小学生でも解けるのに・・・? [転載禁止]©2ch.net
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それがなかなか解けない問題だとしたら、中学一年レベルの数学すら忘れてるせい >>3
いや、中1の知識つかっちゃだめだろw
これは小4の知識だけでどうやってとくんだ?ってとこがおもしろいんじゃねえの 小学校5年の時、面積の授業があった。
その時、私には素朴な疑問ができた。
外周20cm、5×5=25の時と、7×3=21の時。
同じ外周20cmなのに、どうして面積が違うんだろう。
4の差はどこへ行ってしまったのか。 2分で水槽を満たす蛇口と、3分で水槽を満たす蛇口を同時に使って水槽を満たすと、何分かかるか。
代数を使ったら負け(>_< ) 6分かけると水槽5杯分だ。6/5分=360/5秒=72秒 鶴と亀が何匹かいて, 頭の数が m で脚の数が n の時, 鶴と亀がそれぞれ何匹かを調べるとし,
鶴と亀の脚を二本ずつ数えると 2m で, 亀の残りの脚数は (n-2m) で亀は (n/2-m) 匹いて鶴は (2m-n/2) 匹居ると考えるのは, 連立方程式を掃き出し法で解くことに大体合う. 人間の目が、あるいは動物の目が、周りの風景の中から動いている
物体を餌なり、敵なりとして切り分けることを1の認識の原点である、
即ち、数の始めと仮定したとき、同じその眼で夜の星空を見て
宇宙の深奥を認識出来ないことを無限と表現することはいいとしても
その無限を数の類似物と定義し、一対一対応していることをもって
数えきったという有限ルールを適用して、確かにそのルールでもっても
アレフ1なる濃度が知られたということは驚きではあったにせよ、
その無限集合論が最終的にはゲーデルの不完全定理の証明によって
崩壊した今、無限とは何かという問いは、まずもって数の原点とは
何かという問題に戻らざるを得なくなったことを示唆しているのではないか。
ブッチャケて言うとベルクソンの疑念に戻るべきだと思っているんだけど。
つまり、数学と神経科学と量子力学の融合する場所に戻って何かを
構築しなおすことが出来ないのかという素人の問いなんだけどな。 私たちは自分を表現するのに言葉に頼らざるをえないし、またたいていの
場合、空間のなかでものを考えている。換言すれば、言語というもののために、
私たちは私たちのもつ観念相互のあいだに、物質的対象相互のあいだにあるのと
同じような明確鮮明な区別、同じ不連続性を立てざるをえなくなって
しまうのである。こうした同一視は実生活では役に立つし、大部分の
科学では必要でもある。しかし、或る種の哲学的問題が引き起こす乗り越えがたい
困難の原因は、本来は空間のうちに場所を占めない現象を空間のうちに
執拗に併置しようとする点にあるのではないのだろうか。
<アンリ・ベルクソン 「意識に直接与えられたものについての試論」 序言> 1889 Re:>>11-12 小学生でも小学生でなくても分からないので, 貴方様の原点は何かという問題を出す. まずもって僕の原点を記すと、第一にこのスレが12月9日の7氏の
問題提出以来応答が停止していたことをもって、ここに人が居ないことを
確認するために、答えらしきものを書いてみた。
僕の問題意識は無論別にあるのだが、以前それらしきスレタイを選んで
問題提起してみたら、所謂専門家らしき人々の罵詈雑言を受けて
辟易したので、どこか素人向けの良い場所を探していたら、ここに
行き当たったが、応答がなければ自問自答形式で僕の思いをこの場所で
綴ってやろうとしていたら、辟易して逃げ出したスレで出会った親切な
キング牧師に偶然ここで遭遇したのでこれ幸いと、数学者にとっての
無限の定義をお聞きしようと思った。素人に易しくお願いしたい。 ちなみに、ベルクソンの博士号請求論文である件の引用論文は
私の理解では数は空間認識であるが、無限は時間認識であると
いうもの。年代を記したのはゲーデル前夜であるということを
示すためです。 もうちょっと正直に告白すると、ベルクソンは今ではいろんな分野で
かなり否定的に捉えられているんですが、ぶっちゃけ本質的に
正しいこと言ってないかという疑問です。これが僕の問題意識の
原点。 無限というのは小学生でも理解できる概念だと思われるけど
既に小学生段階で誤解されていると思う。
空間的に果てしないという意味でも、時間的に終わらないという意味にも
使う言葉だけど、その根底にある感覚は意識の持続なのであって、
それは無限の本質が時間的に終わらないという筋肉的疲労感覚に
よる意味構成という解釈でしょうかね。 そういったキモいロマン()を捨て去るのは、小学生には難しいんじゃないかな 飛ぶ矢は飛ばずというゼノンのパラドックスは矢が描く軌跡の
中点を無限に取り続けることができるという意識の疲労感によるので、
1/2+1/4+1/8+1/16・・・=1という、時間的にも距離的にも無限には
決して発散しないが故に、飛ぶ矢は的に届くという証明では、この
パラドックスを説明し得ていないという。そこには直線を無限に
分割し続け得る理由が説明されていない。無限に分割するという
作業を意識の中で続けると疲労してくる。それが無限に続く
時間感覚なのだから、人間が分割に疲労なんかしていなければ、
つまり分割なんかしなければ、飛ぶ矢はほほどなく的にあっているで
あろう。人間が分割しうるのは空間だけであって、時間は運動体の
軌跡という空間に置き換えない限り分割不能である。真の運動自体は
分割しえない。 ところで、このきもい無限疲労をよくしつけると、自然数の数と
偶数の数は同じだという結論がでる。2,4,6・・に対して常に
1,2,3と一対一対応を付けていける。無限に続けても対応し続けると
看做す。無限にというときに何を意味しているかを考えると作業の
継続を止めない、つまりinfiniteの状態にしておく。つまり終わってない
んだからいくらでも引っ張り出せると定義しておく。無限が数ではないという
意味がわかるであろうか。数を引っ張り出す作業を無限というので、
数そのものは引っ張り出されたときには常に有限数である。対応は
数に対して為される。まだ引き出されていない数を対応させることはできない。 それが定義ならそれでいいんだけれども、又その結末もその後の展開も
知られているのである以上、それでちっとも構わないにせよ、
言葉の一般的意味としての無限の意味は事前事後で変わってはいない。
それは定まってない、終わってないという意味だ。ゼノンの分割って
卵割の初期状態に似ているね。全体は大きくならないがDNAは
細胞を無限に分割しようとするよね。後には栄養を補給して全体が
膨張していく。増えながら拡大していく。数学も何かを模倣している
様に感じるのは素人たけなのかな。 Re:>>15 無限集合, 自然数周りの∞, 実数周りの ±∞, 位相空間の一点 compact 化の無限遠点, 射影空間の無限遠などがある. 問題文が欠けてるとこに答えが書いてあったわけだな。 ところで、この「意識に直接与えられたものについての試論」というのは
英国では「時間と自由」という題で翻訳された。本の内容に即した改題で
訳者は原題では本が普及しないと考えたのだと推測される。この後に彼の思索は
「物質と記憶」、「創造的進化」、「道徳と宗教の二源泉」の4部作に
連続して行って、最終的に魂の実在というカソリック信者の信仰の吐露に
至るのだが、その最初の契機となったのが、この無限に関する彼の内省であった
と理解している。つまり、時間は空間の中にないということを、意識に直接
与えられたものだけを吟味した結果として、当時の科学全盛の時代に提示した。
そして有名なアインシュタインとの論争になる。 速度というのは移動距離を時間で割ったものなので、時間は当然
距離を速度で割ったものと書き直せる。この三つの要素は二つが決まると
他の一つが自動的に決まるという関係になっている。距離はメジャーで
計る。時間は時計で独立に計れるが、速度は二つの従属変数と見える。
しかし、それは見かけのことで、時計は文字盤の距離と針の速度によって
従属的に決められている。つまり時計の中には距離と速度が先に
存在しているのである。ではこの針の速度が一定である、或いは滑らかである、
途中で変化しないということは何によって保証されているのか。
中のメカニズムが振り子の原理ということは良く知られている。しかし、
振り子を使うのは単に重力の影響を取り去るためだけであって、実は
均等な、滑らかな運動というのは、ニュートンの「プリンピキア」の
一番最初に書いてある慣性の法則なのであって、ここでは等速直線運動が
アプリオリに定義されている。この定義が無いと時計がないと等速であるか
どうかを計測できないが、時計の中には等速運動をするものが組み込まれて
いなければならないという循環論に陥ってしまう。 今では時計に組み込まれるべきニュートン力学の第一法則の体現者は
天体の運動周期からセシウム原子の振動数というより厳密なものに
移し変えられていってはいるが、何者も力を加えないものは現在の
運動をそのまま持続するという運動体が1メーター原器の端から
他の端を通る間を1単位とする時間。この”間”が何を意味するのか
という問題が「時間と自由」のテーマで、時間は何かが経つのであろう以上
その時間は何がしかの人間の主観的な感覚であるということがわかる。
時間意識の契機となっているのはこの時間なのであろう。しかし、
物理学が扱っている時間は違う。メーター原器の端に運動体があるという
同時認識、そして他の端に今到着したという同時認識。それは空間認識で
あって時間認識ではない。 アインシュタインは哲学者の時間は分からんと言っただけで論争は
終わったのだが、ベルクソンは時間こそ人間の自由の根源なのだと
思っているのだから、時間が物理学的決定論に縛り付けられることを
嫌った。彼がカントを嫌っていたことは有名な話であるが、カントを
嫌うというのは当然そこから出発している当時の自然科学の大勢を
嫌うということになってしまうので、彼は当時異端であった。また、
近時、彼の関与した、数学、心理学、生物学、医学、物理学、認知科学の
どの分野でも異端視されているのは、それぞれの分野で当時のレベルでは草分け的
開拓者であったにも関わらず、この時間認識に関して、現在でも
支配的な思考停止分野、つまり問題のないところに、問題と解を
見つけることに関する怠惰に関して常に挑戦的であるが故に異端で
あり続けているように見える。
物理学は今の瞬間から次ぎの瞬間に何らかの経過があったということに
関してのみ、人間の真実の時間を使用しているが、それ以外の部分に関して
時間を空間に置き換えて計算しているだけである。それは運動性そのものの
解析ではないぞ。 ということで彼の次の課題がなぜ記憶に移って言ったかが分かる。
本物の時間は何かが自分の中で経過しているという感覚である。
何が過去で何が現在なのかを決めているのは記憶である。透明な
筒の中に白いテニスボールを入れ、次に黄色いボールを入れると
底から順に白黄色となって、逆転しない。白を入れたのは黄色を
入れたときより過去なのである。何も記憶しないとき、じっと
息を潜めていても何かが過ぎ去っている意識がある。何者も際立って
区別されるものが筒の中に入っているのではないが、いつも現在が
更新されている感覚があるであろう。それが物理学的ならぬ真の時間
なのであるならそれは記憶そのものではないか。この人はこの記憶が
肉体の中にないと言い出すんだけどな。ははは。 見てないが、東大後期のアレなら別に不思議でもなんでもない Re:>>32 しかし解けていない. 可能 graph がある性質を持ち, 問題の graph はその性質を満たさない事を発見するしかないだろう. 1998年の東京大学数学入試問題後期の第3問の(2) があみだくじでも解ける件について教えに来た. 円の中心を通る弦が直径で大工直角のL字はこれで円の中心を求めることができる。九九の表から積を素因数分解して>を求める 三角比 cosθ2乗+sinθ2乗=1を式変形してtanθ=sinθ/cosθ 1+tanθ2乗=1/cosθ2乗 三角形の面積も求める ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています