,523,000 坪井和田タラスコ新庄大豊矢野今岡田中 開幕オーダー
星野伸湯舟ハンセル藪福原ラミレズ 春先のローテ
上坂坪井ハートキー新庄大豊タラスコ矢野田中 終盤オーダー
川尻ハンセル藪星野伸井川 終盤のローテ この年は巨人戦で、キレたメイが和田にボールを投げ付けたり
ハンセルの不正投球疑惑があったな >>66
その試合でのメイは12奪三振で完封・・・ メイには罰金や出場停止が課せられたのに退場にはならなかったんだよね >>66
不正投球疑惑はハンセルじゃなくてロッテのウォーレン
ボールに傷つけてたやつだろ、挙句に相手ベンチに中指立てたりしてた
ハンセルは真面目な外人だった。その翌年に清原にビーンボール投げても冷静だった程 そんな大きな問題にはなっていないけど、ハンセルも
東京ドームの巨人戦だったかで、唾液かなんかで何回か注意受けていた
それはこの年だっけ? ハンセルではそれ記憶にないな
もう一人ラミレズって投手もいたが阪神では覚えてないな >>71
ハンセルが唾液かなんかで不正をやっていると巨人ベンチが抗議して
それまで好投していたハンセルをいらいらさせて、
巨人の主砲の誰かが勝利を呼ぶ決定的な本塁打かなんかを打ったって記憶 8月17日の巨人戦。長嶋が5回に変化球の切れが異常だ、ズボンが不自然に汚れていると抗議した。
で、3−0の8回に無死1,2塁から清水にスリーランを打たれ、次の江藤にもソロを打たれて逆転負け。 ハンセルは川藤も評価するいい投手だった
阪神以外に行けばもっと勝てたと思う >>73
ありがとう
縦じまのビジターユニの下にオマリーみたいに
白のTシャツみたいなの着ていた姿を思い出す
グレッグ・ハンセル ブレークしたのは翌年からだから仕方ないけど井川の印象が全くない >>73
その清水のホームランハンセルの低めのチェンジアップだったな、8回裏に突然崩れて
>>76
井川のその前日の試合で中継ぎで出て二岡にスリーラン打たれてる
9月からは先発で登板してたな、
薮はこの年、4月で4勝、5、6月に1勝ずつ、7月からは勝ちがなかった。(援護がなかったり、打たれたり)
星野伸は2アウトなってからやたら自滅してた
スタンドでビッグフラッグ出したのって阪神が最初だよね?
NPB20世紀最後のサヨナラホームランは、
新庄が紀藤から甲子園ライトスタンドへ運んだ
阪神タイガースへの”サヨナラ”ホームラン。
(この年の日本シリーズでサヨナラ弾は無し) 今日、引退試合で9回胴上げされた北川博敏
北川『なんで9なのかわからなかったんですけど…』
阪神時代のあなたの背番号すよ〜 平尾、北川に続き山村も引退か…
って山村はこの年から近鉄だった 遠山から松井が甲子園センターへホームラン
神話崩壊を観た・・ 北川は阪神では本塁打なし、フェンス前で失速する飛球が多かったな この年や前年の春先の好調時によく取材された西宮市今津の居酒屋虎の店長が
若い人に代わっていると昨日の記事で読んだ
選挙にも出たジャージの大平洋一郎さんは引退されたの? でも居酒屋虎経営者として金本の引退にコメントした記事もあったから雇われ店長制にしたんだろね、もう歳だし 今、MBSラジオでゲスト解説の今岡が
『暗に』ノムラ批判しまくってる 松田の強肩に萌えた
新庄と右中間を組んで欲しかった 松田 新庄 曽我部
肩だけなら羽生田 秋山 平野に唯一匹敵する布陣 新庄を残留させるため背番号1を譲るつもりだった中込 そのときすでに阪神ファンだったけど、野暮ったいイメージの
ぬぐいきれない球団が真っ先にテーマ曲導入してびっくりした。 >>107
誰の発案だろうね
このシーズン中に曲を替えたのは新庄だけだったかな?
福原、大豊は一年間、モー娘とハイホーだっけ? 大豊も途中からハイホーだったような
気のせいかもしれんが >>109
そういや誰かに「大豊〜」って聴こえると薦められたんだっけ
この年で退団だからかえたのならこの年だね >>110
広島遠征かなんかで野村監督へぶちぎれたのはどの年だっけ >>81
打たれた紀藤もこの年限りで広島を"サヨナラ"だった件(翌年中日に移籍) ラミレズはオープン戦で良かったから期待したけどサッパリだたな 「なんでカツノリが出られて俺が出られないんだ」こと塩谷が逮捕されましたね >>115
キレてる塩谷を止めに入ってやられたコーチって誰だっけ? 新庄はエース級からも結構ホームラン打ってる
苦手だったのは斉藤雅や伊藤智くらい 俊介が背番号40から68へ再変更を希望した理由は
塩谷が40を着けていたから……
だったりして。 >>120
新庄本人は一番苦手なのは石井一久だと言っていたが
大きいのは結構打ってる
メジャーでは1年目にカート・シリングから3割打った >>122
そうなのか、石井一は結構打ってる印象あったと思ったが。確かにホームランは計4本打ってる
伊藤智には相性悪かった。
シリングからはSFジャイアンツ時代にホームラン打ってるな。低めの落ちるボールを捉えて。
ちなみにその試合はボンズも打ってたな >>125
みんな苦手にしてる山本昌から新庄が打てるのは
亀山が『僕や和田さんが山本昌からどう打つか研究しまくっている中、
新庄はなにも考えてないから打てるのではないか?考えないほうが良いのかも』
って言ってたww今年の解説で。 新庄の凄いところはエース級からでもちゃんとホームラン打てるどころだな 新庄って走塁も打撃もゴチャゴチャ言われるとスランプになるから放っといて
みたいな事を言って江夏と野村をあきれさせていたな >>128
それってこのエピソードのこと?
↓
阪神時代の最後に仕えた野村克也監督とは、1998年オフの秋季キャンプにて新監督となった同氏から面接を受けた際、
40分ほど野村の話が続いたところで「あまりいっぺんに言われると、オレ頭が悪いので覚えきれません」と言って遮り面接を切り上げた。
しかし本人に悪意はなく、野村も「可愛い奴や」と笑いながら振り返っている。
これには新庄の思惑があり、話を一度に聞いてしまうよりも途中で切り上げたほうが先に監督と接触出来るチャンスが
あるのではないかと思ったという[出 7]。 シーズン入ってからの週刊ベースボールでのインタビューでも同じ事を言ってた 新庄が師匠と慕っていたのは柏原コーチ。
柏原は藤田にクビにされて、藤田の時に新庄も野球を辞めると言い出した。 >>132
その柏原が慕う野村監督が99年に就任して
柏原が呼び戻され翌2000年に打撃開花
ってモッてるね新庄 新庄が槙原の敬遠球からサヨナラヒットを打ったときも柏原が打てのサインを出していたらしいな >>134
予め、柏原と尻無浜打撃投手と敬遠打ち練習していた新庄が
野村監督と敬遠打ちOKの場合はGOサインを柏原を通して出してもらうよう打ち合わせていた。
甲子園にある甲子園歴史資料館で流されている新庄敬遠打ちのドキュメント映像では
(報道通り、1球目の見逃しの後に)一塁側ベンチのいちばんバックネット側で
帽子に触ってGOサインを出す柏原が映されている。 >>131
新庄は週ベの99年7月号でミーティングはほとんど聞いていない
自分は何にも変わっていない。打撃コーチが代わったのが大きいと答えている ジェイソン・ハートキーがサヨナラヒットを打ちチームメイトにもみくちゃにされて
鼻血を出し、胃炎か何かで翌日の試合を欠場した事があった やたらサヨナラ勝ちが多かった野村阪神時代
1999年、計8回
5/2対広 延長10回秀太サヨナラ打
5/14対中 大豊サヨナラHR
6/12対巨 延長12回新庄敬遠球サヨナラ打
7/8対ヤ ジョンソン代打逆転サヨナラ3ラン
8/13対ヤ 延長15回矢野サヨナラ打
8/29対ヤ 星野サヨナラ打
9/9対中 延長11回大豊サヨナラHR
10/6対中 延長11回
2000年、計10回
4/27対広 延長10回
5/23対中 延長14回ハートキーサヨナラ打
7/19対巨 延長10回
7/28対広 延長10回
7/30対広 延長11回松田サヨナラ打
8/3対中 葛西1球勝利投手
8/24対ヤ 延長14回山田サヨナラ打
8/25対広
9/20対ヤ ハートキー犠飛
9/30対広 新庄サヨナラHR
2001年、計12回
4/21対中
5/4対中 延長11回
5/13対広 浜中サヨナラ逆転3ラン
6/20対巨 延長12回
6/21対巨
6/29対ヤ 延長10回上坂サヨナラ2ラン
7/1対ヤ カツノリサヨナラ打
7/14対中 延長12回浜中サヨナラ打
7/17対巨
7/19対巨 延長11回カツノリサヨナラ打
9/13対ヤ 延長11回秀太犠飛
10/2対ヤ 延長12回 サヨナラ勝ちはホームでのゲームでしか出来ないからね。当たり前だけど >>138 他の年も調べてみた
02年、9回、星野
03年、7回
04年、7回、岡田
05年、6回
06年、8回
07年、7回
08年、11回
09年、7回、真弓
10年、4回
11年、4回 >>140
三時間半ルールの去年今年はサヨナラ減るよね 2001年は57勝で12回もサヨナラ勝利か、
この年甲子園で試合は60試合、そのうち勝利はちょうど30回。12回のサヨナラ勝利も全て甲子園
3回に1回は甲子園でサヨナラ勝利かw 大豊
長髪のサムソン・リーからバックスクリーンの育毛剤の広告に
サヨナラ弾をぶち当て、ホームインする時に矢野からヘルメットを剥ぎ取られる >>145
まだチームに馴染んでなくて中日時代の同僚の大豊のメットとるくらいしかできなかったんだよ >>147
でも移籍2年目の99年にはサヨナラヒーローに一番に抱きつくのを始めてた
大豊のヘルメット剥ぎも99年だよね >>149
>>138の9/9対中 延長11回大豊サヨナラHRの試合だな
広い左中間辺りに入ってたな。何気に9月29日までは5位だったが最後に踏ん張り切れず最下位
阿部は2001年からでそれまでは二人の村田だったな http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/sports/matsui_hideki/?1356626362
松井秀喜がついに引退
上原高橋由松井清原江藤マルティネスに苦しめられた1999-2002年
内部では色々あったそうだが巨人のピークはこの辺りだった 2002年の松井
前半 76試合 18本
後半 64試合 32本
まさに鬼神、甲子園でも容赦なく放り込むパワー凄かった >>80
95.8勝11敗 3.10
96.13勝9敗 3.26
97.5勝14敗 3.92
98.10勝5敗 2.84
99.3勝5敗 4.52
00.10勝7敗 3.17
01.1勝6敗 6.38
02.5勝3敗 3.02
03.1勝1敗 9.00(2試合)
川尻はこの年は活躍しているな。その川尻もノムに「ヤクルトでは川尻を怖いピッチャー
だとは思っていなかった。態度が大きすぎる」なんてきつい事を言われていた。 >>136
その新庄はメジャーから帰ってきて日本ハムの時代に
「僕は変わりました」とスコアラーの三宅に言ったらしい 前の年に先発で2勝4敗、防御率5.98のミラーがストッパーに転向したけど
1敗6S、7.41という成績で2軍落ちして、その後は葛西が抑えをやっていたな >>138 >>140
もともと中継ぎはいいからサヨナラは他球団に比べると多い、ここ二三年は見る影もないが >>161
そう99年の8月
01年の開幕三連戦では投手福原が斉藤雅樹からホームラン打ったりな、フェンスの上に当たったと抗議されたが
ホームランになって沖原と二者連続HRになったり そのホームランの沖原のガッツポーズがカッコよかった
通算8本だから久慈の6本より多く打ってる >>164
「ここで一発ホームラン〜」の応援歌の二人共が通算一桁ホームランなのか・・・ >>164
沖原って通算10本も打ってないんだな
調べてみたら実働年数も8年だし1年1本ペースか
西口完全阻止の印象が強すぎて阪神時代が霞んでしまう
星野時代はナイスサブだった 確かにカープには強かった。ただ2001年の山本カープには7勝19敗1分
と大きく負け越している。 99年(16勝11敗)緒方36本、金本34本、江藤27本、前田12本、佐々岡15勝
00年(15勝12敗1分)金本30本、ロペス20本、新井16本、ミンチー12勝、佐々岡10勝、黒田9勝
01年(7勝20敗1分)ロペス32本ディアス32本、金本25本、新井18本、黒田12勝 ミンチー菊地原レイノソ―ハンセル福原ラミレズ なら カープは防御率が99年・4.78、00年・4.48で6位だからな 先発 ミンチー3.49、佐々岡3.97、黒田4.31、澤崎5.55
中継 高橋3.93、玉木2.61、小林4.68、小山田6.89、山崎4.50、苫米地5.09、広池8.25 (20試合以上)
抑え 河野4.52 ミンチー、佐々岡、黒田には川尻(3.17)藪(4.17)ハンセル(4.34)星野(4.04)で対抗できるで! 阪神は99年、佐々岡には1勝2敗、黒田に0勝3敗、ミンチーに2勝0敗 佐々岡(3.27)黒田(6.78)ミンチー(5.77)
00年は佐々岡に0勝3敗、黒田に0勝0敗、ミンチーに2勝0敗 99年カープの抑え 小林幹:3勝7敗10セーブ防御率5.86、澤崎:1勝2敗14セーブ防御率6.38 この頃の他の球団のクリーンアップが豪華すぎる
高橋由、松井、清原
立浪、ゴメス、山崎
鈴木尚、ローズ、駒田
稲葉、ペタジーニ、古田
前田、江藤、金本
当時の阪神では一歩劣る、でも格上に挑むってのは熱い この年の阪神のクリーンナップ
タラスコ、新庄、大豊 阪神の外様乱捕りを擁護してる連中は、昔からの野球ファンではないだろ
ありし日のプロ野球を知らない若い世代か、飛びつきのニワカかどちらか
外様だらけの選手で主力が形成されてしまえば、今まで何の為にドラフトや
育成枠で育てる為に選手を大量に各球団抱え込んでるのかが理解出来てない
生え抜き選手というのはチームの基礎を作り上げる為に必要な戦力なんだよ
クリーンアップに一人、正捕手 遊撃手など、攻守の要になるようなところに
一人はレギュラーで常にいないとおかしいんだよ
長距離ヒッターでもこの阪神というチームは、2005年に打点王に輝いた今岡以降
クリーンアップで軸になった選手が出ていない、これは異常だよ
鳥谷は中距離打者であり中軸タイプではないからね
それと外様で形成されるようなチームを認めてしまったら、そのうち球界
全体に波及してしまって、FAとトレード要員だけが活躍するような世界に
なりかねないよ
これに対して、阪神を崩壊させたい下手くそ工作員の主張
「生え抜き主義なんて今時時代遅れ」
「阪神は全国的にファンがいるから外様だらけでも大丈夫」
「昔は生え抜きがいても勝てなかった」 新庄が4番に座った年
それまでは新庄オマリー、新庄桧山、新庄ジョンソンなどなど 2000年チーム成績
得点 防御率
横浜 576 3.92
中日 544 4.19
ヤク 581 3.62
読売 689 3.34
広島 591 4.48
阪神 473(6位) 3.90(3位) ホームランだけは中日と横浜より多かったが(パ合わせれば西武とロッテも)だが
得点と安打と打点は12球団最下位だった(´・ω・`) 星野伸は阪神で8勝しかしていないが
2000年は5勝でそのうち中日から3勝、ヤクルトから1勝、横浜から1勝
01年の1勝も02年の2勝も中日からで、8勝中6勝が中日という竜キラーだった 2000/4/11 (火) 甲子園
7坪井
5和田
9タラスコ
3藪 → 広澤
2矢野
8新庄
4平尾
6的場
1福原
これが有名な偵察メンバー 4番藪 しかもその年の甲子園での開幕の日で
一方相手のオーダーは
4仁志 7清水 5江藤 8松井 9高橋由 3マルティネス 6二岡 2村田善 1工藤 甲子園開幕戦の観衆発表 過去15年分。
2000年 4/11火 46000 巨 2005年 4/08金 47223 横 2010年 4/06火 46306 巨
2001年 4/08日 33000 横 2006年*4/12水 46090 中 2011年*4/12火 45643 広
2002年 4/09火 37000 広 2007年 4/10火 48455 中 2012年 4/06金 46374 巨
2003年 4/08火 40000 中 2008年 4/08火 43496 中 2013年 4/09火 44019 巨
2004年 4/09金 53000 中 2009年 4/07火 46307 広 2014年 4/08火 37183 De
(ここまでは、概数発表) *=前日までに中止が有った年
この当時、1987年(昭和62年)〜2001年(平成13年)まで、甲子園の座席数は、51898席だったと言われていました。号して、観衆5万5千人。
2002年(平成14年)〜2007年(平成19年)の間は、50454席で、2004年まで、号して、観衆5万3千人。 南海 阪神 阪急 近鉄
1952 65万 25万 15万 9万
1953 76万 62万 61万 24万
1954 73万 68万 39万 21万
1955 74万 59万 35万 20万
1956 71万 89万 38万 16万
1957 60万 93万 35万 15万
1958 74万 83万 38万 35万
1959 85万 52万 19万 50万
1960 70万 63万 26万 32万
1961 89万 56万 19万 32万
1962 62万 101万 28万 41万
1963 72万 70万 24万 62万
1964 64万 106万 62万 32万
1965 55万 95万 25万 21万
1966 57万 69万 26万 22万
1967 53万 79万 57万 29万
1968 63万 82万 47万 47万
1969 47万 103万 63万 53万
1970 45万 105万 34万 39万
1971 45万 71万 48万 25万
1972 47万 80万 38万 30万
1973 65万 106万 44万 39万
南海 阪神 阪急 近鉄
1974 56万 108万 41万 31万
1975 42万 139万 44万 44万
1976 55万 136万 44万 40万
1977 64万 139万 59万 48万
1978 44万 139万 79万 54万
1979 46万 165万 80万 79万
1980 60万 169万 64万 73万
1981 54万 164万 61万 57万
1982 43万 192万 61万 57万
1983 65万 179万 70万 57万
1984 61万 193万 94万 64万
1985 55万 260万 64万 56万
1986 60万 236万 114万 102万
1987 88万 212万 123万 100万
1988 91万 206万 110万 108万
ダイエー 阪神 オリックス 近鉄
1989 125万 184万 104万 130万
1990 134万 189万 105万 123万
1991 157万 182万 123万 141万
1992 167万 285万 124万 128万
1993 246万 276万 118万 106万
1994 252万 270万 140万 113万
1995 249万 207万 165万 96万
1996 220万 186万 179万 91万
1997 230万 226万 171万 186万
1998 216万 198万 134万 125万 .________
|\ \
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| l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
\ i ・∀・ |
\ i 惨敗 |
\ (.ノ i 4-33の壁 l
\ i |
\l__(⌒)(⌒)___l しかし、引退後に名古屋で中華料理店を開くも、その数年後に妻が突然の心筋梗塞に倒れ、45歳の若さで亡くなった。
「メチャクチャショックでした」と振り返った大豊氏、二人の娘のために仕事から家事まで全てをこなし男手一つで育て上げたが、妻の死から4年後、今度は自分に急性骨髄性白血病が発症した。
5年後の生存率が2〜3割と言われる急性骨髄性白血病について「病名を聞いた瞬間、ああ大豊泰昭終わったなと思いました。自分は(余命)3ヶ月か半年しかないと思ってました」という大豊氏だったが、
台湾に住む妹の骨髄移植に成功し、退院することができた。それでも、今後は白血病治療の後遺症に悩まされた上、入院している間に中華料理店も傾き、治療費も含め4500万円という多額の借金を抱えるまでになってしまった。
番組のカメラに「どんどんどんどん大豊泰昭のイメージが、顔から手から足から全部変わってしまって」という大豊氏だが、2011年岐阜県に飲食店を再び出すと、現在はその翌年に再婚した百合子さんと店を切り盛りして生活する。
もともとは知人で大豊氏の闘病生活を支えた百合子さんは、「調子が悪い時期って治療の過程であるんですけど、そういう時が人間って本当の姿じゃないかなって思うんですけど、
とても素直で優しい彼の姿を見た。そういう姿を見てしまうと、この人を守りたいと思いました」と、死と隣り合わせの大豊氏と結婚した理由を明かす。
すると、「穏やかに生きて行きましょう」と声をかける百合子さんに、大豊氏は「百合子がいなかったら大豊もいない。思ったようになかなかなれない自分がいて本当に悔しいけど、心の支えになって下さい」と頭を下げた ラッキーゾーン撤去後本塁打20本以上の打者(外人除く)
金本(04,05,06,07,08,09)
新庄(93,97,00)
桧山(96,97)
大豊(98,00)
今岡(04,05)
八木(92)
濱中(06)
鳥谷(09)
城島(10) 1991年オフのラッキーゾーン撤去後本塁打20本以上の打者(助っ人除く)
金本(04,05,06,07,08,09)
新庄(93,97,00)
桧山(96,97)
大豊(98,00)
今岡(04,05)
八木(92)
濱中(06)
鳥谷(09)
城島(10)
助っ人20本以上
アリアス(02,03,04)
パチョレック(92)
オマリー(93)
グレン(95)
クールボー(95)
ジョンソン(99)
ブラゼル(10)
ゴメス(14)
30本以上は
金本(04,05,07)
アリアス(02,03)
ブラゼル(10) 甲子園球場の広さ(単位:m)
年月日 左 左中 中 右中 右 後 備考
1924.8.1 109.7 128.0 118.9 128.0 109.7 27.4
1929.7.20 94.5 136.5 128.0 136.5 94.5 18.3 アルプススタンド完成によりバックネット方向に30フィート移動
1936.11.11 91.4 118.9 118.9 118.9 91.4 18.3 外野スタンド改築
1947.5.26 85.3 109.1 118.9 109.1 85.3 18.3 ラッキーゾーン柵設置
1947.9 85.3 112.3 118.9 112.3 85.3 18.3 可動式ラッキーゾーン
1950.3 86.9 112.3 118.9 112.3 86.9 18.3 固定式ラッキーゾーン
1976.3 91.0 111.2 118.1 111.4 91.0 18.3
1988.3 91.0 113.2 118.1 113.4 91.0 18.4
1992.3 94.7 117.9 118.1 117.8 94.7 18.4 ラッキーゾーン撤去 甲子園球場ホームラン数
1989年フィルダー38本中15本
1991年オマリー21本中7本 1992年15本中4本 1993年23本中6本 1994年15本中5本
1992年パチョレック22本中10本 1993年7本中4本
1995年グレン23本中9本
1995年クールボー22本中8本
1998年ハンセン11本中4本
1999年ジョンソン20本中11本
2000年タラスコ19本中10本
2001年クルーズ14本中4本 松井秀喜の甲子園ホームラン数23本
93年0本
94年1本
95年2本
96年2本
97年2本
98年1本
99年6本
00年2本
01年2本
02年5本 >>232続き
1968年カークランド37本中10本 1969年26本中10本 1970年15本中4本 1971年14本中3本 1972年20本中8本 1973年14本中6本
1976年ブリーデン40本中19本 1977年37本中15本 1978年2本中1本
1976年ラインバック22本中12本 1977年14本中9本 1978年16本中6本 1979年27本中9本 1980年15本中8本
1979年スタントン23本中8本
1979年竹之内雅史25本中7本 1980年12本中8本
1981年オルト18本中14本
1987年和田豊1本中0本 1988年1本中0本 1989年1本中0本 1990年8本中5本 1994年2本中1本 1995年1本中0本
1996年5本中1本 1997年2本中1本 1998年4本中0本 1999年3本中1本 2000年1本中0本
1990年パリッシュ28本中12本
1992年亀山努4本中1本 1993年1本中1本 1994年9本中2本
1993年久慈照嘉1本中0本 1995年1本中0本 1997年3本中0本
1993年関川浩一1本中0本 1994年2本中1本 1995年2本中1本 1996年2本中1本 1997年5本中1本
1993年松永浩美8本中2本
1994年石嶺和彦17本中4本 1995年9本中3本 1996年2本中0本
1996年平塚克洋11本中4本 1997年17本中7本 1998年4本中1本
1998年坪井智哉2本中1本 1999年5本中1本 2000年4本中1本 2001年2本中0本 2002年1本中0本
1998年大豊泰昭21本中10本 1999年18本中7本 2000年23本中5本
2001年赤星憲広1本中0本 2003年1本中0本 2005年1本中1本
2002年片岡篤史11本中5本 2003年12本中6本 2004年3本中0本 2005年1本中0本 2006年1本中1本
2002年アリアス32本中15本 2003年38本中13本 2004年25本中16本
2009年ブラゼル16本中4本 2010年47本中21本 2011年16本中6本 2012年12本中3本
2010年城島健司28本中9本 2011年5本中2本 続き
87年八木裕2本中1本 88年0本 89年16本中7本 90年28本中14本 91年22本中11本 92年21本中6本
93年9本中1本 94年6本中4本 95年5本中4本 96年0本 97年4本中1本 98年3本中1本
99年1本中0本 00年5本中3本 01年1本中1本 02年3本中1本 03と04年は0本 計55本
1992年新庄剛志11本中4本 1993年23本中7本 1994年17本中8本 1995年7本中3本 1996年19本中12本
1997年20本中6本 1998年6本中3本 1999年14本中6本 2000年28本中12本 計61本
1993年桧山進次郎2本1本 1994年2本中2本 1995年8本中1本 1996年22本中6本 1997年23本中7本 1998年15本中2本
1999年8本中5本 2000年4本中2本 2001年12本中8本 2002年13本中7本 2003年16本中5本 2004年18本中8本
2005年8本中5本 2006年2本中0本 2007年3本中1本 2009年1本中0本 2010年1本中0本 2011年1本中1本 計61本
1997年今岡誠2本中1本 1998年7本中1本 1999年6本中3本 2000年1本中1本 2001年4本中1本 2002年15本中7本
2003年12本中5本 2004年28本中10本 2005年29本中16本 2006年7本中3本 2007年4本中1本 2008年7本中3本 計53本
1998年矢野輝弘3本中0本 1999年3本中0本 2000年5本中1本 2001年8本中4本 2002年6本中2本 2003年14本中8本
2004年11本中4本 2005年19本中8本 2006年17本中5本 2007年6本中0本 2008年4本中1本 2009年2本中0本 計33本
2001年濱中治13本中5本 2002年18本中11本 2003年11本中3本 2004年1本中1本 2005年1本中0本
2006年20本中7本 2007年6本中2本 計29本
2003年金本知憲19本中8本 2004年34本中15本 2005年40本中15本 2006年26本中9本 2007年31本中10本
2008年27本中6本 2009年21本中13本 2010年16本中4本 2011年12本中2本 2012年6本中2本 計87本
2004年鳥谷敬3本中1本 2005年9本中4本 2006年15本中5本 2007年10本中5本 2008年13本中1本 2009年20本中7本
2010年19本中5本 2011年5本中1本 2012年8本中3本 2013年10本中5本 2014年8本中3本 計40本
2008年新井貴浩8本中3本 2009年15本中6本 2010年19本中8本 2011年17本中5本
2012年9本中2本 2013年15本中4本 2014年3本中0本 計28本 続き
藤田平(66年〜84年) 計64本
66年1本中0本 67年16本中8本 68年11本中2本 69年19本中4本 70年9本中5本 71年28本中12本
72年18本中8本 73年17本中5本 74年16本中2本 75年9本中3本 76年12本中1本 77年11本中5本
78年13本中3本 79年0本 80年6本中1本 81年11本中3本 82年7本中1本 83年2本中0本 84年1本中1本
川藤幸三(68年〜86年) 計7本
68年1本中1本 74年1本中0本 77年2本中1本 78年2本中0本 81年1本中1本
82年1本中0本 83年1本中1本 84年2本中1本 86年5本中2本
田淵幸一(69年〜78年) 計138本
69年22本中12本 70年21本中11本 71年18本中5本 72年34本中10本 73年37本中18本
74年45本中20本 75年43本中11本 76年39本中21本 77年23本中14本 78年38本中16本
掛布雅之(74年〜88年) 計144本
74年3本中0本 75年11本中5本 76年27本中10本 77年23本7本 78年32本中14本 79年48本中19本
80年11本中4本 81年23本中11本 82年35本中17本 83年33本中15本 84年37本中15本
85年40本中17本 86年9本中3本 87年12本中5本 88年5本中2本
真弓明信(79年〜95年) 計 125本
79年13本中6本 80年29本中10本 81年13本中6本 82年15本中6本 83年23本中8本 84年27本中12本
85年34本中14本 86年28本中19本 87年23本中10本 88年17本中8本 89年16本中7本
90年17本中6本 91年17本中9本 92年1本中1本 93年2本中2本 94年2本中1本 95年0本
岡田彰布(80年〜93年) 計 128本
80年18本中5本 81年20本中13本 82年14本中5本 83年18本中7本 84年15本中4本
85年35本中23本 86年26本中12本 87年14本中10本 88年23本中16本 89年24本中15本
90年20本中10本 91年15本中8本 92年2本中0本 93年1本中0本
バース(83年〜88年) 計 91本
83年35本中13本 84年27本中12本 85年54本中22本
86年47本中25本 87年37本中18本 88年2本中1本 阪神歴代猛打賞獲得数(2014年まで)
1藤田 平(19年)・ 150
2真弓明信(17年) 139
3和田 豊(17年)・ 134
4鳥谷 敬(11年)・ 116
5吉田義男(17年) 114
6今岡 誠(13年)・ 111
7掛布雅之(15年) 106 年間個人 甲子園球場最多ホームラン数
@バース 86年47本中25本
A岡田彰布 85年35本中23本
B田淵幸一 76年39本中21本 ブラゼル2010年47本中21本
C掛布雅之 79年48本中19本 真弓明信86年28本中19本 ブリーデン76年40本中19本
Dアリアス 04年25本中16本 今岡 誠29本中16本
Eフィルダー 89年38本中15本 金本知憲(04年34本中15本・05年40本中15本)
Fオルト 81年18本中14本 八木裕90年28本中14本
G藤田平 71年28本中12本 ラインバック76年22本中12本 パリッシュ90年28本中12本 新庄剛志(96年19本中12本・00年28本中12本)
Hジョンソン 99年20本中11本 濱中治02年18本中11本
Iカークランド(68年37本中10本・69年26本中10本) パチョレック92年22本中10本 大豊泰昭98年21本中10本 タラスコ00年19本中10本
Jグレン 95年23本中9本 城島健司10年28本中9本
Kスタントン 79年23本中8本 竹之内雅史80年12本中8本 クールボー95年22本中8本 桧山進次郎(01年12本中8本・04年18本中8本) 矢野輝弘(03年14本中8本・05年19本中8本) 新井貴浩10年19本中8本
Lオマリー 91年21本中7本 平塚克洋97年17本中7本 年間個人 甲子園球場最多ホームラン数 (日本人選手)
@岡田彰布 85年35本中23本
A田淵幸一 76年39本中21本
B掛布雅之 79年48本中19本 真弓明信86年28本中19本
C今岡誠 05年29本中16本
D金本知憲(04年34本中15本・05年40本中15本)
E八木裕 90年28本中14本
F藤田平 71年28本中12本 新庄剛志(96年19本中12本・00年28本中12本)
G濱中治 02年18本中11本
H大豊泰昭 98年21本中10本
I城島健司 10年28本中9本
J竹之内雅史 80年12本中8本 桧山進次郎(01年12本中8本・04年18本中8本) 矢野輝弘(03年14本中8本・05年19本中8本) 新井貴浩10年19本中8本
K平塚克洋 97年17本中7本 鳥谷敬09年20本中7本
L片岡篤史 03年12本中6本
M和田豊 90年8本中5本
N石嶺和彦 94年17本中4本
年間個人 甲子園球場最多ホームラン数 (外国人選手)
@バース 86年47本中25本
Aブラゼル 10年47本中21本
Bブリーデン 76年40本中19本
Cアリアス 04年25本中16本
Dフィルダー 89年38本中15本
Eオルト 81年18本中14本
Fラインバック76年22本中12本 パリッシュ90年28本中12本
Gジョンソン 99年20本中11本
Hカークランド(68年37本中10本・69年26本中10本) パチョレック92年22本中10本 タラスコ00年19本中10本
Iグレン 95年23本中9本
Jスタントン 79年23本中8本 クールボー95年22本中8本
Kオマリー 91年21本中7本 >>238に訂正
年間個人 甲子園球場最多ホームラン数
@バース 86年47本中25本
A岡田彰布 85年35本中23本
B田淵幸一 76年39本中21本 ブラゼル2010年47本中21本
C掛布雅之 79年48本中19本 真弓明信86年28本中19本 ブリーデン76年40本中19本
Dアリアス 04年25本中16本 今岡 誠29本中16本
Eフィルダー 89年38本中15本 金本知憲(04年34本中15本・05年40本中15本)
Fオルト 81年18本中14本 八木裕90年28本中14本
G藤田平 71年28本中12本 ラインバック76年22本中12本 パリッシュ90年28本中12本 新庄剛志(96年19本中12本・00年28本中12本)
Hジョンソン 99年20本中11本 濱中治02年18本中11本
Iカークランド(68年37本中10本・69年26本中10本) パチョレック92年22本中10本 大豊泰昭98年21本中10本 タラスコ00年19本中10本
Jグレン 95年23本中9本 城島健司10年28本中9本
Kスタントン 79年23本中8本 竹之内雅史80年12本中8本 クールボー95年22本中8本 桧山進次郎(01年12本中8本・04年18本中8本)
矢野輝弘(03年14本中8本・05年19本中8本) 新井貴浩10年19本中8本
Lオマリー 91年21本中7本 平塚克洋97年17本中7本 鳥谷敬09年20本中7本
M片岡篤史 03年12本中6本
N和田豊 90年8本中5本 >>232
2010年マートン17本中4本
2011年マートン13本中5本
2012年マートン5本中2本
2013年マートン19本中5本
2014年マートン14本中4本
2014年ゴメス26本中12本 >>239更新
年間個人 甲子園球場最多ホームラン数 (日本人選手)
@岡田彰布 85年35本中23本
A田淵幸一 76年39本中21本
B掛布雅之 79年48本中19本 真弓明信86年28本中19本
C今岡誠 05年29本中16本
D金本知憲(04年34本中15本・05年40本中15本)
E八木裕 90年28本中14本
F藤田平 71年28本中12本 新庄剛志(96年19本中12本・00年28本中12本)
G濱中治 02年18本中11本
H大豊泰昭 98年21本中10本
I城島健司 10年28本中9本
J竹之内雅史 80年12本中8本 桧山進次郎(01年12本中8本・04年18本中8本) 矢野輝弘(03年14本中8本・05年19本中8本) 新井貴浩10年19本中8本
K平塚克洋 97年17本中7本 鳥谷敬09年20本中7本
L片岡篤史 03年12本中6本
M和田豊 90年8本中5本 新井良太12年11本中5本
N石嶺和彦 94年17本中4本
年間個人 甲子園球場最多ホームラン数 (外国人選手)
@バース 86年47本中25本
Aブラゼル 10年47本中21本
Bブリーデン 76年40本中19本
Cアリアス 04年25本中16本
Dフィルダー 89年38本中15本
Eオルト 81年18本中14本
Fラインバック76年22本中12本 パリッシュ90年28本中12本 ゴメス14年26本中12本
Gジョンソン 99年20本中11本
Hカークランド(68年37本中10本・69年26本中10本) パチョレック92年22本中10本 タラスコ00年19本中10本
Iグレン 95年23本中9本
Jスタントン 79年23本中8本 クールボー95年22本中8本
Kオマリー 91年21本中7本
Lウイン 91年13本中6本 >>240更新
年間個人 甲子園球場最多ホームラン数
@25本 バース 86年47本中25本 (85年は22本)
A23本 岡田彰布 85年35本中23本
B21本 田淵幸一 76年39本中21本 ブラゼル2010年47本中21本
C19本 掛布雅之 79年48本中19本 真弓明信86年28本中19本 ブリーデン76年40本中19本
D16本 アリアス 04年25本中16本 今岡 誠05年29本中16本
E15本 フィルダー 89年38本中15本 金本知憲(04年34本中15本・05年40本中15本)
F14本 オルト 81年18本中14本 八木裕90年28本中14本
G12本 藤田平 71年28本中12本 ラインバック76年22本中12本 パリッシュ90年28本中12本
新庄剛志(96年19本中12本・00年28本中12本) ゴメス14年26本中12本
H11本 ジョンソン 99年20本中11本 濱中治02年18本中11本
I10本 カークランド(68年37本中10本・69年26本中10本) パチョレック92年22本中10本 大豊泰昭98年21本中10本 タラスコ00年19本中10本
J9本 グレン 95年23本中9本 城島健司10年28本中9本
K8本 スタントン 79年23本中8本 竹之内雅史80年12本中8本 クールボー95年22本中8本 桧山進次郎(01年12本中8本・04年18本中8本)
矢野輝弘(03年14本中8本・05年19本中8本) 新井貴浩10年19本中8本
L7本 オマリー 91年21本中7本 平塚克洋97年17本中7本 鳥谷敬09年20本中7本
M6本 ウイン 91年13本中6本 片岡篤史03年12本中6本
N5本 和田豊 90年8本中5本 マートン(11年13本中5本・13年19本中5本) 新井良太12年11本中5本 ┏━━━━━┓
┃// ☆ ┃ キタ━━━━━━━━━━━━ !!!!!
♪ ☆ ┃ / \ ┃ キタ━━━━━━━━━━━━ !!!!!
♪ / \ ┃. ヽ(゚∀゚ )丿 ┃
ヽ( )ノ ┃ ( )へ ┃ タンタランタンタン
( )へ ┃ く //┃\ ンタンタン ランタンタン
く ┗━━━━━┛ ̄
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┃┃ ┃┃ ┗┓┏┛┏━┛┏┛ ┃┃ | `ニニ' /. ┏┓┏┓┏┓
┗┛ ┗┛ ┗┛ ┗━━┛ ┗┛ ノ `ー―i....´ ┗┛┗┛┗┛ 2000年以降パ・リーグRCWINランキング
2002年西武 12.92
2011年ソフトバンク 10.64
2000年日本ハム 9.86
2006年西武 9.33
2005年ロッテ 9.10
2001年大阪近鉄 8.46
2008年西武 8.15
2004年ダイエー 7.27
2003年ダイエー 7.19
2005年ソフトバンク 7.17 2003年のダイエーの対オリックス戦成績
村松有人 .375 *1本 20打点 *6盗塁
川崎宗則 .327 *0本 12打点 *8盗塁
井口資仁 .412 11本 36打点 15盗塁
松中信彦 .370 *9本 36打点 *0盗塁
城島健司 .339 10本 33打点 *1盗塁
バルデス .379 *6本 28打点 *0盗塁
大道典嘉 .373 *1本 11打点 *0盗塁
柴原洋_ .398 *0本 14打点 *2盗塁
鳥越裕介 .267 *1本 *8打点 *2盗塁
プロ野球の地味なデータ参照。 尚、2003年オリックスのチーム防御率5.95 失点927 自責点819 阪神ファンになってもう20年超えた
新庄が居なくなっても応援した
井川がいなくなっても応援した
赤星が引退しても応援した
今岡がいなくなっても応援した
サッチーの脱税問題が表面化してノムサン辞めてもも応援した
暗黒時代が長期化しても応援した
裏金問題の影響で一場獲得剥奪されても応援した
その結果待ってたのに誰も来なかった
あんまりだ、あんまりだ ハイホーハイホー
1999や2003てえらい昔なんですね いつも年数える時は2000年を基準にして引き算や足し算をするよな。 2000年問題からもう15年も経ってるとか…早い。平成に生まれてももうおっさんや。 仁志川相松井落合マック清水元木村田ガルベス
コールズ種田立浪パウエル音山崎大豊中村山本昌
緒方正田野村江藤前田ロペス金本西山大野
飯田稲葉ホージー古田小早川土橋池山宮本田畑
石井波留鈴木尚ローズ駒田佐伯谷繁進藤佐々木
和田久慈新庄桧山グリーンウェル平塚ハイアット山田藪
松井大友高木大鈴木健マルティネス佐々木垣内伊東高木浩西口
田口大島イチローニール藤井D・J小川中島馬場星野伸
井出金子片岡田中幸ウィルソンブルックス落合上田山下グロス
武藤水口ローズクラーク山本鈴木中村紀的山大村小池
秋山村松大道小久保吉永城島若井井口湯上谷工藤
諸積平井堀フランコ初芝インカビリア林南渕定詰伊良部 仁志清水高橋由松井清原江藤二岡村田上原
関川李福留ゴメス立浪山崎井上中村野口
石井波留鈴木尚ローズ駒田佐伯進藤谷繁佐々木
真中宮本稲葉ペタジーニ古田岩村ラミレス土橋石井一
緒方野村前田江藤金本町田ディアス西山佐々岡
坪井和田タラスコ新庄大豊ハートキー矢野今岡藪
大村水口ローズ中村紀磯部吉岡川口ギルバート的山岩隈
柴田小関松井稼カブレラマクレーン和田鈴木伊東高木浩松坂
柴原バルデス井口小久保松中城島秋山ミッチェル鳥越田之上
田口大島谷イチロー藤井小川アリアス日高塩崎金田
井出小笠原片岡オバンドー島田ウィルソン田中幸野口金子岩本
諸積サブロー福浦ボーリック初芝大塚掘橋本小坂黒木 20本打ったのも多くないんだよな・・・
八木、新庄、桧山、濱中、今岡、鳥谷だけだし・・・
巨人の生え抜きでは結構多い
仁志、松井、高橋、二岡、坂本、長野、阿部
ナゴド以降の中日
山崎、福留、森野
ヤクルト
古田、岩村、山田、畠山
松田以降の広島
初年度栗原のみ
横浜
鈴木尚、村田、吉村、筒香
SB
小久保、松中、松田、井口、城島
西武
中村、中島、浅村
オリ
イチロー、T-岡田
ハム
中田、小笠原
ロッテ
掘
楽天(近鉄時代も含む)
紀、草野 甲子園の広さの推移
1976.3 両翼91.0 センター111.2 左中間118.1 右中間111.4
1988.3 両翼91.0 左中間113.2 センター118.1 右中間113.4
1992.3 両翼94.7 右中間117.9 センター118.1 左中間117.8 ラッキーゾーン撤去&フェンス上に2mの金網設置
88年までの甲子園
両翼91.0 左中間111.2 センター118.1 右中間111.4
92年以降の現在の甲子園
両翼94.7 右中間117.9 センター118.1 左中間117.8
ラッキーゾーン撤去&フェンス上に2mの金網設置 阪神の歴代チーム内首位打者
1936秋 .320 藤井勇
1937秋 .333 景浦將
1937春 .338 松木謙治郎
1938秋 .274 松木謙治郎
1938春 .301 藤村富美男
1939年 .286 松木謙治郎
1940年 .293 田中義雄
1941年 .229 田中義雄
1942年 .214 塚本博睦
1943年 .224 玉置玉一
1944年 .315 藤村富美男
1946年 .347 金田正泰
1947年 .311 金田正泰
1948年 .290 藤村富美男
1949年 .332 藤村富美男
1950年 .362 藤村富美男
1951年 .322 金田正泰
1952年 .314 藤村富美男
1953年 .327 金田正泰
1954年 .353 渡辺博之
1955年 .313 渡辺博之
1956年 .300 田宮謙次郎
1957年 .308 田宮謙次郎
1958年 .320 田宮謙次郎
1959年 .278 藤本勝巳
1960年 .306 並木輝男
1961年 .300 藤本勝巳
1962年 .290 並木輝男
1963年 .300 藤井栄治
1964年 .318 吉田義男
1965年 .265 吉田義男
1966年 .326 遠井吾郎
1967年 .309 遠井吾郎
1968年 .268 藤井栄治
1969年 .293 藤田平
1970年 .294 安藤統夫
1971年 .272 藤田平
1972年 .283 池田祥浩
1973年 .281 藤田平
1974年 .302 藤田平
1975年 .303 田淵幸一
1976年 .325 掛布雅之
1977年 .331 掛布雅之
1978年 .318 掛布雅之
1979年 .327 掛布雅之 1980年 .314 加藤博一
1981年 .358 藤田平
1982年 .325 掛布雅之
1983年 .353 真弓明信
1984年 .326 R.バース
1985年 .350 R.バース
1986年 .389 R.バース
1987年 .320 R.バース
1988年 .279 和田豊
1989年 .303 大野久
1990年 .304 和田豊
1991年 .307 T.オマリー
1992年 .325 T.オマリー
1993年 .329 T.オマリー
1994年 .318 和田豊
1995年 .295 関川浩一
1996年 .298 和田豊
1997年 .300 和田豊
1998年 .327 坪井智哉
1999年 .304 坪井智哉
2000年 .278 新庄剛志
2001年 .300 桧山進次郎
2002年 .317 今岡誠
2003年 .340 今岡誠
2004年 .317 金本知憲
2005年 .327 金本知憲
2006年 .310 A.シーツ
2007年 .300 赤星憲広
2008年 .317 赤星憲広
2009年 .288 鳥谷敬
2010年 .350 平野恵一
2011年 .311 M.マートン
2012年 .262 鳥谷敬
2013年 .314 M.マートン
2014年 .338 M.マートン 6回 藤村富美男
5回 藤田平 掛布雅之 和田豊
4回 金田正泰 R.バース
3回 松木謙治郎 田宮謙次郎 T.オマリー M.マートン
2回 田中義雄 渡辺博之 藤本勝巳 並木輝男 吉田義男 遠井吾郎
2回 藤井栄治坪井智哉 今岡誠 金本知憲 赤星憲広 鳥谷敬
1回 藤井勇 景浦將 塚本博睦 玉置玉一 安藤統夫 池田祥浩 田淵幸一加藤博一
1回 真弓明信 大野久 関川浩一 新庄剛志 桧山進次郎 A.シーツ 平野恵一 ベストナイン (2014年まで)
40年代
田中義雄1回 土井垣武3回 藤村冨美男3回 金田正泰1回 別当薫2回
50年代
藤本克己1回 藤村冨美男3回 与儀眞助1回 三宅秀史1回 吉田義男5回
金田正泰2回 渡辺博之2回 田宮謙次郎4回
60年代
村山実3回 バッキー1回 江夏豊1回 藤本克己1回 吉田義男4回 藤田平2回 並木輝男2回 藤井栄治1回
70年代
小林繁1回 田淵幸一5回 安藤統男1回 掛布雅之4回 藤田平4回 ラインバック1回
80年代
藤田平1回 バース3回 真弓明信2回 岡田彰布1回 掛布雅之3回
90年代
パチョレック1回 和田豊2回 新庄剛志1回
00年代
井川慶1回 矢野輝弘3回 アリアス1回 今岡誠3回 鳥谷敬1回 新庄剛志1回 赤星憲広2回 金本知憲4回
10年代
ブラゼル1回 ゴメス1回 平野恵一2回 西岡剛1回 鳥谷敬4回 マートン4回 甲子園ホームラン数
金本 84本
桧山 61本
新庄 61本
今岡 50本
鳥谷 41本※
矢野 34本
新井 28本
濱中 27本
関本 20本※
福留 14本※
片岡 12本
林 11本
良太 7本※
狩野 7本※
上本 2本※
伊藤 1本※
緒方 1本
森田 1本
赤星 1本
大和 0本※
柴田 0本※
俊介 0本※
※現役
他球団時代&ラッキーゾーン時代に現役は対象外 1999〜2002年成績
打率 本塁打 打点 出塁率 長打率 OPS RC27 XR27
松井 .322 170 414 .445 .649 1.094 10.69 10.43
ペタ .321 160 429 .451 .639 1.091 10.61 10.25 ナゴヤドームでのシーズン勝敗
1997 4勝9敗
1998 4勝8敗 吉田 8勝17敗
1999 1勝8敗
2000 1勝11敗
2001 5勝8敗 野村 7勝27敗 対星野15勝44敗
2002 5勝7敗1分
2003 4勝8敗 星野 9勝15敗 対山田9勝15敗
2004 2勝12敗
2005 6勝5敗
2006 1勝10敗
2007 7勝5敗
2008 7勝4敗1分 岡田 23勝36敗1分
2009 5勝7敗
2010 2勝10敗
2011 4勝6敗2分 真弓 11勝23敗2分 対落合 34勝59敗3分
2012 2勝9敗2分
2013 6勝5敗 対高木 8勝14敗2分
2014 5勝7敗
2015 4勝4敗 和田 17勝25敗2分 対谷繁 9勝11敗
通算75勝143敗6分、勝率.344だ。 (現時点) 阪神の3者連続本塁打 合計9回
1.1953年4月16日 - 対洋松戦(日生球場) 7回表 1番与儀眞助、2番金田正泰、3番後藤次男
2.1962年7月17日 - 対広島戦(広島球場) 6回表 3番並木輝男、4番藤本勝巳、5番三宅秀史
3.1974年4月20日 - 対大洋戦(川崎球場) 1回表 2番一枝修平、3番藤田平、4番田淵幸一
4.1976年9月19日 - 対広島戦(甲子園球場) 6回裏 1番中村勝広、2番掛布雅之、3番マイク・ラインバック、4番田淵幸一 ※4者連続
5.1979年8月10日 - 対大洋戦(西京極球場) 1回裏 3番掛布雅之、4番リロイ・スタントン、5番マイク・ラインバック
6.1985年4月17日 - 対巨人戦(甲子園球場) 7回裏 3番ランディ・バース、4番掛布雅之、5番岡田彰布(上記)
7.2003年5月9日 - 対横浜戦(横浜スタジアム) 3回表 4番濱中治、5番片岡篤史、6番ジョージ・アリアス
8.2010年8月12日 - 対広島戦(マツダスタジアム) 6回表 7番城島健司、8番桜井広大、9番狩野恵輔
9.2011年5月3日 - 対巨人戦(東京ドーム) 3回表 3番鳥谷敬、4番新井貴浩、5番クレイグ・ブラゼル セ・リーグシーズン200奪三振達成者(1979年〜2014年)
1979 新浦(巨人)223、小林(阪神)200
1980 江川(巨人)219
1981 江川(巨人)221
1982 なし
1983 なし
1984 遠藤(大洋)208
1985 なし
1986 なし
1987 なし
1988 なし
1989 なし
1990 なし
1991 川口(広島)230、佐々岡(広島)213
1992 なし
1993 今中(中日)247
1994 なし
1995 なし
1996 斎藤隆(横浜)206
1997 なし
1998 石井一(ヤクルト)241
1999 なし
2000 石井一(ヤクルト)210
2001 なし
2002 井川(阪神)206
2003 なし
2004 井川(阪神)228
2005 なし
2006 なし
2007 なし
2008 なし
2009 なし
2010 なし
2011 なし
2012 なし
2013 なし
2014 メッセンジャー(阪神)226 甲子園球場でホームラン打ちたければ、まず
極端な浜風が有るから
配球が隔たるからね
右打者には外角の出し入れだけでOK
これでレフト方向へ強引な打撃すると
打撃がどんどん崩れる
だから甲子園ホームにしてるチームなら
プルヒッターは率も一発も量産は難しいと思う
ゴメスもそこを自覚させないと駄目
彼は中距離打者のクラッチヒッター
だから外人野手連れてくるなら
広角に打てる中距離ヒッターでよい
浜風意識して右打者に長打タイプ
左打者に小兵タイプを集めるのは駄目
ゴメス位のパワーなら、踏み込んで叩けば
余程の浜風じゃない限り右中間へも長打出るよ
それに重要なのは、速球に対して強引なアプローチをしなければ
失投の変化球を見逃したり、タイミングが速くなり過ぎないので
結果レフト方向の長打も増えてく可能性がある
ゴメスが打撃崩れる時は、速球をレフトスタンドに入れた後の
打撃で分かる http://www25.big.or.jp/~hidea/tigers/gmonth.php?y=2006&m=9 阪神選出ゴールデングラブ賞
投手)なし
捕手)1973,74田淵幸一、1979若菜嘉晴、1985木戸克彦、2003,05矢野輝弘
2010城島健司
一塁)1981藤田 平、1992Jパチョレック、2003Gアリアス、2005,06,07Aシーツ
2008新井貴浩
二塁)1985岡田彰布、1992,93,94和田 豊、2003今岡 誠、2010,11平野恵一
三塁)1978,79,81,82,83,85掛布雅之、1992Tオマリー
遊撃)1973,75藤田 平、1984,85,86,87平田勝男、2011,13,14,15鳥谷 敬
外野)1976池辺 巌、1982,83北村照文、1992亀山 努
1993,94,96,97,98,99,2000新庄剛志、2001,03,04,05,06,08赤星憲広
2014大和、2015福留孝介 ゴールデングラブ賞選出回数
7回)新庄剛志(+日ハムで3回)
6回)掛布雅之、赤星憲広
4回)平田勝男、鳥谷 敬
3回)藤田 平、Aシーツ、和田 豊
2回)田淵幸一、矢野輝弘、平野恵一、北村照文
1回)若菜嘉晴、木戸克彦、城島健司(+ダイエー・ソフトバンクで7回)
Jパチョレック、Gアリアス、新井貴浩、岡田彰布、Tオマリー
池辺 巌(+ロッテで1回)、亀山 努、大和、福留孝介(+中日で4回) 阪神の年度別チームHR数と本拠地甲子園でのHR数と東京ドームでのHR数
2006年 チームHR:133本 甲子園:60試合 49HR 東京ドーム:12試合 10HR
2007年 チームHR:111本 甲子園:62試合 40HR 東京ドーム:12試合 16HR
2008年 チームHR:083本 甲子園:61試合 19HR 東京ドーム:12試合 12HR
2009年 チームHR:106本 甲子園:60試合 42HR 東京ドーム:12試合 17HR
2010年 チームHR:173本 甲子園:60試合 63HR 東京ドーム:12試合 15HR
2011年 チームHR:080本 甲子園:61試合 25HR 東京ドーム:12試合 10HR
2012年 チームHR:058本 甲子園:60試合 20HR 東京ドーム:12試合 03HR 【スポーツ】野球が「消えた」日曜日 色んなスポーツが身近になり、野球の地位低下… [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1459849798/ 【MLB】イチロー「虎とかライオンはウエートトレーニングしない」 体を大きくする日本人選手の多い昨今の風潮を批判 [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1458146010/ 【野球】張本氏告白 ノムさんに「わざと(頭にバットを当てた)やったことがある」 [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1469952604/ 99 28勝32敗
00 29勝31敗1分
01 30勝29敗1分 1990 30勝30敗
1991 26勝34敗
1992 33勝27敗1分
1993 30勝33敗1分
1994 28勝32敗
1995 23勝38敗
1996 31勝30敗
1997 34勝27敗
1998 25勝36敗
2002 30勝31敗1分 95年
ヤ2 10
広3 10
巨3 10
横9 4
中6 4 1980年 28勝30敗4分
1981年 34勝23敗3分
1982年 34勝24敗3分
1983年 31勝24敗3分
1984年 27勝27敗7分
1985年 39勝19敗3分
1986年 31勝24敗6分
1987年 24勝35敗3分
1988年 27勝34敗
1989年 25勝35敗 2003年 46勝15敗
2004年 34勝27敗
2005年 35勝21敗4分
2006年 38勝20敗2分
2007年 34勝26敗2分
2008年 41勝19敗1分
2009年 32勝27敗1分
2010年 35勝22敗3分
2011年 31敗28敗2分
2012年 27勝29敗4分
2013年 28勝29敗3分
2014年 33勝28敗1分
2015年 35勝26敗1分 1970年 39勝22敗1分
1971年 30勝29敗3分
1972年 33勝28敗1分
1973年 35勝23敗2分
1974年 28勝26敗3分
1975年 30勝23敗1分
1976年 40勝16敗3分
1977年 27勝29敗4分
1978年 19勝36敗3分
1979年 32勝25敗3分 >>301-306
甲子園球場での戦績
1970年 39勝22敗1分
1971年 30勝29敗3分
1972年 33勝28敗1分
1973年 35勝23敗2分
1974年 28勝26敗3分
1975年 30勝23敗1分
1976年 40勝16敗3分
1977年 27勝29敗4分
1978年 19勝36敗3分
1979年 32勝25敗3分
1980年 28勝30敗4分
1981年 34勝23敗3分
1982年 34勝24敗3分
1983年 31勝24敗3分
1984年 27勝27敗7分
1985年 39勝19敗3分
1986年 31勝24敗6分
1987年 24勝35敗3分
1988年 27勝34敗
1989年 25勝35敗
1990年 30勝30敗
1991年 26勝34敗
1992年 33勝27敗1分
1993年 30勝33敗1分
1994年 28勝32敗
1995年 23勝38敗
1996年 31勝30敗
1997年 34勝27敗
1998年 25勝36敗
1999年 28勝32敗
2000年 29勝31敗1分
2001年 30勝29敗1分
2002年 30勝31敗1分
2003年 46勝15敗
2004年 34勝27敗
2005年 35勝21敗4分
2006年 38勝20敗2分
2007年 34勝26敗2分
2008年 41勝19敗1分
2009年 32勝27敗1分
2010年 35勝22敗3分
2011年 31敗28敗2分
2012年 27勝29敗4分
2013年 28勝29敗3分
2014年 33勝28敗1分
2015年 35勝26敗1分 (´・ω・`)
1970村山←後藤の方が良かったわ
1972金田←村山の方が良かったわ
1975吉田←金田の方が良かったわ
1978後藤←吉田の方が良かったわ
1979ブレイザー←後藤の方が良かったわ
1980中西←ブレイザーの方が良かったわ
1982安藤←中西の方が良かったわ
1985吉田←安藤の方が良かったわ
1988村山←吉田の方が良かったわ
1990中村←村山の方が良かったわ
1995藤田←中村の方が良かったわ
1997吉田←藤田の方が良かったわ
1999野村←吉田の方が良かったわ
2002星野←野村の方が良かったわ
2004岡田←星野の方が良かったわ
2009真弓←岡田の方が良かったわ
2012和田←真弓の方が良かったわ
2016金本←和田の方が良かったわ←今ココ
結論
アホばっかり 【野球】野球より釣り? ソフトB「城島臨時コーチ」招聘断念の波紋 釣りへの情熱は育ててくれた工藤監督への恩にも勝る? [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1485942232/ ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーン
https://www.youtube.com/watch?v=W92K6qIuZak京都京野菜ぼったくり取引価格
ダイエットニュース (アリババダイエット40代偽装結婚プロ級世代(ヤフージャパンタイ資金洗浄)
違法改造大好き在日中国人報道中国車リコール発言反日飛行機会社
ヤフーネットダイエットコーヒーニュースタウンワークサービス不足マイナンバー窃盗犯
安売ドラマ魔界村ビールぼったくり販売員適正価格
適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(放送大学森有消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル)
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員)
ヤフージャポンマイノリティ社員「日本とロシアは仲良くさせてはいけないーhondasouichirouー」
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNA消費者せんター相談CNN向け原文ママニュース 2004年イチローの月別成績が異次元wwwwwwww
4月 102打数26安打 打率.255 1本 6打点 出塁率.309 長打率.304 OPS.613
5月 125打数50安打 打率.400 2本 14打点 出塁率.436 長打率.496 OPS.932
6月 106打数29安打 打率.274 0本 9打点 出塁率.339 長打率.358 OPS.697
7月 118打数51安打 打率.432 1本 7打点 出塁率.460 長打率.500 OPS.960
8月 121打数56安打 打率.463 4本 15打点 出塁率.492 長打率.636 OPS1.128
9月 118打数44安打 打率.373 0本 9打点 出塁率.429 長打率.398 OPS.827
10月 14打数6安打 打率.429 0本 0打点 出塁率.429 長打率.429 OPS.858
前半戦 371打数119安打 打率.321 3本 31打点 出塁率.369 長打率.399 OPS.768
後半戦 333打数143安打 打率.429 5本 29打点 出塁率.465 長打率.517 OPS.982 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 最終成績
1997 3位 4位 3位 5位 4位 5位
1998 5位 5位 6位 6位 6位 6位
1999 3位 2位 3位 5位 5位 6位
2000 2位 6位 6位 6位 6位 6位
2001 4位 5位 6位 5位 6位 6位
2002 1位 1位 3位 2位 4位 4位
2003 1位 1位 1位 1位 1位 1位 年度別エラー数
1970年 75
1971年 95
1972年 74
1973年 76
1974年 88
1975年 76
1976年 91
1977年 74
1978年 88
1979年 103
1980年 95
1981年 100
1982年 71
1983年 91
1984年 93
1985年 78
1986年 89
1987年 78
1988年 72
1989年 76
1990年 90
1991年 88
1992年 69
1993年 60
1994年 67
1995年 86
1996年 77
1997年 88
1998年 89
1999年 67
2000年 101
2001年 86
2002年 73
2003年 65
2004年 77
2005年 70
2006年 73
2007年 68
2008年 62
2009年 86
2010年 82
2011年 74
2012年 69
2013年 64
2014年 85
2015年 77
2016年 97 1ヒットで相手が3塁を回る確立
https://www.youtube.com/watch?v=KS_A-hKcDsI
中日40.8 日本ハム37.4
横浜48.3 ソフトバンク49.0
阪神48.9 楽天51.4
広島49.4 西武52.8
ヤクルト52.5 オリックス55.6
巨人53.3 ロッテ58.7
2006年 【野球】巨人・高橋由伸監督、12連敗も前向き「これは現実なんでね。全員で受け止めなきゃ」©2ch.net
http://hayabusa9.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1496837314/
明日も勝つ12連敗に並んだ巨人 千葉:18(1998)
ヤク:16(1970)
ソフ:15(1969)
中日:15(1946)
横浜:14(1955,2008)
ハム:14(1984)
西武:13(2015)
広島:13(1999)
オリ:12(2012)
阪神:12(1998,1999)
巨人:11(1975,2017)
楽天:11(2005)
12球団の最高連敗ランキング (最新)
1位 千葉ロッテマリーンズ 18連敗(1998年)
2位 東京ヤクルトスワローズ 16連敗(1970年)
3位 中日ドラゴンズ 15連敗(1946年)
3位 福岡ソフトバンクホークス 15連敗(1969年)
5位 横浜DeNAベイスターズ 14連敗(1955年,2008年)
5位 北海道日本ハムファイターズ14連敗(1984年)
7位 広島東洋カープ 13連敗(1999年)
7位 埼玉西武ライオンズ 13連敗(2015年)
9位 阪神タイガース 12連敗(1998年,1999年)
9位 オリックスバファローズ 12連敗(2012年)
9位 読売ジャイアンツ 12連敗(2017年)
12位 東北楽天ゴールデンイーグルス11連敗(2005年,2005年) 代打成績らしい
町田 472起用 397−90 20HR .227
浅井 582起用 489−154 8HR .315
八木 463起用 400−94 13HR .235
桧山 757起用 661−158 14HR .239
高井 526起用 457−114 27HR .249 最多HR
宮川 727起用 599−176 6HR .294 最多H 報知より
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170929-00010002-spht-base
プロ野球の記念ホームラン
1号 藤井勇(タイガース)1936年5月4日=セネタース戦(甲子園)
5000号 千頭久米夫(西鉄)1951年9月23日=阪急戦(後楽園)
10000号 渡辺清(阪急)1957年7月19日=近鉄戦(大阪)
15000号 河野旭輝(中日)1962年8月16日=巨人戦(後楽園)
20000号 井石礼司(東京)1966年7月6日=近鉄戦(東京)
25000号 高木守道(中日)1969年10月11日=広島戦(中日)
30000号 基満男(太平洋)1973年5月20日=近鉄戦(平和台)
35000号 池辺巌(阪神)1976年7月23日=中日戦(ナゴヤ)
40000号 ウイリアムス(阪急)1979年6月28日=ロッテ戦(西宮)
45000号 山本浩二(広島)1982年5月15日=大洋戦(広島)
50000号 仲根正裕(近鉄)1985年4月23日=南海戦(藤井寺)
55000号 駒田徳広(巨人)1987年9月7日=大洋戦(横浜)
60000号 広永益隆(ダイエー)1990年9月26日=オリックス戦(西宮)
65000号 谷繁元信(横浜)1994年6月19日=阪神戦(甲子園)
70000号 駒田徳広(横浜)1997年9月9日=巨人戦(東京ドーム)
75000号 ボーリック(ロッテ)2001年4月20日=近鉄戦(千葉マリン)
80000号 ペタジーニ(巨人)2003年9月14日=ヤクルト戦(東京ドーム)
85000号 フェルナンデス(楽天)2006年8月11日=西武戦(インボイス)
90000号 ブラウン(西武)2010年4月4日=日本ハム戦(札幌ドーム)
95000号 松田宣浩(ソフトバンク)2014年5月13日=ロッテ戦(QVCマリン)
100000号 マレーロ(オリックス)2017年9月29日=ロッテ戦(ZOZOマリン)
※所属は当時 本塁打数、100試合あたり本塁打数(セ・リーグ)
1980 849 109 2000 818 100
1981 806 103 2001 781 93
1982 753 97 2002 826 98
1983 935 120 2003 987 118
1984 910 117 2004 1074 130
1985 947 121 2005 920 105
1986 810 104 2006 821 94
1987 882 113 2007 818 95
1988 684 88 2008 728 84
1989 707 91 2009 769 89
1990 784 99 2010 863 100
1991 711 90 2011 485 56
1992 725 92 2012 454 53
1993 731 93 2013 714 83
1994 685 88 2014 738 85
1995 790 101 2015 552 64
1996 765 98 2016 713 86
1997 775 95 2017 718 84
1998 662 82
1999 832 103 ファン1万人がガチで投票! プロ野球総選挙
【野手部門ベスト20】
<1>イチロー(マリナーズFA)
<2>王貞治(巨人)
<3>長嶋茂雄(巨人)
<4>大谷翔平(エンゼルス)
<5>松井秀喜(巨人、ヤンキース)
<6>落合博満(ロッテ、中日、巨人)
<7>野村克也(南海、ロッテ、西武)
<8>ランディ・バース(阪神)
<9>金本知憲(広島、阪神)
<10>内川聖一(ソフトバンク)
<11>秋山翔吾(西武)
<12>稲葉篤紀(ヤクルト、日本ハム)
<13>掛布雅之(阪神)
<14>菊池涼介(広島)
<15>ウォーレン・クロマティ(巨人)
<16>衣笠祥雄(広島)
<17>新庄剛志(阪神、メッツ、日本ハム)
<18>阿部慎之助(巨人)
<19>古田敦也(ヤクルト)
<20>秋山幸二(西武・ダイエー)
※カッコは主な所属球団、現役は現所属。敬省略
【投手部門ベスト20】
<1>大谷翔平(エンゼルス)
<2>野茂英雄(近鉄、ドジャース)
<3>稲尾和久(西鉄)
<4>金田正一(国鉄、巨人)
<5>田中将大(ヤンキース)
<6>江川卓(巨人)
<7>江夏豊(阪神、広島)
<8>ダルビッシュ有(ドジャースFA)
<9>上原浩治(巨人、レッドソックス)
<10>桑田真澄(巨人、パイレーツ)
<11>黒田博樹(広島、ヤンキース)
<12>佐々木主浩(横浜)
<13>岩瀬仁紀(中日)
<14>工藤公康(西武、ソフトバンク)
<15>村田兆治(ロッテ)
<16>岩隈久志(マリナーズ)
<17>斎藤雅樹(巨人)
<18>伊藤智仁(ヤクルト)
<19>松坂大輔(ソフトバンク)
<20>山本昌(中日)
※カッコは主な所属球団、現役は現所属。敬省略 自分の野球人生を大きく変えてくれたのが、97年オフの中日から阪神へのトレードだった。
ただ、トレードが決まっても、当時は中日監督だった星野さんから掛けられた言葉は一切なし。
そうしてもらえたからこそ「絶対に星野さんを見返す。中日戦だけには絶対、負けへん」と強く思うことができたと思う。
だから、中日戦はたくさん死球をぶつけたし、逆にぶつけられた。でも、絶対に痛いそぶりは見せなかった。やっぱり、悔しいから。
ようやく阪神でレギュラーをつかんだ時に、星野さんが阪神の監督に就任することが決まった。
正直、嫌で嫌でしょうがなかった。その気まずさは、別れた彼女にばったり会う、なんてものじゃない(笑い)。
「ああ、俺はまたトレードに出されてしまうのかな」と毎日が憂うつだった。
でも、いざ、再会を果たしてみると、星野さんは一切、気まずいそぶりを見せることはなかった。
それどころか「テル、アイツはどうなんや?」と選手のことを度々聞かれて。
日がたつごとに自分の中から嫌な感情はなくなっていったし、いつしか
「星野さんに認められたい。認められるために頑張る」という思いに変わっていった。
今、振り返ってみると、星野さんには「一方的なトレードはしない。
お互いにとってプラスになるから、トレードするんだ」という信念があったと思う。
スポニチ
http://news.livedoor.com/article/detail/14152033/ すごくおもしろい嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
N6H1V 【野球】ノムさん「息子が裏に家を建てていいかと聞いてきた。嫌だと思ったが、しょうがないと許可したけど、結果的にはよかった」
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1521522223/ 中村紀洋コラム
体罰がなくならないのは指導者の意識の問題
子どもは「できなくて当たり前」。上達するスピードに個人差があることを指導者は頭に入れなければいけない
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180518-15 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ 「阪神の4番」試合数20 傑。スタメンでの出場の み。()は4番での初出場 年月日。打撃成績は4番で のもの。※は現役
1、藤村富美男 3人目 (1936.05.17) 1070試4141打1288安194本 874点73盗 打率.311
2、金本知憲 89人目 (2003.08.09) 921試3430打1002安187本 655点23盗 打率.292
3、田淵幸一 43人目 (1970.04.26) 812試2847打778安248本 577点9盗 打率.273
4、掛布雅之 52人目 (1977.07.18) 800試2898打840安188本 553点20盗 打率.290
5、遠井吾郎 31人目 (1960.04.17) 525試1842打508安56本247 点14盗 打率.276
6、藤本勝巳 29人目 (1958.05.01) 518試1868打496安65本268 点15盗 打率.266
7、オマリー 65人目 (1991.04.14) 387試1364打433安57本247 点5盗 打率.317
8、新井貴浩 90人目 (2010.04.18)※(現広 島) 318試1245打348安36本218 点11盗 打率.280
9、岡田彰布 59人目 (1984.08.14) 316試1157打289安52本176 点24盗 打率.250
10、ゴメス 95人目 (2014.03.28) 306試1129打312安45本191 点2盗 打率.276
11、桧山進次郎 73人目 (1995.07.29) 301試1129打286安37本168 点10盗 打率.253
12、田宮謙次郎 21人目 (1954.10.13) 271試977打308安24本124 点68盗 打率.315
13、山内一弘 37人目 (1964.03.21) 252試910打226安46本143 点10盗 打率.248
14、景浦將 2人目 (1936.05.03) 226試821打226安17本164 点19盗 打率.275
15、福留孝介 96人目 (2015.09.03)※ 216試769打222安22本102 点1盗 打率.289
16、ラインバック 51人目 (1976.10.15) 205試737打231安36本122 点8盗 打率.313
17、カークランド 41人目 (1968.04.06) 193試725打185安46本112 点3盗 打率.255
18、土井垣武 13人目 (1941.04.22) 162試611打157安3本57点 12盗 打率.257
19、新庄剛志 69人目 (1993.10.01) 142試560打146安28本87点 14盗 打率.261
20、マートン 91人目 (2011.07.07) 120試474打145安14本69点 5盗 打率.306
2018.7.9日付の記事から >>363
阪神史上103人目の「4番」 陽川尚将は次の「ミスタータイガース」候補!? | Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト―
https://full-count.jp/2018/07/09/post150411/ 巨人戦
03 17勝10敗1分
04 17勝10敗1分
05 14勝8敗
06 11勝11敗
07 14勝9敗1分
08 10勝14敗
09 11勝11敗2分
10 12勝12敗
11 11勝11敗2分
12 5勝15敗4分
13 11勝12敗1分
14 11勝13敗
15 9勝16敗
16 9勝15敗1分
17 10勝13敗2分 この年の今岡、124打席113打数あって打点2とは その後の大活躍もあって許されてる感はあるが
野村時代の今岡は普通にクソだったと思う 26神様仏様名無し様2018/07/28(土) 21:21:59.02ID:40vZAyrl
MLBでの三振率
大谷 .317 (167打数53三振)
松井 .155 (4442打数689三振)
新庄 .146 (876打数128三振)
イチ .109 (9929打数1079三振)
NPBでの三振率
大谷 .305 (1035打数316三振)
清原 .250 (7814打数1955三振)
松井 .204 (4572打数934三振)
新庄 .192 (5163打数990三振)
イチ .092 (3619打数333三振) = =
. ニ= 阪 そ -=
ニ= 神 れ =ニ
. ___ =- 園. で -=
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/,. : か ヽ、 【プロ野球】 阪神選手、タクシー乗り場で「ルール違反」 ツイッター告発で球団が謝罪
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1534763365/ 年度別本塁打数
1970年 110
1971年 101
1972年 125
1973年 115
1974年 136
1975年 128
1976年 193
1977年 184
1978年 139
1979年 172
1980年 134
1981年 114
1982年 118
1983年 169
1984年 165
1985年 219
1986年 184
1987年 140
1988年 .82
1989年 135
1990年 135
1991年 111
1992年 .86 ←ラッキーゾーン撤去
1993年 .86
1994年 .92
1995年 .88
1996年 .89
1997年 103
1998年 .86
1999年 .97
2000年 114
2001年 .90
2002年 122
2003年 141
2004年 142
2005年 140
2006年 133
2007年 111
2008年 .83
2009年 106
2010年 173
2011年 .80
2012年 .58
2013年 .82
2014年 .94
2015年 .78
2016年 .90
2017年 113 >>スレタイ
今の阪神より余裕で強そう 腐っても野球最盛期だし >>307-308,373
2018年 20勝39敗2分 【野球】遅球のファンタジスタ 星野伸之 傷ついたチームメートの言葉「軽く投げても130は超えるよな」427試合176勝140敗2S 3.64
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1543167253/ 【野球】ノムさんが球史に残る名監督ランキング1位「プロ野球総選挙」で発表
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1545659505/
1位・野村克也(ヤクルト)
2位・川上哲治(巨人)
3位・星野仙一(中日)
4位・王貞治(巨人)
5位・長嶋茂雄(巨人)
6位・仰木彬(オリックス)
7位・落合博満(中日)
8位・森祇晶(西武)
9位・三原脩(西鉄)
10位・吉田義男(阪神) 「昔のパ・リーグにはいろんな個性的な選手が居ました。名前は出せないんですが、誰もが名前を知っている
大打者の話です。彼と私とではチームが違ったんですが、どっちも若い頃からオールスターの常連だったんで
そういった舞台では同じチームの一員として戦ったんです。
オールスターゲームが終わったあとはチームみんなで一緒に風呂に入るんですが、まあ男所帯ですから
みな前など隠さず堂々としたもんです。ところがその件の大打者だけはなぜかいっつも前を隠す。
これがどうも気になりましてね。ある意味捕手の職業病というやつでしょうか。
そこで私はある先輩と結託して、その選手が頭を洗っている隙に股間を隠してるタオルを奪い取ったんですわ。
するとそこには小さな獅子唐が……。その選手は顔を真っ赤にして逃げるように風呂から出て行きました。
それから何年も経って、互いにベテランと呼ばれる歳になって、その大打者は球界を代表する打者になったのと
同時に非常に態度のでかい打者になったんです。私の囁き戦術なんかもまるで通じない。
そこで私はその若い頃の風呂場の一件を思い出し、こう囁いたんですわ。
『ハリ、お前は態度がでかいのに、ナニは小さいのう』って。
そうしたら張本の顔が信号機みたいに真っ赤になって……。その打席では効果があったんですが、次の打席では
空振りの振りをして私の頭をバットで殴りおったんですわ。
まあ、野球が大らかだった時代の話です」 野村監督の3年間で、唯一の3桁本塁打がこの2000年だった
http://npb.jp/bis/teams/yearly_t.html
この年の収穫は
新庄が4番打者に定着して打率.278、本塁打28本、打点85の大活躍だったこと 新庄の次にホームランを打ってたのが
野村監督と相性最悪の大豊だった ただ一本足辞めさせた結果前年高打率をマークしていたり
野村の大豊への指摘も間違いではなかったと思う
ジャーマンみたく理解し合えていたらな 2000年の大豊は6月半ば過ぎまで不調で広沢と交代で出てた。
夏になって打ち出してヒーローインタビューでビール飲んでくださいって言ってた 大豊は調子の波が激しすぎる
一旦ツボにハマるとバカバカ打ちまくるんだけど
スランプになると長く引き摺ってしまう
現役14年間で規定打席到達が5年しかないから、
歴代監督たちも我慢し切れなかったんだろう 阪神ではまだよく打ってたんだけどね、大豊
中日復帰後はサッパリだった
ナゴヤドームに殺された男よ トレード先が左打者に不利な甲子園というところが、大豊の運の無さだった
広島市民球場、神宮球場、東京ドーム、横浜スタジアム
セリーグの他のチームならあんなに苦しまなかったろう 1998年のセリーグ一塁手
横浜→駒田徳広(ゴールデングラブ賞、ベストナイン)
中日→山崎武司
巨人→清原和博
ヤクルト→ムートン、小早川、度会、稲葉、副島、アンソニー
広島→浅井、ペレス、町田
ヤクルトか広島ならレギュラー獲れてたな タラスコは打席で風格があった
もうちょっと打ってくれたらなお良かった バトルという見かけだけの外人
なんであんなの取ったんだw 戦力として優勝が厳しいのは分かるが
それでも3年連続最下位はいただけない
野村克也監督は阪神とは全く合わなかった 90年代後半〜01年くらいまでのセリーグはレベルが高かったのも運が悪かったな、5強1弱の頃で横浜までも強かった 開幕戦に星野伸が大炎上
これは1998年の再来かと思ったら、平尾のホームランを皮切りに打線爆発
一時は逆転したが再逆転されて敗戦
結局開幕3連敗したんだっけか 2000年は2桁勝利投手が川尻1人だけだった
しかも10勝ジャスト
尤も、この年は他のチームも投手陣は低調だった
巨人:メイ12勝、工藤12勝
中日:バンチ14勝、山本昌11勝、岩瀬10勝
横浜:三浦11勝
ヤクルト:石井一久10勝、五十嵐11勝
広島:ミンチー12勝、佐々岡10勝 4月だけなら藪は4勝してて防御率もトップだったはず
尚この後は・・・ 野村時代はデイリーも率先して野村を叩いてたなぁ
藪が開幕投手を断ったり今岡の嫁が球団事務所に怒鳴り込んだり
そういうことが起こる度に喝采記事を書いていた
そしてそのデイリーや当時の阪神ファンですらドン引きしたのが
OB会長だった田宮の「野村は人間のクズ」発言だった 野村克也監督は本当に阪神とは合わなかった
3年目オフは新聞の取材ですら完全拒否して、OB会だけじゃなく選手との信頼関係も悪化の一方だった
サッチーの脱税が無ければ4年目も続投したと思うが、やっぱり最下位だったろう
同じ戦力でも星野監督だからこそ4位になれた
選手、フロント、ファン、マスコミ、評論家、OB、全てを操れる政治力があった チームカラーと監督の目指す野球が違いすぎると上手くいかないのよ
横浜時代の森祇晶監督もそうだった 話全然変わってスマン
古くからの阪神ファンは大豊と広澤ってどっちが好きだったろう
パワーでは大豊が完全に上だったけど
安定感では広澤の方が上だったように思うんだが 好き嫌いで言えば大豊の方が好きだったかな
ただ、期待が大きかった分失望も大きかった
広澤は阪神に来た時点で前年の故障でそんなにやれないのは分かってたから
期待してなかった分意外に頑張ってくれたという感じだった パワーは広沢の方が上だったように思える。ホームラン打つだけなら大豊
つか広沢ってホームラン30本が最高でいう程ホームランバッターじゃないんだな >>420
しかも当時の神宮(狭い&フェンス低い)をホームグランドに30発が1シーズンだけ。 広澤は打点王は取ったけど、ホームラン王は取ってないもんな 吉田監督時代に広澤を獲得するという話もあった
結局巨人が出さなくて流れたけど
あの時来ていたら、大豊が来ることはなかったかも >>413今岡の嫁じゃ無く、萩原誠の嫁じゃ無いの?ノム時代では無いけど。 「契約(書)のなかに、“対面交渉”とちゃんと一文入っているんですよ。
本人と球団と、対面交渉しなさい。
そこに、代理人連れて行こうが、奥さん連れて行こうが構わない。
でも、現実は対面交渉。今はどう書いているかわからないけど、昔はそうだった」
https://www.news-postseven.com/archives/20130508_186026.html >>426
萩原の件は知らんが、今岡の嫁が怒鳴り込んだのは確か
この前国会図書館で当時のデイリーの記事があったわ 「(阪神の監督は)理をもって戦うというボクみたいなタイプはダメです。
あのチームは…。理屈はいらない。怖い監督がいいですね。鬼になれ!
星野型がいいよ。野村型はダメだよ」
https://www.daily.co.jp/tigers/2018/12/31/0011946716.shtml >>413-414
阪神のOB会なんて老害そのもので有名じゃねえか
ノムと1001を監督に力入れた野崎はかなりOB会から反対されたと言ってたしな
他所者に阪神触らせるなと弱いくせにプライドだけは一人前
OB会なんてどこも足ひっぱってるだけ 阪神はまだマシな方よ
巨人OB会は星野仙一の監督招聘そのものを潰したからな 野村とOB会は、ことあるごとに衝突。
OB会に出席するしないで、毎回、大騒動に発展。
星野はOB間でも人気&実績がある田淵の力を借りて、
難題を一瞬にして解決した。
https://www.sanspo.com/baseball/news/20190416/tig19041610000008-n2.html 中日もOBやマスコミは扱い辛いチームだから
そこで育った星野にはその辺の連中の扱いはお手の物だったろうね 抑えに選んだ佐々木は、ヤクルトのサイン盗みにしょっちゅう切れてて
野村監督ともメディアを通じてよく言い合いになってたな 阪神、平成の巨人戦勝率は4割2分 負け越し117
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190421-04211248-nksports-base
阪神は平成年間の巨人戦全日程を終了した。770試合を行い、
318勝435敗17分けで勝率4割2分2厘、負け越しは117となった。
勝ち越したシーズンは4度、タイも4度、負け越しが23度(今季含む)。 ノムさんのキャラクターは嫌いじゃないが
3年連続最下位だから阪神にとって最低の監督だったのは否定しようがないわな
数字が全ての世界だし 今岡が絶不調で平尾が2塁手レギュラーを掴みかけたのがこの2000年だった 平尾もその時にケガしてしまってなあ、パンチ力あったのに 平尾は翌2001年に西武に移籍して、守備中にフェンスに激突してやっぱり故障してた
とにかく故障が多かった 平尾離脱後の2塁手は現役最晩年の和田が守った
往年の名手もさすがに衰えが隠せなかった
ノムさんも守備がまずいのを我慢して使ってると言ってたっけな 二遊間強化のために
沖原、藤本、上坂をドラフトで指名して
トレードで吉田剛を取って、田中秀太を積極起用した
今岡が怒るのも無理はないか 今岡を育てる方針だった吉田監督
今岡を捨てる予定だった野村監督
今岡を開花させた星野監督 まだ今岡を干したとか言ってるアホがいるのか、やる気ないプレーしてたのに 野村監督の1年目序盤は今岡もやる気満々だったよ
確か、広島戦で2ランスクイズを決めたランナーが今岡だったと記憶してる
あの時は今岡の全身から勝つ気が溢れてた
それが時間が経つにつれて負けが混んで、
今岡だけじゃなく他の選手の人心も離れていったように見えた
アマは和して勝つ、プロは勝って和すという言葉があるんだが
勝たないと和せないのがプロなんだな 01年にはさすがに出番減ってるけどあれも今岡自身が昇格を拒んだからって
どんでんが本で暴露してたな 故・島野育夫コーチが言ってた
プロ野球選手には怒った方がいい選手と、怒ってはいけない選手がいると
今岡は怒ってはいけない典型的な選手だった
ノムさんが失敗したのは、今岡に怒ってしまったこと
特に今岡にとって苦手な走塁のことで叱責したのが大失敗だった 野村が今岡に一番怒ったのは守備に消極的だったこと
あと少しで取れそうな打球にもまったく飛びつこうとしない
オリックス中島のような守備
まあ今岡も本で「僕は打撃の選手、守備や走塁で怒らないでほしい」
みたいなこと言ってて一時期暗黒阪神の象徴的存在と言われてただけのことはある 野村が今岡を干した。←間違い
野村が今岡にイヤゴト言いまくった。←正しい
今岡・野村関係を語る時、ここら辺ゴッチャになりがちやな。
まぁ、今岡に限らず当時の選手はみんなイヤゴト言われてたが。
相性の良い新庄でも「豚もおだてりゃ木に登るという気持ちで4番にしてる」とか言われてたしw 誰だって言われたくないことがあるからな
出塁したらリードを取れとか、内野手は打球に飛び付けとか
ノムさんが言ってること自体は正しいんだけど
それは今岡には言っちゃいけないことなのよ >>462
しかし応援してるファンからすれば追いつけそうな打球に飛びつかなかったらどうかと思うぞ
しかも今岡はこの時まだ3,4年目くらいの若手だぞ、打撃もまだ覚醒してない時期 子供の躾と同じようなものよ
やれ勉強しろ、ゲームやめろ、スマホやめろってガミガミ言ったところで
却って逆効果になることの方が多いだろう
人間を扱うのはそれだけ難しいんだわ 正直野村時代の今岡はファンからもあまり可哀想と思われていなかった
ゲッツー打って実況に「最悪今岡ー!」と言われたらあだ名が最悪になったくらい ところが、中日時代の星野、島野コンビは
阪神で一番嫌な選手は今岡だったらしい ノムさんと今岡は不幸な取り合わせだったとしか言いようがない
どちらがいい悪いではないだろう
両者に言い分があるだろうし
こういう不思議な相性があるから野球は面白いのよ 合わないと予想されてたノムと新庄が合ったりな、桧山もか ただ就任直後の野村は、気になる選手を聞かれて
新庄の次に今岡を挙げてるんだよね
「感情が表に出ないから誤解されやすいんじゃないか。野球で気持ちをみせてくれれば」
と後々お互いの関係を皮肉るかのようなことまで言ってる ◆今岡はゼブラ 阪神監督に就任した98年オフから、若手内野手今岡のプレースタイルを酷評。
「無気力に見える、手を抜いているように見える…。
見える、見え〜るのゼブラ・ボールペン。だからゼブラや」とこき下ろした。
https://www.nikkansports.com/baseball/news/201906230001055.html 選手によってはそういう愛称?もいいんだろうけど
今岡には完全に逆効果だった パッと聞いた感じ格好良くは聞こえたんだけどなw >ゼブラ
宮本を自衛隊呼ばわりしたのと似た感じ 2001年の春キャンプでは、濱中を「わかぼー」って呼んで腐してたよ
和歌山生まれでぼーっとしてるように見えるからって言ってた 1995年阪神タイガース
打率.244(リーグ6位)本塁打88本(リーグ6位)打点430(リーグ6位)
http://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1995.html
投手成績10傑の中で
藪と川尻だけが2桁勝利ならず
とにかく打てなかった
特に本塁打がダントツに少なすぎる >>477>>478
この年の藪は7勝、7完投
リリーフを出されたら100%負けていた 【野球】野村克也氏、サッチーとの思い出語る「ただただ寂しい」「『ありがとう』言えず」後悔も 1か月前くらいに愛犬が死んだ。
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1563277703/ 新庄 99年に阪神で野村監督にピッチャーをやれって言われたときも、オープン
戦で2試合に投げて「なんだ、抑えるのって簡単やな」って全然、面白くなかった
んですよ。小学生の頃と同じじゃんって。だから野村監督に「足が痛いからもう、
ピッチャーやりたくないです」って言って。
――ウソだったんですか?
新庄 もちろん! 野村監督は「そうか、わかった」って言ってくれたんですけ
ど、心の中では「うそピョ〜ン」って思ってました(笑)。
https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2019/01/01/107853/ 【野球】ヤクルト、なぜ最下位独走? 村上宗隆、山田哲人が記録更新しているのに……
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1567393720/
戦力いながら最下位とかかつての阪神からしたらクエスチョンマークが付くな
この頃の阪神は戦力いない他の球団強いでセのレベル高かったんだな 阪神元球団社長の野崎勝義氏はこう言う。
「私は社長時代、7月末の早い時期に野村克也監督のウソの去就問題を書いた社に
ついて、選手やスタッフへの直接取材を2〜3カ月禁止にしたことがある。その社
は野村監督との間に確執があった。球団としては続投要請をするつもりでしたし、
7月に『今季限り』と違うことが報じられるとチームがガタガタになる。明らかに
球団に対する妨害行為だと判断しました。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/261968/2 グレッグ・マダックス(サイヤング賞4回 「精密機械」と言われたコントロールの持ち主)
「筋トレは必要ではない。走り込みが重要」 
ジェームズ・シールズ(制球力に優れたメジャーを代表する投手)
「走り込みは投手の生命線」
岩隈久志(シーズン21勝を達成)
「走り込みでコントロールが良くなった
上原浩二(抜群のコントロールを持つ、国際大会無敵の投手)
(大学で伸びた秘訣を聞かれて)「走り込んだことかな。大学に入って、自分でメニューを考えるようになって、ほとんど、ずっと走っていましたね。やらされるんじゃなくて、自分からやっていた」
 
ランディ・ジョンソン(メジャー歴代2位の4875奪三振)
「一流のピッチャーになりたいならとにかく走り込みしろ」
山本昌(現役29年の経歴を持つ鉄人)
「走っておいてよかったなと思いますね。『そんなに走って何になるの?』って思うかもしれないですけど、説明しろと言われてもできない。『なんで野球選手は走るの? スポーツ選手は走るの?』と言われますけどね。でも、走っておいてよかったな、と思いますね」
ペドロ・マルティネス(サイヤング賞3回のメジャーの名投手)
「投手にウエートトレーニングは必要ない。走り込みが必要」 
ロジャー・クレメンス(歴代7度のサイヤング賞受賞)
「走り込みとインナーマッスルを鍛えるのは非常に重要」
石井一久(西武からメジャーリーグへ渡った名投手)
「メジャーの一流投手はみんな走りこんでいた」
菅野智之(巨人のエース)
「筋トレより走り込みが重要。ボディビルダーが球速いかといったら違うじゃないですか」
走り込みのメリット
・走り込みをやることで心肺能力を上昇させる
・L.S.D(ロング・スロー・ディスタンス=長い距離をゆっくり走る)で毛細血管を発達させることにより血液中の栄養素と酸素の許容量を増加させスタミナ切れ(息切れ=血液中の酸素不足や栄養不足で起こる)を起こしにくくする
・下半身を強化することでフォームが安定してコントロールが改善する
・走り込みを行うこと脳由来神経栄養因子(BDNF)が放出される
BDNFが脳内で何をするかといえば新しい神経細胞=ニューロンを作るためにはたらく
要するにBDNFが出て脳の神経細胞が新生されやすくなる→頭が良くなる&運動神経が良くなるための準備が整う
これによって走り込みを行ったあとで投球練習、フォームの改善、新球種の取得などを行うと効率的に身体に新しい技術が身に付きやすくなる >>490
この新聞社ってどこの社か分かる人いますか?
藤田平も監督時代に散々振り回されたそうですわ
(以下引用)
「(新庄引退騒動で暗躍した)その、先頭に立った新聞社がいま困って
ますわ。野村さんもその新聞社を締め出そうとして、やっと球団が
言葉に出して『出入り禁止』と言ったんですよ。やっとマスコミに強気
になったんですよ。いままでマスコミに強くなかったんですよ」 新聞社ではないがミッチーサッチー騒動と野村の監督問題に
最もご執心だったのはTBS
ドラフト終了直後にエンタメ班が野村にサッチー問題についてマイクを向けて
阪神が一時TBSを出禁扱いにして余波を喰らったスポーツ班との内紛が起こったことがある その昔、1976年に甲子園球場はラッキーゾーンをさらに前方にせり出させて
右左中間106mにまで狭くしたw
それが問題になって、1988年に、2.5メートル後方に下げた
もうめちゃくちゃな時代だったw 1991年オフに撤収されたラッキーゾーンの復活構想があるとか。オレはそこに疑問が残る。
阪神はまずはホンマのホームランバッターを作るのが先やと思うけどね
岡田彰布(談)
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=078-20181001-01 2000年の基本オーダー
1(左)坪井 .272 _4本 32点 出.338 O.679 _6盗 6失
2(二)和田 .253 _1本 20点 出.347 O.666 _3盗 2失
3(三)ハー .272 _4本 27点 出.309 O.687 _0盗 2失
4(中)新庄 .278 28本 85点 出.321 O.812 15盗 6失
5(右)タラ .239 19本 57点 出.306 O.735 _1盗 7失
6(一)大豊 .241 23本 54点 出.309 O.820 _4盗 1失
7(捕)矢野 .269 _5本 26点 出.334 O.680 _1盗 2失
8(遊)田中 .251 _1本 17点 出.325 O.611 _5盗 6失
_(二)平尾 .238 _2本 12点 出.296 O.644 _2盗 1失
(和田と併用)
ハー=ハートキー、タラ=タラスコ 主な投手 本塁打/9回 与四球/9回 奪三振/9回
藪 _6勝 10敗 防4.17 151.0回 本1.1 四1.8 三5.7
川尻 10勝 _7敗 防3.17 136.1回 本1.0 四2.5 三6.9
星野 _5勝 10敗 防4.04 122.2回 本1.0 四2.2 三6.2
福原 _5勝 _9敗 防3.29 117.2回 本0.8 四3.2 三9.1
_3セーブ
ハン _7勝 _8敗 防4.34 114.0回 本0.8 四4.1 三7.7
湯舟 _4勝 _7敗 防5.21 _84.2回 本0.9 四3.0 三4.6
伊藤 _3勝 _1敗 防1.86 _67.2回 本0.1 四3.1 三4.7
中込 _3勝 _3敗 防4.62 _48.2回 本0.9 四1.8 三6.8
_2セーブ
西川 _2勝 _1敗 防1.93 _46.2回 本0.6 四3.3 三6.6
葛西 _7勝 _6敗 防2.45 _44.0回 本0.4 四3.7 三5.3
17セーブ 2000年セリーグ成績
http://npb.jp/bis/yearly/centralleague_2000.html
チーム打率.244(6位)本塁打114本(5位)打点447(6位)
チーム防御率3.90(3位)セーブ31(3位)
打撃10傑無し、投手10傑:川尻哲郎(防御率3.17、10勝7敗) 藪ってランナー一人出すだけですげー弱気な表情してたな
味方の打線がショボいからビクついてたんだろうけど顔に出すぎ ノムさん「今岡はオレには手に負えない天才、だがねアイツは取れそうな打球に飛びつかない癖がある、
それを指摘するとベンチで不貞腐れよった、ただたまに見せる内角の球を捌いてホームラン打つ場面は非凡なセンスはあった」
今岡は25、6歳くらいで「僕は足速くないし守備も苦手なんで打撃以外は求められても困るんすよ」てノリだった 野村克也が、死ぬまで嫌った8人の男たち…
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1582274271/
「ミーティングをやっても、選手は時計ばかり気にしている。このチームをダメにしているのは、OB連中。キャンプに激励と称して来るんだけど、選手を夜の街に連れ回すのが目的なんだ。
田宮謙次郎OB会会長(当時)に『迷惑だ』と言ったら、それ以来、俺のところに来なくなった」 暗黒時代(1987年〜2002年)
1987年6位 4月下旬にはもう最下位、以降シーズン終了まで断トツ最下位。バース(得点圏.227) 掛布(得点圏.178)なんと首位と37.5差
1988年6位 5月下旬に2位になるも落ちていき7月には最下位、8月頭に5位になるもすぐ最下位に戻りシーズン終了
1989年5位 6月下旬に3位まで踏ん張るも夏に落ちていき8月上旬に一度4位になるもそのまま5位で終了
1990年6位 5月下旬に最下位になるも6月に少し順位を上げるが下旬には最下位が定位置となりそのままずっと6位で終わり
1991年6位 なんと4月半ばからずっと最下位でそのまま一度も順位上がらずに6位でTHE END
1992年2位 4月2位 5月3位 6月2位 7月2位 8月3位 9月1位で終えるも10月5連敗ヤクルトに直接対決に敗れ唯一のAクラス2位で〆
1993年4位 6月頭まで混戦状態、下旬から7月中旬まで最下位にいるも9月を3位で終えるが巨人に3位を1ゲーム差で持っていかれる
1994年4位 7月中旬まで4位〜6位を行ったり来たりするも8月に一度2位になり9月中旬くらいに首位と2.5までつめるも脱落しヤクルトと同率4位
1995年6位 5月中旬くらいまで6位、この年は中日も弱く8月まで5位にいるも中日に抜かされ4年ぶりの最下位。首位と36ゲーム差
1996年6位 4月下旬にはもう最下位、夏に横浜が落ちてきて9月下旬に5位になるが競り負け最下位に逆戻り
1997年5位 6月に2位になったり7月まで3位〜5位行ったり来たり8月を4位で終えるも、それまでずっと最下位だった巨人が上がってきて5位で終
1998年6位 5月までは5位だったが6月にヤクルトに追い越されて6位に、以降シーズン終了までずっと最下位
1999年6位 4月を3位5月を2位6月に首位に立つ。が7月半ばまでは4位。8月以降は広島と5位争いの形。最後は2ゲーム差で最下位
2000年6位 4月に9連勝して1位になるも5月下旬には6位。6月に5位、8月に4位にそれぞれ一瞬変わるも終盤負けが込み6位
2001年6位 4月を4位5月を5位で進むが最下位になる、この年は勝ち数が順位なので7月は5位になるも。終盤他のチームの4位5位争いが入れ替わり6位
2002年4位 4月と5月を1位で進むが矢野赤星らのケガもあり以降巨人に1位を渡す。7月までは2位だったが夏場に落ちて5位になるも広島との4位争いに勝ち8年ぶりの4位 長嶋引退(1974年)時点での通算成績順位
安打数
@野村克也 2475 A長嶋茂雄 2471 B川上哲治 2351
本塁打数
@王貞治 634 A野村克也 591 B長嶋茂雄 444
打点
@野村克也 1733 A王 貞治 1544 B長嶋茂雄 1522
打率(小数点以下切捨)
@ 張本 勲 .324 A川上哲治 .313 B与那嶺要 .311 C中西 太 .306 D長嶋茂雄 .305 野村克也が語る「プロ意識」
2018年3月21日(水) 11:01
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=051-20180326-01
前回記したとおり、私が監督として見た阪神タイガースには、まったくそれがなかった。ある意味、このプロ意識のなさが、阪神の“伝統”なのだ。
私が選手として長く在籍した南海ホークスは、リーグこそ違えど同じ関西のチーム。
ただし、いつもスポーツ紙の一面に載るのは阪神だった。典型的な人気先行型のチーム。だから、われわれは内心、阪神の選手をバカにしていたものだ。
「環境が人を育てる」というとおり、歴代の阪神監督を見ても、藤本定義さん以外、名監督は出ていない。
要は、タニマチ球団なのだ。大阪だけでなく全国どこへ遠征に出かけてもタニマチがおり、選手は連日、彼らに誘われ、夜の街へと出かけてしまう。
遠征先のホテルに残っているのは、いつもマネジャーと私だけだった。なぜ誰も不思議に思わないのだろう。 若いのがタダ飯を食い始めると野球を舐めてかかるようになる【阪神とタニマチの内幕】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200422-00000013-nkgendai-base
阪神の監督に就いた野村克也が嘆いたことがある。
「タイガースってのはなんていう球団だ。一軍の選手なら(タニマチに呼ばれて)いいとはいわないが、
聞けば阪神はファームのやつらまでが誘いを受け、夜中に寮に帰ってくるという。バカじゃねえのかって話さ。
他のチームの若いのが素振りをしている夜に阪神の若造は酒だ、〇〇だってさ。それを許す球団の教育もなってない。だめだよ、タイガースは」
こう言って阪神を去り、ついには鬼籍に入ってしまった。 =つづく(敬称略) 現役復帰目指す新庄剛志氏がバリー・ボンズの打撃をメジャー時代の秘話を交えて解説「バリーはいつも俺に…」
https://news.yahoo.co.jp/articles/860c467bf7d9022d98a09778d77f743ac46cd1dd
「ボールをとらえる前に、1度グリップが上に上がる これが打つ前のトップの位置!! 大切なのはグリップを上げ始めた時に力をかなり抜く事!!
そうすればバットのグリップでボールをとらえに行く事が出来る!!」。新庄氏は2002年のジャイアンツ時代に「バリーはいつも俺に来たボールを右手でとるイメージ、
バリーなら左手でとるイメージで打つんだって言っていた!!」と打撃指導を受けたことも証言。
さらに「後 ボールを打つ前にやや顔を横にして変化球にも対応する角度で、ボールを見ている!!来るボールを打つイメージだからどんなボールでも打ち方が変わらない!!
ほぼ左足と右足のカカトだけで打って!!」と続けた。
ただ新庄氏は「しかし日本人はこの打ち方はあまり真似しないほうがいい、彼のパワーは別世界だから、
日本人がやろうとするとどうしても、ヘッドが下がって力負けしてしまう!!
日本人の場合は、チカラがないから体の反動を少しつけてあげて軸回転で打つ方がいい!!
打席での打つ打球方向は常にセンターからやや左に打ち返すイメージ」とボンズの打ち方は日本人向きではないと解説した。 広澤克実の回顧録
巨人へFA移籍して4年、ヤクルト時代の恩師、野村克也が監督を勇退することになった。
かつての恩師とはいえ、今は同じセ・リーグの敵味方。本来なら交流が途絶えても不思議ではないが
広澤は野村のために空気清浄機を購入し「体に気を付けて、長生きしてください」とのメッセージを添えて贈った。
その年のオフ、テレビ番組の仕事で偶然広澤に出会った野村は、一言こう言い放った。
「お前……ワシにあんな安物を使えいうんか……」
広澤は思わず恐縮した。世田谷の野村邸は大邸宅。確かに自分の贈った空気清浄機では
不釣り合いかも知れなかった。
それから1年。巨人を事実上の戦力外となった広澤を拾ったのは、阪神の監督をしていた
野村だった。広澤は阪神入団が決まった直後、世田谷の野村邸に挨拶へ行った。
「あら広澤!良く来たわね。主人なら居間にいるわよ」
ブルドッグ夫人に案内され、居間に通された広澤は自分の目を疑った。
「なんやお前……わざわざ挨拶に来たんか……。律儀な奴やなぁ」
ブツブツ呟く野村の後ろには、なんと自分が贈った空気清浄機があるではないか!
「監督!その空気清浄機……」
広澤が思わず突っ込むと、途端に野村は照れくさそうな顔になり
「ああ、いや……こんなもん……。捨てるのも恥ずかしいから、仕方なく使っとっただけや」
……広澤が事あるごとに「皆は誤解してますけど、野村監督は本当は暖かい人なんです」と言うのは
このエピソードが一因となっている。 野村克也が語る「大阪球場」
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=051-20190610-01
記事にもあったとおり、とにかく狭い球場だった。大阪のど真ん中、南海難波駅前のいびつな楕円形の土地に無理やり(?)建てたものだから、
1971年までは両翼84メートルしかなかったという。ちなみに、今はほとんどの球場の両翼が100メートルだから、いかに狭いか分かるだろう。
おかげで、張本(張本勲=元東映ほか)には「あの狭い大阪球場をホームグラウンドにしているノムさんに、ホームランで敵うわけがない。
俺はホームランをあきらめて、ヒットを打つことに専念するよ」と、散々冷やかされてしまった。
しかし狭い分、大振りしなくても打球はスタンドに入ってくれる。場外に飛ぼうがフェンスぎりぎりだろうが、ホームランはホームランなのだ。
だからスタンスを狭くし、バットを短く持つこともあった。私にとっては、それが打率も残す結果になったと思う。
まあ、そうは言っても一応、大阪球場だって一度は両翼を広げているのだ。私の中にはフェンスを高くした記憶があったのだが、
記録によると72年、南海難波駅改修に伴う工事で、両翼91.5メートルまで広げたという。「外野が広くなった」と聞いたときは、ショックだった。
この工事のおかげで、私も確実に何本かはホームランを損しているはずだ。
追悼・ノムさんが語っていた「大阪球場」の思い出。
https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/102
たしかに、広い球場は好きじゃなかったよ。球場が広いと、俺のようなホームランバッターは遠くへ飛ばそうとして欲が出る。
ところが、狭い球場だとムキになって叩かなくてもスタンドに入るとわかってるから、自然と力を抜いてボックスに立てる。
それが8年連続本塁打王という記録にもつながったと思うよ。それも実力だろ。
それと、大阪球場の特徴の一つに、ファウルゾーンが狭いということがある。ファウル打つとみんなスタンドインするから、打ち直しできるでしょ。
広いと捕られてアウトになっちゃうから。それが結果的によかったというのもある。川崎球場もそうだったな。
あそこと大阪球場はファウルエリアが狭かった。
だから、阪神の選手なんかにうらやましがられたよ、大阪球場はファウルエリアが狭くていいなって。甲子園は広いからな。
実際、南海の選手に比べると、阪神の選手は総じて打率が低かった。ファウルゾーンが広い球場だと、打率は上げにくいけど、
ピッチャーは防御率を伸ばしやすい。だから昔から、阪神はピッチャーが育つけどバッターは育たないって言われたんだよ。 【野球】阪急からオリックスにかけて星野伸之が投じた130キロの“速球”/プロ野球20世紀・不屈の物語 [砂漠のマスカレード★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1591862758/ 食事面から手をつけなければ…藤田平氏、阪神暗黒時代まっただ中の現場復帰
https://sportsbull.jp/p/751188/
「昭和59年(84年)に現役を辞めて、その次の昭和60年にチームは優勝した。それから10年がたっていたわけだけど、チーム状態は最悪だった。
それまで評論家として外からチームを見てきた。だけど、外から見るのと中から見るのとでは全然違った。『こんなに悪いのか』と痛切に思った」
鬼平−。池波正太郎の小説が原作で当時放送されていた人気時代劇「鬼平犯科帳」の主人公・長谷川平蔵と藤田平の『平』の字にちなみ、
藤田は「鬼平監督」と呼ばれた。選手やフロントに対する厳格な姿勢と、罪人を厳しく取り締まる火付盗賊改方・長谷川平蔵のイメージが重なった。
2軍監督として鳴尾浜で選手たちと時間を共にして受けた“衝撃”は、今も忘れられない。まず個々の技術レベル…という次元の話ではなかった。
「弱いチームは、たるんでいるから。そういうところ(グラウンド外の生活部分)から手をつけなければいけなかった。
そういうところから手をつけなければいけないというのは残念だった」
この年の1月17日に阪神・淡路大震災が発生。自宅が半壊した藤田は鳴尾浜の「虎風荘」で若手選手らと共に生活していた。
“あの光景”は鮮明に覚えている。寮での生活を始めて、しばらくたった頃。
ゴミ置き場の脇に“何か”が山積みになっている…。確認してみると、カップラーメンの空箱の山だった。
「まず、(寮の食事が)ヒドかった。武庫川女子大の教授に頼んで、食事のメニューを見てもらったら『老人や病人が食べるようなメニューです』って」
栄養バランスが十分ではない献立だけでなく、量も問題だったという。「(藤田自身も練習中に)腹が減ったくらいだから、選手はもっと空腹になる。
カップ麺の空箱が山盛りになっていたけど、(選手は食事が)足りないからコンビニに行っていたわけ」。球団に自ら掛け合ったこともある。「寮の食事を食べたことがありますか?」と改善を求めたのだ。
巨人や近鉄など5球団で指揮を執った三原脩が食事面を重要視していたことにもならって、武庫川女子大の関係者から
助言を仰ぎ食事メニューを改善。ウエスタン・リーグの試合では、ダイエーや広島の球団関係者にも聞き回った。
「広島は(独立採算球団で)お金が限られる中でもいっぱい食べさせていた」。今では当たり前だが、練習の合間でも口に運べるバナナやリンゴ、軽食を練習施設に常備させたのはこの頃からだった。
藤田が1軍監督を退いたのは96年。それから約1年後、選手たちから「食事がよくなりました」と感謝の言葉を受けることになる。
ただ、頭を悩ませたのは食事だけではない。加えて当時、練習に遅刻する選手が続出していた。 野手でも坪井、和田、新庄、矢野あたりはオールスターレベルだった
あとはもうそのあれよ 4割行かなかった年は6回
1978年 339
1987年 331
1988年 398
1991年 369
1995年 354
1998年 385 野村克也さんが生前語っていた「阪神は星野監督で良かったんだ」の真意
https://dot.asahi.com/aera/2020021100015.html?page=2
阪神時代の一番の失敗を、「選手を大人扱いしすぎたこと」 だと言った。
……私は選手を誉めなかった。プロの選手だからだ。プロとは、監督が誰であれ、
自分のために、プレーするものだ。だが阪神では、活躍を誉め、ミスを怒鳴る、
高校野球のように指導すべきだった。彼らをプロの選手と考えたのがそもそも
間違いだった……。
(中略)
江本さんはいう。
「基礎体力がない阪神の選手は開幕から2、3カ月で、すぐへばる。
でも、背筋腹筋だ、千本ノックだ、と野村さんは言えなかった」 【野球】広島・菊池涼、434連続守備機会無失策で27年ぶりセ界新!史上初の二塁手シーズン無失策なるか [砂漠のマスカレード★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1602788871/
菊池涼は開幕から前日14日の同戦まで90試合連続ノーエラー。和田豊(阪神)が1993年4月10日の中日戦から9月9日のヤクルト戦までマークした同一シーズン432連続守備機会無失策にあと4と迫っていた。 西武ライオンズ、平尾博司2軍打撃コーチを解雇!選手の私物を窃取 悪い噂もなく人望がありみんな慕っていた★2 [牛丼★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1604233404/
2000年結構試合出てたんだよな平尾、2000年のチーム第1号ホームラン打ってたはず 【野球】阪神・藤川が公開した『現役最後の晩餐』に反響続々「料亭みたい」「球児さんも奥様もお疲れ様でした」#はと [砂漠のマスカレード★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1604924968/
【野球】阪神・藤川が引退試合で全球直球勝負!坂本を三振斬り 三者凡退で有終の美 [砂漠のマスカレード★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1605010447/
今日は藤川球児の引退試合だった、この年2000年に19試合登板してたんだな
初登板はこの年の開幕横浜戦に星野伸之の次に登板、甲子園初登板は4月11日の巨人戦 ノムの本にも書いてあったが金本取るまではロクな補強もせず当たり外国人頼みって感じだった
星野の功績はでかい 一応清原獲得に参戦したり大枚はたいて外国人獲得したり
第三次吉田政権時にはもう緊縮財政路線からは脱却しつつあった
問題はオリックス出身選手以外のFA戦線に弱かったり
獲得してきた外人がグリーンウェルだったりしたのが暗黒阪神らしいところ 【野球】野村克也と伊原春樹に決定的な亀裂。ある選手の盗塁失敗が原因だった [砂漠のマスカレード★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1606171284/
【監督とコーチ。わずか1年限りの阪神タイガース時代】
1999年、野村は阪神の監督に就任する。大きな期待と共に始まったシーズンだったが、阪神は最下位に沈む。捲土重来(けんどちょうらい)を期した翌2000年、野村が声をかけたのは、1999年限りで西武のユニフォームを脱いだばかりの伊原だった。
「西武を辞めたあと、自宅でデータの整理をしていたときに、阪神から『野村監督に会ってほしい』と電話がありました。指定されたホテルに行くと野村さんが待っていて、『お前は西武ではどういう仕事をしていたんだ?』と尋ねられたんです。当時の私は守備、走塁の作戦面のすべてを任されていましたから、そう伝えると『じゃあ、オレもそうするから』と、コーチ就任の依頼を受けました」
こうして、野村と伊原は同じユニフォームを着てセ・リーグ制覇を目指すことになった。しかし、この関係は長続きしなかった。シーズン途中に両者の関係は破綻をきたし、その年のオフ、伊原はわずか1年で阪神を退団している。
「春のキャンプで初めて、野村さんのミーティングを聞きました。マスコミを通じて報道されている"ボヤキのノムさん"のイメージとは裏腹に、人間教育に主眼を置いた話を聞いて、『なかなかいいこと言うな』と思っていました
ところが、次第に「ミーティングでの野村」と「現実の野村」との乖離に、伊原の中には違和感が募っていく。ミーティングでは立派なことを述べていても、実際の野村は朝の散歩には参加せず、朝食会場にも姿を見せず、あいさつをしてもまともに返事が返ってくることもない。選手たちに説いていることと、実際の言動があまりにも違いすぎることにイラ立ちを隠せなくなっていく。
そして、決定的な亀裂が訪れた。ジェイソン・ハートキーの盗塁失敗をめぐって、伊原と野村の間には修復しがたい溝ができてしまったのだ。相手投手の牽制の傾向から、「ここは走れる」とサインを出したものの、ハートキーは盗塁死してしまう。伊原は監督室に呼ばれて、こんな言葉を告げられる。
「お前は自分の功名心のために盗塁のサインを出しているのか?」
この言葉は伊原のプライドを痛く傷つけた。この日から、彼がサインを出すことはなくなった。伊原への「全権委任」がはく奪されたのだ。そして、この年限りで伊原は阪神を去ることとなる。 阪神、5年連続でベストナイン選出無し 95年から99年に続く球団ワーストタイ
https://news.yahoo.co.jp/articles/3710800faa6cd57738e83442bc19e49f514ae746
阪神は鳥谷敬内野手(現ロッテ)、福留孝介外野手が受賞した2015年以来、ベストナイン選出者がおらず、これで5年連続での選出者なしとなった。
阪神は1995年から1999年の間も5年連続でベストナイン選出者はゼロで、これで球団ワーストタイとなった。
他球団では近鉄が1950年から1959年まで10年連続、広島が1951年から1958年まで8年連続選出なしというのがあるが、
2000年以降では、阪神の5年連続がワーストとなる。 (2億で一流と言われ始めた時代に)
1億円プレイヤーが和田と大豊しかいなかったあの時代に逆戻りか キャンプで気づいたのは野手のフィールディングが甘いってことですね。それはノックでも、紅白戦からもわかりました。
チーム失策数がリーグ最多だって? グラウンドで隣にいた亀山さんから教えてもらいました。「やっぱり…」と納得したね。
まずピッチャーが投げる、バッターが打つという流れの中で、外野手の瞬間的な動きがダメよね。
みんな膝に手をついて守ってるじゃないですか。あれって違うと思ってるんです。もっとテニスでサーブを待つときのイメージをしてほしいんです。
テニス界の女王、大坂なおみさんのパフォーマンスを見てください。ああいう感じ。
まぁ簡単にいえば「遊び」っていうかな。もっと体をユラユラユラ…って、あんな感じで守らないとダメですよ。
おれの時代のキャンプはは高知県の安芸でした。プロに入りたての若い頃、
外野からワンバウンドのバックホームをキャッチャーが捕れなかった。速いから。あまりにも送球が速いんで「ワンバウンド禁止令」が出た。
おれが見た紅白戦(12日)でも、内外野の間に落ちた打球があったでしょ。
あんなのも捕球できるぐらいのスタートを切る外野手じゃないとダメですよ。
最近センター守ってる選手いるでしょ。近本君だっけ。守ってるときの構えからちょっと違和感あるよね。
守備というのは、力を入れすぎてもダメなのよ。人生もそうでしょ? 人の上に立つ人って、そこがうまいんです。
新聞記者だって手書きで原稿を書くとき、力が入りすぎるとうまく字を書けないでしょ。守備もそれと一緒なんですよ。 この時代に黄金ルーキー佐藤がいたらどうなってたかな
中込に潰されて消えてたかな 野村阪神3年間で唯一本塁打が3桁に乗ったのがこの2000年だった
1999年→97本塁打、490得点
2000年→114本塁打、473得点
2001年→90本塁打、467得点 最多連勝と最多連敗
1999年 6連勝 12連敗
2000年 9連勝 9連敗
2001年 7連勝 7連敗 故・野村克也「野球の面白いところは、どんなに強くても40敗はする。どんなに弱くても40勝はする」
130試合時代の言葉
どんなに強くても90勝40敗.692
どんなに弱くても40勝90敗.308 楽天の創設年はもっと試合数あったのに40勝できなかったな おい……見てるかグリーンウェル……お前を超える逸材がここにいるのだ フランク・ハワードに並ぶ逸材と言った方が正しいかもしれない 阪神の得点圏打率4割打者
433 1991年和田豊
427 2003年今岡誠
426 1994年オマリー
421 1978年掛布雅之
402 1983年真弓明信
1985年阪神得点圏打率
355 真弓明信
392 R.バース
248 掛布雅之
377 岡田彰布
359 佐野仙好
391 平田勝男 藤川球児、今も忘れられない野村監督からの“2つの言葉” 1年目には元々長いもみあげを「もっと短くしろ」とも
https://news.yahoo.co.jp/articles/7a5af0423e42c724634b7070d980aa2fe3999d3e
番組の中で、藤川さんは「『野球人である前に社会人であれ』っていう監督の言葉は教訓かもしれないですね」と、今や野村さんの名言として広く知られるその言葉をかけられたとした上で、
「野村さんの素晴らしい所は人間教育。活躍しても驕らないとか、そういう部分は今の自分にも生きてます」と話し、現在も野村監督からの教えに感謝しているようでした。
さらに、その後楽天の監督に就任した野村さんが藤川さんのことを評した言葉がとても思い出深いと言い、「野村さんが『俺(が阪神監督)の時、こんなピッチャーいたかな』という話をポロっとされたんです。
普通は(忘れられたようで)悲しいんですけど、僕は『それだけ変われたんだ』と思ったんですよ。それだけ認められたと思いました」と、野村監督らしい褒め言葉から、自分の成長を感じ取ることができたと明かしました。
また、藤川さんは野村監督から特に怒られたのはルーキーイヤーだったと打ち明け、「僕、元々もみあげが少し長いんですよね。それを『なんだそれは、もっと短くしないか』と。
僕ただもみあげ長いだけなのに…と思いながら(笑)」ともみあげの毛を伸ばしていると誤解され困惑したというエピソードも披露。 阪神が自前でホームラン20本打ったことある選手
50年代 藤村富美男 三宅秀史 藤本勝巳
60年代 藤本勝巳 田淵
70年代 田淵 藤田平 掛布
80年代 掛布 岡田
90年代 八木 新庄 桧山
00年代 新庄 今岡 浜中 鳥谷
10年代 中谷
20年代 大山 得点圏
258 坪井
279 和田
253 タラスコ
319 新庄
210 大豊
257 ハートキー
227 矢野
260 田中秀 ノムさんのキャッチャー以外の守備
1961年 一塁1回 10/16
1962年 一塁4回 4/25 5/8 5/10 9/30途中から一 外野2回 5/13ライト 5/23途中からライト
1971年 (一塁1回・外野1回)8/14のダブルヘッダー2試合目に一塁でスタートしてライトに守備に付く。
指名打者 75年5回 76年6回 78年20回 80年1回 >>100
実際に1を返上して55になった
1は宙に浮いていたが翌年途中に移籍してきた谷中がつけた 江夏の阪神時代の巨人戦
67年 3勝2敗
68年 6勝3敗
69年 6勝4敗
70年 6勝5敗
71年 2勝6敗
72年 3勝3敗
73年 2勝3敗
74年 1勝5敗
75年 2勝2敗
計 31勝33敗 広島時代 対巨人4勝6敗
計・対巨人成績 35勝40敗 9完封 落合流三冠王の取り方
「打率を稼ぐのはピッチャー返し 数字が上がったらホームランを狙う 打率が下がったらまたピッチャー返し」 新庄「一本のヒットがなくても点は取れるってことを教えたい」
野村「私の究極の理想はノーヒットで1点取って完封で勝つこと」 日本ハム・新庄監督が低く強い送球にこだわる理由 自身は遠投134メートルも「全く意味がない」
https://news.yahoo.co.jp/articles/f34cef2b3dac6f817097c66068bfcb3c51c39bb7
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/11/09/kiji/20211109s00001173063000c.html
【記者の目】野球において強肩は重要な要素。新庄監督は自身のYouTubeチャンネル「新庄劇場」の中で遠投134メートルであることを明かしているが、
それは「全く意味がない。ただの自慢」とも言っている。なぜ意味がないのか。「野球は100メートル投げる場面ないよね。
外野手なら長くてもカットマンに投げる距離は40〜55メートルくらい。いかに素早く、ライナー性のボールを投げられるか」と解説している。
8日の低く、強い球を投げる練習は走者に無駄な進塁を与えないための練習だ。
打球を捕球した外野手がカットの位置に入った選手が届かないような山なりのボールを投げれば、
相手走者は中継プレーがないことを瞬時に確信して次の塁を狙ってくる。カットをする、しないにせよ、
低い送球は無駄な失点を防ぐことにつながる。 阪神タイガース
二リーグ制開始以降(1960〜)高卒生え抜き30号
掛布
1965年(ドラフト開始)以降高卒生え抜き規定打席3回到達者
藤田掛布新庄(平成以降は新庄のみ)
1965年(ドラフト開始)以降高卒100勝達成者
江夏
平成以降高卒生え抜き規定投球回到達3回
中込井川藤浪 「優勝なんか一切目指しません。僕は。優勝、高い目標を持ちすぎると選手というものはうまくいかないと僕は思っている。1日1日地味な練習を積み重ねて、シーズンを迎えて、何気ない試合、何気ない一日を過ごして、勝ちました、勝った、勝った、勝った、勝った、それで9月あたりに優勝争いをしていたら、さあ優勝を目指そうと。そこの気合の入り方が違うと思う。そういうチームにしていきたい。優勝なんかは目指しません」 >>71
翌年にきたカーライルがめっちゃ手を舐めてた記憶はある >>563
>活躍しても驕らないとか、そういう部分は今の自分にも生きてます
タクシー横入り事件は残念だった 現役選手のランクイン0人…新庄監督や往年のスターがズラリ 甲子園球場でのHR数TOP10
https://full-count.jp/2022/01/31/post1180542/2/
阪神甲子園球場の通算本塁打数TOP10
順位 本塁打 選手名 所属と内訳
1 144 掛布雅之 阪神(144)
2 139 田淵幸一 阪神(139)
3 128 岡田彰布 阪神(128)
4 125 真弓明信 阪神(125)
5 97 金本知憲 広島(12)、阪神(85)
6 91 ランディ・バース 阪神(91)
7 76 藤村富美男 タイガース(1)、阪神(75)
8 66 王貞治 巨人(66)
9 64 藤田平 阪神(64)
10 63 佐野仙好 阪神(63)
10 63 SHINJO 阪神(61)、日本ハム(2)
※2021年終了時点 甲子園球場で最も勝った投手は? 球場別通算勝利数ランキング1?5位【プロ野球通算成績】
https://www.baseballchannel.jp/npb/96441/
1位 村山実 117勝(阪神117勝)
2位 小山正明 91勝(阪神91勝)
3位 江夏豊 80勝(阪神80勝)
4位 若林忠志 78勝(タイガース20勝、阪神58勝)
5位 山本和行 59勝(阪神59勝)
6位 藤村隆男 51勝(阪神50勝、太陽1勝)
7位タイ 渡辺省三 49勝(阪神49勝)
7位タイ ジーン・バッキー 49勝(阪神49勝)
7位タイ 小林繁 49勝(巨人5勝、阪神44勝)
10位タイ 野口二郎 47勝(東京セネタース16勝、翼1勝、大洋12勝、西鉄3勝、阪急15勝)
10位タイ 福原忍 47勝(阪神47勝) 今岡
「セカンドはピボット、ゲッツーを取れる事を意識して欲しいですよね
肩が弱いセカンドは置きたくないですね」 >>583
【野球】パ・リーグ M 0-1 F[4/17] 日本ハム1安打で勝利!延長10回万波勝ち越し3号HR!ロッテ佐々木朗希8回パーフェクト14Kも無援護 ★2 [鉄チーズ烏★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1650188886/
1安打で勝っちゃった ○シーズン最低勝率ワースト5
1958年・近鉄 勝率.238(130試合29勝97敗4分)
1955年・大洋 勝率.238(130試合31勝99敗0分)
1954年・洋松 勝率.250(130試合32勝96敗2分)
1961年・近鉄 勝率.261(140試合36勝103敗1分)
1970年・ヤクルト 勝率.264(130試合33勝92敗5分)
○シーズン最多敗戦球団ワースト5
1961年・近鉄 103敗(140試合 36勝1分)
1955年・大洋 99敗(130試合 31勝0分)
1956年・高橋 98敗(154試合 52勝4分)
1955年・トンボ 98敗(141試合42勝1分)
2005年・楽天 97敗(136試38勝1分) 【緊急事態の虎】1996年 最下位低迷、藤田平政権の悲劇…なんと暴走虎ファン新幹線乱入!
https://www.sanspo.com/article/20200423-TAZQFBA2ORMHXE4WDPQMQSUKXY/
球団の管理体制がしっかり整った今では絶対に起きないであろう「緊急事態」が起きたのは1996年6月のことだった。
題して「暴走虎ファン新幹線乱入事件」。藤田平監督時代は本当にいろいろありました。
あれは千葉(現ZOZO)マリンスタジアムでヤクルトに3連敗した日の帰路だった。
球場そばのホテルを出た藤田監督とフロントらは、タクシーで最寄りの海浜幕張駅へ。JR京葉線で東京駅に向かう。
が、駅には家路に就くものすごい数の阪神ファンが。しかも、連日のようにふがいない虎を見せつけられて、
いらだちはMAX。このカードが始まる前の時点で通算15勝29敗。最下位。カード勝ち越しはわずかに3度。じり貧で借金が増え続けていた。
ところが、その車内にまで付いてきた暴走ファンが数人いた。何を血迷ったか、グリーン車内に乱入して監督に迫った。
球団史に残る緊急事態だったかもしれない。もちろん同行のコーチ、広報担当が怒る。制止する。
すると、監督は静かに指示を出した。「代表者を個室に呼んでくれ」と。
当時の新幹線には数人が入れる個室車両が存在していた。その一室で暴徒に説明した。
「今は確かに勝てていない。でも、自分も選手も一生懸命に戦っている。もう少し時間をかけて、見守ってほしい」。
やがて、暴徒たちは勝ち誇ったかのように個室を出て、姿を消した。
新幹線乱入事件が起きたのは6月2日、デーゲーム終了後のことだった。
この3連戦は5月31日が2-11、6月1日が0-9、2日も4-6で3連敗。その直前、5月28-30日の横浜戦(甲子園)で、
このシーズン3度目のカード勝ち越し(2勝1敗)を決めていたが、いいムードをぶち壊してしまった。ちなみに4月は7勝14敗、5月は8勝16敗だった。 今月5月13日(金)阪神タイガースvs横浜DeNAベイスターズの試合が雨天中止になりましたので
この年の2000年9月30日 阪神-広島 新庄剛志サヨナラホームランの試合が
SUNテレビ 虎辞書なる!!(20:00~21:24)で放送されました。 1994年
MVP票数 セ・リーグ
(1位に5点、2位に3点、3位に1点のポイントが振り分けられる)
79 29 18 計500 桑田真澄
39 30 21 計306 大豊泰昭
16 16 24 計152 川相昌弘
. 8 25 21 計136 山本昌広
. 9 23 17 計131 斎藤雅樹
. 4 12 15 計. 71 松井秀喜
. 3. 7. 6 計. 42 落合博満
. 1. 2 10 計. 21 槙原寛己
. - . 3 . 2 計 .11 江藤智
. - . 1 . - 計 3 今中慎二
. - . - . 1 計 1 村田真一
. - . - . 1 計 1 紀藤真琴
MVP票数 パ・リーグ
128 . 1 . - 計643 イチロー
1 21 17 計. 85 新谷博
- 24 . 7 計 .79 石井浩郎
- 19 13 計. 70 工藤公康
- 10 18 計. 48 佐々木誠
- 10 11 計 .41 伊良部秀輝
-. 7 10 計. 31 清原和博
- . 1 . 8 計. 11 赤堀元之
- 33 39 計138 白票 1995年
MVP票数 セ・リーグ
(1位に5点、2位に3点、3位に1点のポイントが振り分けられる)
62 36 21 計439 オマリー
53 46 26 計429 古田敦也
32 38 29 計303 ブロス
. 9 12 16 計. 97 土橋勝征
. 3 16 16 計 .79 野村謙二郎
. 3 . 5 12 計 .42 江藤智
. 1 . 3 11 計 .25 石井琢朗
. -. 1. 7 計 .10 山部太
. - . 1 . 5 計 8 斎藤雅樹
. 1. -. 1 計 6 吉井理人
.- .- .4 計 4 パウエル
. -. -. 1 計 1 高津臣吾
MVP票数 パ・リーグ
116. 8 - 計604 イチロー
8 84 6 計298 平井正史
- 3 13 計 .22 伊良部秀輝
- 1 17 計 .20 小久保裕紀
- 1. 8 計. 11 長谷川滋利
- 2 . 5 計 .11 グロス
- 1. 5 計 8 佐藤義則
- 1 . 2 計 5 初芝清
- 1 . 2 計 5 田中幸雄
- 1. - 計 3 D.J
- - . 3 計 3 フランコ
- -. 2 計 2 野田浩司
- -. 1 計 1 田口壮
- -. 1 計 1 ニール 1999年6勝16敗
4月1勝3敗
5月3勝1敗
6月0勝3敗
7月1勝3敗
8月0勝4敗
9月1勝2敗
2000年6勝10敗
4月4勝0敗
5月1勝2敗
6月1勝3敗
7月0勝0敗
8月0勝3敗
9月0勝2敗
2001年0勝4敗
4月0勝1敗
8月0勝1敗
9月0勝2敗 野村克也「栄光の記録」《01》王貞治とともに突出していた本塁打数【プロ野球回顧録】
https://news.yahoo.co.jp/articles/32e098b86695f7f0282434e5b69c61cf7dbff731
野村は63年にシーズン最多本塁打も記録した。それまでの記録は2リーグとなった50年に松竹の小鶴誠が記録した51本。
ちなみにパ・リーグ記録もその年の別当薫(毎日)で43本。戦後まもなくはハデなホームランが求められた時代で、
その前年から「ラビットボール」と呼ばれた飛ぶボールを使用して51本というとてつもない記録が生まれたのだが、その翌年からラビットボールを使用せず本塁打数は激減。
20本台の本塁打王もあり、現に野村も2度目のタイトルとなった61年は29本だった。51年から61年まで両リーグでの本塁打の最高は53年の中西太(西鉄)の36本。40本にすら届いていなかった。
ところが62年、野村は本塁打を量産した。51年以降では最多、パ・リーグ新記録の44本で3度目のタイトルに輝いた。セ・リーグでも「一本足打法」にした王が開花し38本塁打で初のタイトルを獲得した年でもある。
この年から飛ぶボールになったわけではない。パ・リーグで野村に次いだのは張本勲(東映)の31本。セ・リーグも2位は長嶋茂雄(巨人)の25本だから2人の本塁打数は突出していた。
この年、パ・リーグは130試合制の引き分け再試合を採用していたが(南海は134試合)、翌63年は150試合を施行。野村にとっては新記録を狙うチャンスだった。
この年もコンスタントに本塁打を放ち、52本の新記録がかかったのがチーム最終戦となった10月17日の近鉄戦。7回に最後の打席が回ってきたが3ボールとなり、四球の可能性が出てきた4球目を野村はフルスイング。
打球は左中間スタンドに吸い込まれ見事に日本記録を達成した。一方、王はこの年初の40本塁打をマークするのだが、この時点で野村は通算233本塁打、王は通算115本塁打。
通算で野村が王にもっとも差(118本)を付けていた時だった。
東京オリンピックが行われた64年、王は55本塁打を放ち、あっさり野村のシーズン記録は塗り替えられた。52本塁打は85年に三冠王を獲得した落合博満(ロッテ)に並ばれたが、
01年のローズ(近鉄)の55本に抜かれるまで38年間パ・リーグ記録だった。 藪の完封と巨人戦
年 完封 日付と相手 巨人戦勝敗
1994 1 5.24巨 2勝2敗
1995 2 4.14巨 5.10横 1勝4敗
1996 1 5.30横 2勝3敗
1997 1 4.13巨 3勝3敗
1998 2 4.15ヤ 9.24ヤ 3勝1敗
1999 2 4.23ヤ 5.11ヤ 1勝4敗
2000 1 4.27広 4勝4敗
2001 0 0勝0敗
2002 2 4.30中 10.10中 0勝2敗
2003 0 2勝0敗
2004 1 6.8広 0勝1敗
13回 18勝24敗 この年と前年の井川の登板
1999年7登板3先発 5.2 5.7 5.12 5.15 ←中継ぎ・先発→5.19 6.1 6.16
2000年9登板5先発 8.12 8.16 8.19 8.20 ←中継ぎ・先発→ 8.26 9.3 9.17 9.24 10.3
そして翌年ブレイク プロ野球マスコット 古い順
1 1978年 西武 レオ
2 1987年 阪神 トラッキー (オーロラビジョンのアニメーションキャラクターとしてデビューしたのは1985年)
3 1992年 巨人 ジャビット
3 1992年 SB ハリーホーク
3 1992年 ロッテ マーくん
6 1994年 中日 ドアラ
7 1994年 YS つば九郎
8 1995年 広島 スラィリー (ただしカープ坊やは1975年から)
9 2005年 楽天 クラッチ
10 2011年 Bs バファローブル
11 2012年 横浜 スターマン
12 2016年 ハム フレップ・ザ・フォックス
過去のマスコット
巨人 ミスタージャイアンツ 1964年10月
近鉄 バッファ君 1976年
大洋 マリンくん 1978年
阪急 ブレービー 1981年
オリックス ネッピー 1991年
横浜 ホッシー 1993年
ハム ファイティー 1993年
近鉄 バフィリード 1997年 1985年
MVP票数 セ・リーグ
(1位に5点、2位に3点、3位に1点のポイントが振り分けられる)
230. 4. 3 計1165 バース
4 170 46 .計. 576 岡田彰布
2 35 68 計 .183 掛布雅之
- 15 74 計. 119 中西清起
- .7 22 計 43 真弓明信
1 .- .- 計. 5 山本浩二
- .- .1 計 .1 吉村禎章
- .- .1 計 .1 小松辰雄
- .- .1 計 .1 杉浦享
-. -. 1 計 .1 福間納
MVP票数 パ・リーグ
194 12 3 計1009 落合博満
.14 148 10 計. 524 東尾修
- 7 56 計 77 石毛宏典
1 7 43 計 69 秋山幸二
- 3 18 計 27 佐藤義則
- 2 10 計 16 渡辺久信
- - .8 計. 8 金森永時
- 2 .- 計. 6 伊東勤
- - .5 計. 5 工藤公康
- - .4 計. 4 村田兆治
- 1 .- 計. 3 荘勝雄
- - .2 計. 2 石本貴昭
- - .1 計. 1 郭 泰源
- - .1 計. 1 松沼博久
- - .1 計. 1 デービス
- - .1 計. 1 熊野輝光 >>617
山本浩二に1位票を投じたやつ気色悪いな
ノンタイトルだしチームも優勝してない
リーグ全体を見られていない視野狭窄な広島番記者か 【野球】元阪神・掛布雅之氏のYouTubeチャンネルに、1985年優勝メンバーの岡田彰布氏、真弓明信氏がゲストで登場し話題 [jinjin★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1664545796/ 阪神・岡田彰布新監督「矢野前体制」からの転換宣言 礎にあるのは野村克也氏から学んだ「守りの野球」の極意
https://news.yahoo.co.jp/articles/dc9509ca8ebfb48cf5e018902dab7ae084adb4ab?page=2
ノムさんと話したことはほとんどないが、勉強したことはたくさんある
野村氏が亡くなった2020年のシーズンオフ、本誌・週刊ポストの取材に対して岡田氏は、阪神監督だった当時の野村氏との関係についてこう話していた。
「ほんま、おかしな関係やったで。一軍監督と二軍監督の関係やいうのに、野村さんとはほとんど直接話したことがなかったんや。
3年間、野村さんは1回も(阪神の二軍球場がある)鳴尾浜には顔を出さんかったんちゃうかな。二軍から選手を上げる時も、
ヘッドコーチと相談しとったかな。そやから会うのは、シーズンの開幕時、オールスター休みと納会の時ぐらいやったと思う」
そんな関係のなかで、一番印象に残っている野村氏の言葉について、こう振り返った。
「野村さんが監督に就任されて、最初のスタッフの顔合わせの時に言われたんが、“二軍の若い選手は短所を直せ”ということやった。
二軍選手は長所を伸ばしてやらなアカンと考えとったから、このオッサンえらいこというなと思ったのを覚えている。
野村さんの持論は“長所は放っておいても伸びるもの。やるべきことは短所の強化”ということらしいが、短所は直らんよ。
特に今の子供たちは長所を見つけて伸ばしてやらないとと思う。監督の指示やから無視はできんかったが、これは難しかった」
当時、野村氏はチームの状態を見て「平均的な選手が多いな」とボヤいていたという。
その結果、ドラフトでも赤星憲広に代表されるように一芸に秀でている選手を指名するようになった。
岡田氏は「長所がはっきりしているタイプの選手を指名するのは矛盾していると思ったけど、
阪神の選手を見て野村さんも考えが変わったんちゃうかな」と話していた。
「野村さんらしいというか、奇妙な関係の3年間やった。ただ、2004年に阪神の監督に就任した時、
データを重要していた野村さんのID野球はおおいに参考にさせてもろた。
すでに野村さんの考えがコーチやスコアラーにも浸透していたからな。あと参考にしたのは投手を中心にした『守りの野球』やな。
南海時代、野村さんは江夏豊さんをクローザーにした。オレは7回以降が重要やと思っていたから、7回、8回、9回を3人の投手に任せることにした。
それがJFKや。二軍監督時代に藤川球児が“もう先発ができない”と話していたので、その頃から温めていた構想やった。
野村さんの野球を勉強させてもろうて、この起用法を確立させたということになる。現役時代から、
7回になるとラッキーセブンやいうて攻撃陣が活気づくのであれば、守備側が7回を抑えたらええんちゃうかという発想をしとった。
野村さんからオレに対して多くの言葉はなかったが、野村さんのこと見ていて、オレも野球への探求心が身についたんちゃうかな」
15年ぶりに阪神の指揮を執る岡田氏。もともと今のチームは安定した投手陣と日本人スラッガーを揃え、リーグ屈指の戦力といわれていた。
前体制から受け継ぐ部分と、変革させる部分がどのように組み合わせられるのか。岡田氏の「探究心」がチームに大きな変革をもたらすことになりそうだ。 直近の日本一を達成した年
1984年 広島
1985年 阪神
1998年 横浜DeNA
━━━21世紀の壁━━━
2007年 中日
2008年 西武
2010年 千葉ロッテ
2012年 巨人
2013年 楽天
2016年 日ハム
2020年 ソフトバンク
2021年 東京ヤクルト
2022年 オリックス←New
オリックスが26年ぶりの日本一に >>625
舩木は95年ドラ1なのにルーキーイヤーを96年と紛らわしい表記になっている
こういうの嫌い 「野村克也さんは“弱者の理論”なんです」「代打でもいいから阪神、来るか?と」通算306本塁打・広澤克実が感謝する“ノムさんの教えと情”
https://news.yahoo.co.jp/articles/97195793f8d13d93bf67ca400c863f2b2ce47c14
野村さんがお亡くなりになった後にご自宅にお伺いしたんですが、本棚にはものすごい数の本があった。野村さんに知恵を与えたのは本だったんだと思いました。経済学、経営学、歴史の本。いろんな著名人の本もあった。
僕も経験あるけど、本って何百ページもあっても結局自分にとって役に立つところって十数ページしかないんですよ。野村さんは何百冊も本を読んで、その大事な部分の話をしてくれた。何百冊分の知恵を僕らにつけてくれたんだと思います。
そしていろんな本の内容を、野球に置き換えて教えてくれた。日本の戦国武将が、中国の歴史をすごく勉強していたように、いろいろ学んで応用していたんです。すごく勉強された人だなと思います。
それに引き換え、今の監督は何の勉強しているのかと思いますよ。バッターとピッチャーの交代しかしませんからね」
「例えばエースが一番いいボールを投げてくる。バッターの弱いところ、強いところを考えて投げる。ここはホームランを打たれちゃいけない状況なのか、引っ張られちゃいけない場面なのか、投手の立場に立って、配球をいろいろ考えなさいと。
配球は高めか低めかストライクかボールか、この4パターンの組み合わせしかないので、その中で考えなさいと。単純な捕手ほどそのパターンにはまって配球をするので、読むことができるようになりましたね。
阪神の監督になったノムさんが声をかけてくださった
失意の広澤氏に声をかけたのは、恩師の野村克也だった。
「阪神の監督に就任しておられて“お前、どうすんや”って声をかけてくださって。“監督、もうボール投げられないんですよ”と言ったら“代打でもいいから来るか?
”ということになった。ただし条件があって“トレードはダメだ”と。誰か選手を交換しなければならないから、それに“金銭トレードもだめだ”と。“お前が自由契約になるのが条件だ”ということだったので、
まだシーズン中に巨人の球団社長に自由契約にしてくれとお願いしました。
“なぜだ? ”と言われたので、狭い野球界のことだから嘘をついても仕方がないので、本当のことを言いました。ライバル球団だから難しいかなと思ったら、“ああいいよ”ってあっさり移籍が決まりました」 【阪神】岡田新監督の「佐藤輝ダメ出し」に物申す!〝毒舌〟野村克也氏との違いを伊勢孝夫氏が指摘
https://news.yahoo.co.jp/articles/b75cf59dc252a250658a1e54073b71077fa16aa2
非難の仕方は慎重に――。阪神・岡田彰布新監督(64)が、佐藤輝明内野手(23)を「入団した時が一番良かった」と酷評し、来季のレギュラー起用白紙を示唆した一件は、大きな衝撃をもって受けとめられた。
その素質を高く評価した上であえて口にした〝愛のムチ〟であることは間違いない。だが、本紙評論家の伊勢孝夫氏は「無視・称賛・非難」の指導法でも知られる名将・野村克也氏の教えを引き合いに出し
「努力と個性を尊重し、時代に即したコーチングを」と提言した。
【新IDアナライザー・伊勢孝夫】三流の選手は「無視」しはい上がるのを待つ。二流の選手は「称賛」し成長を促す。一流の選手は「非難」し、さらに高いステージへたどり着くよう導く。
私がヤクルトの打撃コーチ時代に仕えた野村監督を象徴する、あまりにも有名なメソッドだ。だが、ノムさんは選手を非難するにしても「一死三塁で犠飛くらい打ってくれや。ぎょうさん給料もらっているんやから」程度のもの。
「グリップの位置」や「スタンスの広さ」など技術的な部分で選手たちを非難することは一切なかった。
それはなぜか? 選手一人ひとりの打撃スタイルは、それぞれの個人にしか分からない感覚があってこそ成り立つものであり、それらは「しっかりと尊重すべきものだ」との考えがあったからだ。
もし、どうしても修正が必要と思うなら、監督、打撃コーチ、選手の3者でしっかりと話し合いの場をつくるところから始める。それだけに今回のように、マスコミを使い一方的に〝非難〟を展開するやり方に私は違和感を覚えた。
とはいえ、そこは指導者歴も豊富な岡田監督のこと。見えないところで佐藤輝に対しフォローはしていると思いたい。 初の現役ドラフトで見えた課題 全球団2巡目指名なし「会議はスムーズ」も「難しい」
https://news.yahoo.co.jp/articles/2ce97454e47af92407f452a3303c5533d99cea31
https://www.nikkansports.com/baseball/news/202212090000105.html
各球団の獲得選手一覧は以下の通り。()は前所属
オリックス 渡辺大樹(ヤクルト)
ソフトバンク 古川侑利(日本ハム)
西武 陽川尚将(阪神)
楽天 正隨優弥(広島)
ロッテ 大下誠一郎(オリックス)
日本ハム 松岡洸希(西武)
ヤクルト 成田翔(ロッテ)
DeNA 笠原祥太郎(中日)
阪神 大竹耕太郎(ソフトバンク)
巨人 オコエ瑠偉(楽天)
広島 戸根千明(巨人)
中日 細川成也(DeNA)
対象となりえる選手
12月2日に公示された「契約保留選手名簿」に記載された選手から以下の8項目に当てはまらない選手
(1)外国人選手
(2)複数年契約選手
(3)来季年俸5000万円以上の選手(1人は5000万円以上1億円未満も可)
(4)FA権を行使したことのある選手
(5)FA資格選手
(6)育成選手
(7)前年シーズン終了後に選手契約の譲渡(トレード)で獲得した選手
(8)シーズン終了後に育成から支配下になった選手。 阪神もラッキーゾーン撤去してから30本打った日本人選手いない所は一緒か 打順は5番か6番
守備位置が固定されるなら
大山にもチャンスがある ダルビッシュ有、データ信奉で「考えなくなった」野球に危機感 …元祖「ID野球」のノムさんならどう思うのか
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b39284e1a3de0a38e5938f2278faf514c036251
MLBでは “AI審判” の導入が議論されるなど、野球のあらゆる面で「データ化」が進む。「データ野球」といえば、日本のファンは「ID野球」を提唱した故・野村克也氏を思い浮かべるだろう。
いま、ノムさんがここまで進化した解析技術を見たら、なんと言うだろうか――。
ノムさんの元マネージャーで、日米間移籍選手の元代理人の小島一貴氏がこう語る。
「野村監督は『ID野球』という表現を使って、まさにデータ重視の野球を掲げていましたが、よくよく話を聞くと、たとえば『データに振り回されてはいけない』とか、
『その日の選手の表情や雰囲気はデータを超える』といったことも言っているんですね。
野村監督が楽天をやめた2009年くらいまでは、当日や直近の調子などはすぐにデータに反映されなかったので、とにかく監督は選手の様子を自分の目で確かめて、決断していました。
元キャッチャーらしい発想かもしれませんが、『データよりも観察することのほうが大事だ』と言っていました。
ID野球といってもデータはあくまで目安で、データだけでやっているわけじゃないという感じでしたね。
いまのメジャーの野球というのは、たとえば『このバッターの打球は何パーセントこっちに飛ぶから、一、二塁間に野手3人を置くんだ』というように、選手の調子など関係なくデータ第一の印象です。
一方、野村監督は『緩いカーブを引っ張ってファウルにした後に真っすぐを反対方向にファイルにしたから、これはどっちの球種にも対応するスイングをしているんだな』とか、
『真っすぐを引っ張ってファウルにしたから真っすぐ狙いだな』といった、観察を大事にしていました。
そういうバッターとピッチャーの駆け引きが、いまのメジャーではあまり見られません。このコースにこの球種が弱いからそれを多投する、みたいになっています。
とくにリリーフは、スライダーしか投げないような極端なピッチャーもいるわけです。もともと野村監督は『メジャーではあんまり配球を考えていない』と言っていましたが、
テクノロジーが向上した結果、効率性や確率重視の傾向がさらに強まっています。
ここまでデータが細かく出るようになった現状を見て、監督がなんと言うかは非常に興味がありますね。常々監督はピッチャーについて、速球派であろうと技巧派であろうと、ストレートが大事だと言っていて、
ストレートもスピードはただの目安で、『スピードガンの “スピード” があっても “スピード感” がないのはダメ』みたいなことを言っていたんです。 星野伸之さん 阪神へのFA移籍時、イチローから譲り受けたバットにノムさんが使用NG なぜ?
https://news.yahoo.co.jp/articles/28ed3f98ce065965c6371b17904b44ce57577717
2000年にオリックスから阪神へFA移籍。DH制を導入しているパ・リーグ球団からの移籍で、打撃に自信がなかった星野さんは「気持ちだけちょっとイチローになりたいな」
との思いからオリックス時代の後輩である天才打者、イチローさん(49)に自ら「ちょうだい」と言ってバットを譲り受けたという。
だが、移籍先の阪神で指揮を執るノムさんは「そのバットじゃバントも当たらないからダメだ」と“打ち出の小づち”をバッサリ。
通常より細めとなっているイチロー仕様のバットでは送りバントもできないとして、使用NGが出たという。
「“もっと太いの使え”って言われて」と星野さん。番組内で公開されたそのバットには未使用を表すように透明のセロファンがかぶせられたままで、
グリップエンドにイチローの背番号51が刻まれたバットは今でも大切に保管しているようだった。 お宝だな
エピソード込みで
北陸の某金持ちが存命なら高く買ってくれたことだろう https://www.nhk.jp/p/ts/2Z9KQ1XMJQ/episode/te/77RZ2131N1/
レジェンドの目撃者 ~星野伸之~
初回放送日: 2023年2月27日
ストレートの平均球速は120キロ台後半。ところが歴代22人しか達成していない2000奪三振を記録!
“遅球王”と呼ばれた異色のレジェンド・星野伸之の伝説をひも解く
今回のレジェンドは“遅球王”星野伸之。ストレートの平均球速は120キロ台後半。ところがプロ野球史上22人しか達成していない2000奪三振を記録。
長年オリックスのエースに君臨し、11年連続二桁勝利も記録したレジェンドだ。
阪神・淡路大震災が起きた年に「がんばろうKOBE」を掲げ、オリックスの初優勝に貢献した立役者でもある。果たして星野はどのようにしてチームに栄光をもたらしたのか。
星野伸之伝説をひも解く 名将・野村克也監督が説く「教えること」よりも大事な「リーダーの本当の仕事」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9fcfa354cf7700c46c5d1ba812e60a1c9088878a
なぜコーチは「教えたがる」のか?
「コーチをたくさん雇うのは、引退後の就職口でしょ。引退後も球団に残して生活を保障してやる。
コーチたち自身もそれがわかっているから、職を失わないように自分をアピールしたい。
教えないで見守っているだけだと、仕事をしていないように見られると思っているんだろうな。
だからあれこれ教えたくなる。でもそれじゃあ、選手のためにはならないんだ」
コーチや上司が本当にやるべきこと
「今のコーチは教えすぎ」という言葉も、監督によるプロ野球界の現状分析である。
その現状を踏まえた上で、どうしたらよいのか。監督の解答は「指導者は気づかせ屋」という言葉だった。
「気づき」のヒントを少しだけ与える
アドバイスを送るときに大切なのは、模範解答を一から十まで、すべて与えるようなことをしないことだという。
「気づき」のヒントになるようなことを一つ二つ言い与え、選手がそれを元にさらに考えて工夫し、結果が出るようになればベスト。監督はそんなふうに考えていたようだ。
「教えないコーチがいいコーチ」
「アメリカには、『教えないコーチがいいコーチ』という言葉があるらしい。
あれこれ教えて選手に技術を習得させようとするコーチは二流で、必要最低限のアドバイスだけで選手を伸ばすコーチが一流だと。日本のプロ野球界も、その点は見習ったほうがいい」
監督は、努力している選手たちを何とか伸ばしてやろう、活躍させてやろう、と常々考えていた。それほどまでに選手に「情」を寄せていたからこそ、選手を伸ばす方法、長く活躍させる方法を考え抜いていたのだろう。 井川慶氏が提唱「お酒を飲むと球速が落ちる」説 先輩を見て「飲むと落ちる」新庄監督は「コーラ」愛飲
https://news.yahoo.co.jp/articles/3647f47ff4f0cc64af868545670837d9f53a0daf
2人とも茨城県出身で方言全開のトークを繰り広げる中、話題はプロ野球選手の飲酒について。井川氏は先輩から飲まされることはなかったと明かし
「先輩方を見てて、いっぱいお酒を飲んでいらっしゃって、30歳を過ぎたらガクンと球速が落ちる方がいっぱいいらしたので」。その上で「これ飲むと落ちるなと。
飲んだら無理だなと思っていた」と激白した。
これには大久保コーチも大爆笑。さらに阪神の選手から若手時代に外出していなかったエピソードを聞いたといい、井川氏に問いただすと「寮の居心地がよくて、食事がすごくいいですし。パチンコもやらない」と返答。
さらに日本ハム・新庄監督と現役時代、よく一緒に食事に行っていたと明かし「新庄さんもお酒を飲まないので。コーラばっかりなんで。お寿司とか、焼き肉とか連れて行ってもらいました」と語っていた。 名将・野村克也監督が説く、監督にとって「采配」よりも「大事な仕事」
https://news.yahoo.co.jp/articles/8b3b4797ffdd8faa89d1d4deaba131008bb3624f
ヤクルト時代はフロントの協力も手厚く、「自分が思う通りのチーム作りができた。
ドラフトもオレの意向に沿ってくれたし、トレードや外国人選手の補強もがんばってくれた」と振り返る監督。
それだけに直後の阪神では、ヤクルトとの違いに戸惑ったようだ。フロントの協力が得られず業を煮やした監督は、当時の久万俊二郎オーナーに直談判した。
「野村監督なら四番バッターも育てられるでしょう?」と言うオーナーに対し、「四番とエースは育てられない。
いないならFAやトレードで連れてくるか、ドラフトで有望株を獲得するしかない」と反論。
加えて、「阪神は監督をコロコロと替えているが、それでチームが強くなると思ったら大間違い。
監督の采配で勝てたという試合はシーズンに5試合もあるかどうか。今の野球で大事なのは編成部です」と主張したのだそうだ。
監督の最大の仕事は「準備」である
かなりの激論になったと監督は語っていた。しかし後日「野村君の言うことには頭にきたこともあったけど、
もっともだと思うところもあった」というオーナーの感想も耳に入ってきたという。
実際に阪神は編成部にテコ入れし、監督が退任したあとの2003年と2005年に優勝したが、
「オレは阪神では何もできなかったけど、唯一貢献したのは編成部のことだけ」と監督も振り返っていた。 吉田豊彦が名将・野村克也から学んだ「内角球論」と「25分割の野村スコープ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1be19bf662bd4cbe39151e681ff398344b572b2b
■毎日1時間、2時間のミーティング
トヨさんにとって、復活の兆しが見え始めた1999年シーズン。阪神の新監督に就任したのは、野村克也氏だった。経験や勘に頼らず、データを重視したいわゆる「ID野球」を確立させ、弱小チームだったヤクルトをリーグ優勝4回、3度の日本一に導いた名将である。
「毎日1時間、長いときは2時間以上もミーティングをしました。『選手の前に社会人たれ』というのが大前提で、『社会人たるものは......』という話に始まり、『投手編』『野手編』と、それぞれのテーマの中で話されました。
『ピッチャーとしての心構え』『打者の見方』などたくさんありますが、当時、自分の中で一番心に響いたのは『内角球論』。インコースに攻める意味や効果、使い方について教えていただいたのですが、『内角に投げられない投手は、プロの世界でメシは食べていけないぞ』と言われたことが、自分の中ではものすごく響いて練習しました」
もうひとつ、技術的に大きな学びとなったのは、捕手の構えるミットを中心にコースを分割した「野村スコープ」だった。
「野村スコープ」は、もともとは野村氏がテレビ朝日の解説者だった1984年、視聴者に野球の面白さをわかりやすく伝えるため、ストライクゾーンを画面上に表示して投手の配球を予測するために始めた。今ではメジャーリーグ中継でも活用されるなど、広く知れ渡るものとなった。
一般的にはストライクゾーンを9分割したものが知られているが、当時トヨさんが野村氏から教えてもらったのは、ストライクゾーンの9マスに加え、外側の16マスも含めた「25分割」だった。
「今、高知FDの選手には、ストライクゾーンを真ん中からふたつに分けた2マスだったり、あるいは4マスに分けて、『しっかりとゾーンに投げ込め』という話はします。9マス、まして25マスも投げ分けられませんから」 4マス…中学生並の制球力やな
それでも緩急が使えたらなんとかなるんか 【野球】巨人OB、阪神を「ライバル」と言うのは「無理がある」「22対1」 阪神OB無言、川藤氏が苦しい反論 [ネギうどん★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1693100112/ 江夏を口説き、マスコミを味方につける! 野村克也の企業戦略=フレーズ術
https://news.yahoo.co.jp/articles/dcf80b42d44f60f12548eb726d1acff7ba540790
野村は自分のことを月見草になぞらえた。一生懸命咲いているのに、誰にもじっくり見てもらえない。
野村が通算600本塁打を放った1975年、マスコミの取材でのあの言葉が生まれた。
「王貞治と長嶋茂雄。ONコンビが太陽を浴びるひまわりなら、私はひっそり野に咲く月見草」
野村監督兼捕手は、自分が打っても、チームが勝っても、何とかマスコミに取り上げてもらおうとした。
「こういう見出しで、こういうネタの記事はどうや。新聞、売れるで!」
語呂を考えたり、韻を踏んだりして、新聞の見出しをみずから提供するようになったのだ。
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
不振とはいえ、根っからの野球好きな江夏は、夕飯後毎夜、野村と野球談義を重ねた。夜11時から実に朝5時までだ。2人のタバコの吸い殻で、灰皿が山盛りになった。
「豊、もう先発完投は厳しい。でも、幾多の修羅場をくぐり抜けてきたお前の投球術は他の追随を許さない。これから野球界は、先発・中継ぎ・抑えという分業制の時代がくる」
「先発完投こそ、投手の花だ」
「お前がリリーフの分野で、日本球界に革命を起こしてみろ!」
「カクメイ!? 革命か…。わかった。やったるわい!」
江夏への口説き文句は前もって考えていたのか、と野村に訊いた。
「いや、自然に口をついて出た。いつもマスコミ対策に頭をひねっていたのが、とっさに役立った。プライドの高い江夏の心の琴線に触れたんだろうな」
江夏は言った。
「お互い疲れて眠くなってきたとき、不意にあの言葉を聞いた。オレは司馬遼太郎の『燃えよ剣』が愛読書。革命とか維新という言葉に心ひかれる」
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」。野村語録のひとつだが、これは中国古典『孫子の兵法書』からの引用だ。
野村はこうも言っていた。
「マスコミ操作もプロ野球の監督の仕事。だから、ときにはバカな話のひとつも言わなきゃいけないこともあるんだよ」
そんな土壌があったせいか、私が野村の書籍の取材企画を担当するとき、毎回、訊かれたものだ。「今回の本のタイトルは何だ? 売れそうか?」。
【まとめ】注目を浴びるプロ野球の監督は、球団の広報宣伝部長も兼ねていると言っても過言ではない。試合に勝つだけでは取り上げてもらえない時代。「ここ一番」の場面には、入念に準備したフレーズも必要なのだ。 ____
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| `l ̄ / \ クビになった33歳が、阪神テスト入団後にリーグ最多登板。4年連続最下位のチームで奮闘した伊藤敦規【逆転野球人生】
https://news.yahoo.co.jp/articles/dade142f9b6a4c250bc34dbae2f713e310eadbd9
35歳を過ぎて迎えた全盛期
驚くべきことに、伊藤の全盛期は35歳を過ぎてからだった。1点を守るリリーフの仕事の面白さに目覚め、阪神加入後の97年から5年連続で年間50試合以上の投げっぷり。
野村克也監督の就任後も重宝され、37歳になった2000年シーズンにはリーグ最多の71登板で防御率1.86。シュートやシンカーを投げ分け、生命線のインコースをつくストレートで強気に攻め、
八木沢荘六投手コーチも「スーパーマンのような男ですよ」と信頼を寄せた。古巣の熊谷組野球部は不況で休部となったが、クラブチームとして再始動する際、
仲間たちは崖っぷちから甦った伊藤の姿に元気づけられたという。評論家の杉下茂は、「阪神に移って開き直ったかのような、いい意味での思い切りのよさが見られる。
下手投げ投手のほぼ理想型といってもいいだろう」とその投球フォームを絶賛した。
だが、伊藤がフル回転した時期、98年から2001年の阪神は4年連続最下位に沈む暗黒期真っ只中。そういうチームが苦しい時期に投手陣最年長の背番号47は誰よりも多くの試合に投げ続け、
求められれば4イニングのロングリリーフも厭わなかった。かと思えば、サウスポー遠山奨志のあと右の伊藤がワンポイントで繋ぎ、一塁に回っていた遠山が再びマウンドへという変則的な継投策も黙々とこなす。
それでも、いつだってマウンドに上がれる喜びの方が勝った。どんな使われ方をしようが、仕事があるだけラッキーってもんさ。いつか先発に戻りたいと考えていたが、
周囲に起用法に対する愚痴や不満をこぼすのではなく、これもいい経験と笑い飛ばした。野球人生に無駄なことなど何一つない。地獄から生還したリリーバー伊藤敦規は己が歩んだ道を振り返り、こんな言葉を残している。
「僕はオリックス時代にろっ骨を骨折してから勝てなくなってしまって、横浜でも先発でしたが、あの2年間は遊んでいたようなものでした。ヒザを痛めてしまって、全然ダメでしたからね。でも今考えるとあの2年間、それこそヒザを痛めていたので、上半身ばかり鍛えていたんです。阪神に来てこうして投げていられるのは、そのときのトレーニングのおかげかなとは思っていますよ」(週刊ベースボール99年8月30日号) クルーズだな。
2001年6月9日の東京ドームでクルーズは1日3本もホームラン打った 阪神OB・桧山氏、スタメン剥奪も野村監督のボヤキで野球観に変化【マルコポロリ!】
https://news.yahoo.co.jp/articles/adc19114880b3aa117d9f0962bd4c4d5828dce02
東野幸治がMCをつとめる『マルコポロリ!』(カンテレ)は11月26日、阪神タイガースの38年ぶり日本一を記念し、オンエア時間を拡大して「祝・阪神日本一!歴代優勝戦士ぶっちゃけSP」を放送。
阪神の歴代優勝戦士である桧山進次郎氏、能見篤史氏、井川慶氏がゲストで登場する。
1992年のプロ入りから2013年の引退まで、阪神ひと筋だった桧山氏は、大きな影響をうけた2人の名将のエピソードを披露。
1999年に故・野村克也氏が監督に就任すると、若手起用が増えたことで桧山氏はスタメンを剥奪された。試合に出られず、ベンチでずっと野村監督の「ボヤキ」を聞くはめになったが、
これが桧山氏の野球観をガラリと変えたという。 野村克也「野球バカではダメ。野球人生なんてたかだか20年。それから先の人生の方が長い。だから野球人たる前に、社会人たれ」
野村監督の著書より
>チームが弱いときほど、選手間で問題が起きていることが多い。
>よく腐ったミカンと言うが、プロ野球でも例外ではない。
>また、悲しいことにそれほど大した事のない選手ほど後輩に偉そうにするものだ。
>特に甲子園などで騒がれた選手は、その気質がプロになっても抜けない。 【野球】元阪神ノーヒッター・川尻哲郎氏が松竹芸能所属 スポーツバー店主+芸能界「二刀流」挑戦 「OBとして露出させてもらえれば」 [ニーニーφ★]
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1702809243/ 【野村克也の育成術】人間は「無視・称賛・非難」の順で試される
https://news.yahoo.co.jp/articles/12fbbf167a3b06662adc4ef6bd8cd183d5454aea
戦後初の三冠王で、プロ野球4球団で指揮を執り、選手・監督として65年以上もプロ野球の世界で勝負してきた名将・野村克也監督。没後3年を経ても、野村語録に関する書籍は人気を誇る。それは彼の言葉に普遍性があるからだ。改めて野村監督の言葉を振り返り、一考のきっかけとしていただきたい。
野村克也が現役時代の上司は「親分」鶴岡一人だった。
「ワシが似たところは、選手への接し方だ。箸にも棒にもかからぬ二流は無視、そこそこの選手は称賛、一流は勘違いしないように非難して、常に緊張感を持たせ、さらなる高みを目指させた。また、選手をほめるときは、マスコミ経由というところを参考にした」
一方、「反面教師」にした部分もあった。軍隊帰りの鶴岡は「精神野球」の最たるものだった。失敗すればビンタ、正座。また、すべてが「結果論」に終止した。勝てば喜び、負ければ怒る。原因と結果を連動させない。
野村はそんな精神野球に嫌気がさし、「気力、体力、知力」を結集して、「考える野球」を標榜するようになる。
「称賛」は一流への足がかり
野村の入団はテスト生、ブルペン捕手からのスタートだった。2年目にはクビの宣告を受けた。
「どうしてもクビと言うのなら、電車に飛び込みます」
親会社の電車に飛び込まれたら困る。球団はクビを撤回した。
野村はプロ3年目に129試合に出場してレギュラーの座を奪取。
それでも、球場入りしてきた鶴岡監督にあいさつをしても、無視され続けていた。意図的なのか無意識なのか、聞こえているのかいないのか。
しかしプロ4年目、球場でのすれ違いざまだった。
「鶴岡監督、おはようございます」
「ノム、最近ようなったな」
「(鶴岡監督が自分をほめた?)」
正捕手、4番打者になってからも無視され続けていた野村を、人をほめない大監督・鶴岡がほめた。
「自分もそこそこの選手になったと考えていいのだろう。自信とは不思議なもので、対戦投手がみな格下に見えたものだ」
野村はこの1957年、30本塁打をマークして、初めて本塁打王のタイトルを獲得するのである。
結果的に野村の監督最終年24年目。「無視、称賛、非難」の3段階評価は、教え子たちの間でも浸透していた。
「まだ非難(一流)とまではいかなくても、無視ではなく、称賛されるまでになったのか」
一流には厳しく接して、さらなる高みをめざさせる
野村の現役時代の西鉄(現・西武)監督・三原脩は味方の中心選手、中西太や稲尾和久を“ほめ殺す”タイプの監督だったそうだ。
逆に20年以上も南海(現・ソフトバンク)の監督を務めていた鶴岡一人は、相手の「怪童」中西太の豪打、「鉄腕」稲尾和久の快投をほめ倒し、味方の中心選手をけなしまくった。
「中西こそプロ中のプロや。それに引き換え、お前、一流は打てんのう。ゼニはグラウンドに落ちているが、お前はゼニにならんのう」
プロ野球選手はグラウンドで活躍してこそお金が稼げるもの。現在なら立派なパワハラ発言だが、野村は現役を引退してから鶴岡が自分を認めてくれていたと分かったようだ。
監督時代の野村は選手に対する辛口、ボヤキで鳴った。プロ2年目以降の古田敦也、ゴールデングラブ賞7年連続7度受賞の飯田哲也は異口同音に語る。
「野村監督にほめられた記憶はありません。とても厳しい監督でした」
それは古田も飯田も、早くから一流と認められていた証である。
まとめ / ビジネスパーソンもプロ野球選手も指揮官の評価や言葉を気にしている。「無視、称賛、非難」の3段階評価は、部下を育成するための有効な手段の1つなのかもしれない。 マー君の威を借る安楽智大似事件?
女性が性暴力・いじめが原因でPTSDを発症し、
泣き寝入りして、苦しんでいます。
https://archive.is/rKT1h
https://xドットgd/j8AL6
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/vcamera/1695083351/
逃げ得が無いよう永久保存、拡散をお願いします。 野村克也が命名、F1セブンは「単なる思いつきですよ」阪神時代の腹心&選手が振り返る“アレ”「監督自らホームスチールの指導を…」「野村さんはキャッチコピーの名人」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b2c2e47cfa722d235dcfae94d7e5289866b64f61
「アレ」「思いつき」…F1セブンとは何だったのか
野村克也が阪神タイガースの監督だった1999(平成11)年から2001年までヘッドコーチを務めた松井優典は言う。
「アレは単なる思いつきですよ」
あるいは、阪神時代に野村の下でプレーした沖原佳典も口をそろえる。
「アレは単なる語呂合わせから始まったもので、ただの思いつきだったものです」
松井、そして沖原がそれぞれ「思いつき」と言い、「アレ」と口にしたものは何か? 就任3年目であり、結果的に阪神監督の最終年となる2001年に突然誕生し、同年限りで自然消滅したムーブメント。それが「F1セブン」だった。沖原は続ける。
「あの年の阪神には足の速い若手選手がたくさんいました。そこで野村さんは僕らを売り出すために、そして相手チームに対して、“今年の阪神は足を使った野球をするぞ”というアピールを込めて、《F1セブン》と名づけたんです」
暗黒期阪神、伝説の「F1セブン」とは何だったのか? 選ばれた3人が振り返る「矢野さんの方が速かった」「赤星だけは別格」…証言で読み解く“ノムラの遺産”
https://news.yahoo.co.jp/articles/db7441ec475068b52cd6636ae98b915d1b1fadbf
速くないのに何でメンバー入りしているんですか?
「3号車」、沖原佳典は苦笑いを浮かべながら振り返る。
「野村監督がメディア向けに発言した中でたまたま生まれて、気がつけば自分の名前もたまたま入っていた。《F1セブン》はそんな印象です。当時の僕は、確かに決して足が遅いわけではないけど、そこまでの速さはなかったんです。だから、(田中)秀太には、“沖原さん、そんなに速くないのに何でメンバー入りしているんですか? ”って、よくからかわれました(笑)」
僕も新聞報道で知りました
「4号車」、上坂太一郎も白い歯をこぼして述懐する。
「僕も新聞報道で知りました。でも、絶対にこれは野村さんのただの思いつきですよ。だって、沖原さんが入っている時点でおかしいもの(笑)。この頃のメンバーで言えば、沖原さんよりも、矢野(燿大)さんの方が速かったですから」
矢野は「お前はオレよりもタイムが遅いのに…」
「7号車」の高波文一もまったく同様の感想を口にした。
「足の速さだけで言えば、沖原さんじゃなくて、矢野さんがメンバー入りしてもよかったと思いますね。あの頃、矢野さんはよく沖原さんに対して、“お前はオレよりもタイムが遅いのに、どうしてF1セブン入りをしてるんだ? ”ってからかっていましたから(笑)」
赤星だけは別格でした
彼らは異口同音に「新聞報道で自分がメンバー入りしていることを知った」と語り、それぞれが「1号車」こと、赤星憲広について同じ見解を口にした。
「一応、1号車から7号車までいますけど、僕自身、自分が何号車なのかはよくわかっていませんでした。ただ、赤星が1号車だということだけは知っていました。あのメンバーの中では赤星だけが頭抜けていて、後はみんな似たり寄ったりでした。僕だけは一番遅かったけど(笑)」(沖原)
「赤星さんだけが一人だけぶっちぎりに速かったです。僕は同じ愛知県出身なので、高校時代から赤星さんのことは知っていましたけど、大府高校時代からめちゃくちゃ速かったです」(上坂)
高波もまた同意見だった。
「赤星だけは別格でした。彼が入団するまでは足の速い選手はそんなにいなくて、僕が一番速かったんじゃないかな?」
F1セブンは野村阪神の「決意表明」だった
結局、赤星、上坂以外のメンバーはケガなどもあり、目立った活躍は残せず、同年オフの野村の退任とともに「F1セブン」は消滅することになる。それでも、20年というときが経過してもなお、当事者たちの胸の内には多くの思い出が息づいている。
「結果的に言えば、3年間でチームは一度も最下位を脱出できませんでした。ただ、野村さんは阪神に《野球の本質》というものを遺していったと思います。相手の心理を読む、相手の隙を突く、データを分析、分類する……。そんなことを徹底しようとしていました。チームを変えようという決意表明。そのきっかけとなったのが《F1セブン》だったと私は思います」(当時ヘッドコーチの松井優典)
新人だった赤星や藤本、沖原を売り出すためでもあり、相手チームに対しては「今年の阪神は機動力を武器にする」という宣戦布告であり、自チーム内には「徹底的に走塁意識を植えつける」という改革宣言でもあった。それが野村の掲げた「F1セブン」だったのだ。 阪神 ベンチの「ブツブツのおかげ」 浜中治氏が「野村監督は本当にすごい」と絶賛するわけとは?
https://news.yahoo.co.jp/articles/5658e50d07dd72bee6d91dcd2a9755761e1ac307
関西テレビの「ジャンクSPORTS」が14日、関西地方で放送され、川藤幸三氏ら阪神OBが出演。浜中治氏が、かつて指導を受けた野村克也氏、田淵幸一氏について話した。
浜中氏は、星野仙一監督時代の打撃コーチ、田淵氏から指導を受けて才能が開花。リーグ優勝した2003年は開幕4番を務めた。
「田淵さんのおかげで飛距離が10メートル以上伸びた」とミスタータイガースから“アーチスト”として薫陶を受けた。
また、自身のプロ初本塁打は、野村監督の「おかげだった」とも。「野村監督はベンチでいつもブツブツ言っていたので、
近づいていくと、次の球種を言っていた。それが全部当たっていたので、配球の勉強をさせてもらった」という。
「ブツブツのおかげで初ホームランは配球を読んで打てた。野村監督は本当にすごいと思う」と振り返っていた。
阪神 暗黒時代の秘密 2軍戦と1軍戦が同じ顔ぶれ? 巨人戦でアレは見せるな…OBが明かす
https://news.yahoo.co.jp/articles/5b2ff14c253aa9dac5441b5ce116267273c8d3e7
関西テレビの「ジャンクSPORTS」が14日、関西地方で放送され、川藤幸三氏ら阪神OBが出演。1980年代終盤から90年代にかけて低迷した「暗黒時代」を振り返った。
「暗黒時代の末期に入団した」と言う関本賢太郎氏は、同期の浜中治氏とともに1996年度ドラフトで入団。「当時は(2軍の拠点)鳴尾浜のお客さんがそのまま(ナイターの)甲子園に動いた。同じ顔がいた」と明かし、
2軍戦の観客と甲子園の1軍戦の観客が同じくらいの数だったと話した。桧山進次郎氏も「チケットも普通に当日取れた」と、満員御礼が通常の今とは状況が違ったという。
低迷期だからこそ、ファンやマスコミの視線は強く、狩野恵輔氏は「入った時には、ベンチで歯を見せるなと言われた。
歯を見せずに話していたから(今の選手が)めちゃくちゃうらやましい」と苦笑い。また、球団の巨人へのライバル心は強く、「巨人戦だけは負けるなと言われていた」と狩野氏。
移籍組の糸井嘉男氏も「ここまで巨人のことが嫌いか?と思った。ニンジン作戦で(巨人戦は)ボーナスが2倍3倍だった」と明かしていた。 広沢克実氏 巨人→阪神と移籍した裏話を明かす 恩師から「自由契約にしてくれと言ってこい、と」
https://news.yahoo.co.jp/articles/20b1a35d30a565c7f1f7951edeaa14ff0c582370
ヤクルト、巨人、阪神でプレーした広沢克実氏が4日、田尾安志氏のYouTubeチャンネル「TAO CHANNEL」に出演。巨人を自由契約になり、阪神へ移籍した経緯を明かした。
広沢氏は1990年代に名将・野村克也氏のもとで活躍。主力選手として93年の日本一に貢献した。94年オフにヤクルト球団社長と待遇面を巡り対立。「自分はすごく若かったし、球団社長と戦って勝てるわけないよね」と苦笑いで当時を振り返ったが、FAで巨人に移籍した。
巨人では成績不振に苦しんだが、「振り返った時にいろいろな球団に行って見解は広がった。勉強させてもらうきっかけになった。長嶋さんのもとでやったのも勉強になった」と広沢氏。5年間プレーした後、2000年オフに阪神へ移籍した経緯も振り返った。
広沢氏が阪神に移籍した理由は恩師・野村克也氏の存在。当時、阪神監督となっていた野村氏から声がかかり、「トレードは難しい。自由契約になってくれればフリーだから。巨人の代表に無条件にオレを出してくれと言ってこい。もしやれるなら来い」と言われたという。近鉄に移籍する可能性もあったというが、広沢氏が巨人に自由契約の打診をすると、あっさり受け入れられ、「二つ返事で阪神に行きました」とうなずいた。
広沢氏と同じく、現役時代に3球団を渡り歩いた田尾氏は複数球団でプレーした経験は大きいとし、「人間として見た時にはマイナスじゃないよね」と共感していた。