みんな不幸になって欲しいと願う負け組
>>1
他人は自分のためにいい事も悪いことも祈ってくれないのに、自分は他人の不幸を祈り続けても幸せな人は幸せのままだし不幸な人は不幸なままなんだから。他人からすれば主のことは眼中にもないし興味の対象でもない。だから不幸を祈るにしても、自分だけ他人のために時間と気力使うのってなんか損じゃん。悔しいじゃん、自分だけ執着してるみたいで。
自分も昔は主と同じこと思ってた時期あったけど、他人を羨む度に「あんなんどうでもいい!自分は自分。あー、今日はちょっと違う道通ってお散歩しよ!」とか。自分は自分が叶えられる範囲の幸せを満喫してたら見える世界が変わったっていう体験談。 われわれは原因と結果の法則の世界に生きている
その原因は他から来るのではなく
自分から来るのである
世界に投げたものがそのまま自分に返ってくるのだ 善きことのみを語り、想い
嫌なことを語ってはならないし想ってもならない
言葉は想いと同様に強力なる
具象化(形にあらわす)力を持っているのである この人生で幸福になるか
悲惨な生活を送らねばならないかは
自分が常に何を思っているか
一日のうちの大部分の時間に
何を語り何を考えているかによって決まる
運命と境遇は常に何を多く思っているかの総決算が
毎日弾き出されているのだ 蒔(ま)かぬ種は生えぬ
蒔いた種は刈りとらなければならぬ
善き種を蒔くことは
善き収穫を得ることの前提である
善き人格の種を蒔けば
善き運命が刈りとられる
想い、言葉、行いは
すべて種となる
すべての想いと言葉と行いとは
一種の惰力をもっていて
それは形をつくる力となる 他者を呪うかわりに祝福せよ
すべての人間を祝福したとき
すべての人間から拝まれる者となるであろう
みんな自分が周囲へ与えたものだけを刈り取るのである みんなが幸せになるって発想は大事だと思う
ただし自分に不幸しかもたらさない者へは不幸を願うしかない 世界は進んでく
落ちこぼれを置いていく
残酷だけど 事件とか事故で若い人が死んだときにメシウマ状態になるあたりから本番だな